第八十四話 帰らぬ官兵衛
毛利が退いたという報せは、すぐに信長のもとへ届けられた。
景継たちが呼び出されたのは、その翌日のことだった。
広間には織田信長を中心に、羽柴秀吉、林道景継、黒田官兵衛が顔を揃えている。
毛利との一連の駆け引きについて説明を終えると、信長はしばらく何も言わなかった。
兵糧船を餌として織田方を誘い出そうとした毛利。
その意図を察し、逆に毛利水軍を動かした景継。
そして、互いに決定的な損害を受ける前に手を引いた毛利。
話を聞き終えた信長が最初に尋ねたのは、勝敗についてではなかった。
「なぜ追わなんだ」
景継は予想していた問いだったため、迷わず答えた。
「毛利が逃げたのではないからです」
「退いたのであろう。ならば同じではないか」
「違います。敵が恐れて背を向けたのであれば追います。しかし毛利は、まだ戦える状態で自ら退くことを選びました。あの状態で追えば、こちらが毛利の選んだ戦場へ入ることになります」
信長の目が細くなる。
「罠があると?」
「あるかもしれませんし、ないかもしれません。ただ、罠がなくとも追う必要がありませんでした」
景継は続けた。
「今回の目的は毛利を滅ぼすことではありません。本願寺へ手を伸ばす毛利の動きを知り、西国でどれほどの力を動かせるのかを見ることでした。その目的は果たしております」
「勝てる戦を捨ててもか」
「勝てると思った時が、一番危ういのです」
広間が静かになった。
秀吉は何も言わず景継を見ている。
官兵衛も同じだった。
信長だけが、わずかに口元を上げた。
「相変わらず、欲のない戦をする」
「欲はあります」
「ほう?」
「最後に勝つという欲です」
一瞬の沈黙の後、信長が笑った。
「ならばよい」
それだけだった。
褒めることもなければ、細かく問いただすこともしない。
だが景継には、それで十分だった。
少なくとも、毛利を追わなかった判断を咎めるつもりはないらしい。
ところが話が終わろうとした時、廊下の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。
一人の家臣が広間へ入り、信長の前へ膝をつく。
「申し上げます。摂津より急報にございます」
信長の表情が変わった。
「申せ」
「荒木村重殿の動きが、どうにも妙でございます」
その名を聞いた瞬間、秀吉と官兵衛が顔を見合わせた。
景継も家臣へ視線を向ける。
荒木村重。
摂津を任され、織田家の西方を支える重要な武将である。
毛利や本願寺と対峙するうえでも、村重の存在は小さくない。
「何があった」
信長の声が低くなる。
「こちらから送った使者への返答が遅れております。それだけならばまだしも、有岡城周辺へ兵糧が集められているとの報告がございます。さらに、周辺の兵も動き始めているようで……」
「誰の命だ」
「分かりませぬ。ただ、村重殿の許しなく行える規模ではないかと」
信長は何も言わなかった。
広間の空気だけが変わった。
敵が兵を集めるのとは意味が違う。
味方が兵を集めている。
しかも、理由を明らかにしないまま。
景継は家臣へ尋ねた。
「毛利が退いたという報せが届く前からですか?」
「はい。数日前から少しずつ動きがあったようです」
景継の眉がわずかに動いた。
毛利が退いたから村重が動いたわけではない。
それ以前から準備していたことになる。
偶然とは考えにくかった。
「本願寺との接触は?」
「確かなことは分かっておりませぬ」
「毛利とは?」
「そちらも証拠はございません」
景継は黙った。
証拠がない。
だが、何もないとは思えない。
敵と戦っている最中ならば、兵を集める理由はいくらでもある。
しかし、それなら信長へ報告すればよい。
隠す理由がない。
隠していること自体に意味がある。
「村重を呼べ」
信長が命じた。
家臣が頭を下げる。
「すでに使者を送っております」
「返事は」
「まだございません」
信長の顔から、わずかに残っていた笑みが完全に消えた。
「もう一度送れ。それでも来ぬなら、敵と見なす」
「はっ」
家臣が広間を出ていく。
その背中を見送った後、秀吉が小さく息を吐いた。
「まさか村重殿が……」
「まだ決まったわけではありません」
官兵衛が答えた。
秀吉が振り返る。
「官兵衛?」
「村重殿には村重殿なりの事情があるのかもしれませぬ。今の段階で謀反と決めつければ、戻れるものも戻れなくなります」
官兵衛は信長へ向き直った。
そして頭を下げた。
「上様。私に村重殿と話をさせていただけませぬか」
秀吉が驚いた。
「お主が?」
「村重殿とは以前から面識がございます。織田家へ反旗を翻したと決まったわけではありません。何か不満があるのであれば、それを聞くこともできましょう」
信長は官兵衛を見た。
「戻せると思うか」
「分かりませぬ。しかし、まだ刃を交える前ならば話はできます」
信長はしばらく考えた後、短く答えた。
「行け」
「はっ」
官兵衛が頭を下げる。
景継はその様子を黙って見ていた。
官兵衛の考えは理解できる。
まだ村重が明確に敵となったわけではない。
今なら説得できる可能性もある。
戦わずに済むなら、それに越したことはない。
それでも、胸の奥に小さな引っ掛かりが残った。
広間を出た後、景継は官兵衛を呼び止めた。
「黒田殿」
官兵衛が振り返る。
「どうされました?」
「本当に行かれるのですか」
「そのつもりですが」
「村重殿がすでに決断していた場合は?」
官兵衛は少し考えた。
「説得できぬと判断すれば戻ります」
「戻してくれるでしょうか」
その一言で、官兵衛の表情が変わった。
秀吉も足を止める。
景継は声を落として続けた。
「村重殿が迷っているなら、黒田殿は使者です。しかし、すでに織田と戦うことを決めていたなら違う」
「何になると?」
「人質です」
秀吉が景継を見る。
官兵衛は黙った。
景継は続ける。
「黒田殿は秀吉殿の近くにいる。それだけでも価値があります。さらに織田方の内情を知り、毛利との戦にも加わった。村重殿からすれば、城へ入ってきた黒田殿をそのまま帰す理由がない」
官兵衛は否定しなかった。
むしろ、わずかに笑った。
「林道殿らしい考えですな」
「笑い事ではありません」
「分かっております」
「ならば行かない方がいい」
景継がそう言うと、官兵衛は首を横に振った。
「それでも参ります」
「なぜです?」
「林道殿の考えは正しい。しかし、それは村重殿がすでに敵となっていた場合の話です」
官兵衛は有岡城のある方角へ目を向けた。
「まだ迷っているのであれば、今しか戻せませぬ」
景継は答えなかった。
「それに、疑ったまま兵を向ければ、本当に敵にしてしまうこともあります。人は疑われたから裏切ることもある」
官兵衛の言葉にも理があった。
戦は、敵を倒すだけではない。
敵を作らないこともまた戦だった。
景継は少し考えた後、ようやく頷いた。
「分かりました」
「止めないのですな」
「止めたいですよ。しかし、黒田殿が正しい可能性もあります」
景継はそこで一度言葉を切った。
「ただし、一つだけ約束してください」
「何でしょう?」
「必ず戻ってきてください」
官兵衛は一瞬驚いた顔をした。
やがて、いつもの穏やかな笑みを浮かべる。
「もちろんです」
その返事を最後に、官兵衛は有岡城へ向かった。
◇◇◇
有岡城。
黒田官兵衛を迎えた城内は、意外なほど静かだった。
城門で止められることもなく、武器を奪われることもない。
案内された部屋にも、異常は見当たらなかった。
やがて荒木村重が姿を現した。
「久しいな、官兵衛」
「村重殿」
官兵衛は頭を下げた。
村重も表面上は普段と変わらない。
だが官兵衛は、その目を見て違和感を覚えた。
迷っている人間の目ではない。
何かを決めた人間の目だった。
「上様が心配しておられます」
官兵衛が切り出す。
「そうであろうな」
「ならば、安土へ参られてはいかがです。直接お話しになれば、誤解も解けましょう」
村重は答えない。
「兵を集めているとも聞いております」
「集めている」
「なぜです?」
「必要だからだ」
「何に?」
村重は官兵衛を見た。
その目から、わずかな温かさが消えた。
官兵衛はそこで理解した。
景継の言葉が頭をよぎる。
――すでに織田と戦うことを決めていたなら、黒田殿は使者ではありません。
人質です。
官兵衛はゆっくり立ち上がった。
「村重殿。今日はこれで失礼いたします」
「もう帰るのか」
「これ以上話しても、今は答えをいただけそうにありませんので」
「そうか」
村重は止めなかった。
官兵衛は一礼し、部屋を出た。
廊下を歩く。
誰も止めない。
城門までは、それほど遠くない。
しかし歩いているうちに、官兵衛は異変に気づいた。
先ほどまで見なかった兵がいる。
一人。
さらにその先にも二人。
城門へ近づくほど、その数が増えていく。
官兵衛は足を止めなかった。
そして城門へ辿り着いた時。
門は閉じられていた。
「門を開けられよ」
門番は動かなかった。
「聞こえなかったか。門を開けよ」
それでも動かない。
代わりに、後ろから複数の足音が聞こえてきた。
官兵衛は振り返った。
武装した兵たちが立っている。
そこでようやく。
官兵衛は小さく息を吐いた。
「……林道殿の言ったとおりになりましたか」
◇◇◇
一日目。
官兵衛は戻らなかった。
秀吉は落ち着かなかったが、景継はまだ待った。
説得が長引いている可能性はある。
村重との関係を考えれば、一晩程度なら不自然ではない。
二日目。
それでも官兵衛は戻らなかった。
使いの者からの連絡もない。
ここで景継は間者を有岡城周辺へ向かわせた。
「城へ入る必要はありません。黒田殿が出たかどうかだけ確認してください」
景継の表情から、前日の余裕は消えていた。
秀吉も何度も廊下へ目を向ける。
「官兵衛ならば、何かあれば知らせを出す」
「ええ」
「ならば、まだ話しているだけかもしれぬ」
「そうだといいのですが」
三日目。
昼を過ぎた頃。
待っていた間者が戻ってきた。
景継と秀吉がすぐに立ち上がる。
「どうでした?」
間者は息を整えながら頭を下げた。
「黒田様が有岡城へ入られたことは確認できました」
秀吉が一歩前へ出る。
「出たのか?」
間者は答えなかった。
その沈黙だけで、景継には十分だった。
「出ていないんですね」
「……はい」
部屋の空気が重くなった。
「少なくとも、城門から出られた様子はございません。また、城内へ入っている商人にも探らせましたが、黒田様を見た者がおりませぬ」
秀吉の顔色が変わる。
「村重め……!」
景継は何も言わなかった。
頭の中に浮かんでいたのは、官兵衛が出発する前の会話だった。
すでに敵となっていたなら。
使者ではない。
人質になる。
自分でそう言った。
危険だと分かっていた。
それでも官兵衛を行かせた。
官兵衛の判断にも理があると考えたからだ。
だが結果として。
官兵衛は戻ってこなかった。
「景継殿」
秀吉の声で、景継は顔を上げた。
「兵を出す」
「待ってください」
「待てるか! 官兵衛が捕らえられているのだぞ!」
「だからこそです」
秀吉が景継を睨む。
景継はその視線を正面から受けた。
「今、有岡城へ大軍を向ければ、村重殿はどうします?」
「戦うに決まっておろう」
「その前に黒田殿を殺すかもしれません」
秀吉が言葉を失った。
「黒田殿が生きているなら、それは村重殿にとって利用価値があるからです。こちらが何も考えず攻めれば、その価値をなくしてしまう」
「では、どうする」
景継は地図を広げた。
有岡城。
周辺の砦。
道。
村。
商人。
寺。
そして荒木村重に従う武将たち。
城というものは石垣だけでできているわけではない。
門だけでもない。
兵だけでもない。
城を守っているのは人だ。
兵を率いる者。
兵糧を運ぶ者。
情報を伝える者。
周辺を支配する者。
そして、城主を信じる者。
それらすべてが揃って初めて、城は城として機能する。
景継は有岡城そのものではなく、その周囲へいくつもの駒を置いた。
秀吉が地図を見つめる。
「何をするつもりだ」
景継は一つ目の駒を取った。
「まず、村重殿に従っている者を調べます」
二つ目の駒を取る。
「次に、その中から本気で織田と戦いたい者と、仕方なく従っている者を分ける」
三つ目。
「家族を守りたい者。領地を守りたい者。村重殿への恩だけで残っている者。それぞれ理由が違うはずです」
秀吉が景継の意図に気づき始めた。
「調略するのか」
「ただ寝返れと言っても動きません。相手が何を失うことを恐れているのかを調べ、その恐れを一つずつ取り除きます」
「城を囲わずに?」
「囲えば、村重殿は家臣をまとめやすくなります。外に敵がいれば、人は内側でまとまる」
景継は有岡城を示す駒には触れなかった。
代わりに、その周囲の駒を一つずつ遠ざけていく。
「ですから、逆にします」
「逆?」
「城を孤立させるんです」
秀吉はしばらく地図を見ていた。
やがて尋ねた。
「有岡城を落とすのではないのか」
景継は首を横に振った。
「今、城を落とそうとすれば黒田殿が危険です」
景継は最後に、村重を示す駒だけを地図の中央へ残した。
周囲には誰もいない。
兵も。
国人も。
商人も。
味方さえも。
すべてを失った城主だけが残っている。
「城を落とす前に、村重殿から城を奪います」
秀吉が景継を見る。
「同じではないのか?」
「違います」
景継は静かに答えた。
「石垣ではなく、人を奪います」
その言葉に、秀吉は何も返さなかった。
景継は有岡城の駒を見つめた。
黒田官兵衛が生きている保証はない。
だが、死んだと決まったわけでもない。
ならば。
まだ打てる手はある。
景継はもう一枚の紙を取り出した。
そこへ最初に書いたのは、荒木村重の名ではなかった。
村重に従う武将たちの名だった。
一人ずつ。
何を守りたいのか。
誰を恐れているのか。
何を与えれば動くのか。
そして。
誰から崩せば。
次の者が動くのか。
景継は筆を走らせながら、秀吉へ告げた。
「秀吉殿。黒田殿を取り戻します」
秀吉が景継を見る。
景継は筆を止めなかった。
「ただ助けるだけではありません」
有岡城を攻めれば、村重の戦になる。
ならば戦わない。
村重が籠もる城を攻めるのではなく。
村重が城として使っている人間そのものを崩す。
最後には、石垣も門も残っているのに。
守る者だけがいなくなる。
「黒田殿を捕らえたことを、村重殿自身に後悔してもらいましょう」
景継の目は。
すでに有岡城ではなく。
その内側にいる人間へ向けられていた。




