第六十六話 京の先にある火種
岐阜城で上洛が決まってから、織田家の動きは早かった。
足利義昭を奉じて京へ向かう。それだけを聞けば、将軍となるべき人物を都へ送り届けるための戦に見える。だが、信長のそばにいる者たちは、それだけで終わるとは考えていなかった。
尾張を統一し、美濃を手に入れた信長が、ついに京へ向かう。
京には朝廷があり、将軍家があり、寺社があり、多くの商人がいる。さらに各地の大名へつながる情報が集まり、地方の城下とは比べものにならないほど複雑な政治の世界が広がっている。
そこへ織田信長が足を踏み入れる。
上洛とは単に一つの戦に勝つことではない。これまで尾張と美濃を中心に戦ってきた織田家が、天下そのものへ関わり始めることを意味していた。
「兵糧は?」
「予定していた分は集まりました。ただ、近江で戦が長引けば不足する可能性があります」
「長引かせなければいい」
信長が当然のように答える。
その言葉を聞いた景継は、目の前に広げられた地図を見ながら苦笑した。
「それができれば苦労しないんですけどね」
「なら、お前が長引かぬようにしろ」
「簡単に言いますね」
「できぬのか?」
「そう言われると、できないとは言いたくなくなるんですよね」
景継が答えると、信長は満足そうに笑った。
その周囲には柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎、そして明智光秀がいる。
以前なら、景継にとって光秀は得体の知れない「先生」だった。幼い頃の自分を知り、何年にもわたって遠くから自分を観察してきた謎の人物。
だが今は違う。
明智十兵衛光秀。
四歳の頃、高熱を出した景継のもとを訪れ、幼い子供が洛陽、魏、孔明といった言葉を口にするのを聞いた男。そして、その後も景継の中に眠るものの正体を探り続けてきた人物だった。
もっとも、光秀が知っているのはそこまでだ。
景継が前世で司馬懿仲達として生きたことも、その記憶が少しずつ戻っていることも知らない。
景継も、それを教えるつもりはなかった。少なくとも今は、光秀が自分を観察しているのと同じように、自分もまた光秀という人間を見極めるつもりだった。
「景継」
信長に呼ばれ、景継は思考を戻した。
「はい」
「近江はどう見る」
景継は地図へ視線を落とした。
京へ向かうには近江を通らなければならない。その近江には、信長の上洛を素直に受け入れない勢力も存在する。
「全部を倒す必要はありません。道を開ける者とは戦わない。こちらへ従う者も受け入れる。今回の目的は義昭様を京へお連れすることですから、その途中で領地を一つ残らず奪う必要はありません」
勝家が腕を組んだ。
「敵が城へ籠もればどうする」
「まず降伏を勧めます」
「断れば?」
「その時は落とします」
「結局戦うではないか」
「最初から全員を敵に回すよりはいいでしょう」
景継が笑う。
戦うことそのものを嫌っているわけではない。必要なら戦う。しかし、戦わなくていい相手とまで戦う必要はない。
一つの城を落とせば兵が死ぬ。兵糧を使う。時間も失う。それならば、降る者には道を残し、抵抗する者だけを叩けばいい。
この考え方は美濃攻略でも使った。
そして今度は、それをさらに大きな規模で行う。
信長が立ち上がった。
「決まりだ」
部屋にいる者たちを見る。
「京へ行く」
その一言で、織田家の上洛戦が始まった。
◇◇◇
永禄十一年、1568年。
織田軍は足利義昭を奉じ、岐阜を出た。
軍勢が進む先は近江。その先に京がある。
織田軍の進軍を前に、近江の勢力すべてが戦う道を選んだわけではなかった。信長が何の理由もなく京を奪おうとしているのであれば、反発する者はさらに多かったかもしれない。
しかし今回は違う。
信長の隣には足利義昭がいる。
将軍家の人間を京へ戻す。
その大義は大きかった。
さらに景継たちは進軍前から各地へ使者を送り、「織田へ臣従せよ」と最初から迫るのではなく、義昭の上洛を妨げないのであればこちらから戦を仕掛けるつもりはないと伝えていた。
道を開けるなら領地を奪わない。降伏するなら命も家も可能な限り保証する。
それでも抵抗する者はいる。
だが、全員ではない。
一人が道を開ければ、その隣にいる者も考える。
自分だけ戦って何になるのか。巨大になった織田軍を本当に止められるのか。城を守って家臣や領民と共に死ぬより、今の領地を残して生き延びる方がいいのではないか。
その迷いが広がれば、敵は戦う前から一枚岩ではなくなる。
景継が欲しかったのは、それだった。
「前方の城より使者!」
馬を走らせてきた兵が報告する。
「戦う意思なし! 義昭様の上洛を妨げぬとのことでございます!」
信長は馬上から景継を見る。
「まただぞ」
「いいことじゃないですか」
「お前は戦に来たのではなかったか」
「できれば戦わずに京まで行きたいですよ」
「つまらんな」
「勝家様みたいなこと言わないでください」
少し離れたところで聞いていた勝家が顔を向ける。
「何か言ったか?」
「何も」
藤吉郎が横で笑いを堪えている。
その光景を、光秀は少し後ろから静かに見ていた。
景継はその視線に気づいていたが、何も言わなかった。
先生は今も見ている。
自分が何を考え、何を選ぶのかを。
ならば好きなだけ見ればいい。
景継自身も、今度は光秀を見るつもりだった。
◇◇◇
もちろん、上洛がすべて話し合いだけで進んだわけではない。
近江南部で織田軍の進路を塞いだ六角方は抵抗を見せ、戦いとなった。
だが、長くは続かなかった。
織田軍はすでに尾張だけの軍ではない。美濃を加えたことで動員できる兵力は増え、何より尾張統一から美濃攻略まで数多くの戦を経験している。
信長の命令が飛び、勝家たちが兵を動かし、長秀が全体を整える。藤吉郎は戦場の隙間を走り回り、必要な場所へ人を送り込む。
そこへ景継が、相手側の動きを見ながら兵の配置を変えていく。
「正面に兵を集めすぎています」
景継が地図を見ながら言った。
勝家が振り返る。
「攻めるなら正面を破るのが早い」
「それは分かります。でも相手も勝家様がそこへ来ると思っています」
「ならどうする」
「来ると思わせてください」
勝家の眉が動く。
「実際には?」
「別から入ります。正面へ勝家様の旗を多く見せて、相手がそちらへ兵を寄せたら別働隊をこちらから入れる。城そのものを全部囲む必要もありません。逃げ道を一つ残しておきます」
「なぜ逃がす」
「逃げ道がなければ死ぬまで戦うからです。逆に逃げられると思えば、全員が命を捨てて戦うとは限りません」
美濃でも使った考え方だった。
そして景継の読み通り、正面へ織田軍の主力が集中していると考えた敵は兵を動かし、その隙を別働隊に突かれた。さらに退路が残されていると知った兵たちの中から逃亡する者が現れ始めると、抵抗は一気に崩れていった。
織田軍は大きく時間を失うことなく近江を進み、その勢いのまま京へ迫った。
景継にとって意外だったのは、京そのものだった。
もっと大きいと思っていた。
いや、実際に大きい。
人も多い。商いも盛んだ。寺も屋敷も多く、地方の城下とは比べものにならない。
だが、景継の記憶に残る洛陽とは違う。
当然だった。
時代も国も違う。
それでも京へ入った時、景継は馬上から街を眺めながら遠い記憶を思い出していた。
洛陽。
魏。
曹操。
曹丕。
曹叡。
そして、自分が長い年月を過ごした都。
「景継」
隣から声がした。
光秀だった。
「何です?」
「随分、静かだな」
「京を見るのは初めてですから」
「そうか」
光秀はそれ以上言わなかった。
だが、景継には分かった。
また見ている。
おそらく光秀は、四歳の景継が「洛陽」と口にしたことを覚えている。だから京という都へ入った景継が何を感じるのか、それを確かめようとしているのだろう。
景継は少しだけ笑った。
「先生」
「何だ」
「顔に出てますよ」
「何がだ」
「私を観察してるのが」
光秀は一瞬黙った。
「……そうか」
「まだまだですね」
「言うようになったな」
二人の会話を聞いていた藤吉郎が、不思議そうに振り返った。
「お二人は、随分と親しいのでございますな」
「そう見えます?」
「ええ」
景継は光秀を見る。
光秀も景継を見る。
「昔からの知り合いです」
景継がそれだけ答えると、光秀も否定しなかった。
◇◇◇
足利義昭は京へ入り、やがて征夷大将軍となった。
室町幕府十五代将軍、足利義昭。
義昭にとっては、ようやく手に入れた地位だった。命を狙われ、各地を転々とし、自分を京へ連れていってくれる者を探し続けた末に、ついに将軍となったのである。
当然、その義昭を京へ連れてきた織田信長へも多くの視線が向けられた。
景継は、その様子を少し離れた場所から見ていた。
今の義昭と信長の関係は悪くない。義昭は将軍になるために信長の軍事力を必要とし、信長もまた京で動くために足利将軍家という権威を必要としていた。互いに欲しいものがあり、その目的が同じ方向を向いているうちは問題ない。
だが、目的を達成した後まで同じ関係が続くとは限らない。
「何を見ている」
いつの間にか信長が隣へ来ていた。
「義昭様です」
「将軍になったな」
「なりましたね」
「嬉しそうではないな」
景継は少し笑った。
「私は将軍になったわけじゃないですから」
「そういう意味ではない」
景継は義昭へ視線を戻した。
「今は、いい関係だと思います。義昭様は信長様の力が必要だった。信長様は義昭様の立場が必要だった。お互いに欲しいものがあったから、ここまで一緒に来られました」
「今は、か」
「人間は立場が変われば、欲しいものも変わりますから」
信長は何も言わなかった。
「将軍になる前の義昭様が欲しかったものは将軍の座です。でも、それを手に入れた今、次に何を欲しがるかは分かりません。信長様だって尾張だけを持っていた頃と、美濃を取って岐阜へ移った今では見ているものが違うでしょう?」
「俺と義昭を同じにするか」
「人間という意味では同じです」
信長が景継を睨む。
景継は平然としていた。
やがて信長が小さく笑った。
「なら、義昭が次に何を欲しがるか見ておけ」
「そのつもりです」
景継は義昭を見ながら頷いた。
将軍になった義昭が信長の敵になるのか、それとも最後まで味方でいるのか。今の景継には分からない。
だから決めつけない。
今はただ見る。
それで十分だった。
◇◇◇
上洛を果たした後、織田信長の名は、それまでとは比べものにならないほど広く知られるようになった。
尾張を統一した男。
美濃を奪った男。
そして今度は、足利義昭を奉じて京へ入り、将軍にまで押し上げた男。
地方の大名たちにとって、信長はもはや無視できる存在ではなくなっていた。
景継がその変化を最も強く感じたのは、岐阜へ戻ってからだった。信長のもとには以前とは比べものにならないほど多くの書状が届くようになり、そこには各地の大名だけでなく、国人、寺社、公家、商人など様々な人間の思惑が入り交じっていた。
信長へ近づこうとする者がいる。
距離を取ろうとする者もいる。
今はどちらにもつかず、様子を見ようとする者もいる。
尾張にいた頃なら、信長が誰と戦うかは周辺の国を見ればある程度分かった。しかし、京へ足を踏み入れたことで状況は変わった。
一つの決断が、遠く離れた国にまで影響する。
一人を味方にすれば、その一人と敵対している別の誰かから恨まれる。
景継は積み上げられた書状を見ながら、これまでとは違う戦いが始まったことを感じていた。
城を落とすだけでは天下は取れない。
人を動かし、国を動かし、時には戦わずに相手を従わせなければならない。
前世で見てきた政治の世界に、少しずつ近づいている。
そんなある日だった。
「景継様」
藤吉郎が一通の書状を持って部屋へ入ってきた。
「信長様がお呼びでございます」
景継は読んでいた書状を置いた。
「何かありました?」
「越前の朝倉家にございます。どうやら、信長様がかなりお怒りのようで」
「朝倉義景様ですか」
「はい」
その名前を聞いた瞬間、景継の視線が自然と地図へ向かった。
越前。
その南には近江がある。
そして近江北部には、織田家と同盟を結んでいる浅井家がいる。
この時点では、それ以上の意味などないはずだった。
それでも景継は、なぜか地図から目を離せなかった。
◇◇◇
評定の間へ入ると、すでに信長たちが集まっていた。
景継が座るのを待つことなく、信長は目の前に置かれていた書状を指で叩いた。
「朝倉義景が来ぬ」
「何度目です?」
「これで二度目だ」
上洛後、信長は各地の大名に対して京へ来るよう求めていた。それに応じる者がいる一方で、越前の朝倉義景は動こうとしない。
長秀が信長を見る。
「いかがなさいます」
信長の答えは早かった。
「従わぬなら、従わせる」
勝家がわずかに笑った。
「越前へ参りますか」
「ああ。いつまでも好きにさせておくつもりはない」
話が一気に戦へ進み始める。
だが景継だけは、すぐに口を開かなかった。
目の前にある地図を見ながら、越前から京までの道を頭の中で辿っていた。朝倉を攻めるなら近江を通る。その近江北部を治めているのは浅井長政だ。
浅井家は織田家の同盟相手である。
しかも、信長の妹であるお市が長政へ嫁いでいる。
普通に考えれば問題などない。
むしろ朝倉を攻めるのであれば、浅井家は織田軍の進軍を支える側になるはずだった。
それでも景継の中には、小さな違和感が残った。
「信長様」
景継が声を上げた。
「何だ」
「少しだけ待ってください。朝倉を攻めることそのものに反対するつもりはありません。ただ、その前に確認しておきたいことがあります」
勝家が景継を見る。
「また戦を止めるのか」
「だから止めるとは言ってないでしょう」
「では何だ」
景継は地図上の近江北部へ指を置いた。
「浅井家です」
信長が眉を寄せる。
「長政がどうした」
「長政様本人ではありません。浅井家全体についてです」
長秀が口を開いた。
「浅井は我らの同盟相手だ。お市様も嫁いでおられる。今さら何を疑う」
「私も同じように考えていました。でも朝倉家を攻めるなら、一度確認しておいた方がいいと思います。浅井家は昔から朝倉家との関係が深い。長政様が信長様をどう思っているかだけでなく、浅井家の人間たちが朝倉をどう思っているのかも知っておきたいんです」
景継の指が浅井領の上で止まる。
「長政様が織田との同盟を大切にしている。それは分かります。でも、父である久政様はどうでしょう。古くから浅井家へ仕えている家臣たちはどうでしょう。長政様が織田につくと言った時、全員が何の迷いもなく従うのでしょうか」
勝家が腕を組んだ。
「当主は長政だ。父が何を考えていようと、最後に決めるのは長政ではないのか」
「本当にそうなら問題ありません」
景継は静かに答えた。
「でも、家というものは当主一人だけで動いているわけではないでしょう。父親がいて、重臣がいて、その下に多くの家臣がいる。長政様が織田との同盟を守ろうとしても、家臣の半分が朝倉を裏切れないと考えていたら、その時に浅井家がどう動くのかは別の問題です」
景継がそう考えるのには理由があった。
前世でも同じだった。
皇帝が決めたからといって、国中の人間が同じ方向を向くわけではない。将軍が戦うと決めても、部下がその決断を心から受け入れているとは限らない。命令によって人間を動かすことはできても、心まで一つにすることはできない。
むしろ危険なのは、表面上は従っている者たちだった。
不満を抱えながら従い続けた人間は、何かをきっかけに一気に動く。
「浅井家が本当に一つなのか。それだけ確認させてください」
信長はしばらく景継を見ていた。
「どれくらいかかる」
「長くはかけません。朝倉との関係、久政様の影響力、重臣たちの考え。それが分かれば十分です」
「それで問題があれば?」
「その時に考えます。問題がなければ、そのまま朝倉を攻めればいい」
「分かった」
信長は迷わなかった。
「調べろ。ただし、朝倉を放っておくつもりはない」
「分かっています」
「急げ」
「はい」
景継は頭を下げた。
この時点では、景継自身も浅井家が裏切ると考えていたわけではない。
ただ、戦を始める前に背後を確認しておく。
それだけのつもりだった。
◇◇◇
それから景継は、浅井家について情報を集め始めた。
藤吉郎を通じて近江へ出入りする商人や国人から話を聞き、美濃と近江を行き来する者からも情報を集めた。誰か一人の話を信じるのではなく、別々の場所から集めた情報を重ねていく。
すると、最初に抱いた小さな違和感が少しずつ形になっていった。
浅井長政自身は、織田との同盟を重視している。
信長を敵に回したいと考えている様子もなく、お市との仲も悪くない。長政本人だけを見れば、織田家にとって信頼できる同盟相手と考えても不自然ではなかった。
問題は、長政以外だった。
父である浅井久政。
そして、古くから浅井家へ仕える家臣たち。
彼らの中には、朝倉家との長年の関係を非常に重く考えている者がいる。浅井家が苦しい時代に朝倉から受けた恩を忘れてはならないと考える者もいれば、織田家との同盟そのものを新参の関係と考えている者もいた。
もちろん、それだけで裏切るとは言えない。
古くから親しい家があることと、実際に同盟を破ることは別の話だ。
だが景継が気になったのは、浅井家の中に二つの考え方が同時に存在していることだった。
織田との未来を重視する長政。
朝倉との過去を重視する久政と一部の家臣。
今は両者が同じ浅井家の中にいる。
織田と朝倉が戦わなければ、その違いは表面に出ない。
だが、もし両者が戦えば。
浅井家は必ずどちらかを選ばなければならなくなる。
「なるほど……」
景継は集められた報告を机に並べながら呟いた。
向かいに座っていた藤吉郎が顔を上げる。
「何か分かりましたか?」
「少しだけ」
「浅井は危険なのでございますか」
景継はすぐには答えなかった。
「危険だと決めるには早いです。むしろ長政様本人について調べた限りでは、織田との同盟を壊したいとは思っていないように見えます」
「では問題ないのでは?」
「そこなんですよ」
景継は一枚の報告を藤吉郎の前へ置いた。
「長政様が裏切りたいと思っているなら簡単なんです。最初から信用しなければいい。でも本人は織田との同盟を守ろうとしている。それなのに家の中には朝倉との関係を守りたい人たちがいる。こういう時の方が難しい」
藤吉郎は少し考え込んだ。
「長政様が家臣を押さえればよいのでは?」
「できれば、です」
景継は静かに答えた。
「当主だからといって、何でも自由に決められるわけではありません。家臣を無視して決断を続ければ、今度は家そのものが割れる。特に浅井家のように、父親である前当主が生きていて、その父親を支持する者がまだ大勢いる家では、長政様も簡単には動けないはずです」
景継は前世で何度も似た状況を見てきた。
一人の権力者が国を動かしているように見えても、実際にはその周囲にいる多くの人間との均衡によって成り立っている。強引に一つを動かせば、別の場所に歪みが生まれる。
だからこそ、長政本人の考えを知らなければならない。
「藤吉郎さん」
「はい」
「長政様に会えますか」
藤吉郎の目が少し大きくなった。
「景継様自ら?」
「はい。人づての話だけでは、ここから先は分かりません」
「信長様の使者として参られますか?」
景継は少し考えた。
「そういう形で構いません。ただ、できれば形式的な話だけにはしたくない。本人と直接話したいんです」
「何をお聞きになるので?」
景継は地図上の越前と近江を見比べた。
「朝倉と織田が戦った時、浅井長政という人間が何を選ぶのか。それを聞きます」
「正面から聞くのでございますか」
「正面から聞きます」
藤吉郎が驚いた顔をした。
景継は笑った。
「回りくどく探っても仕方ありません。こちらが朝倉を攻めようとしていることを長政様もいずれ知ります。その時になって初めて浅井家が困るようでは遅い。なら、戦が始まる前に話しておいた方がいい」
そして何より、景継は長政本人を見たかった。
書状では分からない。
噂でも分からない。
人から聞いた人物像だけで、その人間を判断することもできない。
会って、話して、その目を見る。
相手が何を恐れ、何を守ろうとしているのかを確かめる。
それは司馬懿として生きた頃から、景継が何度もやってきたことだった。
「分かりました」
藤吉郎が頷いた。
「では、浅井家へ話を通してみます」
「お願いします」
藤吉郎が部屋を出た後も、景継はしばらく浅井家について集められた報告を読み続けていた。
長政。
久政。
朝倉。
織田。
そして、お市。
複数の人間の思惑が絡んでいる。
だからこそ、一人ずつ見ていけばいい。
その時の景継は、そう考えていた。
◇◇◇
数日後。
浅井長政が景継との面会を受け入れたという知らせが届いた。
場所は小谷。
浅井家の本拠、小谷城だった。
「若様自ら行かれるのでございますか」
出立の準備を始めた景継へ、弥兵衛が心配そうに尋ねた。
「そのつもりです」
「浅井領でございますぞ」
「今は同盟相手ですよ」
「今は、などと付けられるから心配なのでございます」
景継は思わず笑った。
「大丈夫です。戦いに行くわけじゃありません。護衛も最低限でいいです」
「最低限というのが一番困るのでございます。若様の最低限と、私の最低限は違いますからな」
「じゃあ弥兵衛に任せます」
「最初からそうしてください」
弥兵衛がため息をつきながら出ていく。
その背中を見送った後、景継は再び机へ向かった。
小谷へ向かう前に、もう一度だけ長政について集めた情報を確認しておきたかった。
浅井長政。
若くして家督を継ぎ、父の久政を退ける形で浅井家の実権を握った男。戦場でも勇猛で、家臣からの信頼も厚いという。信長の妹であるお市を妻とし、織田との同盟を結んでいる。
調べれば調べるほど、景継は長政を愚かな男だとは思えなくなっていた。
むしろ逆だった。
だからこそ難しい。
愚かな者なら、自分の感情だけで決断することもある。だが優れた当主ほど、自分一人の気持ちだけでは動けない。
家を守らなければならない。
家臣を守らなければならない。
領民を守らなければならない。
父との関係もある。
過去の恩義もある。
そして、新しく結んだ織田との同盟もある。
どれか一つだけなら簡単だ。
しかし、それらが互いに反対の方向へ引っ張った時、人間は何を選ぶのか。
景継には興味があった。
同時に、自分ならどうするだろうとも考えた。
前世の自分なら。
おそらく。
最も生き残れる道を選ぶ。
感情や恩義だけで家を危険に晒すことはしない。
だが、それは司馬懿の答えであって、浅井長政の答えではない。
「何を選ぶんでしょうね」
景継は誰に言うでもなく呟いた。
翌朝には小谷へ向かう。
そして長政本人と話す。
その時の景継には、少しだけ自信があった。
人を見ることについては、誰にも簡単には負けないという自信だった。
司馬懿として生きた年月の中で、景継は数え切れないほどの人間を見てきた。皇帝も、将軍も、軍師も、官僚もいた。忠義を口にしながら裏切る者もいれば、普段は何も言わないのに最後まで主君を守る者もいた。
笑いながら嘘をつく者。
涙を流しながら嘘をつく者。
自分自身にさえ嘘をついている者。
そういう人間たちの中で生き延びてきた。
だから、長政と直接話せば分かると思っていた。
織田との盟約を守ると言った時、その言葉が本心なのか。
朝倉との関係について語った時、何を隠そうとしているのか。
父の久政について話した時、どこで言葉が止まるのか。
その一つ一つを見ればいい。
嘘なら見抜く。
迷いがあるなら、その迷いを探す。
問題があるなら、戦が始まる前に解決する。
景継はそう考えていた。
だが、景継はまだ一つだけ大きなことを見落としていた。
人間が約束を破るのは、最初から裏切るつもりだった時だけではない。
約束した瞬間には、本気でそれを守ろうと思っていることもある。
その言葉に一片の嘘もなく、本人さえ未来永劫その約束を守るつもりでいることもある。
それでも時が流れ、状況が変わり、守るべきものが増え、選ばなければならないものが変われば、人は昨日とは違う答えを選ぶ。
それは嘘を見抜く力では防げない。
なぜなら、嘘ではないからだ。
翌朝。
まだ日が完全に昇り切る前に、景継は小谷へ向けて岐阜を発った。
馬を進めながら、頭の中では長政へ何を聞くかを何度も整理していた。
朝倉との関係。
久政の考え。
浅井家臣団の考え。
そして最後に聞くことは決めている。
もし。
織田信長と朝倉義景が戦った時。
浅井長政は。
どちらを選ぶのか。
景継は、その答えを本人の口から聞くつもりだった。
そして、長政が織田との盟約を守ると答え、その言葉に嘘がないと判断できたなら、自分は信長へ「浅井は問題ない」と報告するつもりでいた。
それほどまでに、景継は自分の目を信じていた。
決して慢心だけではない。
司馬懿として長い乱世を生き抜いてきた経験があるからこその自信だった。
だが、どれほど多くの人間を見てきた者であっても、未来まで見ることはできない。
策を立てることはできる。
相手の性格を読むこともできる。
その時の本心を見抜くことさえできる。
それでも。
人が明日、何を選ぶかまでは決められない。
やがて遠くに近江へ続く道が見えてきた。
景継は馬上からその先を見つめる。
この先にいる浅井長政が、自分に何を語るのか。
そして、その言葉を自分がどう判断するのか。
景継はまだ知らない。
この小谷で交わす約束を、自分が心から信じることになることも。
その判断が間違っていたわけではないことも。
それにもかかわらず、浅井長政が後にまったく別の決断を下すことも。
そしてその時。
前には朝倉。
後ろには浅井。
逃げ道さえ失いかねない場所で、景継自身が初めて、自らの読みを完全に覆されることになる。
一度目の人生から数えても、景継は長い間、自分の思い通りにならない人間を数え切れないほど見てきた。
それでもどこかで、人を読み、状況を読み、十分に備えれば、大きな失敗は避けられると思っていた。
だが乱世とは。
そこまで都合よくできてはいない。
人を読めても。
人の未来までは読めない。
策を立てても。
世界がその策に従ってくれるわけではない。
そして。
自分が正しく判断したとしても。
最後には。
予想もしなかったことが起きる。
景継がその当たり前の事実を、命を失いかねない状況の中で思い知らされる時が近づいていた。
だが今はまだ。
そんな未来を知るはずもなく。
景継は浅井長政という男を、自分の目で確かめるため。
小谷へ向かって馬を走らせていた。




