第六十七話 二つの盟約
小谷城へ向かう道中、景継は何度も浅井長政について集めた情報を頭の中で整理していた。
浅井家の当主となってからの長政の評判は悪くない。若くして父・久政から実権を奪う形で家を率いることになったが、戦場では勇猛であり、家臣からの信頼も厚い。織田との同盟にも前向きで、信長の妹であるお市との仲も良好だという。
問題があるとすれば、長政本人ではなかった。
浅井家と朝倉家との間に長く続いてきた関係。そして父である久政をはじめ、その関係を重く考える家臣たちだった。
織田と朝倉が戦わなければ、その二つは同時に存在できる。織田とは新たな同盟を結び、朝倉とは昔からの関係を残す。それなら何も問題はない。
だが、両者が戦えば話は変わる。
どちらかを選ばなければならない。
景継が知りたいのは、その時に浅井長政が何を選ぶかだった。
「若様」
隣を走っていた弥兵衛が声をかけてきた。
「何です?」
「随分と難しい顔をしておられます」
「そうですか?」
「戦へ向かわれる時より難しい顔をしております」
景継は苦笑した。
「戦なら相手が敵だと分かってますからね。今回は味方が、本当に最後まで味方でいてくれるのかを確かめに行くんです。その方が難しいですよ」
「長政殿を疑っておられるので?」
「疑っているというより、知りたいんです。長政様が何を考えているのか。それを知らないまま朝倉と戦う方が怖いですから」
やがて前方に小谷城が見えてきた。
浅井家の本拠。
そして、その中にいる一人の男が、これから始まる戦の行方を大きく左右することになる。
◇◇◇
浅井長政と初めて向かい合った時、景継が抱いた印象は悪くなかった。
聞いていた通り、若い。だが、若さだけが目立つ男ではなかった。身体はよく鍛えられており、武将らしい力強さがある。一方で、勝家のように存在そのものが前へ出てくるような圧はなく、相手の話を聞く落ち着きも持っている。
「林道景継殿だな」
「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「お市から何度か名を聞いている」
景継は少し意外そうな顔をした。
「私のことを?」
「兄上の近くに、随分と変わった若者がいるとな」
「褒められているのか分かりませんね」
長政が笑った。
「少なくとも悪くは言っておらぬ」
最初の空気は穏やかだった。
景継もすぐに本題へ入らず、近江や美濃のこと、信長やお市のことを話した。その間も長政の話し方や視線、信長の名を出した時の反応を細かく見ていた。
長政は信長を恐れているだけではない。
評価している。
同時に、完全に心を許しているわけでもない。
当然だと景継は思った。
同盟とは友情ではない。互いに利があるから結ぶものであり、相手への警戒をすべて捨てる必要などない。
しばらく話した後、景継はようやく本題へ入った。
「長政様。一つ、お聞きしたいことがあります」
「何だ」
「朝倉家についてです」
長政の表情が、ほんの少し変わった。
それを景継は見逃さなかった。
「朝倉がどうした」
「信長様が、朝倉義景様の対応を問題視しています。義景様は信長様からの上洛の求めに応じていない。このままなら、いずれ戦になる可能性があります」
「……それを伝えるために来たのか」
「それもあります。でも、本当に聞きたいのは別です」
景継は長政の目を見た。
回りくどく探るつもりはなかった。
「もし織田と朝倉が戦えば、浅井家はどちらにつきますか」
部屋の空気が変わった。
長政はすぐには答えなかった。
その沈黙を、景継は急かさない。むしろ、何を考えているのかを見るために待った。
やがて長政が口を開いた。
「随分と直接聞くのだな」
「遠回しに聞いても、答えは同じでしょうから」
「朝倉家と浅井家の関係を知っているのか」
「ある程度は。だからこそ聞いています」
長政は景継から視線を外し、庭へ目を向けた。
「朝倉家には恩がある。父は、その恩を特に重く考えている。古くから浅井に仕える者にも同じ考えの者は多い」
「それも聞いています」
「ならば、なぜ聞く」
「長政様の考えを聞いていないからです」
長政が景継を見る。
「久政様がどう考えているかは調べました。家臣たちがどう考えているかも、ある程度は分かりました。でも、浅井家の当主は長政様でしょう」
長政の目がわずかに細くなる。
「だから本人に聞きに来ました。長政様は、どうするつもりですか」
再び沈黙が落ちた。
長政はしばらく考えてから、静かに答えた。
「織田との盟約は守る」
景継は何も言わなかった。
長政は続ける。
「お市を妻に迎えたことだけが理由ではない。これから浅井家が生き残るには、いつまでも昔の関係だけに縛られていてはならぬと思っている」
その言葉を聞きながら、景継は長政の顔を見ていた。
無理に強がっているようには見えない。信長を恐れて言っているわけでもない。
少なくとも今、この瞬間。
長政は本気でそう考えている。
「久政様が反対されても?」
景継が尋ねた。
長政の表情が少し硬くなった。
「浅井家の当主は私だ」
「家臣たちが反対しても?」
「同じだ」
「朝倉義景様から直接、助けを求められても?」
長政は景継を見た。
「随分としつこいな」
「大事なことなので」
「なら、何度でも答えよう」
長政の声が強くなる。
「浅井は織田との盟約を違えぬ」
景継は長政の目を見続けた。
嘘ではない。
そう判断した。
だからこそ、景継は最後に一つだけ言った。
「長政様。失礼を承知で申し上げます」
「何だ」
「長政様の言葉は信じます。でも、浅井家についてはまだ少し不安があります」
長政の眉が動いた。
「どういう意味だ」
「今の浅井家には、長政様以外にも決断へ影響を与えられる人が多すぎます。久政様だけではありません。親朝倉の家臣もです。長政様が織田との盟約を守ると決めても、朝倉と実際に戦が始まれば、その人たちは必ず動きます」
「抑える」
長政は即答した。
景継は少し黙った。
その答えにも嘘は感じなかった。
「分かりました。では、私は長政様の言葉を信長様へ伝えます」
長政が頷いた。
「そうしてくれ」
この時、二人とも嘘をついてはいなかった。
長政は本気で織田との盟約を守るつもりだった。
景継もまた、その言葉を正しく見抜いていた。
だからこそ、この日の会談は後に景継を苦しめることになる。
◇◇◇
岐阜へ戻った景継は、信長へ小谷での会談を報告した。
「長政は何と言った」
「織田との盟約を守る、と」
「信じられるか」
信長の問いに、景継は少し考えてから答えた。
「長政様本人については、信じていいと思います」
勝家が眉を寄せる。
「本人については?」
「浅井家全体となると、少し違います。久政様をはじめ、朝倉との関係を重視する者はかなりいます。そこは注意しておいた方がいいと思います」
「だが、長政は裏切らぬと」
「少なくとも、今は本気でそう思っています」
信長が景継を見る。
「妙な言い方だな」
「人の気持ちは変わりますから」
そう答えながらも、景継自身は長政が簡単に約束を破るとは考えていなかった。
長政は浅井家の当主だ。父の久政には今も影響力がある。しかし、一度実権を奪って家を率った男が、最も重要な外交判断まで父の言うままになるとは思えない。
何より景継は、長政本人の言葉を聞いた。
目も見た。
迷いはあった。
朝倉への恩義も捨ててはいない。
それでも最後には、織田との盟約を守ると言った。
ならば、信じるだけの理由はある。
信長は少し考えた後、立ち上がった。
「ならば行くぞ」
「越前へ?」
「ああ」
信長の目が鋭くなる。
「朝倉義景に、いつまでも俺を無視できると思わせておくつもりはない」
こうして、織田軍の越前侵攻が決まった。
◇◇◇
元亀元年、1570年。
織田軍は越前へ向けて進軍を開始した。
京から近江を抜け、越前へ入る。
景継も信長の近くにいた。
浅井領を通過する際、景継は周囲の様子を注意深く見ていたが、目立った異変はなかった。浅井側から進軍を妨害されることもなく、織田軍は予定通り北へ進んでいく。
「心配しすぎだったんじゃないですか?」
藤吉郎が景継へ笑いかけた。
「そうなら一番いいですよ」
「長政殿も約束されたのでしょう?」
「しました」
「ならば」
「約束したから絶対に大丈夫、で戦ができるなら軍師はいりません」
景継はそう答えたものの、表情はそれほど険しくなかった。
浅井の動きについては進軍中も可能な限り情報を集めさせている。久政や親朝倉派が不満を持っていることも把握している。
だから完全に無警戒だったわけではない。
それでも景継は、浅井が実際に兵を挙げる可能性は低いと見ていた。
織田との同盟を破れば、お市との関係も壊れる。信長を敵に回す。さらに朝倉が織田を破れる保証もない。
浅井家の将来を考えれば、あまりにも危険な選択だった。
長政なら、それくらい分かっている。
だからこそ、小谷であれほどはっきり約束したのだろう。
そう考えていた。
そして、越前へ入った織田軍の戦いは順調に進んだ。
敦賀方面へ侵攻した織田軍は、朝倉方の拠点を次々と圧迫していった。朝倉側も抵抗したが、織田軍の勢いを止めることはできない。
「このまま押しますか」
勝家が尋ねる。
信長は迷わなかった。
「押す」
景継も反対しなかった。
朝倉軍が態勢を整える前に前へ進んだ方がいい。敵に時間を与えれば、越前各地から兵が集まってくる。
今ならまだ、各個に崩せる。
織田軍はさらに進んだ。
勝家が正面から圧力をかけ、藤吉郎が兵を動かし、光秀も各地との交渉や情報収集に動いていた。景継は全体を見ながら、朝倉軍がどこで兵を集めようとしているのかを読み続けた。
戦況だけを見れば、織田軍が優勢だった。
「朝倉は後ろへ兵を集めています」
景継が地図を指した。
「ここで一度守るつもりでしょう」
信長が見る。
「抜けるか」
「抜けると思います。ただ、急いだ方がいいですね。時間を与えるほど越前の兵が集まります」
「ならば明日動く」
信長の判断は早かった。
その夜、景継は陣中で地図を見ながら越前の先を考えていた。
このまま朝倉を崩せるか。完全に滅ぼすところまで行くか。それとも途中で降伏を受け入れるか。
背後への警戒も続けている。
だが、その警戒は「浅井が裏切る」という前提ではない。
何か異変があればすぐに分かるようにしておく。
その程度だった。
小谷で長政と会った時のことを、景継はまだ覚えていた。
浅井は織田との盟約を違えぬ。
長政はそう言った。
そして、その言葉に嘘はなかった。
◇◇◇
その頃、小谷城では浅井長政が、父・久政と重臣たちを前にしていた。
部屋の空気は重かった。
「織田は越前へ入った」
久政が言った。
「分かっております」
「ならば、どうする」
「どうするとは」
久政の顔が険しくなる。
「朝倉を見捨てるのか」
長政は黙った。
「浅井が苦しかった時、誰が支えた」
「父上」
「朝倉だ」
久政の声が強くなる。
「我らが六角に押され、家そのものが危うかった時代から、朝倉とは長く関わってきた。その恩を忘れ、織田につくというのか」
「忘れてはおりません」
「ならば兵を出せ」
「できません」
長政は即答した。
部屋の空気がさらに重くなった。
「織田とは盟約を結んでおります。お市も私の妻です。ここで織田を背後から攻めれば、浅井は信義を失います」
久政が長政を睨んだ。
「朝倉を見捨てても同じことだ」
「違います」
「何が違う」
「今の浅井が生き残るには、織田との関係が必要です」
その言葉に、何人かの家臣が顔を曇らせた。
長政はそれを見ていた。
分かっている。
この者たちが朝倉との関係を重視していることは、以前から知っている。だから景継にも言った。
自分が抑えると。
浅井家の当主は自分だと。
「殿」
一人の重臣が口を開いた。
「朝倉から使者が参っております」
長政の表情が変わった。
「何と」
「浅井は朝倉を見捨てるのか、と」
長政は目を閉じた。
予想していた。
いつか来ると思っていた。
それでも、実際にその問いを突きつけられると重さが違った。
別の家臣が続ける。
「このまま織田が朝倉を滅ぼせば、次は我らではありませぬか」
「信長殿とは盟約がある」
「盟約があるから永遠に安全だと、誰が保証してくれるのでございます」
長政は答えられなかった。
信長が浅井を滅ぼさない保証などない。
だが、それは朝倉についても同じだ。
未来など誰にも分からない。
だからこそ今、どちらを選ぶかが重要になる。
「私は織田との盟約を守る」
長政はもう一度言った。
「これは決めたことだ」
久政が低い声で尋ねた。
「浅井家が割れてもか」
長政の目が動いた。
「何を……」
「お前が織田につくというのなら、それに従えぬ者もいるということだ」
部屋にいた何人かの家臣が視線を落とした。
その瞬間、長政は初めて理解した。
これは織田か朝倉かという話だけではない。
自分が織田を選べば、浅井家そのものが割れる可能性がある。
父に従う者。
朝倉への恩義を重視する者。
織田を信用しない者。
そのすべてを敵に回しながら、当主として家をまとめられるのか。
「殿」
別の家臣が言った。
「我らは織田が憎いわけではございませぬ。ただ、朝倉をこのような形で見捨てれば、浅井はこれまで何を信じて生きてきたのか分からなくなります」
長政は拳を握った。
頭にお市の顔が浮かんだ。
信長の顔も。
そして、小谷まで自分に会いに来た景継の顔も浮かんだ。
――もし織田と朝倉が戦えば、浅井家はどちらにつきますか。
あの時、自分は答えた。
織田との盟約を守る。
嘘ではなかった。
今でも、できることなら守りたい。
だが、あの時の自分はここまで家臣たちが反発するとは思っていなかった。父が、浅井家そのものが割れることまで覚悟して朝倉につこうとするとは思っていなかった。
長政はこの場で答えを出すことができず、少しだけ時間をくれと告げて重臣たちを下がらせた。
◇◇◇
その夜、長政はほとんど眠れなかった。
お市には何も話していない。
話せば、何と答えるだろう。
兄を裏切らないでほしいと言うだろうか。それとも、浅井家の当主として決めてほしいと言うだろうか。
分からない。
長政は夜の小谷城を歩きながら、何度も同じところへ戻ってきた。
朝倉への恩。
織田との盟約。
父。
家臣。
お市。
浅井家。
どれか一つを選べば、別の何かを捨てることになる。
そして、その中には「これを選べば絶対に正しい」と言える答えが一つもなかった。
景継に言った言葉を思い出す。
――浅井家の当主は私だ。
その通りだ。
だからこそ、最後に決めなければならないのは自分だった。
父のせいにはできない。
家臣のせいにもできない。
誰かに強制されたから仕方なかったと言って逃げることもできない。
自分が決める。
そして、その結果を浅井家の当主として背負う。
長政は夜が明けるまで考え続けた。
やがて東の空が白み始めた頃。
ようやく一つの答えを出した。
◇◇◇
翌朝、再び家臣たちが集められた。
久政もいる。
誰も話さない。
長政は上座へ座ると、しばらく家臣たちの顔を見た。
自分についてきた者。
父の代から仕えている者。
浅井という家を守るため、何度も戦ってきた者。
この者たちをまとめることが、自分の役目だった。
「決めた」
長政が口を開いた。
全員が顔を上げる。
「兵を集める」
久政の目が動いた。
長政は一度だけ目を閉じ、それからはっきりと言った。
「織田軍の背後へ向かう」
部屋の空気が変わった。
何人かの家臣は明らかに安堵した。
だが、長政自身の表情には喜びなどなかった。
「ただし、これは父上の命令ではない」
久政が長政を見る。
「浅井家当主として、私が決めた」
その言葉だけは、誰にも譲らなかった。
景継との約束を破るのも自分。
お市の兄を敵に回すのも自分。
織田との盟約を捨てるのも自分。
ならば、その責任も自分が負う。
「出陣の支度をせよ」
家臣たちが一斉に頭を下げた。
「はっ!」
長政は目を閉じた。
一瞬だけ、小谷で向かい合った景継の顔が浮かんだ。
――長政様の言葉は信じます。
あの少年は、自分を信じた。
そして自分も、あの時は本当に約束を守るつもりだった。
だからこそ胸の奥に残るものは重かった。
「……すまぬ」
誰にも聞こえないほどの声で、長政は呟いた。
◇◇◇
越前では、織田軍がさらに前進しようとしていた。
朝倉側の守りを崩し、このまま奥へ入る。景継も次の進軍について信長たちと話していた。
「ここを抜ければ、朝倉側はもう一段後ろへ下がるしかありません」
景継が地図を指す。
「追うか」
信長が尋ねる。
「追います。ただ、深く入りすぎないようにした方がいいですね。越前は朝倉の領地です。奥へ入るほど、こちらは兵糧も情報も不利になります」
「ならば、どこまで行く」
「次の拠点を落としたところで一度止まりましょう。その時点で義景様がどう動くかを見ます」
勝家も頷いた。
「異論はない」
話がまとまりかけた。
その時だった。
陣の外が騒がしくなった。
馬の音が近づき、続いて兵の声が響く。
「申し上げます!」
一人の使者が飛び込んできた。
その顔色を見ただけで、景継には何か大きなことが起きたと分かった。
「何だ」
信長が尋ねる。
使者が息を整える。
「近江にて、浅井勢に動きがございます!」
景継の表情が変わった。
「浅井?」
「はい!」
「どこへ向かっています」
「それが……我らの後方へ向かっているとの報せにございます」
部屋が静まり返った。
勝家が立ち上がる。
「何だと?」
景継はすぐに地図へ目を落とした。
浅井領から現在の織田軍の位置まで。
距離。
道。
進軍速度。
まず、それだけを考える。
感情を挟むのは後だ。
「兵数は?」
「まだ分かりませぬ」
「誰が率いています。長政様本人ですか、それとも久政様ですか」
「そこまでは確認できておりませぬ」
景継は少し考えた。
久政や親朝倉派の一部が独断で動いた可能性もある。
長政がそれを止めようとしているかもしれない。
まだ、浅井家全体が織田へ敵対したと決めるには情報が足りない。
「追加の情報を取ってください。浅井家の誰が兵を動かしているのか、長政様本人がどこにいるのか、それを最優先で確認してください」
「はっ!」
使者が出ていく。
勝家が景継を見る。
「どう見る」
「まだ分かりません」
「浅井が我らの後ろへ兵を出したのだぞ」
「だからこそです。長政様本人が命じたのか、久政様たちが勝手に動いたのかで意味が違います。今ここで決めつけて、誤った判断をする方が危険です」
信長は黙っていた。
景継は地図を見続ける。
胸の奥に、じわじわと嫌な感覚が広がっていた。
大丈夫だと思いたいわけではない。
長政は約束した。
だが、約束だけを根拠にしてはいけないことくらい分かっている。
それでも。
小谷で見た長政の目を思い出す。
あれは嘘ではなかった。
自分は、そこだけは間違えていない。
ならば。
今起きていることは何なのか。
再び馬の音がした。
今度は一人ではない。
二人目の使者が飛び込んでくる。
「申し上げます!」
「言え」
「浅井勢、南下しております! 複数の部隊が織田軍の退路へ向かっている模様!」
景継の目が細くなる。
「長政様は?」
「浅井長政殿自ら出陣したとの情報がございます!」
景継はすぐには答えなかった。
小谷城での会話が鮮明に蘇る。
――浅井は織田との盟約を違えぬ。
あの声。
あの表情。
そして、父や家臣が反対しても自分が抑えると言った長政。
全部。
嘘ではなかった。
だからこそ、景継の頭の中で最初に浮かんだのは「騙された」ではなかった。
違う。
長政は、自分と話した時には本当にそうするつもりだった。
それなのに。
今は違う答えを選んだ。
「景継」
信長の声が聞こえた。
景継は答えなかった。
「景継」
もう一度呼ばれ、ようやく顔を上げた。
「……はい」
「どうした」
景継は数秒黙った後、小さく息を吐いた。
「読み違えました」
勝家が景継を見る。
景継は続ける。
「長政様が嘘をついているかどうかばかり見ていました。あの時、長政様は本気で織田との盟約を守るつもりだった。それは今でも間違っていないと思います。だから私は、そこを見抜けたことで安心した」
景継は地図上の小谷城を見た。
「でも、本当に見るべきだったのは、その気持ちを長政様が最後まで貫ける状況にあるかどうかでした。父上や家臣たちがどこまで反発するのか。浅井家が割れるところまで追い込まれた時、それでも同じ答えを選べるのか。私はそこまで見切れていなかった」
長秀が静かに尋ねる。
「では、人を見誤ったのではないと?」
「人は見誤っていません」
景継は答えた。
「でも、人を読めたから、その後も同じ人間でいてくれると思ってしまった。それが間違いでした」
その言葉を口にした瞬間。
景継は自分の失敗が、ようやくはっきり見えた気がした。
人間は盤上の駒ではない。
一度置いた場所に、そのまま留まってくれるわけではない。
考える。
迷う。
恐れる。
状況が変われば、昨日とは違う答えを選ぶ。
それを知っていたはずなのに。
どこかで、自分なら十分に読めると思っていた。
司馬懿として長い乱世を生きてきた経験が、その部分だけは景継の自信を強くしすぎていた。
「景継」
信長が三度目に名前を呼んだ。
景継が顔を上げる。
「反省は後だ」
信長の声は落ち着いていた。
怒鳴らない。
責めもしない。
ただ、今必要なことだけを尋ねる。
「今はどうする」
その一言で、景継の意識が完全に戦場へ戻った。
そうだ。
反省は生きて帰ってからすればいい。
今ここで判断を止めれば、自分だけではなく何千という兵が死ぬ。
景継は地図を自分の前へ引き寄せ、小谷での会話も、長政への悔しさも、一度頭の隅へ追いやった。
まず確認すべきは現在の状況だ。
朝倉軍は前方にいる。
浅井軍は後方から南下している。
両軍が完全に連携する前なら、まだ逃げる余地はある。
だが前進を続ければ、その余地は急速に狭くなる。
「浅井勢がここまで来るのに、どれくらいかかります」
「早ければ一日か二日」
長秀が答える。
「朝倉は?」
「こちらの動きを見ております。まだ越前中の兵がすべて集まっているわけではありません」
景継は頷いた。
そこだけが救いだった。
朝倉側も、この瞬間に大軍を揃えて織田軍を包囲できる状態ではない。
浅井もまだ退路を完全に塞いだわけではない。
ならば、今この瞬間に動くしかない。
景継は地図上の織田軍の位置から、南へ通じる道を何本も確認した。
大軍が通れる道。
小部隊しか通れない道。
荷駄を持ったまま通れる場所。
途中で川を渡る必要がある場所。
そして、朝倉が追撃してきた場合に最も危険になる場所。
一つずつ頭の中で組み立てていく。
「信長様」
景継が顔を上げた。
「退きます」
勝家が反応する。
「ここまで来てか」
「ここまで来たからです。今ならまだ、撤退する軍として動けます。でもさらに奥へ入れば、浅井が後ろを塞いだ時に戻れなくなる。朝倉と浅井が完全に連携してからでは遅いです」
「朝倉は追ってくるぞ」
「来ます。むしろ、来なければおかしいです」
景継は冷静に答えた。
「だから全軍が同時に走るだけでは駄目です。主力を先に退かせ、後ろに追撃を止める兵を残す。浅井側へも偵察を出して、どの道がまだ使えるかを常に確認する必要があります」
信長は景継を見る。
「全軍を戻せるか」
その問いに、景継はすぐには答えなかった。
以前の自分なら、ここで「戻します」と即答していたかもしれない。
だが今は。
つい先ほど、自分の判断が覆されたばかりだった。
根拠もなく言い切るつもりはなかった。
「分かりません」
部屋の空気が張り詰めた。
景継は続ける。
「浅井がどこまで進んでいるのか、朝倉がどの程度追ってくるのか、まだ情報が足りません。全員必ず帰せると言えば、それは嘘になります」
信長の目が細くなる。
「だが?」
「帰します」
今度の言葉は短かったが、その意味は先ほどとは違った。
できると信じ込んでいるのではない。
できるか分からない。
だから、そのために必要なものをすべて使う。
それだけだった。
景継はすぐに周囲を見る。
「藤吉郎さん」
「はっ」
「周辺の村や寺から、この辺りの道を知っている者を集めてください。街道だけでは足りません。山道、獣道、荷車が通れない道でも構いません。浅井に塞がれた時の予備が欲しいです」
「承知いたしました」
「光秀殿」
「ここにいる」
「京から越前へ来る途中で使った道と、その周囲の寺社とのつながりを確認してください。兵を一時的に逃がせる場所、食糧や水を確保できる場所も知りたいです」
「分かった」
「長秀様。兵糧と荷駄を整理してください。持って帰る物と、今ここで捨ててもいい物を分けます。撤退速度を落とす物は、必要なら全部置いていきます」
「承知した」
「勝家様」
「何だ」
「朝倉が追ってくるなら、一番最初にぶつかる場所を選んでください。狭くて、大軍が一度に入れない場所がいいです。こちらが少ない兵でも時間を稼げる場所を探したい」
勝家の口元がわずかに上がった。
「ようやく面白くなってきたな」
「本当にそういうところですよね」
景継が呆れたように返すと、緊張していた部屋の空気がほんの少しだけ緩んだ。
その程度の余裕が戻ったことを、信長は黙って見ていた。
景継は地図へ視線を戻した。
今まで、自分は勝つために盤面を作ってきた。
敵を減らす。
味方を増やす。
相手が動く前に危険を潰す。
だが今回は違う。
すでに失敗している。
理想の盤面を作る時間などない。
今ある最悪に近い状況を使って、どう生き延びるかを考えなければならない。
それは。
司馬懿としての自分が、本来もっとも得意としていた戦い方でもあった。
一度の失敗で終わる必要はない。
負ける可能性が出たなら、まず生き残る。
生き残れば。
次がある。
「景継」
信長が声をかける。
「お前はどうする」
景継は地図を見たまま答えた。
「まず、信長様を先に退かせます」
「俺だけ逃げろというのか」
「違います」
景継は顔を上げた。
「信長様がここで捕まれば、織田家そのものが終わります。誰が一番先に生きて帰らなければならないかを考えれば、信長様です」
「お前は?」
「残ります」
信長の目が変わった。
「責任を取るつもりか」
「違います」
景継は首を横に振った。
「責任を取るために死ぬなんて、一番意味がありません。私が一番、この状況を頭に入れているから残るだけです。撤退の順番も、どの道を使うかも、朝倉と浅井の距離も見ながら変えなければならない。なら、最後まで全体を見られる人間が後ろにいた方がいい」
信長はしばらく景継を見ていた。
景継も目を逸らさなかった。
やがて信長が小さく笑う。
「なら、死ぬなよ」
「そのつもりです」
「お前が死ねば、今度こそ俺が困る」
「随分高く評価してくれるようになりましたね」
「今さら気づいたか」
景継も少しだけ笑った。
それから再び地図へ目を落とした。
小谷で交わした約束は破られた。
だが、そのことを悔やむのは後でいい。
長政がなぜ決断を変えたのか。
自分の何が足りなかったのか。
それも。
今は考えなくていい。
戦は待ってくれない。
失敗したからといって、敵が攻めるのを止めてくれるわけでもない。
景継はすべての感情を一度奥へ押し込み、目の前にある数字と地形と人間だけを見ることにした。
朝倉軍。
浅井軍。
織田軍。
時間。
距離。
兵糧。
道。
そして。
誰をどこに残すのか。
その一つでも間違えれば、多くの兵が帰れなくなる。
景継は長い間、自分は人を読むことができると思っていた。
実際。
かなりの部分では読めていた。
長政の本心さえ。
正しく読んだ。
それでも。
結果は外れた。
ならば。
人の心を当てることを前提にした策では足りない。
相手が予想と違う行動をしても崩れない策を作る。
信じた相手が裏切っても。
敵が予想より早く来ても。
味方が予定通り動けなくても。
それでも。
最後には生き残れる形を作る。
その必要性を。
景継は今。
初めて。
自分の命で理解しようとしていた。
「信長様」
「何だ」
景継は地図から顔を上げた。
「必ず帰りましょう」
信長は迷いなく答えた。
「ああ」
その一言を聞き、景継も静かに頷いた。
これから始まるのは、勝つための戦ではない。
生きて帰るための戦だった。
前には朝倉。
後ろには浅井。
昨日まで味方だった者に退路を脅かされ、敵地の奥で反転しなければならない。
しかも、その危機を招いた原因の一つには、自分自身の判断がある。
景継にとって、それはこれまでとはまったく違う重さを持つ戦いだった。
だが。
だからこそ。
逃げない。
失敗を認めることと。
失敗に潰されることは違う。
景継は地図の上で、織田軍が通るべき道を一つずつ確認し始めた。
どこで兵を分ける。
どこで朝倉を止める。
どこで浅井の先回りを避ける。
どの荷を捨てる。
誰を先へ送る。
そして。
最後に誰が残る。
考えることは山ほどあった。
それでも。
今は。
その方がいい。
長政のことを考え続けるより。
目の前の戦を考えている方が。
景継は冷静でいられた。
そしてこの時。
景継はまだ知らなかった。
今回の撤退戦が、自分にとってただの失敗の後始末では終わらないことを。
自分の思い通りに事が運ばない時。
計算していた前提が崩れた時。
信じていた相手が違う選択をした時。
それでもなお。
どうやって生き残るのか。
その答えを出す戦いが。
今まさに。
始まろうとしていた。




