第四十八話 城が崩れる時
信賢が家臣を捕らえ始めてから、最初の離反者が清洲へ逃げ込んできたのは、夜が明ける少し前だった。
門番から知らせを受けた景継が清洲城へ到着した頃には、その男はすでに信長の前へ通されていた。四十を少し過ぎたほどの武士で、着物は泥に汚れ、髪も乱れている。夜道をほとんど休まず走ってきたのだろう。それでも信長の前では弱った様子を見せまいと、必死に姿勢を正していた。
景継が部屋へ入ると、信長は軽く顎を動かした。
「名は?」
「織田伊勢守家に仕えております、坂井直重と申します」
景継は部屋の隅へ腰を下ろし、男を観察した。
坂井直重という名に覚えはない。これまで岩倉を調べる中でも、重要人物として名前が挙がったことはなかった。
だが、それが景継には重要に思えた。
森川定重や堀田重信とは違い、坂井には清洲から何の働きかけもしていない。その男が自ら岩倉を捨て、夜通し走って清洲まで逃げ込んできたのだ。
「それで、何をしに来た」
信長が尋ねる。
直重は一度唇を結び、深く頭を下げた。
「お助けいただきたく、参りました」
「何から助けろと言う」
「……信賢様からにございます」
部屋の空気がわずかに変わった。
「昨夜、城内で新たに三名が捕らえられました。いずれも清洲へ内通した疑いをかけられております」
昨日の知らせでは二人だった。一晩でさらに三人増えたことになる。
「お前も疑われたのか」
「今のところは。ただ、捕らえられた者の一人とは長く親しくしておりました。このまま残れば、いずれ私にも疑いが向けられるでしょう」
「だから逃げてきたか」
「……はい」
信長はしばらく直重を見つめた後、景継へ視線を向けた。
「景継、お前はどう見る」
「私に聞くんですか」
「昨日、お前が言ったことだろう。逃げ道が見えれば、人は動くとな」
景継は直重へ向き直った。
「坂井殿、一つ聞いてもいいですか」
「何なりと」
「清洲へ来れば、領地や家を奪われるかもしれないとは思いませんでしたか」
直重の表情が曇った。
「……思いました」
「それでも来た」
「岩倉に残れば、領地どころか命まで失うかもしれませぬ。それならば、こちらへ参った方が生きる道があるのではないかと」
景継は静かに頷いた。
昨日考えたことが、早くも形になって現れている。
「信長様、この人を受け入れましょう」
「領地もか?」
「すべて今まで通りとはいかないでしょう。ただ、清洲に従う限り、家は残すと約束してください」
「昨日の話を実際にやるわけだな」
「はい。それと、坂井殿が清洲へ降っても殺されず、家も残されたことを岩倉へ知らせます」
信長の目が細くなった。
「見せしめにするのか」
「逆です。岩倉を離れても生きられると知ってもらいます」
直重が驚いたように景継を見た。
初陣で景継が学んだことは単純だった。
逃げ道を失った兵は死ぬまで戦う。道があれば、生きるためにそちらへ向かう。
ならば岩倉にも、道を見せればいい。
坂井直重が清洲へ降ったという話が広がるまで、それほど時間はかからなかった。
その日の昼には二人目、夕方にはさらに三人。翌朝には七人にまで増え、中には妻や子だけを先に清洲側へ逃がそうとする者まで現れた。
有力者ばかりではない。小さな土地を預かる者、数十人の兵をまとめる者、重臣に仕える陪臣もいる。
景継は報告が届くたび、地図へ印を増やしていった。
「思っていたより早いですね」
長秀が新しい報告書を差し出した。
「理由はそれだけではないだろう。信賢殿が捕らえた五名のうち、一人が昨夜死んだらしい」
景継の手が止まった。
「殺したんですか」
「分からん。尋問の最中に死んだとも聞くが、今となってはどちらでも同じだろう」
その通りだった。
内通を疑われて捕らえられ、その後に死んだ。それだけで十分に恐怖は広がる。
「信賢様を止める人はいないんですか」
「止めた者はいる」
「その人は?」
「謹慎させられたそうだ」
景継は額へ手を当てた。
「それは駄目です。止めようとした人まで疑えば、誰も本当のことを言わなくなります」
悪い報告も、反対意見も言えない。そうなれば家臣たちは主君ではなく、自分の身を守ることを考え始める。
景継は一度目の人生で、その先を何度も見ていた。
「それでも岩倉には兵がいる。城も健在だ」
長秀が言う。
景継は地図上の岩倉城を見つめた。
「はい。でも、守る人間まで失えば城壁だけでは戦えません」
同じ頃、岩倉城では信賢の机に何通もの報告が積まれていた。
坂井直重が清洲へ逃れた。
三宅家の家臣二人が行方をくらませた。
北方の村を預かる者が家族とともに姿を消した。
さらに、これまで兵を出していた国人からは、当主の病を理由に動員へ応じられないという書状まで届いている。
信賢は城の各門を閉ざし、許可なく城外へ出ることを禁じていた。門の見張りも増やし、商人や使用人にまで厳しい確認を行わせている。
これ以上、逃げる者を出さないためだった。
「病だと……」
信賢は書状を握りしめた。
「皆、俺を見限ったというのか」
家臣たちは答えなかった。
少し前なら、誰かがすぐに否定していたはずだ。だが今は、何を言えば疑われるのか分からない。
信賢が一人ずつ顔を見ると、家臣たちは次々と目を逸らした。
「お前たちもか」
一人が恐る恐る顔を上げる。
「何がでございましょう」
「お前たちも清洲へ逃げたいのか」
「そのようなことはございませぬ!」
「なら、なぜ俺から目を逸らした」
「それは……」
答えられない。
その沈黙さえ、今の信賢には裏切りの証に見えた。
「もうよい。出ていけ」
「信賢様」
「出ていけ!」
家臣たちは逃げるように部屋を出ていった。
一人になった信賢は机を強く叩いた。
浮野で一度負けただけだ。
城はある。兵も残っている。防備も崩れていない。
門を閉ざして人を逃がさず、態勢を立て直せばいい。
そう信じていた。
だが、逃亡を防ぐために閉ざした門が、家臣たちの不安をさらに強めていることには気づいていなかった。
その夜、岩倉城内の一室に四人の男が集まっていた。
「坂井は生きているらしい」
「本当なのか」
「ああ。清洲へ降った後も殺されず、家も残すと言われたそうだ」
「清洲の罠ではないのか」
「ここに残っていても、信賢様に疑われるぞ」
誰も反論できなかった。
「俺は行く」
「どうやってだ。門は閉じられている」
その時、最後まで黙っていた男が口を開いた。
「北門なら出られる」
三人が振り向く。
「俺が北門を任されている」
安藤久兵衛は声を落とした。
「明日の夜、見張りを俺の手の者に替える。短い時間なら門を開けられる」
「見つかれば命はないぞ」
「分かっている。このまま残っても、いつ俺が疑われるか分からん。それなら自分で道を選ぶ」
「清洲軍を入れるのか」
久兵衛は首を横に振った。
「まずは出たい者を外へ出す。清洲が本当に約束を守るのか、それからだ」
翌朝、その知らせは景継のもとへ届いた。
「岩倉城の北門を内側から?」
「はい。北門を任されている安藤久兵衛という者が、清洲方へつく意向を示しております」
「今は信賢様の命令で門が閉じられているんですよね」
「はい」
景継の表情が変わった。
信賢自身が閉ざした門を、それを守る人間が開けようとしている。
「話を持ってきたのは一人ですか」
「いえ。昨日こちらへ来た三名が、それぞれ同じ話をしております」
信憑性は高い。
だが城門を開けるという話は、敵を誘い込む罠にも使える。
「信長様には?」
「すでに。評定の間へ来るようにとのことです」
景継が評定の間へ入ると、信長を中心に勝家、長秀、信盛らが揃っていた。
座るなり勝家が口を開く。
「今夜行くぞ」
「いきなりですか?」
「城門を内側から開けられるのだぞ。これほどの機会を逃してどうする」
「開いた瞬間に全軍で突っ込むんですか」
「当然だ」
「私は反対です」
勝家の顔が険しくなった。
「なぜだ」
「罠の可能性もあります。それに、今の北門には別の使い道があります」
「使い道?」
景継は地図上の北門を指した。
「信賢様が門を閉じたことで、逃げたい人まで城内に残されています。なら北門は、清洲軍を入れるのではなく、その人たちを外へ出すために使います」
勝家が眉を寄せた。
「敵兵を逃がすのか」
「逃げてもらえば、城を守る兵が減ります」
長秀が頷いた。
「攻める前に城内を空に近づけるか」
「はい。武器を捨てて北門から出た者には攻撃しない。それを城内へ知らせます」
信長が景継を見る。
「それで何人出る」
「分かりません。でも最初の一人が無事に出れば、後に続く者はいると思います」
景継は岩倉城の駒へ目を落とした。
「城壁を壊す前に、守る人間を減らします」
勝家は腕を組んだ。
「まどろっこしい」
「城攻めで何百人も死ぬよりいいでしょう」
「戦とはそういうものだ」
「減らせるなら減らした方がいいじゃないですか。勝家様だって、味方が百人死ぬより十人の方がいいでしょう」
勝家は何も言わなかった。
信長が口を開く。
「景継の策を使う」
「殿」
「北門を開かせろ。ただし、こちらの兵は入れん。武器を捨てて出てくる者には手を出さない」
「はい」
「ただし、一日だけだ」
「一日?」
「今夜は逃がす。明日になれば全軍を動かす」
信長は清洲側の駒を持ち上げ、岩倉城の手前へ置いた。
評定の間の空気が変わった。
今度は牽制でも、小競り合いでもない。
岩倉城そのものを落とす。
「兵はどれくらい出すんです?」
「出せるだけだ」
「本気ですね」
「今さら何を言っている。ここまで来るために、お前も散々岩倉を引っ掻き回してきただろう」
景継は少しだけ笑った。
森川や堀田の離反、周辺国人の迷い、そして信賢自身が家臣を疑い始めたこと。
それぞれ別々だった動きが、一つの場所へ集まり始めている。
信長は岩倉城の駒を見つめた。
「終わらせるぞ」
景継も頷いた。
その日の夕方から、清洲側は岩倉へ一つの話を流した。
北門から武器を捨てて出てくる者には手を出さない。
すでに清洲へ降った者も殺されておらず、家や領地もすべて奪われるわけではない。
そして翌日、信長自身が大軍を率いて岩倉へ向かう。
景継は具体的な兵数だけは伏せた。
すると噂は勝手に膨らんだ。
千を超える。
いや、二千だ。
三千を超えるかもしれない。
正確な数を知らないからこそ、人々は自分にとって最も恐ろしい数を想像した。
夜が深くなった頃、岩倉城の北門では安藤久兵衛が信頼できる五人の兵を集めていた。
「今から北門を開ける」
兵たちがざわめく。
「信賢様のご許可は?」
「ない。俺が勝手にやる」
「見つかれば……」
「俺は死ぬだろうな」
久兵衛は五人の顔を見た。
「嫌なら離れて構わん。俺を止めてもいい」
誰も動かなかった。
その中には、子が生まれたばかりだと話していた若い兵もいた。
「武器を捨てて北門から出れば、清洲は手を出さないそうだ」
「本当でございますか」
「少なくとも、これまで清洲へ行った者は生きている。行きたい者は行け。ただし武器は置いていけ」
若い兵は腰の刀へ手を触れた。
しばらく動かなかった。
やがて、鞘ごと刀を地面へ置く。
「……行きます」
久兵衛は静かに頷き、門へ向き直った。
「開けろ」
重い北門が軋みながら、ゆっくりと開いていく。
冷たい夜風が城内へ流れ込んだ。
音を聞きつけた者たちが集まってくる。
「門が開いているぞ」
「誰の命令だ」
若い兵は地面の刀を一度振り返り、門の外へ歩き出した。
門をくぐる。
誰も追わない。
矢も飛んでこない。
外で待つ清洲側の者も、約束通り手を出さなかった。
「……本当に行けた」
誰かが呟いた。
次の兵が刀を置いた。
「俺も行く」
二人目が出る。
三人目が続く。
やがて家臣の一人が、妻と幼い子供を連れて現れた。
「我らも……よろしいか」
久兵衛が腰の刀を見る。
男はすぐに刀を置いた。
「行け」
家族は頭を下げ、城外へ出ていった。
そこからは早かった。
荷物を抱えた者、家族を連れた者、武器を捨てた兵たちが次々と北門へ集まってくる。
十人。
二十人。
三十人。
夜が深くなるにつれ、人の流れは大きくなっていった。
岩倉城はまだ落ちていない。
塀も櫓も残っている。
それでも、その城を守るはずだった者たちは、自ら武器を置いて外へ出始めていた。
同じ頃、景継も屋敷で眠れずにいた。
机には、離反者たちから聞き取った情報をもとに作った岩倉城の絵図が広げられている。
北門、南門、曲輪、兵の詰所、信賢がいるとされる場所。
情報は増えた。
だが、すべてが正しいとは限らない。
初陣を経験した今なら、それが分かる。
頭の中で正しい策でも、人間を動かした瞬間に予想と違う結果になることがある。
だから明日は、自分の目で岩倉を見る。
「司馬懿なら、どうするんだろう」
城を囲む。兵糧を断つ。内応者を使う。降伏を促す。
一度目の人生の経験から、いくつもの方法が浮かぶ。
だが景継は、そのどれかをそのまま答えにするつもりはなかった。
司馬懿の経験は使う。
そして林道景継として得た経験も使う。
その時、廊下から声がした。
「若様、まだ起きておられますか」
「起きています」
弥兵衛が入り、机に広げられた絵図を見てため息をついた。
「明日は出陣でございますぞ。戦場へ着く前に疲れてしまいます」
「分かっているんですが、眠れないんです」
「初陣の前も似たようなことを仰っておりましたな」
「そうでした?」
「もうお忘れですか」
「この数日、いろいろありすぎたので」
弥兵衛が小さく笑う。
だが、その表情はすぐに真剣なものへ戻った。
「若様。明日も、必ずお戻りください」
景継はすぐには答えなかった。
初陣を経験した今、「必ず」と簡単に約束できないことは分かっている。
どれほど策を練っても、一本の流れ矢で死ぬことがある。
それでも景継は、心配そうに自分を見る弥兵衛へ頷いた。
「戻ります。少なくとも、戻るためにできることは全部します」
「それで十分でございます」
弥兵衛が部屋を出た後、景継はもう一度、岩倉城の絵図を見た。
ここまで長かった。
噂を流し、国人を揺らし、岩倉内部へ疑いを作り、森川や堀田が離れていくのを見ながら、少しずつ信賢の周囲から人を減らしてきた。
そして今夜、信賢が自ら閉ざした北門を、岩倉の人間自身が開いた。
何人が出たのかは、まだ分からない。
だが景継には、その数よりも大切なことがあった。
信賢が閉じろと命じた門を、その城を守る人間が自ら開いた。
景継は絵図の北門へ指を置く。
明日、城を落とす。
できることなら城壁を壊し、何百人もの兵を殺すのではなく、戦う理由を失わせて終わらせたい。
岩倉をめぐる最後の戦いは、清洲軍が城へ向かうより先に始まっていた。
その最初の一手は、槍でも矢でもない。
閉ざされていた一つの門が、城を守る者自身の手によって開かれることだった。




