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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

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第八十八話 城を攻めない


黒田官兵衛を有岡城から救い出して数日が経った。


官兵衛の身体には、まだ幽閉の影響が残っていた。


足の具合はすぐに元へ戻るものではなく、以前のように長時間歩き回ることも難しい。それでも官兵衛は床に伏していることを嫌い、座って話せるようになると、すぐに軍議へ顔を出すようになっていた。


「もう少し休まれた方がよいのでは?」


景継がそう言うと、官兵衛は苦笑した。


「林道殿にだけは言われたくありませんな」


「なぜです?」


「敵城へ十数人で入った方が何を申されます」


「黒田殿を助けるためです」


「私は敵城へ一人で入りましたが?」


「村重殿を説得するためでしょう?」


「同じではありませんか」


「違いますよ」


二人のやり取りを聞いていた秀吉が、呆れたように息を吐いた。


「どちらも馬鹿だということでよかろう」


景継と官兵衛が同時に秀吉を見る。


「なぜ拙者まで睨まれる」


「睨んでいませんよ」


「私もでございます」


「息まで合うようになりおって」


秀吉はそう言ったものの、その顔には以前のような険しさはなかった。


官兵衛が生きて戻った。


それだけで十分だった。


だが、戦は終わっていない。


荒木村重は依然として有岡城にいる。


毛利も西国で健在であり、石山本願寺との戦いも続いている。


織田家を取り囲んでいた敵の数は減った。


しかし、一つを片づければ次が現れる。


それが今の織田家だった。


その日の昼。


信長からの使者が到着した。


秀吉、景継、官兵衛の三人が書状を見る。


最初に表情を変えたのは秀吉だった。


「播磨か」


景継も書状へ目を落とす。


荒木村重への対応は他の織田軍にも担わせる。


秀吉は播磨方面へ戻り、崩れかけている織田方の勢力を立て直す。


そして、その最大の障害となる相手の名も書かれていた。


別所長治。


三木城。


景継は、その二つの名を見つめた。


官兵衛が景継を見る。


「別所長治について、どこまでご存じです?」


「ほとんど知りません」


景継は素直に答えた。


「播磨の有力者であることと、三木城を本拠としていることくらいです」


「ならば、まずそこからですな」


「お願いします」


官兵衛は地図を引き寄せた。


景継の前世に、別所長治という名は存在しない。


三木城という城も知らない。


当然だった。


景継の前世は、この国の人間ではない。


遥か昔。


海の向こうにあった大国で、魏に仕えた司馬懿仲達。


曹操。


曹丕。


曹叡。


そして曹爽。


数多くの者たちと争い、時には耐え、時には策を巡らせながら乱世を生き抜いた。


その記憶が景継にはある。


だが、それはこの国の未来を知る力ではなかった。


別所長治がこれから何をするのか。


三木城がどのような運命を辿るのか。


景継には分からない。


だからこそ、調べる。


敵がどれほどの兵を持っているのか。


どの国人と結びついているのか。


何を頼りに戦っているのか。


城の強みはどこにあり、弱みはどこにあるのか。


前世から持ってきたものは、この時代の知識ではない。


乱世を生き抜いた経験。


人を見る目。


敵の立場から考える癖。


そして。


勝つためなら待つことのできる忍耐だった。


官兵衛が地図上の三木城を指した。


「別所長治は、播磨でも大きな力を持つ人物です。周辺にも別所方へ味方する者が多くおります」


「単独の城ではない?」


「そう考えた方がよろしいでしょう」


秀吉も話へ加わる。


「しかも毛利がおる。三木城が耐えている間に毛利が東へ力を伸ばせば、さらに面倒になる」


景継は地図を見る。


三木城。


その周囲にある国人。


さらに西には毛利。


一つの城だけを見ていてはいけない。


「まず調べましょう」


秀吉が景継を見る。


「何をだ?」


「全部です」


「全部?」


「三木城に何人いるのか。兵糧はどれくらいあるのか。どこから物資が入るのか。別所殿を支えている者は誰なのか」


景継は地図の周囲へ視線を移した。


「城を見るのは、その後です」


◇◇◇


播磨へ入ってから、景継はすぐには兵を動かさなかった。


三木城を遠くから確認した後も同じだった。


城そのものだけを見れば、これまで戦ってきた城と比べて特別異様なものには見えない。


だが、問題は城だけではなかった。


周囲には別所方に味方する勢力が存在し、城へ物資を運ぶ道も一つではない。


さらに毛利からの支援が届く可能性もある。


景継は城を見るより先に、その周囲を調べさせた。


街道。


山道。


村。


川。


商人が使う道。


兵糧を集められそうな場所。


そして、三木城へ出入りしている人間。


数日かけて報告を集める。


秀吉はその間にも、何度か三木城を眺めていた。


そして軍議の席で尋ねた。


「それで、どこから攻める?」


景継は地図を見ていた。


「攻めません」


秀吉が聞き返す。


「何?」


「三木城は攻めません」


「では何をしに来たのだ」


「勝つためです」


秀吉が露骨に嫌そうな顔をした。


「官兵衛。こやつを何とかせい」


「私に振らないでいただきたい」


官兵衛も地図を見ている。


そして景継が書き込んだ印を、一つずつ確認していった。


しばらくして。


官兵衛が一つの道を指した。


「なるほど」


「何か分かったのか?」


秀吉が尋ねる。


官兵衛は景継を見る。


「林道殿が見ているのは、三木城ではございませんな」


「では何だ」


「城へ入るものです」


秀吉も地図を見る。


いくつもの線が三木城へ向かっていた。


兵。


武器。


そして何より兵糧。


城に籠もるには食料が必要になる。


三木城がどれほど堅くても、城そのものから米が生まれるわけではない。


外から入れなければならない。


「兵糧攻めか」


秀吉が言った。


「はい」


景継は頷いた。


「ただし、すぐに全部は止めません」


「なぜだ?」


景継は三木城へ続く道のうち、一つだけを指した。


「これだけ残します」


秀吉の眉が寄る。


「一つ残せば、そこから兵糧を入れられるぞ」


「入れてもらいます」


今度こそ秀吉が黙った。


官兵衛だけが景継の指先を見ている。


「どのくらい?」


官兵衛が尋ねた。


「分かるまでです」


「何が?」


「三木城を支えている者たちが」


官兵衛の口元に小さな笑みが浮かんだ。


「なるほど」


秀吉が二人を交互に見る。


「二人だけで納得するな」


景継は説明した。


「道がいくつもあれば、こちらも全部を見なければなりません。どこから米が来るのか。誰が運んでいるのか。誰が護衛しているのか。その一つ一つを調べる必要があります」


「だから一つだけ残す?」


「ええ。他を塞げば、三木城へ物資を入れたい者は残った道を使うしかありません」


官兵衛が続ける。


「我らが探すのではなく、向こうから一つの場所へ集まってもらうわけですな」


「その方が楽でしょう?」


秀吉はしばらく黙った後、笑った。


「やはり官兵衛を助けたのは間違いだったかもしれぬ」


「なぜです?」


「面倒な奴が二人になった」


官兵衛が笑う。


景継も少しだけ笑った。


だが、すぐに地図へ視線を戻した。


「ただし、最初は絶対に襲わないでください」


秀吉が驚いた。


「兵糧を運んでいてもか?」


「はい」


「敵へ米を届けさせるのだぞ」


「構いません」


景継が欲しいのは、一度や二度の兵糧ではない。


道そのものだった。


そして、その道を使っている人間だった。


一度襲えば、相手は道を変える。


警戒する。


隠れる。


ならば最初は安心させる。


ここなら通れる。


織田軍は気づいていない。


そう思わせる。


「全部出てきてもらいます」


景継が言った。


◇◇◇


数日後。


三木城周辺の道が次々と織田方によって押さえられた。


小さな道も。


主要な街道も。


物資を運べそうな場所には兵が置かれた。


ただ一か所だけ。


西へ続く道が残った。


最初の一日は何もなかった。


二日目。


少量の米を積んだ荷が通った。


織田兵は見ている。


しかし手を出さない。


運んでいた者たちは不審そうに周囲を見た。


何も起きない。


そのまま三木城へ入った。


三日目。


今度は量が増えた。


それでも織田軍は動かなかった。


四日目。


さらに多くなった。


護衛の兵までつくようになった。


それでも攻撃されない。


道を使う者たちの警戒が少しずつ薄れていった。


織田は、この道に気づいていない。


そんな話まで出始めた。


景継のもとには毎日、報告が届いた。


どこから来た。


何を運んでいる。


何人いた。


どの村へ立ち寄った。


誰と話した。


そして、どこから兵糧を集めているのか。


地図に印が増えていった。


弥兵衛が新しい報告を持ってくる。


「若様、本日も荷が入りました」


「どこから?」


「西側の村から運ばれたものが多いようです。ただ、途中で別の一団と合流しております」


「護衛は?」


「昨日より増えております」


「分かりました。まだ手を出さないでください」


弥兵衛が少し迷った。


「よろしいので? かなりの量が城へ入っております」


「大丈夫です」


「しかし、このままでは三木城の兵糧が増えます」


「今日入る米を止めるために、明日から入る米の場所を見失う方が困ります」


弥兵衛は景継を見た。


やがて頷く。


「承知しました、若様」


弥兵衛が出ていった後、官兵衛が地図を覗き込んだ。


「かなり見えてきましたな」


「ええ」


兵糧を集めている場所。


運んでいる者。


途中で荷をまとめる場所。


護衛を出している国人。


三木城へ続く流れが、少しずつ一本の線として見え始めている。


官兵衛が一つの印を指した。


「ここが中心でしょうか」


「私もそう思います」


「では、そろそろ?」


景継は頷いた。


「閉じます」


◇◇◇


翌朝。


それまで残されていた最後の道へ、織田軍が姿を現した。


兵糧を運んできた者たちは驚いた。


今まで何度通っても襲われなかった。


だから今日も通れると思っていた。


だが、その先には兵が並んでいる。


さらに後方。


兵糧を集めていた場所にも別の織田軍が動いていた。


逃げようとしても、すでに遅かった。


景継は兵糧を奪うことだけを目的にはしなかった。


輸送の中心となっていた場所。


協力していた者。


護衛を出していた国人。


そこへ同時に兵を向けた。


一本の道を追いかけたことで、その根元まで見つけていた。


その日の夕刻。


三木城へ入る主要な兵糧の流れは止まった。


秀吉は地図を見ながら感心したように言った。


「最初から塞ぐより早かったかもしれんな」


「全部の道を追いかける必要がなくなりましたから」


景継が答える。


官兵衛は別のことを考えていた。


「問題はここからですな」


景継が官兵衛を見る。


「ええ」


何が起こるのか。


それは誰にでも想像できた。


城内には兵がいる。


武将がいる。


そして、戦うために城へ入ったわけではない者たちもいる。


食料がなくなれば、武将だけが腹を空かせるわけではない。


「林道殿」


官兵衛が静かに尋ねた。


「このまま完全に閉じますか?」


景継は少し黙った。


秀吉も二人を見る。


「何か問題があるのか」


官兵衛が答える。


「兵糧攻めは効きます。しかし、効けば効くほど苦しむのは兵だけではございません」


秀吉の表情が変わる。


城内にいる民。


家族。


戦う力のない者。


その者たちまで食料を失う。


「だから出口を作ります」


景継が言った。


官兵衛が景継を見る。


「出口?」


「城から出る者は止めません」


秀吉が尋ねる。


「兵もか?」


「武器を捨てるなら」


「それでは別所の兵が逃げるぞ」


「構いません」


「兵が減れば、城内の兵糧は長く持つ」


「それも分かっています」


秀吉が景継を見る。


景継は三木城の駒へ手を置いた。


「私たちが倒さなければならないのは、三木城の中にいる人間全員ではありません」


官兵衛が黙って聞いている。


「戦わない者まで閉じ込める必要はない。武器を捨て、もう戦わないと言う者も同じです」


「それで籠城が長引いてもか?」


「その時は長く待ちます」


景継は迷わず答えた。


「急いで落とすために、死ななくていい人間まで死なせる必要はありません」


秀吉は何も言わなかった。


官兵衛もまた、景継を見ていた。


その判断が甘いのか。


それとも別の意味を持つのか。


まだ分からない。


だが官兵衛は、有岡城の暗い部屋を思い出していた。


外から何も分からない。


助けが来るかも分からない。


時間だけが過ぎていく。


閉じ込められるということが、人間に何をもたらすのか。


官兵衛自身が知っていた。


「賛成いたします」


官兵衛が言った。


秀吉が官兵衛を見る。


「よいのか?」


「はい。ただし一つ、条件が必要でしょう」


「何です?」


景継が尋ねる。


「出てきた者から、城内の様子を聞くことです」


景継は少し笑った。


「やはり黒田殿ですね」


「助けることと、話を聞くことは別でございましょう?」


秀吉が頭を抱えた。


「やはり二人に増えたのは間違いだった」


◇◇◇


数日後。


三木城の外に、織田方からの知らせが掲げられた。


城から出る者を攻撃しない。


民は通す。


武器を捨てた者も通す。


ただし、兵糧を城へ持ち込むことは許さない。


最初は誰も出てこなかった。


罠だと思われた。


出た瞬間に捕らえられる。


殺される。


そう考える者が多かった。


景継は何もしなかった。


翌日。


一組の家族が出てきた。


老人。


女。


幼い子。


織田兵たちが警戒する。


しかし景継の命令どおり、誰も手を出さなかった。


食べ物と水を少し渡し、そのまま通した。


それを城壁の上から見ている者たちがいた。


さらに翌日。


今度は二組。


その次の日には、もっと増えた。


そして、武器を持たずに出てくる兵まで現れ始めた。


三木城の中では、別所長治がその報告を聞いていた。


「今日も出たのか」


「はい」


家臣が答える。


「民だけではございませぬ。足軽の中にも城を出る者が現れ始めております」


長治の顔が険しくなる。


「止めろ」


「止めれば、城内に不満が広がります」


「では、このまま逃がせというのか」


家臣は答えられなかった。


別の家臣が口を開く。


「林道景継は、なぜ攻めてこぬのでしょう」


長治がその男を見る。


「何?」


「すでに兵糧の道は断たれております。こちらが混乱している今なら、攻めることもできるはず。それでも城へ兵を向けてきません」


長治は黙った。


確かに不自然だった。


織田軍はいる。


包囲されている。


しかし三木城そのものへ大きな攻撃はない。


城から出れば通される。


城へ戻ろうとすれば止められる。


兵糧だけは絶対に入れない。


まるで城そのものではなく、籠城を続けるという選択を攻められているようだった。


「林道景継……」


長治は城外を見た。


遠くに織田軍の陣がある。


動かない。


攻めてこない。


ただ、そこにいる。


◇◇◇


同じ頃。


秀吉も同じ景色を見ていた。


「本当に攻めぬのだな」


「はい」


景継が答える。


「向こうから出てくれば?」


「武器を持って攻めてくるなら戦います」


「籠もり続ければ?」


「待ちます」


秀吉が景継を見る。


「いつまでだ?」


景継は三木城を見つめた。


すぐには答えなかった。


城の中には別所長治がいる。


兵がいる。


民がいる。


それぞれ守りたいものは違う。


兵糧が減れば、その違いが少しずつ大きくなっていく。


だが景継は、それを無理やり早めるつもりはなかった。


時間を味方につける。


それは前世でも何度も使ってきた。


ただし、前世の戦と今の戦は違う。


相手も違う。


土地も違う。


兵も違う。


だから同じ策をそのまま使うのではない。


目の前にある状況を見て、その時に使える方法を選ぶ。


それが今の景継の戦い方だった。


「別所殿が決めるまでです」


「何を?」


景継は静かに答えた。


「この城で最後まで守るものが、城なのか。それとも人なのかを」


秀吉はそれ以上尋ねなかった。


三木城はまだ落ちていない。


城壁も壊れていない。


別所長治も降伏していない。


戦は始まったばかりだった。


それでも城へ続く兵糧の道は消えた。


城からは少しずつ人が出始めている。


そして別所長治は、攻めてこない敵を前に、自分から答えを出さなければならなくなっていた。


景継はその時が来るまで、ただ待つつもりだった。

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