第六十九話 二つを相手にしない
金ヶ崎から戻った織田軍には、勝って帰った軍にはない重苦しさが残っていた。
朝倉を討つために越前へ入りながら、背後を任せていた浅井長政の離反によって退路を断たれ、あと少し判断が遅れていれば信長自身さえ討たれていたかもしれない。生きて帰れたことを喜ぶ者はいたが、それ以上に強かったのは、浅井への怒りだった。
とりわけ信長の怒りは深かった。
長政はただの敵ではない。信長は妹のお市を嫁がせ、北近江を任せ、朝倉攻めに際しても背後を預けていた。その浅井が、織田軍が越前の奥深くまで入った最も危険な瞬間に離反したのである。
清洲へ戻って間もなく開かれた評定でも、話題は最初から浅井と朝倉への報復だった。
「兵を整え次第、近江へ入る」
信長が地図を見ながら言った。
「まず浅井を叩く。その後、越前へ入り朝倉を潰す。二度と背後を狙うことができぬようにな」
勝家が大きく頷いた。
「それがよろしいかと。長政めには、金ヶ崎の借りを返さねばなりませぬ」
信盛も反対しなかった。
金ヶ崎から生還した直後なのだから、一度兵を休ませる必要はある。それでも浅井を放置するという意見は、家中のどこからも出ていなかった。
ただ一人、景継だけが黙っていた。
景継は目の前の地図を見ながら、金ヶ崎で何が起きたのかを何度も頭の中で組み立て直していた。
浅井長政が裏切った。
その事実だけを見れば、敗因は簡単に説明できる。
しかし、それだけで終わらせてしまえば、次も同じ失敗をする。
長政が裏切らなければ勝てた。長政の決断さえ読めていれば危険はなかった。そう考えることは簡単だったが、景継にはそれこそが最も危険な考えに思えた。
問題は、浅井長政という一人の人間を読み違えたことではない。
朝倉を攻めている最中に浅井が敵へ回っただけで、織田軍全体が生死の境まで追い込まれる状況を許していたこと。
そこに、本当の問題がある。
信長が景継の沈黙に気づいた。
「景継」
「はい」
「何を考えている」
景継は地図から顔を上げた。
「一つだけ、やめた方がいいと思っていることがあります」
勝家が眉を寄せる。
「何だ」
「浅井と朝倉を、二つとも敵だと思って戦うことです」
評定の間が静かになった。
勝家が怪訝そうな顔で景継を見る。
「何を言っておる。どちらも敵ではないか」
「敵です。それは間違いありません」
景継は否定しなかった。
「ですが、敵が二つあるからといって、二つを同時に相手にする必要はありません。むしろ二つあるなら、一つずつ相手にできる状況を作るべきです」
その言葉を聞いて、信長の目が少し細くなった。
景継は立ち上がると地図の前へ移動した。近江、越前、そして織田の領国。その位置を確認するように、ゆっくりと指を動かしていく。
「金ヶ崎で私たちが追い詰められた理由は、浅井が裏切ったからだけではありません。私たちが朝倉を攻めている時に浅井が動いたことで、前にも後ろにも敵がいる状態になった。つまり、浅井と朝倉を同時に相手にすることになったからです」
勝家が答える。
「だから今度は浅井から潰すのであろう。先ほど殿もそう申されたではないか」
「はい。ただし、その間に朝倉が浅井を助けに来れば、結局は同じです」
景継の指が越前で止まった。
「だから浅井を攻める前に、朝倉が簡単には動けない状況を作ります」
長秀が景継を見る。
「朝倉が黙って見ていると思うか?」
「いいえ。むしろ浅井が危なくなれば、朝倉は助けようとする可能性が高いと思っています」
景継はすぐに答えた。
その言葉に何人かが顔を上げた。
「ならば、どうやって止める」
長秀が続けて尋ねる。
景継は少し考えてから答えた。
「止める必要はありません。朝倉が動いても動かなくても、こちらにとって都合のいい形にしておけばいいんです」
「どういう意味だ」
今度は信長が尋ねた。
景継は浅井と朝倉の駒を一つずつ指した。
「朝倉が浅井を助けないなら、その間に織田の全力で浅井を潰します。逆に朝倉が浅井を助けるために大軍を越前から出すなら、今度は越前が薄くなる。そこを別の者に狙わせます」
勝家が腕を組んだ。
「別の者?」
「朝倉が弱れば動く者は、周囲にいるはずです。越前の中にも、朝倉家のためなら何があっても最後まで戦うという者ばかりではないでしょう。こちらからも事前に手を入れておけば、朝倉は簡単に国を空けられなくなります」
金ヶ崎以前の景継なら、朝倉義景がどう判断するかを読もうとしたかもしれない。
浅井との関係を重んじるなら援軍を出す。
越前を守ることを優先するなら出さない。
どちらを選ぶ可能性が高いのかを考え、そこへ策を合わせていた。
だが、もうそのやり方だけには頼らない。
人の心は変わる。
状況も変わる。
そして自分がどれほど考えても、最後に決断するのは相手なのだ。
ならば、相手がどちらを選ぶかを当てる必要などない。
どちらを選んでも、自分に次の手が残るようにしておけばいい。
それが金ヶ崎で景継が得た答えだった。
「信長様」
景継は言った。
「朝倉へ使者を出させてください」
勝家が目を見開いた。
「朝倉へ使者だと?」
「はい」
「何を伝える」
景継は地図上の越前を指した。
「浅井を助けなければ、織田は越前へ入りません。まず、それを朝倉義景様へ伝えます」
今度こそ、部屋の空気が完全に止まった。
◇◇◇
最初に声を上げたのは勝家だった。
「待て。それでは朝倉を許すと言っているようなものではないか」
「許しません」
景継は即座に答えた。
「ならばなぜ、そのような約束をする。金ヶ崎で我らがどれほど危険な目に遭ったのか、お前が一番よく分かっているだろう」
「分かっています。だからこそです」
景継は勝家から視線を外さなかった。
「私たちは今、浅井と朝倉という二つの敵を抱えています。二つを一度に潰そうとすれば、また金ヶ崎と同じ状況になる可能性がある。ならば一つになるまで、二つとは戦わなければいいんです」
「朝倉が約束を守る保証などないぞ」
「ありません。だから朝倉との約束そのものを信じるつもりはありません」
あまりにもあっさり認められ、勝家が言葉を止めた。
景継は地図の上に置かれた二つの駒を見ながら、さらに説明を続けた。
「朝倉が浅井を救援しないなら、その間に浅井を潰します。それで浅井と朝倉のうち一つが消える。朝倉が約束を破って浅井救援へ来るなら、越前から相当な兵を出す必要があります。その時はこちらも約束に縛られません。越前へ兵を向けてもいいし、朝倉に不満を持つ者を動かしてもいい」
長秀が目を細めた。
「つまり朝倉に、浅井を救うか、自分の国を守るかを選ばせるのか」
「そうです。ただし、選ばせるだけでは足りません」
景継は越前周辺へいくつか駒を置いた。
「本当に越前が危なくなる可能性を作っておきます。朝倉義景様が『織田の脅しだ』と思える程度では意味がありません。浅井へ大軍を送れば、実際に何かが起こるかもしれない。そう思わせる必要があります」
信盛が地図を覗き込む。
「しかし、周囲の者が本当に動くか?」
「全員が動く必要はありません。一人でも二人でも、朝倉が留守になった時に動く可能性がある者がいればいい。それを義景様が知れば、越前へ残す兵を増やさなければならなくなります」
「そうなれば、浅井へ送れる援軍が減る」
長秀が呟いた。
景継が頷く。
「援軍が半分になれば、それだけでも十分です。出発が十日遅れるだけでもいい。私たちが欲しいのは、朝倉が永遠に動かないことではありません」
景継は浅井の駒へ指を置いた。
「浅井を潰すための時間です」
信長は黙って景継を見ていた。
「それだけか」
不意に信長が尋ねた。
景継が振り返る。
「いえ」
「まだあるのだろう」
景継は小さく笑った。
「徳川殿にも協力を求めます」
「家康を使うか」
「はい。ただし、浅井と正面から戦ってもらうためだけではありません。織田と徳川が最初から浅井一つを狙っていると分からせるためです」
景継の指が近江へ移った。
「浅井から見れば、織田だけなら戦えると思うかもしれません。朝倉が援軍に来れば挟めるとも考えるでしょう。ですが、織田と徳川が最初から北近江だけへ兵を集め、しかも朝倉がすぐに来られるか分からないとなれば、長政様は簡単には動けません」
どこで迎え撃つのか。
小谷城にどれだけ兵を残すのか。
朝倉を待つのか。
待たずに戦うのか。
領内のどこを捨て、どこを守るのか。
選択肢が増えれば、判断しなければならないことも増える。
「浅井の強みは、朝倉がいることです。そして朝倉の強みは、浅井が近江で織田を止めてくれることにある。ならば、城や兵を攻める前に、その関係を攻めます」
長秀が小さく息を吐いた。
「二つの家を分けるのか」
「完全に仲違いさせる必要はありません。互いに助けたいと思っていても、助けられなければ同じです」
景継の言葉を聞き、信長の口元がわずかに上がった。
「面白い」
勝家が信長を見る。
「殿」
「景継の策でやる。朝倉へ使者を出せ」
信長は迷わず言い切った。
「ただし景継。一つだけ覚えておけ。朝倉が浅井を助けに出た時、本当に越前を突けるようにしておけ。脅すだけでは義景は止まらぬぞ」
「もちろんです」
景継は頷いた。
「脅すつもりはありません。義景様自身に選んでもらいます。浅井を救うために越前を危険に晒すのか、それとも越前を守るために浅井が追い詰められるのを見ているのか。そのどちらを選んでも、こちらには次の手があります」
信長は景継をしばらく見つめた後、低く笑った。
「金ヶ崎へ行く前のお前なら、義景がどちらを選ぶか考えていたな」
景継は少しだけ黙った。
そして認めた。
「はい」
「今は考えぬのか」
「考えます。ただ、そこに賭けません」
景継の答えを聞き、信長はそれ以上何も言わなかった。
◇◇◇
数日後、景継は岐阜の屋敷で何通もの書状を前にしていた。
朝倉へ使者を送るだけでは足りない。それどころか、義景へ送る書状など今回の策の中では入口にすぎなかった。
朝倉義景が本当に恐れるのは、織田から「越前へ攻め込む」と言われることではない。浅井救援のために兵を出した結果、本当に越前で何かが起きることだった。
ならば、その危険を実在させなければならない。
景継は藤吉郎を呼んだ。
「忙しくなりますよ」
「若様がそうおっしゃる時は、たいてい本当に忙しくなりますな」
藤吉郎が苦笑した。
「今度は、どこへ行けばよろしいので?」
「一か所じゃありません」
景継は机の上に置いていた数通の書状を差し出した。
「近江北部、それから越前との境に近い者たちです。朝倉家に不満を持っている者や、今の朝倉家と距離を置いている者がいれば、その人たちにも会ってください。ただし、今すぐ織田につけとは言わないでください」
藤吉郎が書状を受け取った。
「では、何と話せば?」
「一つだけ聞いてください。もし朝倉義景様が大軍を率いて越前を離れたら、その人たちはどうするつもりなのか、と」
藤吉郎は少し考えた。
「それだけでございますか」
「それだけです。答えを出してもらう必要もありません」
景継は笑った。
「むしろ、今は決めなくていいと伝えてください」
藤吉郎の目が少し細くなった。
「なるほど。決断させるのではなく、考えさせるのでございますな」
「はい。人は選択肢が一つしかないと思っている間は、その道を疑いません。でも別の道があると知った瞬間から、本当に今のままでいいのか考え始めます」
浅井につくのか。
朝倉につくのか。
織田につくのか。
それとも中立を保つのか。
今すぐ答えを求めれば、相手は警戒する。
だから答えは求めない。
ただ、別の未来が存在することだけを教える。
岩倉でも、美濃でも、景継は人間が迷い始める瞬間を何度も見てきた。
だが今回は、それをさらに大きな規模で使おうとしている。
一人の国人を寝返らせるのではない。
朝倉義景が越前を離れた時、その後に何が起こるのかを国全体に考えさせる。
そして、その噂が義景本人の耳へ入ればいい。
「それから藤吉郎さん。この動きは、隠しすぎないでください」
藤吉郎が驚いた。
「隠さないので?」
「全部見せる必要はありません。でも、朝倉の耳に入らなければ意味がないんです」
そこで藤吉郎も景継の意図を理解した。
「調略が行われていること自体を、朝倉に気づかせるのでございますな」
「そうです。ただし、こちらから『越前を崩します』と言ってはいけません。それではただの脅しです。朝倉自身に調べさせて、朝倉自身に危険を見つけてもらいます」
人から言われた危険なら、虚勢だと切り捨てることもできる。
だが、自分の家臣が調べ、自分の間者が持ち帰った情報なら話は違う。
自分で見つけた危険ほど、人は無視できない。
「承知しました」
藤吉郎が立ち上がった。
その背中を見送りながら、景継は別の書状を手に取った。
徳川家康へ送るものだった。
金ヶ崎で浅井の離反を受けた以上、次の戦では徳川の力も重要になる。しかし景継が家康に求めているのは、単純な兵数だけではなかった。
浅井長政に考えさせるためだった。
織田だけなら戦えるかもしれない。
朝倉が来れば挟めるかもしれない。
そう考える余地を一つずつ削っていく。
織田と徳川が揃って浅井だけへ向かっていると知れば、長政は必ず考えなければならなくなる。
どこで迎え撃つのか。
朝倉を待つのか。
小谷へ籠るのか。
野戦へ出るのか。
そして、どれを選んでも景継には次の手がある。
以前の自分なら、その中から長政がどれを選ぶのかを読もうとしただろう。
今は違う。
長政がどれを選んでもいい。
自分が最後に勝てる形を先に作る。
景継は書状を閉じると、静かに息を吐いた。
◇◇◇
やがて景継の言葉を携えた使者が、越前へ入った。
朝倉義景の前で読み上げられた内容は、驚くほど単純なものだった。
織田家は、浅井家との間に生じた問題を解決する。
朝倉家がこれに介入しない限り、織田軍は越前へ兵を入れない。
しかし朝倉軍が近江へ入った場合、その約束は失われる。
それだけだった。
「……何だ、これは」
義景の声には怒りが混じっていた。
周囲の家臣たちも表情を険しくしている。
「我らに浅井を見捨てろと申すか」
使者は頭を下げた。
「そのようには申しておりませぬ」
「同じことであろう!」
義景の声が広間に響いた。
「浅井が織田に攻められているのを黙って見ていろ。その代わり越前には入らぬと言っているのだ。これを見捨てろと言わずして何と言う」
「景継様は、浅井家をお救いになることを禁じてはおられませぬ」
義景の顔が変わった。
「ならば何だ」
使者は景継から言われた通りの言葉を、そのまま口にした。
「お救いになるのであれば、どうぞ、と」
その言葉が、かえって義景を黙らせた。
来るなと言われれば、行くという選択肢がある。
浅井を助ければ越前へ攻めると脅されれば、それを虚勢だと考えることもできる。
だが景継は、助けるなとは言っていない。
助けたければ助ければいい。
ただし、その瞬間から越前も戦場になる。
そう告げている。
「脅しておるのか」
義景が低い声で尋ねた。
「判断は、義景様にお任せすると申しておりました」
「林道景継がか」
「はい」
義景は黙った。
金ヶ崎で、あの若者は危うく死ぬところだった。
浅井の離反を読み切れず、織田軍とともに逃げ帰った。
その男が戻って間もなく、今度は朝倉へ選べと言っている。
「生意気な若造め」
義景は吐き捨てた。
「我らが浅井を見捨てるとでも思っているのか」
その場にいた家臣の一人が答える。
「すぐに兵を出し、浅井殿と合流すべきかと。織田が近江へ入った後なら、再び金ヶ崎と同じ形を作ることもできましょう」
義景も、その考えには理があると思った。
景継が何を企んでいようと、浅井と朝倉が再び同時に動けば、織田は簡単には北近江を取れない。
ところが、その日の夕刻だった。
別の報告が届いた。
「申し上げます」
「何だ」
「近江北部にて、織田方の者と思われる者たちが、複数の国人衆と接触しております」
義景の顔から、わずかに怒りが消えた。
「何を話しておる」
「詳しくは分かりませぬ。ただ、朝倉様が越前を留守にした場合について尋ねているとの話がございます」
義景の目が細くなった。
「どういう意味だ」
「朝倉様が大軍を率いて近江へ向かわれた場合、今後どうするつもりなのかと。そのような問いを、複数の者へ投げているようにございます」
広間にいた家臣たちの表情が変わった。
先ほどまで、景継から届いた書状はただの脅しにも見えた。
だが、すでに別の場所で人が動いている。
しかも織田へ寝返れと迫っているわけではない。
朝倉が留守になった後について、考えさせているだけ。
それだけだからこそ、誰がどこまで景継と話をしているのか分からない。
「いつからだ」
義景が尋ねた。
報告役の男が顔を上げる。
「は?」
「織田は、いつから動いていたと聞いておる!」
「正確には分かりませぬ。ただ、景継殿の使者がこちらへ入るより前から、何人かが動いていた可能性がございます」
義景は立ち上がった。
景継から書状が届いたから、織田が動き始めたのではない。
書状が届いた時には、すでに別の場所で準備が始まっていた。
つまり景継は、朝倉が浅井を助けることも最初から考えた上で、この書状を送ってきている。
「浅井へ兵を出せば……」
義景が呟いた。
誰かが越前で動くかもしれない。
織田が侵攻してくるかもしれない。
何も起こらないかもしれない。
だが、何も起こらないという保証もない。
その不確かさこそが、義景の判断を鈍らせた。
「殿、浅井殿への援軍はいかがいたします」
家臣に尋ねられ、義景はすぐには答えられなかった。
出さないとは言えない。
浅井との関係を考えれば、見捨てるわけにはいかない。
しかし大軍を出せば、本当に越前が危なくなるかもしれない。
「……少し待て」
その一言を口にした瞬間。
景継が欲しがっていたものを、義景は自ら差し出していた。
時間だった。
◇◇◇
同じ頃、小谷城にも織田の動きについて次々と知らせが届いていた。
浅井長政は、家臣から差し出された報告を読み終えると、しばらく何も言わなかった。
織田が兵を集めている。
それ自体は予想していた。
金ヶ崎であれだけのことをしたのだから、信長が報復に来ないはずがない。
だが、長政には気になることがあった。
「織田は、どこへ向かう」
「まだ全軍の動きは分かっておりませぬ。ただ、越前へ向かう様子は薄く、北近江へ兵を集めているとの報告が増えております」
「朝倉ではなく、我らか」
「おそらくは」
長政は黙った。
金ヶ崎の直後である。
信長が最も憎んでいるのが浅井だということは、長政自身が誰より理解している。
ならば、織田がこちらへ来ること自体は不思議ではない。
「朝倉殿へ使者を」
「すでに送っております」
「返事は?」
「まだございませぬ」
長政は立ち上がり、小谷城から南の方角を見た。
景継。
金ヶ崎で最後まで自分を信じようとした男。
そして、その結果として死にかけた男。
長政は、景継が次に何をしてくるのかを考えた。
怒りに任せて攻めてくるような男ではない。
だからこそ嫌だった。
「朝倉殿が来れば戦える」
長政が呟いた。
織田だけなら、北近江の地形を利用して戦う方法はある。
徳川まで加われば厳しくなるが、それでも朝倉が北から兵を出せば織田は一方向だけを見ていられなくなる。
金ヶ崎ほど完全な挟撃にはならなくても、織田の兵力を分散させることはできる。
そう考えていた。
しかし翌日、越前から戻ってきた使者が一通の書状を差し出した。
長政はすぐに開いた。
朝倉義景は、援軍を拒否してはいなかった。
浅井を見捨てるとも書いていない。
だが、すぐに兵を出すとも書いていなかった。
越前周辺で不穏な動きがある。
織田が何人もの国人へ接触している。
まず国内を確認し、そのうえで援軍の規模と時期を決めたい。
書かれているのは、そのような内容だった。
長政は最後まで読むと、ゆっくり書状を置いた。
「……そういうことか」
家臣が顔を上げた。
「殿?」
長政は答えず、地図の前へ移動した。
織田。
浅井。
朝倉。
三つの位置を見ながら、金ヶ崎から今日までの景継の動きを頭の中で並べ直していく。
そして、ようやく分かった。
「景継は、我らを攻める前に朝倉殿を止めたのか」
「止めた?」
「兵で道を塞いだわけではない。朝倉殿が兵を出せば越前が危ないと思わせたのだ」
長政の声が次第に低くなっていった。
「朝倉殿は我らを見捨てたわけではない。助けたいと思っておられるだろう。だが、助けようとすれば自分の国が危なくなる。それを考えなければならなくなった」
家臣の顔が変わる。
「では、朝倉の援軍は……」
「来るかもしれぬ」
長政は答えた。
「だが、いつ来るか分からない。どれほどの兵で来るのかも分からない。それこそが景継の狙いだ」
長政はそこで初めて、金ヶ崎の時との違いに気づいた。
あの時の景継は、自分を読んだ。
長政なら織田との約束を守る。
長政なら朝倉との関係より、これからの浅井家を選ぶ。
そう考えた。
そして読み違えた。
だが今度は違う。
景継は朝倉義景がどうするかを決めつけていない。
援軍を出さなければ浅井を攻める。
援軍を出せば越前へ別の手を打つ。
どちらを選んでも次がある。
「殿、朝倉殿を待ちますか」
家臣が尋ねた。
長政はすぐに首を横に振った。
「待ってはいけない」
「では、こちらから兵を?」
「それも簡単にはできぬ」
長政は苦い表情を浮かべた。
織田と徳川がどれほどの兵を集めるのか分からない。
小谷を空けるわけにもいかない。
だからといって城に籠れば、周辺の城や国人を一つずつ削られる可能性がある。
朝倉を待てば、その時間を織田に使われる。
待たずに出れば、織田と徳川を浅井だけで受けなければならない。
そこで長政は気づいた。
自分はすでに、どこで織田と戦うかを考えていない。
景継が用意した選択肢の中で、どれを選べば最も傷が浅いのかを考え始めている。
「林道景継……」
長政は地図を見ながら、その名を小さく口にした。
「金ヶ崎で、何かを変えたな」
◇◇◇
岐阜城へ最初の報告が届いたのは、その翌日のことだった。
藤吉郎からの知らせによれば、越前周辺では景継の想定通り、朝倉が大軍を近江へ出した場合について話す者が増えているという。
実際に織田へ寝返ると約束した者は、まだほとんどいない。
それでよかった。
景継が欲しいのは臣従の誓紙ではない。
朝倉義景が越前を空けることを怖がる理由だった。
さらに朝倉から浅井へ送られる援軍の準備が、当初考えられていたより遅れているという知らせも入った。
徳川家康からも返事が届いた。
織田が浅井へ向かうのであれば協力する。
これで必要なものは揃った。
信長は報告を聞き終えると、景継へ尋ねた。
「朝倉は止まったか」
「今のところは、すぐに大軍を出す様子はありません」
「ならば成功か」
景継は首を横に振った。
「まだです。明日には考えを変えるかもしれませんし、浅井からさらに強く援軍を求められれば、義景様が兵を出す可能性もあります」
勝家が横から口を挟んだ。
「ならば、朝倉が動かぬことを確認してから浅井へ向かった方がよいのではないか」
「それでは遅いです」
景継はすぐに答えた。
「朝倉を完全に止めることが目的ではありません。今、義景様は迷っています。浅井を助けるべきか、越前を守るべきか。その迷っている時間を、私たちが使うんです」
「もし途中で朝倉が動いたらどうする」
「その時は、用意している別の手を使います。越前へ圧力をかけ、朝倉軍が近江だけを見ていられない状況にします。だから今は、朝倉が動くかどうかを待つ必要はありません」
景継はそう言うと、地図の前へ進んだ。
これまで何度も見てきた越前から視線を外し、北近江へ目を向ける。
小谷城。
その周囲に広がる浅井領。
そして、そこにいる浅井長政。
「信長様」
「何だ」
「浅井を攻めましょう」
信長の目が細くなる。
「朝倉が動く前にか」
景継は少しだけ考え、首を横に振った。
「違います。朝倉が動くかどうかを決める前に、浅井が後戻りできないところまで進みます」
信長はしばらく景継を見ていた。
その意味を理解すると、ゆっくり笑った。
「兵を出す」
「はい」
「家康にも伝えろ。今度は朝倉を見る必要はない。まず浅井だけを見る」
景継は静かに頭を下げた。
これから始まる戦いで、浅井長政がどのような策を使うのかは分からない。
小谷城へ籠るかもしれない。
野戦を選ぶかもしれない。
朝倉が来るまで時間を稼ごうとするかもしれない。
逆に、自ら大勝負へ出る可能性もある。
朝倉義景についても同じだった。
越前に留まるかもしれない。
浅井との関係を優先して援軍を出すかもしれない。
景継には、そのどちらも断言できなかった。
だが、それでよかった。
長政が籠城するなら、籠城した浅井を削る。
野戦へ出るなら、織田と徳川の兵力を集中させて迎える。
朝倉が動かなければ、その時間を使って浅井を潰す。
朝倉が動けば、越前へ向けて用意していた手を使い、義景に後ろを振り返らせる。
未来を一つに決めて、その未来が来ることを祈る必要はもうない。
相手がどの道を選んでも、その先にこちらの手を置いておけばいい。
金ヶ崎では、浅井と朝倉という二つの敵に挟まれた。
ならば今度は、最初から二つを相手にしなければいい。
景継は地図上に置かれた浅井と朝倉の駒を見比べ、その間へ静かに指を置いた。
「まず、切り離す」
誰に聞かせるでもなく、景継は呟いた。
そして浅井の駒だけを、織田側へ引き寄せるように動かした。
「その後、一つずつ終わらせます」
城を攻める前に、援軍を遠ざける。
兵を倒す前に、敵が頼りにしている関係を使えなくする。
そして戦う時には、二つの敵を一度に相手にするのではなく、織田の全力を一つだけへ向ける。
金ヶ崎で追い詰められた景継が選んだのは、より巧妙な退却方法でも、浅井の裏切りを見抜く方法でもなかった。
同じ状況そのものを、二度と作らせないことだった。
浅井長政は、まだ小谷城にいる。
朝倉義景も、まだ越前にいる。
どちらの家も滅びておらず、軍勢も城も残っている。
それでも景継は、すでに次の戦いが始まっていることを理解していた。
そしてその戦いで最初に奪われたものは、領地でも城でもなかった。
浅井長政が当然のように頼りにしていた、朝倉の援軍だった。
織田軍が北近江へ向けて動き始める。
今度の景継は、浅井長政が何を考えているのかを当てようとはしなかった。
長政が何を考え、どんな答えを出したとしても、その答えごと受け止められるだけの手を先に用意する。
それが、金ヶ崎から生きて帰った景継が選んだ、新しい戦い方だった。




