第六十六話 京の先にある火種
岐阜城で上洛が決まってから、織田家の動きは早かった。
足利義昭を奉じて京へ向かう。それだけを聞けば、将軍となるべき人物を都へ送り届けるための戦に見える。
だが、信長のそばにいる者たちは、それだけで終わるとは考えていなかった。
尾張を統一し、美濃を手に入れた信長が、ついに京へ向かう。
朝廷、将軍家、寺社、公家、商人。
京へ入れば、これまで以上に多くの思惑と向き合うことになる。
「兵糧は?」
「予定していた分は集まりました。ただ、近江で戦が長引けば不足する可能性があります」
「長引かせなければいい」
信長が当然のように答える。
景継は目の前の地図を見ながら苦笑した。
「それができれば苦労しないんですけどね」
「なら、お前が長引かぬようにしろ」
「簡単に言いますね」
「できぬのか?」
「そう言われると、できないとは言いたくなくなるんですよね」
信長が満足そうに笑った。
周囲には柴田勝家、丹羽長秀、木下藤吉郎、そして明智光秀がいる。
以前なら、景継にとって光秀は得体の知れない「先生」だった。幼い頃の自分を知り、長い間その行動を見続けてきた謎の人物。
だが今は違う。
明智十兵衛光秀。
景継が五つか六つだった頃に出会い、幼い自分が口にした大陸の記憶を覚えていた男。
光秀は今、景継に一度目の人生があったことを知っている。
だが、その名までは知らない。
司馬懿。
字は仲達。
その答えだけは、まだ景継の中にある。
「景継」
信長に呼ばれ、景継は顔を上げた。
「近江はどう見る」
「全部を倒す必要はありません。道を開ける者とは戦わない。降る者も受け入れる。今回の目的は義昭様を京へお連れすることですから」
勝家が腕を組んだ。
「敵が城へ籠もれば?」
「まず降伏を勧めます」
「断れば?」
「落とします」
「結局戦うではないか」
「最初から全員と戦うよりはいいでしょう」
景継が笑う。
戦う必要のない相手とまで戦えば、兵も兵糧も時間も失う。
それならば降る者には道を残し、抵抗する者だけを叩けばいい。
信長が立ち上がった。
「決まりだ」
そして、部屋にいる者たちを見回す。
「京へ行く」
その一言で、織田家の上洛戦が始まった。
永禄十一年、1568年。
織田軍は足利義昭を奉じ、岐阜を出た。
進軍前から各地へ使者を送り、義昭の上洛を妨げないのであれば、こちらから戦を仕掛けるつもりはないと伝えてある。
信長の隣には足利義昭がいる。
将軍家の人間を京へ戻す。
その大義は大きかった。
「前方の城より使者!」
馬を走らせてきた兵が声を上げる。
「戦う意思なし! 義昭様の上洛を妨げぬとのことでございます!」
信長は馬上から景継を見る。
「まただぞ」
「いいことじゃないですか」
「お前は戦に来たのではなかったか」
「できれば戦わずに京まで行きたいですよ」
「つまらんな」
「勝家様みたいなこと言わないでください」
少し離れたところで勝家が振り返る。
「何か言ったか?」
「何も」
藤吉郎が横で笑いを堪えていた。
もちろん、すべてが話し合いだけで終わったわけではない。
近江南部では六角方が抵抗した。
だが、景継たちは正面に勝家の旗を多く見せて敵兵を引きつけ、その隙に別働隊を動かした。さらに退路を完全には塞がず、敵兵に「逃げられる」と思わせる。
死ぬまで戦うしかない兵と、逃げ道がある兵では覚悟が違う。
一人が逃げれば、二人目が続く。
やがて抵抗は崩れた。
織田軍は大きく時間を失うことなく近江を抜け、その勢いのまま京へ入った。
景継にとって、京は不思議な場所だった。
人も多い。商いも盛んで、寺や屋敷も多い。
確かに大きな都だ。
それでも、記憶に残る洛陽とはまるで違った。
当然だった。
時代も国も違う。
それなのに馬上から京の街並みを眺めていると、遠い記憶が自然と浮かんでくる。
洛陽。
魏。
曹操。
曹丕。
曹叡。
そして、長い年月を過ごした一度目の人生。
「景継」
隣から声がした。
光秀だった。
「何です?」
「随分、静かだな」
「京を見るのは初めてですから」
「そうか」
光秀はそれ以上言わなかった。
だが、景継には分かる。
見ている。
幼い頃の景継が「洛陽」という名を口にしたことを、光秀は覚えている。
しかも今では、魏や洛陽について自分で調べ始めている。
「先生」
「何だ」
「顔に出てますよ」
「何がだ」
「私を観察してるのが」
光秀が一瞬黙った。
「……そうか」
「まだまだですね」
「言うようになったな」
景継は少し笑う。
「京を見て、何か思い出したか聞かないんですか?」
光秀が横目で景継を見る。
「聞けば答えるのか?」
「答えません」
「なら聞かぬ」
「諦めが早いですね」
「誰かが、自分で見つけろと言ったのでな」
景継は思わず笑った。
「覚えてましたか」
「忘れると思うか」
「では、頑張ってください」
「言われずともそのつもりだ」
少し後ろにいた藤吉郎が、不思議そうに二人を見る。
「お二人は、随分と親しいのでございますな」
「そう見えます?」
「ええ」
景継と光秀は一度顔を見合わせた。
「昔からの知り合いです」
景継がそう答えると、光秀も否定しなかった。
足利義昭は京へ入り、やがて征夷大将軍となった。
室町幕府十五代将軍、足利義昭。
命を狙われ、各地を転々とした末に、ようやく手に入れた地位だった。
今の義昭と信長の関係は悪くない。
義昭は将軍になるために信長の軍事力を必要とし、信長もまた京で動くために足利将軍家という権威を利用できる。
互いに欲しいものがあり、その目的が同じ方向を向いている。
今は、それでいい。
だが、義昭が将軍になった後も同じ関係が続くとは限らない。
「何を見ている」
隣へ来た信長が尋ねた。
「義昭様です」
「将軍になったな」
「なりましたね」
「嬉しそうではないな」
「私は将軍になったわけじゃないですから」
「そういう意味ではない」
景継は少し笑った。
「今は、いい関係だと思います。でも、人間は立場が変われば欲しいものも変わります」
「義昭が俺の敵になると?」
「分かりません」
景継は首を振った。
「だから見るんです。まだ何もしていない人を、いつか敵になるかもしれないというだけで敵扱いしていたら、誰とも組めませんから」
信長は少しだけ笑った。
「なら、見ておけ」
「そのつもりです」
上洛を果たして以降、信長の名は各地へ一気に広がった。
尾張を統一し、美濃を奪い、今度は足利義昭を奉じて京へ入り、将軍にまで押し上げた男。
各地の大名、国人、寺社、公家、商人から届く書状も増えていった。
景継はそれらを読みながら、戦いの形が変わり始めたことを感じていた。
城を落とすだけでは天下は取れない。
人を動かし、国を動かし、時には戦わずに相手を従わせる。
前世で見てきた政治の世界へ、少しずつ近づいていた。
そんなある日。
「景継様」
藤吉郎が一通の書状を持って部屋へ入ってきた。
「信長様がお呼びでございます」
「何かありました?」
「越前の朝倉家にございます。信長様がかなりお怒りのようで」
「朝倉義景様ですか」
その名前を聞いた瞬間、景継は地図へ目を向けた。
越前。
その南には近江。
そして近江北部には、織田家と同盟を結ぶ浅井家がいる。
評定へ入ると、信長は書状を指で叩いた。
「朝倉義景が来ぬ」
「何度目です?」
「これで二度目だ」
信長は上洛後、各地の大名に京へ来るよう求めていた。
だが、朝倉義景は応じない。
「従わぬなら、従わせる」
信長の言葉に勝家が笑う。
「越前へ参りますか」
「ああ」
話はすぐに戦へ進んだ。
だが、景継だけは地図を見ていた。
越前へ攻め込むなら、近江を通る。
その近江北部を治める浅井長政は、信長の妹・お市を妻に迎えた同盟相手だ。
普通なら問題ない。
それでも、一つ気になることがあった。
「信長様」
「何だ」
「朝倉を攻める前に、浅井家について確認させてください」
「長政を疑うのか」
「長政様だけではありません。浅井家全体です」
景継は近江北部へ指を置いた。
「浅井家は昔から朝倉家との関係が深い。長政様が織田との同盟を重視しているのは分かります。でも父の久政様や、古くからの家臣たちまで同じとは限りません」
勝家が腕を組む。
「当主は長政だ」
「だからといって、家中すべてが長政様の考えだけで動くとは限りません」
前世でも何度となく見てきた。
主君が決めても、家臣が同じ方向を向くとは限らない。
表面上は従っていても、不満が積もれば何かをきっかけに噴き出す。
「浅井家が本当に一つなのか。それだけ確認したいんです」
信長はしばらく景継を見た後、頷いた。
「調べろ。ただし急げ」
「はい」
調べ始めると、景継の違和感は少しずつ形になった。
浅井長政自身は、織田との同盟を重視している。
お市との仲も悪くなく、信長を敵に回したいと考えている様子もない。
問題は、その周囲だった。
父・浅井久政。
そして古くから浅井家に仕える家臣たち。
彼らの中には、朝倉との長年の関係を重く見る者が少なくなかった。
織田との未来を重視する長政。
朝倉との過去を重視する久政たち。
織田と朝倉が争わなければ問題は表面化しない。
だが、両者が戦えば。
浅井家はどちらかを選ばなければならない。
「長政様本人と話した方がいいですね」
景継が言うと、向かいにいた藤吉郎が顔を上げた。
「景継様自ら小谷へ?」
「はい」
「何をお聞きになるので?」
景継は越前と近江を見比べた。
「朝倉と織田が戦った時、どちらを選ぶのか」
藤吉郎が驚く。
「正面から聞かれるので?」
「正面から聞きます。回りくどく探っても仕方ありません」
何より景継は、長政本人を見たかった。
会って、話して、その目を見る。
何を恐れ、何を守ろうとしているのかを確かめる。
それは司馬懿として生きた頃から、何度もやってきたことだった。
数日後。
浅井長政から面会を受け入れるとの返事が届いた。
場所は浅井家の本拠、小谷城。
出立の準備をする景継を、弥兵衛が心配そうに見ていた。
「若様自ら行かれるのでございますか」
「そのつもりです」
「浅井領でございますぞ」
「今は同盟相手ですよ」
「今は、などと付けられるから心配なのでございます」
景継は思わず笑った。
「護衛は弥兵衛に任せます」
「最初からそうしてください」
弥兵衛がため息をつく。
景継はその背中を見送ってから、机に残った報告へ目を落とした。
浅井長政。
若くして家督を継ぎ、父の久政を退ける形で実権を握った男。
調べれば調べるほど、愚かな人物には思えなかった。
だからこそ難しい。
優れた当主ほど、自分一人の気持ちだけでは動けない。
家を守る。
家臣を守る。
領民を守る。
父との関係も、朝倉への過去の恩義も、新しく結んだ織田との同盟もある。
それらが同じ方向を向いているうちはいい。
だが、互いに反対の方向へ引っ張った時。
浅井長政は何を選ぶのか。
「直接聞くしかありませんね」
景継は小さく呟いた。
翌朝。
景継は小谷へ向けて岐阜を発った。
長政に聞くことは決まっている。
もし織田信長と朝倉義景が戦った時。
浅井長政は、どちらを選ぶのか。
景継には、人を見ることへの自信があった。
一度目の人生で皇帝も、将軍も、軍師も、官僚も見てきた。
笑いながら嘘をつく者。
忠義を語りながら裏切る者。
逆に、何も語らず最後まで主君を守る者。
その中で生き延びてきた。
だから長政と直接話せば、本心を見抜けると思っていた。
だが。
景継はまだ、一つだけ見落としていた。
人間が約束を破るのは、最初から裏切るつもりだった時だけではない。
約束した瞬間には、本気で守ろうと思っていることもある。
その言葉に嘘などなくても、時が流れ、状況が変わり、守るべきものが変われば。
人は昨日とは違う答えを選ぶ。
それは、嘘を見抜く力では防げない。
なぜなら。
その時は、本当に嘘ではないからだ。
景継は馬上から近江へ続く道を見つめた。
この先で浅井長政と交わす約束を、自分が心から信じることになることも。
その判断自体は、決して間違っていないことも。
それでも後に、長政がまったく別の決断を下すことも。
今の景継はまだ知らない。
人を読めても。
人の未来までは読めない。
そのことを思い知らされる戦いが、少しずつ近づいていた。




