第五十一話 岩倉、落つ
夜が明けるより少し前、岩倉城の北門が再び開いた。
最初に外へ出てきたのは十人ほどの兵だったが、その後ろには女や子ども、荷物を背負った老人まで続いており、さらに少し離れたところからは武具を外した男たちがまとまって歩いてくる。
昨日までのように、一人、二人と様子を窺いながら逃げてくるのとは明らかに違っていた。
城を離れることを決めた一つの家が、郎党や家族まで連れて出てきたのだ。
清洲側の見張りはすぐに本陣へ知らせを走らせた。
まだ薄暗い陣の中で報告を受けた景継は、眠気の残る顔を上げると、その内容をもう一度確認した。
「家臣が一人、家族と郎党を連ろ出てきたんですね?」
「はい。さらに北門の内側には、まだ出ようとしている者がいるように見えます」
景継は立ち上がり、羽織を整えながら陣の外へ出た。
夜の冷たい空気が頬に触れる。
遠くに見える岩倉城は、昨日までと何も変わっていないように見えた。
城壁が崩れたわけではない。
門が破られたわけでもない。
岩倉の旗も、薄明るくなり始めた空の下でまだ揺れている。
それでも、その北門からは確実に人が出ていた。
「始まりましたか」
後ろから声がして、景継が振り向く。
長秀だった。
「多分」
「多分?」
「まだ一つの家が出ただけですから。でも昨日までとは違います」
長秀も北門へ目を向けた。
景継が昨日予想していた通り、一人の兵が逃げる段階から、家そのものが岩倉を離れる段階へ変わり始めている。
一つの家が動けば、そこに仕えている者も動く。
その家と縁のある者も、自分はどうするのかを考え始める。
景継はそれ以上説明する必要を感じなかった。
ここまで来れば、もう策を語る段階ではない。
実際に岩倉の中で何が起きるのかを見ればいい。
「信長様は?」
「すでに起きておられる。おそらく、お前より早かったぞ」
「昨日あれだけ戦ったのに元気ですね」
「お前も人のことは言えんだろう」
長秀にそう返され、景継は小さく笑った。
二人が本陣へ戻ろうとした、その時だった。
北門の方から、さらに大きなざわめきが聞こえてきた。
景継が足を止める。
先ほどよりも多い。
二十人。
三十人。
いや、それ以上いる。
武器を持たない兵たちがまとまって北門から姿を現し、その後ろから家族らしき者たちも続いていた。
「……思ったより早いですね」
景継が呟いた。
長秀はしばらくその光景を見た後、静かに答えた。
「昨日の戦が効いたのだろう」
景継も同じことを考えていた。
山内重政は、岩倉がまだ戦えることを示すために城外へ出た。
実際、柴田勝家の兵を一度は押し返し、清洲側にも損害を与えた。
それでも山内は勝てなかった。
そして何より、城へ戻った山内自身が、清洲は降る者を皆殺しにするつもりではないと認めた。
それが最後の一押しになったのだろう。
「今日は長くなりそうですね」
景継はそう言って、本陣へ向かった。
◇◇◇
岩倉城内では、夜が明ける前から怒号が飛び交っていた。
「北門を閉じろ!」
信賢の命令を受けた兵が走る。
しかし、その兵が北門へ到着した時には、すでに数十人が門の前へ集まっていた。
「どけ!」
門を守る兵が叫ぶ。
「信賢様の命だ! 門を閉じる!」
だが、誰も動かなかった。
「聞こえぬのか!」
「聞こえている」
群衆の中から一人の男が前へ出た。
岩倉に長く仕えてきた家臣だった。
「ならば、どけ!」
「嫌だ」
門を守る兵の顔が強張った。
「何?」
「俺は出る。家族も連れていく」
「それは許されぬ!」
「誰が許さぬ」
「信賢様だ!」
男はしばらく黙った後、門を守る兵をまっすぐ見た。
「ならば聞くが、お前はここに残るのか」
「何を言っている」
「清洲が攻めてきても、最後までここで戦うのか。家族も城に残して、信賢様のために死ぬのかと聞いている」
門を守る兵は答えられなかった。
その沈黙を見て、周囲の者たちの空気が変わった。
誰もが同じことを考えていた。
昨日までなら、こんな問いを口にすることすらできなかった。
だが今は違う。
すでに何百人もの者が城を離れ、清洲側へ渡っている。
その誰も殺されていない。
昨日、清洲と実際に戦った山内重政まで、その事実を否定しなかった。
「俺は戦いたくない」
誰かが言った。
「俺もだ」
別の声が続く。
「信長に仕えたいわけじゃない。ただ、ここで死にたくない」
門を守っていた兵たちが互いを見る。
命令は受けている。
門を閉じなければならない。
しかし、その門を閉じるためには、目の前にいる者たちへ槍を向けなければならない。
昨日まで同じ城を守っていた仲間に。
一人の兵が、ゆっくり槍を下ろした。
それを見た別の兵も槍を下ろす。
やがて北門を守っていた兵たちは、誰も門を閉じようとしなくなった。
「行け」
最初に槍を下ろした兵が言った。
家臣が驚いたように見る。
「いいのか」
兵は答えなかった。
代わりに、自分の兜を脱いだ。
「俺も行く」
その一言を境に、北門の前に集まっていた者たちが一斉に動き始めた。
◇◇◇
「北門の守備兵まで出た?」
報告を受けた信長が聞き返した。
「はっ。門を閉じるよう命じられた兵の一部が、そのまま城外へ出たとのことにございます」
本陣には信長、勝家、長秀、信盛、そして景継が集まっていた。
勝家が腕を組む。
「ならば今すぐ攻めればよい。北門が開いているなら、そこから入れる」
信盛も地図を見る。
「確かに、これ以上待つ必要はないように思えます」
景継はすぐには口を開かなかった。
北門が開いている。
守備兵も逃げ始めている。
普通に考えれば、今が絶好の攻め時だった。
しかし景継には、一つだけ気になることがあった。
「山内殿は?」
信長が景継を見る。
「山内?」
「昨日戦った山内重政殿です。あの人がまだ動いていません」
勝家が眉を寄せた。
「だから何だ。あの男一人で何ができる」
「二百人をまとめて城の外へ出せた人です。今の岩倉で、まだ兵をまとめられる数少ない人だと思います」
景継は地図上の岩倉城を見た。
北門が崩れている。
ならば山内が本気で城を守るつもりなら、必ずそこへ兵を送るはずだった。
だが、まだその動きがない。
「少しだけ待ちたいです」
勝家が景継を見る。
「まだ待つのか」
「長くは待ちません。山内殿が何をするのか、それだけ確認したいんです」
信長は景継へ理由を尋ねなかった。
代わりに伝令へ命じる。
「北門を見張れ。ただし、こちらからはまだ入るな。城から出る者は今まで通り受け入れろ」
「はっ!」
伝令が走る。
勝家は不満そうだったが、それ以上は何も言わなかった。
そして、その答えは思っていたより早く現れた。
◇◇◇
山内重政は、北門へ向かっていなかった。
向かったのは、信賢のいる評定の間だった。
「信賢様」
山内が入ると、信賢は険しい顔で振り向いた。
「何をしている!」
「何がでございましょう」
「北門だ! 守備兵まで逃げたと聞いたぞ! お前の兵を出して門を閉じろ!」
山内は動かなかった。
「山内!」
「閉じて、どうなさるおつもりです」
信賢の顔が歪む。
「何?」
「門を閉じれば、城内に人を残すことはできます。しかし、その者たちが我らと共に戦うとは限りませぬ」
「戦わせればよい!」
「誰と戦わせるのでございます」
「清洲に決まっておろう!」
山内は首を横に振った。
「今、北門を閉じようとすれば、まず戦う相手は清洲ではなく、城から出ようとしている我らの兵になります」
信賢が黙った。
山内は昨日の戦で負傷した左腕を押さえながら、静かに続けた。
「昨日、某は清洲勢と戦いました。柴田勝家の兵を一度は押し返しましたが、それでも勝てませなんだ。清洲は我らより兵が多く、城を囲む余力もございます」
「だから降れと言うのか」
「いいえ」
山内は信賢を見た。
「終わらせるべきだと申し上げております」
「同じことだ!」
信賢の怒声が部屋に響いた。
だが山内は動かなかった。
「同じではございませぬ。今なら、まだ岩倉の家を残せる可能性があります。しかし、このまま城内の者を無理に戦わせれば、最後に残るのは城と死体だけになります」
信賢は立ち上がった。
「貴様まで俺を裏切るのか」
山内の目がわずかに揺れた。
「某は、裏切るつもりでここへ来たのではございませぬ」
「ならば兵を出せ!」
「出せませぬ」
信賢の手が刀へ伸びた。
部屋にいた家臣たちが息を呑む。
山内は刀へ手を伸ばさなかった。
「某を斬ればよろしい」
「……何?」
「それで城内の者が再び信賢様のために戦うのであれば、某一人の首など安いものでございます」
信賢の手が止まった。
山内はさらに続ける。
「ですが、某を斬っても北門から出た者は戻りませぬ。森川も、堀田も戻りませぬ。昨日まで信賢様に従っていた兵たちの心も戻りませぬ」
「黙れ」
「清洲に奪われたのではございませぬ」
「黙れ!」
「我らが、自分で失ったのでございます」
信賢が刀を抜いた。
しかし山内は一歩も動かなかった。
二人の間に、長い沈黙が流れた。
やがて信賢の刀が、ほんのわずかに下がった。
その時だった。
廊下から慌ただしい足音が聞こえ、一人の兵が転がり込むように部屋へ入ってきた。
「申し上げます!」
信賢が振り向く。
「今度は何だ!」
「西の曲輪を守っていた兵が、持ち場を離れました!」
「何だと!」
「さらに南側でも、一部の家臣が兵を引き上げております!」
信賢の顔から怒りが消えた。
代わりに浮かんだのは、初めて見せる戸惑いだった。
「なぜだ」
誰も答えない。
信賢がもう一度聞く。
「なぜ、誰も俺の命令を聞かぬ」
山内は、その問いには答えなかった。
もう答える必要がなかった。
◇◇◇
清洲側の本陣へ、次々と報告が入ってきた。
「西側の城壁から岩倉兵が消えました!」
「南側でも旗が下ろされております!」
「北門、依然として開いたまま!」
勝家が立ち上がった。
「もうよかろう」
今度は景継も止めなかった。
信長が景継を見る。
「どう見る」
景継は岩倉城を見た。
昨日まで城壁の上に並んでいた兵が、明らかに減っている。
北門は開いている。
西の旗も下りた。
そして何より、清洲軍が目の前にいるにもかかわらず、岩倉側から新しい攻撃が一つもない。
「もう、軍として動けていません」
景継が答えた。
信長が立ち上がる。
その瞬間、本陣の空気が変わった。
「全軍、進め」
大声ではなかった。
だが、その一言を待っていた者たちが一斉に動き始めた。
勝家が最初に馬へ乗る。
信盛も自分の兵へ戻る。
長秀は各隊へ命令を伝えるため、すぐに伝令を走らせた。
景継も馬へ乗ろうとしたが、その直前に信長から声をかけられた。
「景継」
「はい」
「今日は俺のそばにいろ」
景継は少しだけ驚いた。
「前へ行かなくていいんですか」
「もう策を考える戦ではない」
信長は岩倉城を見た。
「終わらせる」
景継は一度だけ城を見てから、静かに頷いた。
「分かりました」
◇◇◇
清洲軍が岩倉城へ向かって動き始めても、城壁から矢が降ってくることはなかった。
最初に北門へ到着した兵たちは、あまりにも抵抗がないことを逆に警戒し、盾を構えながら慎重に門をくぐった。
しかし、その先にも敵はいない。
地面には捨てられた槍があり、兜があり、急いで脱ぎ捨てたと思われる具足まで転がっていた。
「進め!」
勝家の声が響く。
清洲兵が城内へ入っていく。
それでも戦は始まらなかった。
一部では武器を持った岩倉兵と清洲兵が向き合ったが、岩倉側の兵は槍を構えたまま動かず、やがて一人がゆっくりと武器を地面へ置いた。
それを見た隣の兵も槍を置く。
さらに、その隣も続く。
「降る者には手を出すな!」
清洲側から声が飛ぶ。
昨日まで何度も伝えられてきた約束が、今度は城の中で実行された。
武器を捨てた岩倉兵の横を、清洲兵が通り過ぎていく。
景継は信長の少し後ろを進みながら、その光景を見ていた。
もっと激しい戦になると思っていた。
岩倉城を取る時には、門を破り、城壁を越え、何人もの兵が死ぬのだと思っていた。
だが実際には、門は内側から開き、兵は自分から武器を置いている。
城を落とすというのは、必ずしも城壁を壊すことではない。
そのことを景継は、目の前の光景から改めて理解していた。
◇◇◇
城の中央へ近づいたところで、一団の岩倉兵が道を塞いでいた。
勝家が槍を構える。
清洲兵も一斉に武器を向けた。
しかし、その中央から一人の男が歩いてきた。
山内重政だった。
昨日の戦で着ていた甲冑を身につけているが、手に槍は持っていない。
腰には刀がある。
山内は清洲軍の前まで来ると、自分でその刀を抜いた。
勝家の表情が険しくなる。
だが山内は刀を構えなかった。
鞘とともに両手で持つと、その場へ静かに置いた。
そして信長の前で膝をついた。
「織田信長殿とお見受けいたす」
「そうだ」
「山内重政にございます」
信長は馬上から山内を見下ろした。
「昨日は随分とやってくれたな」
「戦でございましたゆえ」
「今日は戦わぬのか」
山内は少しだけ間を置いた。
「某一人ならば、まだ戦えましょう。しかし兵にまで死ねとは申せませぬ」
信長は何も言わなかった。
「信賢様は」
山内が続ける。
「まだ奥におられます」
「降ったのか」
「いいえ」
山内の表情がわずかに曇った。
「ですが、もう信賢様の命で動く兵はほとんど残っておりませぬ」
信長は馬を進めようとした。
その時、山内がもう一度頭を下げた。
「一つ、お願いがございます」
信長が止まる。
「言え」
「城内に残る者の命を、お助けいただきたい」
「武器を置くなら殺さん」
信長は即座に答えた。
山内が顔を上げる。
信長はそれ以上何も言わず、馬を進めた。
景継は山内の横を通り過ぎる時、一瞬だけ彼を見た。
昨日、あれほど強かった男が膝をついている。
だが景継には、それが弱さには見えなかった。
最後まで戦って死ぬことだけが、武将の役目ではない。
自分に従った者を生きて帰すこともまた、将の役目なのかもしれない。
景継は何も言わず、信長の後を追った。
◇◇◇
信賢は、評定の間に一人で座っていた。
清洲兵が城内へ入ったという報告も聞いた。
山内が武器を置いたことも聞いた。
それでも逃げなかった。
やがて廊下から足音が近づき、襖が開く。
最初に入ってきたのは信長だった。
その後ろに勝家、長秀、信盛が続き、少し離れて景継も部屋へ入った。
信賢は信長を見た。
「……来たか」
「ああ」
信長は信賢の前まで歩いた。
二人の間には、しばらく何の言葉もなかった。
同じ織田。
同じ尾張。
それでも長い間、清洲と岩倉に分かれて争ってきた。
信賢が先に口を開いた。
「いつからだ」
信長が眉を動かす。
「何がだ」
「いつから、俺の家臣を奪っていた」
信長は答えず、少しだけ後ろを見た。
その視線が景継へ向いた。
信賢も初めて景継を見た。
「……その子供か」
景継は黙っていた。
「森川も、堀田も、あの噂も……全部その子供がやったのか」
信長が答える。
「全部ではない」
「ならば、どこまでだ」
「知ってどうする」
信賢は言葉を失った。
確かに、もう知ったところで何も変わらない。
信賢は景継をしばらく見つめた後、乾いた笑いを漏らした。
「俺は、子供に負けたのか」
景継はそこで初めて口を開いた。
「違います」
信賢の目が景継へ向く。
「私一人では、岩倉城を落とせません」
「慰めるつもりか」
「そうではありません」
景継は静かに答えた。
「私は少し考えただけです。実際に離れると決めたのは岩倉の人たちですし、戦ったのは清洲の兵です。そして最後にここへ来ると決めたのは、信長様です」
信賢は黙って聞いていた。
「だから、誰か一人に負けたわけではないと思います」
景継はそこで言葉を止めた。
それ以上は言わなかった。
信賢が何を思うのかは、信賢自身のものだからだ。
やがて信長が口を開いた。
「信賢」
「……何だ」
「終わりだ」
その言葉だけで十分だった。
信賢は長い間、何も言わなかった。
やがて腰の刀を外すと、自分の前へ置いた。
「好きにしろ」
信長は刀を見た後、信賢を見る。
「城は俺が取る」
「ああ」
「兵も解く」
「好きにしろ」
「お前の処遇は後で決める」
信賢は少し意外そうに信長を見た。
すぐに首を刎ねられると思っていたのかもしれない。
だが信長は、それ以上何も言わなかった。
岩倉城を取ること。
岩倉方の兵を解くこと。
今必要なのはそれだけだった。
◇◇◇
その日の夕方、岩倉城の上から岩倉方の旗が下ろされた。
代わりに清洲方の旗が上がる。
城の外にいた兵たちから声が上がった。
勝鬨は次々と広がり、やがて城の内外を包むほど大きくなった。
景継は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
初めてこの城の名前を聞いた時。
岩倉は、清洲と尾張を二つに分ける大きな敵だった。
兵がいる。
城がある。
国人がいる。
そして信賢がいる。
それを力だけで倒そうとすれば、もっと多くの血が流れていたかもしれない。
だが、実際には違った。
森川が離れた。
堀田が動いた。
周囲の国人たちが清洲へ傾いた。
信賢が家臣を疑った。
初陣で岩倉軍を退けた。
北門から人が出た。
山内重政が戦い、そして戻った。
その一つ一つは、それだけで岩倉を滅ぼすほど大きな出来事ではなかった。
しかし、小さな変化が重なり続けた結果、最後には城壁を壊さなくても岩倉城は落ちた。
「終わりましたな」
弥兵衛が隣へ来た。
景継は城を見ながら答える。
「岩倉は」
「岩倉は?」
景継は少し考えた。
「尾張全部が終わったわけじゃないでしょう」
弥兵衛が景継を見る。
景継自身、まだ尾張のすべてを知っているわけではない。
南東には今川の影響が残る場所もある。
そして何より、織田家の中にはまだ一つ、信長が自分自身で決着をつけなければならない問題が残されていた。
信長の弟。
織田信勝。
岩倉が消えた今、信勝を担いで信長に対抗しようとする勢力は、以前とは比べものにならないほど弱くなった。
だからこそ、もう曖昧なままにはしておけない。
「景継」
後ろから信長の声がした。
景継が振り返る。
「はい」
信長は岩倉城の上に掲げられた自軍の旗を見ていた。
その表情に、勝った直後の高揚はほとんどなかった。
「清洲へ戻るぞ」
「もうですか?」
「ここでやることは長秀たちに任せる」
景継は信長の横顔を見た。
何かを考えている。
「まだ何かあるんですね」
信長はすぐには答えなかった。
しばらくして、ようやく口を開く。
「岩倉は終わった」
「はい」
「ならば、次に残っているものを終わらせる」
景継はその言葉で理解した。
「……信勝様ですか」
信長は否定しなかった。
ただ、その名前を聞いた瞬間、先ほどまでとは少し違う表情になった。
岩倉の信賢は敵だった。
しかし信勝は違う。
同じ父を持つ弟であり、一度は自分と織田家を二つに割って争った男でもある。
景継は何も言わなかった。
これは岩倉攻略とは違う。
噂を流し、人を離反させ、敵の内部を崩せば終わる話ではない。
信長自身が決めなければならないことだった。
信長は岩倉城から視線を外すと、そのまま歩き始めた。
景継も少し遅れて後を追った。
その背後では、清洲方の旗が夕暮れの風を受けて大きく揺れている。
長く尾張を二つに割ってきた岩倉との争いは、この日をもって終わった。
信長の前に立ちはだかっていた大きな勢力の一つが消え、尾張の大勢は、もはや誰の目にも明らかなほど清洲へ傾いている。
それでも、信長はまだ勝鬨の中に留まろうとはしなかった。
岩倉を落としたその日のうちに、すでに次の決着へ向かおうとしている。
景継はその背中を追いながら、これまでとは違う種類の緊張を感じていた。
次に向き合う相手は、城の向こうにいる敵ではない。
信長と同じ織田の血を引く弟。
織田信勝。
尾張を一つにするために最後まで残されていた、織田家そのものの問題だった。




