第八十五話 来ない援軍
黒田官兵衛が有岡城から戻らなくなって三日。
景継は、まだ一兵も城へ向かわせていなかった。
有岡城を示す駒を前に、羽柴秀吉は何度目か分からないため息をついた。
「官兵衛が生きているとしても、いつまで無事か分からぬ。このまま待つつもりか?」
「待ちます」
景継は地図から目を離さずに答えた。
「いつまでだ」
「村重殿が動くまでです」
秀吉の眉間に皺が寄った。
官兵衛が捕らえられている可能性が高い以上、秀吉が焦るのも無理はない。
景継自身、何も感じていないわけではなかった。
むしろ逆だった。
官兵衛が有岡城へ向かう前、危険性を指摘したのは景継自身である。
村重がすでに織田と戦うことを決めているなら、官兵衛は使者ではなく人質になる。
そう予測していた。
それでも官兵衛を行かせた。
だからこそ、今すぐ兵を出したいという思いは景継にもあった。
だが、焦りに従って兵を動かせば、それこそ村重の望む戦いになる。
有岡城は堅い。
正面から攻めれば時間がかかり、官兵衛がどこに捕らえられているかも分からない。
城内へ攻撃を加えたことで官兵衛を巻き込む危険すらある。
何より、村重には籠城を続ける理由があった。
「秀吉殿。村重殿は、何を待っていると思います?」
突然尋ねられ、秀吉は景継を見る。
「何を?」
「このまま有岡城へ籠もっていれば、いずれ織田軍が来る。それは村重殿にも分かっているはずです。それでも城から動かない」
「城に自信があるからではないのか」
「それだけでしょうか」
景継は有岡城から西へ指を動かした。
その先にある駒を見て、秀吉の表情が変わった。
「毛利か」
「ええ」
景継は頷いた。
荒木村重が単独で信長と戦うのであれば、あまりにも分が悪い。
摂津に勢力を持っているとはいえ、相手は織田家である。
だが、毛利と本願寺が加われば話は変わる。
西から毛利。
石山には本願寺。
そして有岡城には村重。
互いが連携すれば、織田軍を複数方面へ分散させることができる。
「村重殿が毛利の援軍を期待していると?」
「少なくとも、何らかの支援を期待しているはずです」
秀吉は腕を組んだ。
「ならば、その援軍を止めるか」
景継は首を横に振った。
「まだ来てもいないものを止めることはできません」
「ならば西へ兵を置く。毛利が来ればそこで叩けばよい」
「それでは村重殿は有岡城から動きません」
秀吉が黙る。
景継は地図の上にある毛利の駒を一つ取り、西へ動かした。
それは数日前、実際に起きたことだった。
景継との駆け引きを終えた毛利水軍は、深追いすることなく西へ退いた。
兵を失ったわけではない。
敗走したわけでもない。
戦う意味がないと判断して、自ら退いた。
だが、事情を知らない者から見ればどうだろう。
織田とぶつかることを避けて、西へ戻った。
そう見えてもおかしくない。
「この前の毛利の撤退を使います」
「使う?」
「噂を流します」
秀吉の目が細くなった。
「どんな噂だ」
景継は毛利の駒を地図の西端へ置いた。
「毛利は荒木村重を見捨てた。援軍は来ない、と」
秀吉はすぐには答えなかった。
やがて、少し疑うような表情を浮かべる。
「そんなものを村重が信じるか?」
「信じなくていいんです」
「何?」
景継はようやく地図から顔を上げた。
「最初から信じてもらおうとは思っていません」
秀吉には意味が分からないようだった。
「では、何のために噂を流す?」
「疑ってもらうためです」
景継はそう答えると、毛利から有岡城へ伸びる道を指でなぞった。
「人は、明らかな嘘なら簡単に捨てられます。しかし、もしかしたら本当かもしれないと思った瞬間から、無視できなくなる」
今回の噂には、事実がある。
毛利水軍が西へ退いた。
織田との正面衝突を避けた。
これは事実だった。
そこへ、わずかな推測を加える。
毛利は東へ再び兵を出すことをためらっている。
そして最後に、一つだけ嘘を加える。
荒木村重への援軍を取りやめた。
「村重殿が『そんなはずはない』と思ってくれれば、それでいい」
「なぜだ?」
「ならば確かめたくなります」
秀吉が景継を見た。
「……毛利へ使者を出すと?」
「おそらく」
景継は頷いた。
「今の我々には、村重殿と毛利がどのように連絡を取っているのか分かりません。誰を使っているのか。どの道を通るのか。毛利側の誰へ話を通しているのか。それをこちらから探せば時間がかかる」
そこで景継は、有岡城の駒を指で軽く叩いた。
「ならば村重殿本人に教えてもらえばいい」
秀吉はしばらく景継を見ていた。
やがて呆れたように笑う。
「お主は、官兵衛が捕らえられてから余計に性格が悪くなっておらぬか?」
「黒田殿を取り戻すためです」
「官兵衛が聞けば喜ぶかのう」
「本人に聞いてみましょう。戻ってきたら」
景継はそう言った。
冗談めいた言葉だった。
だが、その目は笑っていなかった。
必ず戻す。
そのために、今は待つ。
◇◇◇
翌日から、摂津周辺で奇妙な噂が流れ始めた。
最初は商人だった。
「毛利の船が西へ戻ったらしい」
それ自体は事実である。
次に旅人が言った。
「毛利は織田と正面から戦うつもりがないらしい」
これは半分だけ正しい。
毛利が景継との戦いから退いたのは事実だが、織田家全体との戦いを避けると決めたわけではない。
さらに数日もしないうちに、話は変わった。
「荒木村重は毛利を頼っているらしい」
「だが毛利は来ないそうだ」
「村重は見捨てられたのではないか」
誰が最初に言ったのか。
それが分からないように景継は人を使った。
一人の人間に同じ話を何度も言わせることもしない。
商人には商人の言葉で。
農民には農民の言葉で。
旅人には、旅の途中で聞いた話として。
噂は少しずつ形を変えながら広がった。
そして当然。
有岡城にも届いた。
「馬鹿な!」
荒木村重の怒声が部屋に響いた。
家臣たちは誰も顔を上げない。
「毛利が我らを見捨てただと? 誰がそのような戯言を申しておる!」
「城下だけではございませぬ。周辺の村々でも同じ噂が流れているようで……」
「織田の策に決まっておろう!」
村重は吐き捨てた。
家臣も頷く。
「我らもそう考えております」
「ならば放っておけ」
村重はそう命じた。
だが、家臣が部屋を出ていった後も、その表情は戻らなかった。
毛利は来る。
話はついている。
少なくとも村重は、そう考えていた。
だからこそ信長と戦う決断をした。
織田家を敵に回すことが、どれほど危険か分からないほど愚かではない。
毛利。
本願寺。
そして自分。
三者が連携すれば勝機はある。
だが、そのうち一つが欠ければ。
村重は首を横に振った。
「くだらぬ」
自分に言い聞かせるように呟いた。
噂に惑わされる必要などない。
毛利は来る。
そう信じればよい。
◇◇◇
しかし、翌日も毛利は現れなかった。
その次の日も。
有岡城から見える景色は変わらない。
織田軍が大挙して押し寄せてくることもなければ、毛利の旗が西から現れることもない。
不気味なほど静かだった。
そして、その静けさこそ景継が求めていた。
「攻めてこない……」
有岡城の城兵の間でも、少しずつ話が出始めた。
織田軍がすぐに来れば、戦うしかない。
敵が目の前にいれば、余計なことを考える暇もない。
だが敵が来ない。
毛利も来ない。
時間だけが過ぎていく。
すると、人は考える。
本当に援軍は来るのか。
毛利は西へ退いたのではなかったか。
自分たちは、誰を頼りに信長と戦おうとしているのか。
村重は城内で噂を禁じた。
「毛利が来ないなどと口にする者は処罰する」
その命令によって、表立って話す者はいなくなった。
だが噂が消えたわけではない。
むしろ口にできなくなったことで、それぞれの胸の中に残った。
そして村重自身も。
毎日のように西からの報せを求めるようになった。
「まだか」
「はっ?」
「毛利からの使者だ」
「まだ到着しておりませぬ」
「そうか」
翌日も同じだった。
「毛利からは?」
「ございませぬ」
さらに翌日。
「まだ何もないのか」
「はい」
村重は家臣を下がらせた後、一人で部屋に残った。
織田の策だ。
分かっている。
分かっているはずなのに。
なぜ毛利から何も来ない。
噂が流れた直後だからこそ、余計に沈黙が気になる。
もし景継が最初からそれを狙っていたのなら。
村重はそこまで考えて、拳を握った。
「林道景継……」
その名は、すでに聞いている。
浅井。
朝倉。
長篠。
そして毛利との駆け引き。
力だけで押してくる男ではない。
だからこそ、今回の噂も景継の仕業だと考えた。
ならば。
逆に考えればいい。
景継が「毛利は来ない」と思わせようとしているのなら、毛利は来る。
そう考えればいいだけだ。
村重は立ち上がった。
「誰か!」
家臣が入ってくる。
「お呼びでしょうか」
「毛利へ使者を出せ」
家臣が一瞬、驚いた。
「毛利へ、でございますか?」
「援軍がいつ動くのか確かめろ。こちらの状況も伝えよ」
「しかし、今は織田方が周辺を探っております。城を出れば見つかる恐れが」
「だから何だ」
村重の声が低くなる。
「何も分からぬまま待ち続けろというのか」
「いえ……」
「人を選べ。街道は使わせるな。織田の目が薄い道を通らせろ」
「はっ」
家臣が下がる。
村重は再び西を見た。
これで分かる。
毛利が来るのか。
来ないのか。
景継の噂が嘘なのか。
本当なのか。
確かめればいい。
それだけのことだった。
◇◇◇
その日の夜。
有岡城から、一人の男が出た。
城門を堂々と通ったわけではない。
夜陰に紛れ、城下を抜ける。
農民に近い格好をしていた。
腰に目立つ刀もない。
男は何度も後ろを振り返りながら西へ向かった。
街道には出ない。
細い道を選び、人の少ない場所を進んでいく。
男自身、自分が見られているとは思っていなかった。
しかし。
少し離れた場所から。
その背中を見ている者がいた。
男が西へ進路を取ったのを確認すると、その者は静かに姿を消した。
しばらくして。
景継のもとへ報告が届いた。
「有岡城より、一人出ました」
景継は書いていたものから顔を上げた。
秀吉もすぐに反応する。
「誰だ?」
「身分までは分かりませぬ。ただ、城を出てから西へ向かっております。街道を避け、かなり警戒している様子です」
「捕らえろ」
秀吉が即座に命じようとした。
「待ってください」
景継が止める。
秀吉が振り返った。
「毛利への使者であろう?」
「おそらく」
「ならば捕らえて書状を奪えばよい」
景継は首を横に振った。
「それでは一つしか分かりません」
「一つ?」
「書状に書かれていることだけです」
景継は立ち上がり、西へ続く道を地図で確認した。
使者を捕らえれば、村重が毛利へ何を求めているのかは分かるかもしれない。
だが、それだけだ。
誰へ届けるのか。
どこで毛利側の人間と接触するのか。
どの道が連絡に使われているのか。
そして何より。
毛利が村重へ何を返すのか。
それは使者を捕らえれば分からなくなる。
「行かせます」
秀吉が驚いた。
「毛利のところまで?」
「ええ」
「途中で見失ったらどうする」
「その可能性はあります」
「書状を処分されたら?」
「それもあります」
秀吉の顔に苛立ちが浮かぶ。
「ならば今捕らえた方が確実ではないか」
「確実ですよ」
景継は認めた。
「ですが、確実に得られる小さな情報より、不確実でも大きな情報を取りに行きます」
秀吉はしばらく黙った。
景継は追跡を担当する者へ向き直る。
「近づきすぎないでください。途中で人を替えながら追うんです。一人で最後まで追えば気づかれます」
「はっ」
「それから、絶対に手を出さないように」
「途中で毛利の者と接触しても、ですか?」
「はい」
景継は即答した。
「誰と会ったのか。何を渡したのか。そして、その後どう動くのか。それだけ見てください」
「承知いたしました」
男が出ていく。
秀吉はまだ納得していないようだった。
「これで毛利が本当に来ないと分かったら?」
景継は少し考えた。
「その時は、噂を事実に変えます」
「では、本当に援軍が来るなら?」
景継は有岡城の駒を見た。
その場合。
話はさらに面白くなる。
村重は今、毛利が来ないかもしれないという疑念を抱いている。
城兵も同じだ。
そこへ突然。
本物の毛利援軍が姿を見せたら。
どうなる。
絶望しかけていた者ほど、希望が見えた瞬間に大きく動く。
慎重だった者ほど、今度こそ機会を逃すまいと前へ出る。
人は追い詰められている時より。
助かったと思った瞬間の方が。
隙を見せることがある。
景継はまだ、それを口にはしなかった。
「来るなら、来てから考えます」
秀吉が疑わしそうな顔をする。
「本当か?」
「ええ」
「すでに何か考えている顔に見えるが」
景継は少し笑った。
「黒田殿なら、同じことを言ったでしょうね」
その名前が出ると。
秀吉の表情から笑みが消えた。
景継も同じだった。
官兵衛が生きているのか。
今どこにいるのか。
まだ何も分からない。
だからこそ。
この使者を逃すわけにはいかなかった。
有岡城を落とすためではない。
荒木村重を討つためでもない。
官兵衛へ辿り着くための道を。
今、ようやく一つ見つけた。
◇◇◇
翌朝。
追跡から最初の報告が届いた。
使者は西へ向かっている。
街道を避けながらも、進路は変わっていない。
そして昼。
二つ目の報告。
使者がある寺へ立ち寄った。
そこで別の男と接触したという。
景継は地図へ印をつけた。
夕刻。
三つ目の報告が届く。
寺で接触した男が、今度は別方向へ動き始めた。
秀吉が地図を覗き込む。
「使者本人が毛利まで行くわけではないのか」
「そのようですね」
「では、どうする?」
「両方追います」
景継は迷わなかった。
村重から出た使者。
寺で受け取った男。
そこからさらに別の者へ渡る可能性もある。
一つずつ。
つないでいけばいい。
その先に。
毛利がいる。
夜が深くなっても、景継は地図の前から動かなかった。
官兵衛が戻らなくなってから。
眠る時間は明らかに減っていた。
それでも焦って兵は動かさない。
今動けば。
官兵衛を救うためではなく。
自分の不安を消すために戦うことになる。
それだけは避けたかった。
やがて深夜。
新しい足音が近づいてきた。
景継が顔を上げる。
入ってきた男は、息を切らしていた。
「申し上げます」
「どうしました?」
男は一度呼吸を整えた。
そして。
景継が待っていた報告を口にした。
「毛利方の者と思われる男との接触を確認いたしました」
秀吉が立ち上がる。
景継の目が細くなる。
「間違いありませんか?」
「断言はできませぬ。しかし、その後の動きから見て可能性は高いかと」
「何か渡しましたか?」
「書状と思われるものを」
景継は地図へ視線を落とした。
つながった。
有岡城から。
毛利まで。
一本の線が見えた。
だが。
報告には続きがあった。
「それから、もう一つございます」
景継が顔を上げる。
「何です?」
「毛利方の男は書状を受け取った後、西へ戻っておりませぬ」
秀吉が眉をひそめた。
「では、どこへ?」
男は答えた。
「東へ向かっております」
部屋が静かになった。
東。
つまり。
有岡城の方向。
景継はゆっくりと地図へ手を伸ばした。
毛利の駒を一つ取る。
そして。
西から東へ動かした。
「そうですか」
秀吉が景継を見る。
「何が分かった?」
景継はすぐには答えなかった。
まだ確定したわけではない。
ただの返答を届ける使者かもしれない。
だが。
もし違うなら。
もし毛利が。
本当に動こうとしているのなら。
自分たちが流した、
『毛利の援軍は来ない』
という噂は。
間もなく嘘になる。
しかし景継の表情に焦りはなかった。
むしろ。
初めて有岡城を攻めるための道が見え始めていた。
「もう少し確認しましょう」
「毛利が動くかどうかを?」
「ええ」
景継は有岡城の駒を見つめた。
「もし本当に来るのなら――」
そこで言葉を止める。
秀吉が続きを待つ。
景継は毛利の駒を、有岡城のすぐ近くまで動かした。
「止めません」
秀吉の目が大きく見開かれた。
景継は静かに続けた。
「毛利には、有岡城の近くまで来てもらいます」
毛利の援軍を待っている荒木村重。
その援軍は来ないと噂を流した景継。
そして今。
本当に毛利が動こうとしている。
ならば。
その希望そのものを。
官兵衛を取り戻すために使えばいい。
景継は有岡城を見つめながら。
次の一手を考え始めていた。




