第七十九話 終わらない戦
長篠から岐阜へ戻った景継を待っていたのは、勝利を祝う宴ではなかった。
武田勝頼率いる軍勢を退け、武田家を長年支えてきた名将たちを数多く討ち取った。織田と徳川にとって、長篠で得た勝利が極めて大きなものであることは間違いない。
しかし、天下を目指す信長にとって、一つの大敵を退けたことは戦いの終わりではなかった。
むしろ、武田という巨大な脅威が弱まったことで、それまで手を回しきれなかった敵へ力を向けられるようになっただけだった。
岐阜へ戻って数日後。
景継は信長から呼び出しを受けた。
評定の間へ入ると、すでに柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、明智光秀らが集まっていた。
そして中央に広げられていたのは、長篠で何度も見た甲斐や三河の地図ではない。
畿内。
その中央近くに、一つの印が置かれている。
景継は席へ着く前から、その場所がどこなのか理解していた。
「石山ですか」
信長が景継を見る。
「分かるか」
「これだけ目立つところに印を置かれていたら、さすがに分かります。それに信長様が長篠の次に考える相手としては、驚くほどでもありません」
景継は座ると、改めて地図へ目を落とした。
石山本願寺。
織田と本願寺の争いは、今に始まったものではない。
信長が畿内へ勢力を広げる過程で、両者はすでに何度も衝突している。
だが、景継はこれまで本願寺との戦いへ深く関わってこなかった。
浅井。
朝倉。
武田。
それらの敵へ対応する必要があったからだ。
そして何より、景継自身が本願寺をどこかで「畿内に残った一つの敵」と考えていた。
強大ではある。
面倒でもある。
しかし。
最後には他の大名と同じように、軍を破り、拠点を奪い、降伏させれば終わる。
そう考えていた。
「武田が弱った」
信長が言った。
「勝頼が消えたわけではないが、すぐに大軍を率いて西へ出てくることは難しい。浅井も朝倉もすでにない。義昭も京から追った」
信長の指が地図上を動いていく。
かつて信長を囲んでいた敵。
一つずつ。
消えている。
そして最後に、指が石山で止まった。
「いつまでも、ここだけを残しておくつもりはない」
勝家が頷いた。
「ようやく本腰を入れられますな」
「兵を集めればよろしいかと」
信盛も続ける。
景継は地図を見ながら話を聞いていた。
確かに。
兵力だけを考えるなら。
今の織田は強い。
かつてとは違う。
尾張一国から始まった織田家は、美濃を取り、畿内へ進み、浅井と朝倉を滅ぼし、将軍を京から追い、武田の大軍まで長篠で破った。
今なら。
石山本願寺へ大軍を向けることもできる。
「景継」
信長に呼ばれ、景継は顔を上げた。
「何でしょう?」
「黙っているな。何かあるなら言え」
「まだ何もありませんよ」
「お前が地図を見ながら黙っている時は、大抵ろくでもないことを考えている」
「酷い言われようですね」
勝家が笑った。
光秀も小さく口元を緩めている。
景継は少し考えてから答えた。
「本当にまだ分からないんです。私は本願寺について、他の方々ほど詳しくありませんから」
信長の眉がわずかに動く。
「ならば調べろ」
「そのつもりです。ただ、今のところ一つだけ考えていることはあります」
「何だ」
「囲えばいいのではありませんか?」
あまりにも単純な答えだったため、勝家が景継を見る。
景継は地図上の石山を指した。
「本願寺がどれほど強固でも、そこにいる人間が食べることに変わりはありません。兵糧を入れられなくして、外から来る援軍を断ち、時間をかけて囲う。城攻めの基本でしょう」
信盛が頷いた。
「それはすでに考えている」
「でしょうね。私でも思いつくくらいですから」
「お前は一言多い」
信盛が苦笑する。
景継は少し笑った。
だが。
光秀だけは笑っていなかった。
そのことに景継は気づいた。
「先生?」
光秀が景継を見る。
かつて正体を隠し、景継の前に現れていた男。
今ではその正体が明智光秀であることを、景継も知っている。
それでも。
昔から呼び続けた癖は簡単には抜けない。
二人きりではなくても、景継は時折光秀を先生と呼んでいた。
「何だ」
「今、何か言いたそうな顔をしていました」
「そう見えたか」
「かなり」
光秀は少し黙った。
それから。
「囲めば終わると思うか」
景継の表情が変わった。
「終わらないんですか?」
「それを自分で調べてみろ」
景継は目を細めた。
「またそれですか」
「お前は答えを教えられるより、自分で見つけた方が覚えるだろう」
「先生は昔からそうですね」
信長が二人を見る。
「何の話だ」
「こちらの話です」
景継はそう答えると、もう一度石山を見た。
囲めば終わると思うか。
光秀がわざわざ聞いた。
ならば。
何かある。
景継はこの時初めて、本願寺という敵をきちんと調べる必要があると考えた。
◇◇◇
その日から、景継は本願寺について集められる限りの情報を集め始めた。
石山本願寺にどれほどの兵がいるのか。
どの程度の兵糧を蓄えているのか。
周囲の地形はどうなっているのか。
どこから物資が入るのか。
どの道を塞げば孤立させられるのか。
最初に調べたのは、これまでの戦と同じことだった。
だが。
調べれば調べるほど。
景継は別の情報へ行き当たるようになった。
「これ、石山の兵ではないですよね?」
景継は一枚の報告書を持ち上げた。
向かいに座る弥兵衛が確認する。
「その者たちは紀伊方面の門徒でございます」
「では、こちらは?」
「近江の者たちかと」
「これは?」
「伊勢でございます」
景継は黙った。
机の上には。
各地から集められた報告が並んでいる。
石山。
紀伊。
近江。
伊勢。
加賀。
越中。
さらに他の地域。
「多すぎませんか?」
「何がでございます?」
「場所です」
景継は地図を広げた。
本願寺の名に関係する場所へ印を置いていく。
一つ。
二つ。
三つ。
さらに増える。
それは。
一つの大名家の領国を示す形とは、まったく違っていた。
領地が連続していない。
それでも。
人がつながっている。
「本願寺は、どこからどこまでが領地なんです?」
弥兵衛は困った顔をした。
「それを私に聞かれましても……」
「そうですよね」
景継も苦笑した。
だが。
これは思っていたより重要な問題だった。
浅井には近江があった。
朝倉には越前があった。
武田には甲斐と信濃を中心とした領国があった。
城を落とす。
領地を奪う。
家臣を降伏させる。
そうすれば。
大名家は弱っていく。
最後に本拠を失えば。
多くの場合。
終わる。
しかし。
本願寺は違う。
石山を本拠としていることに変わりはない。
だが。
石山だけに存在しているわけではない。
景継は報告書を読み続けた。
寺。
坊主。
門徒。
国人。
農民。
商人。
そして。
武器を取る者。
その境目が。
景継には分かりにくかった。
「弥兵衛」
「何でございましょう?」
「例えば、ここにいる農民を倒したとします」
景継は地図上の一点を指した。
「その人の兄が別の村にいたら?」
「敵になるかもしれませぬ」
「息子が門徒なら?」
「やはり、武器を取る可能性はございます」
「では、その村を全部押さえたとしても、別の地域に同じ信仰を持つ者がいれば?」
弥兵衛が黙った。
景継も。
答えを言わなかった。
必要がなかった。
分かり始めていた。
「……面倒ですね」
景継は小さく呟いた。
武田とは違う。
浅井とも。
朝倉とも。
違う。
敵の大将を討てば終わる戦ではない。
一つの城を落としても。
それだけで人々の信仰が消えるわけではない。
◇◇◇
さらに数日後。
景継は石山周辺から戻った者たちの話を聞いた。
その中には商人もいた。
「石山には、まだ物が入っていますか?」
景継が尋ねる。
商人は頷いた。
「入っております」
「どこから?」
「様々でございます。堺から入るものもあれば、海を通るものもございます」
景継の表情が変わった。
「海?」
「はい」
景継はすぐ地図を見た。
陸だけを見ていた。
街道。
山道。
川。
どこへ兵を置けば。
石山を孤立させられるか。
そればかり考えていた。
だが。
石山は海ともつながっている。
物資を運べる。
人も動ける。
景継はしばらく地図を見つめた。
「陸を全部塞いでも駄目ですか」
「完全に止めるのは難しいかと」
商人が答えた。
「それに石山には、商いに関わる者も多くおります」
「商人も本願寺の味方なんですか?」
「すべてではございません」
景継の目が動いた。
すべてではない。
その言葉が引っかかった。
「では、本願寺を支持している者もいれば、そうではない者もいる?」
「当然でございます」
商人は少し不思議そうに答えた。
「信仰のために石山へ物を運ぶ者もおります。しかし、銭になるから運ぶ者もおります。織田様を嫌っている者もおりますし、逆に本願寺と深く関わりたくない者もおります」
景継は黙った。
一つ。
頭の中で。
何かが外れた。
今まで。
本願寺。
という一つの名前で考えていた。
だから。
そこに関わる者すべてを。
一つの敵として見ていた。
だが。
違う。
信仰のために戦う者。
土地を守るために戦う者。
織田が嫌いだから加わる者。
銭のために物を運ぶ者。
家族がいるから離れられない者。
そして。
戦いたくない者。
理由が。
全部違う。
「なるほど」
景継は地図を見た。
少しだけ。
見え方が変わった。
◇◇◇
その夜。
景継は光秀を訪ねた。
光秀は書状を読んでいたが、景継を見ると静かにそれを置いた。
「何か分かったか」
「先生が囲えば終わると思うかと聞いた理由なら、少しだけ」
「聞こう」
景継は座った。
「本願寺は城じゃないんですね」
光秀の目がわずかに細くなる。
「石山に本拠はあります。でも、本願寺というもの自体は石山の中だけにいるわけじゃない」
景継は持ってきた地図を広げた。
各地に印がある。
「浅井なら小谷を落とし、領地を奪い、長政殿を失えば終わる。朝倉も同じです。武田も勝頼殿を討ち、甲斐と信濃を完全に奪えば、少なくとも武田家という敵は終わるでしょう」
光秀は何も言わない。
景継は続けた。
「でも、本願寺は違う。石山を落としても、信じている人間まで消えるわけじゃない」
「そうだな」
「しかも、全員が同じ理由で戦っているわけでもない」
光秀の表情が少し変わった。
景継はそこを見逃さなかった。
「先生。こっちの方が大事なんじゃないですか?」
「何がだ」
「本願寺が一枚岩ではないことです」
光秀は答えない。
景継は地図を指した。
「信仰で最後まで戦う者と、土地を守りたいだけの者を同じ敵にする必要はない。商人まで敵にする必要もない。織田を嫌っているだけの国人なら、条件次第では離れるかもしれない」
光秀の口元が。
わずかに動いた。
「そこまで辿り着いたか」
「やっぱり知っていたんですね」
「知っていたからといって、同じ答えに辿り着くとは限らん」
「本当に先生は昔から面倒な教え方をしますね」
「覚えただろう」
景継は返す言葉がなく、苦笑した。
だが。
すぐに表情を戻した。
「それでも、まだ分からないことがあります」
「何だ」
「石山への物資です」
景継は海へ指を動かした。
「陸だけではありません。海からも入っている。完全に囲むなら、海まで押さえなければならない」
「織田だけで簡単にできると思うか」
「思いません」
景継は即答した。
「だから困っています」
光秀は静かに景継を見ていた。
景継は再び地図へ視線を落とした。
石山。
そして海。
その先。
西。
まだ。
何かがある。
「先生」
「何だ」
「本願寺の後ろに誰かいますね?」
光秀は答えなかった。
その沈黙だけで。
景継には十分だった。
◇◇◇
翌日。
景継は再び信長の前にいた。
今度は。
前回とは違う地図を持っている。
信長が見る。
「調べたか」
「ある程度は。ただ、最初に考えていたことは撤回します」
「囲う話か」
「はい。普通に囲って終わる相手ではありません」
景継は地図を広げた。
「石山だけを敵だと思ったら間違えます。本願寺は各地の門徒とつながっている。それに、関わっている人間すべてが同じ理由で戦っているわけでもありません」
勝家が腕を組む。
「ならば全部まとめて叩けばよかろう」
景継は勝家を見る。
「それをすると、今は戦うつもりがない人まで敵になるかもしれません」
勝家の眉が動いた。
「どういう意味だ」
「例えば、信仰はしていても戦いたくない農民がいる。その人の村を本願寺側だからという理由で焼けば、その人はどうします?」
誰も答えなかった。
景継が続ける。
「戦う理由ができます」
評定の間が静かになった。
「家を焼かれた。家族を殺された。土地を奪われた。そうなれば、信仰とは別の理由でも武器を取るでしょう」
信長の目が。
景継へ向いている。
「殺せば殺すほど、残った人間に戦う理由を与える可能性がある。そういう相手なんだと思います」
景継自身。
言いながら。
嫌な相手だと思った。
軍勢なら。
破ればいい。
城なら。
落とせばいい。
大名なら。
降伏させればいい。
だが。
人の心にあるものを。
槍では壊せない。
「ならばどうする」
信長が尋ねた。
景継は少し考えた。
「まだ答えはありません」
勝家が景継を見る。
「珍しいな」
「私だって何でも分かるわけではありませんよ」
景継は苦笑した。
「ただ、一つだけ決めました」
「何をだ」
「全部を敵にしないことです」
景継は地図上の印を見た。
本願寺。
一つの巨大な敵。
そう考えるのを。
やめる。
戦いたい者。
戦いたくない者。
信仰を守りたい者。
土地を守りたい者。
銭で動く者。
政治で動く者。
それぞれ。
別の人間として見る。
「本願寺という一つの敵を倒そうとするのではなく、その中にいる人間を分けて考えます。誰が最後まで戦うのか。誰なら離れるのか。誰なら中立にできるのか。それを調べたい」
信長はしばらく黙っていた。
やがて。
「好きにやれ」
景継が顔を上げる。
「いいんですか?」
「お前に五千を預けたのは、俺と同じことをさせるためではない」
信長はそう言って立ち上がった。
「ただし、時間をかけすぎるな」
「努力します」
景継も立ち上がった。
評定は。
そこで終わるはずだった。
しかし。
廊下へ出ようとしたところで。
一人の使者が駆け込んできた。
「申し上げます!」
信長が振り返る。
使者はその場へ膝をついた。
「石山本願寺について、新たな知らせにございます」
景継も足を止めた。
「何があった」
信長が尋ねる。
使者は顔を上げた。
「西より、本願寺を支えようとする動きがございます」
景継の表情が変わった。
西。
昨日。
光秀との話で。
気になった方向だった。
「誰です?」
景継が尋ねる。
使者は答えた。
「毛利にございます」
評定の間の空気が。
変わった。
景継は。
ゆっくり地図へ戻った。
石山。
海。
そして。
その先にある西国。
毛利。
一つの線が。
初めてつながった。
「そういうことですか」
景継が呟いた。
本願寺だけを見ていればいい戦ではない。
石山を囲えば終わる戦でもない。
その背後には。
西国最大級の勢力がいる。
信長が景継を見る。
「どうした」
景継は地図から顔を上げた。
「少しだけ分かりました」
「何がだ」
「この戦が、どうして今まで終わらなかったのかです」
本願寺という敵を。
一つの城として見てはいけない。
一つの軍として見てもいけない。
そして。
一つの勢力として見ることすら。
間違っているのかもしれない。
信仰。
土地。
商い。
海。
そして。
毛利。
いくつものものが。
石山を中心につながっている。
景継は地図を見ながら。
静かに息を吐いた。
「長篠の方が、ずっと分かりやすかったですね」
武田勝頼は強かった。
だが。
敵がどこにいるのかは分かった。
本願寺は違う。
どこまで倒せば。
勝ったことになるのか。
それすら。
まだ分からない。
長篠で武田を破った景継の前に。
今度は。
軍略だけでは倒せない敵が現れようとしていた。




