第八十六話 希望が見えた時
毛利方の男が東へ向かっている。
その報告が届いてから、景継は有岡城へ兵を進めなかった。
毛利方の男を捕らえることもしなかった。
ただ、その動きを追わせた。
一日が経ち、二つ目の報告が届く。
男は摂津へ入った。
さらに翌朝。
別の間者が戻ってきた。
「毛利方の者と思われる男は、有岡城近くの寺へ入りました。その後、城から出てきた者と接触しております」
景継は地図を見ながら尋ねた。
「書状は?」
「渡したように見えたとのことです」
「その後は?」
「毛利方の男は西へ戻りました」
景継は小さく頷いた。
これで一つ分かった。
有岡城と毛利を結ぶ連絡路は、まだ生きている。
荒木村重が毛利を頼っているという推測も、ほぼ間違いない。
しかし、これだけでは援軍が来る証拠にはならなかった。
「まだ待つのか?」
秀吉が尋ねた。
ここ数日、同じ問いを何度聞いたか分からない。
景継は頷いた。
「もう少しだけ」
「官兵衛は城の中だぞ」
「分かっています」
「毛利まで来れば、敵が増える」
「それも分かっています」
秀吉の声が少し強くなった。
「ならば、なぜ待つ?」
景継は地図から顔を上げた。
「今、有岡城には一つだけ足りないものがあります」
「何だ?」
「希望です」
秀吉が眉をひそめた。
景継は有岡城を示す駒を指した。
「『毛利の援軍は来ない』という噂は、すでに城内まで届いているはずです。村重殿自身は信じていなくても、兵まで同じとは限りません」
毛利は来る。
村重はそう言い続けているだろう。
だが、実際には来ない。
一日。
二日。
三日。
待つ時間が長くなればなるほど、城内には疑いが広がっていく。
本当に毛利は来るのか。
自分たちは見捨てられたのではないか。
このまま織田と戦って勝てるのか。
景継が狙ったのは、そこだった。
「今の有岡城は守りに入っています。外へ出れば織田軍に襲われるかもしれない。毛利も来ないかもしれない。だから兵は城の中に集まる」
「それでは余計に攻めにくいではないか」
「ええ。今は」
景継は西側へ置いていた毛利の駒を手に取った。
「ですが、本当に毛利が来たらどうでしょう」
秀吉の目が地図へ落ちる。
「城内は喜ぶだろうな」
「それだけではありません」
景継は毛利の駒を少しずつ有岡城へ近づけた。
「人は絶望している時には慎重になります。失敗すれば終わると思っているからです。しかし、助かるかもしれないと思った瞬間には――」
毛利の駒を止める。
「自分から動きます」
秀吉はしばらく何も言わなかった。
そして、ようやく気づいた。
「村重を城から出すつもりか」
「村重殿本人でなくても構いません。兵が出れば十分です」
「毛利を迎えるために?」
「ええ」
有岡城の兵が動けば、城内の守りも変わる。
どの門を使うのか。
どれほどの兵を出すのか。
どこへ守備兵を集めるのか。
それは実際に毛利が現れなければ分からない。
だから景継は毛利を止めない。
敵の援軍を利用して、敵の城を動かす。
「危険だぞ」
秀吉が言った。
「毛利と村重が合流すれば、こちらが不利になる」
「だから合流させません」
景継は即答した。
「有岡城から兵が出るまでは毛利を止めない。出たところで、両者の間へ兵を入れます」
「挟まれるぞ」
「戦うために入るのではありません」
景継は二つの駒の間に織田の駒を置いた。
「道を塞ぐだけです」
毛利と村重。
両方から攻撃を受ければ危険なのは当然だった。
だから大軍を置くつもりはない。
街道。
川。
狭い道。
大軍が一度に動けない場所を使う。
時間さえ稼げればいい。
官兵衛を救い出すまで。
「もし村重が兵を出さなかったら?」
「その時は何もしません」
「毛利がそのまま城へ入るぞ」
「その前に止めます」
「ならば結局、毛利と戦うことになる」
「そうですね」
景継はあっさり認めた。
「この策は、村重殿が動くことを前提にしています。動かなければ失敗です」
秀吉が意外そうな顔をした。
「お主でも、失敗する策を使うのだな」
「成功すると分かっている策なんてありませんよ」
景継は少し笑った。
「だから、失敗した時にどうするかまで決めておくんです」
秀吉はそれ以上何も言わなかった。
景継は再び西を見た。
あとは。
毛利が本当に来るのか。
それだけだった。
◇◇◇
有岡城。
荒木村重のもとへ書状が届いたのは、その日の夕刻だった。
村重は封を切り、食い入るように文字を追った。
読み終えた後。
もう一度読む。
そして、ようやく顔を上げた。
「来る」
周囲の家臣たちが村重を見る。
「毛利が動くぞ」
「まことでございますか!」
「間違いない。すでに準備へ入っている」
家臣たちの表情が一変した。
ここ数日。
城内には重い空気が流れていた。
毛利は来ない。
村重は見捨てられた。
その噂を表立って口にする者はいなかったが、誰もが知っていた。
だからこそ、毛利から届いた返事の意味は大きかった。
「やはり織田の流した噂だったのだ!」
一人の家臣が声を上げる。
「林道景継め。我らを惑わせようとしたか!」
別の者も続いた。
村重自身も同じことを考えた。
やはり景継の策だった。
毛利が来ないと思わせ、こちらの士気を崩そうとした。
だが失敗した。
毛利は来る。
それが分かった以上、もう恐れる必要はない。
「城内の者にも知らせよ」
「よろしいので?」
「構わぬ。毛利は我らを見捨てておらぬとな」
「はっ!」
報せはすぐに城内へ広がった。
それまで沈んでいた兵たちの顔に明るさが戻る。
毛利は来る。
援軍が来る。
自分たちは孤立していない。
その言葉が広がるたびに、城内の空気が変わっていった。
そして。
景継が待っていた変化も。
同時に始まった。
◇◇◇
二日後。
「西に動きがございます!」
景継のもとへ間者が駆け込んできた。
秀吉が立ち上がる。
景継は座ったまま尋ねた。
「規模は?」
「まだ正確には分かりませぬ。しかし、毛利方の旗を確認しております。兵だけではなく、物資を運ぶ一団もいるようです」
ついに来た。
秀吉が景継を見る。
「どうする」
「まだ何もしません」
「近づかせるのか?」
「予定どおりです」
景継は弥兵衛へ命じた。
「西へ出している者には手を出させないでください。ただし、どの道を通っているかだけは見失わないように」
「はっ」
「有岡城の監視を増やしてください」
「毛利ではなく、有岡城を?」
「そちらの方が重要です」
弥兵衛が部屋を出る。
秀吉は地図の上で近づいてくる毛利の駒を見ていた。
「気味が悪いな」
「何がです?」
「敵の援軍が来ているのに、お主が嬉しそうに見える」
「嬉しくはありませんよ」
「そうか?」
「ただ、来てくれて助かりました」
「それを嬉しいと言うのではないか」
景継は答えず、地図へ目を戻した。
毛利が来なければ別の方法を考えるつもりだった。
だが来た。
ならば使う。
それだけだった。
◇◇◇
毛利方の一団がさらに近づいたという報せは、その翌朝には有岡城にも届いた。
物見が城内へ駆け込んでくる。
「申し上げます! 西方に毛利方と思われる旗を確認!」
「来たか!」
村重が立ち上がった。
「どこだ!」
場所を聞く。
まだ有岡城から距離はある。
だが一日、遅くとも二日もあれば接触できる位置だった。
「織田軍は?」
「今のところ、大きな動きはございませぬ!」
村重は笑った。
景継は毛利が来ないという噂を流した。
つまり、毛利が来ることを知らなかった。
そう考えた。
「景継め、読み違えたな」
村重の声に力が戻る。
毛利が近づいているのなら、城で待っているだけではいけない。
織田方が気づけば、当然妨害に出る。
ならば、その前に毛利との道を確保する必要がある。
「兵を出す」
重臣の一人が顔を上げた。
「城外へ、でございますか?」
「毛利を迎える。周辺の道を押さえよ」
「しかし、林道景継が動く可能性がございます」
「だから先に動くのだ」
村重は地図を広げた。
「毛利と合流できれば、奴も簡単には手を出せぬ。援軍を城へ入れれば、籠城はさらに続けられる」
「どれほど出します?」
村重は考えた。
少なすぎれば、織田軍に押し戻される。
多すぎれば城が薄くなる。
それでも。
今は毛利との合流を優先すべきだと判断した。
「まず千五百。状況次第でもう五百出す」
命令が下った。
城内が慌ただしくなる。
兵が集められ、武具が運ばれる。
閉ざされていた門が開き。
有岡城から兵が出始めた。
その光景を。
遠くから見ている者がいた。
◇◇◇
「出ました」
報告を受けた景継が顔を上げる。
「数は?」
「千を超えております。まだ後続があるかと」
秀吉もすぐに地図へ近づいた。
「来たな」
「ええ」
景継は有岡城から駒を取り、毛利の方向へ動かした。
最初の目的は達成した。
だが、ここからが本番だった。
「官兵衛殿の居場所は?」
景継が尋ねる。
別の間者が答える。
「確実ではございませぬ。ただ、城内北側の一角に厳重に守られている建物がございます。以前はそれほど兵が置かれていなかった場所です。黒田様が捕らえられた頃から急に警戒が強くなったとのこと」
「見張りの数は?」
「普段は二十ほど。ただし先ほど、そこからも何人か兵が移動しております」
景継の目が変わった。
毛利を迎えるために、村重は城内から兵を集めている。
城門。
城壁。
外へ出す部隊。
そのため、官兵衛を監視している兵まで削り始めた。
「間違いなく黒田殿だと思いますか?」
「断言はできませぬ」
「十分です」
秀吉が景継を見る。
「入るのか?」
「まだです」
「まだ待つのか!」
「あと一つだけ」
景継は外へ出た村重軍の駒を見た。
千五百。
まだ足りない。
有岡城には兵が残っている。
官兵衛の監視も完全には消えていない。
ここで救出へ入れば、城内で戦闘になる可能性が高い。
もう少し。
もう一度。
村重に兵を出してもらう。
「どうする?」
秀吉が尋ねた。
景継は毛利と村重の駒を見比べた。
「毛利との距離を、もう少し縮めます」
「まだ近づけるのか?」
「村重殿に、あと少しで合流できると思ってもらいます」
「その後は?」
景継は二つの駒の間に指を置いた。
「ここを閉じます」
◇◇◇
昼を過ぎた頃。
村重軍は西へ進んでいた。
毛利方との距離は確実に縮まっている。
先行していた物見が戻ってきた。
「毛利方を確認! このまま進めば、間もなく合流できます!」
指揮を任されていた武将が安堵する。
織田軍はまだ姿を見せない。
景継は毛利の動きを見落としている。
そう思った。
その報告はすぐに有岡城へ送られた。
村重も喜んだ。
「さらに兵を出せ」
家臣が驚く。
「まだ出すので?」
「今が好機だ。織田が動く前に毛利との道を完全に押さえる」
「しかし城内の兵が――」
「毛利が入れば補える!」
村重は迷わなかった。
「五百を追加せよ!」
再び有岡城の門が開いた。
二つ目の部隊が出る。
その中には、城内の警備を担当していた者も混じっていた。
官兵衛が幽閉されていると思われる一角からも、さらに兵が抜かれた。
その報告が景継へ届く。
今度は。
景継は待たなかった。
「始めましょう」
秀吉の顔つきが変わった。
「毛利を止めるか?」
「お願いします」
「どこで止める?」
景継が地図の一点を指した。
毛利と村重軍の間。
道幅が狭く、一度に大軍が展開しにくい場所だった。
「ここへ兵を入れてください。ただし、追わなくていい。毛利が止まれば十分です」
「村重軍は?」
「毛利へ行こうとするでしょう」
「挟まれるぞ」
「長く戦う必要はありません」
景継は有岡城へ目を向けた。
「こちらが終わるまで持たせてください」
秀吉がその言葉に反応した。
「こちら?」
景継は答えた。
「黒田殿を取り戻します」
秀吉が目を見開く。
「もう居場所が分かったのか?」
「確実ではありません」
「ならば――」
「確実になるまで待っていたら、機会を失います」
景継は立ち上がった。
すでに選んでいた兵がいる。
数は多くない。
大軍で城へ入れば、村重軍がすぐに気づく。
必要なのは、官兵衛を連れて戻れるだけの人数だった。
秀吉が景継を見た。
「まさか、お主が行くつもりではあるまいな」
「行きます」
「馬鹿を申すな!」
秀吉の声が部屋に響いた。
「お主は五千を預かる身だぞ! なぜ自ら敵城へ入る!」
「黒田殿の顔を知っています」
「他にも知っている者はおる!」
「それだけではありません」
景継は少し考えてから続けた。
「私が行かせたんです」
秀吉が黙る。
「危険だと分かっていた。それでも黒田殿の判断を認めて、有岡城へ行かせた。ならば、連れ戻すところまで私がやります」
「戦は情で動くものではないぞ」
「分かっています」
景継は秀吉を見る。
「だから、勝てる状況になるまで待ちました」
秀吉は何も言えなくなった。
感情だけで突入するのなら止める。
だが景継は待った。
毛利が来るまで。
村重が動くまで。
城内の兵が減るまで。
すべてが重なった今。
ようやく動こうとしている。
「……必ず戻れ」
秀吉が低い声で言った。
景継は頷いた。
「もちろんです」
◇◇◇
その頃。
有岡城の一角。
光のほとんど入らない部屋で、官兵衛は壁に背を預けていた。
何日経ったのか。
正確には分からなくなっていた。
食事は運ばれてくる。
殺すつもりなら、とっくに殺している。
ならば村重は、自分をまだ何かに使うつもりなのだろう。
官兵衛はそう考えていた。
ここ数日。
城内の様子が変わっている。
最初は兵たちの声が暗かった。
毛利が来ない。
そんな言葉を一度だけ聞いた。
それから数日。
今度は逆に騒がしくなった。
毛利が来る。
誰かがそう叫んでいた。
そして今日。
見張りの数が減った。
官兵衛はそこまでを頭の中でつなげた。
「なるほど……」
毛利が来ないという噂。
その直後に、本当に毛利が近づく。
有岡城から兵が出ているらしい。
偶然とは思えなかった。
誰が仕掛けたのか。
考える必要もない。
官兵衛は暗い部屋の中で、小さく笑った。
「林道殿」
やはり。
待っていたのか。
自分を助けるために焦って攻めるのではなく。
村重が自分から隙を作るまで。
その時。
遠くから音が聞こえた。
最初は小さかった。
だが、少しずつ大きくなる。
兵の声。
何かを命じる声。
走る足音。
そして。
今までとは違う方向から聞こえてきた。
官兵衛はゆっくりと立ち上がった。
◇◇◇
有岡城の外。
景継は十数人の兵とともに、城を見ていた。
門は開いている。
追加の兵を送り出した直後だった。
当然、無防備ではない。
守備兵もいる。
門を閉じることもできる。
だが。
今までとは違う。
城内の意識が西へ向いている。
毛利へ。
外へ出た味方へ。
そして、織田軍が毛利を止めに動き始めたという報せへ。
景継たちを見ている者は少ない。
「行きます」
弥兵衛が隣で頷いた。
「黒田様の場所が違っていた場合は?」
景継は城内北側へ目を向けた。
「その時は探します」
「見つからなければ?」
「引きます」
弥兵衛が少し驚いた。
景継は続けた。
「黒田殿を助けるために全員死んだら、次の機会までなくなります。無理だと思ったら退く。それだけは忘れないでください」
「承知しました」
景継は一度だけ城を見上げた。
毛利の援軍は来ない。
そう噂を流した。
だが毛利は来た。
普通なら。
策が外れたと考える。
景継にとっては違った。
策が外れたなら。
外れた結果を使えばいい。
敵が自分の思いどおりに動く必要などない。
乱世で。
すべてが思いどおりになるはずがない。
重要なのは。
思いどおりにならなかった時に。
次の手を出せるかどうか。
景継は腰の刀へ手を添えた。
「黒田殿を連れて帰ります」
そして。
城門へ向かって歩き始めた。
毛利と村重が合流するまで。
時間は。
それほど残されていなかった。




