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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第四章 上洛編

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第六十五話 先生


美濃を手に入れ、稲葉山城を岐阜城と改めてから、織田家を取り巻く状況は急速に変わり始めていた。


尾張一国を巡って争っていた頃は、敵も味方もまだ分かりやすかった。尾張を統一した後も、美濃の斎藤家という明確な相手が存在し、景継たちが考えるべきことは、どうすればその国を最小限の損害で手に入れられるかということだった。


だが、美濃を手に入れた今は違う。


近江、越前、伊勢。そして、その先には京がある。


岐阜から西へ目を向ければ、大名だけではなく、将軍家、公家、寺社、商人など、これまでとは比べものにならないほど多くの勢力が存在していた。それぞれが異なる利害を持ち、昨日まで敵対していた者同士が一時的に手を組むこともあれば、味方だと思っていた者が突然こちらへ刃を向けることもある。


「面倒になってきましたね」


岐阜城の一室で、景継は目の前に積まれた書状を見ながら呟いた。


美濃を取ってからというもの、各地から届く書状の数が明らかに増えている。以前なら尾張の一大名に過ぎなかった信長を気にも留めなかった者たちが、今では次にどこへ向かうのかを探ろうとしていた。


敵対する意思はないと伝えてくる者。信長と誼を結ぼうとする者。隣国との争いに力を貸してほしいと頼んでくる者。中には何を求めているのか明言せず、贈り物だけを送りつけてくる者までいる。


向かいに座っていた長秀が、景継の言葉を聞いて苦笑した。


「美濃を取れば楽になると思っていたのか?」


「少しくらいは思ってました」


「逆だ。持つ国が増えれば、関わる相手も増える。尾張だけを持っていた頃なら、尾張の中だけを見ていればよかった。美濃を取れば近江や越前が見えてくる。その先へ進めば、さらに多くの者がこちらを見るようになる」


「分かってはいたんですけどね」


景継は一通の書状を横へ置いた。


「戦なら分かりやすいんです。向こうに敵の旗があって、兵がいて、こちらへ武器を向けてくる。でも政治は違う。笑いながら近づいてくる人間が、本当に味方なのか分からない」


「お前がそれを言うか」


長秀が呆れたように笑った。


景継も少し笑ったが、言っていること自体は本心だった。


遠い昔、魏に仕えていた頃にも何度も経験した。戦場なら、少なくとも敵が自分を殺そうとしていることは分かる。しかし宮廷では、昨日まで笑いながら酒を飲んでいた人間が、翌日には自分を失脚させようとしていることさえある。


人間が増えれば、思惑も増える。そして信長が天下へ近づけば近づくほど、戦場以外での戦いも増えていく。


景継にとっては、何万の兵が向かってくる戦場より、笑顔で近づいてくる一人の人間の方が厄介に思えることさえあった。


その時、廊下の向こうから足音が近づき、藤吉郎が姿を見せた。


「景継様。信長様がお呼びでございます」


「何かありました?」


「客人がお見えになっております」


景継は立ち上がった。


「どこの方です?」


「明智と名乗っておられます。明智光秀殿と」


その名を聞いても、景継には特別な心当たりはなかった。


美濃に関わりのある明智一族については知っている。しかし、明智光秀という男個人について詳しく知っているわけではない。


「分かりました。行きましょう」


景継は藤吉郎とともに部屋を出た。


この時はまだ、自分が長い間探していた人物と、間もなく顔を合わせることになるとは思っていなかった。


◇◇◇


信長のいる部屋へ入ると、すでに数人の家臣が座っていた。


その中心にいるのは信長。そして信長の正面には、景継がこれまで見たことのない男が座っている。


派手な格好をしているわけではない。身体も勝家のように大きいわけではなく、一目見ただけなら猛将という印象からは遠かった。


だが、目だけが妙に鋭かった。


相手を威圧するような目ではない。


見ている。


観察している。


相手が何を考え、何を隠しているのか。その奥まで探ろうとするような目だった。


景継はその男の視線を受けた瞬間、わずかに足を止めた。


どこかで。


この目を見たことがある。


「景継」


信長に呼ばれ、景継は我に返った。


「はい」


「何をしている。座れ」


「すみません」


景継が腰を下ろす。それでも男から視線を完全には外せなかった。


信長が男を指した。


「明智光秀だ」


男が軽く頭を下げる。


「明智十兵衛光秀にございます」


景継も頭を下げた。


「林道景継です」


その瞬間だった。


光秀の目が、ほんのわずかに細くなった。


「存じております」


景継の胸に小さな違和感が生まれた。


知っていること自体は不思議ではない。今では景継の名も、織田家の外に知られるようになっている。


しかし、今の言い方。


そして、自分を見る目。


まるで名前だけではなく、もっと以前から自分という人間を知っているような感覚があった。


景継は気になったが、今は口に出さなかった。


信長が話を進める。


光秀が岐阜へ来た理由は、足利義昭だった。


室町幕府十三代将軍・足利義輝が討たれた後、将軍家を巡る情勢は大きく揺れている。その中で義昭は、自らを将軍として京へ入れてくれるだけの力を持つ大名を探していた。


そして今、その候補として織田信長が浮上している。


「つまり」


一通り説明を聞いた信長が言った。


「俺に義昭を連れて京へ入れということか」


「義昭様が望んでおられるのは、将軍家の再興にございます。そのためには京へ入り、将軍として朝廷より認められる必要がある。しかし、今の義昭様だけでは、それを成し遂げるだけの兵力がございませぬ」


光秀の説明を聞きながら、景継は地図へ目を向けた。


岐阜から近江を抜け、その先に京がある。


悪くない。


むしろ信長にとっては、かなり都合のいい話だった。


「景継」


信長が呼ぶ。


「どう思う」


「使えると思います」


光秀が景継を見る。


信長は気にする様子もなく尋ねた。


「何にだ」


「京へ行く理由にです」


景継は地図の岐阜から京まで指を動かした。


「信長様が何の理由もなく大軍を率いて京へ向かえば、途中にいる者たちは警戒します。京にいる者たちも、織田が都を奪いに来たと考えるでしょう。でも義昭様を将軍にするためなら、少なくとも京へ向かう大義があります」


「義昭を利用するということか」


「本人には言わないでくださいよ」


信長が笑った。


「お前は時々、平然とひどいことを言うな」


「信長様にだけは言われたくありません」


部屋の空気が少し緩んだ。


しかし、光秀だけは笑っていなかった。


景継を見ている。


先ほどよりも、明らかに強く。


景継はその視線に気づいた。そして頭の中に、これまで何度も自分の前に姿を現してきた一人の男が浮かんだ。


必要な時だけ現れ、答えではなく問いを残し、自分の動きをどこかから見ている。時には自分が仕掛けた策へ勝手に手を加え、どう対応するのかを試してくる。


先生。


まさか。


景継はもう一度、光秀を見る。


光秀は何も言わない。


だが景継の中で、今まで別々だったいくつもの記憶が、少しずつ一つにつながり始めていた。


◇◇◇


話し合いが終わり、家臣たちが部屋を出ていく。


景継も立ち上がった。


その時だった。


「林道殿」


光秀に呼び止められた。


景継が振り返る。


「何でしょう」


「少し、お時間をいただけませんか」


景継は一瞬だけ考えたが、断る理由はなかった。


「……いいですよ」


二人は城内の人目の少ない場所へ移動した。


しばらく歩いたが、光秀は何も言わない。景継も話しかけなかった。代わりに頭の中で、これまで先生と接した時の記憶を一つずつ思い返していた。


声。


目。


自分を見る時の間。


そして何より、景継が何を考えているのかまで確かめようとするような視線。


似ている。


いや。


似ているというより。


同じなのではないか。


やがて光秀が足を止めた。


「随分、大きくなったものだ」


景継の表情が変わった。


「……何の話です?」


「最後に直接会った時は、私の腰にも届かなかった」


景継の呼吸が止まった。


最後に直接会った時。


その言葉に該当する記憶は、景継自身にはない。


だが。


聞いた話ならある。


四歳。


高熱。


そして、京から来た若い旅人。


「まさか……」


光秀は何も言わない。


景継は男の顔を見つめた。


今まで何度も、その存在を追ってきた。


必要な時だけ現れ、自分を試すようなことをしてきた人物。


そして、その人物を景継はずっと一つの呼び名で呼んでいた。


「先生……?」


光秀の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。


「ようやく、顔を合わせられたな。林道景継」


景継はしばらく何も言えなかった。


驚きより先に、今まで分からなかったものが一気につながっていく。


「じゃあ……四歳の時、私の家へ来た旅人も?」


「ああ」


光秀はあっさり認めた。


「私だ」


景継は目を閉じ、小さく息を吐いた。


九年ほど前、高熱を出した自分が突然、洛陽や魏、孔明について話し始めた。その噂を聞きつけ、わざわざ京から林道家を訪ねてきた若い旅人。


そしてその後、景継の周囲に時折現れるようになった、先生と呼ばれる謎の人物。


すべて。


同じ男だった。


「ずっと私を見てたんですか」


「ずっと、というほど暇ではない」


「でも岩倉の時、私の策に手を加えましたよね」


光秀の眉が少し動いた。


景継は続ける。


「森川殿が清洲へ来たことを岩倉へ流した。あれ、先生でしょう?」


「よく分かったな」


「確信はありませんでした。でも今なら分かります」


光秀は否定しなかった。


「なぜ、あんなことをしたんです?」


「見たかったからだ」


「何を?」


光秀は景継を見た。


「あの時、お前は自分の策だけで岩倉を崩そうとしていた。そこへ予定していない一手が加わった時、お前がどうするのかを見たかった」


景継は呆れたように光秀を見る。


「人を試すために、国同士の争いに手を突っ込んだんですか」


「結果として信長殿にも利益があった」


「そういう問題じゃないでしょう」


「だが、お前は利用した」


景継は言葉に詰まった。


その通りだった。


誰が情報を流したのか分からなかった。だが景継は犯人探しを後回しにし、先にその情報によって生じた岩倉の動揺を利用した。


光秀は、それを見ていたのだ。


「……最初から、それが見たかったんですね」


「そうだ」


光秀は迷わず答えた。


「なぜです?」


景継の声が少し低くなる。


「先生は、私の何を知ってるんです?」


光秀は答えなかった。


景継が続ける。


「四歳の時もそうです。私が熱を出した後、変なことを話しているという噂を聞いて、わざわざ京から来た。そして孔明のことまで聞いた」


光秀の表情は変わらない。


景継は、その目をまっすぐ見た。


「先生は、私が何者なのか知ってるんですか?」


短い沈黙があった。


景継にとっては、そのわずかな時間が妙に長く感じられた。


そして。


光秀は答えた。


「知らん」


景継の眉が動いた。


「……知らない?」


「ああ」


「でも先生は、ずっと私を調べてたんでしょう?」


「だから調べていた」


景継は何も言えなかった。


光秀は近くに置いていた包みを手に取ると、中から一冊の古びた書物を取り出した。


それを見た瞬間、景継の表情が変わった。


日本の書物ではない。


海の向こう。


はるか昔。


魏、蜀、呉が争った時代について書かれたものだった。


「覚えているか」


「何をです?」


「四歳のお前が私に話したことだ」


光秀は書物を開いた。


「洛陽」


景継は黙る。


「魏」


景継の指先が、わずかに動いた。


「そして孔明」


光秀はそこで書物を閉じた。


「四歳の子供が、どこでそれを知った」


景継は答えなかった。


光秀も答えを求めてはいないようだった。


「最初は、誰かから教えられたのだと思った。林道家の裏に誰かがいる可能性も考えた。だから、お前にいくつか質問をした」


景継は、お藤から聞いた話を思い出していた。


羽扇を持った軍師。


孔明。


そして四歳の自分が答えた言葉。


――あの男は、死んでも面倒だ。


「お前は孔明について聞かれた時、知識を答えなかった」


光秀の目が鋭くなる。


「感想を答えた」


景継の表情が変わった。


「まるで、実際に会ったことがある人間のようにな」


景継は答えなかった。


その言葉は、あまりにも核心へ近かった。


「だから私は調べた。魏、蜀、呉。その時代に生きた者たちについてな」


光秀が古びた書物へ手を置く。


「だが、分からなかった」


「何が?」


「お前が誰なのかだ」


光秀は景継を見る。


「孔明を知っているように話した。魏という言葉を口にした。洛陽を知っていた。だから、その時代に関係する何者かではないかとは考えた」


景継の心臓が、少し強く鳴った。


近い。


先生は。


思っていた以上に近いところまで来ている。


だが。


まだ。


答えには辿り着いていない。


「でも、それだけでは何者かまでは分からん」


光秀は続けた。


「魏に関係する者だけでも数え切れぬほどいる。孔明を知る者も一人ではない。お前が口にした断片だけをつなぎ合わせて、誰か一人に決めることなどできなかった」


景継は少しだけ安心した。


だが、それを表情には出さない。


「それで、私をずっと試していた?」


「ああ」


「策を見れば分かると思ったんですか」


「人間は、知っていることより、考え方に本性が出る」


その言葉に、景継は思わず光秀を見た。


光秀は淡々と続ける。


「何を知っているかではない。追い詰められた時、何を優先するか。敵をどう見るか。味方をどう使うか。勝てない時に退くのか。それとも無理に戦うのか。勝てる時にどこまで求め、何を残すのか。そういうところに、その者が歩いてきた人生が出る」


先生の目が細くなる。


「だから見ていた。お前が戦うところを。お前が待つところを。そして、お前が人を動かすところをな。その積み重ねを見れば、いずれ答えに近づけると思った」


景継はしばらく黙っていた。


この男は、自分を助けていたのではない。


もちろん敵でもない。


観察していた。


何年も。


自分の中に眠っていたものが何なのかを知るために。


「あの少年の噂を聞いていると、昔の書物に出てくる誰かと話しているような気分になる」


以前。


先生が家臣にそう話していたことを。


景継は知らない。


その時、家臣から「誰です」と尋ねられても、先生は答えなかった。


答えられなかったのだ。


ただ、机の上には今と同じように、魏、蜀、呉が争った時代について記された書物が置かれていた。


そして先生は、家臣にこう命じていた。


林道景継が自分で辿り着くまで、答えを与えるな、と。


もし自分の考えが正しければ、信長のそばにいるあの少年は、この国の人間だけでは説明できない。


そこまで考えながら。


それでも。


司馬懿という答えには、まだ辿り着いていなかった。


「それで」


景継は少し笑った。


「分かりました?」


光秀も、わずかに笑った。


「まだだ」


「残念でしたね」


「だが、四歳の頃よりは近づいた」


景継の笑みが止まる。


「……どこまで?」


「少なくとも、お前の中にあるものが、この国だけで生まれたものではないことは確信している」


光秀は景継をまっすぐ見た。


「そして、お前が四歳の時に口にした魏、洛陽、孔明。その三つが偶然ではないこともな」


景継は答えなかった。


先生はまだ知らない。


自分が司馬懿仲達であることを。


そして景継には。


今それを教えるつもりはなかった。


◇◇◇


しばらく二人の間に沈黙が流れた。


先に口を開いたのは光秀だった。


「聞かないのか?」


「何をです?」


「私のことだ」


景継は少し考えた。


「明智光秀でしょう?」


「そういう意味ではない」


「分かってますよ」


景継は苦笑した。


聞きたいことはいくらでもある。


なぜ光秀は、四歳の子供について流れた奇妙な噂をわざわざ調べようと思ったのか。なぜ一度会っただけの自分を、その後も何年にもわたって観察し続けたのか。そして何より、この男は最終的に自分の正体を知って何をしようとしているのか。


だが景継は、あえて聞かなかった。


「今聞いても、全部は話してくれないでしょう?」


光秀の口元が少し緩む。


「随分、私のことを理解しているな」


「何年も勝手に試されたら、それくらい分かります」


「なら、お互い様だ」


「どこがです?」


「お前も今、私にすべてを話していない」


景継の表情が止まった。


光秀はそれ以上踏み込まなかった。


「まあいい」


「いいんですか?」


「答えを聞かされるより、自分で辿り着いた方が面白い」


「先生、本当に性格悪いですね」


「お前に言われたくない」


景継は思わず笑った。


初めてだった。


これまで先生という存在は、景継にとって得体の知れない影だった。敵なのか、味方なのか。なぜ自分を知っているのか。何のために動いているのか。そのどれも分からないまま、自分の周囲に時折現れては消えていた。


だが今日。


ようやく顔が見えた。


明智光秀。


四歳の自分を訪ねてきた旅人。


そして、自分の中に眠る記憶の正体を何年も追い続けてきた男。


それでも、すべての謎が解けたわけではない。


むしろ新しい謎が生まれた。


先生は。


なぜ。


そこまで自分を調べているのか。


景継は聞かなかった。


今はまだ、答えを求める時ではないと思ったからだった。


◇◇◇


その後、足利義昭を巡る話は急速に進んだ。


景継も義昭本人と顔を合わせ、その人物を自分の目で確かめた。


義昭は信長に対して丁重に接していたが、その態度の奥には足利将軍家の人間としての誇りがはっきりと見えた。自分を助けてくれる大名に頭を下げてはいるものの、自分自身がその大名の家臣になるつもりはない。


景継は、そこが少し気になった。


今は問題ない。


義昭は将軍になりたい。


信長は京へ入りたい。


二人の目的が一致している。


だから手を組める。


しかし義昭が将軍になった後、その関係が続くとは限らない。


「景継」


義昭との対面を終えた後、信長が声をかけた。


「何を考えている」


「義昭様のことです」


「気に入らんか」


「そういう話ではありません」


景継は少し考えてから答えた。


「今は、かなり相性がいいと思います。義昭様には信長様の兵が必要で、信長様には義昭様の立場が必要ですから」


「今は、か」


信長はその部分を聞き逃さなかった。


景継は頷いた。


「義昭様が将軍になった後、何を望むのかが分かりません。将軍という立場を得ることが目的なのか。それとも将軍として自分で天下を動かしたいのか。それによって話は変わると思います」


信長は少し考えた後、笑った。


「将軍になってから考えればいい」


「私もそう思います」


「珍しいな。お前なら先に手を打てと言うと思ったが」


「危険があることと、今すぐ危険であることは違います」


景継は答えた。


「まだ何もしていない人間を、将来敵になるかもしれないというだけで排除していたら、味方なんて誰も残りませんよ。それに、義昭様が将軍になった後も信長様と利害が一致するなら、わざわざ敵にする必要はありません」


信長はしばらく景継を見た後、楽しそうに笑った。


「お前も少しは人を信じるようになったか」


「違います」


景継は即答した。


「敵になるまでは敵として扱わないだけです」


「やはりお前だな」


二人の笑い声が部屋に響いた。


だが景継の中では、すでに義昭の存在を別の角度から見始めていた。


人間は立場によって変わる。


何も持っていない時に頭を下げられる者でも、大きな権力を手に入れれば同じように振る舞えるとは限らない。


今は信長を必要としている。


だから義昭は信長を頼る。


だが将軍になれば、その関係が変わる可能性はある。


景継は、その可能性だけを頭の片隅に置いた。


今は。


それで十分だった。


◇◇◇


数日後。


景継が信長に呼ばれて部屋へ入ると、大きな地図が広げられていた。


岐阜。


近江。


そして京。


信長は地図の前に座り、一人でその道を眺めている。


景継は信長の表情を見ただけで、おおよその答えを察した。


「決めました?」


「何をだ」


「もう決めてる顔ですよ」


信長が笑った。


「分かるか」


「何年一緒にいると思ってるんです」


景継が隣へ座ると、信長は地図の上へ手を置いた。


「義昭を京へ連れていく」


やはり。


景継は驚かなかった。


「いつです?」


「準備が整い次第だ」


「早いですね」


「遅くする理由がない」


信長の指が岐阜から西へ動く。


近江。


その先に京。


「近江で邪魔する者が出ますよ」


「退かせる」


「やっぱりそうなりますよね」


「他に何がある」


景継は苦笑しながら地図を見た。


正面から戦うことだけが答えではない。降る者がいるなら受け入れる。道を開けるなら戦わない。利害が一致するなら利用する。


だが。


どうしても邪魔をするなら。


信長は迷わない。


景継はその性格を知っている。


だからこそ、自分の役割も分かっていた。


信長が進む道で、戦わなくていい敵を減らす。危険があるなら先に見つける。それでも戦う必要があるなら、できるだけこちらが有利な状態を作ってから戦わせる。


戦そのものに勝つだけでは足りない。


戦う回数を減らす。


敵の数を減らす。


敵同士が手を組む可能性を減らす。


それが。


景継のやり方だった。


「景継」


「はい」


「天下とは、どんなものだと思う」


突然の問いだった。


景継は地図から顔を上げた。


天下。


その言葉を聞くと、どうしても遠い記憶が浮かぶ。


魏。


蜀。


呉。


曹操。


劉備。


孫権。


孔明。


そして。


司馬懿。


多くの人間が天下を巡って争った。


だが、自分が生きていた間に天下が一つになることはなかった。


自分自身も。


最後まで。


天下を取ることはなかった。


「分かりません」


景継は答えた。


信長が意外そうに見る。


「お前でも分からんか」


「天下なんて、取ったことありませんから」


信長には。


その言葉の本当の意味は分からない。


景継は地図を見る。


岐阜。


近江。


京。


「だから、見に行きましょう」


「京へか」


「はい」


景継は地図上の京へ指を置いた。


「尾張にいた時は、尾張が全部でした。美濃を攻めていた時は、美濃を取れば何かが見えると思っていました。でも実際に美濃を取ったら、その先が見えただけです」


信長は黙って聞いている。


「だったら次へ行けばいい。京へ行けば、信長様が言う天下が何なのか、少しくらい分かるかもしれません」


「分からなかったら?」


「さらに先へ行きましょう」


信長が笑った。


「簡単に言う」


「簡単じゃないから面白いんでしょう?」


その言葉を聞き、信長はさらに大きく笑った。


「違いない」


その時、廊下の向こうから声がした。


「失礼いたします」


入ってきたのは光秀だった。


景継は一瞬だけ先生として彼を見た。


だが。


すぐに明智光秀として見る。


ここには信長がいる。


二人の間に何があるのかを、今知らせる必要はない。


「ちょうどいい」


信長が光秀を呼ぶ。


「義昭に伝えろ」


「何とでございましょう」


信長は地図上の京へ手を置いた。


「連れていく」


光秀の表情が変わった。


「では……」


「ああ」


信長は迷わなかった。


「上洛する」


光秀は深く頭を下げた。


「承知いたしました。義昭様へ、すぐにお伝えいたします」


信長は立ち上がった。


その視線は、すでに岐阜ではなく京を見ていた。


◇◇◇


光秀が部屋を出た後、景継も少し遅れて廊下へ出た。


前を歩いていた光秀が足を止める。


振り返らないまま言った。


「景継」


周囲に人がいないことを確認してから、景継は答えた。


「何です、先生」


初めてだった。


正体を知った上で。


その男を先生と呼んだ。


光秀が振り返る。


「京へ行けば、今まで以上に多くの人間を見ることになる」


「でしょうね」


「大名だけではない。公家も、寺社も、商人もいる。武力だけでは動かぬ者も多い」


「楽しそうですね」


「面倒だぞ」


「先生まで長秀様と同じこと言うんですか」


光秀が少し笑った。


だが、すぐに真顔へ戻った。


「お前を見ている者も増える」


景継の目がわずかに細くなる。


「先生みたいに?」


「ああ」


光秀は否定しなかった。


「今までは、信長殿のそばに妙に頭の回る少年がいる。その程度で済んでいた。だが、美濃まで取った。そしてこれから京へ行く。お前が信長殿のそばで策を出し続ければ、いずれ多くの者がお前自身を見るようになる」


景継はその言葉を黙って聞いていた。


確かに。


以前とは違う。


尾張の中だけなら、景継が何者であっても知る人間は限られていた。


しかし。


天下へ近づけば、そうはいかない。


「気をつけろ」


光秀が言った。


景継は少し意外そうな顔をした。


「心配してくれてるんです?」


「観察しているものを、途中で失いたくないだけだ」


「やっぱり性格悪いですね」


「だからお前に言われたくない」


二人は少しだけ笑った。


景継にとって、これまで先生という存在は、いつも自分より一歩先にいるように感じられていた。


自分の知らないことを知り、自分の見えない場所から動きを見ている。もしかすると、自分が司馬懿であることさえ知っているのではないか。そんな疑いを持ったこともある。


だが。


違った。


先生も知らなかったのだ。


自分の中に何かがあることには気づいている。


その何かが三国の時代に関係していることにも気づいている。


それでも。


最後の答えには辿り着いていない。


そのことが分かっただけでも、景継にとっては大きかった。


「先生」


景継は歩き出す前に、もう一度光秀を呼んだ。


「何だ」


「いつか」


景継は光秀を見る。


「私が誰なのか分かったら、どうするんです?」


光秀はすぐには答えなかった。


景継の問いを軽く流すこともなく、しばらく考えてから口を開く。


「その時に決める」


「今は決めてないんですか?」


「正体も分からぬ者を、味方か敵か決める方がおかしいだろう」


景継は少し笑った。


「私と同じですね」


「何がだ」


「私も、先生が本当は何をしたいのか分かった時に考えます」


今度は光秀が黙った。


二人は互いの顔を見た。


景継は自分が司馬懿であることを隠している。


光秀もまた、自分が何を目的として景継を見続けているのか、そのすべてを話してはいない。


互いに。


相手が何かを隠していることだけは分かっている。


それでも。


今は敵ではない。


それで十分だった。


「では」


光秀が先に歩き出した。


「京で見せてもらおう」


「何をです?」


「お前が何をするのかをだ」


景継は少し呆れた顔をした。


「まだ試すんですか」


「当然だ」


「そのうち先生の方を試しますよ」


光秀が足を止めた。


振り返り。


少しだけ笑う。


「やってみろ」


景継も笑った。


そのまま二人は別々の方向へ歩いていった。


◇◇◇


その日のうちに、岐阜城では上洛へ向けた準備が本格的に始まった。


兵を整え、兵糧を集め、近江の情勢を探り、足利義昭側との話を詰める。美濃攻略を終えたばかりだというのに、城内には次の戦いへ向かう空気が満ち始めていた。


だが景継は、上洛を単なる軍事行動として考えてはいなかった。


岐阜から京までの道に、どれだけの勢力が存在するのか。誰が信長を恐れ、誰が義昭の上洛を歓迎し、誰が自分たちの利益を守るために邪魔をするのか。戦う前にそれを見極めなければならない。


戦うべき相手。


戦わなくていい相手。


味方にできる者。


金で動く者。


立場で動く者。


誇りで動く者。


今は放っておくべき者。


上洛とは、ただ軍を京へ進めることではない。


その道にいる人間たちを、どう動かすか。


そこからすでに。


戦いは始まっている。


景継は自室で地図を広げ、岐阜から京まで指を滑らせた。


途中には近江がある。


そして京へ入れば、これまでとは比べものにならない数の人間と思惑が待っている。


それでも、不思議と怖くはなかった。


むしろ。


少し楽しみだった。


一度目の人生でも、天下を巡る争いの中にいた。


多くの英雄を見た。


曹操を見た。


孔明と戦った。


数え切れないほどの策謀をくぐり抜けた。


それでも。


天下を自分の手にすることはなかった。


そして今。


再び。


別の国で。


別の時代で。


天下へ続く道の入り口に立っている。


しかも今度は、曹操でも曹丕でもない。


織田信長という、自分の知らない男の隣で。


景継は地図上の京へ指を置いた。


「さて」


小さく呟く。


「どんなところなんでしょうね」


答える者はいなかった。


だが。


間もなく。


自分の目で見ることになる。


尾張から始まった信長の戦いは、美濃を越え、ついに京へ向かおうとしていた。


そして景継もまた、長い間自分を追っていた「先生」の正体を知った。


明智光秀。


四歳の自分を訪ねた旅人。


自分の策へ密かに手を加え、その反応を観察していた男。


だが先生は、景継のすべてを知っていたわけではない。


むしろ先生自身も。


ずっと答えを探していた。


林道景継とは何者なのか。


四歳の幼児が、なぜ洛陽を知っていたのか。


なぜ魏を知っていたのか。


なぜ孔明について、まるで直接知っている者のように語ったのか。


そして。


なぜ成長した景継は、誰にも教わっていないはずのやり方で、人を動かし、敵を崩し、戦う前から勝敗を決めようとするのか。


先生は。


まだ答えを知らない。


景継もまた。


答えを教えるつもりはなかった。


だが、これから同じ織田信長のもとで動くなら、光秀はこれまでよりはるかに近い場所から景継を見ることになる。


景継がどのように戦うのか。


何を恐れるのか。


何を待つのか。


そして。


何を決してしないのか。


そのすべてを見れば。


いつか。


先生は答えに辿り着くかもしれない。


景継は、まだそのことを深く考えてはいなかった。


今、考えるべきことは別にある。


京。


足利義昭。


近江。


そして。


その先に広がる天下。


景継は地図を畳んだ。


美濃攻略は終わった。


次に始まるのは。


尾張や美濃という一国を奪うための戦いではない。


織田信長という男が。


天下そのものへ手を伸ばす戦いだった。

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