第四十九話 岩倉城へ
夜が明けるより少し前、清洲城の中ではすでに多くの兵が動き始めていた。
まだ空は暗く、東の端がわずかに白み始めた程度だったが、城内には松明の明かりがいくつも揺れ、槍や弓を抱えた兵たちが次々と集まっている。馬のいななきや武具の触れ合う音も絶えず響き、眠っているはずの時間とは思えないほど、城全体が出陣の空気に包まれていた。
景継は馬の手綱を握りながら、その光景を静かに見ていた。
初陣の時とは、明らかに違う感覚だった。
あの時は、これから何が起きるのか分からない怖さの方が大きかった。兵がどのように動き、戦場で人がどのように死に、自分自身がその中で何を感じるのか、頭の中では知っているつもりでも、林道景継としては何一つ経験したことがなかった。
しかし今日は、少なくとも一度は本物の戦場を見ている。
矢が飛ぶ音も、人が倒れる瞬間も、自分の命令で兵が動き、その先で誰かが傷つくかもしれないという重さも知った。
だからといって、怖くなくなったわけではない。
むしろ一度経験したからこそ、これから起きるかもしれないことを以前より具体的に想像できるようになった分、初陣の時とは違う種類の緊張が胸の奥に残っていた。
「眠れましたか」
隣から弥兵衛が尋ねた。
景継は少し考えてから答えた。
「少しだけです」
「少しだけ、でございますか」
「昨日あれだけ考えていたんですから、ぐっすり眠れる方が不思議でしょう」
弥兵衛は呆れたように小さくため息をついた。
「若様は戦場より先に、考えすぎて倒れそうでございますな」
「それは困ります」
「こちらが困るのでございます」
景継はその言葉に少しだけ笑った。
初陣の前とは違い、弥兵衛の言葉にも多少の余裕が戻っている。
それでも景継には、弥兵衛自身も緊張していることが分かっていた。時折、無意識に腰の刀へ手を触れ、その位置を確かめているからだ。
「北門の方はどうなりました?」
景継が尋ねると、弥兵衛の表情が少し真剣なものへ変わった。
「夜のうちに、かなりの数が出たようでございます」
「かなりというと?」
「正確な数はまだ分かりませぬが、少なくとも数十人では済まないと聞いております」
景継の目が少しだけ細くなった。
予想以上だった。
十人や二十人が出れば十分だと思っていたが、それを超える人数が城外へ出たのであれば、岩倉城の中に与えた影響は決して小さくない。
しかも、逃げたのは兵だけではない。
家族を連れて出た者もいる。
ならば城内の空気は、昨日までとは明らかに変わっているはずだった。
「信賢様は気づいていますよね」
「さすがにお気づきでしょう」
「北門は?」
「明け方前に、再び閉ざされたそうでございます」
景継は静かに頷いた。
当然の反応だった。
一度北門が開いたことを知れば、信賢がそのまま放置するはずがない。
だが景継が重要だと思っているのは、門が開いているかどうかだけではなかった。
一度、実際に逃げられた。
それを城の中にいる人間が見た。
自分たちは岩倉に残るしかないわけではない。
清洲へ行くという道もあり、降れば命も家も守られるかもしれない。
その選択肢を一度見せた以上、北門を再び閉ざしたところで、人の頭の中からその道を消すことはできない。
「若様」
弥兵衛が景継を見る。
「何を考えておられます?」
景継は少し間を置いてから答えた。
「北門が閉じた後の方が、むしろ大事かもしれないと思っていました」
「どういうことでございます?」
「一度逃げ道を見た人は、それがまた開くかもしれないと思うでしょう。昨日までなら、岩倉に残るしかないと考えていた人も、今は違います」
清洲へ行く。
降る。
家を残す。
生きる。
それが現実の選択肢として存在することを、すでに何人もの人間が証明している。
景継は遠くに見える城門の方へ視線を向けた。
「今日、岩倉城を攻める前に、もう一度だけ逃げ道を見せる必要がありますね」
◇◇◇
やがて出陣の準備が整い、清洲の軍勢がゆっくりと城を出始めた。
前回の出陣とは比べものにならない規模だった。
勝家を先頭に槍兵が並び、その後ろには弓兵と足軽が続いている。信長の周囲には馬廻りが固まり、さらに後方には兵糧や矢を運ぶ荷駄まで長く連なっていた。
景継は軍勢の中を進みながら、自然と人数を数えようとしていた。
正確な数字までは分からない。
それでも、浮野で見た清洲勢よりは明らかに多い。
「本当に、出せるだけ出したんですね」
景継が前を進む信長へ声をかけると、信長が振り返った。
「不満か」
「逆です。昨日言っていた『出せるだけ』が、実際にはどのくらいなのか気になっていただけです」
「数えるな」
「もう数え始めてます」
信長が笑う。
「好きにしろ」
景継は軍勢の流れを見た。
これだけの兵が動けば、それだけで周囲の村や国人たちへ大きな影響を与える。
昨日まで岩倉と清洲のどちらにつくか迷っていた者も、この軍勢を見れば何かを考えるはずだった。
そして、その効果は岩倉城の中にいる者たちにも同じように及ぶ。
「景継」
信長が再び呼んだ。
「はい」
「今日は昨日とは違うぞ」
景継は信長を見る。
「分かっています」
「何が違う」
「目的です」
信長の口元がわずかに上がった。
景継はそのまま続けた。
「昨日は岩倉軍を退かせれば十分でした。でも今日は、城そのものを相手にします」
「そうだ」
「ただし、私は城壁を壊せば終わりだとは思っていません」
信長が景継を見る。
「まだ逃がすつもりか」
「逃げる人は、最後まで逃がした方がいいと思っています」
信長はしばらく何も言わなかったが、やがて小さく笑った。
「好きに考えろ。使えると思えば使う」
「それくらいが一番やりやすいです」
「生意気だな」
「今さらでしょう」
二人のやり取りを聞いていた近くの家臣たちが、小さく笑った。
◇◇◇
清洲軍が岩倉へ近づくにつれて、周囲の空気も少しずつ変わっていった。
道沿いの村では、家の中からこちらを見ている者がいる。
畑仕事を止めて、遠くから軍勢を眺めている者もいる。
中には、清洲軍の姿を確認した直後、急いでどこかへ走っていく者までいた。
おそらく岩倉へ知らせに行くのだろう。
景継はそれを止めようとは思わなかった。
むしろ、知らせてほしい。
清洲が本当に来た。
昨日までの噂ではない。
信長本人がこれだけの兵を率いて岩倉へ向かっている。
その事実が城内へ届けば届くほど、残っている者たちの迷いは大きくなる。
「物見、戻ります!」
前方から騎馬が一騎戻ってきた。
信長が馬を止める。
「言え」
「岩倉城、すでに戦支度を整えております。各門は閉ざされ、城壁にも兵が上がっております!」
「数は」
「正確には分かりませぬ。ただ、かなり減っているように見えます」
景継の目が動いた。
「減っている?」
「昨夜、北門から逃げた者だけではないようです。城内の一部では、兵が持ち場を離れているとの話もございます」
信長が景継を見る。
「効いているな」
「そうですね」
景継は答えたが、まだ喜ぶつもりはなかった。
城内の兵が減っていることは、確かにこちらへ有利に働く。
しかし、だからといって残っている者まで戦う気を失ったとは限らない。
むしろ逃げたい者がすでに抜け始めたことで、残った者の中には最初から最後まで戦うと決めている人間の割合が高くなっている可能性もある。
初陣で学んだばかりだった。
逃げ道を見つけた人は逃げる。
しかし、逃げ道があっても残ると決めた者は、簡単には崩れない。
景継はそのことを忘れないよう、心の中でもう一度確認した。
◇◇◇
岩倉城が見え始めたのは、昼前だった。
遠くに土塁や塀、櫓が見え、その向こうにはいくつもの旗が風に揺れている。
景継は馬を進めながら、しばらく何も言わずに城を見ていた。
絵図では何度も見た。
離反してきた者たちから話も聞き、北門がどこにあり、南門がどこにあるのかもある程度は把握している。
それでも実際に目の前に現れた岩倉城は、頭の中で想像していたものとはやはり違っていた。
高さ。
距離。
周囲の土地。
門へ続く道。
城壁の上から見下ろす兵の位置。
そのすべてが、紙の上の線ではなく現実の大きさを持っている。
「どうだ」
信長が聞いた。
「絵図と違うか」
景継は素直に頷いた。
「違いますね」
「どこが」
「全部です」
信長が笑った。
「またそれか」
「でも、本当にそうなんです。絵図では、ここからここまでって線を引けば終わりますけど、実際にはその間を兵が走らないといけませんから」
目の前にある距離。
敵の矢が届く範囲。
槍兵が門まで走る時間。
門へ近づく間に受ける攻撃。
そうしたものは、紙の上ではどうしても実感しにくい。
「だから、まず見ます」
景継は小さく息を吐いた。
信長は何も言わなかったが、その返事に満足しているようにも見えた。
◇◇◇
清洲軍は、岩倉城の南側を中心に陣を整え始めた。
勝家はすぐにでも攻めたそうな顔をしていたが、信長が手を上げてそれを止める。
「まだだ」
勝家が振り向く。
「なぜです」
信長はそのまま景継を見る。
「景継、昨日の続きだ」
突然話を振られ、景継は少しだけ笑った。
「私にやらせるんですね」
「お前が始めた」
「分かりました」
景継は城へ目を向けた。
北門は、昨夜多くの者がそこから逃げた後、信賢の命によって再び閉ざされている。
だが城の中にいる者たちは知っている。
あそこから外へ出れば、生きられる可能性がある。
「使者を出してください」
景継が言った。
信長が尋ねる。
「どこへ」
「北門の近くです」
「何を言わせる」
景継は少し考えてから答えた。
「昨日と同じ条件です。武器を捨てて北門から出る者には、清洲側は手を出さない。ただし、その約束は今日までとします」
勝家が眉を寄せた。
「今日まで?」
「はい。昨日は逃げ道を見せました。でも、いつまでも逃げられると思わせると、決断を先延ばしにする人が出ます」
長秀がその意図を理解して頷いた。
「今日中に残るか出るか決めろ、と」
「はい。残るなら戦う。出るなら今出る。その二つを選んでもらいます」
信長が景継を見る。
「それで、残った者はどうする」
景継は城を見つめたまま答えた。
「戦うと決めた人ですから、その人たちとは戦うしかないと思います」
口にした瞬間、少しだけ胸が重くなった。
逃げたい人まで巻き込むつもりはない。
しかし、自分の意思で残り、武器を取ると決めた者まで避けて通ることはできない。
信長は静かに頷いた。
「よし。使者を出せ」
◇◇◇
岩倉城の中では、清洲軍が本当に姿を現したこと自体が、大きな衝撃となって広がっていた。
「本当に来たぞ」
一人の兵が城壁の上から呟いた。
「何人いる」
「分からん」
「千はいるだろう」
「いや、もっとだ」
昨日まで噂としてしか存在していなかった軍勢が、本当に目の前にいる。
その事実が、城内に残っている者たちの不安を一気に現実へ変えていた。
信賢は評定の間で次々と入ってくる報告を聞いていた。
「数は!」
「正確には分かりませぬが、こちらを上回っております!」
「北門は」
「閉ざしております」
信賢が強く頷いた。
「二度と開けるな。昨夜逃げた者の名も全員調べろ」
「はっ」
その時、外から新しい知らせが入った。
「清洲より使者にございます!」
信賢の顔が変わった。
「何だ」
「北門より武器を捨てて出る者には、清洲方は手を出さぬとのことです」
部屋の中が静かになった。
「……何?」
「ただし、その約束は今日までで、明日以降は保証しないとのこと」
その言葉を聞いた瞬間、家臣たちの表情が変わった。
信賢自身もすぐに気づいた。
これは城全体へ向けた降伏勧告ではない。
城にいる一人一人へ、自分で選べと言っている。
今日までなら出てもいい。
残るのなら、明日からは敵として扱う。
「誰が、そんなことを考えた」
信賢が低い声で呟いたが、答える者はいなかった。
そして、その知らせは命令で止めようとしても止まらず、すぐに城内へ広がっていった。
今日まで。
北門から。
武器を捨てれば助かる。
その言葉は、城の中にいる者たちの心へ静かに入り込んでいった。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、最初の一人が北門から姿を現した。
固く閉じられていた門がわずかに開き、一人の男が刀を地面へ置いたうえで両手を上げ、ゆっくりと外へ出てくる。
清洲側はすぐには動かなかった。
男が門から十分に離れたところで数人の兵が近づき、武器を持っていないことを確認すると、そのまま後方へ連れていく。
誰も斬らない。
誰も矢を放たない。
その様子を、城壁の上から何人もの岩倉兵が見ていた。
「あれでいいのか」
誰かが小さく呟いた。
次に二人が出た。
その後は五人。
門が開くたびに、少しずつ人が外へ出てくる。
信賢はその報告を聞くたびに顔を険しくしていった。
「門を閉じろ!」
「しかし」
「二度と開けるなと言ったはずだ!」
「北門を守る兵の中に、まだ安藤の手の者が残っております」
「全員捕らえろ!」
命令が飛ぶ。
だが、今度はその命令を受けた兵が、すぐには動かなかった。
「聞こえなかったのか!」
信賢が怒鳴る。
兵は少しだけ俯いたまま答えた。
「……北門へ行けば、自分も出たくなるかもしれませぬ」
その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が凍った。
信賢の顔がゆっくりと変わっていく。
「お前もか」
兵は顔を上げた。
「俺にも家族がおります」
「……裏切るのか」
「分かりませぬ」
それが、男の正直な答えだった。
「ただ、死にたくはありませぬ」
信賢はその言葉に、すぐ返事をすることができなかった。
◇◇◇
午後になり、清洲軍の陣では北門から出てくる者の数が少しずつ増えていた。
景継は遠くからその様子を見ながら、弥兵衛へ尋ねる。
「また出ました?」
「はい。今ので六人でございます」
「合計は?」
「今日だけでも、五十を超えたかと」
景継は静かに頷いた。
昨夜の分まで合わせれば、かなりの人数になる。
「思ったより出ますね」
弥兵衛が言う。
「そうですね」
「うまくいっておりますな」
景継はすぐには答えず、城をしばらく見つめた。
「でも、まだ城に残っている人の方が圧倒的に多いです」
弥兵衛が黙る。
逃げ道があると知っても、残る者はいる。
信賢に忠義を持つ者。
清洲を信じることができない者。
家族や土地の事情で出られない者。
そして、自分の意思で戦うと決めた者。
そのすべてを一括りに敵と呼び、これから戦わなければならない。
景継には、その事実が少しだけ重く感じられた。
「若様」
弥兵衛が尋ねる。
「また考えすぎておられますか」
「多分」
「勝家様なら、もう攻めておりますぞ」
「それは知っています」
少し離れた場所では、本当に勝家がまだかという顔でこちらを見ていた。
景継は思わず笑った。
「元気ですね」
「勝家様でございますから」
◇◇◇
その時だった。
北門とは反対側にある城の東側で、突然大きな動きが起きた。
信長がすぐに立ち上がる。
「何だ?」
物見が馬を走らせて戻ってきた。
「申し上げます!」
「言え!」
「東側より、岩倉兵が城外へ出ました!」
勝家の顔が、一気に明るくなった。
「来たか!」
「数は!」
「およそ二百!」
景継の目が変わった。
二百。
北門から出た者たちのように逃げるためではない。
明らかに、戦うために城外へ出ている。
「誰が率いています?」
景継が尋ねる。
「織田信安殿の旧臣、山内重政にございます!」
景継にとっては知らない名だった。
だが、その名前を聞いた瞬間、長秀と信盛の表情が変わった。
「山内か」
「厄介だな」
景継は二人を見る。
「強いんですか」
長秀が答えた。
「強いというより、岩倉に残った者の中では、まともに兵をまとめて戦える男だ」
景継は東側へ視線を移した。
二百の兵が城門から出てくる。
自ら門を開き、自ら城の外へ出て、清洲軍へ向かっている。
「なるほど」
景継が小さく呟く。
信長が横を見る。
「何がだ」
景継は東の兵を見たまま答えた。
「逃げる人を見て、残る人も決め始めたんです」
逃げ道を作った。
選ばせた。
その結果として、逃げる者が出た。
同時に、残って戦うと決めた者たちも、はっきりと姿を現し始めた。
信長が立ち上がる。
「なら、相手をしてやろう」
勝家は待っていたように槍を持った。
「某が行きます!」
景継は、東から出てきた山内重政の軍勢をじっと見た。
今まで見てきた岩倉兵とは、少し違う。
隊列が乱れていない。
動きにも迷いがない。
逃げたい者が城から抜けた後、それでも岩倉へ残ることを選び、そのうえで外へ出て戦うと決めた兵たちだった。
少なくとも、あの二百人には戦う理由がある。
景継の表情が少し引き締まった。
「信長様」
「何だ」
「簡単には崩れないと思います」
信長は東へ進む軍勢を見ながら答えた。
「分かっておる」
そして、ほんの少しだけ笑った。
「だから戦になる」
景継はその言葉を聞きながら、改めて山内重政の軍勢を見た。
人を逃がせば、城を守る兵は減る。
その考え自体は間違っていない。
だが、逃げたい者が抜けた後に残るのは、最後まで戦うと決めた者たちでもある。
城を空にするために作った逃げ道が、結果として岩倉の中から戦う意思の強い者だけを残すことにもつながっていた。
景継は、その事実を静かに受け止めた。
初陣では、人は駒のようには動かないということを学んだ。
そして今日、さらに一つ理解しようとしていた。
逃げ道を作れば、すべての人間が逃げるわけではない。
その道を見たうえで残ると決めた者は、自分の意思でそこに残っている。
だからこそ、そういう相手との戦は簡単には終わらない。
景継はゆっくりと手綱を握り直し、東へ出てきた岩倉兵から視線を離さなかった。
岩倉決戦は、ようやく本当の意味で始まろうとしていた。




