第八十二話 見せられたもの
毛利が動き始めた。
そう判断するのに、長い時間は必要なかった。
藤原重綱が息子を人質として差し出すことを渋り始めた直後、西国では奇妙な噂が広がっていた。
林道景継は降伏した者を信用しない。
織田へ味方した国人は、利用価値がなくなれば領地を奪われる。
浅井や朝倉が滅ぼされたように、林道景継へ一度目をつけられれば、最後には家そのものを潰される。
どれも事実ではない。
しかし、完全な嘘とも言い切れないように作られているところが厄介だった。
景継が浅井と朝倉を滅ぼしたことは事実であり、戦場で敵に容赦しなかったことも事実である。その断片だけを切り取り、別の意味を持たせて広めている。
だからこそ、人は信じる。
景継は集められた報告書を最後まで読み終えると、それを机の上へ静かに置いた。
向かいには羽柴秀吉と黒田官兵衛が座っている。
「思っていたより早かったですな」
秀吉が腕を組みながら言った。
景継は報告書へ視線を落としたまま尋ねる。
「毛利が流したと思いますか?」
「証拠はございません。ただ、時期が良すぎる。藤原重綱へ我らが接触した直後にこれだけの噂が広がるとなれば、偶然と思う方が難しいでしょうな」
官兵衛も静かに頷いた。
「それに噂が広がっている場所にも偏りがあります。毛利への忠誠が強い者の領地ではなく、織田へ心が揺れそうな国人が多い場所ばかりです」
景継はそこで顔を上げた。
「つまり、私たちが次に接触しそうな人間を狙っている」
「おそらく」
官兵衛が答える。
景継はもう一度報告書を見た。
毛利がこちらの狙いをある程度理解していることは、もはや疑う必要がないだろう。
問題は、その先だった。
「それにしても、少し露骨すぎませんか?」
景継がそう言うと、官兵衛の視線がすぐに向けられた。
「林道殿もそう思われますか」
「ええ。私なら、もっと分からないようにやります」
秀吉が呆れたような顔をした。
「そこで自分ならどう噂を流すか考えるところが、林道殿らしいですな」
「相手の立場で考えているだけですよ」
景継は地図を広げると、噂が確認された場所へ一つずつ印を置いていった。
官兵衛も別の報告書を確認しながら、その作業を手伝う。
四つ。
五つ。
六つ。
印を線で結んでいくと、一つの流れが見えてきた。
秀吉が地図を覗き込む。
「噂を流している者を辿れば、毛利側の情報網へ行き着きそうですな」
「そこなんです」
景継は地図から目を離さなかった。
あまりにも分かりやすい。
噂を追う。
誰から聞いたのかを調べる。
その人物が誰とつながっているのかを探る。
一つずつ遡れば、やがて毛利側の人間へ辿り着く。
それは間違いないだろう。
しかし。
だからこそ不自然だった。
官兵衛が静かに口を開いた。
「まるで、こちらに辿らせようとしているようにも見えます」
「私も同じことを考えていました」
景継は一つの印を指で押さえた。
「見つけさせるための情報網かもしれませんね」
秀吉の表情が変わった。
「偽物ということですか?」
「可能性はあります。本物の情報網とは別に、私たちが追いかけるための道を用意している」
官兵衛が頷く。
「私が毛利側なら、そうします。こちらが情報網を発見したと思えば、その後もそこから流れてくる情報を信用する可能性が高い」
「その時に嘘を流せばいい」
「ええ」
景継と官兵衛がほぼ同時に答えた。
秀吉は二人を交互に見た後、深くため息をついた。
「本当に嫌な二人ですな」
「秀吉殿にだけは言われたくありません」
「同感でございます」
官兵衛まで加わったため、秀吉は肩をすくめた。
「それで、どうします? この噂を否定して回りますか?」
景継は首を横に振った。
「否定しません」
「では放っておく?」
「それもしません」
景継は地図へ手を伸ばした。
毛利が見せている情報網が本物なのか、偽物なのか。
現時点では分からない。
だが、どちらでもよかった。
「使いましょう」
官兵衛の目が細くなる。
「この情報網を?」
「偽物だとしても、情報を毛利へ届けるために用意したものであることに変わりはありません。こちらが流した情報を毛利が受け取ってくれるなら、それで十分です」
景継の指が一つの港で止まった。
西国から石山へ物資を運ぶ際に利用される港の一つ。
最大の港ではない。
だが、失えば毛利にとって無視できない程度には重要な場所だった。
「ここを織田が狙っているという噂を流します」
秀吉がすぐに尋ねる。
「実際に攻めるので?」
「攻めません」
秀吉の眉が上がった。
「では、何のために?」
景継は答える代わりに、官兵衛を見た。
「黒田殿。もし毛利がこの情報を信じたら、どうします?」
官兵衛は少し考えた。
「港を守ります」
「その命令を誰が出します?」
官兵衛の表情が変わった。
景継はさらに続ける。
「どこの国人へ兵を出させるのか。誰が兵糧を集めるのか。どの水軍へ船を出させるのか。どの道を使い、どれほどの速さで命令が伝わるのか」
秀吉もようやく景継の狙いを理解した。
「港を取ることが目的ではない……」
「ええ」
景継は毛利の勢力圏全体を指した。
「毛利という巨大な組織が、危機を感じた時にどう動くのか。それが見たいんです」
外から眺めているだけでは分からない。
毛利は巨大すぎる。
国人がいる。
商人がいる。
水軍がいる。
寺院とのつながりもある。
それぞれが複雑につながり、西国最大級の勢力を作り上げている。
ならば。
一度揺らしてみればいい。
危機を与えれば、守るべきものへ人と物が集まる。
そこを見れば。
毛利が何を重要だと考えているのかが分かる。
「毛利の神経を見ます」
景継がそう言うと、官兵衛がわずかに笑った。
「なるほど。港を奪うための偽報ではなく、毛利そのものを動かすための偽報ですか」
「そういうことです」
しかし官兵衛は、すぐに表情を戻した。
「ただし、一つ問題があります」
「毛利がこちらの狙いに気づいていた場合ですね」
景継が先に答えると、官兵衛は頷いた。
「その通りです。こちらが毛利の反応を観察していると分かれば、毛利は偽の反応を見せることができます」
「重要ではない国人を、わざと動かすこともできる」
「ええ。偽の命令系統をこちらへ見せることも可能でしょう」
秀吉が二人を見る。
「それでは意味がないのでは?」
景継は首を横に振った。
「いいえ。それでも構いません」
官兵衛が景継を見る。
「構わない?」
「本物の反応なら、毛利の仕組みが見える。偽物なら、毛利が何を本物だと思わせたいのかを考えられる。どちらに転んでも今より情報は増えます」
官兵衛はしばらく景継を見ていた。
やがて、小さく頷いた。
「ならば、やる価値はありますな」
「でしょう?」
景継は秀吉を見る。
「ということで、秀吉殿には噂を流してもらいます」
「拙者が?」
「得意でしょう?」
「随分と人聞きが悪いことを言われますな」
そう言いながらも。
秀吉は楽しそうに笑っていた。
◇◇◇
数日後。
西国の一部で、新しい噂が流れ始めた。
織田軍が近く西へ動く。
狙いは海沿いにある一つの港。
林道景継が五千の兵を率い、羽柴秀吉とともに港を奪う準備を進めている。
噂には、わざと真実を混ぜた。
景継が五千の兵を預けられていること。
秀吉とともに西国へ目を向けていること。
本願寺へ流れる物資を止めようとしていること。
そこまでは事実だった。
だからこそ。
最後の嘘が本物に見える。
景継自身は一兵も動かさなかった。
ただ待った。
最初の報告が届いたのは三日後だった。
「動きがございました」
弥兵衛が書状を持って部屋へ入ってきた。
景継、秀吉、官兵衛の三人がすぐに地図を囲む。
「どこです?」
「港周辺の国人が兵を集め始めております」
景継はその場所へ印を置いた。
「誰から命令が?」
「そこまでは、まだ」
「分かり次第知らせてください」
翌日。
別の国人が動いた。
さらに兵糧が集められ始めた。
船も港へ向かう。
景継は報告が届くたびに地図へ印を増やしていった。
一日目。
二日目。
三日目。
少しずつ線が見えてくる。
誰が命令を受けたのか。
どこから兵が出たのか。
兵糧を用意した商人は誰なのか。
どの水軍が反応したのか。
秀吉が地図を眺めながら感心したように言った。
「本当に動きましたな」
「ええ。今のところは、こちらの狙いどおりです」
景継は地図から目を離さなかった。
毛利の内部が。
少しずつ見えてくる。
ある国人から別の国人へ。
そこから港へ。
商人が兵糧を集め。
船が動く。
その中で。
景継は一つの場所へ注目した。
「ここです」
いくつもの動きが、同じ場所を経由している。
官兵衛も地図へ顔を近づけた。
「重要な中継点のように見えますな」
「おそらく」
秀吉が尋ねる。
「ならば、その隙に別の場所を攻めますか?」
「いいえ。まだ攻めません」
「また待つので?」
「もう少し見ます。ここで兵を動かせば、毛利はこちらが港そのものを狙っていなかったと気づく」
秀吉が苦笑した。
「随分と我慢しますな」
「待つのは得意なんです」
景継は何気なく答えた。
しかし。
その言葉には。
前世から続く意味があった。
司馬懿は待つことを知っていた。
敵が焦るまで。
敵が間違えるまで。
そして。
自分が勝てる時が来るまで。
必要ならば何年でも待った。
今はそこまで長く待つ必要はない。
毛利は。
すでに動いている。
景継はそう考えていた。
◇◇◇
さらに二日が経った。
集まった報告は、かなりの量になっていた。
夜も深くなり、秀吉は別の仕事へ向かった。
部屋には景継と官兵衛だけが残っている。
二人は長い間。
同じ地図を眺めていた。
「黒田殿」
「はい」
「だいぶ見えてきましたね」
「そうですな」
官兵衛の返事に、いつもの確信がない。
景継は顔を上げた。
官兵衛は地図を見たまま動かなかった。
「何か気になります?」
「一つだけ」
官兵衛は報告書を一枚取り、景継へ渡した。
景継が目を通す。
兵二百。
別の報告では兵五百。
船十数艘。
さらに兵糧。
どれも不自然ではない。
むしろ。
自然すぎる。
「整いすぎています」
官兵衛が言った。
景継はもう一度報告書を見る。
「命令が早い。兵の動きにも迷いがない。物資も必要な場所へ必要な量だけ集まっている。これだけ広い範囲の者が突然の危機へ対応したのであれば、もう少し乱れがあってもよいはずです」
景継の目が細くなった。
巨大な勢力が動けば。
必ずどこかに遅れが出る。
命令を誤解する者もいる。
必要以上に兵を集める者もいれば、逆に動きの鈍い者もいる。
だが。
今回の毛利の動きには。
それがほとんど見えない。
「やはり、見せてきましたか」
景継が静かに言った。
官兵衛が景継を見る。
「驚かれないのですな」
「偽物を見せてくる可能性は、黒田殿と話した時点で考えていましたからね」
景継の表情には、まだ焦りはなかった。
むしろ。
地図を眺めながら考え込む。
「これが偽物なら、それはそれでいい。毛利が私たちに何を本物だと思わせたいのかを考えればいい」
官兵衛も頷いた。
「この中に、毛利が隠したいものを示す手掛かりがある可能性もあります」
「ええ。ですから、ここまでは想定内です」
景継はそう言った。
だが。
その直後。
一つの疑問が浮かんだ。
景継の視線が止まる。
「待ってください」
官兵衛が顔を上げた。
「どうされました?」
「毛利は、私たちがこの動きを見ていることを知っていた。だから偽物を見せることができた」
「そうなりますな」
「では、どうやって私たちが見ていると分かったんです?」
官兵衛の表情が変わった。
景継も。
その瞬間。
自分の問いの答えへ辿り着いた。
こちらは毛利を観察していた。
どの国人が動くのか。
どこまで命令が伝わるのか。
誰が兵糧を集めるのか。
どの水軍が反応するのか。
しかし。
毛利から見れば。
同じことができる。
どこで毛利軍が動いた時に、織田側が反応したのか。
どの動きが、どれほどの速さで景継のもとへ伝わったのか。
どの場所を動かした時に、織田側の間者が活発になったのか。
それを見れば。
織田がどこに目を置いているのか推測できる。
「……そういうことですか」
景継の表情から。
それまで残っていた余裕が消えた。
官兵衛も地図へ視線を落とした。
「こちらが毛利の神経を見ようとしている間に……」
「毛利はこちらの目を探していた」
景継が言葉を継いだ。
偽物を見せられたことは問題ではない。
それは想定していた。
だが。
偽物を見せるという行為そのものを使い。
こちらがどう反応するのかを観察される。
そこまでは。
読めていなかった。
景継は小さく息を吐いた。
「これは、やられましたね」
官兵衛も否定しなかった。
「おそらく、こちらの間者が何人か特定されております」
「すぐに引かせましょう。まだ見つかっていない者まで失う必要はありません」
景継はすぐに筆を取った。
負けを認めることに。
躊躇はなかった。
金ヶ崎で学んだ。
自分の思いどおりに。
すべてが動くわけではない。
策が読まれることもある。
自分より先に。
敵が動くこともある。
重要なのは。
そこで終わらないことだった。
景継が書状を書きながら言った。
「黒田殿」
「何でしょう?」
「ここからは、毛利がこちらの策を読むことを前提に考えましょう」
官兵衛が少し笑った。
「最初からそのつもりでは?」
「違います。これまでは『読む可能性がある』と考えていました」
景継は筆を止め。
官兵衛を見る。
「今からは『必ず読んでくる』と考えます」
官兵衛の目が変わった。
「なるほど」
「こちらが罠を仕掛ければ、毛利は気づく。偽情報を流せば、その意図まで考える。そういう相手だと思った方がいい」
「それでは普通の策は使えませんな」
「ええ」
景継は少しだけ笑った。
「だから面白いんですよ」
官兵衛も笑った。
「林道殿も随分と厄介な方ですな」
「黒田殿に言われたくありません」
二人はもう一度。
地図へ向き直った。
◇◇◇
同じ頃。
西国。
毛利方の一室でも。
別の地図が広げられていた。
「林道景継が使っていたと思われる目を、いくつか確認いたしました」
報告を受けた男は。
喜ばなかった。
「いくつ消えた?」
家臣が一瞬黙る。
「すでに三つ。先ほどまで動いていた者が、急に姿を見せなくなりました」
男の口元に笑みが浮かぶ。
「気づいたか」
「林道景継が、でございますか?」
「そうだ。こちらが奴の目を探していることに気づいた」
家臣の表情が曇った。
「では、策は失敗でしょうか」
「いや。十分だ」
男は地図を見る。
景継が西国へ張っていた情報網の一部。
完全ではない。
だが。
それでいい。
すべてを奪えば。
相手は何も見えなくなる。
何も見えない相手は。
動かなくなる。
それでは困る。
少し見せる。
少し隠す。
そして。
何が見えているのか分からなくする。
その方が。
相手は迷う。
男は地図上の瀬戸内へ指を動かした。
「林道景継は、次からこちらが見せるものを疑う」
「はい」
「ならば次は、本物を見せればいい」
家臣が意味を理解できず。
男を見る。
「本物、でございますか?」
「奴は偽物を一度見せられた。次からは、こちらが動くたびに考えるだろう。本物か。偽物か。さらに裏があるのかとな」
男の指が。
瀬戸内から石山へ続く海路をなぞった。
「兵糧を送れ」
家臣が驚いた。
「石山本願寺へ?」
「そうだ」
「しかし、織田方に見つかる可能性がございます」
「見つけさせろ」
男は即答した。
「林道景継にも。黒田官兵衛にも。毛利が石山へ大量の兵糧を運ぼうとしていると、はっきり分かるように動け」
「それでは襲われます」
「だからこそだ」
男は地図上の一つの航路へ駒を置いた。
そして。
少し離れた場所へ。
もう一つ。
別の駒を置く。
「林道景継が疑って動かないのか。それとも本物と判断して食いつくのか。それを見せてもらおう」
家臣は二つの駒を見た。
その意味を。
まだ理解できていない。
男は静かに笑った。
最初の罠は。
終わった。
景継は毛利の動きが偽物である可能性まで読んでいた。
だが毛利もまた。
景継がそこまで読むことを利用した。
そして次に毛利が用意したものは。
噂でもなければ。
偽の命令でもない。
本物の船。
本物の兵糧。
本当に石山へ届けられる物資だった。
だからこそ。
次はさらに見分けにくい。
偽物を疑う者ほど。
本物まで疑う。
毛利は。
そこを狙っていた。
そして次の戦いでは。
景継だけではなく。
黒田官兵衛までもが。
その判断を迫られることになる。




