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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第五章 天下争乱編

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第七十六話 城を奪う者


足利義昭が京を追われてから、しばらく後。


岐阜へ戻っていた景継のもとへ、信長から呼び出しが届いた。


評定ではない。


呼ばれたのは景継一人だった。


景継が部屋へ入ると、信長は一枚の書状を読んでいた。


「来たか」


「はい」


景継が座る。


信長は書状を置いた。


「景継」


「何です?」


「お前に五千を預ける」


景継は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


「……五千?」


「ああ」


「兵を?」


「他に何を五千も預ける」


「ですよね」


景継は少し困った顔をした。


信長はそんな景継をじっと見ている。


「不満か」


「逆です。思っていたより多かったので」


「怖いか」


景継は答えなかった。


怖い。


そう言えば、確かに怖い。


だが、兵を率いることそのものが怖いわけではない。


景継の中には、それを知っている記憶がある。


司馬懿仲達として生きた一度目の人生。


五千どころではない。


何万という兵を率いた。


軍を分け、敵を読み、城を囲み、撤退を命じた。


自分の命令一つで、何千という人間が動いた。


だから五千という数字だけを見れば、景継にとって未知のものではない。


それでも。


今は違う。


「怖いですね」


景継は答えた。


信長の眉がわずかに動く。


「ほう」


「五千人でしょう?」


「ああ」


「私が間違えたら、その人たちが死ぬ」


信長は何も言わなかった。


景継は自分の手を見た。


司馬懿だった頃なら、それを当然の責任として受け入れていた。


将である以上、兵を死なせることはある。


百を失って千を救う。


千を捨てて一万を残す。


必要ならば、そういう判断もしてきた。


だが。


今の景継は、まだその感覚へ完全には戻っていない。


林道景継として生きてきた年月がある。


名前を知っている兵がいる。


笑う顔を知っている家臣がいる。


弥兵衛のように、幼い頃から自分を見てきた者もいる。


数字だけでは見られなくなっていた。


「だから預ける」


信長が言った。


景継が顔を上げる。


「今までは、お前が策を外しても、最後に決めるのは俺か他の将だった」


「はい」


「これからは違う」


信長の目が景継を射抜く。


「進むと決めるのもお前だ。退くと決めるのもお前だ。戦う場所を決めるのも、兵を捨てるか助けるか決めるのもお前だ」


景継は黙って聞いた。


「策を外した時、俺を見るな」


「厳しいですね」


「嫌なら返せ」


「嫌とは言ってません」


景継はすぐに答えた。


信長の口元がわずかに上がる。


「ならばやれ」


信長は一枚の地図を景継の前へ投げた。


畿内。


その一角に印がある。


「これは?」


「まだ俺に従わぬ者がいる」


景継は地図を見る。


大きな大名ではない。


だが、周辺の国人をまとめ、城に兵を集めている。


兵数はおよそ二千。


義昭が京を追われてもなお、織田へ従うことを拒んでいるという。


「これを?」


「任せる」


「降伏させればいいんですか」


「好きにしろ」


景継が顔を上げた。


「好きに?」


「攻め落としてもいい。囲んでもいい。話をつけてもいい」


信長は景継を見る。


「俺が欲しいのは結果だ」


景継はもう一度地図を見た。


五千。


初めて自分に預けられる軍。


そして。


初めて自分だけの判断で戦う相手。


胸の奥で、何か古い感覚が目を覚ます。


懐かしい。


そう思った。


同時に。


少しだけ嫌な感覚もあった。


またここへ戻ってきた。


人の命を駒として見なければならない場所へ。


それでも景継は地図を畳んだ。


「分かりました」


信長が尋ねる。


「いつ出る」


「明日」


「早いな」


「五千人もいただけるんでしょう?」


景継は立ち上がった。


「早く終わらせて返します」


信長が笑った。


「返さなくていい」


景継の足が止まる。


「え?」


「その五千は、これからお前が使え」


景継は振り返った。


信長はもう別の書状を手に取っていた。


「今回だけではない。これから先もだ」


景継はしばらく信長を見ていた。


そして。


静かに頭を下げた。


「承知しました」


その瞬間。


林道景継は初めて。


自分の軍を持った。


◇◇◇


翌日。


五千の兵が岐阜を出た。


先頭にいるのは景継。


その横には弥兵衛がいる。


「若様」


「何です?」


「本当に五千でございますな」


「見れば分かります」


「そうではなく」


弥兵衛は後ろを見る。


長い。


兵の列がどこまでも続いている。


「これだけの兵が、すべて若様の命令で動くのでございます」


「言わないでください」


「なぜです?」


「緊張するからです」


弥兵衛が驚いた。


「若様でも緊張なされるので?」


「しますよ」


景継は前を向いたまま答えた。


「私を何だと思ってるんです?」


弥兵衛は少し考えた。


「何を考えているのか分からない方」


「それ、褒めてませんよね」


「褒めております」


「絶対嘘でしょう」


周囲にいた者たちから小さな笑いが漏れた。


景継も少し笑った。


その笑いで、わずかに肩の力が抜けた。


兵を率いる。


久しぶりだ。


だが。


初めてでもある。


その奇妙な感覚を抱えたまま、景継は最初の戦場へ向かった。


◇◇◇


敵城が見える場所まで来たところで、景継は軍を止めた。


高い丘の上に築かれた城だった。


巨大な城ではない。


しかし二千ほどの兵が籠もっている。


力攻めすれば落とせるだろう。


織田軍は五千。


数では倍以上。


同行していた武将の一人が城を見ながら言った。


「景継様」


「はい」


「明朝より攻めますか」


「嫌です」


あまりに即答だったので、武将が言葉を失った。


「……嫌?」


「はい」


「しかし、兵数はこちらが圧倒しております」


「だからですよ」


景継は城を見る。


「勝てるのに、どうしてわざわざ城壁を登らせるんです?」


武将が困った顔をする。


「城攻めとは、そのようなものでは」


「私は嫌です」


「では、包囲を?」


「それもしません」


今度こそ周囲が静かになった。


弥兵衛だけが、また始まったという顔をしている。


「攻めない」


武将が確認する。


「はい」


「包囲もしない」


「はい」


「では何をするのでございます?」


景継は城をしばらく眺めた。


そして。


「あそこへ行きます」


指したのは敵城ではなかった。


城から少し離れた場所。


街道沿いに築かれた小さな砦だった。


今はほとんど使われていない。


防御設備も大したものではない。


五千の軍を置くには狭すぎる。


武将が眉を寄せる。


「あの砦を?」


「はい」


「何のために」


景継は笑った。


「攻めてもらいます」


◇◇◇


その日の夕方。


景継は小さな砦へ入った。


連れてきた兵は七百。


五千のうち、たった七百だった。


残る四千三百は、日が落ちる前に周囲へ散らした。


一部は森へ。


一部は山道へ。


一部は遠く迂回させる。


敵の物見から見れば、織田軍の大部分がどこかへ消えたように見える。


そして景継自身は。


七百だけを連れて小さな砦に籠もった。


弥兵衛が砦の壁を触った。


「若様」


「何です?」


「これ、本当に大丈夫です?」


「何がです?」


「この砦、あまり丈夫ではございません」


「知ってます」


「敵は二千です」


「それも知ってます」


「こちらは七百です」


「さっきから知ってることしか言いませんね」


弥兵衛が景継を見る。


「怖いのでございます」


景継は笑った。


「私もですよ」


「ならば、なぜここに?」


景継は遠くに見える敵城を指した。


「あの城を見てください」


「はい」


「二千の兵が籠もっています」


「おりますな」


「こちらから攻めたら、城壁があります。門があります。高い場所から矢を射られます」


「はい」


「面倒でしょう?」


「非常に」


「だから」


景継は砦の壁へ腰を下ろした。


「あの人たちに出てきてもらいます」


弥兵衛が敵城を見る。


「出てきますか?」


「分かりません」


「分からない?」


景継は頷いた。


「出てこなかった時の策もあります」


弥兵衛の表情が少し変わる。


「金ヶ崎の後から、若様は変わりましたな」


景継は少しだけ黙った。


「そうかもしれません」


以前なら。


相手がこう動く。


だから次はこうなる。


その読みを信じすぎたかもしれない。


だが。


人は思い通りには動かない。


浅井長政が教えてくれた。


ならば。


相手が何を選んでも困らないようにしておけばいい。


「でも」


景継は敵城を見る。


「たぶん出てきますよ」


「なぜです?」


景継は自分を指した。


「私がいるからです」


◇◇◇


噂は、その夜のうちに流れた。


林道景継。


信長の寵愛を受ける若き武将。


初めて五千の兵を預けられた。


しかし功を焦った。


敵城を前に軍を分散させ、自らはわずか七百で小砦へ入った。


織田軍の中でも、景継の独断を不安視する者が出ている。


どこまでが本当で。


どこからが嘘なのか。


分からないようにした。


敵城へ噂が届いたのは翌朝だった。


城内。


敵将は報告を聞き、何度も聞き返した。


「本当に七百か」


「物見の報告では」


「残りは?」


「見当たりませぬ」


「逃げたのではないか」


「分かりませぬ」


敵将は考えた。


林道景継。


名前は知っている。


信長の近くにいる若者。


浅井、朝倉との戦でも名が出た。


武田との戦でも何かしたという。


だが。


所詮は若造。


今まで自分で一軍を率いたことなどない。


信長の隣で策を口にすることと、自分で兵を率いることは違う。


初めて五千もの兵を持ち。


功を焦った。


あり得る。


「討てる」


敵将が呟いた。


家臣が顔を上げる。


「は?」


「林道景継を討つ」


「しかし罠では」


「罠なら、なぜ本人が七百でいる」


家臣は答えられなかった。


敵将の目に欲が浮かぶ。


信長が重用する若者を。


初めての独立戦で討ち取る。


それだけで名が上がる。


周囲で様子を見ている国人たちも動くかもしれない。


「千五百を出す」


「千五百も?」


「残りは城を守れ」


敵将は立ち上がった。


「今日中に景継の首を取る」


その命令が。


城の運命を決めた。


◇◇◇


敵兵が砦へ向かっている。


その報告を聞いても、景継は驚かなかった。


「何人です?」


「およそ千五百!」


「大将は?」


「旗がございます。自ら出てきたものと思われます!」


景継の表情が変わった。


「そこまで来ましたか」


弥兵衛が慌てている。


「喜んでいる場合ではございません!」


「喜んでませんよ」


「笑っております!」


「少しだけです」


景継は立ち上がった。


敵は二千のうち千五百を出した。


城に残ったのは五百ほど。


十分だった。


「合図を」


「はい!」


狼煙が上がった。


一つ。


しばらくして。


遠く離れた場所から二つ目。


さらに。


三つ目。


姿を消していた織田軍が動き始めた。


だが。


景継のところへは来ない。


四千三百の兵が向かったのは。


敵の本城だった。


◇◇◇


砦への攻撃が始まった。


矢が飛ぶ。


兵が壁へ取りつく。


七百の織田兵が必死に防ぐ。


「押し返せ!」


声が飛び交う。


景継は砦の中から戦況を見ていた。


敵の攻撃は激しい。


当然だった。


相手は景継の首を取りに来ている。


「景継様!」


武将の一人が駆け寄る。


「敵が東側へ集中しております!」


「兵を回してください」


「はっ!」


「ただし追い返すだけでいいです。外へ出ないように」


「承知!」


景継は壁の向こうを見る。


敵将はまだ攻撃を続けている。


もっと。


もう少し。


時間が欲しい。


「若様」


弥兵衛が横へ来る。


「そろそろ危ないのでは?」


「まだです」


「しかし」


「まだ」


景継は敵を見る。


敵兵が砦へ集中している。


後ろを見ている者は少ない。


自分たちの城がどうなっているかなど、考えてもいないだろう。


景継は待った。


矢が飛ぶ。


叫び声が響く。


負傷者が運ばれる。


待つ。


自分の兵が傷つくのを見ながら。


それでも待つ。


司馬懿だった頃。


何度もやった。


早く動けば助けられる兵がいる。


だが。


そこで動けば、もっと多くの兵が死ぬ。


将が耐えなければならない時間。


それを。


林道景継として初めて味わっていた。


やがて。


遠くから狼煙が上がった。


景継の目が変わる。


「取った」


弥兵衛が振り返る。


「何を?」


景継は敵軍の向こうに見える城を指した。


「城です」


◇◇◇


敵将が異変に気づいたのは、それから少し後だった。


後方から一騎。


馬が駆けてくる。


「申し上げます!」


敵将が振り返る。


伝令の顔は青ざめていた。


「どうした!」


「城が!」


「城?」


「我らの城が、織田軍に奪われました!」


敵将の顔から表情が消えた。


「何を言っている」


「織田の大軍が突然現れ、城へ!」


「兵は残しただろう!」


「五百では支えきれず!」


敵将が砦を見る。


七百。


林道景継。


その首を取れば勝ちだと思った。


だが。


景継は最初から。


自分の首を餌にしていた。


「退け!」


敵将が叫ぶ。


「城へ戻る!」


千五百の兵が動いた。


砦から離れ。


自分たちの城へ向かう。


弥兵衛が景継を見る。


「追いますか!」


「いいえ」


「しかし今なら背後を!」


「追わなくていいです」


景継は砦の上から敵軍を見送った。


弥兵衛には理解できない。


「なぜです?」


景継は答えた。


「あの人たち」


少しだけ笑う。


「これから自分の城を攻めるんですよ」


◇◇◇


敵軍が城へ戻った時。


そこに掲げられていた旗は、すでに変わっていた。


織田木瓜。


自分たちが守っていた城。


昨日まで自分たちが壁の上から外を見ていた場所。


そこに。


織田兵がいる。


「門を開けろ!」


敵将が叫ぶ。


返事はない。


「我らの城だぞ!」


当然。


それでも門は開かない。


敵将は歯を食いしばった。


「攻める!」


家臣が驚いた。


「攻めるのでございますか」


「取り返す!」


皮肉だった。


朝まで城を守っていた者たちが。


昼には城を攻める側になった。


梯子を用意する。


門を破ろうとする。


矢を防ぐため盾を並べる。


その間。


城壁の上から織田兵の矢が飛んでくる。


敵兵が倒れる。


「進め!」


敵将が叫ぶ。


だが。


城というものは。


外から見れば。


これほど面倒なものなのか。


今まで自分たちを守っていた壁が。


今は自分たちを拒んでいる。


◇◇◇


景継はすぐには動かなかった。


砦から敵が城を攻める様子を見ていた。


弥兵衛が尋ねる。


「まだ行かないので?」


「もう少しです」


「また待つのですか」


「はい」


敵兵は疲れている。


一度砦を攻め。


戻って。


今度は城を攻めている。


その間に。


景継は七百の兵を休ませた。


水を飲ませる。


負傷者を後ろへ送る。


武具を確認する。


そして。


日が少し傾いた頃。


景継は立ち上がった。


「行きましょう」


七百が砦を出た。


同時に。


城を取った四千三百のうち、城外に配置されていた部隊も姿を現した。


敵将が気づいた時には。


遅かった。


前には。


自分たちの城。


城壁には織田兵。


後ろには。


林道景継。


左右にも。


いつの間にか織田の旗が現れている。


敵兵たちがざわめいた。


敵将は景継を見る。


景継は馬を進めた。


だが。


攻撃は命じなかった。


「聞こえますか!」


敵兵たちの視線が集まる。


「もう十分でしょう!」


敵将が睨む。


「貴様……!」


「城は取った。退路も押さえました」


景継は周囲を見る。


「ここから戦えば、たくさん死にます」


敵将は刀を握った。


「ならば戦え!」


「嫌です」


敵将が一瞬、言葉を失う。


「……何?」


「だから嫌なんです」


景継は答えた。


「もう勝ってるのに、どうして戦うんです?」


敵兵たちが顔を見合わせる。


景継は続けた。


「降伏してください」


「断る!」


「そうですか」


景継はあっさり答えた。


そして。


「では、一刻待ちます」


敵将が眉を寄せる。


「何?」


「一刻です」


景継は敵兵たちを見る。


「その間に考えてください」


敵将だけではない。


兵たちへ聞かせるように。


「ここで死ぬのか」


声を少し強める。


「それとも、生きて帰るのか」


敵将が叫ぶ。


「聞くな!」


景継はそれ以上何も言わなかった。


兵を下げた。


攻めない。


矢も射ない。


ただ。


囲んだ。


◇◇◇


一刻も必要なかった。


最初に武器を置いたのは。


名も知らぬ一人の兵だった。


槍が地面へ落ちた。


敵将が振り返る。


「何をしている!」


別の兵が武器を置く。


さらに。


一人。


また一人。


朝から戦い続けた。


砦を攻めた。


城へ戻った。


自分の城を攻めた。


そして今。


五千近い織田軍に囲まれている。


もう。


戦う理由が残っていなかった。


敵将が周囲を見る。


誰も自分を見ていない。


皆。


地面を見ていた。


やがて。


敵将の手からも。


刀が落ちた。


景継はそれを見た。


「受け入れてください」


織田兵へ命じる。


「武器を置いた者には手を出さないように」


「はっ!」


歓声が上がった。


景継の。


初めての独立戦。


勝利だった。


◇◇◇


夜。


城内では勝利を祝う声が聞こえていた。


景継は一人。


報告書を読んでいた。


敵兵の死傷者。


捕虜。


確保した武具。


兵糧。


そして。


味方の損害。


景継の目が。


一つの数字で止まった。


死者。


十一名。


軽傷者はもっと多い。


重傷者もいる。


だが。


死んだのは十一人。


軍全体から見れば。


少ない。


五千を率いて城を奪い。


敵二千を降伏させた。


それで十一人。


大勝と言っていい。


司馬懿だった頃なら。


そう判断しただろう。


十一。


それは。


損害と呼ぶには小さな数字だった。


「若様」


弥兵衛が入ってきた。


「皆、喜んでおります」


「そうですか」


「若様も来られては?」


景継は報告書を見た。


「後で行きます」


弥兵衛が近づく。


数字を見る。


そして。


少し黙った。


「十一名でございましたか」


「はい」


「少ないです」


「そうですね」


「これほどの戦で十一名なら、大勝にございます」


「分かっています」


景継は答えた。


だが。


報告書を閉じなかった。


十一。


名前がある。


一人ずつ。


出身も。


所属も。


書かれている。


景継はその名前を見た。


司馬懿だった頃。


自分は。


こういう名前を一人ずつ見ていただろうか。


思い出せない。


何百。


何千。


数字として報告を受けて。


次の戦を考えた。


それが間違っていたとは思わない。


そうしなければ将など務まらない。


だが。


今は。


「弥兵衛」


「はい」


「この十一人の家族を調べてください」


弥兵衛が景継を見る。


「承知しました」


「私から何かできることがあるなら、したいです」


「分かりました」


景継はようやく報告書を閉じた。


弥兵衛が静かに言う。


「勝ったのでございますよ」


景継は少し笑った。


「分かっています」


そして。


もう一度。


報告書へ手を置いた。


「だから覚えておきます」


自分が勝ったことも。


十一人が死んだことも。


どちらかだけを覚えるつもりはなかった。


◇◇◇


数日後。


景継は岐阜へ戻った。


信長への報告を終える。


信長は一通り聞いた後。


最初に尋ねた。


「五千はどうだった」


景継は少し考えた。


「少なかったです」


信長が笑った。


「もう欲を出すか」


「違います」


「では何だ」


「五千人分のことを考えるには」


景継は自分の頭を指した。


「私一人では少なかったです」


信長の笑みが消えた。


景継は続ける。


「戦っている時はいいんです。どこへ兵を置く。どこを攻める。いつ退く。それは考えられます」


「なら何が足りぬ」


「人です」


景継は答えた。


「兵糧を見る人。道を見る人。敵の情報を集める人。負傷者を見る人。それぞれを任せられる人が必要です」


信長はしばらく景継を見た。


「自分の家臣が欲しいか」


「はい」


「選べ」


景継が驚く。


「いいんですか」


「五千を預けたのだ。今さら何を言う」


景継は少し笑った。


「ありがとうございます」


信長は机の上の書状を取った。


「それと」


「まだ何か?」


「休んでいる暇はないぞ」


景継の顔から笑みが消える。


信長が一通の書状を投げた。


景継は受け取る。


開く。


東からの知らせだった。


数行読んだところで。


景継の目が止まった。


武田。


その文字がある。


信玄ではない。


新しい当主。


武田勝頼。


景継は最後まで読み。


静かに書状を閉じた。


信長が尋ねる。


「どう思う」


「まだ何とも」


「怖いか」


景継は少し考えた。


脳裏に。


一人の男が浮かんだ。


武田信玄。


最後まで。


景継はあの男に勝てなかった。


策を読まれ。


外され。


こちらも読み返した。


決着がつく前に。


信玄は病で去った。


その武田を。


今度は息子が率いる。


「怖いですよ」


景継は答えた。


信長の眉が動く。


景継は書状を机へ戻した。


「だから」


少しだけ笑う。


「今度も、ちゃんと考えます」


信長が立ち上がった。


「景継」


「はい」


「今度は、お前も自分の兵を連れて来い」


景継は一瞬。


何も答えなかった。


これまでは。


信長の戦へ参加していた。


だが。


次は違う。


林道景継として。


自分の兵を率いて戦場へ行く。


景継は静かに頭を下げた。


「承知しました」


武田信玄との戦いは。


勝敗のつかぬまま終わった。


だが。


武田家との戦いまで終わったわけではない。


父を失った武田。


その武田を背負う勝頼。


そして。


初めて自分の軍を持った景継。


次に相まみえる時。


景継はもう。


誰かの隣で策を語るだけの少年ではなかった。


五千の命を背負い。


自ら勝敗を決める。


一人の将として。


武田勝頼と向き合うことになる。

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