↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第四章 上洛編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
67/255

第六十七話 二つの盟約



小谷城へ向かう道中、景継は浅井長政について集めた情報を頭の中で整理していた。


若くして父・久政から実権を奪う形で当主となったが、戦場では勇猛で家臣からの信頼も厚い。織田との同盟にも前向きで、信長の妹であるお市との仲も良好だという。


問題は長政本人ではない。


浅井家と朝倉家の長い関係。そして父・久政をはじめ、それを重んじる家臣たちだった。


織田と朝倉が戦わなければ、二つの関係は両立する。


だが戦えば、どちらかを選ばなければならない。


景継が知りたいのは、その時に長政が何を選ぶかだった。


「若様」


隣を進む弥兵衛が声をかけてきた。


「何です?」


「随分と難しい顔をしておられます。戦へ向かわれる時よりも」


景継は苦笑した。


「戦なら相手が敵だと分かってますからね。今回は味方が、本当に最後まで味方でいてくれるのかを確かめに行くんです。その方が難しいですよ」


「長政殿を疑っておられるので?」


「疑っているというより、知りたいんです。長政様が何を考えているのか。それを知らないまま朝倉と戦う方が怖いですから」


やがて前方に小谷城が見えてきた。


あの城にいる一人の男の決断が、これから始まる戦の行方を大きく左右する。


景継はそう考えながら、小谷城へ向かった。



◇◇◇



浅井長政と初めて向かい合った時、景継が抱いた印象は悪くなかった。


聞いていた通り若い。身体はよく鍛えられているが、勝家のように存在そのものが前へ出てくる男ではない。相手の話を聞く落ち着きもあった。


「林道景継殿だな」


「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「お市から何度か名を聞いている」


「私のことを?」


「兄上の近くに、随分と変わった若者がいるとな」


「褒められているのか分かりませんね」


長政が笑った。


「少なくとも悪くは言っておらぬ」


最初の空気は穏やかだった。


景継もすぐには本題へ入らず、近江や美濃、信長やお市について話した。


その中で分かったことがある。


長政は信長を恐れているだけではない。武将として評価している。


だが、警戒を完全に解いているわけでもなかった。


それでいい、と景継は思う。


同盟とは友情ではない。互いに利があるから結ぶものだ。


やがて景継は本題へ入った。


「長政様。一つ、お聞きしたいことがあります」


「何だ」


「朝倉家についてです」


長政の表情がわずかに変わった。


「朝倉がどうした」


「信長様は、朝倉義景様が上洛の求めに応じていないことを問題視しています。このままなら、いずれ戦になるかもしれません」


「……それを伝えるために来たのか」


「それもあります。でも、本当に聞きたいのは別です」


景継は長政の目を見た。


「もし織田と朝倉が戦えば、浅井家はどちらにつきますか」


部屋の空気が変わった。


長政はすぐには答えない。


景継も急かさなかった。


「随分と直接聞くのだな」


「遠回しに聞いても、答えは同じでしょうから」


「朝倉家と浅井家の関係を知っているのか」


「ある程度は。だからこそ聞いています」


長政は庭へ目を向けた。


「朝倉家には恩がある。父は、その恩を特に重く考えている。古くから浅井に仕える者にも同じ考えの者は多い」


「それも聞いています」


「ならば、なぜ聞く」


「長政様の考えを聞いていないからです」


長政が景継を見る。


「久政様や家臣たちの考えは調べました。でも、浅井家の当主は長政様でしょう」


再び沈黙が落ちた。


やがて長政が口を開く。


「織田との盟約は守る」


景継は黙って続きを待った。


「お市を妻に迎えたことだけが理由ではない。これから浅井家が生き残るには、いつまでも昔の関係だけに縛られていてはならぬと思っている」


強がりには見えなかった。


少なくとも今、この瞬間。


長政は本気でそう考えている。


「久政様が反対されても?」


「浅井家の当主は私だ」


「家臣たちが反対しても?」


「同じだ」


「朝倉義景様から直接、助けを求められても?」


長政が景継を見た。


「随分としつこいな」


「大事なことなので」


「なら何度でも答えよう」


長政の声が強くなる。


「浅井は織田との盟約を違えぬ」


景継はその目を見続けた。


嘘ではない。


そう判断した。


だからこそ、最後に一つだけ確かめる。


「長政様。失礼を承知で申し上げます」


「何だ」


「長政様の言葉は信じます。ただ、浅井家については不安があります」


長政の眉が動いた。


「どういう意味だ」


「久政様だけではありません。朝倉との関係を重んじる家臣も多い。実際に戦が始まれば、その人たちは必ず動きます」


「抑える」


即答だった。


景継は少しだけ黙り、頷いた。


「分かりました。では、その言葉を信長様へ伝えます」


「ああ。そうしてくれ」


この時、二人とも嘘をついてはいなかった。


長政は本気で織田との盟約を守るつもりだった。


景継も、その本心を正しく見抜いていた。


だからこそ、この日の会談は後に景継を苦しめることになる。



◇◇◇



岐阜へ戻った景継は、信長へ小谷での会談を報告した。


「長政は何と言った」


「織田との盟約を守る、と」


「信じられるか」


景継は少し考えてから答えた。


「長政様本人については、信じていいと思います」


勝家が眉を寄せる。


「本人については?」


「浅井家全体となると違います。久政様をはじめ、朝倉との関係を重視する者はかなりいます」


「だが、長政は裏切らぬと」


「少なくとも今は、本気でそう思っています」


信長が景継を見る。


「妙な言い方だな」


「人の気持ちは変わりますから」


そう答えながらも、景継は長政が簡単に約束を破るとは考えていなかった。


迷いも、朝倉への恩義もある。


それでも最後には、織田との盟約を守ると言った。


信じるだけの理由はある。


信長は少し考えた後、立ち上がった。


「ならば行くぞ」


「越前へ?」


「ああ」


信長の目が鋭くなる。


「朝倉義景に、いつまでも俺を無視できると思わせておくつもりはない」


こうして、織田軍の越前侵攻が決まった。



◇◇◇



元亀元年、1570年。


織田軍は越前へ向けて進軍を開始した。


浅井領を通過する間、景継は周囲の様子を注意深く見ていたが、異変はない。進軍を妨げられることもなく、織田軍は予定通り北へ進んでいった。


「心配しすぎだったんじゃないですか?」


藤吉郎が笑いかけてくる。


「そうなら一番いいですよ」


「長政殿も約束されたのでしょう?」


「しました」


「ならば――」


「約束したから絶対に大丈夫、で戦ができるなら軍師はいりません」


そう返しながらも、景継の表情は険しくなかった。


久政や親朝倉派の不満は把握している。それでも浅井が兵を挙げる可能性は低いと見ていた。


織田との同盟を破れば、お市との関係も壊れ、信長を敵に回す。それで朝倉が勝つ保証もない。


長政なら分かっているはずだ。


そう考えていた。


越前へ入った織田軍の戦いは順調に進んだ。


敦賀方面へ侵攻し、朝倉方の拠点を次々と圧迫していく。


「このまま押しますか」


勝家が尋ねる。


「押す」


信長は迷わなかった。


景継も反対しない。


朝倉軍が態勢を整える前に進んだ方がいい。


勝家が前から圧力をかけ、藤吉郎が兵を動かし、光秀も交渉や情報収集に走る。


戦況だけを見れば、織田軍が優勢だった。


「朝倉は後ろへ兵を集めています」


景継が地図を指す。


「ここで一度守るつもりでしょう」


「抜けるか」


「抜けると思います。ただ、急いだ方がいいですね」


「ならば明日動く」


信長の判断は早かった。


その夜も景継は背後への警戒を続けていた。


だがそれは、浅井が裏切ると考えていたからではない。


異変があれば気づけるようにしておく。


その程度だった。


小谷で長政が言った言葉を、景継はまだ信じていた。



◇◇◇



その頃、小谷城では浅井長政が父・久政と重臣たちを前にしていた。


「織田は越前へ入った」


久政が言った。


「分かっております」


「ならば、どうする」


「どうするとは」


久政の顔が険しくなる。


「朝倉を見捨てるのか」


長政は黙った。


「浅井が苦しかった時、誰が支えた」


「父上」


「朝倉だ」


久政の声が強くなる。


「我らが六角に押され、家そのものが危うかった頃から朝倉とは関わってきた。その恩を忘れ、織田につくというのか」


「忘れてはおりません」


「ならば兵を出せ」


「できません」


長政は即答した。


「織田とは盟約を結んでおります。お市も私の妻です。ここで背後から攻めれば、浅井は信義を失います」


久政が睨む。


「朝倉を見捨てても同じことだ」


「違います」


「何が違う」


「今の浅井が生き残るには、織田との関係が必要です」


何人かの家臣が顔を曇らせた。


長政はその反応を見ていた。


この者たちの考えは知っている。


だから景継にも言った。


自分が抑えると。


「殿」


一人の重臣が口を開いた。


「朝倉から使者が参っております」


長政の表情が変わる。


「何と」


「浅井は朝倉を見捨てるのか、と」


長政は目を閉じた。


予想していた問いだった。


それでも実際に突きつけられると重い。


別の家臣が続ける。


「このまま織田が朝倉を滅ぼせば、次は我らではありませぬか」


「信長殿とは盟約がある」


「それで永遠に安全だと、誰が保証してくれるのでございます」


長政は答えられなかった。


未来など誰にも分からない。


「私は織田との盟約を守る」


長政はもう一度言った。


「これは決めたことだ」


久政が低い声で尋ねる。


「浅井家が割れてもか」


長政の目が動いた。


「何を……」


「お前が織田につくというのなら、それに従えぬ者もいるということだ」


何人かの家臣が視線を落とした。


そこで初めて、長政は突きつけられた。


織田を選べば、浅井家そのものが割れるかもしれない。


父に従う者。


朝倉への恩義を重んじる者。


織田を信用しない者。


そのすべてを抑え、当主として家をまとめられるのか。


「殿。我らは織田が憎いわけではございませぬ。ただ、朝倉をこのような形で見捨てれば、浅井はこれまで何を信じて生きてきたのか分からなくなります」


長政は拳を握った。


お市の顔が浮かぶ。


信長の顔も。


そして小谷まで訪ねてきた景継の顔も。


――もし織田と朝倉が戦えば、浅井家はどちらにつきますか。


あの時、自分は答えた。


織田との盟約を守る。


嘘ではなかった。


今でも、できることなら守りたい。


だが長政は、この場で答えを出すことができなかった。


「少し、時間をくれ」


重臣たちを下がらせた。



◇◇◇



その夜、長政はほとんど眠れなかった。


朝倉への恩。


織田との盟約。


父。


家臣。


お市。


そして浅井家。


どれを選んでも、何かを捨てることになる。


景継に言った言葉が蘇る。


――浅井家の当主は私だ。


その通りだ。


だからこそ、最後に決めるのは自分でなければならない。


父や家臣のせいにはできない。


長政は夜が明けるまで考え続けた。


そして東の空が白み始めた頃、一つの答えを出した。



◇◇◇



翌朝、再び家臣たちが集められた。


久政もいる。


長政は一人一人の顔を見た。


父の代から浅井家を支えてきた者たち。


自分についてきた者たち。


この者たちをまとめることも、当主としての役目だった。


「決めた」


全員が顔を上げる。


「兵を集める」


久政の目が動いた。


長政は一度だけ目を閉じた。


「織田軍の背後へ向かう」


部屋の空気が変わった。


安堵する者もいた。


だが長政の表情に喜びはない。


「ただし、これは父上の命令ではない」


久政が長政を見る。


「浅井家当主として、私が決めた」


その責任だけは、誰にも渡さなかった。


景継との約束を破るのも。


お市の兄を敵に回すのも。


織田との盟約を捨てるのも。


すべて自分の決断だ。


「出陣の支度をせよ」


「はっ!」


家臣たちが一斉に頭を下げる。


長政は目を閉じた。


――長政様の言葉は信じます。


あの時の景継の声が蘇る。


自分は確かに、あの少年へ約束した。


「……すまぬ」


誰にも聞こえない声で呟いた。



◇◇◇



越前では、織田軍がさらに前進しようとしていた。


「ここを抜ければ、朝倉側はもう一段後ろへ下がるしかありません」


景継が地図を指す。


「追うか」


「追います。ただ、次の拠点を落としたところで一度止まりましょう。奥へ入りすぎれば兵糧も情報も不利になります」


勝家も頷いた。


「異論はない」


その時だった。


陣の外が騒がしくなった。


馬の音。


兵の声。


「申し上げます!」


飛び込んできた使者の顔色を見て、景継の表情が変わった。


「何だ」


信長が尋ねる。


「近江にて、浅井勢に動きがございます!」


「浅井?」


景継がすぐに聞き返す。


「どこへ向かっています」


「我らの後方へ向かっているとの報せにございます!」


勝家が立ち上がった。


「何だと?」


景継は地図へ目を落とす。


まず考えたのは距離と道だった。


感情は後でいい。


「兵数は?」


「まだ分かりませぬ」


「誰が率いています。長政様ですか、久政様ですか」


「そこまでは確認できておりませぬ」


久政や親朝倉派が独断で動いた可能性もある。


「追加の情報を。誰が兵を動かしているのか、長政様本人がどこにいるのか。それを最優先で確認してください」


「はっ!」


使者が駆け出していく。


勝家が景継を見る。


「どう見る」


「まだ決められません。長政様が命じたのか、久政様たちが勝手に動いたのかで意味が違います」


景継は地図を見続けた。


小谷で見た長政の目。


あれは嘘ではなかった。


ならば、何が起きた。


再び馬の音がした。


二人目の使者が飛び込んでくる。


「申し上げます! 浅井勢、南下しております! 複数の部隊が織田軍の退路へ向かっている模様!」


「長政様は?」


「浅井長政殿自ら出陣したとの情報がございます!」


景継の動きが止まった。


――浅井は織田との盟約を違えぬ。


あの言葉に嘘はなかった。


だからこそ、景継にはすぐ分かった。


長政は嘘をついていたのではない。


あの時とは、答えを変えたのだ。


「景継」


信長の声が聞こえる。


返事ができなかった。


「景継」


もう一度呼ばれ、景継は顔を上げた。


「……はい」


「どうした」


景継は小さく息を吐いた。


「読み違えました」


勝家が景継を見る。


「長政様の本心ばかり見ていました。あの時は本気で盟約を守るつもりだった。だから私は、それを見抜けたことで安心した」


景継の指が小谷城へ触れる。


「でも見るべきだったのは、その意思を最後まで貫けるかどうかでした。浅井家が割れるところまで追い込まれた時、それでも同じ答えを選べるのか。そこを読み切れなかった」


長秀が静かに尋ねる。


「人を見誤ったのではないと?」


「人の心は読めました。でも、それが変わらないと思ってしまった。それが間違いです」


人は盤上の駒ではない。


状況が変われば、答えも変わる。


知っていたはずのことだった。


「景継」


信長が呼ぶ。


景継が顔を上げた。


「反省は後だ」


信長は責めなかった。


ただ、今必要なことだけを尋ねる。


「どうする」


その一言で、景継の意識が戦場へ戻った。


今ここで止まれば、何千という兵が死ぬ。


景継は地図を引き寄せた。


前には朝倉。


後ろから浅井。


だが、まだ両軍は完全には繋がっていない。


「浅井勢がここまで来るのに、どれくらいかかります」


「早ければ一日か二日」


「朝倉は?」


「こちらの動きを見ている。越前中の兵が集まったわけではない」


長秀の答えに、景継は頷いた。


まだ間に合う。


「信長様」


景継が顔を上げる。


「退きます」


勝家が反応した。


「ここまで来てか」


「ここまで来たからです。今ならまだ退路があります。さらに奥へ入れば、浅井に塞がれた時に戻れません」


「朝倉は追ってくるぞ」


「来るでしょう。だから主力を先に退かせ、後ろに追撃を止める兵を残します。同時に浅井側へ偵察を出して、使える道を探り続ける」


信長が尋ねる。


「全軍を戻せるか」


景継は一瞬だけ黙った。


「分かりません」


部屋の空気が張り詰める。


「浅井の位置も、朝倉の追撃もまだ読めません。全員必ず帰せると言えば嘘になります」


信長の目が細くなる。


「だが?」


「帰します」


できると決めつけているわけではない。


そのために、今あるものをすべて使う。


「藤吉郎さん」


「はっ」


「周辺の村や寺から道を知る者を集めてください。街道だけじゃない。山道でも獣道でもいい。退路の候補が欲しい」


「承知いたしました」


「光秀殿」


「ここにいる」


「京から来る途中で使った道と、周囲の寺社とのつながりを確認してください。兵を休ませられる場所、水や食糧を得られる場所も」


「分かった」


「長秀様。兵糧と荷駄を整理してください。持ち帰るものと捨てるものを分けます」


「承知した」


「勝家様」


「何だ」


「朝倉を止める場所を探してください。狭く、大軍が一度に入れない場所がいい」


勝家の口元が上がる。


「ようやく面白くなってきたな」


「本当にそういうところですよね」


景継が呆れたように返すと、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。


だが、やるべきことは多い。


これまで景継は、勝つために状況を整えてきた。


今回は違う。


すでに読み違えた後から始めなければならない。


それでも、負けると決まったわけではない。


崩れたなら、崩れたところから次を考える。


それはかつて司馬懿として生きた自分が、何度もしてきたことでもあった。


「景継」


信長が声をかける。


「お前はどうする」


「まず、信長様を先に退かせます」


「俺だけ逃げろというのか」


「違います。信長様がここで捕まれば、織田家そのものが終わります。一番先に生きて帰らなければならないのは信長様です」


「お前は?」


「残ります」


信長の目が変わった。


「責任を取るつもりか」


「違います」


景継は首を横に振った。


「責任を取るために死んでも意味がありません。私が一番、この状況を頭に入れているから残るだけです。撤退の順番も道も、敵の動きに合わせて変えなければならない。なら、最後まで全体を見る人間が後ろにいた方がいい」


信長はしばらく景継を見ていた。


「なら、死ぬなよ」


「そのつもりです」


「お前が死ねば、今度こそ俺が困る」


景継は少し笑った。


「随分高く評価してくれるようになりましたね」


「今さら気づいたか」


景継は地図へ視線を戻した。


長政がなぜ答えを変えたのか。


自分に何が足りなかったのか。


それを考えるのは、生きて帰ってからでいい。


今は朝倉と浅井の間から、織田軍を抜く。


それだけだ。


景継は退路を一つずつ確認していく。


街道。


山道。


川。


荷駄。


敵との距離。


時間。


これまでのように、すべてが予想通り動くことを前提にはできない。


相手が予想を外しても。


敵が早く来ても。


味方が予定通り動けなくても。


それでも崩れない形を作る。


今回の失敗が景継へ突きつけたのは、その必要性だった。


「信長様」


「何だ」


景継は顔を上げた。


「必ず帰りましょう」


信長は迷いなく答えた。


「ああ」


前には朝倉。


後ろには浅井。


昨日まで味方だった者に退路を脅かされ、敵地の奥から撤退しなければならない。


しかも、その危機を招いた一因には景継自身の読み違いがある。


だが、失敗を認めることと、失敗に潰されることは違う。


景継は地図へ視線を戻した。


どこで兵を分ける。


どこで追撃を止める。


どの道を使う。


何を捨てる。


誰を先に帰す。


そして、最後に誰が残る。


考えるべきことはいくらでもある。


今は、それでいい。


長政のことを考えるより、目の前の兵を生きて帰すことだけを考える。


これから始まるのは、勝つための戦ではない。


生きて帰るための戦だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。