第八十八話 城を攻めない
黒田官兵衛を有岡城から救い出して数日が経った。
官兵衛の身体には、まだ幽閉の影響が残っていた。
足の具合はすぐに元へ戻るものではなく、以前のように長時間歩き回ることも難しい。それでも官兵衛は床に伏していることを嫌い、座って話せるようになると、すぐに軍議へ顔を出すようになっていた。
「もう少し休まれた方がよいのでは?」
景継がそう言うと、官兵衛は苦笑した。
「林道殿にだけは言われたくありませんな」
「なぜです?」
「敵城へ十数人で入った方が何を申されます」
「黒田殿を助けるためです」
「私は敵城へ一人で入りましたが?」
「村重殿を説得するためでしょう?」
「同じではありませんか」
「違いますよ」
二人のやり取りを聞いていた秀吉が、呆れたように息を吐いた。
「どちらも馬鹿だということでよかろう」
景継と官兵衛が同時に秀吉を見る。
「なぜ拙者まで睨まれる」
「睨んでいませんよ」
「私もでございます」
「息まで合うようになりおって」
秀吉はそう言ったものの、その顔には以前のような険しさはなかった。
官兵衛が生きて戻った。
それだけで十分だった。
だが、戦は終わっていない。
荒木村重は依然として有岡城にいる。
毛利も西国で健在であり、石山本願寺との戦いも続いている。
織田家を取り囲んでいた敵の数は減った。
しかし、一つを片づければ次が現れる。
それが今の織田家だった。
その日の昼。
信長からの使者が到着した。
秀吉、景継、官兵衛の三人が書状を見る。
最初に表情を変えたのは秀吉だった。
「播磨か」
景継も書状へ目を落とす。
荒木村重への対応は他の織田軍にも担わせる。
秀吉は播磨方面へ戻り、崩れかけている織田方の勢力を立て直す。
そして、その最大の障害となる相手の名も書かれていた。
別所長治。
三木城。
景継は、その二つの名を見つめた。
官兵衛が景継を見る。
「別所長治について、どこまでご存じです?」
「ほとんど知りません」
景継は素直に答えた。
「播磨の有力者であることと、三木城を本拠としていることくらいです」
「ならば、まずそこからですな」
「お願いします」
官兵衛は地図を引き寄せた。
景継の前世に、別所長治という名は存在しない。
三木城という城も知らない。
当然だった。
景継の前世は、この国の人間ではない。
遥か昔。
海の向こうにあった大国で、魏に仕えた司馬懿仲達。
曹操。
曹丕。
曹叡。
そして曹爽。
数多くの者たちと争い、時には耐え、時には策を巡らせながら乱世を生き抜いた。
その記憶が景継にはある。
だが、それはこの国の未来を知る力ではなかった。
別所長治がこれから何をするのか。
三木城がどのような運命を辿るのか。
景継には分からない。
だからこそ、調べる。
敵がどれほどの兵を持っているのか。
どの国人と結びついているのか。
何を頼りに戦っているのか。
城の強みはどこにあり、弱みはどこにあるのか。
前世から持ってきたものは、この時代の知識ではない。
乱世を生き抜いた経験。
人を見る目。
敵の立場から考える癖。
そして。
勝つためなら待つことのできる忍耐だった。
官兵衛が地図上の三木城を指した。
「別所長治は、播磨でも大きな力を持つ人物です。周辺にも別所方へ味方する者が多くおります」
「単独の城ではない?」
「そう考えた方がよろしいでしょう」
秀吉も話へ加わる。
「しかも毛利がおる。三木城が耐えている間に毛利が東へ力を伸ばせば、さらに面倒になる」
景継は地図を見る。
三木城。
その周囲にある国人。
さらに西には毛利。
一つの城だけを見ていてはいけない。
「まず調べましょう」
秀吉が景継を見る。
「何をだ?」
「全部です」
「全部?」
「三木城に何人いるのか。兵糧はどれくらいあるのか。どこから物資が入るのか。別所殿を支えている者は誰なのか」
景継は地図の周囲へ視線を移した。
「城を見るのは、その後です」
◇◇◇
播磨へ入ってから、景継はすぐには兵を動かさなかった。
三木城を遠くから確認した後も同じだった。
城そのものだけを見れば、これまで戦ってきた城と比べて特別異様なものには見えない。
だが、問題は城だけではなかった。
周囲には別所方に味方する勢力が存在し、城へ物資を運ぶ道も一つではない。
さらに毛利からの支援が届く可能性もある。
景継は城を見るより先に、その周囲を調べさせた。
街道。
山道。
村。
川。
商人が使う道。
兵糧を集められそうな場所。
そして、三木城へ出入りしている人間。
数日かけて報告を集める。
秀吉はその間にも、何度か三木城を眺めていた。
そして軍議の席で尋ねた。
「それで、どこから攻める?」
景継は地図を見ていた。
「攻めません」
秀吉が聞き返す。
「何?」
「三木城は攻めません」
「では何をしに来たのだ」
「勝つためです」
秀吉が露骨に嫌そうな顔をした。
「官兵衛。こやつを何とかせい」
「私に振らないでいただきたい」
官兵衛も地図を見ている。
そして景継が書き込んだ印を、一つずつ確認していった。
しばらくして。
官兵衛が一つの道を指した。
「なるほど」
「何か分かったのか?」
秀吉が尋ねる。
官兵衛は景継を見る。
「林道殿が見ているのは、三木城ではございませんな」
「では何だ」
「城へ入るものです」
秀吉も地図を見る。
いくつもの線が三木城へ向かっていた。
兵。
武器。
そして何より兵糧。
城に籠もるには食料が必要になる。
三木城がどれほど堅くても、城そのものから米が生まれるわけではない。
外から入れなければならない。
「兵糧攻めか」
秀吉が言った。
「はい」
景継は頷いた。
「ただし、すぐに全部は止めません」
「なぜだ?」
景継は三木城へ続く道のうち、一つだけを指した。
「これだけ残します」
秀吉の眉が寄る。
「一つ残せば、そこから兵糧を入れられるぞ」
「入れてもらいます」
今度こそ秀吉が黙った。
官兵衛だけが景継の指先を見ている。
「どのくらい?」
官兵衛が尋ねた。
「分かるまでです」
「何が?」
「三木城を支えている者たちが」
官兵衛の口元に小さな笑みが浮かんだ。
「なるほど」
秀吉が二人を交互に見る。
「二人だけで納得するな」
景継は説明した。
「道がいくつもあれば、こちらも全部を見なければなりません。どこから米が来るのか。誰が運んでいるのか。誰が護衛しているのか。その一つ一つを調べる必要があります」
「だから一つだけ残す?」
「ええ。他を塞げば、三木城へ物資を入れたい者は残った道を使うしかありません」
官兵衛が続ける。
「我らが探すのではなく、向こうから一つの場所へ集まってもらうわけですな」
「その方が楽でしょう?」
秀吉はしばらく黙った後、笑った。
「やはり官兵衛を助けたのは間違いだったかもしれぬ」
「なぜです?」
「面倒な奴が二人になった」
官兵衛が笑う。
景継も少しだけ笑った。
だが、すぐに地図へ視線を戻した。
「ただし、最初は絶対に襲わないでください」
秀吉が驚いた。
「兵糧を運んでいてもか?」
「はい」
「敵へ米を届けさせるのだぞ」
「構いません」
景継が欲しいのは、一度や二度の兵糧ではない。
道そのものだった。
そして、その道を使っている人間だった。
一度襲えば、相手は道を変える。
警戒する。
隠れる。
ならば最初は安心させる。
ここなら通れる。
織田軍は気づいていない。
そう思わせる。
「全部出てきてもらいます」
景継が言った。
◇◇◇
数日後。
三木城周辺の道が次々と織田方によって押さえられた。
小さな道も。
主要な街道も。
物資を運べそうな場所には兵が置かれた。
ただ一か所だけ。
西へ続く道が残った。
最初の一日は何もなかった。
二日目。
少量の米を積んだ荷が通った。
織田兵は見ている。
しかし手を出さない。
運んでいた者たちは不審そうに周囲を見た。
何も起きない。
そのまま三木城へ入った。
三日目。
今度は量が増えた。
それでも織田軍は動かなかった。
四日目。
さらに多くなった。
護衛の兵までつくようになった。
それでも攻撃されない。
道を使う者たちの警戒が少しずつ薄れていった。
織田は、この道に気づいていない。
そんな話まで出始めた。
景継のもとには毎日、報告が届いた。
どこから来た。
何を運んでいる。
何人いた。
どの村へ立ち寄った。
誰と話した。
そして、どこから兵糧を集めているのか。
地図に印が増えていった。
弥兵衛が新しい報告を持ってくる。
「若様、本日も荷が入りました」
「どこから?」
「西側の村から運ばれたものが多いようです。ただ、途中で別の一団と合流しております」
「護衛は?」
「昨日より増えております」
「分かりました。まだ手を出さないでください」
弥兵衛が少し迷った。
「よろしいので? かなりの量が城へ入っております」
「大丈夫です」
「しかし、このままでは三木城の兵糧が増えます」
「今日入る米を止めるために、明日から入る米の場所を見失う方が困ります」
弥兵衛は景継を見た。
やがて頷く。
「承知しました、若様」
弥兵衛が出ていった後、官兵衛が地図を覗き込んだ。
「かなり見えてきましたな」
「ええ」
兵糧を集めている場所。
運んでいる者。
途中で荷をまとめる場所。
護衛を出している国人。
三木城へ続く流れが、少しずつ一本の線として見え始めている。
官兵衛が一つの印を指した。
「ここが中心でしょうか」
「私もそう思います」
「では、そろそろ?」
景継は頷いた。
「閉じます」
◇◇◇
翌朝。
それまで残されていた最後の道へ、織田軍が姿を現した。
兵糧を運んできた者たちは驚いた。
今まで何度通っても襲われなかった。
だから今日も通れると思っていた。
だが、その先には兵が並んでいる。
さらに後方。
兵糧を集めていた場所にも別の織田軍が動いていた。
逃げようとしても、すでに遅かった。
景継は兵糧を奪うことだけを目的にはしなかった。
輸送の中心となっていた場所。
協力していた者。
護衛を出していた国人。
そこへ同時に兵を向けた。
一本の道を追いかけたことで、その根元まで見つけていた。
その日の夕刻。
三木城へ入る主要な兵糧の流れは止まった。
秀吉は地図を見ながら感心したように言った。
「最初から塞ぐより早かったかもしれんな」
「全部の道を追いかける必要がなくなりましたから」
景継が答える。
官兵衛は別のことを考えていた。
「問題はここからですな」
景継が官兵衛を見る。
「ええ」
何が起こるのか。
それは誰にでも想像できた。
城内には兵がいる。
武将がいる。
そして、戦うために城へ入ったわけではない者たちもいる。
食料がなくなれば、武将だけが腹を空かせるわけではない。
「林道殿」
官兵衛が静かに尋ねた。
「このまま完全に閉じますか?」
景継は少し黙った。
秀吉も二人を見る。
「何か問題があるのか」
官兵衛が答える。
「兵糧攻めは効きます。しかし、効けば効くほど苦しむのは兵だけではございません」
秀吉の表情が変わる。
城内にいる民。
家族。
戦う力のない者。
その者たちまで食料を失う。
「だから出口を作ります」
景継が言った。
官兵衛が景継を見る。
「出口?」
「城から出る者は止めません」
秀吉が尋ねる。
「兵もか?」
「武器を捨てるなら」
「それでは別所の兵が逃げるぞ」
「構いません」
「兵が減れば、城内の兵糧は長く持つ」
「それも分かっています」
秀吉が景継を見る。
景継は三木城の駒へ手を置いた。
「私たちが倒さなければならないのは、三木城の中にいる人間全員ではありません」
官兵衛が黙って聞いている。
「戦わない者まで閉じ込める必要はない。武器を捨て、もう戦わないと言う者も同じです」
「それで籠城が長引いてもか?」
「その時は長く待ちます」
景継は迷わず答えた。
「急いで落とすために、死ななくていい人間まで死なせる必要はありません」
秀吉は何も言わなかった。
官兵衛もまた、景継を見ていた。
その判断が甘いのか。
それとも別の意味を持つのか。
まだ分からない。
だが官兵衛は、有岡城の暗い部屋を思い出していた。
外から何も分からない。
助けが来るかも分からない。
時間だけが過ぎていく。
閉じ込められるということが、人間に何をもたらすのか。
官兵衛自身が知っていた。
「賛成いたします」
官兵衛が言った。
秀吉が官兵衛を見る。
「よいのか?」
「はい。ただし一つ、条件が必要でしょう」
「何です?」
景継が尋ねる。
「出てきた者から、城内の様子を聞くことです」
景継は少し笑った。
「やはり黒田殿ですね」
「助けることと、話を聞くことは別でございましょう?」
秀吉が頭を抱えた。
「やはり二人に増えたのは間違いだった」
◇◇◇
数日後。
三木城の外に、織田方からの知らせが掲げられた。
城から出る者を攻撃しない。
民は通す。
武器を捨てた者も通す。
ただし、兵糧を城へ持ち込むことは許さない。
最初は誰も出てこなかった。
罠だと思われた。
出た瞬間に捕らえられる。
殺される。
そう考える者が多かった。
景継は何もしなかった。
翌日。
一組の家族が出てきた。
老人。
女。
幼い子。
織田兵たちが警戒する。
しかし景継の命令どおり、誰も手を出さなかった。
食べ物と水を少し渡し、そのまま通した。
それを城壁の上から見ている者たちがいた。
さらに翌日。
今度は二組。
その次の日には、もっと増えた。
そして、武器を持たずに出てくる兵まで現れ始めた。
三木城の中では、別所長治がその報告を聞いていた。
「今日も出たのか」
「はい」
家臣が答える。
「民だけではございませぬ。足軽の中にも城を出る者が現れ始めております」
長治の顔が険しくなる。
「止めろ」
「止めれば、城内に不満が広がります」
「では、このまま逃がせというのか」
家臣は答えられなかった。
別の家臣が口を開く。
「林道景継は、なぜ攻めてこぬのでしょう」
長治がその男を見る。
「何?」
「すでに兵糧の道は断たれております。こちらが混乱している今なら、攻めることもできるはず。それでも城へ兵を向けてきません」
長治は黙った。
確かに不自然だった。
織田軍はいる。
包囲されている。
しかし三木城そのものへ大きな攻撃はない。
城から出れば通される。
城へ戻ろうとすれば止められる。
兵糧だけは絶対に入れない。
まるで城そのものではなく、籠城を続けるという選択を攻められているようだった。
「林道景継……」
長治は城外を見た。
遠くに織田軍の陣がある。
動かない。
攻めてこない。
ただ、そこにいる。
◇◇◇
同じ頃。
秀吉も同じ景色を見ていた。
「本当に攻めぬのだな」
「はい」
景継が答える。
「向こうから出てくれば?」
「武器を持って攻めてくるなら戦います」
「籠もり続ければ?」
「待ちます」
秀吉が景継を見る。
「いつまでだ?」
景継は三木城を見つめた。
すぐには答えなかった。
城の中には別所長治がいる。
兵がいる。
民がいる。
それぞれ守りたいものは違う。
兵糧が減れば、その違いが少しずつ大きくなっていく。
だが景継は、それを無理やり早めるつもりはなかった。
時間を味方につける。
それは前世でも何度も使ってきた。
ただし、前世の戦と今の戦は違う。
相手も違う。
土地も違う。
兵も違う。
だから同じ策をそのまま使うのではない。
目の前にある状況を見て、その時に使える方法を選ぶ。
それが今の景継の戦い方だった。
「別所殿が決めるまでです」
「何を?」
景継は静かに答えた。
「この城で最後まで守るものが、城なのか。それとも人なのかを」
秀吉はそれ以上尋ねなかった。
三木城はまだ落ちていない。
城壁も壊れていない。
別所長治も降伏していない。
戦は始まったばかりだった。
それでも城へ続く兵糧の道は消えた。
城からは少しずつ人が出始めている。
そして別所長治は、攻めてこない敵を前に、自分から答えを出さなければならなくなっていた。
景継はその時が来るまで、ただ待つつもりだった。




