第五十四話 背後を揺らす
清洲から東へ向かった者たちが、最初の報告を持ち帰り始めたのは、それから数日後のことだった。
景継が期待していたような大きな動きが起きたわけではない。
今川に反旗を翻した国人が現れたわけでもなければ、三河のどこかで城が奪われたわけでもなく、表面だけを見れば三河は以前と変わらず今川の支配下にあった。
だが、景継が求めていたのは最初からそんな大きな変化ではなかった。
「西三河で二つの村が兵糧の供出を遅らせています。それから、今川方から兵を求められていた国人の一つが、予定していた人数を揃えられなかったようです」
弥兵衛が読み上げた報告を聞きながら、景継は地図の上へ小さな印をつけていった。
「理由は?」
「村の方は今年の蓄えが少ないことを理由にしております。国人の方は、領内の守りを薄くできないと」
「今川はどうしています?」
「今のところ、強く問題にはしていないようです」
「それでいいです」
景継は迷わず答えた。
弥兵衛が不思議そうな顔をする。
「よろしいので?」
「今から大騒ぎされたら困ります。義元様には、まだ尾張へ来てもらわないといけませんから」
景継は地図へ目を戻した。
三河で起きていることは、どれも小さい。
兵糧が一日遅れた。
兵が予定より少なかった。
村人が役人と揉めた。
街道を通る荷車が予定通り届かなかった。
一つだけなら、どこの国でも起こる。
だが、それが二つになり、三つになり、さらに違う場所から同じような報告が届き始めれば、受け取る側の印象は変わってくる。
問題なのは、実際に三河が反乱を起こすかどうかではない。
今川方の人間が、
――何かおかしい。
そう思い始めることだった。
「次はどうなさいます?」
弥兵衛が尋ねた。
景継は少し考えてから答えた。
「何もしません」
「何も?」
「こちらから三河を動かしすぎれば、誰かが裏で動いていると気づかれます。今は、向こうが勝手に不安になってくれるのを待ちます」
「しかし、それでは今川方が何も気にしなければ……」
「その時は別の手を使います」
景継はそう言うと、三河に置いていた手を尾張へ移した。
「だから、次はこちらです」
机の端には、昨日から景継が整理していた別の紙が置かれている。
そこに書かれているのは、清洲城の兵力、城内で交わされている意見、信長がどのような準備を進めているのかといった、今川側が欲しがりそうな情報だった。
もちろん、本当の軍議の内容をそのまま渡すつもりなどない。
「今川に、何を知らせるのでございますか」
弥兵衛が声を落とした。
景継は紙を一枚取り上げた。
「信長様は今川の兵力を知って、野戦を諦めた」
「……嘘でございますな」
「今のところは」
「今のところ?」
「本当に野戦をしない可能性もありますから」
景継が平然と答えると、弥兵衛は何とも言えない顔になった。
まだ信長は戦い方を決めていない。
だから完全な嘘ではない。
さらにもう一つ。
「清洲では籠城の準備を進めている」
これも流す。
実際、清洲城では兵糧や武具の確認を進めており、城を守るための準備そのものは始まっている。
それを見た者が今川側へ、
――信長は清洲へ籠もるつもりらしい。
そう伝えたとしても、不自然ではない。
「嘘だけでは駄目なんです」
景継が言った。
「全部が嘘なら、少し調べられただけで崩れます。でも本当のことの中に、こちらがそう思わせたい部分だけを混ぜれば、相手は自分で答えを作ってくれる」
司馬懿として生きていた頃にも、何度も見てきた。
人は敵から与えられた答えより、自分で見つけたと思った答えの方を信じる。
だから景継は、
――信長は今川を恐れている。
そう書いた書状を義元へ送るつもりはなかった。
そんなことをすれば、罠を疑われるだけだ。
代わりに。
清洲で兵糧が集められている。
城壁の修繕を急いでいる。
今川の兵力を聞いた家臣たちの間で、野戦を避けるべきだという声が出ている。
そして信長は、まだ大軍を率いて清洲から出ていない。
事実を並べる。
その事実から、
――織田は籠城するつもりだ。
そう判断するのは今川自身だ。
「これを、どうやって今川へ?」
弥兵衛が尋ねる。
「一つの道から流すのは駄目です」
景継は三本の指を立てた。
「商人。国境付近を行き来する者。それから、今川側が以前から清洲の様子を探らせている人間」
弥兵衛の表情が変わった。
「今川の間者を使うのでございますか」
「いるでしょう?」
「それは……いるとは思いますが」
「なら、その人たちには自分で見てもらえばいいんです」
間者を捕らえる必要はない。
むしろ今回は、見てもらった方が都合がいい。
清洲城へ兵糧が運び込まれる。
城の守りが固められる。
城下では今川の大軍についての噂が広がる。
家臣の中から籠城を主張する声が出る。
それらすべてを見せる。
その上で、商人や旅人からも似たような話が今川側へ入れば、情報の信頼性は一気に上がる。
「でも、一つだけ気をつけてください」
景継が言った。
「信長様が怯えているとは言わせないでください」
「なぜでございます?」
「不自然だからです」
景継は少し笑った。
「信長様を知っている人なら、そんな話を聞いた瞬間に疑いますよ」
弥兵衛も納得したように頷いた。
「では、あくまで清洲では籠城の準備が進んでいる、と」
「それだけで十分です」
景継は紙を弥兵衛へ渡した。
「相手に結論まで教える必要はありません」
◇◇◇
同じ頃。
今川義元は、すでに駿河を発つ準備をほとんど終えていた。
集められた軍勢は駿河だけの兵ではない。
遠江。
三河。
そして各地で今川に従う国人や諸将。
軍勢は一度に一つの塊となって進むのではなく、それぞれの場所から動き、定められた地点を目指して集まっていく。
義元のもとには毎日のように報告が届けられていた。
どの家が何人出す。
どこから兵糧が届く。
どの道を使う。
尾張側の守りはどうなっている。
その中に、清洲についての報告も混じり始めていた。
「籠城か」
義元が書状を置いた。
向かいに座る家臣が頷く。
「その可能性が高いかと」
「根拠は」
「清洲への兵糧の搬入が増えております。また、城の守りを固めているとの報告が複数から届いております」
「信長は?」
「今のところ、大軍を率いて動いた形跡はございません」
義元はすぐには答えなかった。
織田信長。
尾張国内の争いを次々と終わらせ、ついには岩倉まで落とした男。
若い。
無謀。
奇妙な振る舞いをする。
そのような噂はいくらでも聞いている。
だが義元は、噂だけで信長を軽んじるつもりはなかった。
本当に愚かな男なら、ここまで生き残ってはいない。
「清洲へ籠もり、我らを迎え撃つつもりか」
「兵力差を考えれば、それが最も自然かと」
家臣が答える。
義元もその考え自体には異論がなかった。
野に出て戦えば、織田は圧倒的に不利になる。
ならば城へ籠もり、今川軍が疲れるのを待つ。
合理的な判断だった。
ただ。
「信長が、それほど素直に動くか」
義元の言葉に、家臣が黙った。
義元は再び書状を読む。
兵糧。
城の修繕。
籠城を主張する家臣。
どれも事実らしい。
それでも。
何かが引っかかった。
「探らせよ」
「清洲を、でございますか」
「それだけではない。信長がどこに兵を置いているのか、国境の城にどれほど兵がいるのか、できるだけ詳しく調べさせろ」
「はっ」
義元は書状を脇へ置いた。
「大軍を相手にして、ただ城に籠もるだけの男ならば楽なのだがな」
その声には、信長を侮る響きはなかった。
◇◇◇
翌日。
義元のもとへ、別の報告が届いた。
今度は清洲ではない。
三河だった。
「またか」
義元が眉を寄せる。
西三河で、兵の集まりが遅れている。
別の場所では兵糧の供出を巡って揉め事が起きた。
さらに、ある国人が領内の守備を理由に、求められた兵の一部を手元へ残したいと申し出ている。
一つ一つは小さな問題だった。
出陣そのものを拒んでいる者はいない。
今川に反旗を翻した者もいない。
だが。
似たような話が、同じ時期に続いている。
「誰かが動いていると思うか」
義元が尋ねた。
家臣は少し考えた。
「今のところ、その証はございません。今回の出陣は規模が大きいため、各地の負担が増えていることも事実にございます」
「そうだろうな」
義元は頷いた。
大軍を動かせば、当然こうした問題は起こる。
すべてを敵の策だと考える方が危険だ。
しかし。
無視していいわけでもない。
「三河の動きを見張らせろ」
「兵を残しますか」
「いや」
義元は首を横に振った。
「まだその必要はない」
織田を討つために集めた兵を、何の証拠もない不安だけで減らすつもりはなかった。
「予定通り進める」
「はっ」
義元は地図を見た。
三河。
その先に尾張。
清洲へ籠もる信長を潰す。
尾張を押さえれば、今川の勢力はさらに西へ伸びる。
三河で起きている小さな問題など、その後で処理すればいい。
だが義元は知らない。
その小さな問題こそ。
清洲にいる一人の少年が、義元の目を後ろへ向けるために置いた最初の石だった。
◇◇◇
「義元様は止まりませんでした」
三河から戻った者の報告を聞き、景継は頷いた。
予想していた。
むしろ今川軍がこの程度で止まるようなら、別の意味で困る。
「三河について調べるよう命じたそうです」
「やっぱり気にはしましたか」
「はい。ただし、出陣そのものを見直す様子はございません」
景継は地図に目を落とした。
一つ目は成功した。
三河で反乱は起きていない。
それでも義元は、三河を気にし始めた。
それでいい。
「清洲の方は?」
「こちらも今川方へ伝わったようです。信長様は清洲へ籠もるのではないかと見ている者が多いとのこと」
「義元様本人は?」
「信長様を警戒しておられるようで、さらに詳しく探るよう命じたと」
景継は少しだけ考え込んだ。
簡単には信じない。
当然だった。
今川義元は、大軍を持っているからここまで勢力を広げたわけではない。
その大軍を作れるだけの力を持った人物なのだ。
「思っていたより慎重ですね」
弥兵衛が不安そうに尋ねる。
「まずいのでございますか」
「いえ」
むしろ。
景継は少し安心していた。
何でも簡単に信じる人間より、慎重な人間の方が動きを読むことはできる。
慎重な人間は情報を集める。
集めた情報に矛盾がなければ、そこから自分で判断する。
ならば。
判断するための材料を用意すればいい。
「次の情報を流します」
「もうでございますか」
「義元様が調べ始めたなら、ちょうどいいです」
景継は新しい紙を取り出した。
「今度は何を?」
「何も作りません」
弥兵衛が首を傾げる。
景継は地図上の清洲を指した。
「本当に籠城の準備を進めます」
「本当に?」
「はい」
今川の間者が調べる。
ならば、調べた先にも同じ答えがなければならない。
城へ兵糧を入れる。
城壁を確認する。
守備兵の配置を決める。
城下にも、今川軍が来れば清洲で迎え撃つという空気を広げる。
ただし。
「信長様の兵を全部清洲へ集めるわけではありません」
景継の指が清洲から離れた。
「見せるのは、守る準備だけです」
「では、本当の兵は?」
景継は答えなかった。
まだ決めていない。
今川義元がどの道を通り。
どこへ兵を置き。
どこに自分の本隊を進めるのか。
それを見てから決める。
景継が今やっているのは、戦場を選ぶことではない。
義元に。
選ばせることだった。
◇◇◇
数日後。
今川軍が動いた。
駿河から遠江へ。
遠江から三河へ。
各地で集まった兵が合流し、その数は進むほど膨れ上がっていく。
街道を兵が埋めた。
槍が並び。
旗が続き。
荷駄がその後ろを延々と進んだ。
先頭から最後尾までを一目で見渡すことなどできない。
その規模は、岩倉との戦とは比較にすらならなかった。
そして清洲にも。
ついに、その報告が届いた。
「今川義元、三河へ入ったとのこと!」
評定の間へ駆け込んできた伝令の声に、全員が地図を見た。
勝家が立ち上がる。
「来たか」
長秀がすぐに進路を確認する。
信盛は周辺の城へ送る兵について考え始めた。
信長だけは座ったまま、景継を見ていた。
「景継」
「はい」
「お前が来てほしがっていた男が来たぞ」
景継は少し困ったように信長を見る。
「言い方が怖いですよ」
「違うのか」
「違いませんけど」
景継は地図へ視線を落とした。
今川義元。
大軍を率いて。
予定通り西へ進んでいる。
三河では小さな不穏が生まれている。
義元もそれに気づいている。
そして前方の清洲では。
信長が城へ籠もろうとしているように見えている。
後ろには、小さな不安。
前には、動かない敵。
まだ足りない。
この程度なら義元は慎重に進める。
景継が欲しいのは。
義元が慎重に考える時間を、自分から捨てたくなる理由だった。
「次です」
景継が呟いた。
信長が聞く。
「何をする」
景継は地図の三河から、尾張へ続く道を指でなぞった。
「義元様を急がせます」
「どうやってだ」
景継は少しだけ考えた後、信長を見た。
「餌を置きます」
勝家が眉を寄せる。
「餌?」
「はい」
景継は地図上の清洲を指した。
「今川義元が、三河のことなど後回しにしてでも、今すぐ尾張へ入りたくなる餌です」
今川の大軍は。
もう動き始めた。
ここから先は。
三河を揺らすだけではない。
義元自身を。
こちらが望む方向へ動かす。
景継の中で。
ようやく次の一手が形になり始めていた。




