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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第四章 上洛編

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第七十五話 残された一人


包囲網が崩れ始めても、足利義昭はすぐには動かなかった。


武田信玄は死んだ。


浅井も朝倉も、すでにこの世にはいない。


三好勢力の動きは鈍り、本願寺も義昭の思惑だけで全面的に兵を動かす様子を見せなくなっている。


それでも義昭は将軍だった。


征夷大将軍。


その名が持つ重さは、国を一つ治める大名のそれとは違う。


景継は岐阜城で京から届いた報告を読みながら、そのことを改めて考えていた。


「まだ書状を出しているんですか」


向かいに座っていた光秀が頷いた。


「出しておられる」


「誰に?」


「毛利、上杉、それ以外にもいくつか」


景継は思わず息を吐いた。


「諦めませんね」


「将軍だからな」


「将軍だから?」


光秀は景継を見る。


「お前には分からぬかもしれぬ」


「何がです?」


「将軍家というものだ」


景継は少し考えた。


確かに、自分には完全には理解できないのかもしれない。


一度目の人生で生きた国にも、皇帝という存在がいた。


皇帝の名。


朝廷の権威。


それを利用して争う者たちを、景継は嫌というほど見てきた。


だが、この国の将軍というものは、それとは少し違う。


天皇ではない。


しかし普通の大名でもない。


自らの兵が少なくても、将軍の名で書状を出せば、それを無視できない者がいる。


「兵がなくても戦える」


景継が呟いた。


光秀の眉が動く。


「何?」


「将軍様です」


景継は机の上に置かれた書状を見る。


「兵を持っているから怖いんじゃない。自分以外の誰かに兵を出させられるから怖いんですね」


光秀は少しだけ目を細めた。


「今頃気づいたか」


「先生は意地悪ですね」


「お前が何でも自分で気づきたがるからだ」


景継は苦笑した。


その時。


廊下から足音が聞こえた。


「景継様、光秀様」


二人が顔を上げる。


「信長様がお呼びです」


景継と光秀は顔を見合わせた。


「京ですかね」


「おそらくな」


二人は立ち上がった。


◇◇◇


評定の間には、すでに主だった家臣たちが集まっていた。


信長の前には一通の書状が置かれている。


景継が座ると、信長はその書状を光秀へ投げた。


「読め」


光秀が開く。


景継はその横顔を見ていた。


最初は何の変化もない。


しかし途中から、光秀の表情がわずかに硬くなった。


「何が書いてあるんです?」


景継が尋ねる。


光秀は書状を景継へ渡した。


「将軍様からだ」


景継は読み始めた。


内容は信長への非難だった。


将軍を軽んじている。


幕府の権威をないがしろにしている。


諸国への振る舞いが将軍の意向を越えている。


そして最後には、信長へ従うよう求める言葉まであった。


景継は最後まで読むと、もう一度最初から読み返した。


「……これ、本気ですか?」


勝家が鼻を鳴らした。


「だから皆集められたのだ」


「今、この状況で?」


「だからこそだろう」


長秀が答えた。


景継は書状を置いた。


少し不思議だった。


義昭も馬鹿ではない。


浅井と朝倉が消えたことを知っている。


武田信玄が死んだことも、当然知っているだろう。


それでも信長へ強く出る。


「先生」


景継が光秀を見る。


「何だ」


「将軍様は、信長様が自分を追い出せないと思ってるんですか?」


光秀はすぐには答えなかった。


信長が代わりに口を開く。


「俺にはできぬと思っているのだろう」


景継が信長を見る。


「なぜです?」


「将軍だからだ」


その答えは単純だった。


しかし景継は、その一言で理解した。


義昭には軍事的な力がなくなりつつある。


それでも最後に残っているものがある。


将軍という地位。


信長が将軍を追い出す。


それは一大名を倒すこととは意味が違う。


信長に従う者の中にも、それを良く思わない者が出るかもしれない。


朝廷もどう見るか分からない。


諸国の大名が、信長を幕府そのものを壊す者だと考える可能性もある。


義昭はそこへ賭けている。


景継は腕を組んだ。


「面倒ですね」


信長が笑った。


「それだけか」


「だって面倒でしょう」


景継は正直に答えた。


「兵が多い相手なら、倒せば終わります。でも将軍様は、倒した後の方が面倒かもしれない」


勝家が尋ねる。


「では放っておくのか」


「それも駄目でしょうね」


義昭を残せば、また書状を出す。


今は動かなかった者たちも、情勢が変われば再び義昭の呼びかけに応じるかもしれない。


信長が弱った瞬間。


誰かが反乱した瞬間。


大きな敗北をした瞬間。


義昭は再び、その権威を使うだろう。


「残しておく方が危ない」


景継が呟いた。


信長が見る。


「ならばどうする」


景継は少し考えた。


「まず、最後に一度だけ選んでもらいませんか」


「何をだ」


「将軍様にです」


景継は信長を見た。


「本当に最後まで戦うのか。それとも、信長様との関係を戻すのか」


勝家が顔をしかめる。


「ここまでされて、まだ聞くのか」


「はい」


景継は頷いた。


「こちらから選択肢を消す必要はありません」


「なぜだ」


「将軍様自身に選んでもらった方が、後が楽だからです」


光秀の表情が変わった。


景継は続けた。


「こちらが最初から追放すると決めれば、信長様が将軍を追い出したことになる。でも将軍様が最後まで戦うと決め、その結果として京を去るなら、意味が少し変わる」


長秀が静かに頷いた。


「諸国へ示すためか」


「はい」


景継は答えた。


「信長様は将軍を追い出したかったわけではない。何度も道を残した。それでも将軍様が戦うことを選んだ。そういう形にしたいです」


信長はしばらく景継を見ていた。


「誰を使者にする」


景継は答えなかった。


自然と視線が横へ動いた。


そこに光秀がいる。


光秀も気づいた。


「私か」


「先生が一番いいでしょう」


「簡単に言うな」


「将軍様と話せる。信長様にも仕えている。先生以上の人はいません」


光秀は何も言わなかった。


景継は、その表情を見ていた。


いつもの光秀なら、すぐに何か返してくる。


だが今は違った。


ほんのわずかだが、迷っている。


景継はそれを見逃さなかった。


◇◇◇


評定が終わった後。


光秀は一人で廊下を歩いていた。


「先生」


後ろから声がする。


振り返らなくても分かる。


「何だ」


景継が追いついた。


二人は並んで歩いた。


「嫌ですか」


「何がだ」


「将軍様のところへ行くの」


光秀は答えなかった。


景継は横を見る。


「先生?」


「嫌というわけではない」


「じゃあ何です?」


光秀はしばらく黙っていた。


やがて足を止める。


「景継」


「はい」


「お前は信長様をどう思う」


予想していなかった質問だった。


景継は少し考えた。


「面白い人だと思います」


「それだけか」


「怖い人でもあります」


「怖い?」


「はい」


景継は正直に答えた。


「普通の人が、ここまでならいいと思う場所で止まらないから」


光秀が景継を見る。


「それを怖いと思うか」


「思いますよ」


景継は笑った。


「だから面白いんですけど」


光秀は何も言わない。


景継は逆に尋ねた。


「先生は?」


「何がだ」


「信長様をどう思ってるんです?」


光秀の表情から笑みが消えた。


「主君だ」


「それだけ?」


「それ以上、何を答えろというのだ」


「先生、昔からそういうところありますよね」


「どういうところだ」


「答えたくないことは、答えたような顔をして答えない」


光秀は景継を睨んだ。


景継は笑っていた。


「冗談です」


「お前の冗談は笑えぬ」


二人は再び歩き始めた。


だが景継の中には、先ほどの光秀の表情が残っていた。


先生は信長を主君だと言った。


嘘ではないだろう。


しかし、それが答えのすべてでもない。


景継はそう感じた。


だからといって、今すぐ問い詰めるつもりはない。


人間の心は、策のように一つの答えへまとめられるものではない。


それも金ヶ崎から学んだことの一つだった。


◇◇◇


光秀は京へ向かった。


そして義昭と対面した。


かつて仕えた将軍。


今仕える信長。


その二人の間に、光秀は座っていた。


義昭は光秀を見るなり言った。


「信長は何と申しておる」


「最後に、御意向を確かめたいとのことでございます」


「余の意向?」


「はい」


光秀は頭を下げた。


「信長様との関係を戻されるおつもりがおありなのか。それとも、今後も諸国へ信長様を討つよう求められるのか」


義昭の顔が険しくなる。


「余を脅すか」


「脅しではございませぬ」


「ならば何だ」


光秀は顔を上げた。


「選んでいただきたいのでございます」


義昭はしばらく光秀を見つめた。


「十兵衛」


かつての呼び方だった。


光秀の表情がわずかに変わる。


「お前は、いつから信長の者になった」


部屋の空気が重くなる。


「余を将軍に戻すため、お前も動いたではないか」


「はい」


「ならば分かるだろう。信長は余を利用しておる」


光秀は否定しなかった。


義昭は続ける。


「このまま信長を放っておけば、幕府など名ばかりになる。将軍が何を命じても、信長の許しがなければ何もできぬ世になるぞ」


光秀は静かに聞いていた。


「それでも、お前は信長につくのか」


長い沈黙があった。


光秀の頭に、いくつもの光景が浮かんだ。


義昭を京へ戻すために動いていた頃。


信長と初めて本格的に関わった頃。


そして。


まだ幼かった景継と出会った頃。


あの頃には想像もしていなかった場所へ、自分は来ている。


「私は」


光秀はゆっくり口を開いた。


「今、織田家に仕えております」


義昭の顔が歪んだ。


「それが答えか」


「はい」


義昭は光秀から目を逸らした。


「ならば、もうよい」


その声は静かだった。


しかし、その瞬間。


光秀には分かった。


交渉は終わった。


◇◇◇


光秀が戻るより先に、義昭は動いた。


信長との和解を選ばなかった。


兵を集め、最後まで抵抗する道を選んだ。


その知らせが届いた時、景継は驚かなかった。


「そうですか」


信長が尋ねる。


「予想していたか」


「半分くらいは」


「残り半分は」


「折れるかもしれないと思ってました」


景継は地図を見る。


「でも、選んだなら仕方ありません」


もう迷う理由はない。


信長は軍を動かした。


◇◇◇


戦そのものは、景継が想像していたより短かった。


義昭には、以前のような援軍が来なかった。


武田は動かない。


浅井も朝倉もいない。


三好勢力も大きく動かず、本願寺も義昭を救うためだけに全軍を投じることはなかった。


将軍という名は残っている。


だが、その名に応えて同時に立ち上がる者がいない。


景継が崩したかったものは、まさにそれだった。


信長軍が動くと、義昭側は抵抗した。


しかし織田軍を止めるほどの力はない。


城を囲み、道を押さえ、援軍が来ないことを確認しながら圧力をかける。


景継は今回、奇抜な策を使わなかった。


必要がなかった。


すでに戦う前に、大勢は決まっていたからだ。


勝家が尋ねた。


「攻め落とすか」


景継は首を横に振った。


「将軍様を討つ必要はありません」


「まだ生かすのか」


「殺したら、死んだ後まで利用されます」


勝家の眉が動く。


「どういう意味だ」


「信長様に殺された将軍として、誰かが名前を使うかもしれないでしょう」


生きている義昭には限界がある。


自分で判断する。


自分で失敗する。


周囲と衝突する。


しかし死者は違う。


都合のいい部分だけを使われる。


信長に殺された将軍。


その言葉だけが残れば、それを旗印にする者が出る可能性がある。


「だから追い出します」


景継は静かに言った。


「将軍様のまま、生きてもらいます」


勝家はしばらく景継を見た。


「そなたは時々、討つより酷いことを言うな」


景継は苦笑した。


「そんなつもりはないんですけどね」


◇◇◇


やがて義昭は降伏した。


命は取られなかった。


しかし、京に留まることも許されなかった。


足利義昭は京を追われることになった。


その日。


景継は少し離れた場所から、義昭の一行が去っていくのを見ていた。


隣には光秀がいた。


二人とも、しばらく何も言わなかった。


「先生」


景継が口を開く。


「何だ」


「終わったんですか」


光秀は義昭の一行を見たまま答えた。


「何がだ」


「幕府です」


光秀はすぐには答えなかった。


「将軍様は生きています」


「ああ」


「将軍という地位も、なくなったわけじゃない」


「そうだ」


景継は少し考える。


「でも、京にはもういない」


光秀がようやく景継を見る。


「何が言いたい」


景継は京の町へ目を向けた。


「不思議だと思って」


「何がだ」


「国って、いつ終わるんでしょうね」


光秀が黙る。


「城が落ちた時なのか。主君が死んだ時なのか。名前がなくなった時なのか。それとも、誰も命令を聞かなくなった時なのか」


景継には、一度目の人生の記憶がある。


魏も。


蜀も。


呉も。


永遠には続かなかった。


皇帝がいても国が弱ることがある。


国号が残っていても、実際の力を別の者が握ることもある。


そして最後には。


昨日まで当然のように存在していたものが、ある日を境に過去になる。


「先生」


「何だ」


「将軍様は、まだ将軍です」


「ああ」


「でも」


景継は義昭が去っていった道を見た。


「もう、この国を動かす人ではないんですね」


光秀は答えなかった。


答える必要もなかった。


◇◇◇


その夜。


信長は京を見下ろしていた。


景継が呼ばれた時、信長は一人だった。


「来たか」


「はい」


景継は隣へ立った。


しばらく二人で町を見る。


「景継」


「何です?」


「将軍を追い出したぞ」


「そうですね」


「何か変わったと思うか」


景継は京を見る。


人々は歩いている。


商人は物を売る。


家では火が灯る。


将軍が京を去ったからといって、町そのものが突然変わるわけではない。


「今夜だけなら、何も」


景継は答えた。


信長が笑う。


「今夜だけなら、か」


「でも、十年後に振り返ったら」


景継は少し考えた。


「今日が何かの境目だったと思うのかもしれません」


信長は黙って京を見た。


景継は横にいる男を見る。


尾張の一大名だった。


それが美濃を取った。


京へ入り。


将軍を支え。


そして今。


その将軍を京から追い出した。


「信長様」


「何だ」


「どこまで行くつもりです?」


信長は景継を見た。


「天下だ」


迷いはなかった。


景継は少し笑った。


「やっぱりですか」


「今さら何を言っている」


「確認しただけです」


信長は再び京を見る。


「お前も来い」


景継が眉を上げる。


「どこへ?」


「最後までだ」


景継はすぐには答えなかった。


最後。


それがどこなのか。


信長にも分からない。


景継にも分からない。


未来を知っている者は、この場には一人もいない。


それでも。


景継は少しだけ笑った。


「面白そうですね」


信長も笑った。


「なら来い」


「はい」


◇◇◇


足利義昭が京を去ったことで、信長を中心とする情勢は大きく変わった。


浅井と朝倉は滅亡。


武田信玄は死去。


信長を取り囲もうとした包囲網は崩れ、その中心にいた将軍も京を追われた。


織田家を一度に押し潰そうとする大きな輪は、ここで一度完全に形を失った。


だが、それは戦が終わったことを意味しない。


信長が大きくなればなるほど、その存在を恐れる者も増える。


畿内には、まだ本願寺という巨大な勢力が残っている。


西には毛利がいる。


東では信玄を失った武田家が、新たな当主のもとで生き残ろうとしている。


そして織田家そのものも、以前とは比べものにならないほど巨大になり始めていた。


国が大きくなれば、戦場だけを見ていればいい時代は終わる。


誰にどの国を任せるのか。


誰にどれだけ兵を持たせるのか。


功を立てた家臣へ何を与えるのか。


信長の命令一つが、何万という人間の運命を変えるようになっていく。


景継自身も、もう信長の横で意見を述べるだけの少年ではいられなくなる。


それを最初に感じたのは、義昭が京を去ってからしばらく後のことだった。


岐阜へ戻った景継のもとへ、信長から新たな命が届いた。


景継は書状を開き、その内容を読んだ。


「……私が?」


そこには、これまでとは違う役目が記されていた。


誰かの軍に加わり、策を献じるだけではない。


自ら兵を預かり、自ら判断し、その結果についても自分で責任を負う役目。


景継は書状をもう一度読み直した。


信長の天下が次の段階へ進むのと同時に。


林道景継もまた。


軍師のように信長の隣に座っているだけでは済まない場所へ、足を踏み入れようとしていた。









ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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