第六十八話 生きて帰るための戦
浅井長政が織田との盟約を破ったという知らせが届き、信長が撤退を決断した瞬間から、織田軍の陣は慌ただしく動き始めた。
だが景継が最初に考えたのは、朝倉軍をどう防ぐかではない。
まだ浅井の離反を知らない兵たちへ、何を伝えるかだった。
前には朝倉、後ろには昨日まで味方だった浅井。その事実が一気に広がれば、兵たちは包囲されたと思い、恐怖から勝手に逃げ始めるかもしれない。
景継は一度目の人生で、そうして崩れる軍を何度も見てきた。
「兵には、まだ浅井のことを詳しく伝えないでください」
集められた武将たちを前に、景継は告げた。
「朝倉方の動きに対応するため、一度南へ陣を移す。それだけでいいです。まず軍を動かします」
勝家が腕を組む。
「いずれ分かることだぞ」
「分かっています。でも、止まっている兵に逃げる理由を与えるのと、南へ動き始めてから知らせるのでは違います」
長秀が地図を見ながら尋ねた。
「荷駄はどうする。すべて運べば足が遅くなる」
「食糧、水、最低限の武器だけ。それ以外は捨てます」
「金になる物もか?」
「命より高い物があるなら持って帰ってください」
長秀がわずかに笑った。
「そんな物はないな」
「なら、迷う必要はありません」
黙って聞いていた信長が口を開く。
「景継」
「はい」
「殿は誰だ」
部屋の空気が変わった。
全軍を退かせる以上、最後尾で朝倉軍を止める者が必要になる。
最も死に近い役目だった。
「私が残ります」
「お前一人でどうする」
「一人ではやりません」
景継は武将たちを見回し、最後に一人へ視線を止めた。
「藤吉郎さん」
「……何となく、そうなる気はしておりました」
藤吉郎が嫌そうな顔をする。
「お願いします」
「殿というものは、もう少し出世してから任される仕事ではございませぬか?」
「生きて帰れば出世できると思いますよ」
「そこは信長様に確約していただきたいところですな!」
張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「それで、どう止めます?」
「一か所で粘りません。少し戦って止めたら退く。追ってきたら、別の場所でもう一度止めます」
「敵を倒すのではなく?」
「時間を買います」
景継は地図上の道を指した。
「今回の勝ちは、朝倉兵を何人倒したかでは決まりません。信長様と主力が生きて帰れば勝ちです」
勝家が顔をしかめる。
「戦場で勝とうとするなとは、お前くらいしか言わんな」
「今回は勝ち方が違うんです」
これは敵を倒すための戦ではない。
生きて帰るための戦だった。
◇◇◇
空が明るくなる前から、織田軍は南へ動き始めた。
先頭は信長の本隊。その後ろを長秀らが続く。荷駄は大幅に減らされ、撤退を遅らせる物資は置いていった。
兵たちは戸惑っていたが、隊列は崩れていない。
「若様」
弥兵衛が馬を寄せてきた。
「信長様の本隊、予定より早く進んでおります」
「そのまま行ってもらってください。浅井の位置は?」
「まだ新しい報告はございませぬ」
景継の眉がわずかに寄る。
「偵察を増やしてください。ただし深追いはさせないで。敵を見つけることより、見たものを持って帰る方が大事です」
「承知しました」
弥兵衛が離れていく。
景継は一度だけ北を振り返った。
昨日までは、あちらへ進むことしか考えていなかった。
今はすべてを捨てて退いている。
だが恥ではない。
退くべき時に退けず滅んだ者を、景継は知っていた。
「来ました!」
偵察兵が馬を飛ばしてくる。
「北です! 朝倉方がこちらを追っております!」
「勝家様へ。予定していた場所で一度受けます。ただし長く戦わないように」
使者が走った。
ここからは時間との戦いだった。
◇◇◇
朝倉軍の追撃は早かった。
景継が選んだのは、道幅が狭く、大軍が広がりにくい場所だった。
「弓!」
勝家の声が響く。
朝倉兵が迫る。
「放て!」
矢が降り注ぎ、先頭の兵が倒れる。
それでも朝倉軍は止まらない。
「槍!」
弓兵が下がり、槍兵が前へ出る。
両軍が激突した。
景継は後方から戦況を見ていた。
勝家の部隊は強い。このままなら押し返せる。
だからこそ、長居は危険だった。
「勝家様へ。もう退くように」
しばらくして使者が戻ってくる。
「まだ戦えるとのことでございます!」
景継は額へ手を当てた。
「戦えるかどうかを聞いたんじゃないんですけどね……」
弥兵衛が苦笑する。
「勝家様でございますから」
「知ってます」
景継は別の使者を呼んだ。
「今度は信長様の命令だと言ってください」
「信長様は、そのようなご命令を?」
「今、私が作りました」
「……よろしいので?」
「あとで私が怒られます。今は早く」
やがて勝家の部隊が退き始めた。
朝倉軍は追う。
だが次の場所で、織田軍は再び向きを変える。
戦う。
止める。
退く。
十分でも二十分でもいい。
その時間だけ、信長の本隊は遠ざかっていく。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、最も警戒していた知らせが届いた。
「浅井勢を確認!」
景継はすぐに地図を広げさせる。
「どこです!」
偵察兵が示した場所は、想定より近かった。
後ろには朝倉。前へ回り込もうとする浅井。
完全に挟まれれば終わる。
「信長様の本隊は?」
位置を確認した景継は、すぐに判断した。
信長はまだ抜けられる。
問題は後続だった。
「後続を二つに分けます。本道を進む部隊と、西へ迂回する部隊です」
弥兵衛が尋ねる。
「浅井が片方へ集中すれば?」
「その可能性はあります」
景継は本道を見た。
「旗を多く残せば、浅井は本道を主力だと考えて――」
そこで言葉が止まった。
また相手が自分の予想どおりに動くことを前提にしている。
長政は裏切らない。
そう読んで外したばかりだ。
「……違いますね」
「若様?」
「浅井がどちらへ来るかを当てる必要はありません」
景継は二本の道を指した。
「本道へ来れば迂回路が空く。迂回路へ来れば本道が空く。どちらを選ばれても、もう片方に道が残る形にします」
「浅井が何を選ぶかは読まれないので?」
「読みます。でも、当たることを前提にしない」
口にして、景継自身も腑に落ちた。
相手を読むことはやめない。
ただ、読みが外れただけで終わる策にはしない。
「……なるほど」
「何か分かられましたか?」
「少しだけ。今回の失敗を、次にどう使えばいいのか」
◇◇◇
夕方になっても朝倉軍の追撃は続いた。
信長の本隊が南へ進む間、景継と藤吉郎たちは朝倉軍を受け止め、退いてはまた止めることを繰り返していた。
「景継様!」
泥だらけの藤吉郎が馬を走らせてきた。
「何です?」
「話が違いますぞ!」
「何がです?」
「殿というものは、もう少し格好のいい仕事だと思っておりました!」
景継は思わず笑った。
「誰から聞いたんです?」
「物語では皆、格好よく敵を食い止めております!」
「現実は泥だらけですね」
「笑い事ではございませぬ!」
後ろの兵たちも疲れ切っている。
それでも隊列は残っていた。
「次の場所で、もう一度だけ止めます」
「またですか」
「嫌です?」
「嫌に決まっております!」
「でも、やってくれるでしょう?」
藤吉郎は一瞬黙り、やがて笑った。
「やりますとも!」
「お願いします」
藤吉郎は兵を率いて向きを変えた。
数年前まで身分も低かった男が、今では数百の兵を率いて朝倉軍へ向かっている。
人は変わる。
長政だけではない。
藤吉郎も、自分も変わってきた。
「弥兵衛」
「はい」
「私たちも行きます」
「若様。かなり危険にございます」
「知ってます。でも藤吉郎さんだけに任せたら、あとで何年も言われそうなので」
「それは間違いございませんな」
二人も馬を走らせた。
◇◇◇
日が傾いても戦いは続いた。
左が押されれば援軍を送る。右から回り込まれれば進路だけを塞ぎ、中央が崩れかければ一度下げる。
敵を追うな。
長く戦うな。
次の場所まで生きて退け。
景継の命令は一貫していた。
やがて使者が駆け込んでくる。
「景継様! 信長様の本隊、浅井勢をかわし南へ抜けたとのこと!」
「……本当ですか」
「はい! 信長様もご無事にございます!」
周囲から安堵の声が漏れた。
だが景継はすぐに首を振る。
「まだです。信長様は抜けた。でも私たちは残ってる」
藤吉郎が息を吐く。
「そうでしたな」
「もう時間を稼ぐ必要はありません。全軍、退きます。追いつかれた時だけ止めて、それ以外は前だけ見てください」
藤吉郎が笑った。
「やっと堂々と逃げられますか」
「はい。ここからは全力で逃げましょう」
◇◇◇
夜になっても織田軍は歩き続けた。
兵たちは疲れ切り、歩きながら眠りかける者までいる。
景継自身も身体の感覚が鈍くなっていた。
「若様」
弥兵衛が声をかける。
「少し休まれてはいかがです」
「皆が休める場所まで行ったら休みます」
「若様が倒れられれば困ります」
「その時は馬に縛ってでも運んでください」
「本当にやりますぞ」
「それは嫌ですね」
その時、前方から馬の音がした。
「待て! 味方だ!」
使者が駆け込んでくる。
「景継様! 信長様より知らせにございます! 京へ続く道を確保したとのこと!」
「信長様は?」
「ご無事にございます!」
藤吉郎が近くの岩へ腰を下ろした。
「……よかった」
景継も木へ背を預けた。
目を閉じると、小谷で向かい合った長政の顔が浮かぶ。
あの時、長政は本気で盟約を守るつもりだった。
そこだけは今も疑っていない。
「景継様」
藤吉郎が声をかけた。
「長政殿のことを考えておりますな」
「……分かります?」
「顔に書いてあります」
景継は小さく笑った。
「私、少し思い上がっていたのかもしれません」
藤吉郎は黙って続きを待つ。
「人を見れば、何を欲し、何を恐れているのか分かる。それが分かれば次の行動も読めると思っていました」
実際、それで岩倉でも美濃でも結果を出した。
「でも、その人の心が分かることと、明日も同じ答えを選ぶことは別なんですね」
「長政殿は、最初から景継様を騙していたわけではないと?」
「違うと思います。父や家臣、昔からの恩義、守る家……状況が変われば、人の答えも変わる」
藤吉郎が尋ねる。
「では、次からは人を信じませぬか?」
景継は首を横に振った。
「いいえ。信じます」
誰も信じなければ、誰にも何も任せられない。
「ただ、裏切られても死なないようにします」
藤吉郎は一瞬黙り、それから笑った。
「それはよい! なら景継様、まずは我らも生きて帰りましょう」
「そうですね」
今日、自分は読みを外した。
だが生きている。
ならば次がある。
◇◇◇
数日後、信長は無事に京へ戻り、遅れて景継たち殿軍も帰還した。
もちろん全員ではない。
朝倉軍との戦いで命を落とした者も、負傷した者もいる。
今回の越前侵攻は失敗だった。
朝倉を倒せず、浅井にも背かれ、途中で撤退した。
それでも信長は生きている。
主力も残った。
勝家も、長秀も、藤吉郎も、光秀も。
景継自身も。
まだ終わってはいなかった。
◇◇◇
その夜、景継は一人で地図を広げていた。
越前、近江、小谷、金ヶ崎。
何度駒を動かしても、起きたことは変わらない。
長政の本心は読めていた。
だが、その本心が最後まで変わらないと思った。
そこが間違いだった。
「……難しいですね」
「何がだ」
背後から声がした。
「先生」
明智光秀が部屋へ入ってくる。
「入っていいとは言ってませんけど」
「戸は開いていた」
「開いてたら入るんですか?」
「見られて困るものなら、お前は戸を閉めるだろう」
景継は苦笑した。
「そういうところ、本当に嫌ですね」
光秀は向かいへ座り、地図を見た。
「浅井長政のことか」
「先生なら、分かりました?」
「裏切ることがか?」
「はい」
光秀は少し考え、首を横へ振った。
「分からなかっただろう。お前が会った時、長政本人が本気で盟約を守るつもりだったのならな」
「なら、私の判断は間違ってなかった?」
「その時の長政を見る限りではな」
光秀は一拍置いた。
「だが、策は甘かった」
「どういう意味です?」
「長政が裏切らないと判断することと、それを前提に全軍を動かすことは別だ。盟約を守れば進む。破られても致命傷にならぬ道を残すべきだった」
景継は地図へ目を落とす。
「それ、撤退の途中で私も考えました」
「なら、今回の敗走にも意味はあったな」
「負けたのにですか」
「負けて、生きて帰った。死ねば失敗を次へ生かすこともできん」
景継は遠い昔を思い出した。
一度目の人生でも、すべてに勝ったわけではない。
それでも生き残った。
「未来を当てることに頼りすぎない方がいいんでしょうね」
「どうする」
景継は浅井の駒を手に取った。
「相手は読みます。でも、読みが外れても道が残るようにします」
光秀はしばらく景継を見つめた。
「……また一つ、近づいた気がするな」
「何にです?」
「お前が何者なのかに」
景継は一瞬だけ手を止め、すぐに笑った。
「まだ分かってないんですか」
「まだだ。幼い頃のお前は魏を知り、洛陽を知り、孔明について妙な話し方をした。今も時折、この国の武将とは違う考え方をする」
「それで、今のところ私は誰だと思ってるんです?」
「分からん」
「そこまで言っておいて?」
「ああ。だから見ている」
「私としては迷惑なんですけど」
「お前も私を調べていただろう」
景継は少し黙った。
「……それを言われると弱いですね」
先生は明智光秀。
景継はすでにその答えへ辿り着いた。
だが光秀はまだ知らない。
景継の前世が、司馬懿仲達であることを。
◇◇◇
光秀が帰った後、景継は再び地図を見た。
今日の味方が明日も味方とは限らない。
だからといって、すべてを疑っていては何もできない。
人は信じる。
相手も読む。
ただし、外れた時の道を残す。
考えてみれば、それは一度目の人生で自分が何度もしてきたことだった。
司馬懿は、すべてを見通していたわけではない。
危険なら退き、動く時でなければ待った。
目の前の一勝より、生き残ることを選んだ。
そして最後まで盤上に残った。
景継はようやく気づいた。
司馬懿の記憶を持つことと、司馬懿のように戦うことは同じではない。
知識や策だけでは足りない。
見通せないものがあると認め、それでも終わらない道を作る。
金ヶ崎では負けた。
だが、この敗北から得たものもある。
自分の読みは外れる。
人は変わる。
この世は思い通りにならない。
ならば
思い通りにならなくても、最後に生き残れる策を作ればいい。
その夜、林道景継の戦い方は少しだけ変わった。
それは奇しくも、遠い昔。
司馬懿仲達が長い乱世の果てに辿り着いた答えと、同じものだった。




