第六十五話 先生
美濃を手に入れ、稲葉山城を岐阜城と改めてから、織田家を取り巻く状況は大きく変わった。
尾張一国を巡って争っていた頃は、敵も味方もまだ分かりやすかった。美濃攻略でも、斎藤家という明確な相手がいた。
だが今は違う。
近江、越前、伊勢。その先には京がある。
大名だけでなく、将軍家、公家、寺社、商人。関わる相手が増えれば、それだけ思惑も増えていく。
「面倒になってきましたね」
岐阜城の一室で、景継は積み上がった書状を見ながら呟いた。
美濃を取ってから、各地から届く書状は明らかに増えている。
信長と誼を結ぼうとする者。隣国との争いに力を貸してほしいと頼む者。何を求めているのか明かさず、贈り物だけを送ってくる者までいた。
向かいに座る長秀が苦笑する。
「美濃を取れば楽になると思っていたのか?」
「少しくらいは」
「逆だ。国が増えれば、関わる相手も増える」
「分かってはいたんですけどね」
景継は一通の書状を横へ置いた。
「戦なら分かりやすいんです。敵が旗を掲げて、武器を持って向かってくる。でも政治は、笑って近づいてくる人が味方なのか分からない」
「お前がそれを言うか」
長秀が呆れたように笑う。
だが景継は本気だった。
遠い昔、魏に仕えていた頃にも似たことを何度も経験している。戦場では敵が誰か分かる。宮廷では昨日まで笑って酒を飲んでいた者が、翌日には自分を失脚させようとしていることさえあった。
その時、廊下から足音が近づき、藤吉郎が姿を見せた。
「景継様。信長様がお呼びでございます」
「何かありました?」
「客人がお見えです」
「どこの方です?」
「明智光秀殿と」
景継の手が止まった。
明智光秀。
少し前まで、景継が何年も追い続けていた『先生』と呼ばれる男。
その正体は、すでに突き止めている。
だが光秀はまだ知らない。
林道景継が、一度目の人生で何者だったのかを。
「……そうですか」
「お知り合いで?」
「少しだけ」
藤吉郎が首を傾げたが、景継はそれ以上答えなかった。
◇◇◇
信長のいる部屋へ入ると、その正面に見慣れた男が座っていた。
明智十兵衛光秀。
景継と光秀の視線が、一瞬だけ重なる。
それだけで十分だった。
ここにいるのは先生と教え子ではない。
織田家臣・林道景継と、客人・明智光秀だ。
「景継」
信長に呼ばれ、景継は腰を下ろした。
「明智光秀だ」
「明智十兵衛光秀にございます」
光秀が頭を下げる。
「林道景継です」
「存じております」
平然と言われ、景継は少しだけ光秀を睨みたくなった。
当然だろう。
何年も自分を観察してきた男なのだから。
光秀が岐阜へ来た理由は、足利義昭だった。
室町幕府十三代将軍・足利義輝が討たれた後、将軍家を巡る情勢は揺れている。その中で義昭は、自らを将軍として京へ入れてくれるだけの力を持つ大名を探していた。
そして今、その候補に信長がいる。
「つまり」
説明を聞き終えた信長が言う。
「俺に義昭を連れて京へ入れということか」
「義昭様が望まれているのは、将軍家の再興にございます。しかし今の義昭様だけでは、京へ入るだけの兵力がございませぬ」
景継は地図を見た。
岐阜から近江を抜け、その先に京。
悪くない話だった。
「景継。どう思う」
「使えると思います」
「何にだ」
「京へ行く理由にです」
景継は岐阜から京まで指を滑らせた。
「何の理由もなく大軍で京へ向かえば、途中の者も京の者も警戒します。でも義昭様を将軍にするためなら、大義が立ちます」
「義昭を利用するということか」
「本人には言わないでくださいよ」
信長が笑った。
「お前は時々、平然とひどいことを言うな」
「信長様にだけは言われたくありません」
部屋の空気が少し緩む。
その中で、光秀だけは景継を静かに見ていた。
――また見てる。
以前なら、その視線の意味を探っていた。
今は違う。
次は光秀が景継を追う番なのだ。
◇◇◇
話し合いが終わり、景継が廊下へ出ようとすると、後ろから呼び止められた。
「林道殿」
振り返ると、光秀がいた。
「少し、お時間をいただけませんか」
「……いいですよ」
二人は人目の少ない場所まで移動した。
周囲に誰もいなくなると、景継が口を開く。
「それで、先生」
光秀が足を止めた。
「何だ」
「分かりました?」
「何がだ」
景継は少し笑う。
「私が誰だったのか」
「いや」
「まだですか」
「そう簡単に言うな」
「先生なら、もう少し早いと思ってました」
「答えを教えれば、今すぐ終わる話だぞ」
「嫌です」
景継は即答した。
「次は先生の番だと言ったでしょう。自分で見つけてください」
光秀は呆れたように息を吐くと、近くに置いていた包みから一冊の古びた書物を取り出した。
景継の表情が変わる。
日本の書物ではない。
はるか昔、魏、蜀、呉が争った時代について記されたものだった。
「調べたんですか」
「ああ」
光秀は書物を開く。
「洛陽」
景継は黙る。
「魏」
光秀の視線が景継の指先へ落ちた。
「そして、孔明」
書物が閉じられる。
「四歳のお前が口にした言葉だ」
景継は答えなかった。
「最初は誰かから教えられたのだと思った。だから、あの頃のお前にいくつか質問をした」
羽扇を持った軍師。
孔明。
そして幼い景継が答えた言葉。
――あの男は、死んでも面倒だ。
「お前は孔明について聞かれた時、知識ではなく感想を答えた。まるで実際に知っている人間のようにな」
景継の胸がわずかに騒いだ。
思っていた以上に近い。
「それで、魏や蜀の時代を調べたんですね」
「ああ。だが候補が多すぎる。魏に関わり、洛陽を知り、孔明を知る者。それだけでは一人に絞れん」
景継は表情を変えずに尋ねた。
「だから今も私を見てるんですか?」
「ああ」
「策を見れば分かると思ってる?」
光秀は頷いた。
「人間は、知識より考え方に本性が出る」
景継が光秀を見る。
「何を優先し、誰を使い、いつ退くのか。勝てる時にどこまで求めるのか。そこには、その者が歩いてきた人生が出る」
光秀の目が細くなる。
「だから見ている。お前が戦うところも、待つところも、人を動かすところもな」
以前は景継が光秀を追っていた。
今は逆だ。
「それで、今はどこまで?」
「少なくとも、お前の中にあるものが、この国だけで生まれたものではないとは思っている。魏、洛陽、孔明も偶然ではない」
「そこまでですか」
「不満か?」
「いえ」
景継は口元を緩めた。
「思ったより早いなと思って」
「なら答えを教えろ」
「嫌です」
「やはり性格が悪いな、お前は」
「先生にだけは言われたくありません」
二人の間に小さな笑いが生まれた。
光秀は近い。
だが、まだ最後の答えには届いていない。
司馬懿仲達。
景継にも、今それを教えるつもりはなかった。
◇◇◇
その後、足利義昭を巡る話は急速に進んだ。
景継も義昭本人と顔を合わせた。
義昭は信長へ丁重に接していたが、その奥には足利将軍家の人間としての誇りが見える。
信長の力を必要としている。
だが、信長の家臣になるつもりはない。
景継はそこだけを覚えておいた。
「景継」
対面を終えた後、信長が声をかける。
「何を考えている」
「義昭様のことです」
「気に入らんか」
「そういう話じゃありません。今は相性がいいと思います。義昭様には信長様の兵が必要で、信長様には義昭様の立場が必要ですから」
「今は、か」
景継は頷いた。
「将軍になった後に義昭様が何を望むかで、関係は変わるかもしれません」
「なら、将軍になってから考えればいい」
「私もそう思います」
信長が少し意外そうな顔をする。
「珍しいな。お前なら先に手を打てと言うと思ったが」
「危険があることと、今すぐ敵であることは違います」
景継は肩をすくめた。
「将来敵になるかもしれないというだけで排除してたら、味方なんて誰も残りませんよ」
信長が笑う。
「お前も少しは人を信じるようになったか」
「違います。敵になるまでは敵として扱わないだけです」
「やはりお前だな」
景継も笑った。
今はそれでいい。
義昭が変わるなら、その時に考えればいい。
◇◇◇
数日後。
景継が信長に呼ばれると、部屋には岐阜から近江、京までを描いた大きな地図が広げられていた。
「決めました?」
「何をだ」
「もう決めてる顔ですよ」
信長が笑った。
「分かるか」
「何年一緒にいると思ってるんです」
景継が隣へ座る。
信長は地図の上へ手を置いた。
「義昭を京へ連れていく」
「いつです?」
「準備が整い次第だ」
「近江で邪魔する者が出ますよ」
「退かせる」
「やっぱりそうなりますよね」
景継は苦笑した。
信長が進むなら、自分の役目は戦わなくてもいい相手を減らすことだ。
降るなら受け入れる。
利害が一致するなら利用する。
それでも邪魔をするなら、有利な形を作ってから戦う。
「景継」
「はい」
「天下とは、どんなものだと思う」
突然の問いだった。
景継の脳裏に、遠い記憶が浮かぶ。
魏、蜀、呉。
曹操、劉備、孫権。
孔明。
そして司馬懿。
あれほど多くの者が天下を争ったが、自分が生きている間に一つになることはなかった。
「分かりません」
信長が意外そうに見る。
「お前でも分からんか」
「天下なんて、取ったことありませんから」
信長は一瞬、黙った。
景継が前世で司馬懿だったことを、信長は知っている。
だから冗談ではないことも分かっている。
「なら、どうする」
景継は地図の京へ指を置いた。
「見に行きましょう」
「京へか」
「はい。尾張にいた頃は尾張が全部でした。美濃を取れば何か見えると思っていた。でも取ったら、その先が見えただけです」
「京へ行っても分からなかったら?」
「さらに先へ行きましょう」
信長が笑った。
「簡単に言う」
「簡単じゃないから面白いんでしょう?」
「違いない」
その時、廊下から声がした。
「失礼いたします」
入ってきたのは光秀だった。
「ちょうどいい」
信長が地図上の京へ手を置く。
「義昭に伝えろ」
「何とでございましょう」
「連れていく」
光秀の表情が変わった。
「では……」
「ああ」
信長は迷わなかった。
「上洛する」
光秀は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
◇◇◇
光秀が部屋を出た後、景継も少し遅れて廊下へ出た。
前を歩いていた光秀が足を止める。
「景継」
周囲に人がいない。
「何です、先生」
光秀が振り返った。
「京へ行けば、今まで以上に多くの人間を見ることになる。大名だけではない。公家も寺社も商人もいる」
「楽しそうですね」
「面倒だぞ」
「長秀様と同じこと言うんですね」
光秀は少し笑ったが、すぐに真顔へ戻った。
「お前を見る者も増える」
景継の目が細くなる。
「先生みたいに?」
「ああ」
光秀は否定しなかった。
「尾張にいた頃なら、信長殿のそばに妙に頭の回る少年がいる。それで済んだ。だが今は美濃まで取った。京へ行き、お前が策を出し続ければ、いずれお前自身を見る者が増える」
「気をつけろ」と光秀は言った。
景継は少し意外そうに見る。
「心配してくれてるんです?」
「観察しているものを途中で失いたくないだけだ」
「やっぱり性格悪いですね」
「だから、お前に言われたくない」
二人は小さく笑った。
少し前まで、先生は自分より一歩先にいる存在だった。
今は違う。
先生にも知らないことがある。
「先生」
「何だ」
「いつか、私が誰だったのか分かったらどうするんです?」
光秀は少し考えた。
「その時に決める」
「今は決めてないんですか?」
「正体も分からぬ者を、味方か敵か決める方がおかしいだろう」
景継は笑った。
「私と同じですね」
「何がだ」
「私も、先生が本当は何をしたいのか分かった時に考えます」
今度は光秀が黙った。
互いに隠しているものがある。
それでも今は敵ではない。
それで十分だった。
光秀が先に歩き出す。
「では、京で見せてもらおう」
「何をです?」
「お前が何をするのかをだ」
「まだ試すんですか」
「当然だ」
「そのうち先生の方を試しますよ」
光秀は振り返り、少し笑った。
「やってみろ」
◇◇◇
その日のうちに、岐阜城では上洛へ向けた準備が始まった。
兵を整え、兵糧を集め、近江の情勢を探る。
だが景継にとって、上洛は軍を京へ進めるだけの話ではない。
誰が信長を恐れるのか。
誰が義昭を歓迎するのか。
誰が自分の利益を守るために道を塞ぐのか。
戦う相手と、戦わなくていい相手を見極める必要がある。
景継は自室で地図を広げ、岐阜から京まで指を滑らせた。
一度目の人生でも、天下を巡る争いの中にいた。
曹操を見た。
孔明と戦った。
それでも、自分が天下を取ることはなかった。
そして今、別の国、別の時代で、再び天下へ続く道の入り口に立っている。
今度は織田信長という男の隣で。
「さて」
景継は地図上の京へ指を置いた。
「どんなところなんでしょうね」
美濃攻略は終わった。
次は京。
そして、その先にある天下。
同時に、光秀もまた景継を追い始めている。
魏。
洛陽。
孔明。
答えまでは、あと少し遠い。
司馬懿仲達。
光秀がその名へ辿り着くのが先か。
それとも上洛によって、二人の関係が再び変わるのが先か。
景継は地図を畳んだ。
今は、それより先に考えることがある。
近江を越え、京へ入る。
尾張から始まった信長の戦いは、ついに一国を奪うためだけのものではなくなろうとしていた。




