第五十話 残る者の意地
東側の門から姿を現した岩倉兵は、およそ二百。
清洲軍全体と正面から戦えるほどの兵力ではない。だが景継が警戒したのは、その数ではなく動きだった。
先頭の槍兵は一定の間隔を保ち、その後ろに弓兵が続く。左右にも小さな隊を置き、どこから仕掛けられても対応できる形を崩さないまま、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
浮野で戦った岩倉兵とは、明らかに違う。
「あれが山内重政ですか」
景継が尋ねると、長秀は東側の軍勢を見たまま頷いた。
「おそらく中央にいる男だ。信安殿が岩倉を追われる以前から仕えていた者で、信賢殿に代替わりしてからも残ったと聞いている」
景継は目を凝らした。
軍勢の中央に、一人だけ馬に乗った男がいる。
四十前後だろうか。派手な甲冑も、大きな馬印もない。それでも男が馬を進めれば前列が動き、手を上げれば全体が止まる。
誰がこの二百を動かしているのか、それだけで十分に分かった。
「まとまっていますね」
「ああ。だから厄介だと言った」
逃げる者が相次ぐ中で、なお二百もの兵をまとめ、自ら城外へ出てきた。
山内重政という男が、岩倉に残った将の中でも別格なのは間違いなさそうだった。
「俺が行く」
勝家が槍を手に前へ出る。
「もう行くんですか?」
「敵が出てきたのだから、行かずにどうする」
「もう少し見てもいいと思いますけど」
「お前は見ていろ。俺は俺のやり方で見る」
景継は一瞬言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
勝家は信長へ向き直る。
「殿、先陣をお任せくだされ」
信長は近づいてくる岩倉兵をしばらく眺め、短く頷いた。
「行け。ただし深追いはするな。あの二百だけを見て、城の存在を忘れるなよ」
「承知!」
勝家が自分の兵のもとへ向かう。
景継はその背を見送った後、再び山内勢へ視線を戻した。
何かが引っかかる。
「どうした」
信長が気づいた。
「……どうして城から出てきたのかと思いまして」
「戦うためだろう」
「それは分かります。でも、兵力で劣るなら城に籠もった方が有利です。それなのに二百だけで出てきた。勝つことだけを考えているなら、不自然です」
長秀が山内勢へ目を向ける。
「別の狙いがあると?」
「あると思います」
景継はすぐに答えを出さず、山内勢の背後にある岩倉城を見た。
北門からは今も人が出ている。
清洲軍が攻めずに待っている間にも、岩倉を離れる者は増え続けていた。
「……もしかすると、山内殿は私たちに勝つために出てきたんじゃないのかもしれません」
「では、何のためだ」
「城の中に、まだ岩倉は戦えると見せるためです」
信長と長秀が景継を見る。
「このまま何もしなければ、人は逃げ続けます。でも清洲軍を少しでも押し返せば、残ろうとする人間が出るかもしれない」
長秀がゆっくり頷いた。
「清洲を破るためではなく、味方を繋ぎ止めるための出撃か」
「おそらく。ただ、本当にそうなのかは戦い方を見れば分かると思います」
景継は山内を見つめた。
岩倉を支える、最後の柱の一つ。
もしそうなら、ただ二百人を倒せば済む相手ではなかった。
勝家率いる三百ほどの清洲兵が東へ動き始めた。
勝家は全軍を一気にぶつけず、槍兵を前へ、その後ろへ弓兵を置いて慎重に距離を詰めていく。
景継は少し意外そうにその様子を見た。
「勝家様、最初から突っ込まないんですね」
「お前は勝家殿を何だと思っている」
長秀が呆れたように言う。
「強い人なのは知ってますよ。ただ、もう少し早く行くのかと」
「城壁の前で何も考えず突っ込むほど愚かではない」
「聞かれたら怒られそうなので、この話はここまでにしましょう」
長秀が小さく笑った。
その間にも両軍の距離は縮まっていく。
やがて岩倉側の弓兵が一斉に弓を構えた。
「来ます」
次の瞬間、何十本もの矢が空へ放たれた。
清洲兵は盾を上げたが、すべては防げない。肩や腕に矢を受け、何人かが倒れる。
山内が右手を上げた。
岩倉の槍兵が一斉に動き出す。
「構えろ!」
勝家の声が響き、清洲側も槍を前へ向けた。
両軍が正面からぶつかった。
槍の穂先が交差し、怒号と悲鳴が重なる。
景継は無意識に手綱を強く握った。
二度目だからといって、慣れるものではない。数瞬前まで立っていた人間が倒れる光景を見れば、身体は勝手に強張る。
それでも目は逸らさなかった。
「岩倉側、下がりませんね」
「ああ。山内がよくまとめている」
数では勝家が上回っている。
それでも山内勢は崩れない。
前列が押されれば少し下がり、崩れる前に後列と入れ替える。右へ圧力をかけられれば中央から兵を回し、左が薄くなれば後列が補う。
派手さはない。
ただ、崩れない。
「うまいですね」
景継は思わず呟いた。
大勝を狙うのではなく、自軍にできることを見極め、無理をさせない。
こういう将ほど、簡単には倒せない。
しばらくすると、山内勢が少しずつ後退し始めた。
「信長様、下がっています」
「勝家に押されているのだろう」
「それもあります。でも……整いすぎています」
十歩ほど退いては止まり、清洲兵を受け止める。そしてまた退く。
それを繰り返しながら、戦場そのものを東門へ近づけていた。
「城へ戻るつもりか」
「それなら、もっと早く退けます」
景継は目を細めた。
山内は何かを待っている。
その時だった。
山内が兵の一部を左右へ開き、これまで厚く保っていた中央を薄くした。
勝家が即座に反応する。
「中央が崩れた! 押せ!」
清洲兵が一気に前へ出た。
だが景継の胸には、勝機より先に違和感が走った。
あれほど丁寧に崩れを防いでいた山内が、突然中央を開けるはずがない。
景継は東門の上へ目を向けた。
城壁に、先ほどまでいなかった弓兵が並んでいる。
「勝家様を止めてください!」
信長もすぐに気づいた。
「伝令! 勝家を止めろ!」
だが、勝家隊はすでに山内勢を押しながら東門へ近づいていた。
山内は最初から、ここまで引き込むつもりだったのだ。
城壁の上で弓が一斉に引き絞られる。
次の瞬間、矢の雨が清洲兵へ降り注いだ。
「盾を上げろ! 前へ出るな!」
勝家の怒声が響いた。
兵たちが慌てて盾を上げるが、間に合わない。何人もの兵が矢を受け、その場へ倒れ込む。
さらに、それまで退いていた山内勢が反転した。
正面から槍兵。
上から矢。
勝家隊の前進が止まる。
景継は戦場全体へ視線を走らせた。
山内は勝家を押し返すため、中央へ兵を集めている。
ならば、薄くなった場所がある。
「信長様、信盛様の兵を左から回してください」
「山内の側面か」
「はい。ただし、正面からぶつけなくていいです。山内勢の左へ回り、東門との間へ入るように見せてください」
信盛が尋ねる。
「退路を切るのか」
その言葉に、景継は初陣を思い出した。
退路を完全に塞ぎ、敵を死兵にしてしまったあの失敗。
「完全には塞がないでください。東門へ戻れる道を一つだけ残します」
信盛の目が変わった。
「戦わせず、退かせるのか」
「はい。ここで全滅させる必要はありません。自分から城へ戻るなら、それで十分です」
信長は即座に命じた。
「信盛、景継の言う通りに動け。東門への道は残せ」
「承知!」
信盛隊が動き始めた。
山内重政は、その動きにすぐ気づいた。
「左から来ます!」
正面には勝家。
左からは新たな清洲兵。
背後には東門。
このまま戦えば、やがて城へ戻れなくなる。
「退くぞ!」
側近が驚いた。
「今ですか! 勝家勢を押し返しております!」
「だから今だ! ここで欲を出せば、全員戻れなくなる!」
山内の目的は、清洲軍の壊滅ではない。
岩倉はまだ戦える。
それを城内へ見せることだった。
目的はすでに果たしている。
岩倉兵が東門へ向かって退き始めた。
そこで山内は気づく。
左から回り込んできた清洲兵は、東門への道を完全には塞いでいない。
その気になれば切れるはずの退路を、意図的に残している。
「……そういうことか」
このまま戦うなら包む。
戻るなら追わない。
清洲軍の動きが、そう告げていた。
山内は一瞬だけ敵本陣へ目を向けた。
誰が指示したのかは分からない。
だが、柴田勝家とは別の意思が戦場を動かしている。
「全軍、東門へ戻る! 隊列を崩すな!」
岩倉兵は互いを支えながら、城へ退いていった。
勝家は退く山内勢を見るなり槍を前へ向けた。
「逃がすな! ここで――」
そこへ伝令が駆け込む。
「勝家様! 殿より追撃無用との命にございます!」
勝家は眉間に皺を寄せ、本陣を見た。
追えば、まだ討てる。
だが無理に追えば、再び城壁から矢を浴びる。
「……全軍止まれ! 追撃するな!」
清洲兵が足を止めた。
山内勢は最後まで大きく崩れることなく、東門の中へ消えていった。
清洲側にも死傷者が出た。
山内の二百も数を減らした。
どちらかが一方的に勝った戦ではない。
それでも清洲軍は城外に残り、岩倉兵は城内へ戻った。
その一部始終を、城内の者たちが見ていた。
戦いが止まると、景継は大きく息を吐いた。
手のひらが汗で濡れている。
「若様」
弥兵衛が声をかけた。
「勝家様はご無事のようでございます」
「よかったです。本当に」
景継は東門を見た。
山内重政。
思っていた以上に厄介な相手だった。
「景継」
信長が呼ぶ。
「はい」
「山内を戻したのには、死兵にしないこと以外にも理由があるのだろう」
景継は少し驚いた後、頷いた。
「あります」
「言ってみろ」
「山内殿たちは、清洲と実際に戦って城へ戻りました。それなのに、私たちは追わなかった」
景継は城壁へ目を向けた。
「清洲は退く者を必要以上に追わない。そのことを、今度は岩倉側の人間が自分の目で見ました」
信長の視線も城へ向く。
「敵将の口から伝われば、こちらが言うより信用されるか」
「山内殿が何を話すかまでは分かりません。でも、少なくとも退路を残されたことは本人が知っています」
信長はしばらく城を眺めた後、頷いた。
「ならば、ここからは中がどう動くかを見る」
「はい」
清洲軍はその場で陣を整え直し、新たな攻撃には移らなかった。
東門が閉じられた後、山内重政の周囲には城内の者たちが集まった。
「山内様、清洲勢はいかがでしたか」
「勝家を押し返したというのは本当ですか」
「まだ戦えますか」
山内は馬から降りたが、すぐには答えなかった。
確かに一度は勝家を押し返し、清洲側にも損害を与えた。
だが、勝ったとは言えない。
「山内様」
一人の家臣が尋ねる。
「清洲に勝てますか」
周囲が静かになった。
ここで勝てると言えば、残る者は増えるかもしれない。
だが山内は、戦場で見たものを知っている。
「分からん」
小さなどよめきが起きた。
「清洲は強い。こちらより兵も多い。今日のように城壁を使えば戦えるが、外で正面からぶつかり続ければ、いずれこちらが持たなくなる」
山内は閉ざされた東門を振り返った。
「ただ、一つ分かったことがある。俺たちが退いた時、清洲勢は東門への道を塞がなかった。追撃も止めた」
家臣たちは黙って聞いている。
「北門から出た者には手を出さぬという話も、おそらく嘘ではない」
空気が変わった。
「では、清洲へ降っても……」
一人が呟く。
山内はその男を見た。
「命まで取られる可能性は、俺が思っていたより低いのかもしれん」
それ以上は言わなかった。
降れとも、残れとも。
だが、その言葉は戦から戻った兵たちを通じて、城内へ広がっていった。
夕方になると、北門から出る者が再び増え始めた。
兵だけではない。
妻子を連れた家臣や、荷物を抱えた者も続く。
そして今や、それを止める側の兵まで迷っていた。
評定の間には、次々と報告が届く。
「また出たのか」
信賢が低い声で尋ねた。
「はい」
「何人だ」
家臣が言葉を詰まらせる。
「今日だけで百を超えております。家臣やその家族も含まれておりますので、正確な数はまだ……」
信賢の拳が強く握られた。
城はある。
兵も残っている。
山内も戻った。
今日の戦では清洲兵にも損害を与えた。
それなのに、人だけがいなくなっていく。
「すべての門を閉じろ」
家臣は返事をしなかった。
「聞こえなかったのか」
やがて家臣が顔を上げた。
「信賢様。門を閉じれば、人を城内に残すことはできます」
「ならば閉じろ」
「ですが、それで残るのは岩倉のために戦うと決めた者ではございませぬ。ただ、外へ出られなくなった者たちにございます」
信賢の表情が固まった。
「無理に閉じ込めれば、清洲と戦う前に城内で何が起こるか分かりませぬ」
信賢は怒鳴ろうとした。
だが、言葉が出なかった。
その可能性を、自分も考えてしまったからだった。
岩倉城はまだ落ちていない。
清洲兵は城壁を越えていない。
それでも、信賢の命令だけでは人を繋ぎ止められなくなっていた。
日が傾き始めた頃、景継は清洲軍の陣から岩倉城を眺めていた。
北門から出てくる列は、昼より明らかに長い。
兵だけでなく、荷物を背負った女や、親に手を引かれた子どもの姿まである。
「信長様」
景継が城を見たまま言った。
「明日、いきなり城を攻める必要はないかもしれません」
「今日だけで、かなり出たからか」
「それもあります。でも、このまま一晩待てば、もっと大きく動くかもしれません」
「根拠は」
「山内殿が戻りました」
景継は北門へ目を向ける。
「清洲は降った者を殺さない。その話が山内殿や戻った兵の口から広がれば、今度は一人ずつではなく、家単位で動く者が出てくるかもしれません」
家臣が家族や郎党を連れて離れれば、その下にいる兵も動く。
一人の離反とは意味が違う。
信長はしばらく考えた後、言った。
「夜まで待つ」
「攻めないんですか」
「お前が待てと言ったのだろう」
「そうですけど、信長様なら途中で我慢できなくなるかと思ってました」
信長は答えず、北門から出てくる人々を眺めた。
「ただし、夜が明けても岩倉が動かなければ、次はこちらから動く」
「分かりました」
城壁はまだ立っている。
東門も閉じられ、岩倉の旗も変わらず風に揺れていた。
見た目だけなら、朝と何も変わっていない。
だが、その内側から人が消え続けている。
景継は岩倉城を見つめた。
次に崩れるのが城壁なのか、それとも岩倉を支えてきた家臣たちなのか。
その答えが出るまで、それほど長くはかからないように思えた。




