第七十四話 崩れる時
景継に与えられた一刻は、すでに半分近くが過ぎていた。
部屋の中央には徳川領の地図が広げられ、その周囲には武田軍と徳川軍を示す駒が並べられている。
家康をはじめとする徳川家臣たちは、誰も口を開かなかった。
景継は先ほどから地図を見たまま、ほとんど動いていない。
武田信玄が進路を変えた。
最初の変更なら、まだ捨てることができた。
城を一つ失ってもいい。
土地を一時的に奪われてもいい。
徳川の主力さえ残れば、後で取り返すことができる。
だが、信玄はそこまで読んだ。
だから次に狙ったのは、単純な軍事上の要地ではなかった。
徳川家臣たちが、失うことを許さない場所。
遠江支配の要となる地域へ武田軍を進めることで、家康自身ではなく、その家臣たちを揺さぶろうとしている。
このまま何もしなければ、徳川家中から必ず声が上がる。
なぜ戦わない。
いつまで逃げる。
土地を守れない主君に従う意味があるのか。
信玄が狙っているのは、城ではない。
徳川家そのものだった。
「景継」
家康が低い声で呼んだ。
景継は顔を上げない。
「もう半刻近く経っているぞ」
「分かっています」
「答えは出たか」
「もう少しです」
徳川家臣の一人が堪えきれず口を開いた。
「殿、やはり出陣すべきです。このまま武田に好き勝手させれば、遠江の者たちが我らを見限ります」
別の家臣も続く。
「戦わずして領地を渡し続ければ、武田へ寝返る者も出ましょう」
景継は黙って聞いていた。
これだ。
信玄が欲しかったものは。
家康自身を怒らせるだけでは足りない。
家臣たちを焦らせる。
戦わないことそのものを、徳川にとって危険な選択へ変える。
そうすれば家康は出ざるを得なくなる。
信玄が戦いたい場所へ。
信玄が戦いたい時に。
徳川軍が自分からやって来る。
「上手いな……」
景継が小さく呟いた。
家臣の一人が苛立った。
「敵を褒めている場合ではござらぬ!」
「分かっています」
景継はようやく顔を上げた。
そして家康を見る。
「家康様。一つ確認してもいいですか」
「何だ」
「戦わなければ、本当に家臣が離れますか?」
部屋の空気が変わった。
家康が景継を見つめる。
「何が言いたい」
「そのままの意味です」
景継は周囲の徳川家臣たちを見た。
「皆さんは、家康様が今ここで信玄と戦わなければ、本当に徳川を捨てて武田へ行くんですか?」
誰も答えなかった。
景継は一人ずつ顔を見る。
「どうなんです?」
先ほど出陣を求めた家臣が顔をしかめる。
「そのようなことを申しているのではない」
「なら大丈夫ですね」
「何?」
景継は地図へ向き直った。
「信玄は、皆さんが我慢できないと思っています」
家康の目が細くなる。
景継は続けた。
「私もそう思っていました。武田が大事な場所へ向かえば、徳川は出てくるしかない。でも、それは誰が決めたんです?」
「誰がと言われても……」
「私たちです」
景継は武田の駒を指した。
「信玄じゃない」
部屋が静かになる。
「城を取られたら戦わなければならない。領地を荒らされたら戦わなければならない。家臣が怒ったら戦わなければならない。全部こちら側の事情です」
家康は何も言わず聞いている。
「信玄は、その事情を使って私たちを動かそうとしている」
景継の指が武田軍の進路をなぞった。
「だったら、動かなければいい」
徳川家臣たちがざわめいた。
「しかし、それでは!」
「何もしないとは言ってません」
景継は別の駒を手に取った。
「戦います」
家康が眉を上げる。
先ほどまで決戦を避けろと言い続けていた景継が、初めて戦うと言った。
ただし景継は、その駒を武田軍の正面には置かなかった。
武田軍の後方。
さらにその後ろ。
兵糧や物資が運ばれてくる道へ置いた。
「ここです」
家康が地図を覗き込む。
「武田の後ろか」
「はい」
「本隊とは戦わぬ?」
「戦いません」
景継はもう一つ駒を置いた。
「家康様の主力は動かさない。代わりに少数の部隊をいくつか出します」
「何をさせる」
「荷駄を襲います」
景継は答えた。
「ただし、一度襲ったらすぐ逃げる。追われたら戦わない。橋を落とせるなら落とす。道を塞げるなら塞ぐ。でも、その場所を守ろうとしない」
家康の表情が変わっていく。
「信玄は、こちらの主力を戦場へ引っ張り出したい」
景継は地図の前方に置かれた武田本隊の駒を見た。
「なら、こちらは信玄が守らなければならないものを増やします」
「兵糧か」
「兵糧だけじゃありません」
景継はさらに後方を指した。
「武田が進めば進むほど、この道全部を守らなければならなくなる」
前へ進む軍は強い。
しかし、その軍を支えるものは後ろにある。
食糧。
馬の餌。
矢。
武具。
負傷者。
伝令。
そして国へ続く道。
「二万の兵が前にいても、その二万が食べるものは後ろから来ます」
景継は言った。
「だったら二万と戦う必要はありません」
家康がゆっくり頷く。
「二万を食わせている道と戦うか」
「そうです」
徳川家臣の一人が尋ねる。
「しかし信玄が兵を後方へ戻せば?」
「戻させればいいんです」
景継はすぐに答えた。
「前へ進むために連れてきた兵を、道を守るために使わせる。それだけでも十分です」
家康は地図を見つめた。
景継の狙いが分かり始めていた。
信玄は徳川軍を前へ引っ張り出そうとしている。
景継は逆に、武田軍を後ろへ引っ張ろうとしている。
どちらが相手の軍を、自分の望む場所へ動かせるか。
戦場での勝敗ではない。
軍そのものを動かす戦いだった。
「だが」
家康が景継を見る。
「信玄が後方を無視したらどうする」
景継は少し考えた。
「その時は、もっとやります」
「もっと?」
「荷駄を一つ取るだけなら無視できるでしょう。でも二つ、三つと続けば無視できなくなる。道を直せば別の道を壊す。兵を置けば、兵のいない場所へ行く」
「追いつかれたら?」
「逃げます」
景継は当然のように答えた。
徳川家臣たちが顔を見合わせる。
「格好悪くても構いません。今は信玄に褒めてもらうために戦っているわけじゃないでしょう」
家康が笑った。
先ほどまで張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。
「そなたの戦は、武士には評判が悪そうだな」
「私もそう思います」
景継は苦笑した。
「でも、生き残った方が後で好きなことを言えます」
その言葉を聞いた家康は、しばらく景継を見ていた。
そして立ち上がった。
「やるぞ」
徳川家臣たちが一斉に家康を見る。
「殿」
「信玄の誘いには乗らぬ。ただし、何もせぬわけでもない」
家康は地図上の武田軍を睨んだ。
「わしの国を好きに歩いた代金くらいは払ってもらおう」
景継は小さく笑った。
「高くしてください」
◇◇◇
徳川の動きが変わった。
武田軍の前には、大きな敵が現れない。
しかし後方では、小さな異変が続いた。
荷駄隊が襲われた。
橋が壊された。
街道の一部が塞がれた。
夜中に小さな部隊が現れ、火を放って消えた。
武田が追撃隊を出せば、徳川兵は戦わずに逃げた。
追撃をやめれば、数日後には別の場所に現れる。
一つ一つは小さい。
武田軍を止めるほどではない。
それでも、積み重なれば無視できなくなる。
「またか」
武田の陣で報告を聞いた信玄は、怒るでもなく地図を見た。
「今度はどこだ」
家臣が場所を示す。
信玄はしばらく地図を見た後、小さく笑った。
「後ろへ来たか」
「兵を戻しますか」
「どれほど必要だ」
「街道を完全に守るなら、相応の兵が必要かと」
信玄は答えなかった。
兵を戻せば、前が薄くなる。
戻さなければ、後方への攻撃が続く。
もちろん、それだけで武田軍が崩れるわけではない。
信玄も数多くの戦を経験している。
補給を狙われることなど想定している。
問題は、相手の目的だった。
徳川は勝とうとしていない。
一度の攻撃で大きな成果を得ようともしていない。
ただ、面倒なことを増やしている。
「林道景継」
信玄がその名を口にした。
家臣が尋ねる。
「やはり、あの者の策でしょうか」
「徳川だけなら、もっと前へ出たがるだろう」
信玄は地図を見ながら答えた。
「家康は若い。自分の国を踏まれて黙っていることに耐えられる男ではない」
「では、林道が抑えている?」
「おそらくな」
信玄は少し考えた。
そして一つの駒を動かした。
「ならば、後ろを守る」
家臣が驚く。
「兵を割くのでございますか」
「割く」
信玄は即答した。
「その代わり、前も止めぬ」
家臣が顔を上げる。
「両方なさると?」
「相手がこちらを面倒にするなら、こちらも相手を面倒にすればよい」
信玄はさらに別の駒を動かした。
武田軍は後方警備を増やした。
同時に、本隊の圧力も弱めなかった。
景継が期待していたような、分かりやすい停滞は起きなかった。
◇◇◇
その報告を聞いた景継は、思わず頭を掻いた。
「止まりませんね」
家康が苦い顔をする。
「感心している場合ではないぞ」
「感心してません。困ってます」
景継は地図を見る。
後方を襲えば兵を戻す。
そこまでは想定していた。
しかし信玄は、後方を守りながら前進を続けた。
兵力がある。
組織が強い。
そして何より、判断が早い。
景継が一手を打つたび、信玄はその意味を理解して対応してくる。
「強いなあ」
家康が横目で景継を見る。
「楽しそうに聞こえるぞ」
「そんなことありませんよ」
そう答えながらも、景継の口元にはわずかな笑みがあった。
久しぶりだった。
一つの策で相手が崩れない。
二つ目を出しても止まらない。
こちらが相手を読めば、相手もこちらを読む。
司馬懿として生きていた頃にも、こういう相手はいた。
一手先を読むだけでは足りない。
相手もこちらの一手先を読んでいる。
ならば、その読みそのものを利用するしかない。
「家康様」
「今度は何だ」
「少しだけ、前へ出てもらえます?」
家康が目を見開いた。
「戦うなと言ったのは、そなたではないか」
「決戦はしません」
景継は地図上に徳川軍の駒を置いた。
「信玄に、私たちがついに我慢できなくなったと思わせます」
家康の目が細くなる。
「誘うのか」
「はい。ただし信玄を罠にはめて倒そうとは思わないでください」
「なぜだ」
「たぶん気づきます」
家康が呆れた。
「では意味がないではないか」
「あります」
景継は武田軍の駒を見た。
「信玄が罠だと気づいた時、どう動くのかを見たい」
家康はしばらく景継を見つめた。
「そなた、信玄で試しておらぬか」
「向こうも私たちで試してますよ」
景継は笑った。
◇◇◇
徳川軍の一部が動いた。
それまで決戦を避け続けていた家康が、ついに武田軍の進路を塞ぐような動きを見せた。
報告を受けた信玄は、すぐには喜ばなかった。
むしろ長い時間、地図を見ていた。
「出てきましたな」
家臣の一人が言う。
「ようやく家康も我慢の限界でしょう」
信玄は答えない。
家康が出てくること自体は不自然ではない。
むしろ遅すぎるほどだ。
しかし。
遅すぎる。
信玄の指が徳川軍の位置で止まる。
「林道はどこだ」
「確認できておりませぬ」
「そうか」
信玄は目を細めた。
家康が動いた。
ならば普通は決戦の好機。
だが、これまで戦うことを徹底して避けていた者が、突然こちらの望む場所へ出てくる。
「誘っておるな」
家臣が驚く。
「罠でございますか」
「おそらく」
「では退きますか」
信玄はしばらく考えた。
「いや」
地図上の駒を一つ動かした。
「横へ行く」
家臣たちが顔を見合わせる。
「横?」
「林道は、わしが罠に気づくことまで考えておる」
信玄は静かに言った。
「ならば罠を避けるだけでは、あの若造の望み通りだ」
武田軍は徳川軍へ向かわなかった。
しかし後退もしなかった。
別の進路を選び、徳川軍の側面を大きく回るように動き始めた。
景継が用意した場所。
信玄が決戦を望んだ場所。
そのどちらでもない。
第三の場所へ。
◇◇◇
知らせを受けた景継は、地図を見たまましばらく黙っていた。
家康が尋ねる。
「外されたな」
「はい」
「どうする」
景継は答えなかった。
信玄は罠に気づいた。
そこまでは予想していた。
だが、罠を避けて後退するのではなく、別の道から前へ出た。
こちらの読みを理解したうえで、その外側へ動いている。
景継は武田軍の駒を指で動かした。
「これを続けたら」
「どうなる」
「終わりませんね」
家康が顔をしかめた。
「何?」
「私が一つ考える。信玄様が外す。信玄様が一つ仕掛ける。私が外す。ずっとこれをやることになります」
「ならば最後までやればよい」
景継は家康を見る。
「それも一つです」
「一つ?」
「ただ、問題があります」
景継は地図の西側を指した。
そこには武田以外の駒がある。
本願寺。
三好。
そして京の足利義昭。
「私たちの敵は、信玄様だけじゃありません」
家康の表情が変わった。
景継は忘れていなかった。
この戦の目的は武田信玄を倒すことではない。
信長を取り囲もうとしている者たちを、同時に動かせないようにすること。
信玄一人に時間を使い続ければ、別の場所が動く。
「だから、信玄様との勝負に夢中になったら負けです」
景継は自分に言い聞かせるように話した。
強い相手と出会えば、倒したくなる。
自分の策が通じなければ、通したくなる。
だが、それは相手に付き合っているだけだ。
司馬懿として生きた一度目の人生で、何度も見てきた。
勝ちたいという感情に囚われた者ほど、本来の目的を見失う。
「信玄様には勝たなくていい」
景継は静かに言った。
「徳川が残れば、それでいいんです」
家康はその言葉を聞きながら、ゆっくりと頷いた。
◇◇◇
それから数日。
奇妙な状態が続いた。
武田軍は依然として強かった。
徳川方の小さな拠点を落とし、進路を変えながら圧力をかけ続けている。
徳川も決戦を避けながら抵抗した。
武田が前へ出れば後ろを襲い、武田が後ろを固めれば別の場所で動く。
どちらも決定的な損害を受けない。
どちらも決定的な勝利を得ない。
景継は焦らなかった。
この状態なら構わない。
徳川は生きている。
家康もいる。
主力も残っている。
武田は強いままだが、徳川を踏み潰すこともできていない。
時間だけが過ぎていく。
景継が最初から望んでいた形だった。
だが。
変化は、戦場ではない場所から突然やって来た。
武田軍の動きが鈍った。
最初に気づいたのは徳川方の物見だった。
進軍が遅い。
指示が以前より慎重になっている。
そして、これまでならすぐに反応してきたはずの小さな攻撃に対して、武田軍の対応が遅れることが増えた。
報告を聞いた景継は、すぐに喜ばなかった。
「何か変ですね」
家康が尋ねる。
「兵糧が効いてきたのではないか」
「それなら分かりやすいんですが」
景継は地図を見る。
補給への攻撃は続けている。
確かに負担にはなっているはずだ。
しかし、それだけで武田軍全体の動きが急に変わるとは思えない。
「罠かもしれません」
「また疑うのか」
「信玄様ですから」
景継は警戒を緩めなかった。
徳川軍へ追撃を禁じた。
武田軍が少し退いても追わない。
城を取り戻そうと急がない。
二日。
三日。
それでも武田軍は前へ出てこなかった。
そして四日目。
さらに信じ難い報告が届いた。
「武田軍が……退いております」
景継は使者を見た。
「どの部隊です?」
「本隊にございます」
「本当に?」
「はい」
景継は地図へ目を落とした。
家康が立ち上がる。
「追うぞ」
「待ってください」
景継は即座に止めた。
「なぜだ」
「おかしいです」
「退いているのだぞ」
「だからです」
景継は武田軍の駒を見つめた。
あの信玄が。
これほど突然。
何も得ずに。
本当に退くのか。
「追ったところを反転して叩くつもりかもしれません」
「しかし、このまま逃がせば」
「逃がしてください」
景継は家康を見た。
「武田が帰るなら、それで私たちの目的は達成です」
家康は悔しそうな顔をした。
勝てるかもしれない。
退いている敵の背中が見えている。
追えば戦果を得られるかもしれない。
それでも家康は、しばらくして座り直した。
「……分かった」
景継は小さく頭を下げた。
その判断が正しかったのか。
その時の景継には分からなかった。
◇◇◇
数日後。
理由が分かった。
一通の知らせが徳川へ届いた。
家康はそれを読み、しばらく黙っていた。
景継が尋ねる。
「どうしました?」
家康は書状を景継へ渡した。
「読め」
景継は受け取った。
数行を読んだところで、表情が変わった。
武田信玄。
病。
軍を退く。
そして。
死去。
景継は最後まで読んだ後も、しばらく何も言わなかった。
家康が尋ねる。
「どう思う」
景継は書状を机へ置いた。
「驚いています」
「それだけか」
「はい」
景継は正直に答えた。
信玄が病を抱えていることなど知らなかった。
まして、この時に死ぬことなど知るはずがない。
自分はただ、武田軍を止めようとしていた。
信玄に勝とうとせず、徳川を残すことだけを考えた。
その途中で。
相手がいなくなった。
家康が静かに言う。
「そなたが時間を稼いだからではないのか」
景継は首を横に振った。
「違います」
「しかし」
「私が信玄様を倒したわけじゃありません」
景継は地図を見る。
最後まで。
信玄の軍は崩れなかった。
こちらの策を読み。
外し。
それでも前へ進もうとした。
もし病がなければ。
あと一月。
二月。
戦いが続いていたら。
どちらが先に崩れたのか。
景継には分からない。
「勝ちたかったか」
家康が尋ねた。
景継は少し考えた。
「少し」
「少しか」
「かなり、かもしれません」
家康が笑った。
景継も小さく笑った。
「でも、これでいいんです」
自分たちは生き残った。
それが最初の目的だった。
信玄を倒すことではない。
武田に勝つことでもない。
徳川を潰させず、信長へ向かう道を開けない。
その目的は達成された。
だから、この戦はそれでいい。
景継はそう考えた。
そして次の瞬間。
表情が変わった。
「家康様」
「何だ」
「すぐ岐阜へ戻ります」
「今から?」
「はい」
景継は立ち上がった。
家康が驚いている。
「信玄が死んだばかりだぞ。武田の動きを確認せぬのか」
「確認はお願いします」
「そなたは何をする」
景継は地図の西側を見た。
信玄が消えた。
武田軍が退く。
それは徳川にとって危機が去ったというだけではない。
もっと大きな意味を持っている。
足利義昭。
本願寺。
三好。
そして、信長を倒したいと考えていた者たち。
彼らは武田信玄という巨大な力が西へ進むことを期待していた。
その力が。
突然消えた。
「今しかありません」
景継の声が変わっていた。
家康がその顔を見る。
「何をするつもりだ」
景継は答えた。
「包囲を壊します」
◇◇◇
岐阜へ戻った景継は、その日のうちに信長へ面会を求めた。
評定の間には信長、勝家、長秀、信盛、光秀が集められた。
長旅を終えたばかりの景継は、着替える時間すら惜しんでそのまま地図の前へ座った。
信長が尋ねる。
「信玄が死んだそうだな」
「はい」
「運が良かったな」
「そうですね」
景継は否定しなかった。
実際に運が良かった。
それを自分の手柄にするつもりはない。
「それで、急いで戻ってきた理由は何だ」
景継は地図上から武田の駒を取り除いた。
「これです」
勝家が眉を寄せる。
「武田が消えたことか」
「はい」
次に浅井の駒を取る。
すでに滅びた。
朝倉の駒も取る。
こちらも滅びている。
地図上に残ったのは、本願寺、三好、そして京にいる義昭。
景継はそれらを見た。
「少し前まで、私たちは四方を囲まれているように見えました」
誰も口を挟まない。
「でも今は違います」
浅井はいない。
朝倉もいない。
武田は退いた。
信玄も死んだ。
残された者たちは、これまでと同じ気持ちで信長と戦えるだろうか。
景継は首を横に振った。
「無理だと思います」
光秀が尋ねる。
「なぜ言い切れる」
「怖いからです」
「誰が」
「全員です」
景継は本願寺の駒を指した。
「今までは、武田が東から来ると思えた。浅井と朝倉もいた。だから自分たちが動いても、信長様の兵は分散すると考えられた」
次に三好。
「でも今動けば、どうなると思います?」
勝家が答えた。
「織田の兵が自分へ来る」
「そうです」
景継は頷いた。
「全員が同じことを考えます」
自分だけが戦うことになるかもしれない。
他の者が動かなかったらどうする。
将軍のために戦い、最後に自分だけが滅びるのではないか。
一度そう考え始めれば、包囲網は包囲網ではなくなる。
「書状を出します」
信長が景継を見る。
「降伏を勧めるのか」
「違います」
景継は少し笑った。
「何もしません」
勝家が顔をしかめる。
「書状を出すのに何もしないとは何だ」
「聞くだけです」
景継は紙を一枚取った。
そこへ短い文章を書いた。
将軍のため、最後まで織田と戦う覚悟がおありか。
それだけだった。
長秀が読む。
「これだけか」
「これだけでいいです」
「脅しにもなっておらぬぞ」
「だからいいんです」
景継は答えた。
「脅したら、敵はまとまります」
信長が景継を見る。
景継は続ける。
「答えを求める必要もありません。この書状を受け取った者が、自分で考えればいい」
本当に他の者も戦うのか。
武田はもう来ない。
浅井も朝倉もいない。
自分だけが残ったらどうする。
その疑いを持たせる。
「一人が迷えば」
景継は地図上の駒を一つ離した。
「隣も迷います」
さらに一つ離す。
「隣が迷えば、その次も自分だけ残るのが怖くなる」
三つ目を離す。
「包囲というのは、全員が前へ向いているから包囲なんです」
景継は最後に義昭の駒だけを中央へ残した。
「後ろを見る者が出た瞬間、終わります」
部屋が静かになった。
信長が地図を見る。
やがて。
笑った。
「出せ」
景継は頭を下げた。
「はい」
◇◇◇
書状は各地へ送られた。
本願寺へ。
三好の者たちへ。
畿内で義昭とつながっている者たちへ。
内容は少しずつ変えた。
しかし意味は同じだった。
武田は退いた。
浅井はいない。
朝倉もいない。
それでも、あなたは最後まで戦うのか。
織田はすぐには攻めなかった。
それがさらに不安を広げた。
なぜ来ない。
何を待っている。
誰かがすでに信長と話をつけたのではないか。
自分だけが知らないのではないか。
疑いは、軍勢より速く広がった。
義昭からは戦えという書状が届く。
しかし返事は鈍くなった。
ある者は病を理由に兵を出さない。
ある者は領内が不安定だと言う。
ある者は返事そのものを遅らせた。
誰も義昭へ明確に背を向けたわけではない。
それでも十分だった。
全員が同時に前へ出なければ、包囲は成立しない。
景継は岐阜で届く報告を一つずつ確認していた。
「三好方、一部動きなし」
長秀が報告する。
「本願寺も大規模な動きは確認できぬ」
信盛が続けた。
「畿内の国人にも様子見が増えている」
景継は地図から駒を一つずつ離していった。
誰かを滅ぼしたわけではない。
大戦に勝ったわけでもない。
それでも。
数日前まで信長を四方から押し潰そうとしていた形は、もう残っていなかった。
勝家が腕を組んだ。
「これで終わりか」
景継は地図を見る。
「包囲網は」
信長がその言葉を聞く。
「包囲網は、か」
景継は頷いた。
「はい」
そして。
地図の中央に残った一つの駒を見た。
京。
足利義昭。
武田を動かそうとした。
本願寺へ働きかけた。
三好ともつながった。
信長を囲もうとした中心にいた人物。
周囲の駒は離れた。
それでも。
始めた男だけは残っている。
信長が義昭の駒を指で弾いた。
「将軍か」
「はい」
景継は静かに答えた。
信長が立ち上がる。
「どうする」
景継は少し考えた。
これまでなら、すぐに策を口にしたかもしれない。
しかし今は違う。
相手がどう動くのかを決めつけない。
義昭が折れる可能性もある。
最後まで抵抗する可能性もある。
別の大名を頼る可能性もある。
どれを選ぶのかは義昭自身だ。
ただし。
どの道を選ばれても、織田が困らない形を作ればいい。
景継は地図から顔を上げた。
「まず、聞きましょう」
信長が眉を上げる。
「何をだ」
「将軍様が」
景継は京に置かれた最後の駒を見た。
「それでもまだ、信長様と戦うつもりなのかを」
浅井と朝倉は消えた。
武田信玄も去った。
そして、信長を取り囲んでいた者たちは、一人また一人と前へ出ることをやめ始めている。
包囲網は、大軍に踏み潰されて崩れたのではなかった。
互いを信じられなくなった瞬間、自ら形を失った。
景継はその地図を見ながら、信玄との戦いを思い返していた。
最後まで勝てなかった。
それでも、生き残った。
そして生き残ったからこそ、次の一手を打つことができた。
一つの戦で勝つことよりも、次の戦を選べる場所に立ち続ける。
かつて司馬懿として生きた男が、最後まで手放さなかったものだった。
景継は静かに立ち上がった。
次に向かう場所は決まっている。
京。
そこには、武田信玄とはまったく違う力を持つ男がいる。
兵の強さではなく、将軍という名と権威によって人を動かしてきた足利義昭。
そして、その義昭と信長の間には、もう一人。
景継が先生と呼び続けてきた明智光秀がいる。
包囲は崩れた。
だが、この戦を始めた者との決着は、まだ残されていた。




