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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第四章 上洛編

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第六十八話 生きて帰るための戦



浅井長政が織田との盟約を破ったという知らせが届き、信長が撤退を決断した瞬間から、織田軍の陣は慌ただしく動き始めた。


だが景継が最初に考えたのは、朝倉軍をどう防ぐかではない。


まだ浅井の離反を知らない兵たちへ、何を伝えるかだった。


前には朝倉、後ろには昨日まで味方だった浅井。その事実が一気に広がれば、兵たちは包囲されたと思い、恐怖から勝手に逃げ始めるかもしれない。


景継は一度目の人生で、そうして崩れる軍を何度も見てきた。


「兵には、まだ浅井のことを詳しく伝えないでください」


集められた武将たちを前に、景継は告げた。


「朝倉方の動きに対応するため、一度南へ陣を移す。それだけでいいです。まず軍を動かします」


勝家が腕を組む。


「いずれ分かることだぞ」


「分かっています。でも、止まっている兵に逃げる理由を与えるのと、南へ動き始めてから知らせるのでは違います」


長秀が地図を見ながら尋ねた。


「荷駄はどうする。すべて運べば足が遅くなる」


「食糧、水、最低限の武器だけ。それ以外は捨てます」


「金になる物もか?」


「命より高い物があるなら持って帰ってください」


長秀がわずかに笑った。


「そんな物はないな」


「なら、迷う必要はありません」


黙って聞いていた信長が口を開く。


「景継」


「はい」


「殿は誰だ」


部屋の空気が変わった。


全軍を退かせる以上、最後尾で朝倉軍を止める者が必要になる。


最も死に近い役目だった。


「私が残ります」


「お前一人でどうする」


「一人ではやりません」


景継は武将たちを見回し、最後に一人へ視線を止めた。


「藤吉郎さん」


「……何となく、そうなる気はしておりました」


藤吉郎が嫌そうな顔をする。


「お願いします」


「殿というものは、もう少し出世してから任される仕事ではございませぬか?」


「生きて帰れば出世できると思いますよ」


「そこは信長様に確約していただきたいところですな!」


張り詰めていた空気が少し緩んだ。


「それで、どう止めます?」


「一か所で粘りません。少し戦って止めたら退く。追ってきたら、別の場所でもう一度止めます」


「敵を倒すのではなく?」


「時間を買います」


景継は地図上の道を指した。


「今回の勝ちは、朝倉兵を何人倒したかでは決まりません。信長様と主力が生きて帰れば勝ちです」


勝家が顔をしかめる。


「戦場で勝とうとするなとは、お前くらいしか言わんな」


「今回は勝ち方が違うんです」


これは敵を倒すための戦ではない。


生きて帰るための戦だった。



◇◇◇



空が明るくなる前から、織田軍は南へ動き始めた。


先頭は信長の本隊。その後ろを長秀らが続く。荷駄は大幅に減らされ、撤退を遅らせる物資は置いていった。


兵たちは戸惑っていたが、隊列は崩れていない。


「若様」


弥兵衛が馬を寄せてきた。


「信長様の本隊、予定より早く進んでおります」


「そのまま行ってもらってください。浅井の位置は?」


「まだ新しい報告はございませぬ」


景継の眉がわずかに寄る。


「偵察を増やしてください。ただし深追いはさせないで。敵を見つけることより、見たものを持って帰る方が大事です」


「承知しました」


弥兵衛が離れていく。


景継は一度だけ北を振り返った。


昨日までは、あちらへ進むことしか考えていなかった。


今はすべてを捨てて退いている。


だが恥ではない。


退くべき時に退けず滅んだ者を、景継は知っていた。


「来ました!」


偵察兵が馬を飛ばしてくる。


「北です! 朝倉方がこちらを追っております!」


「勝家様へ。予定していた場所で一度受けます。ただし長く戦わないように」


使者が走った。


ここからは時間との戦いだった。



◇◇◇



朝倉軍の追撃は早かった。


景継が選んだのは、道幅が狭く、大軍が広がりにくい場所だった。


「弓!」


勝家の声が響く。


朝倉兵が迫る。


「放て!」


矢が降り注ぎ、先頭の兵が倒れる。


それでも朝倉軍は止まらない。


「槍!」


弓兵が下がり、槍兵が前へ出る。


両軍が激突した。


景継は後方から戦況を見ていた。


勝家の部隊は強い。このままなら押し返せる。


だからこそ、長居は危険だった。


「勝家様へ。もう退くように」


しばらくして使者が戻ってくる。


「まだ戦えるとのことでございます!」


景継は額へ手を当てた。


「戦えるかどうかを聞いたんじゃないんですけどね……」


弥兵衛が苦笑する。


「勝家様でございますから」


「知ってます」


景継は別の使者を呼んだ。


「今度は信長様の命令だと言ってください」


「信長様は、そのようなご命令を?」


「今、私が作りました」


「……よろしいので?」


「あとで私が怒られます。今は早く」


やがて勝家の部隊が退き始めた。


朝倉軍は追う。


だが次の場所で、織田軍は再び向きを変える。


戦う。


止める。


退く。


十分でも二十分でもいい。


その時間だけ、信長の本隊は遠ざかっていく。



◇◇◇



昼を過ぎた頃、最も警戒していた知らせが届いた。


「浅井勢を確認!」


景継はすぐに地図を広げさせる。


「どこです!」


偵察兵が示した場所は、想定より近かった。


後ろには朝倉。前へ回り込もうとする浅井。


完全に挟まれれば終わる。


「信長様の本隊は?」


位置を確認した景継は、すぐに判断した。


信長はまだ抜けられる。


問題は後続だった。


「後続を二つに分けます。本道を進む部隊と、西へ迂回する部隊です」


弥兵衛が尋ねる。


「浅井が片方へ集中すれば?」


「その可能性はあります」


景継は本道を見た。


「旗を多く残せば、浅井は本道を主力だと考えて――」


そこで言葉が止まった。


また相手が自分の予想どおりに動くことを前提にしている。


長政は裏切らない。


そう読んで外したばかりだ。


「……違いますね」


「若様?」


「浅井がどちらへ来るかを当てる必要はありません」


景継は二本の道を指した。


「本道へ来れば迂回路が空く。迂回路へ来れば本道が空く。どちらを選ばれても、もう片方に道が残る形にします」


「浅井が何を選ぶかは読まれないので?」


「読みます。でも、当たることを前提にしない」


口にして、景継自身も腑に落ちた。


相手を読むことはやめない。


ただ、読みが外れただけで終わる策にはしない。


「……なるほど」


「何か分かられましたか?」


「少しだけ。今回の失敗を、次にどう使えばいいのか」



◇◇◇



夕方になっても朝倉軍の追撃は続いた。


信長の本隊が南へ進む間、景継と藤吉郎たちは朝倉軍を受け止め、退いてはまた止めることを繰り返していた。


「景継様!」


泥だらけの藤吉郎が馬を走らせてきた。


「何です?」


「話が違いますぞ!」


「何がです?」


「殿というものは、もう少し格好のいい仕事だと思っておりました!」


景継は思わず笑った。


「誰から聞いたんです?」


「物語では皆、格好よく敵を食い止めております!」


「現実は泥だらけですね」


「笑い事ではございませぬ!」


後ろの兵たちも疲れ切っている。


それでも隊列は残っていた。


「次の場所で、もう一度だけ止めます」


「またですか」


「嫌です?」


「嫌に決まっております!」


「でも、やってくれるでしょう?」


藤吉郎は一瞬黙り、やがて笑った。


「やりますとも!」


「お願いします」


藤吉郎は兵を率いて向きを変えた。


数年前まで身分も低かった男が、今では数百の兵を率いて朝倉軍へ向かっている。


人は変わる。


長政だけではない。


藤吉郎も、自分も変わってきた。


「弥兵衛」


「はい」


「私たちも行きます」


「若様。かなり危険にございます」


「知ってます。でも藤吉郎さんだけに任せたら、あとで何年も言われそうなので」


「それは間違いございませんな」


二人も馬を走らせた。



◇◇◇



日が傾いても戦いは続いた。


左が押されれば援軍を送る。右から回り込まれれば進路だけを塞ぎ、中央が崩れかければ一度下げる。


敵を追うな。


長く戦うな。


次の場所まで生きて退け。


景継の命令は一貫していた。


やがて使者が駆け込んでくる。


「景継様! 信長様の本隊、浅井勢をかわし南へ抜けたとのこと!」


「……本当ですか」


「はい! 信長様もご無事にございます!」


周囲から安堵の声が漏れた。


だが景継はすぐに首を振る。


「まだです。信長様は抜けた。でも私たちは残ってる」


藤吉郎が息を吐く。


「そうでしたな」


「もう時間を稼ぐ必要はありません。全軍、退きます。追いつかれた時だけ止めて、それ以外は前だけ見てください」


藤吉郎が笑った。


「やっと堂々と逃げられますか」


「はい。ここからは全力で逃げましょう」



◇◇◇



夜になっても織田軍は歩き続けた。


兵たちは疲れ切り、歩きながら眠りかける者までいる。


景継自身も身体の感覚が鈍くなっていた。


「若様」


弥兵衛が声をかける。


「少し休まれてはいかがです」


「皆が休める場所まで行ったら休みます」


「若様が倒れられれば困ります」


「その時は馬に縛ってでも運んでください」


「本当にやりますぞ」


「それは嫌ですね」


その時、前方から馬の音がした。


「待て! 味方だ!」


使者が駆け込んでくる。


「景継様! 信長様より知らせにございます! 京へ続く道を確保したとのこと!」


「信長様は?」


「ご無事にございます!」


藤吉郎が近くの岩へ腰を下ろした。


「……よかった」


景継も木へ背を預けた。


目を閉じると、小谷で向かい合った長政の顔が浮かぶ。


あの時、長政は本気で盟約を守るつもりだった。


そこだけは今も疑っていない。


「景継様」


藤吉郎が声をかけた。


「長政殿のことを考えておりますな」


「……分かります?」


「顔に書いてあります」


景継は小さく笑った。


「私、少し思い上がっていたのかもしれません」


藤吉郎は黙って続きを待つ。


「人を見れば、何を欲し、何を恐れているのか分かる。それが分かれば次の行動も読めると思っていました」


実際、それで岩倉でも美濃でも結果を出した。


「でも、その人の心が分かることと、明日も同じ答えを選ぶことは別なんですね」


「長政殿は、最初から景継様を騙していたわけではないと?」


「違うと思います。父や家臣、昔からの恩義、守る家……状況が変われば、人の答えも変わる」


藤吉郎が尋ねる。


「では、次からは人を信じませぬか?」


景継は首を横に振った。


「いいえ。信じます」


誰も信じなければ、誰にも何も任せられない。


「ただ、裏切られても死なないようにします」


藤吉郎は一瞬黙り、それから笑った。


「それはよい! なら景継様、まずは我らも生きて帰りましょう」


「そうですね」


今日、自分は読みを外した。


だが生きている。


ならば次がある。



◇◇◇



数日後、信長は無事に京へ戻り、遅れて景継たち殿軍も帰還した。


もちろん全員ではない。


朝倉軍との戦いで命を落とした者も、負傷した者もいる。


今回の越前侵攻は失敗だった。


朝倉を倒せず、浅井にも背かれ、途中で撤退した。


それでも信長は生きている。


主力も残った。


勝家も、長秀も、藤吉郎も、光秀も。


景継自身も。


まだ終わってはいなかった。



◇◇◇



その夜、景継は一人で地図を広げていた。


越前、近江、小谷、金ヶ崎。


何度駒を動かしても、起きたことは変わらない。


長政の本心は読めていた。


だが、その本心が最後まで変わらないと思った。


そこが間違いだった。


「……難しいですね」


「何がだ」


背後から声がした。


「先生」


明智光秀が部屋へ入ってくる。


「入っていいとは言ってませんけど」


「戸は開いていた」


「開いてたら入るんですか?」


「見られて困るものなら、お前は戸を閉めるだろう」


景継は苦笑した。


「そういうところ、本当に嫌ですね」


光秀は向かいへ座り、地図を見た。


「浅井長政のことか」


「先生なら、分かりました?」


「裏切ることがか?」


「はい」


光秀は少し考え、首を横へ振った。


「分からなかっただろう。お前が会った時、長政本人が本気で盟約を守るつもりだったのならな」


「なら、私の判断は間違ってなかった?」


「その時の長政を見る限りではな」


光秀は一拍置いた。


「だが、策は甘かった」


「どういう意味です?」


「長政が裏切らないと判断することと、それを前提に全軍を動かすことは別だ。盟約を守れば進む。破られても致命傷にならぬ道を残すべきだった」


景継は地図へ目を落とす。


「それ、撤退の途中で私も考えました」


「なら、今回の敗走にも意味はあったな」


「負けたのにですか」


「負けて、生きて帰った。死ねば失敗を次へ生かすこともできん」


景継は遠い昔を思い出した。


一度目の人生でも、すべてに勝ったわけではない。


それでも生き残った。


「未来を当てることに頼りすぎない方がいいんでしょうね」


「どうする」


景継は浅井の駒を手に取った。


「相手は読みます。でも、読みが外れても道が残るようにします」


光秀はしばらく景継を見つめた。


「……また一つ、近づいた気がするな」


「何にです?」


「お前が何者なのかに」


景継は一瞬だけ手を止め、すぐに笑った。


「まだ分かってないんですか」


「まだだ。幼い頃のお前は魏を知り、洛陽を知り、孔明について妙な話し方をした。今も時折、この国の武将とは違う考え方をする」


「それで、今のところ私は誰だと思ってるんです?」


「分からん」


「そこまで言っておいて?」


「ああ。だから見ている」


「私としては迷惑なんですけど」


「お前も私を調べていただろう」


景継は少し黙った。


「……それを言われると弱いですね」


先生は明智光秀。


景継はすでにその答えへ辿り着いた。


だが光秀はまだ知らない。


景継の前世が、司馬懿仲達であることを。



◇◇◇



光秀が帰った後、景継は再び地図を見た。


今日の味方が明日も味方とは限らない。


だからといって、すべてを疑っていては何もできない。


人は信じる。


相手も読む。


ただし、外れた時の道を残す。


考えてみれば、それは一度目の人生で自分が何度もしてきたことだった。


司馬懿は、すべてを見通していたわけではない。


危険なら退き、動く時でなければ待った。


目の前の一勝より、生き残ることを選んだ。


そして最後まで盤上に残った。


景継はようやく気づいた。


司馬懿の記憶を持つことと、司馬懿のように戦うことは同じではない。


知識や策だけでは足りない。


見通せないものがあると認め、それでも終わらない道を作る。


金ヶ崎では負けた。


だが、この敗北から得たものもある。


自分の読みは外れる。


人は変わる。


この世は思い通りにならない。


ならば


思い通りにならなくても、最後に生き残れる策を作ればいい。


その夜、林道景継の戦い方は少しだけ変わった。


それは奇しくも、遠い昔。




司馬懿仲達が長い乱世の果てに辿り着いた答えと、同じものだった。

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