第七十三話 戦わずして止める
武田信玄が動いた。
その知らせが岐阜へ届いてから、景継はほとんど地図の前を離れなかった。
甲斐から信濃を経て、徳川領へ入る道。山々の位置、川の流れ、城の場所、兵糧を運ぶために使えそうな街道まで、集められる限りの情報を並べていく。
しかし、景継が最も欲しがったのは武田軍の兵数ではなかった。
「信玄は、これまでどうやって勝ってきたんです?」
集められた家臣たちへ尋ねると、最初に答えたのは丹羽長秀だった。
「一言で説明できる相手ではないな」
「だから全部知りたいんです」
「全部と言われても困るが、戦場での動きは速い。敵の弱いところを見つければ迷わず突くし、城攻めも野戦もできる。調略も使う」
景継は聞きながら紙へ書き込んでいった。
「負けたことは?」
「ある」
景継の筆が止まる。
「あるんですか?」
勝家が横から口を挟んだ。
「当たり前だろう。信玄を何だと思っておる」
「皆があまりに怖がるので、一度も負けたことがないのかと思ってました」
勝家が呆れた顔をする。
「そんな人間がおるか」
景継は少し笑った。
それを聞いて、むしろ安心した。
負けたことがある。
つまり人間だ。
戦えば必ず勝つ怪物ではない。
ただし、負けた経験を持ちながら今なお恐れられているということは、その敗北から何かを学び続けてきた男でもある。
景継にとっては、そちらの方が厄介だった。
「長秀様。もう一つお願いします」
「何だ」
「信玄が負けた戦も調べてください」
長秀が眉を上げた。
「勝った戦ではなく?」
「両方です。ただ、負けた時に何をしたのかの方が知りたい」
勝った時だけを見ても、その者の本質は分からない。
思い通りにいかなかった時。
予想を外した時。
追い詰められた時。
そこで何を選ぶのか。
景継自身が金ヶ崎で学んだことだった。
「それから、武田軍が何日分の兵糧を持っているのか分かります?」
「そこまでは難しいな」
「大体でいいです。現地でどれだけ集められるのかも知りたい」
信長が黙って景継を見ていた。
やがて口を開く。
「信玄と戦うつもりはないのか」
景継が顔を上げた。
「できれば戦いたくありません」
勝家が眉を寄せる。
「敵が来るというのにか」
「来るからです」
景継は地図を指した。
「信玄は自分から大軍を連れて来るんですよね。それなら、こちらからわざわざ信玄が一番得意な形に付き合う必要はないでしょう」
信長の口元がわずかに上がった。
「逃げるか」
「逃げません」
景継は首を横に振った。
「戦わないだけです」
◇◇◇
その日のうちに、景継は徳川家康へ書状を送った。
内容は簡単だった。
武田軍が徳川領へ入っても、大規模な野戦を避けること。
城を使って時間を稼ぎ、武田軍の進路を確認すること。
領内を通過されても、追いかけて背後から決戦を挑まないこと。
そして何より、信玄本人が率いる本隊と正面から戦わないこと。
数日後。
家康から返事が届いた。
景継は読み始めてすぐ、困ったような顔になった。
「怒ってますね」
光秀が尋ねる。
「何と?」
「自分の領地を武田に踏みにじられて、黙って見ていろというのか、と」
「当然だろう」
光秀の答えに、景継は書状を机へ置いた。
「ですよね」
「分かっていたのではないのか」
「分かってました。でも、もう少し聞いてくれるかと思ってました」
光秀は苦笑した。
家康の立場からすれば当然だった。
自分は三河と遠江を治める大名である。
そこへ武田軍が入ってくる。
城を落とされる。
村を焼かれるかもしれない。
家臣たちからは戦えと言われる。
その状態で、遠く岐阜にいる若者から「戦うな」と言われて納得できるはずがない。
景継はしばらく考えた後、立ち上がった。
「行ってきます」
光秀が目を細める。
「どこへだ」
「家康様のところです」
「今から?」
「書状じゃ無理そうなので」
「信玄が迫っているのだぞ」
「だから急ぎます」
景継は地図を畳み始めた。
光秀はその様子を見ながら尋ねた。
「何を話すつもりだ」
景継の手が止まる。
「まだ決めてません」
「お前は時々、恐ろしいことを平然と言うな」
「会ってから考えます」
景継は地図を抱えた。
「人を説得するのに、その人の顔を見ないで考えても仕方ないでしょう」
◇◇◇
家康と会った時、景継が最初に感じたのは、想像していた以上に怒っているということだった。
「林道殿」
声は落ち着いている。
だが、その奥に苛立ちがある。
「そなたの書状は読んだ」
「ありがとうございます」
「礼を言われるような内容ではなかったがな」
景継は困ったように笑った。
家康の隣には、徳川家の重臣たちが並んでいる。
誰も景継を歓迎しているようには見えなかった。
無理もない。
織田から来た若者が、自分たちの国へ武田が侵入しているのに戦うなと言っているのだ。
家康が尋ねた。
「そなたは、わしに逃げろと言うのか」
景継は首を横に振った。
「違います」
「では何だ」
「勝つ必要がないと言っています」
家康の眉が動いた。
「同じことではないか」
「違います」
景継は地図を広げた。
「家康様。信玄は何のためにここへ来るんです?」
「徳川を攻めるためだろう」
「徳川を滅ぼすことだけが目的ですか?」
家康は黙った。
景継は地図上の徳川領、その先にある織田領を指した。
「もし徳川だけが目的なら、話は簡単です。でも、信玄がその先を見ているなら、ここで家康様が決戦する理由はありません」
「わしが負ければ、武田はそのまま織田へ向かうと?」
「可能性はあります」
「ならば、なおさらここで止めるべきではないか」
「どうやって?」
景継が聞き返した。
家康の表情が変わった。
「信玄と正面から戦って、勝てますか?」
徳川の家臣たちの空気が険しくなる。
一人が声を上げようとしたが、家康が手で制した。
景継は続けた。
「勝てる可能性がないとは言いません。でも、信玄が望んでいる場所、信玄が選んだ時、信玄が率いる軍と正面から戦う。それで負けたら何が残ります?」
家康は答えなかった。
「兵を失います。家臣を失います。下手をすれば家康様自身が死ぬ。その瞬間、徳川領そのものが武田の道になります」
景継は家康を真っ直ぐ見た。
「それが一番駄目です」
「では、城を一つずつ取られても黙って見ているのか」
「全部守る必要がありますか?」
家康の目が細くなる。
「何?」
景継は地図上の城を一つ指した。
「この城を取られたら、徳川は滅びますか?」
「いや」
「では、こちらは?」
「それだけでは滅びぬ」
景継はさらに別の場所を指す。
「ここを通られたら?」
「まだ戦える」
「だったら、全部守らなくていいでしょう」
徳川の家臣たちがざわめいた。
景継は構わず続ける。
「土地は取り返せます。城も取り返せます。でも、家康様と徳川の主力を一度に失ったら取り返せません」
家康は黙って景継を見ていた。
景継は少し声を落とした。
「私も最近、それを覚えました」
「浅井か」
「はい」
家康も金ヶ崎のことは知っている。
浅井長政が織田を裏切り、信長が死の寸前まで追い込まれた戦。
景継もその場にいた。
「私は自分の考えが当たると思っていました。外れた時の準備が足りなかった。だから今度は、信玄が何をしても徳川が一度で終わらないようにしたいんです」
家康は長い間、何も言わなかった。
やがて地図へ目を落とした。
「具体的にはどうする」
景継の表情が変わった。
話を聞いてもらえる。
そこからは早かった。
「城は守ります。ただし、すべてを死守しません。時間を稼いで、危なくなれば兵を残さず退きます」
景継の指が街道をなぞる。
「武田が進めば、兵糧を運ぶ距離も長くなります。周辺で食糧を簡単に集められないよう、先に運べるものを運びます」
「村を焼くのか」
「できれば避けます。自分たちの国ですから」
景継は別の道を指した。
「橋や渡河地点も使えます。全部壊す必要はありません。武田軍が使いたい時にすぐ使えないようにするだけでいい」
「それで信玄を止められるか」
「分かりません」
家康が景継を見る。
景継は真顔だった。
「止められるとは言い切れません。でも、進むたびに時間を使わせることはできます」
「その間に織田の援軍を待つ?」
「それもあります。ただ、それだけじゃありません」
景継は地図の東側を見る。
「大軍は、そこにいるだけで食べます」
家康の表情が少し変わった。
「兵が多ければ強い。でも兵が多ければ、それだけ食糧が必要になる。馬も食べる。遠くへ行けば、後ろから運ぶ人間も必要になる」
景継は武田軍の進路を指でなぞった。
「だから私は、信玄と兵の強さで勝負したくありません」
「何で勝負する」
「時間です」
家康はしばらく地図を見ていた。
やがて小さく息を吐いた。
「わしには苦手な戦だな」
「私には得意な戦です」
家康が初めて笑った。
「言うではないか」
景継も少し笑った。
「待つのは慣れていますから」
その言葉がなぜか自分の中に深く馴染んだ。
司馬懿として生きた一度目の人生でも、焦って動いた者が先に消えていく姿を何度も見てきた。
強い者と出会った時、必ずその場で勝つ必要はない。
相手より一日長く立っていればいい。
相手より一度多く次の手を持っていればいい。
それを景継は、この戦でも使おうとしていた。
◇◇◇
武田軍は進んだ。
徳川方の城が攻められ、いくつかの拠点が武田の手へ落ちた。
しかし、信玄が予想していたものとは少し違っていた。
守備兵が最後まで城に残らない。
落とせる。
だが、全滅させられない。
武田軍が攻城の準備を整え、包囲を完成させようとした頃には、守備側が夜のうちに退いていることもあった。
ある城では激しく抵抗する。
次の城では早々に退く。
どこを死守するつもりなのか分からない。
武田の家臣が地図を見ながら言った。
「徳川は臆したのでしょうか」
信玄は答えなかった。
「我らを恐れ、戦を避けているように見えます」
「そう見えるか」
「違うのでございますか」
信玄は地図を見た。
確かに武田軍は勝っている。
城も取った。
道も進んだ。
徳川軍の首も取っている。
それなのに、妙な感覚が残る。
「徳川の主力はどこにいる」
「健在にございます」
「家康は?」
「こちらも健在です」
「では、何に勝った」
家臣が答えられない。
信玄は少し笑った。
城は取った。
だが徳川の力そのものは、ほとんど削れていない。
「面白い」
信玄の指が地図をなぞった。
進むほど、補給の道が長くなる。
徳川はそれを狙っている。
いや。
正確には。
「林道景継か」
信玄が名前を口にした。
家臣が顔を上げる。
「以前の書状にあった若者でございますか」
「おそらくな」
信玄は地図を見ながら考えた。
こちらと戦わない。
城を捨てることさえ許している。
普通の大名なら難しい。
領地を守ることは、大名の責務でもある。
城を捨てれば臆病者と言われる。
家臣からも不満が出る。
それでも徳川がこの動きをしている。
「わしに勝とうとしておらぬ」
信玄は静かに言った。
「では、何を狙っているので?」
「わしが勝つ場所をなくしている」
家臣は意味を理解できず、黙った。
信玄は笑った。
「城を落としても決着にならぬ。兵を進めても徳川本隊が出てこぬ。このまま進めば、こちらの兵糧だけが減っていく」
「では、止まりますか」
信玄は家臣を見る。
その目には笑みがあった。
「なぜ止まる」
◇◇◇
数日後、景継のもとへ新しい報告が届いた。
武田軍の進路が変わった。
その知らせを聞いた景継は、すぐに地図を広げた。
「どこです?」
使者が指した場所を見て、景継の眉が動く。
「こちらへ?」
「はい」
景継が想定していた主要な街道から、武田軍の一部が外れ始めている。
しかも単なる迂回ではない。
景継が武田軍を遅らせるために準備していた場所そのものを避けるような動きだった。
家康も地図を覗き込む。
「読まれたのではないか」
「そうでしょうね」
景継はあっさり認めた。
「随分落ち着いておるな」
「困ってはいますよ」
景継は地図上の武田軍を動かした。
信玄は正面から景継の策を破ろうとしていない。
景継が時間を稼ごうとしているなら、時間を使わなければいい。
守りの薄い場所を探し、予定していた進路そのものを変える。
「やっぱり強いですね」
景継が呟いた。
家康が顔をしかめる。
「感心している場合か」
「強いものは強いんだから仕方ないでしょう」
景継は別の地図を広げた。
幸い、こうなる可能性も考えていた。
どこを通るかまでは分からなかった。
だが、予定した道を使わない可能性そのものは考えていた。
「予備の兵を動かします」
家康が景継を見る。
「間に合うのか」
「全部は無理です」
景継は正直に答えた。
「一つか二つ、武田に先を取られます」
「それでは」
「構いません」
家康の言葉を遮った。
「大事なのは、予定と違う場所へ来たからといって、全部の兵を慌ててそちらへ送らないことです」
金ヶ崎なら。
景継は焦ったかもしれない。
自分の予想が外れた。
何とか修正しなければならない。
そう考え、相手の動きに引っ張られたかもしれない。
今は違う。
信玄が一つ外してきた。
ならば、その一つは渡していい。
「取らせるのか」
家康が尋ねる。
「はい」
「わざと?」
「わざとではありません。取られるものを、無理に守らないだけです」
景継は武田軍の新しい進路を見る。
「信玄は私たちが慌てて兵を動かすのを待っているかもしれません。だったら動かさない」
「そのまま進まれたらどうする」
「その時は、その時に考えます」
家康が呆れたように景継を見る。
「それで策と言えるのか」
「未来を全部当てることだけが策じゃありませんよ」
景継は笑った。
「分からない時に、分からないままでも負けないようにする。それも策です」
家康はしばらく景継を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「そなたと話していると、戦というものが分からなくなる」
「私も最近、分からなくなりました」
「それでよいのか」
「前よりは」
景継は再び地図へ目を落とした。
武田信玄。
確かに強い。
こちらの狙いに気づくのも早い。
気づいた後、すぐに別の手を打つ。
景継がこれまで相手にしてきた者たちとは違う。
だが、不思議と恐怖は少し減っていた。
相手が強いと分かったからだ。
強さが見えない時の方が怖い。
信玄は景継の策を読み、それを避けた。
ならば次は、こちらが信玄の新しい動きへ対応する番だった。
◇◇◇
ところが、その日の夕刻。
景継の想定をさらに外れる知らせが入った。
使者が息を切らしながら駆け込んでくる。
「申し上げます!」
景継と家康が同時に顔を上げた。
「武田軍が、さらに進路を変えました!」
景継は立ち上がる。
「どちらへ?」
使者が地図上の一点を指した。
家康の顔色が変わった。
景継も一瞬だけ言葉を失った。
そこは、徳川にとって無視できない場所だった。
武田軍がただ通り過ぎるだけなら、戦わなくてもいい。
城を一つ取られるだけなら、捨てることもできる。
だが信玄が新たに向かった場所を放置すれば、徳川家中そのものが揺らぐ可能性があった。
家康が景継を見る。
「これでも戦うなと言うか」
景継は答えなかった。
地図を見る。
信玄はこちらの狙いを理解した。
だから、景継が守らなくてもいい場所ではなく、徳川が守らざるを得ない場所を選び始めた。
戦いたくないなら、戦わなければならない場所を作る。
こちらが決戦を避けるなら、避けられない理由を作る。
景継はしばらく地図を見た後、静かに息を吐いた。
「なるほど」
家康が眉を寄せる。
「何がなるほどだ」
景継は顔を上げた。
「信玄様は、私たちを戦場へ引っ張り出すつもりです」
自分は信玄と戦わず、時間を奪うつもりだった。
信玄は、その考えそのものを利用し始めている。
戦わない景継。
戦わなければ国を守れない家康。
その二人の間にある違いを見つけ、そこへ手を入れてきた。
景継は地図上の武田の駒を見つめた。
強い。
今度は素直にそう思った。
兵の強さだけではない。
相手が何を嫌がっているのかを見つけ、そこへ迷わず手を伸ばしてくる。
「景継」
家康の声が低くなる。
「どうする」
景継はすぐには答えなかった。
ここで決戦すれば、信玄の望む形になるかもしれない。
しかし戦わなければ、徳川家中に大きな亀裂が生まれる可能性がある。
どちらも正解には見えなかった。
それでも景継は焦らなかった。
金ヶ崎で一度、自分の思い通りにならない現実を知った。
浅井との戦で、答えを一つに決めないことを覚えた。
そして今、自分より何枚も上かもしれない相手が、その考えすら利用しようとしている。
ならば、もう一つ先を考えるしかない。
「少しだけ時間をください」
「どれくらいだ」
景継は武田軍の位置を確認した。
「一刻」
家康が驚く。
「それだけでよいのか」
「十分です」
景継は地図の前へ座り直した。
信玄が何をするのかを当てるのではない。
信玄が何をしても、自分たちが生き残れる場所を探す。
それでも見つからないなら、初めて戦えばいい。
景継は地図を見ながら、ゆっくりと思考を深めていった。
その頃、武田信玄もまた別の場所で同じ地図を見ていた。
家臣の一人が尋ねる。
「徳川は出てきましょうか」
信玄はすぐには答えなかった。
「家康は出たいだろう」
「では、出ますか」
「それを止めている者がいる」
信玄の指が徳川領の一点で止まった。
「林道景継でございますか」
信玄は小さく頷いた。
「若い割には、よく我慢する」
「臆病なのでは?」
その言葉を聞いた信玄は笑った。
「臆病者なら、もっと守る」
家臣が意味を理解できず黙る。
信玄は地図から目を離さなかった。
「城を捨て、土地を渡し、それでも軍を残す。あれは失うことを恐れておらぬ者の戦い方だ」
「では、厄介な相手なのでございますか」
「まだ分からぬ」
信玄は静かに答えた。
「今までは、な」
家臣が信玄を見る。
信玄の指先には、先ほど進路を変えた武田軍の駒があった。
「守らぬ者を戦わせたいなら、守らなければならぬものを狙えばよい」
信玄はそこで初めて笑った。
「さて、どうする。林道景継」
二人はまだ、一度も顔を合わせていない。
それでも景継と信玄の戦いは、すでに始まっていた。
一方は決戦そのものを消そうとし、もう一方は決戦せざるを得ない状況を作ろうとしている。
どちらが相手を自分の戦場へ引き込むのか。
その答えは、まだ出ていなかった。




