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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

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第八十四話 帰らぬ官兵衛


毛利が退いたという報せは、すぐに信長のもとへ届けられた。


景継たちが呼び出されたのは、その翌日のことだった。


広間には織田信長を中心に、羽柴秀吉、林道景継、黒田官兵衛が顔を揃えている。


毛利との一連の駆け引きについて説明を終えると、信長はしばらく何も言わなかった。


兵糧船を餌として織田方を誘い出そうとした毛利。


その意図を察し、逆に毛利水軍を動かした景継。


そして、互いに決定的な損害を受ける前に手を引いた毛利。


話を聞き終えた信長が最初に尋ねたのは、勝敗についてではなかった。


「なぜ追わなんだ」


景継は予想していた問いだったため、迷わず答えた。


「毛利が逃げたのではないからです」


「退いたのであろう。ならば同じではないか」


「違います。敵が恐れて背を向けたのであれば追います。しかし毛利は、まだ戦える状態で自ら退くことを選びました。あの状態で追えば、こちらが毛利の選んだ戦場へ入ることになります」


信長の目が細くなる。


「罠があると?」


「あるかもしれませんし、ないかもしれません。ただ、罠がなくとも追う必要がありませんでした」


景継は続けた。


「今回の目的は毛利を滅ぼすことではありません。本願寺へ手を伸ばす毛利の動きを知り、西国でどれほどの力を動かせるのかを見ることでした。その目的は果たしております」


「勝てる戦を捨ててもか」


「勝てると思った時が、一番危ういのです」


広間が静かになった。


秀吉は何も言わず景継を見ている。


官兵衛も同じだった。


信長だけが、わずかに口元を上げた。


「相変わらず、欲のない戦をする」


「欲はあります」


「ほう?」


「最後に勝つという欲です」


一瞬の沈黙の後、信長が笑った。


「ならばよい」


それだけだった。


褒めることもなければ、細かく問いただすこともしない。


だが景継には、それで十分だった。


少なくとも、毛利を追わなかった判断を咎めるつもりはないらしい。


ところが話が終わろうとした時、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。


一人の家臣が広間へ入り、信長の前へ膝をつく。


「申し上げます。摂津より急報にございます」


信長の表情が変わった。


「申せ」


「荒木村重殿の動きが、どうにも妙でございます」


その名を聞いた瞬間、秀吉と官兵衛が顔を見合わせた。


景継も家臣へ視線を向ける。


荒木村重。


摂津を任され、織田家の西方を支える重要な武将である。


毛利や本願寺と対峙するうえでも、村重の存在は小さくない。


「何があった」


信長の声が低くなる。


「こちらから送った使者への返答が遅れております。それだけならばまだしも、有岡城周辺へ兵糧が集められているとの報告がございます。さらに、周辺の兵も動き始めているようで……」


「誰の命だ」


「分かりませぬ。ただ、村重殿の許しなく行える規模ではないかと」


信長は何も言わなかった。


広間の空気だけが変わった。


敵が兵を集めるのとは意味が違う。


味方が兵を集めている。


しかも、理由を明らかにしないまま。


景継は家臣へ尋ねた。


「毛利が退いたという報せが届く前からですか?」


「はい。数日前から少しずつ動きがあったようです」


景継の眉がわずかに動いた。


毛利が退いたから村重が動いたわけではない。


それ以前から準備していたことになる。


偶然とは考えにくかった。


「本願寺との接触は?」


「確かなことは分かっておりませぬ」


「毛利とは?」


「そちらも証拠はございません」


景継は黙った。


証拠がない。


だが、何もないとは思えない。


敵と戦っている最中ならば、兵を集める理由はいくらでもある。


しかし、それなら信長へ報告すればよい。


隠す理由がない。


隠していること自体に意味がある。


「村重を呼べ」


信長が命じた。


家臣が頭を下げる。


「すでに使者を送っております」


「返事は」


「まだございません」


信長の顔から、わずかに残っていた笑みが完全に消えた。


「もう一度送れ。それでも来ぬなら、敵と見なす」


「はっ」


家臣が広間を出ていく。


その背中を見送った後、秀吉が小さく息を吐いた。


「まさか村重殿が……」


「まだ決まったわけではありません」


官兵衛が答えた。


秀吉が振り返る。


「官兵衛?」


「村重殿には村重殿なりの事情があるのかもしれませぬ。今の段階で謀反と決めつければ、戻れるものも戻れなくなります」


官兵衛は信長へ向き直った。


そして頭を下げた。


「上様。私に村重殿と話をさせていただけませぬか」


秀吉が驚いた。


「お主が?」


「村重殿とは以前から面識がございます。織田家へ反旗を翻したと決まったわけではありません。何か不満があるのであれば、それを聞くこともできましょう」


信長は官兵衛を見た。


「戻せると思うか」


「分かりませぬ。しかし、まだ刃を交える前ならば話はできます」


信長はしばらく考えた後、短く答えた。


「行け」


「はっ」


官兵衛が頭を下げる。


景継はその様子を黙って見ていた。


官兵衛の考えは理解できる。


まだ村重が明確に敵となったわけではない。


今なら説得できる可能性もある。


戦わずに済むなら、それに越したことはない。


それでも、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。


広間を出た後、景継は官兵衛を呼び止めた。


「黒田殿」


官兵衛が振り返る。


「どうされました?」


「本当に行かれるのですか」


「そのつもりですが」


「村重殿がすでに決断していた場合は?」


官兵衛は少し考えた。


「説得できぬと判断すれば戻ります」


「戻してくれるでしょうか」


その一言で、官兵衛の表情が変わった。


秀吉も足を止める。


景継は声を落として続けた。


「村重殿が迷っているなら、黒田殿は使者です。しかし、すでに織田と戦うことを決めていたなら違う」


「何になると?」


「人質です」


秀吉が景継を見る。


官兵衛は黙った。


景継は続ける。


「黒田殿は秀吉殿の近くにいる。それだけでも価値があります。さらに織田方の内情を知り、毛利との戦にも加わった。村重殿からすれば、城へ入ってきた黒田殿をそのまま帰す理由がない」


官兵衛は否定しなかった。


むしろ、わずかに笑った。


「林道殿らしい考えですな」


「笑い事ではありません」


「分かっております」


「ならば行かない方がいい」


景継がそう言うと、官兵衛は首を横に振った。


「それでも参ります」


「なぜです?」


「林道殿の考えは正しい。しかし、それは村重殿がすでに敵となっていた場合の話です」


官兵衛は有岡城のある方角へ目を向けた。


「まだ迷っているのであれば、今しか戻せませぬ」


景継は答えなかった。


「それに、疑ったまま兵を向ければ、本当に敵にしてしまうこともあります。人は疑われたから裏切ることもある」


官兵衛の言葉にも理があった。


戦は、敵を倒すだけではない。


敵を作らないこともまた戦だった。


景継は少し考えた後、ようやく頷いた。


「分かりました」


「止めないのですな」


「止めたいですよ。しかし、黒田殿が正しい可能性もあります」


景継はそこで一度言葉を切った。


「ただし、一つだけ約束してください」


「何でしょう?」


「必ず戻ってきてください」


官兵衛は一瞬驚いた顔をした。


やがて、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。


「もちろんです」


その返事を最後に、官兵衛は有岡城へ向かった。


◇◇◇


有岡城。


黒田官兵衛を迎えた城内は、意外なほど静かだった。


城門で止められることもなく、武器を奪われることもない。


案内された部屋にも、異常は見当たらなかった。


やがて荒木村重が姿を現した。


「久しいな、官兵衛」


「村重殿」


官兵衛は頭を下げた。


村重も表面上は普段と変わらない。


だが官兵衛は、その目を見て違和感を覚えた。


迷っている人間の目ではない。


何かを決めた人間の目だった。


「上様が心配しておられます」


官兵衛が切り出す。


「そうであろうな」


「ならば、安土へ参られてはいかがです。直接お話しになれば、誤解も解けましょう」


村重は答えない。


「兵を集めているとも聞いております」


「集めている」


「なぜです?」


「必要だからだ」


「何に?」


村重は官兵衛を見た。


その目から、わずかな温かさが消えた。


官兵衛はそこで理解した。


景継の言葉が頭をよぎる。


――すでに織田と戦うことを決めていたなら、黒田殿は使者ではありません。


人質です。


官兵衛はゆっくり立ち上がった。


「村重殿。今日はこれで失礼いたします」


「もう帰るのか」


「これ以上話しても、今は答えをいただけそうにありませんので」


「そうか」


村重は止めなかった。


官兵衛は一礼し、部屋を出た。


廊下を歩く。


誰も止めない。


城門までは、それほど遠くない。


しかし歩いているうちに、官兵衛は異変に気づいた。


先ほどまで見なかった兵がいる。


一人。


さらにその先にも二人。


城門へ近づくほど、その数が増えていく。


官兵衛は足を止めなかった。


そして城門へ辿り着いた時。


門は閉じられていた。


「門を開けられよ」


門番は動かなかった。


「聞こえなかったか。門を開けよ」


それでも動かない。


代わりに、後ろから複数の足音が聞こえてきた。


官兵衛は振り返った。


武装した兵たちが立っている。


そこでようやく。


官兵衛は小さく息を吐いた。


「……林道殿の言ったとおりになりましたか」


◇◇◇


一日目。


官兵衛は戻らなかった。


秀吉は落ち着かなかったが、景継はまだ待った。


説得が長引いている可能性はある。


村重との関係を考えれば、一晩程度なら不自然ではない。


二日目。


それでも官兵衛は戻らなかった。


使いの者からの連絡もない。


ここで景継は間者を有岡城周辺へ向かわせた。


「城へ入る必要はありません。黒田殿が出たかどうかだけ確認してください」


景継の表情から、前日の余裕は消えていた。


秀吉も何度も廊下へ目を向ける。


「官兵衛ならば、何かあれば知らせを出す」


「ええ」


「ならば、まだ話しているだけかもしれぬ」


「そうだといいのですが」


三日目。


昼を過ぎた頃。


待っていた間者が戻ってきた。


景継と秀吉がすぐに立ち上がる。


「どうでした?」


間者は息を整えながら頭を下げた。


「黒田様が有岡城へ入られたことは確認できました」


秀吉が一歩前へ出る。


「出たのか?」


間者は答えなかった。


その沈黙だけで、景継には十分だった。


「出ていないんですね」


「……はい」


部屋の空気が重くなった。


「少なくとも、城門から出られた様子はございません。また、城内へ入っている商人にも探らせましたが、黒田様を見た者がおりませぬ」


秀吉の顔色が変わる。


「村重め……!」


景継は何も言わなかった。


頭の中に浮かんでいたのは、官兵衛が出発する前の会話だった。


すでに敵となっていたなら。


使者ではない。


人質になる。


自分でそう言った。


危険だと分かっていた。


それでも官兵衛を行かせた。


官兵衛の判断にも理があると考えたからだ。


だが結果として。


官兵衛は戻ってこなかった。


「景継殿」


秀吉の声で、景継は顔を上げた。


「兵を出す」


「待ってください」


「待てるか! 官兵衛が捕らえられているのだぞ!」


「だからこそです」


秀吉が景継を睨む。


景継はその視線を正面から受けた。


「今、有岡城へ大軍を向ければ、村重殿はどうします?」


「戦うに決まっておろう」


「その前に黒田殿を殺すかもしれません」


秀吉が言葉を失った。


「黒田殿が生きているなら、それは村重殿にとって利用価値があるからです。こちらが何も考えず攻めれば、その価値をなくしてしまう」


「では、どうする」


景継は地図を広げた。


有岡城。


周辺の砦。


道。


村。


商人。


寺。


そして荒木村重に従う武将たち。


城というものは石垣だけでできているわけではない。


門だけでもない。


兵だけでもない。


城を守っているのは人だ。


兵を率いる者。


兵糧を運ぶ者。


情報を伝える者。


周辺を支配する者。


そして、城主を信じる者。


それらすべてが揃って初めて、城は城として機能する。


景継は有岡城そのものではなく、その周囲へいくつもの駒を置いた。


秀吉が地図を見つめる。


「何をするつもりだ」


景継は一つ目の駒を取った。


「まず、村重殿に従っている者を調べます」


二つ目の駒を取る。


「次に、その中から本気で織田と戦いたい者と、仕方なく従っている者を分ける」


三つ目。


「家族を守りたい者。領地を守りたい者。村重殿への恩だけで残っている者。それぞれ理由が違うはずです」


秀吉が景継の意図に気づき始めた。


「調略するのか」


「ただ寝返れと言っても動きません。相手が何を失うことを恐れているのかを調べ、その恐れを一つずつ取り除きます」


「城を囲わずに?」


「囲えば、村重殿は家臣をまとめやすくなります。外に敵がいれば、人は内側でまとまる」


景継は有岡城を示す駒には触れなかった。


代わりに、その周囲の駒を一つずつ遠ざけていく。


「ですから、逆にします」


「逆?」


「城を孤立させるんです」


秀吉はしばらく地図を見ていた。


やがて尋ねた。


「有岡城を落とすのではないのか」


景継は首を横に振った。


「今、城を落とそうとすれば黒田殿が危険です」


景継は最後に、村重を示す駒だけを地図の中央へ残した。


周囲には誰もいない。


兵も。


国人も。


商人も。


味方さえも。


すべてを失った城主だけが残っている。


「城を落とす前に、村重殿から城を奪います」


秀吉が景継を見る。


「同じではないのか?」


「違います」


景継は静かに答えた。


「石垣ではなく、人を奪います」


その言葉に、秀吉は何も返さなかった。


景継は有岡城の駒を見つめた。


黒田官兵衛が生きている保証はない。


だが、死んだと決まったわけでもない。


ならば。


まだ打てる手はある。


景継はもう一枚の紙を取り出した。


そこへ最初に書いたのは、荒木村重の名ではなかった。


村重に従う武将たちの名だった。


一人ずつ。


何を守りたいのか。


誰を恐れているのか。


何を与えれば動くのか。


そして。


誰から崩せば。


次の者が動くのか。


景継は筆を走らせながら、秀吉へ告げた。


「秀吉殿。黒田殿を取り戻します」


秀吉が景継を見る。


景継は筆を止めなかった。


「ただ助けるだけではありません」


有岡城を攻めれば、村重の戦になる。


ならば戦わない。


村重が籠もる城を攻めるのではなく。


村重が城として使っている人間そのものを崩す。


最後には、石垣も門も残っているのに。


守る者だけがいなくなる。


「黒田殿を捕らえたことを、村重殿自身に後悔してもらいましょう」


景継の目は。


すでに有岡城ではなく。


その内側にいる人間へ向けられていた。

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