第七十七話 父の影
武田勝頼が動いたという知らせが岐阜へ届いた時、景継は信長から預けられた五千の兵を再編している最中だった。
初めて自ら軍を率いた戦では、敵の城を正面から攻めることなく勝利を収めた。自分自身と七百の兵を囮にして敵の主力を城外へ誘い出し、その間に残る兵で敵城を奪う。結果だけを見れば、初めて一軍を預かった将として申し分のない勝利だった。
しかし景継にとって、あの戦で得たものは勝利だけではなかった。
五千という兵を動かすためには、自分一人の頭だけでは足りない。
司馬懿仲達として生きた前世では、何万という軍勢を率いた経験がある。兵を分け、補給を整え、敵の進路を読み、必要であれば長期間にわたって待ち続けることも珍しくなかった。
それでも林道景継として初めて五千を預かったことで、かつて当然だと思っていたことを改めて思い知らされた。
五千の兵とは、五千本の槍が並んでいるという意味ではない。
兵糧を運ぶ者が必要であり、街道や山道を調べる者も必要になる。敵情を探る物見を放ち、戻ってきた情報を整理する者もいれば、負傷した兵を後方へ送る者もいる。馬の状態を確かめる者もいれば、それぞれの部隊へ景継の命令を正確に伝える者も必要だった。
そして何より、五千人それぞれに命があり、帰る場所がある。
最初の戦で十一人の死者を出したことが、その事実を景継へ強く意識させていた。
「若様、東から新しい知らせが届いております。どうやら武田軍の動きについて、かなり詳しいことが分かってきたようです」
弥兵衛が一通の書状を持って部屋へ入ってくると、景継は手元の兵員配置を書いた紙を置いて書状を受け取った。
「前に信長様から見せてもらったものより、詳しい報告ということですね。それなら今度こそ、武田が何をしようとしているのか少しは見えてくるかもしれません」
書状を開いた景継は、そこに並ぶ文字をゆっくりと追っていった。
武田勝頼。
三河。
長篠。
奥平。
徳川。
そして、武田軍およそ一万五千。
最後まで読み終えた景継は書状を畳んだが、その表情から緊張が消えることはなかった。
「どうやら威圧するために兵を出した程度ではなさそうですね。勝頼殿は本気で三河へ踏み込んできています」
「武田勝頼という御方は、やはりそれほど恐ろしい相手なのでございますか。信玄殿ほどではないという話も耳にいたしますが」
弥兵衛の問いに、景継はすぐには答えず、少し考えてから首を横へ振った。
「それは私にはまだ分かりません。勝頼殿とは一度も戦ったことがありませんし、直接話したこともありません。それなのに父親と比べて強いとか弱いとか決めてしまうのは、たぶん一番やってはいけないことでしょう」
景継の頭には、かつて対峙した武田信玄の姿が浮かんでいた。
あの男は間違いなく強かった。
ただ強兵を持っているだけの将ではない。景継が策を置けば、その意図を読み、そのさらに先へ手を伸ばしてくる。こちらが一つ読めば向こうも一つ読み返し、その裏にさらに別の狙いを忍ばせる。
結局、完全な決着がつかないまま信玄は病によってこの世を去った。
だからこそ景継は、その息子まで信玄という物差しだけで測ることを警戒していた。
「信玄殿が強かったから、その息子も同じように強いとは限りません。でも、信玄殿ほどではないから勝頼殿は弱いという考え方も同じくらい危険です。私たちが戦うのは死んだ信玄殿ではなく、今の武田を率いている勝頼殿なのですから」
「では、まずは勝頼殿自身を見なければならないということでございますね」
「そういうことです。それに一つだけ、戦う前から分かっていることがあります。私が勝頼殿なら、武田信玄の跡を継ぐなんて絶対に嫌ですね」
思いがけない言葉に、弥兵衛が目を丸くした。
「若様でも嫌なのでございますか?」
「嫌に決まっているでしょう。何をしても父親と比べられるんですよ。一つ勝てば『信玄ならもっと勝った』と言われ、一つ負ければ『やはり信玄には及ばない』と言われる。そんな立場で武田という大きな家を背負うなんて、考えただけでも疲れます」
景継は苦笑しながら立ち上がった。
しかし、その目は笑っていなかった。
勝頼が背負っているもの。
それは弱点になるかもしれない。
同時に、恐ろしい強さへ変わる可能性もある。
父を超えなければならない。
自分こそが武田の当主だと認めさせなければならない。
そう考える人間は、普通の将なら退くところで前へ出ることがある。
その一歩が破滅を招くこともあれば、普通なら届かない勝利を掴むこともある。
景継はそこを見誤りたくなかった。
◇◇◇
信長に呼ばれて評定の間へ入ると、すでに柴田勝家や丹羽長秀をはじめとする主だった武将たちが集まっていた。
中央には三河周辺の地図が広げられ、長篠城の位置には目立つように駒が置かれている。
景継が席についたところで、信長は余計な前置きをせず本題へ入った。
「勝頼は一万を大きく超える兵を率いて三河へ入り、長篠城を囲んだ。このまま放っておけば家康の領国がさらに荒らされることになる」
景継は地図へ身を乗り出し、武田軍が通ってきたと考えられる道と長篠城の位置を確認した。
「長篠城を落とすことだけが目的でしょうか。それとも、救援に来る徳川軍まで引きずり出したいのか。そこが分からないと少し怖いですね」
「相変わらず慎重だな。初めて自分の軍を率いて勝ったことで、もう少し大きなことを言うようになるかと思っていたぞ」
勝家がそう言うと、景継は小さく笑って首を振った。
「初めての戦で勝ったくらいで武田を侮れるほど、私は自分を高く評価していません。それに今回は、城に籠もった二千を相手にするのとは訳が違います」
信長が景継へ視線を向けた。
「それなら、お前は勝頼をどう見る。信玄より劣ると思うか、それとも同じ程度の将だと思うか」
「今の段階では、その比べ方自体をしない方がいいと思っています。ただ、勝頼殿が信玄殿にはなかった危うさを持っている可能性はあります」
「危うさとは何のことだ?」
「勝たなければならない理由が多すぎることです」
評定の間が静かになった。
景継は地図の上に置かれた武田の駒を見ながら、自分の考えをゆっくり説明した。
「武田信玄という人物は、あまりにも大きな存在でした。その跡を継いだ勝頼殿は、ただ国を守っているだけでは評価されないでしょう。家臣からも周囲の大名からも、父親と比べられ続けるはずです。だから勝頼殿には、自分が武田を率いるに足る人間だと示すための大きな勝利が必要になる」
丹羽長秀が腕を組みながら景継の話を聞いていた。
「つまり、勝頼は無理をする可能性があるということか」
「その可能性はあります。ただし、それを単純な弱点だと思わない方がいいでしょう。勝たなければならない人間は、普通なら退くところでも前へ出ます。その一歩が失敗すれば崩れますが、成功した時にはこちらの予想以上に深く入ってくる」
景継はそこで一度言葉を止め、信長を見た。
「だから私は、勝頼殿が信玄殿より弱いことを前提にして戦うつもりはありません。武田勝頼という一人の将として、最初から警戒した方がいいと思います」
信長はしばらく景継を見つめていたが、やがて楽しそうに口元を緩めた。
「お前がそこまで警戒するなら、連れていく価値はありそうだな。自分の五千も連れて長篠へ来い」
「最初から、そのつもりだったのでしょう?」
「当然だ。兵を預けておいて、岐阜で留守番をさせるためではない」
景継は少しだけ笑った。
初めて自分の軍を持った。
そして次に戦う相手が武田。
出来すぎているようにも思える。
だが、景継の胸に浮かんでいたのは高揚よりも警戒だった。
信玄との戦いに決着をつけられなかったからといって、その続きを息子に求めるつもりはない。
勝頼は勝頼だ。
そう自分へ言い聞かせながら、景継は長篠へ向かうことを決めた。
◇◇◇
織田軍が徳川家康の軍と合流して長篠へ向かう頃には、武田軍の配置や周辺の地形について次々と情報が入ってきていた。
景継も五千の兵を率いて進軍した。
以前なら、信長の本陣へ入り込んで地図を見ながら策を考えることだけに集中していればよかった。しかし今は、自分の後ろに五千人の兵が続いている。
馬上から振り返れば、兵の列は遥か後方まで続いていた。
「こうして見ると、やっぱり変な感じがしますね。少し前まで私は信長様の隣で口を出していればよかったのに、今はこの人たちをどこへ置くのかまで自分で決めなければならない」
「若様は不満なのでございますか?」
「まさか。むしろ逆ですよ。ただ、前より考えることが増えました。信長様の本陣へ行って話し込んでいる間にも、この五千人は食べますし、眠りますし、疲れますからね」
弥兵衛が笑った。
景継も少し笑ったが、すぐに前へ視線を戻した。
遠くに長篠周辺の山々が見え始めている。
ここで武田と戦う。
その事実が、ようやく現実味を帯びてきた。
◇◇◇
到着した景継が最初にしたことは、武田軍を見ることではなかった。
戦場を歩いた。
山を見る。
川を見る。
林を見る。
道幅を見る。
雨が降った時にぬかるみそうな場所を確かめ、騎馬が速度を出せる場所と出せない場所を分けていく。
弥兵衛は最初こそ何も言わずについてきたが、あまりにも長く歩き続ける景継を見て、ついに声をかけた。
「若様は、いったい何を探しておられるのでございます? 先ほどから武田の陣よりも地面ばかり見ておられますが」
「武田軍がどこを通れるのかを見ています。一万を超える兵がいたとしても、一万人全員が好きな場所を自由に走れるわけではありませんから」
景継は近くの斜面を指した。
「ここを大軍で進むのは難しいでしょう。向こうは騎馬なら通れますが、横へ広がることができない。その先の道なら大軍でも動ける。でも、もし横から兵を出されたら面倒です」
戦場とは兵数だけで決まるものではない。
一万の軍勢を持っていても、その一万を一度に使える場所でなければ意味がない。
山が軍を分ける。
川が速度を奪う。
林が視界を消す。
狭い道が大軍を細長い列へ変える。
そして将は、その制限の中で選択しなければならない。
景継は一つの道の前で立ち止まった。
片側には林があり、反対側には低い斜面が続いている。大軍が一度に広がるには少し狭いが、騎馬を含む部隊が通れないほどではない。
「弥兵衛、この場所は覚えておいてください。武田が使う可能性があります」
「では、ここへ兵を伏せておくのでございますか?」
「まだ決めません。それに、武田がここを通ると決めつけるつもりもありません」
以前の景継なら、相手の考えを読み、その一手を当てようとしたかもしれない。
だが金ヶ崎で、その危うさを知った。
浅井長政を説得した。
理解させたと思った。
だから裏切らないと考えた。
しかし人間は、昨日と今日で同じ判断をするとは限らない。
状況が変われば心も変わる。
家臣に押されることもあれば、父親や一族の存在によって決断を変えることもある。
ならば、相手の一つの選択へすべてを賭ける必要はない。
「ここへ来れば、この場所を使う。別の場所へ来れば、そちらで用意したものを使う。相手が何を選ぶのかを完全に当てなくても戦えるようにしておけばいいんです」
弥兵衛が景継を見た。
「金ヶ崎のことを考えておられるのでございますね」
景継は少しだけ黙った後、静かに頷いた。
「あれだけ酷い目に遭ったんですから、何も学ばなかったら本当にただの馬鹿でしょう」
そう言って景継は歩き出した。
戦場の形が、少しずつ頭の中で出来上がり始めていた。
◇◇◇
その夜、信長と家康を中心とした軍議が開かれた。
大量の鉄砲が用意され、武田の攻撃を受け止めるための馬防柵も築かれ始めている。
正面で武田軍を迎え撃つ準備は、着々と進んでいた。
その中で家康が景継へ尋ねた。
「林道殿、そなたに預けられた五千はどこへ置くつもりなのだ。正面へ加えるなら、早めに場所を決めておいた方がよかろう」
「正面には置きません。それどころか、五千を一か所へ集めて使うつもりもありません」
景継が地図へ複数の駒を置き始めると、家康は明らかに怪訝そうな表情を浮かべた。
最初に千五百。
別の場所へ千。
さらに八百。
七百。
そして残る兵も、予備として一か所へ固めるのではなく、いくつかの役割に分けて配置する。
地図の上に散らばった景継の部隊を見て、家康は腕を組んだ。
「いささか分けすぎではないか。武田が一か所へ兵を集中させれば、各個に破られる危険があるぞ」
「もちろん、その危険はあります。でも五千を一つにまとめれば、私の五千は一度に一つのことしかできません」
景継は地図上の道を指でなぞった。
「武田が正面から来るなら、そこには信長様と家康様の主力があります。私の五千まで正面へ並べる必要はありません。それより私は、武田が正面以外を選んだ時に使える兵を持っておきたい」
信長は黙って景継の配置を見ていた。
景継はさらに説明を続ける。
「ここへ千五百を置けば、この道を武田が使う時には必ずこちらを意識します。こちらの千は林沿いを押さえる。この八百は別の進路を見る。完全に道を塞ぐ必要はありません。そこに敵兵がいると分かるだけで、勝頼殿は考えなければならなくなります」
家康が地図を見ながら問い返した。
「それなら最終的には、勝頼をどこへ追い込むつもりなのだ?」
「どこにも追い込みません。最後にどこを選ぶのかは、勝頼殿自身に決めてもらいます」
家康の視線が景継へ向いた。
「それでは策にならぬのではないか?」
「以前の私なら、そう考えたかもしれません。でも相手が必ず自分の考えた通りに動くことを前提にした策は、その一つが外れただけで全部が崩れます」
景継は地図上の武田軍の駒を見つめた。
「私は勝頼殿が何を選ぶのかを当てたいわけではありません。勝頼殿がどこへ動いても、その時にこちらが次の手を選べる状態を作りたいんです」
信長がそこで初めて口を開いた。
「金ヶ崎で随分と懲りたようだな」
「思い出したくないくらいには懲りました。自分の考え通りに人が動くと思うのは、もうやめました」
「ならば五千は好きに使え。俺が預けた以上、その五千をどう動かすかはお前が決めればいい」
信長の言葉を聞いて、景継は少しだけ表情を変えた。
五千はお前の兵だ。
以前なら、その言葉に戸惑っていたかもしれない。
だが今は違う。
五千人の命を預かる重さも、少しずつ理解し始めている。
「分かりました。それなら遠慮なく使わせてもらいます。ただし、途中で変な配置だと言って取り上げないでくださいね」
信長が笑い、家康もわずかに表情を緩めた。
こうして景継の五千は、織田・徳川の主力とは異なる形で長篠の戦場へ散っていった。
◇◇◇
同じ頃、武田勝頼の陣にも織田・徳川軍の情報が集まり始めていた。
信長が大量の鉄砲を用意している。
馬防柵を築いている。
徳川軍もすでに合流している。
それらの報告を勝頼は黙って聞いていた。
織田信長も徳川家康も、決して侮れる相手ではない。
だが勝頼には、退きたくない理由があった。
父が死んでから、何度その名と比べられたか分からない。
信玄ならどうした。
信玄なら勝った。
信玄なら、このような判断はしなかった。
しかし今、武田家を率いているのは死んだ父ではない。
武田勝頼だった。
「ほかに変わった動きはないのか。信長が正面を固めていることなど、見れば分かる話だろう」
勝頼が尋ねると、一人の家臣が少し迷ってから地図を差し出した。
「織田軍の一部に、妙な動きをしている部隊がございます。林道景継という若い将が率いている五千にございます」
その名前を聞いた瞬間、勝頼の表情がわずかに変わった。
林道景継。
以前から武田側にも名前が届いている。
信長の近くにいる若者であり、正面から敵を打ち破るより、相手が嫌がる場所へ先に手を伸ばすことを好むという。
そして父・信玄も、生前にその名を気にしていた。
「その五千がどうした?」
「一か所におりませぬ。千五百、千、八百といった具合に、いくつもの部隊へ分かれております」
「配置を地図へ置いてみろ」
勝頼の命令を受け、家臣たちが確認できた範囲で景継軍の位置へ駒を置いていく。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
さらに四つ目。
最初は無秩序に散らしているだけにも見えた。
家臣の一人が地図を見ながら鼻で笑った。
「初めて五千もの兵を預けられたと聞いております。兵を扱い切れず、あちらこちらへ置いているだけではございませぬか」
勝頼は答えなかった。
地図を見続けた。
本当にそうなのか。
五千を扱い切れない若造が、偶然これほど都合よく街道や林、川沿いに兵を置くのか。
勝頼は一つずつ位置を確認した。
この道を使えば、景継の千五百がいる。
別の道へ回れば、今度は千。
川沿いへ出ようとすれば、そこにも部隊が置かれている。
そして正面へ進めば、信長と家康の主力が待っている。
完全に塞いでいるわけではない。
どこへでも行ける。
しかし、どこへ行っても何かがいる。
勝頼はしばらく地図を見た後、ようやく小さく笑った。
「なるほど。林道景継という男は、我らの進む場所を当てようとしているのではないらしい」
「では、何を狙っているのでございます?」
「我らに好きな場所で戦わせたくないのだろう。こちらが動くたびに小さな障害を置き、選べる道を減らしている」
家臣たちの表情が変わった。
しかし勝頼は、そこで恐れるのではなく別の場所を見た。
景継の部隊の一つ。
八百。
他の部隊との間隔が少し開いている。
そこだけを見れば、孤立しているようにも見える。
「林道景継はこちらに道を選ばせようとしている。しかし、用意された道の中から選ぶ必要などない」
勝頼の指が八百の部隊を示した。
「道が邪魔なら、その道を守っている兵を潰せばいい。林道がこちらの動きを縛ろうとするなら、その縄を一本切ってやればよい」
「この八百を攻めるのでございますか?」
「そうだ。しかも中途半端な兵は出さぬ。相手が支えきれないだけの兵をぶつけ、一気に穴を開ける」
勝頼の目から、先ほどまでの迷いが消えていた。
父ならどうするのか。
そんなことは考えない。
景継が作った戦場を壊す。
自分の手で。
武田勝頼として。
◇◇◇
翌朝、景継のもとへ一騎の伝令が駆け込んできた。
馬から飛び降りた男は息を整える暇もなく、武田軍の一部が大きく動き始めたことを報告した。
景継はすぐに地図を開かせた。
「武田軍はどこへ向かっていますか。正面ではなく、こちらの部隊を狙っているのであれば場所を正確に教えてください」
伝令が指した先を見て、景継の表情が変わった。
八百。
自分が配置した部隊の一つだった。
武田は道を選ばなかった。
道を塞いでいる景継軍そのものを排除しようとしている。
弥兵衛が地図を見ながら、少し緊張した声で尋ねた。
「若様、こちらの意図を読まれたのではございませんか。このままでは八百の部隊へ武田の兵が集中いたします」
「そうみたいですね。勝頼殿はこちらが用意した選択肢から選ぶつもりがない。邪魔なものを壊して、自分で新しい道を作ろうとしているのでしょう」
景継は地図から目を離さなかった。
不思議と焦りはなかった。
むしろ、胸の奥にあった一つの迷いが消えていく感覚があった。
これまで勝頼を見るたびに、どうしても信玄と比べていた。
信玄ならどうする。
信玄ならこちらの策をどう読む。
勝頼は父親ほどの将なのか。
しかし、もうその必要はない。
「弥兵衛、私が間違っていました。勝頼殿を見るのに、信玄殿を物差しにする必要なんて最初からなかったんです」
「それほどの相手なのでございますか?」
「少なくとも、こちらの策を見て自分で壊し方を考えるくらいには強いですよ。だったら武田信玄の息子ではなく、武田勝頼という一人の将として戦わなければ失礼でしょう」
景継は八百の部隊を示す駒へ手を伸ばした。
ここを守る方法はいくつもある。
援軍を送ることもできる。
早めに退かせることもできる。
逆に、別の場所から武田軍の側面へ出ることもできる。
だが景継が最初に考えたのは、八百を守り切ることではなかった。
もし勝頼がここを破ったら、その次にどこへ行くのか。
景継の視線が地図の上を動いた。
八百の部隊。
そこへ集中する武田軍。
突破した後に開く場所。
さらにその先にある信長と家康の主力。
そして別の位置に置いている景継の部隊。
一つずつが、頭の中でつながっていく。
「八百の部隊へ伝令を出してください。無理にその場所を守り切る必要はないと伝えます」
弥兵衛が驚いて景継を見た。
「退却させるのでございますか?」
「最初から退くわけではありません。武田と戦ってもらいます。ただし、勝つことを目的にしないよう伝えてください。部隊を壊される前に少しずつ位置を下げ、武田が前へ出るなら無理に止めない」
「それでは、勝頼殿に道を開けることになります」
「開けさせればいいんです。勝頼殿がこちらの配置を壊して道を作りたいというのなら、その道を作ってもらいましょう」
景継は地図上の八百の駒を少し後ろへ動かした。
その瞬間、今まで離れて見えていた複数の部隊が、別の形でつながった。
弥兵衛もそれに気づき、地図へ顔を近づけた。
「まさか若様、勝頼殿をここまで入れるおつもりなのでございますか?」
「入ってくるかどうかは勝頼殿が決めます。私はもう、相手が必ずこうするとは考えません」
景継は静かに答えた。
「八百を破ったところで止まるなら、それに合わせます。さらに前へ出るなら、その時は前へ出た武田を相手にする。別の方向へ向きを変えるなら、そちらに置いた兵を使えばいい。どれを選ぶかは勝頼殿の自由です」
「それでも、かなり危険ではございませんか?」
「危険ですよ。武田と戦っているんですから、安全な策なんてありません」
景継はそう言って、地図の上にある勝頼の駒を見つめた。
自分の思い通りに相手を動かそうとは思わない。
勝頼が何を選ぶのかも決めつけない。
それでも、相手が選んだ後にこちらが次の手を打てるようにしておく。
金ヶ崎で失敗した景継が辿り着いた、今の戦い方だった。
「勝頼殿が私の作った戦場を壊すというのなら、それでも構いません。壊された後の戦場で、もう一度考えればいいだけです」
景継は立ち上がると、外へ視線を向けた。
遠くから戦の始まりを告げる音が聞こえ始めている。
武田勝頼が動いた。
景継も動く。
どちらか一方の思惑だけで進む戦ではない。
互いに相手の策を見て、壊し、さらに次の手を選ぶ戦いになる。
景継は腰の刀へ手を置きながら、静かに息を吐いた。
「勝頼殿、ここからはお互いに思い通りにはいかないでしょうね。それでも最後に立っていた方が勝ちです」
八百の景継軍へ、武田の精鋭が迫る。
信長の正面には鉄砲隊と馬防柵が並び、その周囲には家康の軍勢が構えている。
さらに戦場の各所には、景継が細かく分けた五千の兵が散らばっていた。
勝頼は景継の配置を壊そうとしている。
景継は、それを無理に止めようとはしない。
二人の将が互いの存在を意識したまま、長篠の戦場はついに動き始めた。
そして翌日。
この地で武田の名を支えてきた歴戦の将たちと、天下へ向かう織田・徳川の軍勢が激突することになる。
景継にとっても、これは初めて自分の五千を率いて挑む大戦だった。
勝頼が開こうとしている突破口が武田の勝利への道になるのか、それとも武田軍そのものを深みへ導く道になるのか。
その答えは、まだ誰にも分からなかった。




