第五十二話 兄弟の決着
岩倉城が落ちた翌日、清洲城へ戻った信長は、勝利を祝う宴を開こうとはしなかった。
岩倉方から没収した武具や兵糧の確認、降伏した家臣たちの処遇、周辺の国人たちへの使者、そして岩倉城そのものを今後どう扱うのかなど、片づけなければならない問題はいくらでも残っていたが、その大半を長秀や信盛に任せると、信長は朝から評定の間に籠もっていた。
景継が呼ばれたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
部屋へ入ると、信長は一人で尾張の地図を眺めており、昨日まで岩倉城の位置に置かれていた敵方の駒はすでに取り除かれていた。
大きな敵が一つ消えた。
それでも信長の表情には、戦に勝った者の晴れやかさはほとんどない。
景継は向かいへ座ると、信長が口を開くより先に尋ねた。
「信勝様のことですか」
「ああ」
信長は短く答え、ようやく地図から目を離した。
「どうするべきだと思う」
景継はすぐには答えなかった。
岩倉から清洲へ戻る道中でも、ずっと考えていた。
信勝は一度、信長に兵を向けている。
兄弟仲が悪いという程度の話ではなく、織田家の家督を巡って実際に争い、その結果として尾張を二つに割りかねないところまで進んだ相手だった。
一度許したとしても、信長に不満を持つ者がいる限り、再び信勝を担ぎ上げようとする者が現れないとは言い切れない。
その危険を完全になくす方法なら、景継にも分かっている。
殺すことだ。
信勝が死ねば、少なくとも本人を織田家の当主として担ぎ上げ、信長へ対抗することはできなくなる。
景継の中に残る司馬懿の記憶を辿っても、権力を争う可能性のある相手を残すことが、後にどれほど大きな災いを招くのかを示す出来事はいくらでもあった。
だからこそ景継は、安易に助けるべきだとは考えていなかった。
「一番簡単なのは、信勝様を殺すことだと思います」
信長の目がわずかに細くなった。
「お前からその言葉が出るとは思わなかったな」
「私だって、それくらいは考えますよ」
「なら、殺すか」
景継は首を横に振った。
「いいえ。今はその必要がないと思います」
「なぜだ」
景継は地図へ目を落とし、昨日まで岩倉の駒が置かれていた場所を指した。
「岩倉がなくなったからです」
信長は何も言わず、その続きを待った。
「以前の信勝様が危険だったのは、信勝様本人が強かったからだけではありません。信長様に不満を持つ人たちが、信勝様をもう一人の織田家の主として担ぐことができたからです」
だが、今は状況が大きく変わっている。
岩倉は落ちた。
信賢も敗れた。
清洲と距離を取っていた国人たちも、次々と信長へ接近し始めている。
この状況で信勝が再び兵を挙げようとしても、以前ほど多くの者が集まるとは考えにくい。
「今の信勝様に、もう一度信長様と本気で争えるだけの力がありますか」
「ない」
信長は迷わず答えた。
「なら、殺して旗そのものを消すより、その旗を信長様の下へ置いてしまった方が得だと思います」
「俺の下へ?」
「信勝様自身に、信長様を織田家の主だと認めてもらいます」
景継はそこで一度言葉を切り、信長の反応を確かめてから続けた。
「今後は信長様の許しなく兵を動かさない。信長様に逆らう者を受け入れない。そして、信勝様を支持していた家臣たちにも、これから従うべき相手が誰なのかをはっきりさせてもらう。その代わり、信勝様の命も家も奪わない」
「それで終わると思うか」
「絶対に終わるとは言えません」
景継は正直に答えた。
「でも、もしその後に信勝様がもう一度兵を挙げたら、その時は誰かに担がれたのではなく、自分から信長様の敵になることを選んだことになります。その時は、今とは違う判断をすればいいと思います」
信長は黙った。
景継もそれ以上は何も言わなかった。
信勝とは以前から話をしてきた。
決して嫌いな相手ではないし、できることなら死んでほしいとも思わない。
だからといって、その感情だけで信長に助命を勧めるつもりもなかった。
これは織田家の問題であり、これから尾張をまとめていくための政治でもある。
最後に決めるのは、信長自身でなければならない。
しばらくして、信長が立ち上がった。
「信勝を呼べ」
「今日ですか?」
「ああ」
信長は迷いなく答えた。
「岩倉を終わらせたばかりだ。今なら、あいつも自分が置かれている立場くらい分かるだろう」
景継も立ち上がる。
信長は地図を畳みながら、静かに言った。
「今日で終わらせる」
◇◇◇
信勝が清洲城へ入ったのは、その日の夕方だった。
供として連れてきた者はわずか数人で、かつて信長と織田家の家督を争った頃の勢いは、もはやどこにも残っていない。
それでも景継は、信勝が評定の間へ入ってきた時、以前と変わらない姿に少しだけ安心した。
信勝もすぐに景継へ気づいた。
二人の視線が合う。
信勝はわずかに口元を緩めた。
「景継もいたか」
「いますよ」
「お前のことだから、いるとは思っていた」
その言葉に、以前から何度も言葉を交わしてきた二人らしい気安さがあった。
だが今日は、いつものように長く話せる場ではない。
景継もそれを分かっていたため、それ以上は何も言わなかった。
信勝もすぐに表情を戻し、上座に座る兄へ向き直った。
「兄上」
「ああ」
「岩倉を落とされたそうですな」
「昨日な」
「信賢殿は?」
「生きている」
信勝は少し驚いたようだったが、それ以上は聞かなかった。
信長も岩倉について話を続けようとはせず、しばらく弟の顔を見た後、本題へ入った。
「なぜ呼ばれたか、分かっているな」
信勝は少し黙った。
「おそらくは」
「なら話が早い」
信長は真っ直ぐ弟を見る。
「俺は、もうお前と争うつもりはない」
信勝の表情がわずかに変わった。
「それは、以前のことを水に流すという意味ですか」
「違う。一度俺に兵を向けたことも、お前を担いで俺を追い落とそうとした連中がいたことも忘れておらん」
信勝の顔からわずかに力が抜ける。
「ならば、某をどうなさるおつもりです」
「選べ」
信長は短く言った。
「俺に従うか、敵になるかだ」
部屋が静まり返った。
勝家も長秀も口を挟まない。
景継も黙って二人を見ていた。
信勝はしばらく兄を見つめた後、静かに尋ねた。
「従えば、どうなります」
「お前の命も家も取らん。領地についても、すべて取り上げるつもりはない」
信勝の目が動いた。
「ただし、今後は俺の許しなく兵を集めることも動かすことも認めん。お前の家臣も同じだ。俺に逆らう者を匿うことも許さん」
「つまり、兄上の家臣になれと」
「そうだ」
信長は一度も視線を逸らさなかった。
「弟であることは変わらん。だが尾張に主は二人いらぬ」
信勝は黙った。
景継はその横顔を見ながら、信勝にとって簡単な選択ではないことを理解していた。
命が助かるのだから頭を下げればいい、と外から言うのは簡単だ。
しかし信勝は、一度は自分こそ織田家を継ぐべきだと考え、そのために兄と戦った男である。
その兄を正式に主と認めるということは、自分自身の敗北を完全に受け入れることでもあった。
やがて信勝が景継へ顔を向けた。
「景継」
「はい」
「これは、お前の考えか?」
初めて会った相手に尋ねるような声ではなかった。
自分が知っている景継なら、どう考えたのか。
それを確かめるような問いだった。
景継は誤魔化さなかった。
「私から提案しました」
「やはりそうか」
信勝は小さく息を吐いた。
「岩倉が落ちたと聞いた時から、お前が何もしていないとは思っていなかったが、とうとう俺のところまで来たか」
「そんな言い方しないでくださいよ」
景継が少し困ったように答えると、信勝はほんのわずかに笑った。
その表情はすぐに消えた。
「お前は、俺を殺すべきだとは思わなかったのか」
今度は景継も真顔になった。
「考えました」
信勝が少し驚いた。
「考えたのか」
「もちろんです」
景継はそこで言葉を濁さなかった。
信勝と親しいからこそ、嘘をつきたくなかった。
「信勝様がいなくなれば、もう信勝様を担いで信長様に逆らうことはできません。だから一番簡単なのは、そうすることだと思いました」
「随分なことを本人の前で言うな」
「聞いたのは信勝様ですよ」
信勝は一瞬だけ言葉に詰まり、それから小さく息を吐いた。
「確かにな」
景継は続ける。
「でも、今は殺す必要がないと思っています」
「俺と親しいからか」
景継は首を横に振った。
「それだけで決めたら、信長様に怒られます」
「では、なぜだ」
「信勝様が生きたまま信長様に従った方が、殺すより役に立つからです」
信勝が景継を見た。
景継はその視線から逃げずに続ける。
「信勝様を支持していた人たちに、もう信長様と争う理由がなくなります。信勝様自身が信長様を主と認めるんですから、それでも逆らうなら、その人自身が信長様の敵になるだけです」
「俺を使うのか」
「そうなります」
「そこは否定しないのだな」
「嘘をついても仕方ないでしょう」
信勝はしばらく景継を見つめた。
やがて、その口元に少しだけ笑みが浮かんだ。
「相変わらずだな、景継」
その一言には、怒りよりも諦めに近いものが混じっていた。
景継も何も返さず、信勝を見る。
信勝が次に顔を向けたのは、兄だった。
「兄上」
「何だ」
「もし某が断れば、どうなさいます」
「敵として討つ」
信長は即座に答えた。
その言葉に迷いはなかった。
信勝も、それ以上は聞かなかった。
岩倉はもうない。
信長に対抗できるだけの兵もない。
周囲の国人たちも清洲へ傾いている。
今ここで拒めば、かつてのような兄弟の争いが再び始まるわけではない。
ただ信勝が、一人の敵として討たれるだけだ。
長い沈黙の後、信勝はゆっくりと両手を床についた。
そして兄に向かって頭を下げた。
「承知いたしました」
信長は黙っている。
「今より某は、兄上を織田家の主と認め、その命に従います。今後、兄上の許しなく兵を動かすこともいたしませぬ」
信勝が頭を下げたまま言葉を続ける。
「これまで某に従った者たちにも、その旨を伝えましょう」
刀は抜かれなかった。
血も流れなかった。
だが景継には、それが一つの戦が終わった瞬間のように思えた。
信長が口を開く。
「顔を上げろ」
信勝がゆっくりと顔を上げた。
「一度だけ、お前を信じる」
信勝は兄を見つめる。
「二度目はない。次に俺へ兵を向けた時は、弟とは思わん」
「心得ました」
信勝は静かに答えた。
それで、兄弟の長い争いには決着がついた。
◇◇◇
評定が終わり、信勝が清洲を離れる前。
景継は城門近くまで見送りに出ていた。
信勝は馬へ乗る前に、景継を振り返った。
「景継」
「はい」
「まさか、お前に命を残されるとは思わなかった」
「私が決めたわけじゃありませんよ」
「分かっている。それでも、お前が何も言わなければ、違う結果になっていたかもしれん」
景継は少し考えた。
「信勝様」
「何だ」
「もう、信長様と戦わないでくださいね」
信勝は一瞬だけ目を丸くした。
先ほどまで政治の損得を淡々と語っていた少年とは思えない言葉だったからかもしれない。
景継は続けた。
「次は多分、私も助ける理由を考えられませんから」
信勝は景継の顔をしばらく見た後、小さく笑った。
「分かった」
それだけ答えると馬へ乗った。
「ではな、景継」
「はい。また」
信勝は数人の供とともに清洲城を離れていった。
景継は、その姿が見えなくなるまで城門の前に立っていた。
これが正しかったのかどうかは、まだ分からない。
だが少なくとも今日、信勝は生きて清洲を出た。
そして信長の弟ではあっても、もう信長と織田家の主を争う存在ではなくなった。
それでいい。
景継はそう考えることにした。
◇◇◇
それからしばらくの間、尾張では大きな戦が起こらなかった。
岩倉城が落ちたという知らせは各地へ広がり、それまで清洲と距離を取っていた国人たちからも、次々と使者が訪れるようになった。
さらに信勝が正式に信長への臣従を認めたことで、尾張国内で信長に対抗するための旗は、ほとんど残されていなかった。
昨日まで態度を決めかねていた者たちも清洲へ頭を下げ、信長は従う意思を示した者をすべて排除することはせず、領地や兵の扱いを一つずつ整理しながら自らの支配へ組み込んでいった。
尾張のすべてが完全に信長のものになったわけではない。
南東には今川方の影響が残る地域もあり、鳴海や大高には依然として尾張の外から伸びてきた力が存在している。
それでも、尾張の内側で織田家の主が誰なのかを争う時代は、ようやく終わった。
景継も久しぶりに、自分の屋敷で落ち着いて朝を迎えられる日が増えた。
だが、その時間は長く続かなかった。
最初の知らせが三河方面から届いたのは、岩倉城が落ちてからしばらく後のことだった。
◇◇◇
「今川方の兵が増えている?」
清洲城の評定の間で、景継は報告書から顔を上げた。
信長を中心に、勝家、長秀、信盛らが集まっている。
「大高、鳴海周辺にございます」
報告に来た男が答えた。
「兵だけではございませぬ。三河方面の街道では兵糧を運ぶ荷駄も増えており、各地から兵が集められているとの話もございます」
景継はもう一度報告書へ目を落とした。
一つだけなら、いつもの動きとして片づけることもできる。
だが、似たような知らせが複数の場所から届き始めていた。
兵。
馬。
兵糧。
街道を移動する人間。
一つ一つは小さな変化でも、それらが同じ方向を向いている。
景継には、その意味が分かった。
「戦の準備ですね」
長秀が頷いた。
「おそらくな」
勝家が腕を組む。
「今川か」
その名前が出た瞬間、部屋の空気が少し変わった。
岩倉とは違う。
尾張の中で勢力を争ってきた相手ではない。
駿河、遠江を支配し、三河にも大きな力を及ぼす今川家。
その当主である今川義元が本気で尾張へ兵を向けるなら、これまで経験してきた戦とは規模そのものが違ってくる。
「数は分かりますか」
景継が尋ねる。
「まだ正確には。ただ、かなりの数になるのではないかと」
「義元本人は?」
「そこまでは掴めておりませぬ」
信長は黙って地図を見ていた。
景継も尾張の南東から三河、さらにその先へ視線を移していく。
岩倉を落とした。
信勝も従った。
ようやく尾張の中を一つにまとめることができる。
そう思ったところへ、今度は外から巨大な力が近づいている。
「景継」
信長が呼んだ。
「はい」
「どう見る」
景継は少し考えた。
「まだ分かりません」
勝家が景継を見る。
だが景継は続けた。
「岩倉の時は、信賢様がどういう人なのかも、家臣たちが何を考えているのかも少しずつ分かっていました。でも私は、今川義元という人をほとんど知りません」
知らない相手に策を立てても、それは策ではなく賭けになる。
司馬懿の記憶があるからといって、この時代の人間を何も調べずに理解できるわけではない。
「まず知りたいです」
「義元をか」
「はい。どんな人なのか。どうやって三河まで勢力を広げたのか。どんな家臣がいて、どういう戦い方をするのか。それが分からないと、何を狙っているのかも読めません」
信長は少しだけ口元を上げた。
「なら調べろ」
「分かりました」
景継が答えた、その時だった。
廊下の向こうから激しい足音が近づいてきた。
「申し上げます!」
信長が顔を上げる。
「入れ」
伝令が勢いよく部屋へ入り、その場で膝をついた。
かなり急いできたらしく、肩で大きく息をしている。
「三河より急報にございます!」
「言え」
「今川方、各地より大規模に兵を集めております。駿河、遠江からも軍勢が動き始めているとのこと!」
先ほどまでとは違う緊張が部屋を包んだ。
長秀がすぐに尋ねる。
「どれほどだ」
「正確な数はまだ掴めておりませぬ。ただ、これまでの動きとは明らかに規模が違うとの報告にございます」
景継は地図へ視線を落とした。
駿河。
遠江。
三河。
そして、その先に尾張がある。
岩倉との戦では、敵も自分たちも尾張の人間だった。
だが今度は違う。
国境の向こうから軍勢が押し寄せてくる。
「義元は」
信長が尋ねた。
伝令が一度息を整える。
「今川義元自ら出陣するとの話もございます」
誰もすぐには口を開かなかった。
景継は地図上の東海道を目で追いながら、自分の中に残る遠い記憶を探った。
大軍を相手にした戦。
圧倒的な兵力差。
勝てるはずのない相手との戦い。
司馬懿として生きた長い年月の中にも、似た状況はいくつも存在する。
だが、ここは三国ではない。
相手は蜀でも呉でもない。
そして自分も、かつての司馬懿その人ではない。
岩倉で成功したやり方を、そのまま今川へ使うことなどできない。
「信長様」
景継が地図を見たまま呼んだ。
「何だ」
「今までで、一番大きな戦になるかもしれませんね」
「ああ」
信長は即座に認めた。
それでも、その声に恐れはなかった。
景継は信長の横顔を見る。
岩倉を落とし、信勝を従わせ、ようやく尾張内部の争いに決着をつけた男は、もう次の敵を見ていた。
尾張の中で誰が主になるのかを決める戦は終わった。
これから始まるのは、その尾張そのものを守る戦だった。
東から迫るのは、今川義元。
駿河、遠江、三河にまたがる巨大な勢力を背負った大名が、自ら軍を率いて西へ向かおうとしている。
景継はまだ知らなかった。
その軍勢と織田軍がぶつかることになる場所の名を。
そして、その戦いが信長の名を天下へ知らしめることになることも。
ただ一つ分かるのは、これまでとは比べものにならない戦が近づいているということだけだった。
尾張の内側を巡る長い争いが終わり、新しい戦いの幕が上がろうとしていた。
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