第八十三話 退く者
毛利が動いたという報せが届いたのは、それから三日後のことだった。
景継のもとへ駆け込んできた弥兵衛は、いつになく険しい表情を浮かべていた。
「瀬戸内にて、毛利方の船団が確認されました。数は二十を超えるとのこと。積み荷の多くは米、味噌、塩、それに火薬や矢などの軍需物資と思われます」
「行き先は?」
「石山かと。少なくとも、途中の港へ降ろす動きは見せておりませぬ」
景継はすぐに地図へ目を落とした。
石山本願寺へ向かう兵糧。
しかも、それを運んでいることを隠そうとしていない。
あまりにも分かりやすい。
数日前までならば、絶好の好機と考えただろう。
だが今は違う。
毛利は一度、偽りの動きを見せることで、景継が西国へ張り巡らせていた情報網の一部を探り当てている。
その直後に、これほど分かりやすい兵糧輸送を始めた。
偶然とは思えなかった。
「黒田殿を呼んでください。それと秀吉殿も」
「はっ」
弥兵衛が部屋を出ていく。
景継は一人で地図を眺め続けた。
やがて秀吉と官兵衛が姿を見せると、景継は届いたばかりの報告書を二人へ渡した。
先に読み終えた秀吉が眉をひそめる。
「また偽物ですかな」
「それを確かめたいんです」
景継が答えると、官兵衛は報告書を何度も読み返した。
「積み荷については?」
「確認させています。ただ、今のところ兵糧である可能性が高い」
「船は?」
「毛利方が普段から使っているものです」
官兵衛はしばらく黙っていた。
「ならば、本物かもしれませぬな」
秀吉が官兵衛を見る。
「前は偽物だったではないか」
「だからこそです。偽物を一度見せれば、次に本物を見せた時まで疑わせることができる」
景継は小さく頷いた。
そこは自分も同じ考えだった。
問題は、本物だからといって安全とは限らないことだ。
その日のうちに追加の報告が届き、翌朝にはさらに詳しい情報が集まった。
船は本物。
積み荷も本物。
石山へ届けるという目的まで、おそらく本物だった。
秀吉は報告を読み終えると、景継を見た。
「では、襲いますか?」
景継はすぐには答えなかった。
兵糧を奪えば石山への補給を減らせる。
毛利にも損害を与えられる。
普通ならば、襲わない理由はない。
だからこそ景継は、その「普通」を疑った。
「黒田殿」
「はい」
「船も本物。兵糧も本物。行き先も本物。それなら、何が偽物なんでしょうね」
官兵衛の視線が地図へ落ちる。
「……輸送そのものではない?」
「私もそう思います」
景継は船団の進路を指でなぞった。
「隠すつもりがない。むしろ私たちに見つけてほしいように動いている」
秀吉が口を挟む。
「兵糧船を餌にしていると?」
「おそらく」
景継は別の報告書を手に取った。
周辺海域では、普段より漁船が少なくなっている。
いくつかの港でも、毛利方の船が急に姿を消していた。
一つだけなら偶然かもしれない。
だが複数重なれば意味を持つ。
官兵衛も同じところに気づいた。
「水軍を隠しておりますな」
「兵糧船を襲えば出てくるでしょうね」
秀吉が腕を組む。
「ならば、手を出さぬ方がよいか」
「いいえ」
景継は首を横に振った。
秀吉が目を丸くする。
「襲うのか?」
「襲います」
「罠だと分かっていて?」
「罠だからです」
官兵衛の目が鋭くなった。
景継は地図上の兵糧船団ではなく、その周辺にある港へ指を移した。
「毛利は、私たちが兵糧船を襲えば水軍を出す。そのために今、水軍をどこかへ伏せている」
「でしょうな」
「ならば、水軍が出てくる場所には、本来その水軍が守っている場所があるはずです」
官兵衛の口元にわずかな笑みが浮かんだ。
「なるほど。兵糧船ではなく、毛利水軍を動かすことが目的ですか」
「ええ」
秀吉も地図を覗き込む。
「しかし、どこから出てくるか分からぬではないか」
「だから、全部は出しません」
景継は用意していた駒を三つ置いた。
一つ目は兵糧船団へ向かう。
二つ目はその後方。
そして三つ目だけを、陸側へ置いた。
「最初の船は餌です」
秀吉が苦笑する。
「毛利の餌を食うための餌を、こちらも出すわけか」
「そういうことになりますね」
「やはり嫌な男だ」
「褒め言葉として受け取っておきます」
景継は笑ったが、官兵衛は地図を見たままだった。
やがて、その指が一つの港で止まる。
「林道殿。ここでは?」
「私もそこを考えていました」
二人が指した場所は、毛利にとって最大の港ではない。
しかし兵糧や武具を集め、周辺の船へ分配するための中継地点として使われている可能性が高かった。
82話で毛利が景継へ見せた動きの中でも、この場所だけは不自然なほど人と物の出入りが多かった。
偽りの情報の中に、本物が混じっていたとすれば。
ここだった。
「取れますかな?」
秀吉が尋ねる。
景継は首を横に振った。
「取る必要はありません」
「またか」
「目的を一つに決めすぎると、毛利に読まれます。港を奪えればもちろん良い。でも、奪えなくてもいい。水軍を引き返させるだけでも十分です」
官兵衛が頷いた。
「相手に何を守るか選ばせる」
「そうです」
兵糧船を守れば港が危うくなる。
港を守れば兵糧船が危うくなる。
どちらかを捨てなければならない状況を作る。
毛利がどちらを選ぶか。
それを決めるのは景継ではない。
毛利自身だった。
「やりましょう」
景継はそう言って、駒を動かした。
◇◇◇
二日後。
海上で、最初の動きが起きた。
織田方の船が兵糧船団へ近づいた。
数は多くない。
毛利方から見れば、十分に撃退できる程度の数だった。
兵糧船団は進路を変えない。
さらに織田の船が接近する。
まだ動かない。
そして、両者の距離が縮まったところで。
海の向こうから、別の船影が現れた。
一隻ではない。
二隻。
五隻。
さらにその後ろ。
隠れていた毛利水軍だった。
「来ました!」
報告を受けた秀吉が立ち上がった。
景継は地図の前から動かなかった。
「どこから?」
弥兵衛が場所を告げる。
景継はその地点を確認すると、すぐ官兵衛を見る。
官兵衛も同時に一つの場所を指した。
「やはり、ここですな」
例の港だった。
「別働隊を動かしてください」
「はっ!」
弥兵衛が走り出す。
秀吉が尋ねる。
「海の方は?」
「退かせます」
「戦わぬのか?」
「最初から戦わせるつもりはありません」
織田方の船には、毛利水軍が姿を現した時点で退くよう命じていた。
目的は兵糧を奪うことではない。
水軍を海へ引っ張り出すこと。
それさえできれば十分だった。
ほどなく、毛利方にも別の報告が届いた。
「港の近くに織田兵が現れました!」
指揮を執っていた武将の顔色が変わる。
「数は?」
「分かりませぬ。ただ、複数の旗が確認されております!」
「兵糧船を狙っていたのではないのか?」
「海上の織田船は退き始めております!」
そこで。
毛利側も気づいた。
自分たちが伏せていた水軍を引き出された。
兵糧船が餌だったはずなのに。
餌へ食いついた相手を仕留めるために動いた自分たちまで、さらに別の餌として使われた。
「……林道景継か」
武将は低く呟いた。
家臣が焦る。
「追いますか?」
「追うな」
「しかし、今ならば!」
「追えば港が空く」
武将は即座に命令した。
「船を戻せ。兵糧船には護衛だけを残す。残りは港へ向かわせろ」
「織田兵を討つので?」
「違う」
武将は首を横に振った。
「奴らも港を取るつもりはない」
家臣が戸惑う。
「では、何のために?」
「我らを動かすためだ」
武将は海を見る。
景継が何を考えているのか。
すべて分かったわけではない。
だが一つだけは理解した。
ここで追えば。
さらに次がある。
兵糧船。
水軍。
港。
その先に、もう一つ何かを置いている可能性がある。
「これ以上は乗るな」
その判断は早かった。
毛利水軍は深追いをやめ、港へ戻り始めた。
同時に、陸側へ姿を見せていた織田の別働隊も、毛利軍が戻ってくる前に退いた。
港は落ちなかった。
兵糧船も完全には奪われなかった。
織田も毛利も、大きな損害を受けていない。
戦場だけを見れば。
勝敗はついていなかった。
だが、毛利方では別の話が始まっていた。
「このまま続ける意味があるか」
広げられた地図を前に、重い声が落ちた。
景継との情報戦を続ければ、さらに兵と船を動かすことになる。
石山への支援は重要だ。
しかし、林道景継を倒すために毛利の水軍を消耗させれば、本来の目的から外れてしまう。
織田の西進を鈍らせる。
石山を支える。
西国の国人を毛利側につなぎ止める。
そのために戦っているのであって、景継個人と知恵比べをするためではない。
「退く」
その言葉に家臣たちが顔を上げた。
「よろしいのでございますか?」
「構わぬ」
「織田方は勝ったと思うでしょう」
「思わせておけばいい」
武将は地図から景継の駒を外さなかった。
「林道景継は、こちらが退けば追うような男ではない」
「なぜ分かるので?」
「追えば勝てる時ほど、あの男は追わぬ」
家臣たちは黙った。
武将は景継の駒を見ながら続けた。
「勝つことだけを考える者ならば扱いやすい。だが、あの男は違う。今の勝ちより、次に負けないことを優先する」
その考え方は。
毛利にもよく分かった。
だからこそ。
ここで無理をする必要はない。
「我らも待てばよい」
毛利方は水軍の一部を下げ、西国の国人へ出していた命令も改めた。
景継との正面からの駆け引きから、一度距離を取る。
それは敗走ではない。
次に戦うための撤退だった。
◇◇◇
翌日。
毛利方の動きが変わったという報せが景継のもとへ届いた。
「毛利水軍の一部が西へ退いております!」
秀吉が勢いよく立ち上がった。
「退いたか!」
その顔には明らかな喜びがあった。
「景継殿、やりましたな!」
しかし景継は笑わなかった。
地図の上から、毛利の駒を一つ取る。
そして別の場所へ置いた。
「違います」
「何が?」
「逃げたわけではありません」
秀吉の表情から笑みが消える。
官兵衛は何も言わず、景継を見ていた。
「毛利は兵をほとんど失っていません。船も残っている。港も落ちていない。それなのに退いた」
「こちらに勝てぬと思ったからでは?」
「それなら、もっと危険です」
秀吉が眉をひそめる。
景継は毛利の勢力圏を指した。
「勝てないから逃げたのではありません。ここで勝つ必要がないと判断したんです」
官兵衛が静かに頷いた。
「同感ですな」
秀吉が二人を見る。
「ならば追うか?」
「追いません」
景継は即答した。
「なぜだ?」
「毛利が退いた理由と同じです」
追えば。
毛利に損害を与えられるかもしれない。
運が良ければ、船を沈めることもできる。
だがそのためにこちらも兵を使う。
補給を使う。
時間を使う。
そして何より。
毛利が自ら選んだ場所へ入ることになる。
「毛利が退いた先に、何も用意していない保証はありません」
秀吉はしばらく考えた後、腕を組んだ。
「勝った気がせぬな」
「それでいいんです」
「よいのか?」
「ええ」
景継は少し笑った。
「毛利を滅ぼす戦ではありませんから」
今回の目的は。
西国に織田の手を伸ばすこと。
本願寺を支える毛利の動きを鈍らせること。
そして、毛利という巨大な勢力がどのように動くのかを知ること。
その目的は果たした。
毛利の情報網の一端を知った。
水軍の動きも見た。
そして何より。
毛利がこちらをどの程度警戒しているかも分かった。
十分だった。
景継は地図を眺めながら言った。
「勝てる者が強いとは限りません」
秀吉が景継を見る。
「どういう意味だ?」
「勝てると思った時に戦う者は多い。負けそうになって逃げる者も多い。でも、本当に厄介なのはそこじゃない」
景継の指が。
西へ退いた毛利の駒に触れた。
「まだ戦える。まだ負けていない。それでも、利がないと分かった瞬間に退ける」
官兵衛の視線が景継へ向いた。
景継は静かに続ける。
「一番厄介なのは、退くべき時に退ける者です」
秀吉は何も言わなかった。
官兵衛も黙っていた。
だが官兵衛だけは。
景継ではなく、その言葉を見ているようだった。
戦場では、勝ちたいという欲が判断を狂わせる。
あと少しで勝てる。
もう少し追えば敵を潰せる。
ここまで来て退けるものか。
そう考えて。
数え切れないほどの武将が命を落としてきた。
だからこそ、景継の言葉には重みがあった。
あまりにも。
重すぎた。
官兵衛は以前から景継に違和感を抱いていた。
策が巧みだからではない。
頭の回転が速いからでもない。
景継の判断には、ときおり妙な古さがあった。
勝つことよりも負けないことを考える。
目の前の戦果より、その後に残るものを見る。
そして何より。
待つことを恐れない。
若い武将に最も難しいことを。
景継は当たり前のように選ぶ。
「林道殿」
官兵衛が呼びかけた。
「何でしょう?」
「一つ、お尋ねしても?」
「どうぞ」
官兵衛は少し迷った。
聞こうと思えば聞けた。
なぜそのような考え方ができるのか。
誰から学んだのか。
どれほどの戦を経験すれば、そんな判断ができるようになるのか。
しかし。
官兵衛は聞かなかった。
「……いえ。やめておきましょう」
景継が不思議そうに見る。
「気になりますね」
「いずれ聞くことにいたします」
「では、その時に」
景継はそれ以上追及しなかった。
官兵衛は小さく笑った。
その態度まで。
妙に落ち着いている。
――この男は、何者なのだ。
答えは出ない。
ただ一つ。
黒田官兵衛の中で確かなものが生まれていた。
林道景継という男を。
もっと見てみたい。
その興味だった。
景継はそんな官兵衛の視線に気づきながらも、何も言わず地図へ目を戻した。
毛利は退いた。
だが、終わったわけではない。
西には毛利がいる。
石山には本願寺がいる。
そして織田家の中にも、これから大きな変化が訪れる。
一つの戦が終われば。
次の戦が始まる。
それが乱世だった。
景継は西へ移された毛利の駒を見つめた後、ゆっくりと手を離した。
今は追わない。
毛利も同じことを考えているだろう。
ならば。
次に動く時まで待てばいい。
待つことなら。
誰よりもよく知っている。




