第六十七話 二つの盟約
小谷城へ向かう道中、景継は浅井長政について集めた情報を頭の中で整理していた。
若くして父・久政から実権を奪う形で当主となったが、戦場では勇猛で家臣からの信頼も厚い。織田との同盟にも前向きで、信長の妹であるお市との仲も良好だという。
問題は長政本人ではない。
浅井家と朝倉家の長い関係。そして父・久政をはじめ、それを重んじる家臣たちだった。
織田と朝倉が戦わなければ、二つの関係は両立する。
だが戦えば、どちらかを選ばなければならない。
景継が知りたいのは、その時に長政が何を選ぶかだった。
「若様」
隣を進む弥兵衛が声をかけてきた。
「何です?」
「随分と難しい顔をしておられます。戦へ向かわれる時よりも」
景継は苦笑した。
「戦なら相手が敵だと分かってますからね。今回は味方が、本当に最後まで味方でいてくれるのかを確かめに行くんです。その方が難しいですよ」
「長政殿を疑っておられるので?」
「疑っているというより、知りたいんです。長政様が何を考えているのか。それを知らないまま朝倉と戦う方が怖いですから」
やがて前方に小谷城が見えてきた。
あの城にいる一人の男の決断が、これから始まる戦の行方を大きく左右する。
景継はそう考えながら、小谷城へ向かった。
◇◇◇
浅井長政と初めて向かい合った時、景継が抱いた印象は悪くなかった。
聞いていた通り若い。身体はよく鍛えられているが、勝家のように存在そのものが前へ出てくる男ではない。相手の話を聞く落ち着きもあった。
「林道景継殿だな」
「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「お市から何度か名を聞いている」
「私のことを?」
「兄上の近くに、随分と変わった若者がいるとな」
「褒められているのか分かりませんね」
長政が笑った。
「少なくとも悪くは言っておらぬ」
最初の空気は穏やかだった。
景継もすぐには本題へ入らず、近江や美濃、信長やお市について話した。
その中で分かったことがある。
長政は信長を恐れているだけではない。武将として評価している。
だが、警戒を完全に解いているわけでもなかった。
それでいい、と景継は思う。
同盟とは友情ではない。互いに利があるから結ぶものだ。
やがて景継は本題へ入った。
「長政様。一つ、お聞きしたいことがあります」
「何だ」
「朝倉家についてです」
長政の表情がわずかに変わった。
「朝倉がどうした」
「信長様は、朝倉義景様が上洛の求めに応じていないことを問題視しています。このままなら、いずれ戦になるかもしれません」
「……それを伝えるために来たのか」
「それもあります。でも、本当に聞きたいのは別です」
景継は長政の目を見た。
「もし織田と朝倉が戦えば、浅井家はどちらにつきますか」
部屋の空気が変わった。
長政はすぐには答えない。
景継も急かさなかった。
「随分と直接聞くのだな」
「遠回しに聞いても、答えは同じでしょうから」
「朝倉家と浅井家の関係を知っているのか」
「ある程度は。だからこそ聞いています」
長政は庭へ目を向けた。
「朝倉家には恩がある。父は、その恩を特に重く考えている。古くから浅井に仕える者にも同じ考えの者は多い」
「それも聞いています」
「ならば、なぜ聞く」
「長政様の考えを聞いていないからです」
長政が景継を見る。
「久政様や家臣たちの考えは調べました。でも、浅井家の当主は長政様でしょう」
再び沈黙が落ちた。
やがて長政が口を開く。
「織田との盟約は守る」
景継は黙って続きを待った。
「お市を妻に迎えたことだけが理由ではない。これから浅井家が生き残るには、いつまでも昔の関係だけに縛られていてはならぬと思っている」
強がりには見えなかった。
少なくとも今、この瞬間。
長政は本気でそう考えている。
「久政様が反対されても?」
「浅井家の当主は私だ」
「家臣たちが反対しても?」
「同じだ」
「朝倉義景様から直接、助けを求められても?」
長政が景継を見た。
「随分としつこいな」
「大事なことなので」
「なら何度でも答えよう」
長政の声が強くなる。
「浅井は織田との盟約を違えぬ」
景継はその目を見続けた。
嘘ではない。
そう判断した。
だからこそ、最後に一つだけ確かめる。
「長政様。失礼を承知で申し上げます」
「何だ」
「長政様の言葉は信じます。ただ、浅井家については不安があります」
長政の眉が動いた。
「どういう意味だ」
「久政様だけではありません。朝倉との関係を重んじる家臣も多い。実際に戦が始まれば、その人たちは必ず動きます」
「抑える」
即答だった。
景継は少しだけ黙り、頷いた。
「分かりました。では、その言葉を信長様へ伝えます」
「ああ。そうしてくれ」
この時、二人とも嘘をついてはいなかった。
長政は本気で織田との盟約を守るつもりだった。
景継も、その本心を正しく見抜いていた。
だからこそ、この日の会談は後に景継を苦しめることになる。
◇◇◇
岐阜へ戻った景継は、信長へ小谷での会談を報告した。
「長政は何と言った」
「織田との盟約を守る、と」
「信じられるか」
景継は少し考えてから答えた。
「長政様本人については、信じていいと思います」
勝家が眉を寄せる。
「本人については?」
「浅井家全体となると違います。久政様をはじめ、朝倉との関係を重視する者はかなりいます」
「だが、長政は裏切らぬと」
「少なくとも今は、本気でそう思っています」
信長が景継を見る。
「妙な言い方だな」
「人の気持ちは変わりますから」
そう答えながらも、景継は長政が簡単に約束を破るとは考えていなかった。
迷いも、朝倉への恩義もある。
それでも最後には、織田との盟約を守ると言った。
信じるだけの理由はある。
信長は少し考えた後、立ち上がった。
「ならば行くぞ」
「越前へ?」
「ああ」
信長の目が鋭くなる。
「朝倉義景に、いつまでも俺を無視できると思わせておくつもりはない」
こうして、織田軍の越前侵攻が決まった。
◇◇◇
元亀元年、1570年。
織田軍は越前へ向けて進軍を開始した。
浅井領を通過する間、景継は周囲の様子を注意深く見ていたが、異変はない。進軍を妨げられることもなく、織田軍は予定通り北へ進んでいった。
「心配しすぎだったんじゃないですか?」
藤吉郎が笑いかけてくる。
「そうなら一番いいですよ」
「長政殿も約束されたのでしょう?」
「しました」
「ならば――」
「約束したから絶対に大丈夫、で戦ができるなら軍師はいりません」
そう返しながらも、景継の表情は険しくなかった。
久政や親朝倉派の不満は把握している。それでも浅井が兵を挙げる可能性は低いと見ていた。
織田との同盟を破れば、お市との関係も壊れ、信長を敵に回す。それで朝倉が勝つ保証もない。
長政なら分かっているはずだ。
そう考えていた。
越前へ入った織田軍の戦いは順調に進んだ。
敦賀方面へ侵攻し、朝倉方の拠点を次々と圧迫していく。
「このまま押しますか」
勝家が尋ねる。
「押す」
信長は迷わなかった。
景継も反対しない。
朝倉軍が態勢を整える前に進んだ方がいい。
勝家が前から圧力をかけ、藤吉郎が兵を動かし、光秀も交渉や情報収集に走る。
戦況だけを見れば、織田軍が優勢だった。
「朝倉は後ろへ兵を集めています」
景継が地図を指す。
「ここで一度守るつもりでしょう」
「抜けるか」
「抜けると思います。ただ、急いだ方がいいですね」
「ならば明日動く」
信長の判断は早かった。
その夜も景継は背後への警戒を続けていた。
だがそれは、浅井が裏切ると考えていたからではない。
異変があれば気づけるようにしておく。
その程度だった。
小谷で長政が言った言葉を、景継はまだ信じていた。
◇◇◇
その頃、小谷城では浅井長政が父・久政と重臣たちを前にしていた。
「織田は越前へ入った」
久政が言った。
「分かっております」
「ならば、どうする」
「どうするとは」
久政の顔が険しくなる。
「朝倉を見捨てるのか」
長政は黙った。
「浅井が苦しかった時、誰が支えた」
「父上」
「朝倉だ」
久政の声が強くなる。
「我らが六角に押され、家そのものが危うかった頃から朝倉とは関わってきた。その恩を忘れ、織田につくというのか」
「忘れてはおりません」
「ならば兵を出せ」
「できません」
長政は即答した。
「織田とは盟約を結んでおります。お市も私の妻です。ここで背後から攻めれば、浅井は信義を失います」
久政が睨む。
「朝倉を見捨てても同じことだ」
「違います」
「何が違う」
「今の浅井が生き残るには、織田との関係が必要です」
何人かの家臣が顔を曇らせた。
長政はその反応を見ていた。
この者たちの考えは知っている。
だから景継にも言った。
自分が抑えると。
「殿」
一人の重臣が口を開いた。
「朝倉から使者が参っております」
長政の表情が変わる。
「何と」
「浅井は朝倉を見捨てるのか、と」
長政は目を閉じた。
予想していた問いだった。
それでも実際に突きつけられると重い。
別の家臣が続ける。
「このまま織田が朝倉を滅ぼせば、次は我らではありませぬか」
「信長殿とは盟約がある」
「それで永遠に安全だと、誰が保証してくれるのでございます」
長政は答えられなかった。
未来など誰にも分からない。
「私は織田との盟約を守る」
長政はもう一度言った。
「これは決めたことだ」
久政が低い声で尋ねる。
「浅井家が割れてもか」
長政の目が動いた。
「何を……」
「お前が織田につくというのなら、それに従えぬ者もいるということだ」
何人かの家臣が視線を落とした。
そこで初めて、長政は突きつけられた。
織田を選べば、浅井家そのものが割れるかもしれない。
父に従う者。
朝倉への恩義を重んじる者。
織田を信用しない者。
そのすべてを抑え、当主として家をまとめられるのか。
「殿。我らは織田が憎いわけではございませぬ。ただ、朝倉をこのような形で見捨てれば、浅井はこれまで何を信じて生きてきたのか分からなくなります」
長政は拳を握った。
お市の顔が浮かぶ。
信長の顔も。
そして小谷まで訪ねてきた景継の顔も。
――もし織田と朝倉が戦えば、浅井家はどちらにつきますか。
あの時、自分は答えた。
織田との盟約を守る。
嘘ではなかった。
今でも、できることなら守りたい。
だが長政は、この場で答えを出すことができなかった。
「少し、時間をくれ」
重臣たちを下がらせた。
◇◇◇
その夜、長政はほとんど眠れなかった。
朝倉への恩。
織田との盟約。
父。
家臣。
お市。
そして浅井家。
どれを選んでも、何かを捨てることになる。
景継に言った言葉が蘇る。
――浅井家の当主は私だ。
その通りだ。
だからこそ、最後に決めるのは自分でなければならない。
父や家臣のせいにはできない。
長政は夜が明けるまで考え続けた。
そして東の空が白み始めた頃、一つの答えを出した。
◇◇◇
翌朝、再び家臣たちが集められた。
久政もいる。
長政は一人一人の顔を見た。
父の代から浅井家を支えてきた者たち。
自分についてきた者たち。
この者たちをまとめることも、当主としての役目だった。
「決めた」
全員が顔を上げる。
「兵を集める」
久政の目が動いた。
長政は一度だけ目を閉じた。
「織田軍の背後へ向かう」
部屋の空気が変わった。
安堵する者もいた。
だが長政の表情に喜びはない。
「ただし、これは父上の命令ではない」
久政が長政を見る。
「浅井家当主として、私が決めた」
その責任だけは、誰にも渡さなかった。
景継との約束を破るのも。
お市の兄を敵に回すのも。
織田との盟約を捨てるのも。
すべて自分の決断だ。
「出陣の支度をせよ」
「はっ!」
家臣たちが一斉に頭を下げる。
長政は目を閉じた。
――長政様の言葉は信じます。
あの時の景継の声が蘇る。
自分は確かに、あの少年へ約束した。
「……すまぬ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
◇◇◇
越前では、織田軍がさらに前進しようとしていた。
「ここを抜ければ、朝倉側はもう一段後ろへ下がるしかありません」
景継が地図を指す。
「追うか」
「追います。ただ、次の拠点を落としたところで一度止まりましょう。奥へ入りすぎれば兵糧も情報も不利になります」
勝家も頷いた。
「異論はない」
その時だった。
陣の外が騒がしくなった。
馬の音。
兵の声。
「申し上げます!」
飛び込んできた使者の顔色を見て、景継の表情が変わった。
「何だ」
信長が尋ねる。
「近江にて、浅井勢に動きがございます!」
「浅井?」
景継がすぐに聞き返す。
「どこへ向かっています」
「我らの後方へ向かっているとの報せにございます!」
勝家が立ち上がった。
「何だと?」
景継は地図へ目を落とす。
まず考えたのは距離と道だった。
感情は後でいい。
「兵数は?」
「まだ分かりませぬ」
「誰が率いています。長政様ですか、久政様ですか」
「そこまでは確認できておりませぬ」
久政や親朝倉派が独断で動いた可能性もある。
「追加の情報を。誰が兵を動かしているのか、長政様本人がどこにいるのか。それを最優先で確認してください」
「はっ!」
使者が駆け出していく。
勝家が景継を見る。
「どう見る」
「まだ決められません。長政様が命じたのか、久政様たちが勝手に動いたのかで意味が違います」
景継は地図を見続けた。
小谷で見た長政の目。
あれは嘘ではなかった。
ならば、何が起きた。
再び馬の音がした。
二人目の使者が飛び込んでくる。
「申し上げます! 浅井勢、南下しております! 複数の部隊が織田軍の退路へ向かっている模様!」
「長政様は?」
「浅井長政殿自ら出陣したとの情報がございます!」
景継の動きが止まった。
――浅井は織田との盟約を違えぬ。
あの言葉に嘘はなかった。
だからこそ、景継にはすぐ分かった。
長政は嘘をついていたのではない。
あの時とは、答えを変えたのだ。
「景継」
信長の声が聞こえる。
返事ができなかった。
「景継」
もう一度呼ばれ、景継は顔を上げた。
「……はい」
「どうした」
景継は小さく息を吐いた。
「読み違えました」
勝家が景継を見る。
「長政様の本心ばかり見ていました。あの時は本気で盟約を守るつもりだった。だから私は、それを見抜けたことで安心した」
景継の指が小谷城へ触れる。
「でも見るべきだったのは、その意思を最後まで貫けるかどうかでした。浅井家が割れるところまで追い込まれた時、それでも同じ答えを選べるのか。そこを読み切れなかった」
長秀が静かに尋ねる。
「人を見誤ったのではないと?」
「人の心は読めました。でも、それが変わらないと思ってしまった。それが間違いです」
人は盤上の駒ではない。
状況が変われば、答えも変わる。
知っていたはずのことだった。
「景継」
信長が呼ぶ。
景継が顔を上げた。
「反省は後だ」
信長は責めなかった。
ただ、今必要なことだけを尋ねる。
「どうする」
その一言で、景継の意識が戦場へ戻った。
今ここで止まれば、何千という兵が死ぬ。
景継は地図を引き寄せた。
前には朝倉。
後ろから浅井。
だが、まだ両軍は完全には繋がっていない。
「浅井勢がここまで来るのに、どれくらいかかります」
「早ければ一日か二日」
「朝倉は?」
「こちらの動きを見ている。越前中の兵が集まったわけではない」
長秀の答えに、景継は頷いた。
まだ間に合う。
「信長様」
景継が顔を上げる。
「退きます」
勝家が反応した。
「ここまで来てか」
「ここまで来たからです。今ならまだ退路があります。さらに奥へ入れば、浅井に塞がれた時に戻れません」
「朝倉は追ってくるぞ」
「来るでしょう。だから主力を先に退かせ、後ろに追撃を止める兵を残します。同時に浅井側へ偵察を出して、使える道を探り続ける」
信長が尋ねる。
「全軍を戻せるか」
景継は一瞬だけ黙った。
「分かりません」
部屋の空気が張り詰める。
「浅井の位置も、朝倉の追撃もまだ読めません。全員必ず帰せると言えば嘘になります」
信長の目が細くなる。
「だが?」
「帰します」
できると決めつけているわけではない。
そのために、今あるものをすべて使う。
「藤吉郎さん」
「はっ」
「周辺の村や寺から道を知る者を集めてください。街道だけじゃない。山道でも獣道でもいい。退路の候補が欲しい」
「承知いたしました」
「光秀殿」
「ここにいる」
「京から来る途中で使った道と、周囲の寺社とのつながりを確認してください。兵を休ませられる場所、水や食糧を得られる場所も」
「分かった」
「長秀様。兵糧と荷駄を整理してください。持ち帰るものと捨てるものを分けます」
「承知した」
「勝家様」
「何だ」
「朝倉を止める場所を探してください。狭く、大軍が一度に入れない場所がいい」
勝家の口元が上がる。
「ようやく面白くなってきたな」
「本当にそういうところですよね」
景継が呆れたように返すと、張り詰めていた空気がわずかに緩んだ。
だが、やるべきことは多い。
これまで景継は、勝つために状況を整えてきた。
今回は違う。
すでに読み違えた後から始めなければならない。
それでも、負けると決まったわけではない。
崩れたなら、崩れたところから次を考える。
それはかつて司馬懿として生きた自分が、何度もしてきたことでもあった。
「景継」
信長が声をかける。
「お前はどうする」
「まず、信長様を先に退かせます」
「俺だけ逃げろというのか」
「違います。信長様がここで捕まれば、織田家そのものが終わります。一番先に生きて帰らなければならないのは信長様です」
「お前は?」
「残ります」
信長の目が変わった。
「責任を取るつもりか」
「違います」
景継は首を横に振った。
「責任を取るために死んでも意味がありません。私が一番、この状況を頭に入れているから残るだけです。撤退の順番も道も、敵の動きに合わせて変えなければならない。なら、最後まで全体を見る人間が後ろにいた方がいい」
信長はしばらく景継を見ていた。
「なら、死ぬなよ」
「そのつもりです」
「お前が死ねば、今度こそ俺が困る」
景継は少し笑った。
「随分高く評価してくれるようになりましたね」
「今さら気づいたか」
景継は地図へ視線を戻した。
長政がなぜ答えを変えたのか。
自分に何が足りなかったのか。
それを考えるのは、生きて帰ってからでいい。
今は朝倉と浅井の間から、織田軍を抜く。
それだけだ。
景継は退路を一つずつ確認していく。
街道。
山道。
川。
荷駄。
敵との距離。
時間。
これまでのように、すべてが予想通り動くことを前提にはできない。
相手が予想を外しても。
敵が早く来ても。
味方が予定通り動けなくても。
それでも崩れない形を作る。
今回の失敗が景継へ突きつけたのは、その必要性だった。
「信長様」
「何だ」
景継は顔を上げた。
「必ず帰りましょう」
信長は迷いなく答えた。
「ああ」
前には朝倉。
後ろには浅井。
昨日まで味方だった者に退路を脅かされ、敵地の奥から撤退しなければならない。
しかも、その危機を招いた一因には景継自身の読み違いがある。
だが、失敗を認めることと、失敗に潰されることは違う。
景継は地図へ視線を戻した。
どこで兵を分ける。
どこで追撃を止める。
どの道を使う。
何を捨てる。
誰を先に帰す。
そして、最後に誰が残る。
考えるべきことはいくらでもある。
今は、それでいい。
長政のことを考えるより、目の前の兵を生きて帰すことだけを考える。
これから始まるのは、勝つための戦ではない。
生きて帰るための戦だった。




