表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
85/85

第八十五話 来ない援軍


黒田官兵衛が有岡城から戻らなくなって三日。


景継は、まだ一兵も城へ向かわせていなかった。


有岡城を示す駒を前に、羽柴秀吉は何度目か分からないため息をついた。


「官兵衛が生きているとしても、いつまで無事か分からぬ。このまま待つつもりか?」


「待ちます」


景継は地図から目を離さずに答えた。


「いつまでだ」


「村重殿が動くまでです」


秀吉の眉間に皺が寄った。


官兵衛が捕らえられている可能性が高い以上、秀吉が焦るのも無理はない。


景継自身、何も感じていないわけではなかった。


むしろ逆だった。


官兵衛が有岡城へ向かう前、危険性を指摘したのは景継自身である。


村重がすでに織田と戦うことを決めているなら、官兵衛は使者ではなく人質になる。


そう予測していた。


それでも官兵衛を行かせた。


だからこそ、今すぐ兵を出したいという思いは景継にもあった。


だが、焦りに従って兵を動かせば、それこそ村重の望む戦いになる。


有岡城は堅い。


正面から攻めれば時間がかかり、官兵衛がどこに捕らえられているかも分からない。


城内へ攻撃を加えたことで官兵衛を巻き込む危険すらある。


何より、村重には籠城を続ける理由があった。


「秀吉殿。村重殿は、何を待っていると思います?」


突然尋ねられ、秀吉は景継を見る。


「何を?」


「このまま有岡城へ籠もっていれば、いずれ織田軍が来る。それは村重殿にも分かっているはずです。それでも城から動かない」


「城に自信があるからではないのか」


「それだけでしょうか」


景継は有岡城から西へ指を動かした。


その先にある駒を見て、秀吉の表情が変わった。


「毛利か」


「ええ」


景継は頷いた。


荒木村重が単独で信長と戦うのであれば、あまりにも分が悪い。


摂津に勢力を持っているとはいえ、相手は織田家である。


だが、毛利と本願寺が加われば話は変わる。


西から毛利。


石山には本願寺。


そして有岡城には村重。


互いが連携すれば、織田軍を複数方面へ分散させることができる。


「村重殿が毛利の援軍を期待していると?」


「少なくとも、何らかの支援を期待しているはずです」


秀吉は腕を組んだ。


「ならば、その援軍を止めるか」


景継は首を横に振った。


「まだ来てもいないものを止めることはできません」


「ならば西へ兵を置く。毛利が来ればそこで叩けばよい」


「それでは村重殿は有岡城から動きません」


秀吉が黙る。


景継は地図の上にある毛利の駒を一つ取り、西へ動かした。


それは数日前、実際に起きたことだった。


景継との駆け引きを終えた毛利水軍は、深追いすることなく西へ退いた。


兵を失ったわけではない。


敗走したわけでもない。


戦う意味がないと判断して、自ら退いた。


だが、事情を知らない者から見ればどうだろう。


織田とぶつかることを避けて、西へ戻った。


そう見えてもおかしくない。


「この前の毛利の撤退を使います」


「使う?」


「噂を流します」


秀吉の目が細くなった。


「どんな噂だ」


景継は毛利の駒を地図の西端へ置いた。


「毛利は荒木村重を見捨てた。援軍は来ない、と」


秀吉はすぐには答えなかった。


やがて、少し疑うような表情を浮かべる。


「そんなものを村重が信じるか?」


「信じなくていいんです」


「何?」


景継はようやく地図から顔を上げた。


「最初から信じてもらおうとは思っていません」


秀吉には意味が分からないようだった。


「では、何のために噂を流す?」


「疑ってもらうためです」


景継はそう答えると、毛利から有岡城へ伸びる道を指でなぞった。


「人は、明らかな嘘なら簡単に捨てられます。しかし、もしかしたら本当かもしれないと思った瞬間から、無視できなくなる」


今回の噂には、事実がある。


毛利水軍が西へ退いた。


織田との正面衝突を避けた。


これは事実だった。


そこへ、わずかな推測を加える。


毛利は東へ再び兵を出すことをためらっている。


そして最後に、一つだけ嘘を加える。


荒木村重への援軍を取りやめた。


「村重殿が『そんなはずはない』と思ってくれれば、それでいい」


「なぜだ?」


「ならば確かめたくなります」


秀吉が景継を見た。


「……毛利へ使者を出すと?」


「おそらく」


景継は頷いた。


「今の我々には、村重殿と毛利がどのように連絡を取っているのか分かりません。誰を使っているのか。どの道を通るのか。毛利側の誰へ話を通しているのか。それをこちらから探せば時間がかかる」


そこで景継は、有岡城の駒を指で軽く叩いた。


「ならば村重殿本人に教えてもらえばいい」


秀吉はしばらく景継を見ていた。


やがて呆れたように笑う。


「お主は、官兵衛が捕らえられてから余計に性格が悪くなっておらぬか?」


「黒田殿を取り戻すためです」


「官兵衛が聞けば喜ぶかのう」


「本人に聞いてみましょう。戻ってきたら」


景継はそう言った。


冗談めいた言葉だった。


だが、その目は笑っていなかった。


必ず戻す。


そのために、今は待つ。


◇◇◇


翌日から、摂津周辺で奇妙な噂が流れ始めた。


最初は商人だった。


「毛利の船が西へ戻ったらしい」


それ自体は事実である。


次に旅人が言った。


「毛利は織田と正面から戦うつもりがないらしい」


これは半分だけ正しい。


毛利が景継との戦いから退いたのは事実だが、織田家全体との戦いを避けると決めたわけではない。


さらに数日もしないうちに、話は変わった。


「荒木村重は毛利を頼っているらしい」


「だが毛利は来ないそうだ」


「村重は見捨てられたのではないか」


誰が最初に言ったのか。


それが分からないように景継は人を使った。


一人の人間に同じ話を何度も言わせることもしない。


商人には商人の言葉で。


農民には農民の言葉で。


旅人には、旅の途中で聞いた話として。


噂は少しずつ形を変えながら広がった。


そして当然。


有岡城にも届いた。


「馬鹿な!」


荒木村重の怒声が部屋に響いた。


家臣たちは誰も顔を上げない。


「毛利が我らを見捨てただと? 誰がそのような戯言を申しておる!」


「城下だけではございませぬ。周辺の村々でも同じ噂が流れているようで……」


「織田の策に決まっておろう!」


村重は吐き捨てた。


家臣も頷く。


「我らもそう考えております」


「ならば放っておけ」


村重はそう命じた。


だが、家臣が部屋を出ていった後も、その表情は戻らなかった。


毛利は来る。


話はついている。


少なくとも村重は、そう考えていた。


だからこそ信長と戦う決断をした。


織田家を敵に回すことが、どれほど危険か分からないほど愚かではない。


毛利。


本願寺。


そして自分。


三者が連携すれば勝機はある。


だが、そのうち一つが欠ければ。


村重は首を横に振った。


「くだらぬ」


自分に言い聞かせるように呟いた。


噂に惑わされる必要などない。


毛利は来る。


そう信じればよい。


◇◇◇


しかし、翌日も毛利は現れなかった。


その次の日も。


有岡城から見える景色は変わらない。


織田軍が大挙して押し寄せてくることもなければ、毛利の旗が西から現れることもない。


不気味なほど静かだった。


そして、その静けさこそ景継が求めていた。


「攻めてこない……」


有岡城の城兵の間でも、少しずつ話が出始めた。


織田軍がすぐに来れば、戦うしかない。


敵が目の前にいれば、余計なことを考える暇もない。


だが敵が来ない。


毛利も来ない。


時間だけが過ぎていく。


すると、人は考える。


本当に援軍は来るのか。


毛利は西へ退いたのではなかったか。


自分たちは、誰を頼りに信長と戦おうとしているのか。


村重は城内で噂を禁じた。


「毛利が来ないなどと口にする者は処罰する」


その命令によって、表立って話す者はいなくなった。


だが噂が消えたわけではない。


むしろ口にできなくなったことで、それぞれの胸の中に残った。


そして村重自身も。


毎日のように西からの報せを求めるようになった。


「まだか」


「はっ?」


「毛利からの使者だ」


「まだ到着しておりませぬ」


「そうか」


翌日も同じだった。


「毛利からは?」


「ございませぬ」


さらに翌日。


「まだ何もないのか」


「はい」


村重は家臣を下がらせた後、一人で部屋に残った。


織田の策だ。


分かっている。


分かっているはずなのに。


なぜ毛利から何も来ない。


噂が流れた直後だからこそ、余計に沈黙が気になる。


もし景継が最初からそれを狙っていたのなら。


村重はそこまで考えて、拳を握った。


「林道景継……」


その名は、すでに聞いている。


浅井。


朝倉。


長篠。


そして毛利との駆け引き。


力だけで押してくる男ではない。


だからこそ、今回の噂も景継の仕業だと考えた。


ならば。


逆に考えればいい。


景継が「毛利は来ない」と思わせようとしているのなら、毛利は来る。


そう考えればいいだけだ。


村重は立ち上がった。


「誰か!」


家臣が入ってくる。


「お呼びでしょうか」


「毛利へ使者を出せ」


家臣が一瞬、驚いた。


「毛利へ、でございますか?」


「援軍がいつ動くのか確かめろ。こちらの状況も伝えよ」


「しかし、今は織田方が周辺を探っております。城を出れば見つかる恐れが」


「だから何だ」


村重の声が低くなる。


「何も分からぬまま待ち続けろというのか」


「いえ……」


「人を選べ。街道は使わせるな。織田の目が薄い道を通らせろ」


「はっ」


家臣が下がる。


村重は再び西を見た。


これで分かる。


毛利が来るのか。


来ないのか。


景継の噂が嘘なのか。


本当なのか。


確かめればいい。


それだけのことだった。


◇◇◇


その日の夜。


有岡城から、一人の男が出た。


城門を堂々と通ったわけではない。


夜陰に紛れ、城下を抜ける。


農民に近い格好をしていた。


腰に目立つ刀もない。


男は何度も後ろを振り返りながら西へ向かった。


街道には出ない。


細い道を選び、人の少ない場所を進んでいく。


男自身、自分が見られているとは思っていなかった。


しかし。


少し離れた場所から。


その背中を見ている者がいた。


男が西へ進路を取ったのを確認すると、その者は静かに姿を消した。


しばらくして。


景継のもとへ報告が届いた。


「有岡城より、一人出ました」


景継は書いていたものから顔を上げた。


秀吉もすぐに反応する。


「誰だ?」


「身分までは分かりませぬ。ただ、城を出てから西へ向かっております。街道を避け、かなり警戒している様子です」


「捕らえろ」


秀吉が即座に命じようとした。


「待ってください」


景継が止める。


秀吉が振り返った。


「毛利への使者であろう?」


「おそらく」


「ならば捕らえて書状を奪えばよい」


景継は首を横に振った。


「それでは一つしか分かりません」


「一つ?」


「書状に書かれていることだけです」


景継は立ち上がり、西へ続く道を地図で確認した。


使者を捕らえれば、村重が毛利へ何を求めているのかは分かるかもしれない。


だが、それだけだ。


誰へ届けるのか。


どこで毛利側の人間と接触するのか。


どの道が連絡に使われているのか。


そして何より。


毛利が村重へ何を返すのか。


それは使者を捕らえれば分からなくなる。


「行かせます」


秀吉が驚いた。


「毛利のところまで?」


「ええ」


「途中で見失ったらどうする」


「その可能性はあります」


「書状を処分されたら?」


「それもあります」


秀吉の顔に苛立ちが浮かぶ。


「ならば今捕らえた方が確実ではないか」


「確実ですよ」


景継は認めた。


「ですが、確実に得られる小さな情報より、不確実でも大きな情報を取りに行きます」


秀吉はしばらく黙った。


景継は追跡を担当する者へ向き直る。


「近づきすぎないでください。途中で人を替えながら追うんです。一人で最後まで追えば気づかれます」


「はっ」


「それから、絶対に手を出さないように」


「途中で毛利の者と接触しても、ですか?」


「はい」


景継は即答した。


「誰と会ったのか。何を渡したのか。そして、その後どう動くのか。それだけ見てください」


「承知いたしました」


男が出ていく。


秀吉はまだ納得していないようだった。


「これで毛利が本当に来ないと分かったら?」


景継は少し考えた。


「その時は、噂を事実に変えます」


「では、本当に援軍が来るなら?」


景継は有岡城の駒を見た。


その場合。


話はさらに面白くなる。


村重は今、毛利が来ないかもしれないという疑念を抱いている。


城兵も同じだ。


そこへ突然。


本物の毛利援軍が姿を見せたら。


どうなる。


絶望しかけていた者ほど、希望が見えた瞬間に大きく動く。


慎重だった者ほど、今度こそ機会を逃すまいと前へ出る。


人は追い詰められている時より。


助かったと思った瞬間の方が。


隙を見せることがある。


景継はまだ、それを口にはしなかった。


「来るなら、来てから考えます」


秀吉が疑わしそうな顔をする。


「本当か?」


「ええ」


「すでに何か考えている顔に見えるが」


景継は少し笑った。


「黒田殿なら、同じことを言ったでしょうね」


その名前が出ると。


秀吉の表情から笑みが消えた。


景継も同じだった。


官兵衛が生きているのか。


今どこにいるのか。


まだ何も分からない。


だからこそ。


この使者を逃すわけにはいかなかった。


有岡城を落とすためではない。


荒木村重を討つためでもない。


官兵衛へ辿り着くための道を。


今、ようやく一つ見つけた。


◇◇◇


翌朝。


追跡から最初の報告が届いた。


使者は西へ向かっている。


街道を避けながらも、進路は変わっていない。


そして昼。


二つ目の報告。


使者がある寺へ立ち寄った。


そこで別の男と接触したという。


景継は地図へ印をつけた。


夕刻。


三つ目の報告が届く。


寺で接触した男が、今度は別方向へ動き始めた。


秀吉が地図を覗き込む。


「使者本人が毛利まで行くわけではないのか」


「そのようですね」


「では、どうする?」


「両方追います」


景継は迷わなかった。


村重から出た使者。


寺で受け取った男。


そこからさらに別の者へ渡る可能性もある。


一つずつ。


つないでいけばいい。


その先に。


毛利がいる。


夜が深くなっても、景継は地図の前から動かなかった。


官兵衛が戻らなくなってから。


眠る時間は明らかに減っていた。


それでも焦って兵は動かさない。


今動けば。


官兵衛を救うためではなく。


自分の不安を消すために戦うことになる。


それだけは避けたかった。


やがて深夜。


新しい足音が近づいてきた。


景継が顔を上げる。


入ってきた男は、息を切らしていた。


「申し上げます」


「どうしました?」


男は一度呼吸を整えた。


そして。


景継が待っていた報告を口にした。


「毛利方の者と思われる男との接触を確認いたしました」


秀吉が立ち上がる。


景継の目が細くなる。


「間違いありませんか?」


「断言はできませぬ。しかし、その後の動きから見て可能性は高いかと」


「何か渡しましたか?」


「書状と思われるものを」


景継は地図へ視線を落とした。


つながった。


有岡城から。


毛利まで。


一本の線が見えた。


だが。


報告には続きがあった。


「それから、もう一つございます」


景継が顔を上げる。


「何です?」


「毛利方の男は書状を受け取った後、西へ戻っておりませぬ」


秀吉が眉をひそめた。


「では、どこへ?」


男は答えた。


「東へ向かっております」


部屋が静かになった。


東。


つまり。


有岡城の方向。


景継はゆっくりと地図へ手を伸ばした。


毛利の駒を一つ取る。


そして。


西から東へ動かした。


「そうですか」


秀吉が景継を見る。


「何が分かった?」


景継はすぐには答えなかった。


まだ確定したわけではない。


ただの返答を届ける使者かもしれない。


だが。


もし違うなら。


もし毛利が。


本当に動こうとしているのなら。


自分たちが流した、


『毛利の援軍は来ない』


という噂は。


間もなく嘘になる。


しかし景継の表情に焦りはなかった。


むしろ。


初めて有岡城を攻めるための道が見え始めていた。


「もう少し確認しましょう」


「毛利が動くかどうかを?」


「ええ」


景継は有岡城の駒を見つめた。


「もし本当に来るのなら――」


そこで言葉を止める。


秀吉が続きを待つ。


景継は毛利の駒を、有岡城のすぐ近くまで動かした。


「止めません」


秀吉の目が大きく見開かれた。


景継は静かに続けた。


「毛利には、有岡城の近くまで来てもらいます」


毛利の援軍を待っている荒木村重。


その援軍は来ないと噂を流した景継。


そして今。


本当に毛利が動こうとしている。


ならば。


その希望そのものを。


官兵衛を取り戻すために使えばいい。


景継は有岡城を見つめながら。


次の一手を考え始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ