第八十一話 もう一人の軍師
羽柴秀吉という男を、景継は以前から知っていた。
信長の家臣の中でも異様なほど出世が早く、低い身分から這い上がり、いつの間にか一軍を任されるまでになった男である。戦が弱いわけでもなければ、頭が悪いわけでもない。むしろ、そのどちらも織田家中では上位に入るだろう。
だが景継が秀吉を見ていて最も不思議に感じていたのは、戦場での能力とは別のところだった。
この男は、人との距離を縮めるのが異常に早い。
初対面の相手であっても、しばらく話しているうちに昔からの知り合いだったかのような空気を作ってしまう。相手の身分が高かろうと低かろうと、その能力はほとんど変わらない。
景継には、それができなかった。
相手が何を考えているのか。何を欲し、何を恐れ、どこに不満を抱えているのか。それを読み取ることなら得意だった。
前世から数えれば、数え切れないほどの人間を見てきた。疑うことも、罠を見抜くことも、裏切りを予測することもできる。
だが、人に好かれることとは別だった。
だからこそ今回、景継は秀吉を選んだ。
「それで林道殿。西へ手を伸ばすとは聞きましたが、具体的にはどこから始めます?」
秀吉が机いっぱいに広げられた地図を覗き込んだ。
景継は毛利の勢力圏そのものではなく、その東側にいくつかの印を置いた。
「毛利そのものには、まだ触れません」
「ほう。てっきり林道殿のことですから、毛利の喉元へいきなり刃を突きつけるのかと思っておりました」
「私を何だと思っているんですか。それに今の織田が毛利と正面から戦えば、本願寺どころではなくなります」
景継は地図の上で指を動かした。
西国に巨大な勢力を築いた毛利は、浅井や朝倉とは規模が違う。毛利そのものと戦うということは、畿内で行われている戦を西国全体へ広げることを意味する。
本願寺を孤立させるために毛利と全面戦争を始めてしまえば、本末転倒だった。
「狙うのは毛利の周囲です。毛利に従っている国人、毛利と取引している商人、瀬戸内で物資を運んでいる者。その一人一人が、なぜ毛利側にいるのかを調べます」
秀吉が腕を組んだ。
「毛利を嫌っている者を探すということですかな?」
「それでは遅い。毛利を嫌っている者は、放っておいてもいずれ不満を表に出します。私が欲しいのは、毛利を嫌っていない人間です」
秀吉の顔から笑みが少し消えた。
景継は一つの印を指した。
「毛利に忠誠を誓っているわけではない。かといって恨んでもいない。ただ、今は毛利についている方が安全だから、あるいは得だから従っている。そういう人間をこちらへ引き寄せます」
「なるほど。毛利を嫌わせる必要すらないわけですな」
「ええ。織田についた方が得だと思わせればいい。味方にできなくても構いません。本願寺や毛利へ兵も兵糧も送らなくなれば、それだけで十分です」
秀吉はしばらく地図を眺めていたが、やがて口元を緩めた。
「相変わらず嫌なことを考えますな」
「あなたに言われたくありません」
「これは褒めているのでございますよ」
「なら、ありがたく受け取っておきます」
二人がそんな会話をしていると、秀吉がふと思い出したように顔を上げた。
「そうだ。林道殿に一人、会わせたい男がおります」
景継は眉を上げた。
「今ですか?」
「むしろ今だからこそ、ですな。西へ手を伸ばすのであれば、あの男を抜きにして考えるのは少々もったいない」
「随分と評価しているんですね」
「少なくとも西のことなら、拙者より詳しい。それに林道殿とは、案外気が合うかもしれませぬ」
「あなたがそう言うと、不安になりますね」
秀吉は声を上げて笑った。
その日の夕刻、秀吉に呼ばれた男が景継の前へ姿を現した。
年齢は三十を少し越えた頃だろうか。
派手さはない。
秀吉のように部屋へ入っただけで空気を明るくするような男でもない。
静かな男だった。
だが景継は、その男が部屋へ入ってきた瞬間から、無意識に観察していた。
歩き方。
視線。
座る位置。
そして、地図を見た時の目。
男は景継へ丁寧に頭を下げた。
「黒田官兵衛孝高にございます」
景継も頭を下げる。
「林道景継です」
官兵衛はすぐには話さなかった。
秀吉が座るよう促すと、官兵衛は景継の向かいへ腰を下ろした。
そして最初に見たのは、景継ではなかった。
地図だった。
そこに置かれている印を一つずつ見る。
毛利の本拠ではない。
毛利の周辺。
国人の領地。
街道。
港。
商人が集まる場所。
官兵衛の視線が、それらをゆっくり追っていく。
景継は黙っていた。
秀吉も珍しく口を挟まなかった。
やがて官兵衛が顔を上げた。
「林道殿がお考えになられたので?」
「そうです」
「毛利を攻めるおつもりはないようですな」
景継の目がわずかに細くなった。
まだ何も説明していない。
「なぜそう思います?」
「毛利を攻めるのであれば、見るべき場所が違います」
官兵衛は地図へ手を伸ばした。
「軍勢を入れる道、城、川、兵糧を運ぶ経路。まずそれらを見るでしょう。しかし林道殿が印をつけているのは、毛利そのものではない」
官兵衛の指が一つ目の印へ触れた。
「国人」
次に、港を示す印へ動いた。
「商人と船」
さらに街道へ。
「そして物資の流れ」
官兵衛が景継を見る。
「毛利を倒すのではなく、毛利に従う理由を一つずつ消していく。最後には毛利が西国に存在していても、本願寺へ力を送れない状態にする。そういうことでございますな」
景継は答えなかった。
秀吉が横で楽しそうに笑っている。
「どうです林道殿。面白い男でしょう?」
「あなた、最初からこれを見せるつもりで呼んだんですね」
「もちろん」
景継は再び官兵衛を見る。
正直に言えば、驚いていた。
策を理解するだけなら、それほど珍しくない。光秀なら同じところまで辿り着くかもしれないし、信長なら説明の途中で目的を察するだろう。
だが、この男は違った。
何も聞かず。
地図だけを見て。
景継が何をしようとしているのか、その核心まで一気に辿り着いた。
「では黒田殿」
景継は少し身を乗り出した。
「この策、どう思います?」
官兵衛はすぐには答えなかった。
もう一度地図を見る。
それから静かに言った。
「面白い策だと思います。ただし、このままでは失敗するでしょう」
秀吉の笑みが止まった。
景継の目が細くなる。
「理由を聞いても?」
「毛利が黙って見ているという前提になっているからです」
景継は一瞬、言葉を失った。
官兵衛は地図上の印を指した。
「国人をこちらへ引き込む。商人をこちらへ向ける。毛利へ従う理由を減らしていく。確かに有効です。しかし一つ二つならともかく、数が増えれば毛利も気づく」
「当然でしょう」
「気づいた後、毛利が何をするかです」
官兵衛は景継が置いた駒を一つ取り上げた。
「こちらが毛利の周囲を剥がすのであれば、毛利もまた織田の周囲を剥がそうとするでしょう」
その言葉を聞いた瞬間、景継の中で何かが引っかかった。
秀吉が官兵衛を見る。
「具体的には?」
「本願寺があります」
官兵衛は石山を指した。
「織田と戦っている勢力は、まだ本願寺だけではない。織田に従っていても不満を抱える者もいるでしょう。毛利がそこへ手を伸ばさない理由がありません」
景継は黙って考えた。
こちらが敵を分ける。
毛利もこちらを分ける。
当たり前のことだった。
だが、自分は本願寺を孤立させることに意識を向けすぎていた。
官兵衛が続ける。
「さらに、商人はもっと危うい」
「なぜです?」
「銭でこちらへ来る者は、より多くの銭を出されれば戻ります」
景継の表情が変わった。
「なるほど」
「領地を保証されてこちらへ来る国人も同じです。毛利がそれ以上の保証を示せば揺れるでしょう。つまり、利だけでつながった者は、利によって切られる」
秀吉が腕を組んだ。
「では、どうする?」
官兵衛は少し考えてから答えた。
「こちらへ来る理由だけでなく、毛利へ戻れない理由も作るべきでしょう」
景継の目が変わった。
その発想は。
よく分かった。
分かりすぎるほどだった。
「黒田殿」
「はい」
「あなたも、かなり嫌なことを考えますね」
官兵衛が初めて少し笑った。
「林道殿ほどではございませぬ」
「会ったばかりでしょう」
「地図を見れば、ある程度は分かります」
秀吉が腹を抱えて笑った。
「やはり気が合うではないですか!」
景継と官兵衛が同時に秀吉を見る。
「どこがです?」
「どこがでしょう?」
二人の言葉まで重なった。
秀吉はさらに笑った。
景継はため息をついたが、内心では別のことを考えていた。
黒田官兵衛。
面白い。
この男は、自分と似ているようで違う。
策の目的を読む速度は速い。
そのうえ、策そのものよりも先に、敵がどう返してくるかを考えている。
景継も当然それを考える。
だが今回は、自分より先に官兵衛が口にした。
それが景継には新鮮だった。
同時に。
少しだけ嬉しくもあった。
自分がすべてを考えなくてもいい。
そう思える相手は、これまでほとんどいなかった。
「では、少し変えましょう」
景継は地図の駒を並べ直した。
「毛利から人を奪うだけでは足りない。奪った人間を毛利が取り返そうとすることまで考える」
官兵衛が頷く。
「さらに言えば、こちらが誰を狙っているのか悟らせない方がいいでしょう」
「どうします?」
「同時に動かします」
官兵衛は三つの印を指した。
「国人一人へ接触すれば目立つ。しかし国人、商人、寺院、海運の者へ同時に話を持っていけば、毛利は最初にどこを守るべきか迷う」
景継はすぐに意図を理解した。
「全部が本命に見えるようにするんですね」
「ええ。ただし、本命は一つに絞ります」
「どこです?」
官兵衛は答えなかった。
代わりに秀吉を見た。
「羽柴様なら、どこを選ばれます?」
突然振られた秀吉は地図を眺めた。
しばらく考えた後、商人が集まる場所を指した。
「ここですな」
景継が尋ねる。
「理由は?」
「人は腹が減れば戦えませぬ」
秀吉は笑った。
「国人を一人奪っても、その者が出せる兵は数百。だが物を運ぶ者を押さえれば、数千、数万の兵へ影響する。石山へ入る米、塩、火薬。それらを減らせるなら、こちらの方が大きい」
官兵衛が頷いた。
「私も同じ考えです」
二人が景継を見る。
景継も。
同じ場所を見ていた。
「決まりですね」
三人の考えが。
初めて重なった。
◇◇◇
最初に接触したのは、藤原重綱という国人だった。
大きな勢力ではない。
城も小さく、動かせる兵も数百程度。
しかし、その領地は西から畿内へ物を運ぶ際に無視できない位置にあった。
さらに重要なのは、重綱の家が毛利と深い縁で結ばれているわけではないことだった。
毛利が勢力を広げた結果、従っている。
それだけ。
景継は重綱について集めた報告を読みながら言った。
「この人なら動く可能性があります。領地を安堵し、織田についた後も家を残すことを保証する。それで毛利から距離を取る理由にはなるでしょう」
官兵衛が尋ねた。
「林道殿なら、それを最初に伝えますか?」
「そのつもりですが」
秀吉と官兵衛が顔を見合わせた。
景継は嫌な予感がした。
「何です?」
秀吉が笑う。
「林道殿。ここは拙者に任せていただけませぬか?」
「何をするつもりです?」
「話をします」
「何の?」
「それを今から探すのでございます」
景継は官兵衛を見る。
官兵衛は小さく頷いた。
「私も羽柴様に任せるのがよろしいかと」
「二対一ですか」
「多数決ではございませんぞ」
秀吉は笑った。
「林道殿は相手を動かす条件を探す。官兵衛は相手が動いた後に何が起こるかを見る。ならば拙者くらい、相手自身を見る者がいてもよいでしょう」
景継はしばらく秀吉を見た。
やがて。
「分かりました。ただし、横で見ています」
「もちろん」
◇◇◇
重綱との会談は、景継の予想とはまったく違う形で始まった。
秀吉は領地の話をしなかった。
毛利の話もしない。
織田へつけとも言わなかった。
城へ入るなり出された食事を口にし、「これはうまい」と笑った。
そこから米の話になった。
今年の収穫。
城下の様子。
重綱の妻。
そして息子。
景継は最初、何をしているのか分からなかった。
だが、重綱が十九になる息子の話をした瞬間。
ほんの一瞬。
表情が曇った。
景継は見逃さなかった。
隣を見る。
官兵衛も重綱を見ていた。
秀吉だけが。
何も気づかなかったように笑っていた。
だが景継には分かった。
三人とも。
同じものを見た。
会談が終わり、城を出てから景継が口を開いた。
「息子ですね」
官兵衛が頷く。
「何かありますな」
秀吉が笑った。
「次に会えば分かります」
景継が秀吉を見る。
「調べないんですか?」
「調べてもよろしい。しかし、向こうから話してくれた方が後が楽です」
官兵衛が感心したように秀吉を見る。
「なるほど。こちらが秘密を暴いた形にしないわけですか」
「人には、自分から話した方が楽になることもありますからな」
景継は二人を見た。
やはり。
面白い。
自分一人なら。
もう重綱の息子について調べ始めていただろう。
だが秀吉は待つ。
官兵衛は、その待つことの意味まで読む。
景継にはないものを。
二人とも持っている。
◇◇◇
三日後。
重綱から使者が来た。
もう一度会いたい。
書状には、それだけ書かれていた。
二度目の会談で、重綱は前回とは違う表情をしていた。
しばらく世間話をした後、重綱が秀吉へ尋ねた。
「一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「もちろん」
「織田殿についた者の家は、本当に残されるのでございますか?」
景継の目がわずかに動いた。
来た。
「条件を守る限りは」
景継が答えると。
重綱は次の言葉を出した。
「息子も、守っていただけますか?」
景継と官兵衛の視線が。
同時に重綱へ向いた。
重綱はしばらく黙っていたが、やがて事情を話した。
毛利から。
息子を人質として差し出すよう求められている。
まだ渡してはいない。
だが。
拒み続ければ。
毛利から疑われる。
重綱は家を守りたい。
同時に。
息子も守りたい。
その二つの間で揺れていた。
景継の頭がすぐに動き始める。
息子の安全を保証する。
領地を安堵する。
毛利が攻めてきた場合には援軍を出す。
それなら。
重綱が毛利から離れる理由になる。
景継が口を開こうとした時。
秀吉が先に言った。
「嫌なのでしょう」
重綱が顔を上げる。
「何がでございます?」
「息子を渡すのが」
重綱は黙った。
「ならば、渡さなければいい」
「簡単に言われる」
「簡単ではありません。だから我らが来ております」
秀吉の声から。
いつもの軽さが消えていた。
「毛利を裏切れとは申しませぬ。今すぐ織田へ味方せよとも言わない。ただ、息子を渡したくないのであれば、そのための道を一緒に考えましょう」
重綱が秀吉を見つめた。
「なぜ、そこまで」
秀吉は少し笑った。
「十九になる息子を人質に出せと言われて、喜ぶ父親などおりますまい」
それだけだった。
秀吉は条件を並べなかった。
領地の話もしない。
銭の話もしない。
景継は黙って二人を見ていた。
その隣で。
官兵衛も何も言わなかった。
やがて重綱が深く息を吐いた。
「少し……考えさせていただきたい」
秀吉は静かに頭を下げた。
「もちろん」
◇◇◇
帰り道。
三人はしばらく黙って歩いた。
最初に口を開いたのは景継だった。
「秀吉殿」
「何でしょう?」
「あなたを連れてきて正解でした」
秀吉が驚いた顔をした。
「これはまた珍しい」
「ただし、調子には乗らないでください」
「もう少し褒めてもよいではありませぬか」
官兵衛が横で小さく笑った。
景継は続ける。
「私は重綱殿を動かす条件を考えていました。領地、安全、息子。それを並べれば動くと思っていた」
官兵衛が言った。
「間違いではないでしょう」
「ええ。でも秀吉殿は、その前に重綱殿自身を見た」
景継は秀吉を見る。
「人を動かすのは得だけではない。あなたが言っていた意味が、少し分かりました」
秀吉は照れたように鼻の下をこすった。
「では次は林道殿の番ですな」
「私?」
「重綱殿が毛利から離れれば、毛利は必ず何かしてくる。その時どう守るかは、林道殿と官兵衛の仕事でしょう」
景継は官兵衛を見る。
官兵衛も景継を見る。
「そうですね」
「異存ございません」
三人の役割が。
少しずつ。
形になり始めていた。
◇◇◇
十日後。
藤原重綱は毛利への人質提出を延期した。
織田へ味方したわけではない。
毛利を裏切ったわけでもない。
ただ、毛利から一歩だけ距離を取った。
景継は報告を受け、地図に置いていた一つの駒を動かした。
「一人目です」
秀吉が笑う。
「まだ味方ではありませぬぞ」
「それでいいんです。敵でなくなるだけでも意味があります」
官兵衛は別の場所を見ていた。
「しかし、毛利もそろそろ気づくでしょう」
景継が頷く。
「だから次は一つではなく、同時に動かします」
国人。
商人。
海運。
寺院。
それぞれに別の人間を向かわせる。
どれが本命なのか。
毛利には分からないようにする。
その中で景継たちが本当に狙うのは。
石山へ大量の物資を運んでいる商人だった。
「ここが止まれば、本願寺へ入る兵糧はかなり減ります」
景継が言うと。
官兵衛は地図を見ながら答えた。
「ならば毛利も、ここを守ろうとするでしょうな」
「ええ」
景継は笑った。
「だから、守らせます」
官兵衛が顔を上げる。
秀吉も景継を見る。
「守らせる?」
「毛利がここを本命だと思って兵や人を動かせば、その動き自体が情報になります」
官兵衛の目が変わった。
すぐに景継の考えを理解したのだろう。
「なるほど。本命を守らせるのではなく、本命だと思わせて毛利を動かす」
「そうです」
秀吉が二人を交互に見た。
「やはり拙者、この二人を一緒にしたのは間違いだった気がしてきましたな」
景継が笑う。
「今さら遅いですよ」
官兵衛も小さく笑った。
だが。
その頃には。
西国でも。
すでに動きが始まっていた。
◇◇◇
毛利方の一室。
一枚の地図が広げられていた。
「藤原重綱が、人質の提出を渋っております」
報告を受けた男は。
驚かなかった。
「誰かが接触したな」
「織田方の者が訪れております」
「誰だ?」
「羽柴秀吉。林道景継。そして、黒田官兵衛」
林道景継。
その名を聞いて。
男は地図へ目を落とした。
長篠。
浅井。
朝倉。
そして。
信長包囲網。
景継の名は。
すでに西国にも届き始めている。
男は重綱の領地だけを見なかった。
周辺の国人。
港。
商人。
街道。
それらを順番に見ていく。
やがて。
口元に笑みを浮かべた。
「なるほど。毛利を攻めるつもりはないのだな」
家臣が尋ねた。
「では、何を狙っているのでしょう?」
「我らの周りを剥がすつもりだ。毛利そのものと戦う前に、毛利へ人と物が集まる仕組みを崩そうとしている」
家臣の顔が変わった。
「すぐに重綱を処罰いたしますか?」
「いや」
男は首を横に振った。
「まだ動くな」
「しかし、このままでは他の者まで織田へ」
「だからこそだ」
男は地図の上にある一つの駒を持ち上げた。
「林道景継が、次にどこへ手を伸ばすのか見せてもらおう。こちらが慌てて動けば、奴に我らが守りたい場所を教えることになる」
そして。
別の駒を。
ある商人の名の上へ置いた。
偶然ではない。
そこは。
景継たちが次の本命として選んだ場所だった。
「それに、官兵衛がいるなら、こちらが動くことまで読んでいるだろう」
男は静かに笑った。
「ならば、そのさらに先を行けばいい」
数日後。
景継のもとへ一通の報告が届いた。
織田への協力を約束していた商人が。
突然。
姿を消したという。
それだけではなかった。
別の報告も。
ほぼ同時に届いた。
藤原重綱の周辺で。
奇妙な噂が広がり始めている。
織田へ近づいた者は。
利用された後に領地を奪われる。
林道景継は。
降伏した国人を信用せず。
いずれすべてを粛清するつもりだ。
根拠のない噂だった。
だが。
人を動かすのに。
真実である必要はない。
信じる者がいれば。
それだけで十分だった。
景継は二通の報告を机へ置いた。
向かいには秀吉。
そして官兵衛。
誰も。
すぐには口を開かなかった。
やがて官兵衛が静かに言った。
「始まりましたな」
景継も頷いた。
「ええ」
こちらが毛利の周囲を崩すなら。
毛利はこちらの信用を崩す。
兵と兵がぶつかる前に。
すでに戦は始まっていた。
景継は地図へ目を落とした。
これまで戦ってきた敵とは違う。
浅井でも。
朝倉でも。
武田でもない。
こちらが策を打てば。
相手も策を返してくる。
しかも今回は。
景継の隣にも。
同じ景色を見る男がいる。
黒田官兵衛。
景継は官兵衛を見ると、ほんの少しだけ笑った。
「黒田殿」
「何でしょう?」
「どうやら、あなたの言った通りになりました」
官兵衛は表情を変えなかった。
「では、ここからが本当の戦ですな」
景継は頷いた。
毛利との戦いは。
城を攻めるところから始まるのではない。
誰を信じるか。
誰を疑うか。
誰についていけば生き残れるのか。
その判断を。
西国にいるすべての人間へ迫るところから始まる。
そして景継は、この時まだ知らなかった。
この黒田官兵衛という男が。
やがて自分でも予想できないほど深く。
織田家の運命へ関わっていくことを。




