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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第三章 乱世への一手

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第五十四話 背後を揺らす


清洲から東へ向かった者たちが、最初の報告を持ち帰り始めたのは、それから数日後のことだった。


景継が期待していたような大きな動きが起きたわけではない。


今川に反旗を翻した国人が現れたわけでもなければ、三河のどこかで城が奪われたわけでもなく、表面だけを見れば三河は以前と変わらず今川の支配下にあった。


だが、景継が求めていたのは最初からそんな大きな変化ではなかった。


「西三河で二つの村が兵糧の供出を遅らせています。それから、今川方から兵を求められていた国人の一つが、予定していた人数を揃えられなかったようです」


弥兵衛が読み上げた報告を聞きながら、景継は地図の上へ小さな印をつけていった。


「理由は?」


「村の方は今年の蓄えが少ないことを理由にしております。国人の方は、領内の守りを薄くできないと」


「今川はどうしています?」


「今のところ、強く問題にはしていないようです」


「それでいいです」


景継は迷わず答えた。


弥兵衛が不思議そうな顔をする。


「よろしいので?」


「今から大騒ぎされたら困ります。義元様には、まだ尾張へ来てもらわないといけませんから」


景継は地図へ目を戻した。


三河で起きていることは、どれも小さい。


兵糧が一日遅れた。


兵が予定より少なかった。


村人が役人と揉めた。


街道を通る荷車が予定通り届かなかった。


一つだけなら、どこの国でも起こる。


だが、それが二つになり、三つになり、さらに違う場所から同じような報告が届き始めれば、受け取る側の印象は変わってくる。


問題なのは、実際に三河が反乱を起こすかどうかではない。


今川方の人間が、


――何かおかしい。


そう思い始めることだった。


「次はどうなさいます?」


弥兵衛が尋ねた。


景継は少し考えてから答えた。


「何もしません」


「何も?」


「こちらから三河を動かしすぎれば、誰かが裏で動いていると気づかれます。今は、向こうが勝手に不安になってくれるのを待ちます」


「しかし、それでは今川方が何も気にしなければ……」


「その時は別の手を使います」


景継はそう言うと、三河に置いていた手を尾張へ移した。


「だから、次はこちらです」


机の端には、昨日から景継が整理していた別の紙が置かれている。


そこに書かれているのは、清洲城の兵力、城内で交わされている意見、信長がどのような準備を進めているのかといった、今川側が欲しがりそうな情報だった。


もちろん、本当の軍議の内容をそのまま渡すつもりなどない。


「今川に、何を知らせるのでございますか」


弥兵衛が声を落とした。


景継は紙を一枚取り上げた。


「信長様は今川の兵力を知って、野戦を諦めた」


「……嘘でございますな」


「今のところは」


「今のところ?」


「本当に野戦をしない可能性もありますから」


景継が平然と答えると、弥兵衛は何とも言えない顔になった。


まだ信長は戦い方を決めていない。


だから完全な嘘ではない。


さらにもう一つ。


「清洲では籠城の準備を進めている」


これも流す。


実際、清洲城では兵糧や武具の確認を進めており、城を守るための準備そのものは始まっている。


それを見た者が今川側へ、


――信長は清洲へ籠もるつもりらしい。


そう伝えたとしても、不自然ではない。


「嘘だけでは駄目なんです」


景継が言った。


「全部が嘘なら、少し調べられただけで崩れます。でも本当のことの中に、こちらがそう思わせたい部分だけを混ぜれば、相手は自分で答えを作ってくれる」


司馬懿として生きていた頃にも、何度も見てきた。


人は敵から与えられた答えより、自分で見つけたと思った答えの方を信じる。


だから景継は、


――信長は今川を恐れている。


そう書いた書状を義元へ送るつもりはなかった。


そんなことをすれば、罠を疑われるだけだ。


代わりに。


清洲で兵糧が集められている。


城壁の修繕を急いでいる。


今川の兵力を聞いた家臣たちの間で、野戦を避けるべきだという声が出ている。


そして信長は、まだ大軍を率いて清洲から出ていない。


事実を並べる。


その事実から、


――織田は籠城するつもりだ。


そう判断するのは今川自身だ。


「これを、どうやって今川へ?」


弥兵衛が尋ねる。


「一つの道から流すのは駄目です」


景継は三本の指を立てた。


「商人。国境付近を行き来する者。それから、今川側が以前から清洲の様子を探らせている人間」


弥兵衛の表情が変わった。


「今川の間者を使うのでございますか」


「いるでしょう?」


「それは……いるとは思いますが」


「なら、その人たちには自分で見てもらえばいいんです」


間者を捕らえる必要はない。


むしろ今回は、見てもらった方が都合がいい。


清洲城へ兵糧が運び込まれる。


城の守りが固められる。


城下では今川の大軍についての噂が広がる。


家臣の中から籠城を主張する声が出る。


それらすべてを見せる。


その上で、商人や旅人からも似たような話が今川側へ入れば、情報の信頼性は一気に上がる。


「でも、一つだけ気をつけてください」


景継が言った。


「信長様が怯えているとは言わせないでください」


「なぜでございます?」


「不自然だからです」


景継は少し笑った。


「信長様を知っている人なら、そんな話を聞いた瞬間に疑いますよ」


弥兵衛も納得したように頷いた。


「では、あくまで清洲では籠城の準備が進んでいる、と」


「それだけで十分です」


景継は紙を弥兵衛へ渡した。


「相手に結論まで教える必要はありません」


◇◇◇


同じ頃。


今川義元は、すでに駿河を発つ準備をほとんど終えていた。


集められた軍勢は駿河だけの兵ではない。


遠江。


三河。


そして各地で今川に従う国人や諸将。


軍勢は一度に一つの塊となって進むのではなく、それぞれの場所から動き、定められた地点を目指して集まっていく。


義元のもとには毎日のように報告が届けられていた。


どの家が何人出す。


どこから兵糧が届く。


どの道を使う。


尾張側の守りはどうなっている。


その中に、清洲についての報告も混じり始めていた。


「籠城か」


義元が書状を置いた。


向かいに座る家臣が頷く。


「その可能性が高いかと」


「根拠は」


「清洲への兵糧の搬入が増えております。また、城の守りを固めているとの報告が複数から届いております」


「信長は?」


「今のところ、大軍を率いて動いた形跡はございません」


義元はすぐには答えなかった。


織田信長。


尾張国内の争いを次々と終わらせ、ついには岩倉まで落とした男。


若い。


無謀。


奇妙な振る舞いをする。


そのような噂はいくらでも聞いている。


だが義元は、噂だけで信長を軽んじるつもりはなかった。


本当に愚かな男なら、ここまで生き残ってはいない。


「清洲へ籠もり、我らを迎え撃つつもりか」


「兵力差を考えれば、それが最も自然かと」


家臣が答える。


義元もその考え自体には異論がなかった。


野に出て戦えば、織田は圧倒的に不利になる。


ならば城へ籠もり、今川軍が疲れるのを待つ。


合理的な判断だった。


ただ。


「信長が、それほど素直に動くか」


義元の言葉に、家臣が黙った。


義元は再び書状を読む。


兵糧。


城の修繕。


籠城を主張する家臣。


どれも事実らしい。


それでも。


何かが引っかかった。


「探らせよ」


「清洲を、でございますか」


「それだけではない。信長がどこに兵を置いているのか、国境の城にどれほど兵がいるのか、できるだけ詳しく調べさせろ」


「はっ」


義元は書状を脇へ置いた。


「大軍を相手にして、ただ城に籠もるだけの男ならば楽なのだがな」


その声には、信長を侮る響きはなかった。


◇◇◇


翌日。


義元のもとへ、別の報告が届いた。


今度は清洲ではない。


三河だった。


「またか」


義元が眉を寄せる。


西三河で、兵の集まりが遅れている。


別の場所では兵糧の供出を巡って揉め事が起きた。


さらに、ある国人が領内の守備を理由に、求められた兵の一部を手元へ残したいと申し出ている。


一つ一つは小さな問題だった。


出陣そのものを拒んでいる者はいない。


今川に反旗を翻した者もいない。


だが。


似たような話が、同じ時期に続いている。


「誰かが動いていると思うか」


義元が尋ねた。


家臣は少し考えた。


「今のところ、その証はございません。今回の出陣は規模が大きいため、各地の負担が増えていることも事実にございます」


「そうだろうな」


義元は頷いた。


大軍を動かせば、当然こうした問題は起こる。


すべてを敵の策だと考える方が危険だ。


しかし。


無視していいわけでもない。


「三河の動きを見張らせろ」


「兵を残しますか」


「いや」


義元は首を横に振った。


「まだその必要はない」


織田を討つために集めた兵を、何の証拠もない不安だけで減らすつもりはなかった。


「予定通り進める」


「はっ」


義元は地図を見た。


三河。


その先に尾張。


清洲へ籠もる信長を潰す。


尾張を押さえれば、今川の勢力はさらに西へ伸びる。


三河で起きている小さな問題など、その後で処理すればいい。


だが義元は知らない。


その小さな問題こそ。


清洲にいる一人の少年が、義元の目を後ろへ向けるために置いた最初の石だった。


◇◇◇


「義元様は止まりませんでした」


三河から戻った者の報告を聞き、景継は頷いた。


予想していた。


むしろ今川軍がこの程度で止まるようなら、別の意味で困る。


「三河について調べるよう命じたそうです」


「やっぱり気にはしましたか」


「はい。ただし、出陣そのものを見直す様子はございません」


景継は地図に目を落とした。


一つ目は成功した。


三河で反乱は起きていない。


それでも義元は、三河を気にし始めた。


それでいい。


「清洲の方は?」


「こちらも今川方へ伝わったようです。信長様は清洲へ籠もるのではないかと見ている者が多いとのこと」


「義元様本人は?」


「信長様を警戒しておられるようで、さらに詳しく探るよう命じたと」


景継は少しだけ考え込んだ。


簡単には信じない。


当然だった。


今川義元は、大軍を持っているからここまで勢力を広げたわけではない。


その大軍を作れるだけの力を持った人物なのだ。


「思っていたより慎重ですね」


弥兵衛が不安そうに尋ねる。


「まずいのでございますか」


「いえ」


むしろ。


景継は少し安心していた。


何でも簡単に信じる人間より、慎重な人間の方が動きを読むことはできる。


慎重な人間は情報を集める。


集めた情報に矛盾がなければ、そこから自分で判断する。


ならば。


判断するための材料を用意すればいい。


「次の情報を流します」


「もうでございますか」


「義元様が調べ始めたなら、ちょうどいいです」


景継は新しい紙を取り出した。


「今度は何を?」


「何も作りません」


弥兵衛が首を傾げる。


景継は地図上の清洲を指した。


「本当に籠城の準備を進めます」


「本当に?」


「はい」


今川の間者が調べる。


ならば、調べた先にも同じ答えがなければならない。


城へ兵糧を入れる。


城壁を確認する。


守備兵の配置を決める。


城下にも、今川軍が来れば清洲で迎え撃つという空気を広げる。


ただし。


「信長様の兵を全部清洲へ集めるわけではありません」


景継の指が清洲から離れた。


「見せるのは、守る準備だけです」


「では、本当の兵は?」


景継は答えなかった。


まだ決めていない。


今川義元がどの道を通り。


どこへ兵を置き。


どこに自分の本隊を進めるのか。


それを見てから決める。


景継が今やっているのは、戦場を選ぶことではない。


義元に。


選ばせることだった。


◇◇◇


数日後。


今川軍が動いた。


駿河から遠江へ。


遠江から三河へ。


各地で集まった兵が合流し、その数は進むほど膨れ上がっていく。


街道を兵が埋めた。


槍が並び。


旗が続き。


荷駄がその後ろを延々と進んだ。


先頭から最後尾までを一目で見渡すことなどできない。


その規模は、岩倉との戦とは比較にすらならなかった。


そして清洲にも。


ついに、その報告が届いた。


「今川義元、三河へ入ったとのこと!」


評定の間へ駆け込んできた伝令の声に、全員が地図を見た。


勝家が立ち上がる。


「来たか」


長秀がすぐに進路を確認する。


信盛は周辺の城へ送る兵について考え始めた。


信長だけは座ったまま、景継を見ていた。


「景継」


「はい」


「お前が来てほしがっていた男が来たぞ」


景継は少し困ったように信長を見る。


「言い方が怖いですよ」


「違うのか」


「違いませんけど」


景継は地図へ視線を落とした。


今川義元。


大軍を率いて。


予定通り西へ進んでいる。


三河では小さな不穏が生まれている。


義元もそれに気づいている。


そして前方の清洲では。


信長が城へ籠もろうとしているように見えている。


後ろには、小さな不安。


前には、動かない敵。


まだ足りない。


この程度なら義元は慎重に進める。


景継が欲しいのは。


義元が慎重に考える時間を、自分から捨てたくなる理由だった。


「次です」


景継が呟いた。


信長が聞く。


「何をする」


景継は地図の三河から、尾張へ続く道を指でなぞった。


「義元様を急がせます」


「どうやってだ」


景継は少しだけ考えた後、信長を見た。


「餌を置きます」


勝家が眉を寄せる。


「餌?」


「はい」


景継は地図上の清洲を指した。


「今川義元が、三河のことなど後回しにしてでも、今すぐ尾張へ入りたくなる餌です」


今川の大軍は。


もう動き始めた。


ここから先は。


三河を揺らすだけではない。


義元自身を。


こちらが望む方向へ動かす。


景継の中で。


ようやく次の一手が形になり始めていた。

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