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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第三章 乱世への一手

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第五十三話 大軍を見ない


今川義元が自ら軍を率いる。


その知らせが清洲へ届いてから、城内の空気が変わるまでに時間はかからなかった。


岩倉を落とし、信勝との争いにも決着がついたことで、ようやく尾張の内側が静まり始めたばかりだったが、その安堵を打ち消すように東から届く報告は日を追うごとに増えていった。


駿河で兵が集められている。


遠江からも軍勢が動いている。


三河では今川方の諸将が出陣の準備を進め、大高や鳴海へ運び込まれる兵糧も以前とは比較にならないほど増えている。


最初は断片的だった情報が、数日のうちに一つの大きな形を作り始めていた。


今川義元は、小競り合いをするために動いているのではない。


大軍を率いて尾張へ入り、信長そのものを潰すつもりなのだ。


◇◇◇


「二万を超えるかもしれん」


長秀の言葉に、評定の間が静まり返った。


正確な数はまだ分からない。


報告によって一万五千とも二万とも、それ以上とも言われており、どの数字が正しいのかを確かめることはできていなかった。


しかし、少なくとも清洲がこれまで相手にしてきた軍勢とは規模が違うことだけは間違いなかった。


景継は地図の前に座り、今川方の動きが書き込まれた紙を一枚ずつ確認していた。


信長、勝家、長秀、信盛らも揃っている。


「こちらは、どれだけ出せます?」


景継が尋ねる。


信盛が答えた。


「尾張中の兵をかき集めれば、かなりの数にはなる。だが、すべてを一か所へ集めるわけにはいかん。城も街道も守らねばならぬからな」


「実際にすぐ動かせる兵は?」


今度は長秀が答えた。


「数千と考えておいた方がよい」


景継は頷いた。


予想していた答えだった。


今川が二万。


こちらは数千。


多少数字が前後したところで、状況が大きく変わるわけではない。


「どうする」


勝家が信長を見る。


「清洲へ籠もるなら、今のうちに周辺から兵糧を入れておく必要がある。野戦をするなら、それも早く決めねばならん」


信長は答えなかった。


代わりに景継を見る。


「お前はどう思う」


景継は地図から目を離さなかった。


「正面から戦えば負けます」


勝家が眉を寄せる。


「やってみなければ分からん」


「もちろん絶対とは言いません。でも、何もせず同じ場所でぶつかれば、勝家様がどれだけ強くても数の差は消えません」


「なら籠城か」


「それも嫌です」


勝家の眉間の皺がさらに深くなった。


「正面から戦うな。籠城もするな。それではどうするつもりだ」


景継は答えず、今川軍について届いた報告をもう一度読み始めた。


勝家が何か言おうとしたが、信長が片手を上げて止める。


景継の中でも、まだ答えは出ていなかった。


二万の敵をどう倒すか。


その問いを何度考えても、良い答えが見つからない。


地形を使う。


伏兵を置く。


夜襲を仕掛ける。


兵糧を焼く。


いくつもの方法が浮かぶが、どれも二万という数そのものを消してくれるわけではなかった。


それに、今川義元は信賢ではない。


尾張国内の不満を利用して家臣を離反させた岩倉攻略と、同じ方法が通用するとは思えなかった。


景継は目を閉じた。


その瞬間、頭の奥に別の景色が浮かんだ。


広大な大地。


遠くまで続く陣。


数え切れないほどの軍旗。


何万もの兵を動かした記憶。


それは景継自身が十三年の人生で経験したものではない。


司馬懿として生きていた、遠い過去の記憶だった。


大軍は強い。


それは間違いない。


兵が多ければ戦える場所も増え、失った兵を補う余力もある。


だが。


大軍は、ただ人数が多いだけでは動かない。


兵には食わせなければならない。


馬にも餌が必要になる。


命令を伝える者が必要であり、前へ進む軍があれば、その後ろには兵糧を運ぶ人間がいる。


さらに支配する土地が広ければ、そこを守る兵も必要になる。


景継はゆっくり目を開いた。


そして、地図を見た。


駿河。


遠江。


三河。


尾張。


今まで景継は、その一番左側――尾張へ入ってくる今川軍ばかりを見ていた。


だが。


「……違う」


景継が小さく呟いた。


信長が反応する。


「何がだ」


景継は答えず、地図の上に手を伸ばした。


指が尾張から東へ動く。


三河で止まった。


「ここです」


「三河?」


長秀が尋ねる。


「はい」


景継はそのまま地図を見つめた。


今川義元は尾張へ来る。


ならば当然、その軍は三河を通る。


そして三河は今川の影響下にある。


だが。


「三河って、本当に今川のものなんですか?」


唐突な問いに、部屋の者たちが顔を見合わせた。


信盛が答える。


「今川の支配下にあると言ってよいだろう。松平も今川に従っている」


「それは分かっています。でも、私が聞きたいのは、三河の人たちが皆、喜んで今川に従っているのかということです」


長秀の表情が変わった。


「何を考えている」


景継は地図上の三河を指でなぞった。


「岩倉の時、信賢様の兵が多いか少ないかだけを見ていたら、もっと長く戦うことになったと思います」


森川。


堀田。


周辺の国人。


そして、城内の家臣たち。


一つずつ動かしたことで、最後には岩倉城そのものが戦えなくなった。


「でも今川は岩倉とは違うぞ」


長秀が言った。


「分かっています。だから、同じことをするつもりはありません」


景継は首を横に振った。


「今川の家臣を全部寝返らせようとしても無理でしょう。でも、全員を寝返らせる必要なんてありません」


勝家が腕を組んだ。


「では、何をする」


景継は少し考えた。


まだ形になっていない。


だが、ようやく入口だけは見つかった気がした。


「今川義元に、尾張だけを見ていられなくします」


◇◇◇


その日の午後から、景継は三河についての情報を集め始めた。


誰がどこを治めているのか。


今川に従っている家はどこか。


その中でも今川との結びつきが強い家はどこか。


逆に、表向きは従っていても不満を抱えている者はいないのか。


松平家についても調べた。


当主である松平元康。


まだ若い。


現在は今川の下にあり、今川方の武将として動いている。


それだけなら、今すぐ利用できる材料には見えない。


だが景継が知りたかったのは、有名な武将の名前ではなかった。


三河という土地そのものだった。


清洲にいる商人。


三河と行き来する者。


国境近くの村を知る者。


以前から織田家に情報を届けていた者。


使える相手には片端から話を聞いた。


日が暮れてからも止めなかった。


「若様、少し休まれては」


弥兵衛に言われ、景継はようやく顔を上げた。


部屋には大量の紙が広げられている。


「もうそんな時間ですか」


「とっくに日が暮れております」


景継は窓の外を見る。


確かに暗い。


だが、眠気はほとんどなかった。


「弥兵衛」


「はい」


「大軍って、何が一番怖いと思います?」


「何が、と申されましても……やはり兵の多さではございませんか」


「ですよね」


景継は地図へ目を戻した。


普通はそう考える。


自分も最初はそうだった。


二万という数字を聞いて、その二万をどうすれば倒せるのかと考えた。


だが、その考え方そのものが間違っていたのかもしれない。


司馬懿だった頃。


戦場で見ていたのは、目の前の兵だけではなかった。


その兵がどこから来たのか。


何を食べているのか。


誰の命令で動いているのか。


そして。


その兵が戦場へ来たことで、どこが空いたのか。


景継の指が三河の上で止まる。


「兵が多いということは」


弥兵衛が景継を見る。


「それだけ、別の場所から兵を連れてきているということです」


今川が尾張へ二万を向ける。


ならば、その二万は元々どこにいた。


駿河。


遠江。


三河。


そこから兵が抜ける。


特に三河から多くの兵を連れ出せば、当然その土地を守る力は薄くなる。


「今川は尾張へ攻めてくる」


景継は独り言のように続けた。


「だったら私たちは、今川が出てきた後ろを見ればいい」


弥兵衛にはまだ景継が何を考えているのか分からないようだった。


景継自身も、策のすべてが見えているわけではない。


だが。


二万と戦う必要はない。


その考えだけは、少しずつ確信に変わり始めていた。


◇◇◇


翌朝。


景継は再び信長のもとへ向かった。


「早いな」


信長は朝食を取っている最中だった。


「昨日の続きです」


「座れ」


景継は遠慮なく座り、持ってきた紙を広げた。


「三河について調べました」


「一晩でか」


「分かる範囲だけです」


信長は食事を続けながら紙を見る。


「それで?」


「まだ足りません」


「何だそれは」


「だから、もっと調べさせてください」


信長は箸を止めた。


景継は地図を広げる。


「今川軍が尾張へ入った時、三河にどれだけ兵が残るのか。それから、今川に不満を持っている家がどれくらいあるのかを知りたいです」


「寝返らせるのか」


「そこまでは考えていません」


景継は首を横に振った。


「むしろ、簡単に寝返るとは思わない方がいいです」


「では何をさせる」


「何もしなくてもいいんです」


信長の目が細くなる。


「どういう意味だ」


景継は少し身を乗り出した。


「今川義元に『三河で何か起きるかもしれない』と思わせるだけでも意味があります」


実際に大反乱を起こす必要はない。


一つの家が兵を出すのを遅らせる。


別の家が兵糧を予定通り出さない。


どこかで今川への不満があるという噂が流れる。


小さなことを、いくつか同時に起こす。


それだけでいい。


「義元が全部無視したら?」


信長が尋ねる。


「その時は失敗です」


景継はあっさり答えた。


信長が一瞬黙る。


「失敗する策を俺に出すのか」


「絶対に成功する策なんてありませんよ」


景継は地図を見ながら続けた。


「でも、何もしなければ今川義元は尾張だけを見て進んできます。三河が少しでも怪しくなれば、義元は後ろも気にしなければならなくなる」


前に尾張。


後ろに三河。


大軍であるほど、簡単に向きを変えることはできない。


そして長く尾張に留まれば、それだけ兵糧も必要になる。


「今川に時間があるのと、時間がないのとでは全然違います」


信長は食事を止め、完全に景継の話を聞いていた。


「時間を奪うのか」


「はい」


景継は頷いた。


「今川義元から兵を奪うのは難しい。でも、時間なら奪えるかもしれません」


義元に焦らせる。


尾張をゆっくり攻める余裕をなくす。


できるだけ早く信長を倒さなければならないと思わせる。


そこまでできれば。


次がある。


景継は地図上の尾張へ目を戻した。


「その後は?」


信長が尋ねる。


景継は少し黙った。


まだ言わない方がいい。


正確には、まだ言えるところまで形になっていない。


「今川義元がどう動くか見てから決めます」


「それだけか」


「今は」


信長は景継をしばらく見た。


「分かった」


あまりにも簡単に許可が出たため、景継の方が驚いた。


「いいんですか?」


「駄目だと言ったらやめるのか」


「……多分、別の方法を考えます」


「なら同じだ」


信長は再び箸を取った。


「好きにやれ。ただし、俺の名を勝手に使うな」


「分かっています」


景継は紙を片づけようとした。


その時。


信長が何気ない声で尋ねた。


「景継」


「はい」


「二万が怖くなくなったか」


景継の手が止まった。


少し考える。


「怖いですよ」


「そうか」


「でも」


景継は地図を見た。


昨日までは、そこに書かれた今川の勢力全体が巨大な一つの塊に見えていた。


今は違う。


駿河がある。


遠江がある。


三河がある。


大高がある。


鳴海がある。


兵がいる。


兵糧がある。


街道がある。


そして、それらすべてを動かさなければならない今川義元という人間がいる。


一つの巨大な敵ではない。


いくつもの部分がつながって、一つの大軍になっている。


なら。


そのつながりを一つずつ乱せばいい。


「二万全部を見る必要はないと分かりました」


信長の口元が少しだけ上がった。


景継は立ち上がる。


「まず、三河を揺らしてみます」


◇◇◇


その日のうちに、清洲から数人の男が東へ向かった。


大軍ではない。


武装した兵ですらない。


商人に見える者。


旅人に見える者。


三河へ知り合いを持つ者。


それぞれが別々の道を通り、互いに関係があることすら分からないように清洲を離れていった。


景継が彼らへ命じたことは、反乱を起こすことではなかった。


今川を裏切れと説得することでもない。


ただ。


聞く。


今川への不満はないか。


今回の出兵で困っている者はいないか。


兵を取られすぎた家はないか。


兵糧を出すことに不満を持っている村はないか。


そして。


もし不満があるなら。


ほんの少しだけ、その不満を表へ出してもらう。


兵を出すのを一日遅らせるだけでもいい。


荷を届けるのが半日遅れてもいい。


今川の役人に、いつもより強く文句を言うだけでもいい。


一つなら何でもない。


だが。


同じ時期に。


違う場所で。


いくつも起きたら。


それを報告で読む人間は、どう思うのか。


景継には分かっていた。


人は、起きた出来事そのものよりも。


その裏に何があるのかを考える。


かつて岩倉で。


信賢がそうしたように。


ただし今回は、家臣同士を疑わせることが目的ではない。


今川義元の目を。


ほんの少しだけ。


尾張から後ろへ向ける。


それだけでよかった。


◇◇◇


数日後。


三河。


今川方のある陣へ、一通の報告が届いた。


「兵の到着が遅れている?」


報告を受けた武将が眉を寄せる。


「はっ。予定では昨日のうちに到着するはずでしたが、まだ半数ほどしか集まっておりませぬ」


「理由は」


「道中で荷車に不具合が出たとのことにございます」


武将は舌打ちした。


それだけなら、珍しい話ではない。


大軍が動けば、予定通りにいかないことなどいくらでもある。


「急がせろ」


「はっ」


報告した兵が下がろうとする。


そこへ、別の男が入ってきた。


「申し上げます」


「今度は何だ」


「西三河の一部で、兵糧の供出を巡って揉め事が起きたとのこと」


武将の眉がわずかに動いた。


「誰が揉めている」


「詳しくはまだ。ただ、今回の出兵で負担が大きすぎると訴える者が出ているようにございます」


武将は少し黙った。


兵の遅れ。


兵糧を巡る揉め事。


どちらも、それだけなら大したことではない。


「義元様へ報告するほどではない」


「はっ」


「こちらで処理しろ」


男たちが下がる。


武将は再び書状へ目を戻した。


だが。


しばらくして。


もう一度だけ、先ほどの報告を見た。


二つ。


まだ二つだ。


偶然だろう。


そう判断した。


その判断は。


間違ってはいなかった。


まだ。


この時点では。


◇◇◇


清洲。


景継は三河から届いた最初の知らせを読んでいた。


兵の到着が遅れた。


兵糧の供出を巡って揉めた。


今川方は大きな問題とは考えていない。


景継は報告書を置いた。


弥兵衛が尋ねる。


「うまくいったのでございますか」


「まだです」


「では、失敗ですか」


「それもまだ分かりません」


景継は地図へ目を向けた。


こんな小さなことで今川義元が動くとは思っていない。


むしろ、今動かれては困る。


必要なのは、もっと後。


今川軍が尾張へ深く入ってから。


戻るにも進むにも時間がかかる場所まで来た時。


その時に三河から届く報告の数が増えていればいい。


景継は三河から尾張へ指を動かした。


そして、ある場所で止める。


まだ。


ここではない。


今川義元は、もっと西へ来る。


そのためには。


三河を揺らすだけでは足りない。


義元自身に。


急いで西へ進みたいと思わせる必要がある。


景継はしばらく地図を見つめた後、別の紙を引き寄せた。


今度は三河ではない。


清洲について書かれた紙だった。


信長の兵。


城の守り。


家臣たちの動き。


その中から、敵に知られても構わないものと、知られた方が都合のいいものを分けていく。


やがて景継の手が止まった。


「弥兵衛」


「はい」


「もう一つ、頼みたいことがあります」


「何でございましょう」


景継は紙を一枚取り出した。


「今度は、今川に情報を届けます」


弥兵衛が驚いて景継を見る。


「今川に?」


「はい」


景継は静かに頷いた。


「信長様が、今川の大軍を恐れていると」


三河を揺らすだけでは。


まだ足りない。


後ろを気にさせる。


そして。


前には。


獲物が動けずにいると思わせる。


その二つが揃った時。


今川義元はどう動くのか。


景継はまだ、答えを知らなかった。


だが。


遠い昔。


何十年も人の疑いと欲を見続けてきた男の記憶が。


一つだけ教えていた。


人を動かしたいなら。


命令する必要はない。


その人間が自分から選びたくなる道を、目の前に置けばいい。


景継は地図の東を見つめた。


今川義元は、まだ遠い。


だが。


戦はもう。


始まっていた。

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