第六十八話 生きて帰るための戦
浅井長政が織田との盟約を破ったという知らせが届き、信長が撤退を決断した瞬間から、織田軍の陣は慌ただしく動き始めた。
だが、景継が最初に考えたのは、どうやって朝倉軍を防ぐかではなかった。まだ浅井の離反を知らない兵たちへ、この状況をどこまで伝えるべきか。それを間違えれば、敵と戦う前に織田軍そのものが崩れる可能性がある。
前には朝倉軍がいる。後ろでは、昨日まで味方だと思っていた浅井軍が退路を塞ごうとしている。そんな話が軍中へ一気に広がれば、兵たちは自分たちが包囲されたと考えるだろう。恐怖に駆られた兵が隊列を離れ、それぞれ勝手な道で逃げ始めれば、どれほど優れた武将が命令しても一つの軍として動かすことは難しくなる。
景継は一度目の人生で、そうして崩れていった軍を何度も見てきた。戦場では、必ずしも兵を一人ずつ殺す必要などない。敵に「もう勝てない」と思わせるだけで軍は弱くなる。逆に言えば、こちらがまだ戦える状態であるにもかかわらず、「負けた」と思った瞬間から本当の敗北が始まる。
「兵には、まだ浅井のことを詳しく伝えないでください」
景継は集められた武将たちを前に、そう告げた。
「朝倉方の動きに対応するため、陣を一度南へ移す。それだけでいいです。まず軍を動かします。理由を説明するのは、隊列ができてからでも遅くありません」
勝家が腕を組みながら景継を見る。
「いずれ分かることだぞ。浅井が我らの後ろへ兵を進めている以上、いつまでも隠しておけるものではない」
「分かっています。でも、今知られるのと、軍が動き始めてから知られるのでは全然違います。兵が止まっている時に逃げる理由だけを与えれば、それぞれが自分で逃げ道を探し始めます。でも隊列を組んで南へ動いている最中なら、少なくとも前にいる味方についていけばいい」
長秀も景継の考えを理解したらしく、地図を見ながら尋ねた。
「荷駄はどうする。越前へ攻め込むために持ってきた物を全部運べば、どうしても足が遅くなる」
「必要なものだけにします。食糧、水、最低限の武器。それ以外は置いていきます。敵に使われる可能性が高いものだけは、余裕があれば処分してください」
「金になる物もか?」
「命より高い物があるなら持って帰ればいいと思います」
景継がそう答えると、長秀は少しだけ口元を緩めた。
「そんな物はないな」
「なら、迷う必要はありません」
信長は、そのやり取りを黙って聞いていた。普段であれば最後には必ず自分で判断を下す男だが、今は景継が誰よりも早く状況を整理し、すでに撤退の形を作り始めていることを理解している。それでも一つだけ、景継が避けて通れない問題が残っていた。
「景継」
「はい」
「殿は誰だ」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
軍全体を南へ退かせる以上、最後尾に誰かが残らなければならない。朝倉軍は必ず追ってくる。浅井軍まで退路へ迫っているのだから、主力が安全な場所へ抜けるまで敵の進軍を止め続ける必要がある。
殿とは名誉ある役目でもある。
同時に、生きて帰れる保証が最も少ない役目でもあった。
景継は少し考えた後、信長を見た。
「私が残ります」
信長は驚かなかった。
「お前一人でどうする」
「一人で戦うつもりはありません」
「誰を使う」
景継は部屋にいる武将たちを見る。勝家は敵を正面から止める力がある。長秀には全軍の動きを整える役目がある。光秀にも京までの道や周辺勢力との関係を利用してもらわなければならない。
そして景継の視線が、一人の男で止まった。
「藤吉郎さん」
「……何となく、そうなる気はしておりました」
藤吉郎が心底嫌そうな顔をした。
「お願いします」
「殿というものは、もう少し出世してから任される仕事ではございませぬか?」
「生きて帰れば出世できると思いますよ」
「そこは信長様に確約していただきたいところですな!」
緊張していた部屋に、小さな笑いが広がった。藤吉郎自身も少し笑ったが、すぐに表情を戻し、地図の前へ身体を寄せた。
「それで、どこで止めます」
「一か所でずっと戦うつもりはありません。何度かに分けます。朝倉軍と少し戦い、相手を止めたら退く。追ってきたら別の場所でまた止める。その繰り返しです」
「敵を倒すのではなく?」
「時間を買います」
景継は地図上の道を何か所か指した。
「今回の勝ちは、朝倉兵を何人倒したかでは決まりません。信長様と主力が生きて帰れば勝ちです。だから、勝てそうだからといって長く戦わないでください。むしろ勝ちそうな時ほど退きます」
勝家があからさまに不満そうな顔をした。
「戦場で勝とうとするなとは、お前くらいしか言わんな」
「今回に限っては、勝ち方が違うんです」
景継はそう答えながら、自分自身にも言い聞かせていた。
これは敵を倒す戦ではない。
生きて帰るための戦だ。
◇◇◇
織田軍は、まだ空が完全に明るくなる前から南へ動き始めた。
最初に信長の本隊、その後ろを長秀らの部隊が続く。荷駄は大幅に減らされ、持ち帰る価値よりも撤退の邪魔になる危険の方が大きい物資は、その場へ残すか処分された。
兵たちは当然戸惑っていた。昨日まで朝倉方の拠点を攻め、このまま越前の奥へ進むと思っていたところへ、突然南へ向かえと命じられたのだから無理もない。
何が起きたのかと尋ねる者もいたが、指揮官たちは「陣を移す」という説明だけを繰り返した。それ以上のことを知る必要はない。今はまず、命令どおり軍全体を動かすことが重要だった。
景継は馬上から、南へ向かっていく兵たちを見ていた。
まだ軍は崩れていない。
兵たちは隊列を保ち、それぞれの指揮官の命令に従っている。今ならまだ、織田軍は一つの軍として動ける。
「若様」
弥兵衛が馬を寄せてきた。
「信長様の本隊、予定より少し早く先へ進んでおります。今のところ道に大きな混乱はございません」
「それならそのまま行ってもらってください。私たちが追いつく必要はありません。むしろ離れてもらった方がいいです」
景継は周囲を確認してから尋ねた。
「浅井の位置は?」
「まだ新しい報告はございませぬ」
その答えを聞いた景継の眉がわずかに寄った。
敵の位置が分からない。
それは決して安心できる情報ではない。浅井軍が動きを止めたのではなく、自分たちがどこにいるのか把握できていないだけかもしれない。
「偵察を増やしてください。ただし、絶対に深追いさせないでください。浅井軍を見つけることより、見たものを持って帰ってくることが大事です。敵を見つけても報告できなければ、いないのと同じですから」
「承知しました」
弥兵衛が離れていく。
景継は一度だけ北を振り返った。
ほんの少し前まで、自分たちはあちらへ進むことしか考えていなかった。
朝倉をどこまで追い込むのか。どの城まで落とすのか。義景を降伏させるのか、それとも最後まで追うのか。
今は全部捨てた。
背を向けている。
だが景継は、それを恥だとは思わなかった。
前世でも、退くべき時に退くことができず、そのまま滅んだ者を何人も見てきた。戦場において勇気が必要なのは、敵へ突撃する時だけではない。自分が勝てないと認め、これまで積み上げてきたものを捨ててでも生き残る決断をする時にも、別の種類の勇気が必要になる。
退く。
兵を残す。
敵に土地を譲る。
そして次に勝てる場所まで戻る。
それも戦だった。
頭ではずっと理解してきた。
だが実際に自分が追われる側へ回ると、知識として分かっているのとはまるで違った。
「来ました!」
遠くから馬が駆けてくる。
偵察兵だった。
「北です! 朝倉方に動きがございます!」
景継の表情が変わった。
「数は?」
「まだ正確には分かりませぬ。ただ、こちらを追う動きが出ております!」
やはり気づかれた。
当然だった。
織田軍が突然南へ向かえば、朝倉側がそれを見逃すはずがない。
「勝家様へ伝えてください。予定していた最初の場所で一度だけ受けます。ただし長く戦わないように。敵を倒しすぎる必要はありません」
「はっ!」
使者が馬を返していく。
景継は小さく息を吐いた。
ここからは時間との戦いになる。
◇◇◇
朝倉軍の追撃は、景継が考えていた以上に早かった。
織田軍が南へ動き始めて間もなく、後方に朝倉兵の姿が見え始める。最初は少数だったが、時間が経つにつれてその数は増えていった。
朝倉方が浅井の離反をどこまで把握しているのかは分からない。だが、織田軍が突然背を向けた理由など知らなくても、追撃を始める理由としては十分だった。
敵が逃げている。
今なら追えば崩せる。
そう考えている軍は勢いづく。
「来たぞ!」
後方から叫び声が上がった。
勝家の部隊が止まる。
景継が事前に指定していた場所だった。
道幅が狭く、左右には大軍が広く展開しにくい地形がある。朝倉軍が数で上回っていたとしても、一度に織田軍へぶつけられる兵数には限界が生まれる。
「弓!」
勝家の声が響いた。
織田兵が一斉に弓を構える。
朝倉兵が近づく。
まだ撃たない。
距離が縮まる。
さらに縮まる。
「放て!」
一斉に矢が飛び、先頭の朝倉兵が次々と倒れた。しかし、その後ろから新たな兵が押し寄せる。朝倉軍は織田が逃げていると思っているだけに、多少の損害では勢いを止めなかった。
二射目が放たれる。
それでも前へ来る。
「槍!」
勝家の命令で弓兵が後ろへ退き、槍兵が前へ出た。
両軍が激突する。
槍と槍がぶつかる音。人の叫び声。倒れた兵を踏まないよう足場を探す音。戦場特有の騒音が狭い道に響く。
景継は少し後方から、その動きを見ていた。
勝家の部隊は強い。
このまま戦えば、朝倉軍をかなり押し返すこともできるかもしれない。
だが。
だからこそ危険だった。
「勝家様へ伝えてください。もう少ししたら退くように」
使者が走る。
しばらくして戻ってきた。
「まだ戦えるとのことでございます!」
景継は額へ手を当てた。
「戦えるかどうかを聞いたんじゃないんですけどね……」
弥兵衛が苦笑した。
「勝家様でございますから」
「知ってます」
景継は別の使者を呼んだ。
「もう一度行ってください。今度は信長様の命令だと言って」
使者が困った顔をする。
「信長様は、そのようなご命令を?」
「今、私が作りました」
「……よろしいので?」
「あとで私が怒られます。今は早く行ってください」
「はっ!」
やがて勝家の部隊が後退を始めた。
朝倉軍は追ってくる。
だが、織田軍は次に景継が選んでいた場所まで退くと、そこで再び向きを変えた。
戦う。
少し止める。
退く。
追わせる。
別の場所でまた戦う。
景継は、一度の戦いで朝倉軍を完全に止めようとは考えていなかった。
そんなことをすれば、こちらも大きな損害を受けるし、長く戦えば浅井軍が退路へ回るための時間まで与えてしまう。
だから十分。
二十分。
それだけでいい。
小さな時間を何度も買う。
朝倉側から見れば、織田軍を追い立てているように見える。
実際、織田軍は後退している。
だが、そのたびに信長の本隊はさらに遠くへ進んでいく。
景継が今買っているものは、敵兵の命でも領地でもなかった。
信長が生きて帰るための時間だった。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、景継が最も恐れていた知らせが届いた。
「浅井勢を確認!」
その声を聞いた瞬間、景継は地図を広げさせた。
「どこです!」
偵察兵が指を置く。
「この辺りにございます!」
景継はその場所を見て、しばらく何も言わなかった。
想定より近い。
浅井軍の動きが予想より早かった。
このまま進まれれば、織田軍が南へ抜けるために使おうとしている道の一部が塞がれる。後方からは朝倉軍が追い、前方では浅井軍が回り込もうとしている。
完全に挟まれれば終わる。
景継は本道を見る。
最短で戻れる。
だが、当然浅井もその道を知っている。
別の道を見る。
遠回りになる。
狭い。
全軍を一度に通すには向いていない。
だが、使えないわけではない。
「信長様の本隊は?」
「すでにかなり先へ進んでおります」
詳しい位置を聞き、景継は頭の中で距離を組み立てた。
信長はまだ抜けられる。
問題は後続だった。
「後続を二つに分けます」
弥兵衛が景継を見る。
「兵を分けるのでございますか?」
「はい。本道を進む部隊と、西へ迂回する部隊。細かく分けすぎると各個に潰されるので、二つだけにします」
「浅井が片方へ集中すれば」
「その可能性はあります」
景継は認めた。
そして地図を見ながら続けた。
「本道には旗を多く残します。浅井がこちらを主力だと思えば、本道へ寄ってくる可能性があります」
そこまで言ったところで、景継は口を止めた。
弥兵衛が不思議そうに見る。
「若様?」
景継は、自分が今何を言おうとしたのかに気づいた。
浅井はきっと本道へ来る。
そう判断して。
その前提で次の策を組もうとしていた。
つい先ほどまでの自分と同じだった。
長政は裏切らない。
そう読んだ。
外れた。
それなのに。
また相手が自分の予想通り動くことを前提にしようとしている。
「……違いますね」
「何がでございます?」
「浅井がどちらへ来るかを当てる必要はありません」
景継は地図上の二本の道を見比べた。
「浅井が本道へ来れば、迂回する部隊が抜けやすくなる。逆に浅井が迂回路へ気づいてそちらへ向かえば、本道の部隊が抜けやすくなる。どちらへ来ても、もう片方に道が残る形にします」
弥兵衛がしばらく考えた。
「浅井が何を選ぶかは、読まない?」
「読みます。敵が何を考えているのかは、これからも考えます。でも、当たることを前提にしない」
景継はそう答えながら、自分自身の中で何かが変わり始めていることに気づいた。
今まで景継は、人を読むことを大きな武器にしてきた。
相手が何を求めているのか。
何を恐れているのか。
どこまで追い込めば降るのか。
それを考え、相手が自分からこちらの望む道へ進むように仕向けてきた。
岩倉でも。
美濃でも。
それで結果を出した。
だから自信がついた。
人を見れば分かる。
十分に考えれば先を読める。
だが。
それだけでは足りなかった。
人は昨日と同じ人間でありながら、昨日とは違う決断をする。
ならば相手の心を当て続ける必要などない。
相手が何を選んでも、自分に致命傷が残らない状況を作ればいい。
「……なるほど」
景継が小さく呟いた。
「何か分かられましたか?」
「少しだけ」
景継は地図から顔を上げた。
「今回の失敗を、次にどう使えばいいのか分かってきました」
◇◇◇
夕方になっても、朝倉軍の追撃は止まらなかった。
信長の本隊はすでにかなり南へ進んでいる。その後方では藤吉郎と景継の部隊が何度も朝倉軍を受け止め、退いてはまた別の場所で戦うことを繰り返していた。
「若様!」
泥だらけになった藤吉郎が馬を走らせてくる。
「何です?」
「話が違いますぞ!」
「何がです?」
「殿というものは、もう少し格好のいい仕事だと思っておりました!」
景継は思わず笑った。
「誰から聞いたんです?」
「物語では皆、格好よく敵を止めております!」
「現実は泥だらけですね」
「笑い事ではございませぬ!」
藤吉郎の後ろを走る兵たちも疲れ切っていた。
だが隊列はまだ保たれている。
それだけでも十分だった。
「次の場所で、もう一度だけ止めます」
「またですか」
「嫌です?」
「嫌に決まっております!」
「でもやってくれるでしょう?」
藤吉郎は一瞬黙った後、声を上げて笑った。
「やりますとも!」
景継も笑った。
「お願いします」
藤吉郎は兵を連れて向きを変えた。
景継はその背中を見つめた。
数年前まで藤吉郎は、身分も低く、ただ人と話すことが得意な男だった。
美濃へ入り。
酒を飲み。
国人たちと関係を作り。
景継の代わりに多くの人間と接触した。
それが今では数百の兵を率い、信長を生きて帰すために自分から朝倉軍へ向かっている。
人は変わる。
悪い方向にだけ変わるわけではない。
長政の決断が変わったように。
藤吉郎も変わった。
自分もまた、十三歳で初陣へ出た頃とは違う。
そう考えると。
なおさら。
過去に見た一人の人間だけを基準に、未来を決めつけることの危うさが分かった。
「弥兵衛」
「はい」
「私たちも行きます」
「藤吉郎殿のところへ?」
「はい」
「かなり危険にございます」
「知ってます」
景継は馬を前へ向けた。
「藤吉郎さんだけに任せたら、あとで何年も言われそうなので」
弥兵衛が苦笑した。
「それは間違いございませんな」
「でしょう?」
二人も馬を走らせた。
◇◇◇
日が傾いても戦いは続いた。
藤吉郎の部隊が朝倉軍を受け止め、景継は少し後ろから全体を見ながら、危険な場所へ兵を送り続ける。
左が押されれば援軍を送る。
右から敵が回り込もうとすれば、その敵を追い払うのではなく進路だけを塞ぐ。
中央が押し込まれれば、一度後ろへ退かせて隊列を作り直す。
景継は、兵たちに何度も同じことを伝えた。
敵を追うな。
勝とうとするな。
今日の目的は朝倉軍を倒すことではない。
次の場所まで生きて移動することだ。
敵を十人多く討ち取ったところで、そのせいで撤退が遅れ、信長が浅井軍に捕まれば何の意味もない。
今日の勝利は敵の死体の数では決まらない。
信長が生きて帰る。
主力が残る。
殿を務めた自分たちも生き残る。
それができれば勝ちだ。
戦っては退き、また戦っては退く。
それを繰り返しているうちに、一人の使者が馬を飛ばしてきた。
「景継様!」
「何です!」
「信長様の本隊、浅井勢の動きをかわし、南へ抜けたとのこと!」
景継は一瞬、言葉を失った。
「……本当ですか」
「はい! 信長様もご無事にございます!」
周囲にいた兵たちから、安堵の声が漏れた。
助かった。
誰かがそう呟く。
別の兵はその場に座り込みそうになった。
だが景継はすぐに首を横へ振った。
「まだです。信長様は抜けた。でも私たちは残ってる」
藤吉郎が大きく息を吐いた。
「そうでしたな」
「ここからの方が危ないです。朝倉からすれば、もう信長様へ追いつけないと分かれば、今度は私たちを潰すことへ集中できます」
藤吉郎の顔から笑みが消えた。
景継は周囲の兵たちを見る。
疲れている。
負傷者も増えた。
これ以上、時間を稼ぐ必要はない。
ならば次にやることは一つだった。
「全軍、退きます。ここからは戦わなくていいです。朝倉が追いついてきた時だけ止める。それ以外は前だけ見てください」
藤吉郎がようやく笑った。
「やっと堂々と逃げられますか」
「はい」
景継も笑った。
「ここからは全力で逃げましょう」
◇◇◇
夜になっても織田軍は歩き続けた。
松明は必要最低限に抑えられている。明かりを増やせば、暗闇の中で自分たちの位置を朝倉軍へ知らせることになる。
兵たちは疲れ切っていた。
鎧が重い。
足が痛い。
喉も渇く。
歩きながら眠りそうになり、隣の兵に肩を叩かれて目を覚ます者までいる。
景継自身も、身体の感覚が少しずつ鈍くなっていた。
今日だけで何度戦ったのか。
どれほど退いたのか。
何人を失ったのか。
まだ正確には分からない。
それでも足を止めることはできなかった。
「若様」
隣を歩く弥兵衛が声をかけた。
「何です?」
「少し休まれてはいかがです」
「皆が休める場所まで行ったら休みます」
「若様が倒れられれば困ります」
「その時は馬に縛ってでも運んでください」
「本当にやりますぞ」
景継は疲れた顔で笑った。
「それは嫌ですね」
そんな話をしている時、前方から馬の音が聞こえた。
周囲の兵が一斉に武器へ手を伸ばす。
「待て! 味方だ!」
声が響く。
一人の使者が景継たちの前で馬を止めた。
「景継様!」
「何がありました」
「信長様より知らせにございます! 京へ続く道を確保したとのこと!」
景継は目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
身体から力が抜けそうになった。
「信長様は?」
「ご無事にございます!」
その言葉を聞き、藤吉郎が近くの岩へ腰を下ろした。
「……よかった」
周囲の兵たちからも、安堵の声が漏れた。
景継は止めなかった。
少しなら休ませてもいい。
ここまで来たのだから。
景継自身も近くの木へ背中を預け、ゆっくり息を吐いた。
目を閉じる。
すると。
小谷城で向かい合った浅井長政の顔が浮かんだ。
――浅井は織田との盟約を違えぬ。
あの時の長政は本気だった。
それを景継は今でも疑っていない。
自分は長政の言葉だけを信じたわけではない。
目を見た。
声を聞いた。
考えていることも探った。
浅井家の利害まで考えた。
それでも最後には。
結果が違った。
「若様」
藤吉郎が隣から声をかけた。
景継が目を開ける。
「何です?」
「長政殿のことを考えておりますな」
「……分かります?」
「顔に書いてあります」
景継は小さく笑った。
「そんなにですか」
「はい」
しばらく二人は黙っていた。
周囲では兵たちが水を飲み、負傷者の傷を確認している。生きて帰りつつある者の声と、ここにいない者の静けさが入り交じっていた。
景継は、やがて口を開いた。
「私、少し思い上がっていたのかもしれません」
藤吉郎は何も言わず、続きを待った。
「人を見れば、ある程度分かると思っていました。何を欲しがっているのか。何を恐れているのか。何を守ろうとしているのか。それが分かれば、次にどう動くのかも読めると思ってたんです」
実際、それで何度も上手くいった。
岩倉では人の不安を使った。
美濃では国人たちが何を恐れているのかを考え、逃げ道を用意した。
竹中半兵衛の行動についても、すべてではないにせよ、その考え方をある程度読むことができた。
だから景継は、人を読むことに自信を持っていた。
「でも、人の心が分かることと、その人が明日何を選ぶか分かることは、同じじゃないんですね」
藤吉郎が尋ねた。
「長政殿は、最初から若様を騙していたわけではないと?」
「たぶん違います。私が会った時、長政様は本気で織田との盟約を守るつもりだったと思います」
「ならば、なぜ心を変えたのでございましょう」
景継は暗い空を見上げた。
「人は一人で生きてるわけじゃないからでしょうね。父がいる。家臣がいる。領民がいる。昔からの恩義もある。守るべき家もある。一人の人間の決意だけではどうにもならないことがある」
景継は少し間を置いた。
「あの時は本気だった。でも小谷に戻って父や家臣と話して、朝倉との関係も考えた。その結果、別の答えを選んだ。たぶん、それだけです」
藤吉郎はしばらく考えていた。
「では、次からは人を信じませぬか?」
その問いに、景継はすぐには答えなかった。
誰も信じない。
裏切ることを前提にする。
それなら、今回のような失敗は減るかもしれない。
だが。
誰も信じなければ。
何も任せられない。
味方も作れない。
国人をこちらへ引き入れることも。
藤吉郎に仕事を任せることも。
光秀と話すこともできない。
人を使えない者に。
国など動かせるはずがない。
「いいえ」
景継は首を横に振った。
「信じます」
藤吉郎を見る。
「ただ、裏切られても死なないようにします」
藤吉郎は一瞬黙り。
それから大きく笑った。
「それはよい!」
周囲の兵たちが、何事かと振り返る。
藤吉郎は立ち上がった。
「なら若様。まずは我らも生きて帰りましょう」
景継も木から背中を離した。
「そうですね」
兵たちも少しずつ立ち上がる。
景継も歩き始めた。
今日、自分は負けた。
自分の読みが外れた。
だが。
まだ生きている。
なら。
次がある。
景継は暗闇の中を歩きながら、一度目の人生で忘れかけていた感覚を思い出していた。
司馬懿の強さは。
すべてを見通すことではない。
一度も失敗しないことでもない。
どんな戦でも必ず勝つことでもない。
自分より優れた敵に出会っても。
思い通りにならない状況に追い込まれても。
生き残る。
退く。
耐える。
そして。
次の機会を待つ。
それこそが。
長い乱世の中で。
司馬懿という男が身につけてきた。
本当の強さだった。
◇◇◇
数日後、信長は無事に京へ戻った。
そして遅れて、景継たち殿軍も帰還した。
もちろん全員ではない。
朝倉軍との戦いで命を落とした兵がいる。
負傷した者もいる。
途中で力尽き、戻ることのできなかった者もいた。
景継は帰還した兵の数を確認しながら、その事実を黙って受け止めた。
今回の越前侵攻は成功とは言えない。
朝倉家を倒していない。
浅井家も健在のままだ。
むしろ途中で引き返し、命からがら京へ戻ってきた。
戦だけを見れば敗北だった。
だが信長は生きている。
主力も残った。
勝家も。
長秀も。
藤吉郎も。
光秀も。
そして景継自身も生きて帰ってきた。
つまり。
まだ終わっていない。
この敗北を次の勝利へ変える機会は残っている。
景継は、その事実だけは決して小さく考えなかった。
◇◇◇
京へ戻ったその夜、景継は一人で部屋に地図を広げていた。
越前。
近江。
小谷。
金ヶ崎。
そこに置いた駒を何度動かしてみても、起きたことそのものを変えることはできない。
自分は浅井長政と会った。
直接話した。
嘘がないことも見抜いた。
浅井家の中に親朝倉派が多いことも把握していた。
それでも結果として、長政は朝倉につき、織田軍は危機に陥った。
だからといって、自分の判断すべてが間違っていたとも思えなかった。
あの時の長政は、本気で織田との盟約を守るつもりだった。
そこだけは今でも確信している。
問題は。
その時の本心を正しく読めたことで。
未来まで読めたつもりになっていたことだった。
「……難しいですね」
景継が小さく呟いた時、背後から声がした。
「何がだ」
景継は振り返らなかった。
声だけで分かる。
「先生」
明智光秀が部屋へ入ってくる。
「入っていいとは言ってませんけど」
「戸は開いていた」
「開いてたら入るんですか?」
「お前なら、見られて困るものを開けた部屋には置かんだろう」
景継は少し笑った。
「そういうところ、本当に嫌ですね」
光秀は気にした様子もなく景継の向かいへ座り、広げられた地図へ視線を落とした。
「浅井長政のことか」
「分かります?」
「小谷の駒を何度も動かしていればな」
景継は苦笑した。
少し迷ってから。
一つ聞いた。
「先生なら、分かりました?」
「何がだ」
「長政様が裏切ることです」
光秀はすぐには答えなかった。
地図の上にある小谷城をしばらく見た後、静かに首を横へ振る。
「分からなかっただろう」
景継は少し意外そうに光秀を見る。
「先生でも?」
「ああ」
「もっと『私は気づいていた』とか言うかと思いました」
「私は神ではない。お前が会った時、長政本人が本気で織田との盟約を守るつもりだったのなら、その時点で未来の裏切りまで断言することはできん」
景継はその言葉を黙って聞いた。
「なら、私の判断は間違ってなかった?」
「その時点の長政を見た判断としては、間違っていなかったのだろう」
光秀はそう答えてから、少し間を置いた。
「だが、策は甘かった」
景継の目が細くなる。
「どういう意味です?」
「長政が裏切らないという判断と、長政が裏切らないことを前提に全軍を動かすことは別だ。人を信じることと、その人間の決断一つへ自分たち全員の命を預けることも同じではない」
景継は答えなかった。
光秀は続ける。
「長政が盟約を守れば、そのまま進めばいい。もし盟約を破っても、致命傷にならないよう別の道を用意しておく。お前が最初からそこまでしていれば、今回の撤退ももう少し余裕を持てたかもしれない」
景継は地図へ視線を落とした。
「それ、撤退の途中で私も考えました」
「なら、今回の敗走にも意味はあったな」
「負けたのにですか」
「負けて生きて帰った」
光秀は景継を見る。
「死んだ者は、失敗を次へ生かすこともできん。生きて戻ったからこそ、次に同じことをしないよう考えられる」
景継はその言葉を聞きながら、遠い昔の自分を思い出していた。
司馬懿仲達。
魏に仕え。
曹操の下で警戒され。
曹丕に仕え。
曹叡に仕え。
さらにその後まで生きた。
諸葛亮とも戦った。
そのすべてで自分が完勝したわけではない。
むしろ。
相手の方が優れていたことさえある。
それでも。
生き残った。
「先生」
「何だ」
「人って、本当に面倒ですね」
光秀が少し笑う。
「今さら気づいたのか」
「昔から知ってましたよ。でも今回、改めて思いました。人の心が分かれば、その人を動かせると思ってた。でも、その瞬間の心を読めたからって、その人が明日も同じ答えを選ぶとは限らない」
「当然だ」
「だったら」
景継はゆっくり顔を上げた。
「未来を当てること自体に、そこまで頼らない方がいい」
光秀の目が少し細くなる。
「どうする」
景継は地図の上に置かれた浅井家の駒を手に取った。
「相手が何を選んでも、こちらに道が残るようにします。裏切らなければ、そのまま進めばいい。裏切られたら別の道を使う。右に来ても左に来ても、どちらかには必ず逃げ道を残す」
景継は駒を置き直した。
「もちろん、これからも相手は読みます。何を欲しがってるのかも、何を恐れてるのかも考える。でも、その読みが当たらないと全部崩れるような策は減らします」
光秀はしばらく何も言わなかった。
景継の顔を見ている。
いつものように。
何かを探すような目だった。
「……また一つ、近づいた気がするな」
「何にです?」
「お前が何者なのかに」
景継は一瞬だけ手を止めた。
だが、すぐに笑った。
「まだ分かってないんですか」
「まだだ」
光秀は即答した。
「幼い頃のお前は、魏を知っていた。洛陽を知っていた。孔明について、まるで直接知っている者のように話した。そして成長した今のお前は、時々、この国の武将とは違う考え方をする」
景継は黙って聞いていた。
先生はまだ知らない。
だが。
以前より確実に近づいている。
「それで?」
景継が少し面白そうに尋ねる。
「今のところ、私は誰だと思ってるんです?」
光秀はすぐには答えなかった。
「分からん」
「そこまで言っておいて?」
「ああ」
光秀は少し笑った。
「だから見ている」
「私としては迷惑なんですけど」
「お前も私を調べていただろう」
景継は少し黙った。
「……それを言われると弱いですね」
光秀の口元に小さな笑みが浮かんだ。
以前とは。
二人の関係も変わっていた。
景継は先生の正体を追っていた。
光秀は景継の中に眠る何者かを追っていた。
そして今。
景継だけが先に答えの一つへ辿り着いている。
先生とは。
明智光秀。
だが光秀は、景継の中にいる人物の名をまだ知らない。
司馬懿仲達。
その名前へ、あとどれくらいで辿り着くのか。
景継にも分からなかった。
◇◇◇
しばらくして光秀が帰った後も、景継は一人で地図の前に座っていた。
越前、近江、京。その周囲には朝倉、浅井、足利義昭、そして織田信長を示す駒が置かれている。
これから先。
この者たちが何を選ぶのか。
景継には分からない。
浅井長政で十分に思い知らされた。
今日の味方が明日も味方とは限らない。
逆に。
今日の敵がずっと敵とも限らない。
だからといって、すべての人間を疑っていたのでは何もできない。
人は信じる。
だが。
その信頼が崩れた時の道も残す。
相手を読む。
だが。
読みが外れた場合まで考える。
景継は地図を見ながら、そこに自分が一度目の人生でやってきたこととの共通点を感じ始めていた。
司馬懿の強さとは、相手のすべてを見通すことではなかった。
諸葛亮の策をすべて読み切ったわけではない。
曹操の考えを完璧に理解していたわけでもない。
皇帝の心を自由に操れたわけでもない。
それでも。
危険な時は退いた。
自分が動く時ではないと思えば待った。
相手が挑発しても。
戦う必要がないなら戦わなかった。
目の前の一勝より。
自分が生き残ることを優先した。
そして。
多くの英雄が。
先に盤上から消えていった。
曹操。
劉備。
孫権。
諸葛亮。
多くの者が。
自分より先に死んだ。
そして。
自分は。
最後まで残った。
景継は、自分が今まで少し勘違いしていたことに気づき始めていた。
司馬懿の記憶を持っている。
だから。
誰より先を読めなければならない。
誰より優れた策を出さなければならない。
そう考えていた部分があった。
だが。
違う。
一度目の人生で。
自分が生き残った理由は。
何もかも見通していたからではない。
見通せないことがあると。
知っていたからだ。
「……そうか」
景継は一人で呟いた。
浅井長政の駒を見る。
長政を。
完全に読み切る必要などなかった。
裏切るか。
裏切らないか。
その答えを絶対に当てる必要もなかった。
裏切らなくてもいい。
裏切ってもいい。
どちらでも。
自分たちが生き残れるようにしておけばよかった。
その考え方は。
華やかではない。
敵を驚かせる奇策でもない。
一度見ただけで。
誰もが天才だと分かるものでもない。
だが。
強い。
何が起きても。
終わらない。
それは。
乱世において。
何より恐ろしい強さなのかもしれない。
景継は、浅井家の駒を少し動かした。
その横に。
朝倉。
さらに。
足利義昭。
そして。
信長。
今後敵は増えるだろう。
信長が大きくなればなるほど。
この男を危険だと思う者も増える。
一人が敵になれば
別の者もそこへ加わろうとするかもしれない。
だが
もうすべてを思い通りに動かそうとは思わない。
できないことを。
浅井長政に教えられた。
ならば。
思い通りにならないことを。
最初から組み込めばいい。
一つの策が外れたら。
二つ目。
二つ目も外れたら。
三つ目。
それでも駄目なら。
退く。
待つ。
そしてまた動く。
最後まで自分が盤上に残っていればいい。
景継は、そこで小さく笑った。
金ヶ崎では確かに負けた。
だが。
この敗北によって。
景継は初めて
司馬懿の記憶を使うことと。
司馬懿のように戦うことは。
同じではないと理解し始めていた。
知識があるだけでは足りない。
策を覚えているだけでも足りない。
何十年も乱世を生き抜いた。
その生き方そのものを。
自分のものにしなければならない。
そして
その夜、林道景継の戦い方は少しだけ変わった。
人を読むことやめたわけではない。
人を信じることを捨てたわけでもない。
ただ
一つ新しい前提を加えた。
自分の読みは外れることがある。
人は変わることがある。
そして。
この世は自分の思い通りにはならない。
ならば
思い通りにならなくても
最後に生き残れる策を作ればいい。
その答えは奇しくも
遠い昔、司馬懿仲達が
長い年月をかけて
辿り着いたものと
同じだった。




