第五十話 残る者の意地
東側の門から姿を現した岩倉兵は、およそ二百。
数だけを見れば、清洲軍全体と正面から戦えるほどの兵力ではなかったが、景継がすぐに警戒したのは、城から出てきた兵たちの動きに敗軍特有の迷いがほとんど見えなかったからだった。
先頭を進む槍兵は一定の間隔を保ち、その後ろには弓を持った兵が続いている。さらに左右にも小さな隊が配置されており、清洲軍がどこから仕掛けても最低限対応できる形を維持したまま、ゆっくりとこちらへ近づいていた。
浮野で戦った岩倉兵とは、明らかに様子が違う。
「あれが山内重政ですか」
景継が尋ねると、長秀は東側の軍勢へ目を向けたまま頷いた。
「おそらく中央にいる男だ。信安殿が岩倉を追われる以前から仕えていた者で、信賢殿に代替わりしてからも岩倉に残ったと聞いている」
景継は目を凝らして軍勢の中央を見た。
一人だけ馬に乗った男がいる。
年齢は四十前後だろうか。派手な甲冑を身につけているわけでも、大きな馬印を掲げているわけでもないため、遠目には周囲の兵とそれほど大きな違いはない。
しかし、その男が馬を進めれば前の兵が動き、手を上げれば隊列全体が止まる。
誰がこの二百を動かしているのかは、それだけで十分に分かった。
「まとまっていますね」
「ああ。だから厄介だと言った」
長秀の答えに、景継は小さく頷いた。
逃げる者が次々と城を離れている中で、それでも二百人もの兵をまとめ、自分から城外へ出てくることができる。
それだけでも、山内重政という男が単なる一武将ではないことは分かった。
「俺が行く」
勝家が槍を手に前へ出た。
景継が振り向く。
「もう行くんですか?」
「敵が出てきたのだから、行かずにどうする」
「もう少し相手の動きを見てもいいと思いますけど」
「お前は見ていろ。俺は俺のやり方で見る」
景継は一瞬だけ言葉に詰まった。
ただ突っ込むと言われるより、その答えの方が勝家らしい。
勝家は信長へ向き直ると、槍を持ったまま頭を下げた。
「殿、先陣をお任せくだされ」
信長は東側から近づいてくる岩倉兵をしばらく眺めた後、短く頷いた。
「行け。ただし深追いはするな。あの二百だけを見て、城の存在を忘れるなよ」
「承知!」
勝家は馬を返すと、自分の兵のもとへ向かった。
その背中を見送りながら、景継はもう一度山内の軍勢を見た。
何かが引っかかる。
「どうした」
信長が気づいた。
景継はすぐには答えず、岩倉兵とその背後にある東門を交互に見た。
「どうして城から出てきたのかと思っていました」
「戦うためだろう」
「それは分かります。でも、岩倉側は城に籠もった方が有利なはずです」
信長の表情がわずかに変わった。
景継はそのまま続ける。
「兵力ではこちらが上ですし、向こうもそれくらいは分かっているはずです。それなのに二百人だけを出して、こちらと正面から戦おうとしている。勝つことだけを考えるなら、少し不自然です」
長秀も山内の軍勢へ目を向けた。
「何か別の狙いがあると?」
「あると思います。ただ、それが何なのかは……」
景継は言葉を止めた。
初陣の前までなら、ここで司馬懿の記憶の中から似た戦を探し、そこに目の前の状況を当てはめようとしたかもしれない。
しかし、昨日の戦で景継は一つ学んでいる。
過去に似た戦があったとしても、目の前にいる人間まで同じように動くとは限らない。
まず相手を見る。
山内は何を見ているのか。
何を守ろうとしているのか。
そして、何を恐れているのか。
景継は山内の軍勢から視線を外し、その後ろにある岩倉城を見た。
北門からは今も断続的に人が出ており、清洲軍が攻撃を始めずに待っている間にも、岩倉を離れる者は増え続けている。
そこで景継の中に、一つの考えが浮かんだ。
「もしかすると、山内殿は私たちに勝つために出てきたんじゃないのかもしれません」
信長が景継を見る。
「では、何のためだ」
「城の中にいる人たちへ、まだ岩倉は戦えると見せるためじゃないでしょうか」
長秀が眉を上げた。
景継は北門を指した。
「今も人が逃げています。このまま何もしなければ、兵も家臣も少しずつ減っていく。それを止めるには、清洲と戦っている姿を城内に見せるのが一番早い」
たとえ勝てなくてもいい。
清洲軍を少し押し返す。
簡単には負けないところを見せる。
そうすれば、逃げようとしている者の中にも、もう少し岩倉に残ろうと考える者が出るかもしれない。
長秀はしばらく考えた後、ゆっくりと頷いた。
「清洲を破るためではなく、味方を繋ぎ止めるための出撃か」
「そう考えれば、二百という数にも意味があると思います。城を空にするほど出す必要はない。でも少なすぎれば、城内の人たちに戦えるとは思わせられない」
信長は岩倉城と山内勢を交互に見た。
「つまり、あの男が本当に相手をしているのは俺たちではなく、岩倉の中で迷っている連中ということか」
「おそらく。ただ、本当にそうなのかは戦い方を見れば分かると思います」
景継はそこで言葉を止めた。
山内重政。
岩倉を支える最後の柱の一つなのかもしれない。
もしそうなら、単純に二百人を倒せば終わる相手ではなかった。
◇◇◇
勝家率いる清洲兵が、東側へ向かって動き始めた。
率いる兵は三百ほどで、数だけなら山内勢を上回っている。
しかし勝家は全軍を一気にぶつけることはせず、まず槍兵を前へ出して相手との距離を詰めながら、弓兵をその後ろへ配置していた。
その動きを見た景継は、少しだけ意外そうな顔をした。
「勝家様、最初から突っ込まないんですね」
長秀が横から景継を見る。
「お前は勝家殿を何だと思っている」
「強い人なのは知ってますよ。ただ、敵が出てきた時はもっと早く行くのかと思っていました」
「勝家殿とて、城壁の前で何も考えずに突っ込むほど愚かではない」
「聞かれたら怒られそうなので、この話はここまでにしましょう」
長秀が小さく笑った。
そう話している間にも、両軍の距離は少しずつ縮まっていった。
やがて岩倉側の弓兵が一斉に弓を構えたのを見て、景継の表情が変わる。
「来ます」
次の瞬間、何十本もの矢が空へ放たれた。
矢は高く弧を描きながら清洲軍の前列へ降り注ぎ、兵たちはすぐに盾を上げて身を守ったが、すべてを防ぐことはできず、何人かが肩や腕に矢を受けて倒れた。
その直後、山内が右手を上げた。
岩倉側の槍兵が、まるで一つの塊のように動き始める。
「構えろ!」
勝家の声が響き、清洲側の槍兵も一斉に槍を前へ向けた。
両軍が正面からぶつかる。
槍の穂先が交差し、押し合う兵たちの声が重なり、離れた本陣にいる景継のところまで激しい音が届いてきた。
景継は無意識に手綱を強く握っていた。
二度目の戦場だからといって、簡単に慣れられるものではない。
人と人が本気で殺し合い、数瞬前まで立っていた者が地面へ倒れる光景を見て、何も感じなくなることなどできそうになかった。
それでも景継は目を逸らさなかった。
自分が何かを見落とせば、その結果として清洲兵が死ぬかもしれない。
そう思えば、怖いからという理由だけで目を閉じることはできなかった。
「岩倉側、下がりませんね」
景継が言うと、長秀も静かに頷いた。
「山内がよくまとめている」
数では勝家の方が多く、兵の勢いでも清洲側が劣っているようには見えない。
それでも山内勢は簡単には崩れなかった。
前列が押されれば少しだけ下がり、そのまま崩れる前に後列の兵と入れ替わる。勝家が右側へ圧力をかければ中央をわずかに下げて兵を回し、左側が薄くなれば後列からすぐに補う。
派手な策ではない。
伏兵もなければ奇襲でもない。
ただ、自分の兵を崩さないことだけを徹底している。
「うまいですね」
景継は思わず呟いた。
司馬懿の記憶の中にも、こういう将は何人もいた。
一度の戦で大勝することは少ない。
しかし大敗もしない。
自分の兵が何をできるのかを理解し、無理をさせず、崩れそうになればすぐに支える。
戦場では、そういう相手ほど厄介だった。
◇◇◇
戦いが始まってしばらくすると、景継は山内勢の動きに小さな変化が生まれていることに気づいた。
「信長様、山内勢が少しずつ下がっています」
「勝家に押されているのだろう」
「それもあると思います。でも、下がり方が少し整いすぎています」
景継は戦場を見つめた。
山内勢は確かに後退している。
しかし、一気に崩れて逃げるのではなく、十歩ほど下がれば再び止まり、そこで清洲兵を受け止めてから、また少しずつ後ろへ下がっていく。
その動きを何度も繰り返しながら、戦場そのものを少しずつ東門の方へ移していた。
「城へ戻るためか」
信長が尋ねた。
「それなら、もっと早く退いてもいいはずです」
景継は東門と現在の戦場の距離を見比べた。
山内は何かを待っている。
そんな気がした。
その時、山内が突然兵の一部を左右へ開き、これまで最も厚く保っていた中央を薄くした。
勝家もすぐにそれを見た。
「中央が崩れた! 押せ!」
清洲兵が一気に前へ出る。
だが景継の胸には、勝機を感じるより先に強い違和感が走った。
あれほど丁寧に兵を動かし、少しでも崩れそうになればすぐに補っていた山内が、ここへ来て突然中央を薄くする理由がない。
景継は反射的に東門の上へ目を向けた。
そこでようやく気づいた。
城壁の上に、先ほどまで見えなかった弓兵が並び始めている。
「勝家様を止めてください!」
景継が声を上げた瞬間、信長も東門の上を見た。
「伝令! 勝家を止めろ!」
だが、すでに勝家隊は山内勢の中央へ深く入り込み、東門へ向かって押し始めている。
山内は最初から、ここまで下がるつもりだった。
清洲兵を城壁から放つ矢の射程内へ引き込み、その瞬間に反撃するために、わざと中央を開けたのだ。
城壁の上で岩倉兵が一斉に弓を引き絞った。
次の瞬間、無数の矢が清洲兵へ向かって放たれた。
◇◇◇
勝家も、城壁から矢が放たれた瞬間には自分たちが誘い込まれたことを理解していた。
「盾を上げろ! 前へ出るな!」
怒声が響き、前列の兵たちが慌てて盾を上げる。
しかし完全には間に合わず、降り注いだ矢が何人もの清洲兵を捉えた。
その直後、これまで下がり続けていた山内勢が一斉に反転する。
城壁からは矢が降り、正面からは槍兵が押し返してくる。
清洲側の前列が、初めて明確に止まった。
景継はその光景を見ながら、自分でも驚くほど冷静に戦場全体を見渡していた。
初陣の時なら、自分の予想していなかったことが起きた瞬間、どうすればいいのか分からず焦っていたかもしれない。
しかし一度戦場を経験した今は、目の前の失敗そのものより、その失敗によって敵が何をしようとしているのかを見ることができた。
山内は勝家を城壁の射程へ入れるため、中央へ兵を集めている。
その分、必ず薄くなっている場所がある。
「信長様、信盛様の兵を左から回してください」
信長が景継を見る。
「山内の側面か」
「はい。ただし正面からぶつける必要はありません。山内勢の左へ回り込んで、東門との間へ入るように見せてください」
信盛が景継を見る。
「退路を切るのか」
その言葉を聞いた瞬間、景継の頭に初陣の光景が蘇った。
退路を完全に塞いだことで、逃げ場を失った岩倉兵が死ぬまで戦おうとした。
あの失敗を、ここでも繰り返してはいけない。
「完全には塞がないでください。東門へ戻れる道を一つだけ残したまま、そこへ向かわなければ包まれると思わせてほしいんです」
信盛がすぐに意図を理解した。
「戦わせるのではなく、退かせるのか」
「はい。今ここで山内勢を全滅させる必要はありません。向こうが自分から城へ戻るなら、それで十分です」
信長は戦場と景継を交互に見た後、迷わず命じた。
「信盛、景継の言う通りに動け。東門への道だけは残せ」
「承知!」
信盛隊が動き始めた。
◇◇◇
山内重政は、清洲軍の新しい動きにすぐ気づいた。
「左から来ます!」
側近の声を聞くより早く、山内自身も信盛隊がこちらの左側へ大きく回り込んでくるのを見ていた。
正面には勝家。
左には新しい清洲兵。
そして背後には東門がある。
このまま戦い続ければ、やがて城へ戻る道を失う。
「退くぞ!」
山内が叫ぶと、側近が驚いた顔をした。
「今ですか! 勝家勢を押し返しております!」
「だから今だ! ここで欲を出せば、全員戻れなくなる!」
山内がこの出撃で求めていたのは、清洲軍を壊滅させることではなかった。
岩倉はまだ戦える。
清洲を相手にしても、簡単には崩れない。
その姿を城内にいる者たちへ見せることができれば、最低限の目的は果たせる。
山内の命令を受け、岩倉兵が少しずつ東門へ向かって退き始めた。
しかし、そこで山内は妙なことに気づいた。
左から回り込んできた清洲兵は、東門への道を完全には塞ごうとしていない。
その気になれば、あと少し前へ出るだけで自分たちの退路を切れるはずなのに、わざと一つだけ道を残している。
「……誘われているのか」
山内は低く呟いた。
「何と?」
「いや、違う」
山内はすぐに考え直した。
誘っているのではない。
戻れと言われている。
このまま戦うなら包む。
城へ戻るなら追わない。
清洲側の誰かが、戦場そのものを使ってそう伝えている。
山内は一瞬だけ清洲の本陣へ目を向けた。
距離があるため、そこにいる人間の顔までは見えない。
それでも、先ほどまでの勝家とは明らかに違う意思が、今の清洲軍の動きにはあった。
「全軍、東門へ戻る! 隊列を崩すな!」
山内の声が響き、岩倉兵は互いを支えながら少しずつ城へ戻っていった。
◇◇◇
勝家は退いていく山内勢を見ると、すぐに槍を前へ向けた。
「逃がすな! ここで――」
そこへ信長の伝令が駆け込んできた。
「勝家様! 殿より追撃無用との命にございます!」
勝家は眉間に皺を寄せたまま、本陣の方へ目を向けた。
追えば、まだ何人かは討てる。
うまくいけば、東門へ逃げ込む敵と一緒に城内へ雪崩れ込むことさえできるかもしれない。
しかし、そこで無理に追えば、再び城壁の弓兵から狙われる可能性もある。
何より信長から深追いするなと命じられていた。
「……全軍止まれ! 追撃するな!」
勝家の命令を受け、前へ出ようとしていた清洲兵が次々と足を止めた。
山内勢はその様子を警戒しながら東門へ向かい、最後まで大きく隊列を崩すことなく城内へ戻っていった。
二百いた兵は確実に減っている。
清洲側にも死傷者が出た。
どちらかが一方的に勝った戦ではなかった。
それでも、城外へ出てきた岩倉兵を押し返し、清洲軍は依然として城の前に陣を構えている。
その光景を、岩倉城の中にいる多くの人間が見ていた。
◇◇◇
戦いが止まった後、景継はようやく大きく息を吐いた。
戦っていた時間そのものは、それほど長くなかったはずだった。
しかし一つ判断を誤れば勝家の部隊が城壁の下で大きな損害を受けていたかもしれないと思うと、戦が終わった今になって手のひらに汗をかいていることに気づいた。
「若様」
弥兵衛が隣から声をかけた。
「はい」
「勝家様はご無事のようでございます」
「よかったです。本当に」
景継は東門へ目を向けた。
山内重政。
思っていた以上に厄介な相手だった。
もし岩倉にああいう男が何人も残っているのであれば、城を力で落とすにはかなりの犠牲が必要になる。
「景継」
信長が呼んだ。
「はい」
「山内を城へ戻したのには、死兵にしないこと以外にも理由があるのだろう」
景継は少し驚いて信長を見たが、すぐに頷いた。
「あります」
「言ってみろ」
景継は東門を見た。
「今日、北門から出た人たちは、清洲へ降れば殺されないことを自分で知りました。でも、それを知っているのは逃げた人たちだけです」
信長は何も言わず、続きを待った。
「でも山内殿たちは違います。あの人たちは清洲と実際に戦って、その後で東門へ戻った。それなのに私たちは追わなかった」
景継は城壁の上にいる岩倉兵へ視線を移した。
「城へ戻った山内殿たちが、清洲は逃げる兵を必要以上に追わなかったと話せば、今まで清洲を信用できなかった人たちにも届くかもしれません」
信長の視線が岩倉城へ移った。
「敵将の口から、こちらが約束を守ると伝えさせるわけか」
「山内殿がどう受け取ったかまでは分かりません。ただ、少なくとも清洲軍が退路を完全に塞がなかったことは、本人が見ています」
信長はしばらく黙って岩倉城を眺めていた。
やがて、その視線が北門へ移る。
「ならば、ここからは城の中がどう動くかを見る」
「はい。今日中という期限も伝えていますから、山内殿たちが戻ったことで迷っていた人がどう判断するのか、それを見てから次を決めても遅くありません」
信長は静かに頷いた。
清洲軍は勝った勢いのまま城へ殺到することなく、その場で陣を整え直した。
戦場にはまだ負傷者の声が響いていたが、岩倉城へ向かって新たな攻撃命令が出されることはなかった。
◇◇◇
東門が閉じられた後、山内重政は疲れ切った兵たちとともに城内へ戻った。
怪我をした者もいれば、仲間を失った者もいる。
それでも二百の兵は完全に崩れることなく戻ってきたため、城内で待っていた者たちは次々と山内の周囲へ集まってきた。
「山内様、清洲勢はいかがでしたか」
「勝家を押し返したというのは本当ですか」
「まだ戦えますか」
いくつもの声が飛ぶ。
山内は馬から降りると、すぐには何も答えなかった。
自分たちは確かに柴田勝家の兵を一度は押し返した。
城壁からの援護を利用し、清洲側に損害も与えた。
だが、それだけをもって勝ったとは到底言えない。
何より山内自身には、最後に清洲軍が見せた動きが引っかかっていた。
「山内様」
一人の家臣が改めて尋ねた。
「清洲に勝てますか」
周囲が静かになった。
山内は答えを急がなかった。
ここで勝てると言えば、残る者は増えるかもしれない。
清洲など恐れる必要はない。
城に籠もって戦えば追い返せる。
そう言えば、少なくとも今日一日は兵たちを安心させることができるだろう。
しかし山内は、戦場で見たものを知っている。
柴田勝家だけではない。
勝家を囮にするでもなく見捨てるでもなく、危険を察知した瞬間に別働隊を回し、自分たちが城へ戻る道だけを残した者が清洲側にいる。
力だけで押してくる相手ではない。
「分からん」
山内はようやく答えた。
周囲から小さなどよめきが起こった。
「清洲は強い。こちらより兵も多く、柴田勝家のような武将もいる。今日のように城壁を使えば戦えるが、外で正面からぶつかり続ければ、いずれこちらが持たなくなる」
誰も口を挟まなかった。
山内はそこで言葉を止め、閉ざされた東門を振り返った。
「ただし、今日の戦で一つ分かったことがある」
家臣たちが山内を見る。
「清洲勢は、俺たちが退き始めた時、東門への道を完全には塞がなかった。その気になれば塞げたはずだが、わざと道を残し、こちらが城へ戻り始めると追撃も止めた」
「それは……」
誰かが口を開きかけたが、山内は静かに続けた。
「北門から出た者には手を出さぬという話も、おそらく嘘ではない」
その言葉が落ちた瞬間、周囲の空気が変わった。
清洲から来た使者が同じことを言っても、敵の言葉だから信用できないと考える者は多い。
しかし今それを言ったのは、清洲と実際に戦い、自分の兵を連れて戻ってきた山内重政だった。
「では、清洲へ降っても……」
一人が呟いた。
山内はその男を見た。
「命まで取られる可能性は、俺が思っていたより低いのかもしれん」
それ以上は言わなかった。
降れとも、残れとも言わない。
だが、その言葉だけで十分だった。
北門から出れば助かるかもしれないという噂が、初めて敵の言葉ではなく、岩倉側の武将自身の口から裏付けられた。
そして、その話は山内の周囲にいた者だけでは終わらなかった。
戦から戻った兵たちを通じて、少しずつ城内の別の場所へも広がっていった。
◇◇◇
夕方になると、北門から出る者の数が再び増え始めた。
最初は兵が数人ずつ出ていただけだったが、やがて一人の家臣が妻子を連れて門を出ると、その姿を見た別の家臣も家族とともに続いた。
昨日までなら、それを見つけた者が信賢へ報告し、兵を差し向けて止めようとしたかもしれない。
しかし今は違う。
北門を守る兵自身が、門から出ていく者を見ながら迷っている。
ここで他人を捕らえれば、自分は岩倉に残って最後まで戦うと決めなければならない。
その覚悟を持てない者が増えたことで、信賢の命令は城内の隅々まで届かなくなり始めていた。
評定の間では、信賢が次々と入ってくる報告を聞いていた。
「また出たのか」
「はい」
「何人だ」
報告に来た家臣が一瞬言葉を詰まらせた。
「今日だけで百を超えております。兵だけではなく、家臣やその家族も含まれておりますので、正確な数はまだ……」
信賢は何も言わなかった。
机の上に置いた拳だけが、強く握られている。
城はまだある。
兵もまだ残っている。
山内も戻ってきた。
今日の戦では清洲兵にも損害を与えた。
ならば、まだ戦えるはずだった。
それなのに、城壁を破られたわけでもないのに、人だけが少しずついなくなっていく。
「すべての門を閉じろ」
信賢が低い声で命じた。
しかし、目の前にいた家臣はすぐには返事をしなかった。
信賢がゆっくり顔を上げる。
「聞こえなかったのか」
家臣はしばらく俯いたまま立っていたが、やがて覚悟を決めたように顔を上げた。
「信賢様。門を閉じれば、人を城内に残すことはできるかもしれませぬ」
「ならば閉じろ」
「ですが、それで残るのは、岩倉のために戦うと決めた者ではございませぬ。ただ外へ出られなくなった者たちにございます」
信賢の表情が固まった。
家臣は緊張したまま、それでも言葉を続けた。
「今の兵たちを無理に閉じ込めれば、清洲と戦う前に城内で何が起こるか分かりませぬ」
評定の間が静まり返った。
信賢は目の前の家臣を怒鳴りつけようとしたが、言葉が出てこなかった。
なぜなら、その可能性を自分自身も考えてしまったからだった。
城門を閉ざすことはできる。
見張りを増やすこともできる。
逃げようとした者を捕らえることさえできるだろう。
しかし、それをすればするほど、城内に残った者たちは自分が敵に囲まれているのか、味方に閉じ込められているのか分からなくなる。
岩倉城は、まだ落ちていない。
清洲兵は城壁を一度も越えておらず、信賢も山内も健在だった。
それでも、城を守るはずの人間たちの心だけが、城壁より先に崩れ始めている。
◇◇◇
日が傾き始めた頃、景継は清洲軍の陣から岩倉城を眺めていた。
北門から出てくる人の列は、昼よりも明らかに長くなっている。
兵だけではない。
荷物を背負った女や、親に手を引かれた子どもの姿まで見える。
城を攻めていないにもかかわらず、人が自分から外へ出てくる。
景継はその光景を見ながら、初陣の時に自分が考えていた「敵を倒す」という言葉の意味が、少しずつ変わってきていることを感じていた。
敵兵を何人討ったかだけでは、戦の勝敗は決まらない。
城壁を越えなくても、そこを守る者がいなくなれば城は落ちる。
反対に、どれほど兵を討っても、生き残った者が最後まで戦うと決めてしまえば、戦はいつまでも終わらない。
「信長様」
景継が岩倉城を見たまま口を開いた。
「明日、いきなり城を攻める必要はないかもしれません」
信長も同じ城を見ていた。
「今日だけで、かなり出たからか」
「それもあります。でも、このまま一晩待てば、城の中でもっと大きな動きが起こる気がします」
「根拠は」
景継は少し考えた。
「今日までは、逃げるか残るかを一人ずつ考えていました。でも山内殿が戻ったことで、清洲が本当に降った人を殺さないらしいという話が城内に広がれば、明日からは家単位で動く人が出てくるかもしれません」
一人の兵が逃げるのと、一つの家が清洲へ降るのでは意味が違う。
家臣が家族や郎党をまとめて岩倉を離れれば、その下にいる兵も一緒に動く。
そうなれば、城内から失われる人数は一気に増える。
信長はしばらく考えた後、岩倉城から視線を外さずに言った。
「夜まで待つ」
景継が信長を見る。
「攻めないんですか」
「お前が待てと言ったのだろう」
「そうですけど、信長様なら途中で我慢できなくなるかと思ってました」
信長はその言葉には答えず、北門から出てくる人々を見た。
「ただし、夜が明けても岩倉が動かなければ、次はこちらから動く」
景継も静かに頷いた。
「分かりました」
城壁はまだ立っている。
東門も閉じられている。
岩倉の旗も、夕暮れの風の中で変わらず揺れていた。
見た目だけなら、岩倉城は朝と何も変わっていない。
しかし、その内側では清洲軍が城壁を攻めるよりも早く、人々が自分の意思で岩倉を離れ始めている。
景継はその城を見つめながら、次に崩れるものが城壁なのか、それとも岩倉を支えてきた家臣たちなのかを考えていた。
そして、その答えが出るまでに、それほど長い時間はかからないような気がしていた。




