第四十八話 城が崩れる時
信賢が家臣を捕らえ始めてから、最初の離反者が清洲へ逃げ込んできたのは、夜が明ける少し前だった。
門番から知らせを受けた景継が清洲城へ到着した頃には、その男はすでに信長の前へ通されており、泥に汚れた着物のまま、必死に姿勢を正して座っていた。
四十を少し過ぎたくらいの武士で、髪は乱れ、頬には疲労の色が濃く残っている。おそらく夜道をほとんど休まず走り続けてきたのだろうが、それでも信長の前では弱った様子を見せまいとしていた。
景継が部屋へ入ると、信長は軽く顎を動かして座るよう促した。
「名は?」
信長が尋ねると、男は深く頭を下げた。
「織田伊勢守家に仕えております、坂井直重と申します」
景継は部屋の隅へ腰を下ろしながら、その男を静かに観察した。
坂井直重という名には覚えがなく、これまで岩倉について調べる中でも、重要人物として名前が挙がったことはなかった。大きな領地を持つ国人でもなければ、その去就一つで周囲の勢力が動くような立場でもないのだろう。
だが景継には、むしろそのことの方が重要に思えた。
森川定重や堀田重信が岩倉を離れた時には、それぞれに事情があり、清洲側もその動きを慎重に見ながら受け入れてきた。
しかし目の前の坂井直重には、こちらから何の働きかけもしていない。
清洲が誘ったわけでも、内々に条件を示したわけでもない人間が、自分の意思で岩倉を捨て、夜通し走って清洲まで逃げ込んできた。
それは、岩倉内部の崩れ方がこれまでとは違う段階へ入り始めたことを示していた。
「それで、何をしに来た」
信長が尋ねる。
直重は一度唇を結び、言葉を選ぶように間を置いてから、覚悟を決めたように頭を下げた。
「お助けいただきたく、参りました」
「何から助けろと言う」
直重はすぐには答えなかったが、やがて苦しそうな表情のまま顔を上げた。
「……信賢様からにございます」
部屋の空気がわずかに変わり、景継も自然と背筋を伸ばした。
「昨夜、城内で新たに三名が捕らえられました。いずれも清洲へ内通した疑いをかけられております」
昨日届いた知らせでは二人だったから、一晩のうちにさらに三人増えたことになる。
「お前も疑われたのか」
信長が尋ねると、直重は首を横に振った。
「今のところは。ただ、捕らえられた者の一人とは長く親しくしておりました。このまま岩倉に残っていれば、いずれ私にも疑いが向けられるでしょう」
「だから、疑われる前に逃げてきたということか」
「……はい」
信長はすぐには答えず、直重の顔をしばらく眺めていたが、やがて視線だけを景継へ向けた。
「景継、お前はどう見る」
「私に聞くんですか」
「昨日、お前が言ったことだろう。逃げ道が見えれば、人は動くとな」
景継は直重へ視線を戻した。
昨日、捕らえた岩倉兵と話した時に考えたことが、早くも現実になろうとしている。
「坂井殿、一つ聞いてもいいですか」
「何なりと」
「清洲へ逃げれば、信長様に領地や家を奪われるかもしれないとは思いませんでしたか」
直重の表情がわずかに曇った。
「……思いました」
「それでも来たんですね」
「岩倉に残れば、領地どころか命まで失うかもしれませぬ。それならば、こちらへ参った方が生きる道があるのではないかと考えました」
景継は静かに頷いた。
まだ信長は、岩倉から降ってきた者の家や領地を一定程度認めるという方針を、広く示してはいない。それでも人が来たのなら、その道が本当に存在すると分かった時、今も岩倉で迷っている者たちはさらに大きく動く可能性がある。
「信長様、この人を受け入れましょう」
「領地もか?」
「すべて今まで通りというわけにはいかないでしょうが、清洲に従う限り、少なくとも家は残すと約束してください」
「昨日話していたことを、本当にやるというわけだな」
「はい。ただ、今回は受け入れるだけでは足りません」
信長が景継を見る。
「何をする」
「坂井殿が清洲へ降り、それでも殺されず、家も残された。そのことを岩倉の人たちへ知らせます」
信長の目が細くなった。
「見せしめにするのか」
「逆です。岩倉を離れても生き残れるという見本になってもらいます」
直重が驚いたように景継を見る。
景継はその視線を受けながら、昨日の戦場を思い出していた。
退路を完全に塞がれた岩倉兵は、逃げることを諦めた瞬間、死ぬまで戦おうとした。だが一か所だけ道を開けると、それまで必死に槍を振るっていた兵たちは、生き残るために一斉にその道へ向かった。
城の中にいる者も、おそらく同じだった。
◇◇◇
坂井直重が清洲へ降ったという話が広がるまで、それほど時間はかからなかった。
その日の昼には二人目が清洲を訪れ、夕方にはさらに三人が岩倉を離れてきた。翌朝になるとその数は七人にまで増え、中には自分だけが岩倉に残り、妻や子だけを先に清洲側へ逃がそうとする者まで現れていた。
誰もが大きな領地を持つ有力者というわけではない。
小さな土地を預かる者もいれば、城内で数十人の兵をまとめる程度の者もいる。岩倉の重臣に仕える陪臣もおり、名前だけを聞けば清洲側の人間が知らない者も多かった。
それでも景継は、報告が届くたびに地図へ印を増やしていった。
「思っていたより早いですね」
景継が呟くと、隣に座っていた長秀が新しい報告書を差し出した。
「理由はそれだけではないだろう。信賢殿が捕らえた五名のうち、一人が昨夜死んだらしい」
景継の手が止まった。
「殺したんですか」
「そこまでは分からん。尋問の最中に死んだとも聞いているが、今となってはどちらでも同じだろう」
確かに、岩倉の家臣たちにとっては同じことだった。
内通を疑われて捕らえられ、その後に死んだという事実だけが広まればいい。信賢が殺すつもりだったのか、それとも本当に尋問の途中で偶然死んだのかなど、恐怖を抱いた者たちにとっては大した違いではない。
次に捕まるのは自分かもしれない。
そう考える者が現れるのは当然だった。
「信賢様を止める人はいないんですか」
「止めた者はいる」
「その人はどうなりました?」
長秀は少し間を置いてから答えた。
「信賢殿の命で謹慎させられたそうだ」
景継は思わず額へ手を当てた。
「それは駄目です。止めようとした人間まで疑い始めたら、もう誰も信賢様に本当のことを言わなくなります」
悪い報告をすれば疑われ、反対すれば疑われ、何も言わず黙っていても何かを隠しているのではないかと疑われる。
そうなれば家臣たちは、主君のために何が正しいのかではなく、自分が疑われずに生き残るにはどうすればいいのかだけを考え始める。
そして、その状態に陥った組織がどうなるのかを、景継は一度目の人生で何度も見ていた。
「それでも、岩倉にはまだ兵がいる」
長秀が言った。
「はい」
「城も健在だ。門も塀も壊れておらんし、守ろうと思えばまだ十分に戦える」
景継は地図上に描かれた岩倉城をしばらく見つめてから、静かに答えた。
「城壁が崩れていないからといって、その城が強いとは限りません。中にいる人たちが自分から守ろうと思わなくなれば、どれだけ立派な城でも最後にはただの建物になります」
同じ頃、岩倉城では景継が考えていた通りのことが起きていた。
織田信賢はほとんど眠れておらず、机の上には何通もの報告が積まれていたが、そのどれも信賢にとって喜べる内容ではなかった。
坂井直重が清洲へ逃れた。
三宅家の家臣二人が行方をくらませた。
北方の村を預かっていた者が、家族とともに姿を消した。
これまで岩倉へ兵を出していた国人からは、当主の病を理由に今回の動員には応じられないという書状まで届いている。
さらに信賢は、前日のうちに岩倉城の各門を閉ざすよう命じていた。
許可なく城外へ出ることは禁止され、城門には以前より多くの見張りが置かれている。家臣や兵だけではなく、城内へ出入りする商人や使用人にまで厳しい確認が行われるようになっていた。
理由は単純だった。
これ以上、岩倉から逃げる者を出したくない。
誰が清洲へ向かおうとしているのか分からない以上、全員を城内へ留めておけばいいと信賢は考えたのである。
「病だと……」
信賢は国人から届いた書状を握りしめた。
昨日まで兵を出していた人間が、この時期になって都合よく病に倒れるなど、あまりにも出来すぎている。
「皆、俺を見限ったというのか」
信賢の声が部屋へ響いたものの、家臣たちは誰一人として答えようとしなかった。
少し前までなら、すぐに否定する者がいた。
そのようなことはございませぬ。
我らは最後まで信賢様に従います。
そう言って主君を安心させようとする者が、一人や二人は必ずいた。
ところが今は、部屋にいる者たちの誰も口を開こうとしない。
信賢はゆっくり顔を上げ、家臣たちを一人ずつ見た。
その視線を受けた者は、何を言えば疑われずに済むのか分からず、次々と目を逸らしていく。
「お前たちもか」
一人の家臣が恐る恐る顔を上げた。
「何がでございましょう」
「お前たちも清洲へ逃げたいのかと聞いている」
「そのようなことはございませぬ!」
「なら、なぜ俺から目を逸らした」
「それは……」
家臣は答えられなかった。
本当は、何を言っても疑われるのが怖かっただけである。
しかし信賢には、その沈黙さえ裏切りの証に見えた。
「もうよい。出ていけ」
「信賢様」
「出ていけ!」
怒声を浴びせられた家臣たちは一斉に頭を下げ、逃げるように部屋を出ていった。
一人になった信賢は机を強く叩いた。
浮野で一度負けただけだ。
城を取られたわけではない。
兵も残っている。
岩倉城の防備も崩れていない。
だからこそ、今は門を閉ざし、中の者を逃がさずに態勢を立て直せばいい。
信賢はそう考えていた。
しかし、自分が守るために閉ざしたつもりの門が、城の中にいる者たちには「逃げることさえ許さないための門」に見え始めていることには気づいていなかった。
◇◇◇
その日の夜、岩倉城内の小さな一室に四人の男が集まっていた。
灯りは一つだけで、廊下へ声が漏れないよう、誰もが自然と顔を寄せて話している。
「坂井は生きているらしい」
一人の男がそう言うと、残りの三人がすぐに顔を上げた。
「本当なのか」
「ああ。清洲へ降った後も殺されておらず、家も残すと言われたそうだ」
「誰から聞いた」
「坂井の弟からだ。今日、密かに知らせが届いた」
別の男が周囲を気にしながら声を落とした。
「清洲の罠ではないのか。我らの中から裏切る者を炙り出そうとしているのかもしれん」
「ここに残っていても、信賢様に炙り出されるぞ」
その言葉には誰も反論できなかった。
すでに五人が捕らえられ、そのうち一人は死んでいるうえ、今では城門まで閉ざされ、信賢の許可なしに城外へ出ることすらできない。
「俺は行く」
最初に話していた男が、覚悟を決めたように言った。
「どうやってだ。門は閉じられているぞ」
「ああ。だから困っている」
その時、最後まで黙っていた男が口を開いた。
「北門なら出られる」
三人が一斉に男を見る。
「何?」
「俺が北門を任されている」
その男――安藤久兵衛は、三人の顔を順番に見ながら低い声で続けた。
「明日の夜、北門の見張りを俺の手の者に替える。信賢様の許可がなくても、短い時間なら門を開けられる」
部屋が静まり返った。
「お前、それが見つかれば命はないぞ」
「分かっている。このまま残っていても、明日には俺が疑われるかもしれん。それなら、何もせず捕まるより自分で道を選ぶ」
「門を開けて、そのまま清洲軍を入れるつもりなのか」
久兵衛は首を横に振った。
「そこまでは決めていない。まずは出たい者を城から出す。それで清洲が本当に約束を守るのか、自分の目で確かめる」
「もし清洲軍が北門へ殺到してきたら?」
久兵衛は一度だけ目を伏せた後、静かに答えた。
「その時は、俺が選ぶ相手を間違えたということだ」
◇◇◇
翌朝、その知らせは景継のもとへ届いた。
「岩倉城の北門を内側から?」
景継が聞き返すと、報告に来た男が深く頷いた。
「はい。北門を任されている安藤久兵衛という者が、清洲方へつく意向を示しているとのことです」
「今は、信賢様の命令で各門が閉じられているんですよね」
「はい。許可なく城外へ出ることは禁止されており、見張りも増やされております」
それを聞いた瞬間、景継の表情が変わった。
普段の城門が開いているかどうかという話ではない。
信賢が離反を防ぐため、自分の意思で閉ざした門を、その門を守る人間自身が開けようとしている。
それならば、使い方次第では非常に大きな意味を持つ。
「その話を持ってきたのは一人ですか」
「いえ。昨日こちらへ来た三名が、それぞれ同じ話をしております」
「三人とも安藤殿から直接聞いた?」
「はい」
信憑性はかなり高い。
それでも景継は、すぐに飛びつこうとはしなかった。
城門を開けるという話ほど、敵を誘い込む罠にも使いやすい。
「信長様には?」
「すでにお伝えしております。評定の間へ来るようにとのことです」
景継は立ち上がった。
「分かりました。行きましょう」
◇◇◇
評定の間へ入ると、すでに大きな地図が広げられ、信長を中心に勝家、長秀、信盛ら主要な家臣が揃っていた。
景継が座ると、勝家は待ちきれない様子で口を開いた。
「今夜行くぞ」
「いきなりですか?」
「城門を内側から開けられるのだぞ。これほどの機会を逃してどうする」
「開いた瞬間に全軍で突っ込むんですか」
「当然だ」
「私は反対です」
勝家の顔が険しくなる。
「なぜだ」
「罠の可能性が残っていることもありますが、それ以上に今の北門には、清洲軍を入れる以外の使い道があります」
信長が面白そうに景継を見る。
「使い道?」
景継は地図上の北門へ指を置いた。
「信賢様は、離反する人間をこれ以上出さないために門を閉じました。つまり今の岩倉には、逃げたいと思っていても逃げられない人たちがいます」
長秀が頷いた。
「その北門を、安藤が開ける」
「はい。ただし、清洲軍を入れるためではなく、まず城内の人間を外へ出すために使います」
勝家が眉を寄せた。
「敵兵を逃がすというのか」
「そうです」
「なぜわざわざ敵を減らさず逃がす」
「逆です。逃げてもらうことで、城を守る兵を減らすんです」
景継は少し言葉を置いてから、初陣での出来事を思い返した。
「浮野で、私が伏兵の退路を完全に塞いだ時のことを覚えていますか。逃げられなくなった敵は、止まるどころか死ぬまで戦おうとして勝家様の隊へ突っ込みました」
勝家の表情が少し変わる。
「覚えておる」
「今の岩倉城も同じかもしれません。信賢様が門を閉ざしたことで、本当は逃げたい人まで中に閉じ込められている。そこへ清洲軍が一気に攻め込めば、その人たちまで戦うしかなくなります」
長秀が景継の意図を理解したように頷いた。
「だから、攻める前に逃げる道を作る」
「はい。清洲へ降った者は殺されないこと、家や領地もすべて奪うわけではないことを城内へ広め、そのうえで北門を開いてもらいます」
信長が尋ねる。
「武器を持った者もそのまま通すのか」
「いいえ。武器を捨てて北門から出た者には攻撃しない。それを条件にします」
「それで何人出る」
勝家が聞いた。
「分かりません。十人かもしれないし、百人かもしれません。ただ、今の岩倉なら一人も出ないということはないと思います」
五人が捕らえられ、そのうち一人は死んだ。
信賢に反対した者まで謹慎させられ、城門も閉ざされた。
さらに翌日には清洲の大軍が来るという話まで広がっている。
その状況で、たった一つだけ門が開く。
そこから出れば助かる。
「最初の一人が出れば、周りの人間は『本当に出ても殺されない』と知ります。十人が出れば、今度は残っている者が『なぜ自分だけここで死ぬのか』と考え始めるはずです」
景継は岩倉城の駒を見つめた。
「城壁を壊す前に、守る人間を減らします」
信盛が感心したように言った。
「信賢が閉じ込めた者を、清洲が外へ逃がしてやるということか」
「はい。その方が、こちらも戦わずに済みます」
勝家はまだ納得しきれないようだった。
「まどろっこしい」
「城攻めで何百人も死ぬよりいいでしょう」
「戦とはそういうものだ」
「減らせるなら減らした方がいいじゃないですか。勝家様だって、味方が百人死ぬより十人の方がいいでしょう」
勝家は少し黙った。
信長がそこで口を開く。
「景継の策を使う」
勝家が振り向いた。
「殿」
「北門を開かせろ。ただし、こちらの兵は入れん。武器を捨てて出てくる者には手を出さないと知らせろ」
景継が頷いた。
「はい」
「ただし、一日だけだ」
「一日?」
「ああ。今夜、北門を開ける。明日になれば、逃げたい者が残っていようがいまいが全軍を動かす」
信長は清洲側の駒を持ち上げ、岩倉城のすぐ手前へ置いた。
その瞬間、評定の間の空気が変わった。
これまでのように岩倉を牽制するための出陣ではなく、周辺の国人を揺さぶるための小競り合いでもない。
岩倉城そのものを落とすための軍が、ついに動く。
「兵はどれくらい出すんです?」
景継が尋ねる。
「出せるだけだ」
「本気ですね」
信長が笑った。
「今さら何を言っている。ここまで来るために、お前も散々岩倉を引っ掻き回してきただろう」
景継も少しだけ笑った。
確かにその通りだった。
森川や堀田の離反、前野をはじめとする周辺国人の迷い、信賢自身が家臣を疑うようになったこと。その一つ一つは小さな動きだったが、すべてが今、一つの場所へ集まり始めている。
信長は地図上の岩倉城から視線を離さず、静かに言った。
「終わらせるぞ」
景継も地図を見つめながら、ゆっくり頷いた。
◇◇◇
その日の夕方から、清洲側は岩倉へ向けて一つの話を意図的に流し始めた。
北門から武器を捨てて出てくる者には、清洲軍は手を出さない。
すでに清洲へ降った者も殺されておらず、家や領地についてもすべてを奪うつもりはない。
そして翌日には、信長自身が大軍を率いて岩倉へ向かう。
景継は具体的な兵数だけは流させなかった。
ただ「大軍が来る」という一点だけを伝えさせた。
すると、その話は岩倉へ届く途中から勝手に姿を変えていった。
千を超えるらしい。
いや、二千はいる。
信長が尾張中の兵を集めている。
三千を超えるかもしれない。
誰も本当の数を知らないからこそ、それぞれが自分の恐怖に合わせて数字を作り始める。
景継は最初から、それを狙っていた。
正確な数字を与えれば、その数字を基準に対策を考えられる。
しかし何人来るのか分からなければ、人は自分にとって最も恐ろしい数を想像する。
岩倉城の中にいる者たちは、まだ姿すら見えていない清洲軍を、現実よりずっと大きなものとして考え始めていた。
◇◇◇
夜が深くなった頃、岩倉城の北門では安藤久兵衛が、自分が信頼できる五人の兵だけを集めていた。
普段なら信賢の命を受けた兵が厳重に見張っている場所だったが、今夜だけは久兵衛が理由をつけて見張りを交代させ、自分の手の者だけを残している。
「よく聞け。今から北門を開ける」
久兵衛がそう言うと、五人の間に小さなどよめきが起きた。
「信賢様のご許可は?」
一人が尋ねる。
「ない。これは俺が勝手にやることだ」
「では、見つかれば……」
「俺は死ぬだろうな」
久兵衛は平然と答えたものの、その声に余裕があるわけではなかった。
自分が何をしようとしているのかは理解している。
長く仕えた主君の命令に背き、閉ざされた城門を勝手に開く。
裏切りと言われても否定できない。
「嫌なら今ここから離れて構わん。俺を止めようと思うなら、それでもいい」
久兵衛は一人ずつ顔を見た。
誰も動かなかった。
その中には、昨夜「子が生まれたばかりだから死にたくない」と打ち明けた若い兵もいる。
久兵衛はその男を見ると、少しだけ表情を緩めた。
「北門から武器を捨てて出た者には、清洲は手を出さないそうだ」
若い兵が顔を上げた。
「本当でございますか」
「少なくとも、今まで清洲へ行った者は生きている。坂井も、森川もな」
「では……私たちも?」
「行きたい者は行け。ただし、武器は置いていけ」
若い兵は自分の腰にある刀へ手を触れた。
その顔には迷いがあった。
武士が刀を置く。
主君の城から逃げる。
簡単に決められることではない。
しかし、その一方で城の中には生まれたばかりの我が子がいる。
久兵衛は急かさなかった。
自分で決めさせるしかない。
やがて若い兵はゆっくりと刀を抜き、鞘ごと地面へ置いた。
「……行きます」
久兵衛は静かに頷いた。
「そうか」
その一人を見たことで、残りの兵たちの表情も変わった。
久兵衛は門へ向き直ると、深く息を吸った。
「開けろ」
兵たちは重い北門へ手をかけた。
長く閉ざされていた門は、軋むような低い音を城内へ響かせながら、少しずつ外の闇へ向かって開いていく。
最初は人一人が通れるほどの隙間だったが、やがて二人、三人が並んで通れるほどに広がり、冷たい夜風が閉じ込められていた城の中へ流れ込んできた。
その音を聞きつけた者たちが、少しずつ北門の方へ集まり始めた。
「何事だ」
「門が開いているぞ」
「誰の命令だ」
誰も答えを知らない。
ただ、昨日まで固く閉ざされ、近づくことさえ警戒されていた北門が、本当に開いている。
若い兵が地面に置いた刀を一度振り返り、それから門の外へ向かって歩き始めた。
最初はゆっくりだった。
だが、門をくぐった瞬間に足が速くなり、そのまま暗い道を南へ向かって走っていく。
誰も追わない。
矢も飛んでこない。
外で待っていた清洲側の者たちも、約束通り武器を捨てた男へ手を出さなかった。
その様子を、城内から多くの者が見ていた。
「……本当に行けた」
誰かが呟いた。
その一言が、周囲にいた人間の表情を変えた。
次に一人の兵が前へ出て、腰の刀を地面へ置いた。
「俺も行く」
久兵衛が黙って道を開ける。
二人目が門をくぐる。
すると三人目が続き、その次には二人連れの兵が現れた。
やがて、家臣の一人が妻と幼い子供を連れて北門へ姿を現した。
「我らも……よろしいか」
久兵衛はその男が腰に差している刀を見る。
男はすぐに意味を理解し、刀を抜いて地面へ置いた。
「行け」
家族は深く頭を下げ、北門から城外へ出ていった。
一人が出たことで、二人目が動く。
二人が無事に出たことで、さらに別の者が決断する。
人が増えるにつれて、今度は城内のあちこちから荷物を抱えた者や家族を連れた者まで北門へ集まり始めた。
十人。
二十人。
三十人。
正確な数を数えている者はいなかったが、夜が深くなるほど、北門から城外へ出ていく人間の流れは少しずつ大きくなっていった。
誰もが主君を裏切りたいわけではない。
岩倉を憎んでいるわけでもない。
ただ、明日死ぬかもしれない城に残るか、生きられるかもしれない道へ出るかを選んでいるだけだった。
信賢は逃亡を防ぐために門を閉じた。
だが、閉じ込められたことで不安はさらに大きくなり、いざ一つの門が開いた瞬間、その不安は一気に城外へ流れ出し始めた。
岩倉城はまだ落ちていない。
石垣も、塀も、櫓も残っている。
それでも城の中では、守るはずだった人間たちが自ら武器を置き、外へ向かって歩き始めていた。
◇◇◇
同じ頃、景継も屋敷で眠れずにいた。
机の上には、離反者たちから聞き取った情報をもとに作った岩倉城の簡単な絵図が広げられている。
北門、南門、曲輪、兵の詰所、信賢がいるとされる場所。
情報が増えるたびに書き足してきたが、すべてが正確だとは限らない。
むしろ、絵図に書かれているから正しいと思い込む方が危険だと、景継は初陣を経験した今なら分かっていた。
頭の中では正しかった策が、実際に人間を動かした瞬間に予想とは違う形へ変わった。
敵の伏兵を分断するために退路を完全に塞いだ結果、逃げられなくなった兵たちは死兵となり、勝家の隊へさらに激しく襲いかかった。
あの時、景継は初めて理解した。
人は駒ではない。
同じ場所へ置けば、必ず同じ動きをするわけではない。
恐怖もあれば、怒りもある。
生きたいという気持ちもある。
だから明日は、自分の目で岩倉を見る必要がある。
城を見るだけではなく、そこを守る兵の顔を見て、どれほど戦う気を残しているのかを確かめなければならない。
「司馬懿なら、どうするんだろう」
景継は小さく呟いた。
城を囲んで兵糧を断つ。
内応者を使う。
降伏を促す。
時間をかけて内部が完全に崩れるまで待つ。
いくつもの方法が、一度目の人生の経験とともに頭の中へ浮かんでくる。
どれも間違いではない。
しかし景継は、その中の一つをすぐに答えとして選ぼうとはしなかった。
司馬懿の経験は使う。
だが、司馬懿の記憶だけで戦場を決めるつもりはない。
今の自分には、林道景継として初めて経験した戦もある。
二つの経験を使いながら、その時代、その場所、その相手に合った答えを選ぶ。
そうしなければ、二度目の人生を生きる意味がないような気がしていた。
その時、廊下の向こうから声が聞こえた。
「若様、まだ起きておられますか」
弥兵衛だった。
「起きています」
襖が開き、弥兵衛が顔を出した。
机の上に広げられた絵図を見ると、予想していたというように小さくため息をつく。
「明日は出陣でございますぞ。今からずっと考えておられては、戦場へ着く前に疲れてしまいます」
「分かっているんですが、眠れないんです」
「初陣の前も似たようなことを仰っておりましたな」
景継は少し笑った。
「そうでした?」
「もうお忘れですか」
「この数日、いろいろありすぎたので」
弥兵衛も小さく笑ったが、その表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「若様」
「何です?」
弥兵衛は何かを言おうとして一度迷った後、静かな声で続けた。
「明日も、必ずお戻りください」
景継はすぐには答えなかった。
初陣へ向かう前なら、「大丈夫です」と簡単に言えたかもしれない。
しかし今は、本物の戦場を知っている。
どれほど優れた策を考えても、一本の流れ矢で死ぬことがある。敵の動きをすべて読めたつもりでも、突然起きた一つの出来事で戦場全体が変わることもある。
だから、本当の意味で「必ず帰る」と約束することなどできない。
それでも景継は弥兵衛の顔を見た。
心配している。
初陣の時も。
そして明日も。
ずっと自分のそばにいる男が、ただ生きて帰ってきてほしいと思っている。
景継は少しだけ笑うと、ゆっくり頷いた。
「戻ります。少なくとも、戻るためにできることは全部します」
弥兵衛はその言葉を聞いて、ようやく少し表情を緩めた。
「それで十分でございます」
弥兵衛が部屋を出た後、景継はもう一度岩倉城の絵図へ視線を落とした。
ここまで長かった。
噂を流し、国人を揺らし、岩倉内部へ疑いを作り、森川や堀田が離れていくのを見ながら、少しずつ信賢の周囲から人を減らしてきた。
そして今では、清洲側から直接何かをしなくても、人が岩倉を離れ始めている。
さらに今夜、信賢が自ら閉ざした北門を、岩倉の人間自身が開こうとしている。
それが何人を城外へ出すのか、景継にはまだ分からない。
十人で終わるかもしれない。
あるいは、想像以上の人数が逃げ出すかもしれない。
ただ、その数よりも大切なのは、北門が開いたという事実そのものだった。
信賢が「逃がさない」と命じた城の中で、その命令に背いて門を開く者が現れた。
それは、城壁に穴が開いたことよりも大きな意味を持つ。
岩倉城を守る側の意思が、一つではなくなったということだからだ。
景継は絵図の上に描かれた北門へ指を置いた。
明日、城を落とす。
だが、できることなら城壁を壊し、何百人もの兵を殺して落とすのではなく、中にいる者たちから戦う理由を一つずつなくしていきたい。
初陣で学んだ「逃げ道」の意味を、今度は一つの城そのものに使う。
その考えが正しいかどうかは、明日にならなければ分からない。
それでも、岩倉をめぐる最後の戦いは、清洲軍が城へ向かうより先に始まっている。
そしてその最初の一手は、槍でも矢でもなかった。
長く閉ざされていた一つの門が、城を守る人間自身の手によって開かれることだった。




