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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

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第八十話 敵を一つにするな


毛利が動く。


その知らせが評定の間へ届いてからも、景継はしばらく地図の前から動かなかった。


石山本願寺。


その西に広がる海。


さらに先にある毛利の勢力圏。


これまで景継は、本願寺との戦いを畿内に残された一つの戦として考えていた。石山という巨大な拠点を落とし、各地の門徒を抑えれば終わる。難しい戦になるとは思っていたが、根本的には浅井や朝倉を相手にした時と同じだと考えていた。


だが、違う。


本願寺へ物資を運ぶ者がいる。


信仰を理由に戦う者がいる。


土地を守るために武器を取る者がいる。


織田を嫌っているというだけで本願寺へ近づく国人もいる。


さらに海の向こうには、毛利がいる。


一つの敵ではない。


いくつもの思惑が重なり合い、それが石山本願寺という一つの場所へ集まっている。


景継は地図を見ながら、思わず小さく息を吐いた。


「これは本当に面倒ですね。武田なら、少なくとも誰を倒せばいいのかは分かりました」


信長が景継を見る。


「怖気づいたか」


「怖気づいたというより、どこから手をつければいいのか考えているんです。長篠なら勝頼殿の軍を崩せば勝ちでした。でも今回は、石山の兵を破ったところで終わるとは思えません」


信長は答えず、地図へ視線を戻した。


景継も再び石山を見る。


この戦には、これまでとは違う勝ち方が必要になる。


そのことだけは、はっきりしていた。


◇◇◇


翌朝から景継は、本願寺に関わる情報をさらに細かく分け始めた。


これまでは「本願寺側」という一つの括りでまとめられていた報告を、景継は一枚ずつ読み直した。


寺院。


門徒。


国人。


商人。


村。


海運に関わる者。


そして武装した集団。


弥兵衛がその作業を手伝っていたが、しばらくすると首を傾げた。


「若様、昨日から何度も同じ書状を読まれておりますが、何を調べておられるのでございます?」


「誰が敵なのかを調べています」


「本願寺が敵なのではございませんか?」


「昨日までは私もそう思っていました」


景継は一枚の書状を弥兵衛へ渡した。


そこには、ある村の門徒について記されている。


「この村の者たちは本願寺の門徒です。でも、今のところ武器を取ったという報告はありません」


「そのようでございます」


「では、敵ですか?」


弥兵衛は答えに迷った。


景継は別の書状を出した。


「こちらの国人は本願寺への信仰が特別に強いわけではない。それでも織田に反発して、本願寺側へ兵を出している」


「こちらは敵ということになりますな」


「今はそうでしょう。でも、この人が本願寺を信じて戦っているわけではないなら、条件が変われば離れるかもしれません」


さらに別の書状。


「この商人は本願寺へ物資を運んでいる。でも理由は信仰ではなく、銭になるからです」


弥兵衛が少しずつ景継の考えを理解し始めた。


「同じ本願寺側でも、戦っている理由が違うということでございますか」


「そうです。だったら同じ方法で倒そうとする方がおかしい」


景継は机の上に紙を並べた。


最後まで戦う可能性が高い者。


条件によって離れる可能性がある者。


中立にできる者。


戦う意思を持っていない者。


そして、利益によって動いている者。


「全部を敵にしてしまえば簡単です。でも、それをしたら今は戦っていない人まで武器を取るかもしれません」


景継は一枚の紙を持ち上げた。


「逆に考えれば、今戦っている人でも、戦う理由をなくせば離れる可能性があります」


弥兵衛が景継を見る。


「戦わずに本願寺の力を削るのでございますか?」


「できるなら、それが一番でしょう」


景継は少し笑った。


「五千の兵を預かったからといって、毎回五千人で殴り合わなければならない理由はありませんからね」


◇◇◇


その日の午後。


景継は再び信長の前へ出た。


今回は光秀だけでなく、佐久間信盛や丹羽長秀も同席している。


景継は用意してきた紙を広げた。


「本願寺を攻める前に、一つお願いがあります」


信長が景継を見る。


「言ってみろ」


「本願寺に関わる者を、すべて同じ敵として扱わないでください」


勝家がいれば真っ先に反論しただろう。


しかし、その場にいた信盛も険しい表情になった。


「戦っている者を敵として扱うなということか?」


「違います。武器を持ってこちらへ向かってくる者は敵です。そこを曖昧にするつもりはありません」


景継はすぐに答えた。


「でも、本願寺の門徒だからという理由だけで村を焼いたり、戦う意思のない者まで攻撃したりするのは避けたいんです」


信長の表情が変わった。


「随分と甘いことを言うようになったな」


評定の間の空気が重くなる。


景継は信長から目を逸らさなかった。


「甘いから言っているんじゃありません。その方が敵を減らせると思うから言っています」


「敵を減らす?」


「信仰を捨てろと言われれば、人は反発するでしょう。寺を焼かれれば怒る。家族を殺されれば復讐しようとする。こちらが攻撃すればするほど、本願寺側へ行く理由を作ってしまう可能性があります」


信長の目が細くなった。


景継は続けた。


「私たちが倒したいのは信仰そのものではないはずです。織田へ兵を向け、本願寺へ兵や物資を集める仕組みを止めたい。それなら、信仰を持っていても戦わない者まで敵にする必要はありません」


「戦わぬという保証はどこにある」


「ありません」


景継は即答した。


「だから調べます。誰が何のために本願寺へ加わっているのか、一つずつ見ます」


信長が少し苛立ったように言った。


「そんなことをしていれば何年かかる」


「全員を調べる必要はありません。人が集まる場所には、必ず中心があります」


景継は地図へいくつか印を置いた。


「兵を集める者。兵糧を集める者。周辺の村へ呼びかける者。商人とつながっている者。海から物資を入れる者。それぞれのつながりを見つけます」


信盛が地図を見る。


「中心を潰すということか」


「潰す場合もあります。でも、こちらへ引き込めるなら、その方がいい」


信長が景継を見る。


「銭か」


「銭でも土地でも安全の保証でも構いません。相手によって変えます」


景継は静かに答えた。


「信仰で戦う人間に銭を渡しても動かないでしょう。でも、銭のために物資を運んでいる商人なら話は別です。織田が嫌いだから本願寺へついている国人なら、織田についた方が得だと思わせればいい」


光秀がそこで初めて口を開いた。


「本願寺という一つの敵を崩すのではなく、つながりを一つずつ切るつもりか」


「そうです」


景継は頷いた。


「敵が一つに見えるなら、まず一つではなくします」


その言葉に。


信長の目が少し変わった。


景継は地図上の石山を指した。


「十の勢力が同じ場所へ集まって一万になるなら、一万と戦う前に十をばらばらにした方がいい。最後まで残った者とだけ戦えば、こちらの損害も減らせます」


しばらく誰も話さなかった。


やがて信長が尋ねた。


「それで毛利はどうする」


景継の指が止まった。


そこだった。


本願寺内部を分けることはできる。


だが毛利は違う。


西国に巨大な領国を持ち、独自の軍事力を持っている。


しかも海を使える。


「毛利は切り離す側ではなく、別の敵として考えた方がいいでしょうね」


「ならば西へ兵を出すか」


「いずれ必要になると思います。でも、今すぐ私が五千を連れて毛利領へ向かうのは反対です」


「なぜだ」


「遠すぎます」


景継は地図上で畿内から西へ指を動かした。


「こちらが西へ深く入れば入るほど、兵糧を運ぶ距離が長くなる。毛利は自分たちの土地で戦えますが、こちらは違います。しかも毛利には海があります」


信長が黙る。


「だから先に、本願寺と毛利がどうつながっているのかを見たい。どこから物資を送り、誰が受け取り、どの道で石山まで運ぶのか。それが分かれば、毛利そのものと戦わなくても支援を弱められる可能性があります」


信長はしばらく考えていた。


だが。


やがて首を横に振った。


「遅い」


景継の表情が変わる。


「何がです?」


「お前のやり方だ」


信長は地図の石山を指した。


「一つずつ調べ、一つずつ切り離す。その間にも本願寺は兵を集める。毛利も動く。俺は何年も待つつもりはない」


景継も信長を見る。


二人の間に。


今までとは少し違う緊張が生まれた。


景継は信長の考えも理解できた。


勢力が大きくなった今だからこそ、速さが必要になる。


一つの敵へ時間を使えば。


別の敵が動く。


だが。


「急いで全員を敵にしたら、もっと長引くかもしれません」


景継は譲らなかった。


「石山を落とすために畿内中へ火をつけるような戦い方をすれば、石山を落とした後も戦が残ります」


信長の目が鋭くなる。


「ならば、お前なら必ず終わらせられるのか」


景継は一瞬だけ黙った。


ここで。


できると言えば簡単だった。


司馬懿としてなら。


言ったかもしれない。


だが。


金ヶ崎を経験した今の景継には。


言えなかった。


「分かりません」


信長の眉が動く。


「分からぬのか」


「分かりません。でも、分からないからこそ、一つのやり方に全部を賭けたくありません」


景継は静かに答えた。


「私が間違っている可能性もあります。だから信長様の軍事的な圧力も必要です。その一方で、私には敵を減らす方をやらせてください」


光秀が景継を見る。


信盛も黙っている。


信長は長い間。


景継を見ていた。


そして。


「三月だ」


景継が少し驚いた。


「三月?」


「三月だけ、お前の好きにやれ」


信長は地図を景継の方へ押した。


「その間に、本願寺へ集まる者を減らせ。物資も減らせ。できなければ俺のやり方でやる」


景継は地図を見た。


三月。


十分とは言えない。


だが。


何もないよりはいい。


「分かりました。三月で結果を見せます」


信長が笑った。


「随分簡単に言うな」


「信長様が三月しかくれないからでしょう」


評定の間の空気が。


ようやく少しだけ緩んだ。


◇◇◇


景継が最初に手をつけたのは、兵ではなかった。


商人だった。


石山へ何が運ばれているのか。


米。


塩。


武器。


火薬。


布。


薬。


そして。


誰が運んでいるのか。


景継は物資の流れを調べ始めた。


すると。


奇妙なことが分かった。


同じ商人が。


織田領でも商いをしながら。


本願寺へも物を運んでいる。


弥兵衛は報告を読みながら驚いた。


「捕らえますか?」


「捕らえません」


「しかし、本願寺へ兵糧を売っているのでございますよ」


「だから話をします」


景継はその商人を呼んだ。


数日後。


四十を少し越えた男が、緊張した顔で景継の前へ座っていた。


「本願寺へ米を運んでいるそうですね」


男の顔色が変わった。


「それは……」


「責めているわけではありません。理由を聞きたいだけです」


男はしばらく黙っていた。


やがて。


「商いでございます」


「信仰ではなく?」


「私は門徒ではございません」


「では、なぜ危険を冒してまで石山へ?」


男は迷った。


景継は急かさない。


しばらくして。


「高く売れるからでございます」


景継は小さく頷いた。


予想どおりだった。


「織田が同じだけ買うと言ったら?」


男が顔を上げる。


「それは……」


「さらに、今後も織田領で商いをすることを保証します。本願寺へ運ぶより安全で、同じだけ儲かる。それでも石山へ運びますか?」


男は答えなかった。


だが。


その沈黙が答えだった。


景継は笑った。


「分かりました。今日はそれだけです」


商人が退室した後。


弥兵衛が尋ねる。


「買い占めるのでございますか?」


「全部は無理です。それをしたら織田の銭が先になくなります」


景継は机の上の報告書を見る。


「でも、全員を止める必要はありません」


「どういうことでございます?」


「十人の商人が石山へ運んでいるなら、そのうち三人でも四人でもこちらへ向ければいい。石山へ入る物資は減ります」


景継は一枚の紙へ印をつけた。


「それに一人が変われば、他の商人も考えます。本願寺へ運ぶより織田へ売った方が安全で儲かるとなれば、信仰で動いていない者は自然に離れます」


兵で道を塞ぐのではない。


物を運ぶ理由そのものを変える。


司馬懿として戦っていた頃にも。


似たことは何度もした。


敵の軍を倒す前に。


敵軍が存在するために必要なものを奪う。


ただ。


今回は。


さらに複雑だった。


◇◇◇


数週間が経った。


わずかだが。


変化が現れ始めた。


石山へ物資を運んでいた商人の一部が、織田側との取引を増やした。


周辺の国人の中にも。


本願寺から距離を取ろうとする者が現れた。


景継はその一人一人へ条件を変えた。


領地を保証する。


過去の敵対を問わない。


織田軍への参加を強制しない。


ただし。


本願寺へ兵も兵糧も送らない。


完全な味方にする必要はない。


敵でなくなれば。


それでいい。


「若様」


弥兵衛が新しい報告を持ってきた。


「また一つ、兵糧の搬入が減ったようでございます」


「これで四つ目ですか」


「はい。ただ……」


弥兵衛の表情が曇っている。


景継は気づいた。


「悪い知らせもあるんですね」


「ございます」


弥兵衛が別の書状を差し出した。


景継は受け取って読み始めた。


そして。


途中で表情が変わった。


「海ですか」


「毛利が動いております」


陸から入る物資を減らしている。


だが。


海から入る。


景継が一つ切れば。


別の場所から補われる。


「どれくらいです?」


「まだ正確には分かりませぬ。ただ、かなりの量になる可能性がございます」


景継はすぐに地図を広げた。


毛利。


瀬戸内。


石山。


海で。


つながっている。


陸上だけで本願寺を孤立させることはできない。


「やっぱり、ここへ行き着きますか」


景継は毛利の名を見た。


本願寺を分ける。


周辺勢力を離す。


商人を変える。


それだけでは。


足りない。


海から物資を入れる毛利をどうにかしなければ。


石山は生き続ける。


だが。


毛利と正面から戦えば。


今度は西国全体を巻き込む。


景継はしばらく考えた。


そして。


一人の男の顔が浮かんだ。


自分とは。


まったく違う方法で人を動かす男。


頭で相手を追い詰めるのではなく。


笑いながら懐へ入り。


いつの間にか。


自分の側へ引き込んでいる。


「弥兵衛」


「何でございましょう?」


「信長様のところへ行きます」


「毛利のことでございますか?」


「それもあります。でも、その前に一人借りたい人がいます」


弥兵衛が首を傾げる。


景継は立ち上がった。


本願寺を崩すには。


戦場だけを見ていてはいけない。


毛利を止めるには。


西へ目を向けなければならない。


そして。


西へ進むなら。


自分より向いている人間がいる。


◇◇◇


岐阜城。


景継の話を聞いた信長は。


少し意外そうな顔をした。


「お前があいつを欲しがるとはな」


「私もそう思います」


景継は苦笑した。


「でも、今回に関しては私より向いていると思います」


「何をさせる」


「西の国人や豪族を見てもらいたいんです。誰が毛利についているのか。誰なら離れるのか。誰が毛利を恐れて従っているだけなのか」


信長は景継を見た。


「お前でもできるだろう」


「できます。でも、たぶんあの人の方が上手い」


景継は素直に答えた。


それが。


少し悔しかった。


だが。


戦は自分の能力を証明する場所ではない。


勝つために。


使えるものを使う。


人も。


同じだった。


信長の口元が上がる。


「面白い」


「何がです?」


「お前が自分より他人の方が上だと言うところを、初めて聞いた気がする」


「私を何だと思っているんですか」


「自信過剰な小僧だ」


景継はため息をついた。


信長は笑いながら。


一人の男を呼ばせた。


しばらくして。


廊下の向こうから。


慌ただしい足音が近づいてくる。


「お呼びにございますか!」


明るい声とともに。


一人の男が姿を現した。


景継はその男を見る。


羽柴秀吉。


後に。


天下人となる男。


だが。


今の景継は。


そんな未来を知らない。


知っているのは。


この男が。


自分にはできないやり方で。


人を動かすということだけだった。


秀吉は信長へ頭を下げた後。


景継を見た。


「林道殿までおられるとは珍しい。何やら面倒事の匂いがいたしますな」


景継は少し笑った。


「よく分かりましたね」


「林道殿が拙者を必要とする話など、面倒事以外に思いつきませぬ」


「失礼ですね」


「お互い様でしょう」


信長が二人を見ながら笑う。


景継は地図を広げた。


石山。


瀬戸内。


そして。


毛利。


秀吉の表情から。


笑みが少し消えた。


「西でございますか」


「はい」


景継は答えた。


「毛利をいきなり倒したいわけではありません」


秀吉が地図を見る。


「では、何を?」


景継は毛利の周囲へ。


いくつかの印を置いた。


「毛利の味方を、減らしたいんです」


秀吉の目が変わった。


景継は続ける。


「私は人を疑って、理由を探して、選択肢を減らすのは得意です。でも、人の懐へ入るのは先生やあなたの方が上手い」


秀吉が驚いたように景継を見る。


「林道殿から褒められるとは、明日は雨でも降りますかな」


「今の言葉、取り消しましょうか?」


「ぜひそのままでお願いいたします」


二人のやり取りを聞きながら。


信長は楽しそうに笑っていた。


だが。


景継はすぐに地図へ視線を戻した。


本願寺。


毛利。


そして。


その間にいる無数の人間。


この戦は。


一人では勝てない。


だから。


自分にないものを持つ人間を使う。


司馬懿として生きた頃の景継なら。


もっと早く分かっていたはずのことだった。


「秀吉殿」


「何でございましょう」


「西を見せてください」


「何を見ればよろしいので?」


景継は地図上の毛利を指した。


「誰が毛利のために戦い、誰が仕方なく従い、誰が条件次第でこちらへ来るのか。それを知りたい」


秀吉はしばらく地図を見ていた。


そして。


ゆっくり笑った。


「それなら」


秀吉の指が。


毛利の周囲へ動いた。


「戦を始める前に、随分と面白いことができそうですな」


景継も笑った。


石山本願寺を巡って始まった戦は。


ついに。


畿内だけでは収まらなくなった。


次に景継が見るのは。


西国。


そして。


毛利。


だが。


その戦いで景継が知ることになる。


人を動かす方法は。


策だけではない。


自分とはまったく違う武器を持った男が。


すぐ隣にいるということを。

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