第八十話 敵を一つにするな
毛利が動く。
その知らせが評定の間へ届いてからも、景継はしばらく地図の前から動かなかった。
石山本願寺。
その西に広がる海。
さらに先にある毛利の勢力圏。
これまで景継は、本願寺との戦いを畿内に残された一つの戦として考えていた。石山という巨大な拠点を落とし、各地の門徒を抑えれば終わる。難しい戦になるとは思っていたが、根本的には浅井や朝倉を相手にした時と同じだと考えていた。
だが、違う。
本願寺へ物資を運ぶ者がいる。
信仰を理由に戦う者がいる。
土地を守るために武器を取る者がいる。
織田を嫌っているというだけで本願寺へ近づく国人もいる。
さらに海の向こうには、毛利がいる。
一つの敵ではない。
いくつもの思惑が重なり合い、それが石山本願寺という一つの場所へ集まっている。
景継は地図を見ながら、思わず小さく息を吐いた。
「これは本当に面倒ですね。武田なら、少なくとも誰を倒せばいいのかは分かりました」
信長が景継を見る。
「怖気づいたか」
「怖気づいたというより、どこから手をつければいいのか考えているんです。長篠なら勝頼殿の軍を崩せば勝ちでした。でも今回は、石山の兵を破ったところで終わるとは思えません」
信長は答えず、地図へ視線を戻した。
景継も再び石山を見る。
この戦には、これまでとは違う勝ち方が必要になる。
そのことだけは、はっきりしていた。
◇◇◇
翌朝から景継は、本願寺に関わる情報をさらに細かく分け始めた。
これまでは「本願寺側」という一つの括りでまとめられていた報告を、景継は一枚ずつ読み直した。
寺院。
門徒。
国人。
商人。
村。
海運に関わる者。
そして武装した集団。
弥兵衛がその作業を手伝っていたが、しばらくすると首を傾げた。
「若様、昨日から何度も同じ書状を読まれておりますが、何を調べておられるのでございます?」
「誰が敵なのかを調べています」
「本願寺が敵なのではございませんか?」
「昨日までは私もそう思っていました」
景継は一枚の書状を弥兵衛へ渡した。
そこには、ある村の門徒について記されている。
「この村の者たちは本願寺の門徒です。でも、今のところ武器を取ったという報告はありません」
「そのようでございます」
「では、敵ですか?」
弥兵衛は答えに迷った。
景継は別の書状を出した。
「こちらの国人は本願寺への信仰が特別に強いわけではない。それでも織田に反発して、本願寺側へ兵を出している」
「こちらは敵ということになりますな」
「今はそうでしょう。でも、この人が本願寺を信じて戦っているわけではないなら、条件が変われば離れるかもしれません」
さらに別の書状。
「この商人は本願寺へ物資を運んでいる。でも理由は信仰ではなく、銭になるからです」
弥兵衛が少しずつ景継の考えを理解し始めた。
「同じ本願寺側でも、戦っている理由が違うということでございますか」
「そうです。だったら同じ方法で倒そうとする方がおかしい」
景継は机の上に紙を並べた。
最後まで戦う可能性が高い者。
条件によって離れる可能性がある者。
中立にできる者。
戦う意思を持っていない者。
そして、利益によって動いている者。
「全部を敵にしてしまえば簡単です。でも、それをしたら今は戦っていない人まで武器を取るかもしれません」
景継は一枚の紙を持ち上げた。
「逆に考えれば、今戦っている人でも、戦う理由をなくせば離れる可能性があります」
弥兵衛が景継を見る。
「戦わずに本願寺の力を削るのでございますか?」
「できるなら、それが一番でしょう」
景継は少し笑った。
「五千の兵を預かったからといって、毎回五千人で殴り合わなければならない理由はありませんからね」
◇◇◇
その日の午後。
景継は再び信長の前へ出た。
今回は光秀だけでなく、佐久間信盛や丹羽長秀も同席している。
景継は用意してきた紙を広げた。
「本願寺を攻める前に、一つお願いがあります」
信長が景継を見る。
「言ってみろ」
「本願寺に関わる者を、すべて同じ敵として扱わないでください」
勝家がいれば真っ先に反論しただろう。
しかし、その場にいた信盛も険しい表情になった。
「戦っている者を敵として扱うなということか?」
「違います。武器を持ってこちらへ向かってくる者は敵です。そこを曖昧にするつもりはありません」
景継はすぐに答えた。
「でも、本願寺の門徒だからという理由だけで村を焼いたり、戦う意思のない者まで攻撃したりするのは避けたいんです」
信長の表情が変わった。
「随分と甘いことを言うようになったな」
評定の間の空気が重くなる。
景継は信長から目を逸らさなかった。
「甘いから言っているんじゃありません。その方が敵を減らせると思うから言っています」
「敵を減らす?」
「信仰を捨てろと言われれば、人は反発するでしょう。寺を焼かれれば怒る。家族を殺されれば復讐しようとする。こちらが攻撃すればするほど、本願寺側へ行く理由を作ってしまう可能性があります」
信長の目が細くなった。
景継は続けた。
「私たちが倒したいのは信仰そのものではないはずです。織田へ兵を向け、本願寺へ兵や物資を集める仕組みを止めたい。それなら、信仰を持っていても戦わない者まで敵にする必要はありません」
「戦わぬという保証はどこにある」
「ありません」
景継は即答した。
「だから調べます。誰が何のために本願寺へ加わっているのか、一つずつ見ます」
信長が少し苛立ったように言った。
「そんなことをしていれば何年かかる」
「全員を調べる必要はありません。人が集まる場所には、必ず中心があります」
景継は地図へいくつか印を置いた。
「兵を集める者。兵糧を集める者。周辺の村へ呼びかける者。商人とつながっている者。海から物資を入れる者。それぞれのつながりを見つけます」
信盛が地図を見る。
「中心を潰すということか」
「潰す場合もあります。でも、こちらへ引き込めるなら、その方がいい」
信長が景継を見る。
「銭か」
「銭でも土地でも安全の保証でも構いません。相手によって変えます」
景継は静かに答えた。
「信仰で戦う人間に銭を渡しても動かないでしょう。でも、銭のために物資を運んでいる商人なら話は別です。織田が嫌いだから本願寺へついている国人なら、織田についた方が得だと思わせればいい」
光秀がそこで初めて口を開いた。
「本願寺という一つの敵を崩すのではなく、つながりを一つずつ切るつもりか」
「そうです」
景継は頷いた。
「敵が一つに見えるなら、まず一つではなくします」
その言葉に。
信長の目が少し変わった。
景継は地図上の石山を指した。
「十の勢力が同じ場所へ集まって一万になるなら、一万と戦う前に十をばらばらにした方がいい。最後まで残った者とだけ戦えば、こちらの損害も減らせます」
しばらく誰も話さなかった。
やがて信長が尋ねた。
「それで毛利はどうする」
景継の指が止まった。
そこだった。
本願寺内部を分けることはできる。
だが毛利は違う。
西国に巨大な領国を持ち、独自の軍事力を持っている。
しかも海を使える。
「毛利は切り離す側ではなく、別の敵として考えた方がいいでしょうね」
「ならば西へ兵を出すか」
「いずれ必要になると思います。でも、今すぐ私が五千を連れて毛利領へ向かうのは反対です」
「なぜだ」
「遠すぎます」
景継は地図上で畿内から西へ指を動かした。
「こちらが西へ深く入れば入るほど、兵糧を運ぶ距離が長くなる。毛利は自分たちの土地で戦えますが、こちらは違います。しかも毛利には海があります」
信長が黙る。
「だから先に、本願寺と毛利がどうつながっているのかを見たい。どこから物資を送り、誰が受け取り、どの道で石山まで運ぶのか。それが分かれば、毛利そのものと戦わなくても支援を弱められる可能性があります」
信長はしばらく考えていた。
だが。
やがて首を横に振った。
「遅い」
景継の表情が変わる。
「何がです?」
「お前のやり方だ」
信長は地図の石山を指した。
「一つずつ調べ、一つずつ切り離す。その間にも本願寺は兵を集める。毛利も動く。俺は何年も待つつもりはない」
景継も信長を見る。
二人の間に。
今までとは少し違う緊張が生まれた。
景継は信長の考えも理解できた。
勢力が大きくなった今だからこそ、速さが必要になる。
一つの敵へ時間を使えば。
別の敵が動く。
だが。
「急いで全員を敵にしたら、もっと長引くかもしれません」
景継は譲らなかった。
「石山を落とすために畿内中へ火をつけるような戦い方をすれば、石山を落とした後も戦が残ります」
信長の目が鋭くなる。
「ならば、お前なら必ず終わらせられるのか」
景継は一瞬だけ黙った。
ここで。
できると言えば簡単だった。
司馬懿としてなら。
言ったかもしれない。
だが。
金ヶ崎を経験した今の景継には。
言えなかった。
「分かりません」
信長の眉が動く。
「分からぬのか」
「分かりません。でも、分からないからこそ、一つのやり方に全部を賭けたくありません」
景継は静かに答えた。
「私が間違っている可能性もあります。だから信長様の軍事的な圧力も必要です。その一方で、私には敵を減らす方をやらせてください」
光秀が景継を見る。
信盛も黙っている。
信長は長い間。
景継を見ていた。
そして。
「三月だ」
景継が少し驚いた。
「三月?」
「三月だけ、お前の好きにやれ」
信長は地図を景継の方へ押した。
「その間に、本願寺へ集まる者を減らせ。物資も減らせ。できなければ俺のやり方でやる」
景継は地図を見た。
三月。
十分とは言えない。
だが。
何もないよりはいい。
「分かりました。三月で結果を見せます」
信長が笑った。
「随分簡単に言うな」
「信長様が三月しかくれないからでしょう」
評定の間の空気が。
ようやく少しだけ緩んだ。
◇◇◇
景継が最初に手をつけたのは、兵ではなかった。
商人だった。
石山へ何が運ばれているのか。
米。
塩。
武器。
火薬。
布。
薬。
そして。
誰が運んでいるのか。
景継は物資の流れを調べ始めた。
すると。
奇妙なことが分かった。
同じ商人が。
織田領でも商いをしながら。
本願寺へも物を運んでいる。
弥兵衛は報告を読みながら驚いた。
「捕らえますか?」
「捕らえません」
「しかし、本願寺へ兵糧を売っているのでございますよ」
「だから話をします」
景継はその商人を呼んだ。
数日後。
四十を少し越えた男が、緊張した顔で景継の前へ座っていた。
「本願寺へ米を運んでいるそうですね」
男の顔色が変わった。
「それは……」
「責めているわけではありません。理由を聞きたいだけです」
男はしばらく黙っていた。
やがて。
「商いでございます」
「信仰ではなく?」
「私は門徒ではございません」
「では、なぜ危険を冒してまで石山へ?」
男は迷った。
景継は急かさない。
しばらくして。
「高く売れるからでございます」
景継は小さく頷いた。
予想どおりだった。
「織田が同じだけ買うと言ったら?」
男が顔を上げる。
「それは……」
「さらに、今後も織田領で商いをすることを保証します。本願寺へ運ぶより安全で、同じだけ儲かる。それでも石山へ運びますか?」
男は答えなかった。
だが。
その沈黙が答えだった。
景継は笑った。
「分かりました。今日はそれだけです」
商人が退室した後。
弥兵衛が尋ねる。
「買い占めるのでございますか?」
「全部は無理です。それをしたら織田の銭が先になくなります」
景継は机の上の報告書を見る。
「でも、全員を止める必要はありません」
「どういうことでございます?」
「十人の商人が石山へ運んでいるなら、そのうち三人でも四人でもこちらへ向ければいい。石山へ入る物資は減ります」
景継は一枚の紙へ印をつけた。
「それに一人が変われば、他の商人も考えます。本願寺へ運ぶより織田へ売った方が安全で儲かるとなれば、信仰で動いていない者は自然に離れます」
兵で道を塞ぐのではない。
物を運ぶ理由そのものを変える。
司馬懿として戦っていた頃にも。
似たことは何度もした。
敵の軍を倒す前に。
敵軍が存在するために必要なものを奪う。
ただ。
今回は。
さらに複雑だった。
◇◇◇
数週間が経った。
わずかだが。
変化が現れ始めた。
石山へ物資を運んでいた商人の一部が、織田側との取引を増やした。
周辺の国人の中にも。
本願寺から距離を取ろうとする者が現れた。
景継はその一人一人へ条件を変えた。
領地を保証する。
過去の敵対を問わない。
織田軍への参加を強制しない。
ただし。
本願寺へ兵も兵糧も送らない。
完全な味方にする必要はない。
敵でなくなれば。
それでいい。
「若様」
弥兵衛が新しい報告を持ってきた。
「また一つ、兵糧の搬入が減ったようでございます」
「これで四つ目ですか」
「はい。ただ……」
弥兵衛の表情が曇っている。
景継は気づいた。
「悪い知らせもあるんですね」
「ございます」
弥兵衛が別の書状を差し出した。
景継は受け取って読み始めた。
そして。
途中で表情が変わった。
「海ですか」
「毛利が動いております」
陸から入る物資を減らしている。
だが。
海から入る。
景継が一つ切れば。
別の場所から補われる。
「どれくらいです?」
「まだ正確には分かりませぬ。ただ、かなりの量になる可能性がございます」
景継はすぐに地図を広げた。
毛利。
瀬戸内。
石山。
海で。
つながっている。
陸上だけで本願寺を孤立させることはできない。
「やっぱり、ここへ行き着きますか」
景継は毛利の名を見た。
本願寺を分ける。
周辺勢力を離す。
商人を変える。
それだけでは。
足りない。
海から物資を入れる毛利をどうにかしなければ。
石山は生き続ける。
だが。
毛利と正面から戦えば。
今度は西国全体を巻き込む。
景継はしばらく考えた。
そして。
一人の男の顔が浮かんだ。
自分とは。
まったく違う方法で人を動かす男。
頭で相手を追い詰めるのではなく。
笑いながら懐へ入り。
いつの間にか。
自分の側へ引き込んでいる。
「弥兵衛」
「何でございましょう?」
「信長様のところへ行きます」
「毛利のことでございますか?」
「それもあります。でも、その前に一人借りたい人がいます」
弥兵衛が首を傾げる。
景継は立ち上がった。
本願寺を崩すには。
戦場だけを見ていてはいけない。
毛利を止めるには。
西へ目を向けなければならない。
そして。
西へ進むなら。
自分より向いている人間がいる。
◇◇◇
岐阜城。
景継の話を聞いた信長は。
少し意外そうな顔をした。
「お前があいつを欲しがるとはな」
「私もそう思います」
景継は苦笑した。
「でも、今回に関しては私より向いていると思います」
「何をさせる」
「西の国人や豪族を見てもらいたいんです。誰が毛利についているのか。誰なら離れるのか。誰が毛利を恐れて従っているだけなのか」
信長は景継を見た。
「お前でもできるだろう」
「できます。でも、たぶんあの人の方が上手い」
景継は素直に答えた。
それが。
少し悔しかった。
だが。
戦は自分の能力を証明する場所ではない。
勝つために。
使えるものを使う。
人も。
同じだった。
信長の口元が上がる。
「面白い」
「何がです?」
「お前が自分より他人の方が上だと言うところを、初めて聞いた気がする」
「私を何だと思っているんですか」
「自信過剰な小僧だ」
景継はため息をついた。
信長は笑いながら。
一人の男を呼ばせた。
しばらくして。
廊下の向こうから。
慌ただしい足音が近づいてくる。
「お呼びにございますか!」
明るい声とともに。
一人の男が姿を現した。
景継はその男を見る。
羽柴秀吉。
後に。
天下人となる男。
だが。
今の景継は。
そんな未来を知らない。
知っているのは。
この男が。
自分にはできないやり方で。
人を動かすということだけだった。
秀吉は信長へ頭を下げた後。
景継を見た。
「林道殿までおられるとは珍しい。何やら面倒事の匂いがいたしますな」
景継は少し笑った。
「よく分かりましたね」
「林道殿が拙者を必要とする話など、面倒事以外に思いつきませぬ」
「失礼ですね」
「お互い様でしょう」
信長が二人を見ながら笑う。
景継は地図を広げた。
石山。
瀬戸内。
そして。
毛利。
秀吉の表情から。
笑みが少し消えた。
「西でございますか」
「はい」
景継は答えた。
「毛利をいきなり倒したいわけではありません」
秀吉が地図を見る。
「では、何を?」
景継は毛利の周囲へ。
いくつかの印を置いた。
「毛利の味方を、減らしたいんです」
秀吉の目が変わった。
景継は続ける。
「私は人を疑って、理由を探して、選択肢を減らすのは得意です。でも、人の懐へ入るのは先生やあなたの方が上手い」
秀吉が驚いたように景継を見る。
「林道殿から褒められるとは、明日は雨でも降りますかな」
「今の言葉、取り消しましょうか?」
「ぜひそのままでお願いいたします」
二人のやり取りを聞きながら。
信長は楽しそうに笑っていた。
だが。
景継はすぐに地図へ視線を戻した。
本願寺。
毛利。
そして。
その間にいる無数の人間。
この戦は。
一人では勝てない。
だから。
自分にないものを持つ人間を使う。
司馬懿として生きた頃の景継なら。
もっと早く分かっていたはずのことだった。
「秀吉殿」
「何でございましょう」
「西を見せてください」
「何を見ればよろしいので?」
景継は地図上の毛利を指した。
「誰が毛利のために戦い、誰が仕方なく従い、誰が条件次第でこちらへ来るのか。それを知りたい」
秀吉はしばらく地図を見ていた。
そして。
ゆっくり笑った。
「それなら」
秀吉の指が。
毛利の周囲へ動いた。
「戦を始める前に、随分と面白いことができそうですな」
景継も笑った。
石山本願寺を巡って始まった戦は。
ついに。
畿内だけでは収まらなくなった。
次に景継が見るのは。
西国。
そして。
毛利。
だが。
その戦いで景継が知ることになる。
人を動かす方法は。
策だけではない。
自分とはまったく違う武器を持った男が。
すぐ隣にいるということを。




