第六十四話 天下布武
永禄十年、1567年。
織田信長が美濃への出陣を命じた時、かつてのような緊張は清洲城にはなかった。
もちろん、これから一国を奪う戦いに向かうのだから、誰も油断しているわけではない。
稲葉山城は依然として斎藤龍興の居城であり、美濃には斎藤家に従う兵も残っている。山上に築かれた稲葉山城が、正面から攻めれば容易に落とせる城ではないことも変わっていなかった。
それでも数年前とは、決定的に違うものがあった。
美濃が、もう一つではなかった。
「稲葉、安藤、氏家。三家とも、こちらへつくことを正式に決めたそうです」
出陣を目前に控えた清洲城で、長秀から報告を受けた景継は静かに頷いた。
西美濃三人衆。
美濃でも大きな力を持つ三人が斎藤家を離れ、織田家についた。
それだけではない。
三人衆の決断を知った周辺の国人たちからも、次々と使者が届いている。
織田軍と戦う意思はない。
斎藤家からの出陣命令には応じない。
あるいは、織田家への臣従を認めてほしい。
数年前まで、藤吉郎が何度訪ねても態度を決めなかった者たちが、今では自分から清洲へ使者を送ってきていた。
「ずいぶん減ったな」
信長が地図を見ながら言った。
斎藤方を示す駒の数だった。
以前なら美濃全体に並んでいたはずの駒が、今では稲葉山城の周辺に偏っている。
景継はその地図を眺めながら答えた。
「これなら長い戦にはならないと思います」
「言い切るか」
「ここまでやって長引いたら、私が何年も美濃を見てきた意味がありませんから」
信長が笑った。
景継もわずかに笑い返した。
十三歳で初陣を経験した少年は、すでに二十歳になっていた。
その間に尾張は統一され、今川義元は桶狭間で敗れ、美濃では斎藤義龍が死に、その子である龍興が家督を継いだ。
そして景継は、龍興が美濃をまとめられるのかを見続けてきた。
急いで攻める必要はない。
城を攻める前に、城を守る人間を減らせばいい。
そう信長へ言い続けてきた。
藤吉郎を美濃へ送り込み、国人たちとの関係を作らせ、織田へ来ても家や領地を失わないという逃げ道を見せた。
その間に龍興は自ら家臣たちの信頼を失い、竹中半兵衛にはわずかな人数で稲葉山城を奪われた。
半兵衛は城を龍興へ返した。
だが、城は戻っても人の心までは戻らなかった。
そして今。
最後まで動かなかった西美濃三人衆までが、斎藤家から離れた。
もう待つ理由はなかった。
「行くぞ」
信長が立ち上がった。
「美濃を取る」
◇◇◇
織田軍が美濃へ入ったという知らせは、その日のうちに各地へ広がった。
だが、龍興が期待していたような動きは起こらなかった。
稲葉山城から各地へ使者が走り、斎藤家のもとへ兵を集めるよう命令が出されたものの、集まってきた兵は龍興が想定していた数には遠く及ばなかった。
「まだ来ておらぬだけだ!」
龍興はそう言い続けた。
しかし翌日になっても兵は増えない。
さらに翌日になっても、状況は変わらなかった。
来ないのではない。
来るつもりがない。
ようやく龍興がその現実を認めた頃には、織田軍はすでに稲葉山城へ向けて進んでいた。
一方の織田軍では、景継が予想していた以上に進軍が順調に進んでいた。
斎藤方の砦を通過しても、戦わずして門を開くところがある。
兵を出してきても、こちらの軍勢を確認しただけで退く者もいる。
中には織田軍が到着する前に斎藤家の旗を降ろし、織田方へ使者を送ってくる者までいた。
勝家は馬上からその様子を眺めながら、景継へ声をかけた。
「戦にならんな」
「それでいいんです」
景継は答えた。
「戦わなくて済むなら、その方が兵も減りません」
「お前は昔からそればかりだな」
「兵は死なない方がいいでしょう?」
「武将らしくないことを言う」
勝家はそう言いながらも笑っていた。
景継も笑い返し、そのまま前方へ視線を戻した。
やがて遠くに稲葉山が見えてくる。
その山上に建つ城を見た時、景継は数年前の自分を思い出した。
あの頃は、あそこへ辿り着くまでにどれほどの戦が必要になるのかと思っていた。
だが実際には、ここまでの道で大きな戦はほとんど起きていない。
「景継様」
隣を進んでいた藤吉郎が声をかけてきた。
「なんです?」
「以前、景継様がおっしゃったことを覚えておりますか」
「何をです?」
「城を攻めるのは最後でよい、と」
景継は少し考え、思い出した。
確かに言った。
龍興が家督を継いだ頃だった。
「覚えてますよ」
「本当に最後になりましたな」
藤吉郎が笑った。
景継は稲葉山城を見上げながら、小さく頷いた。
「ええ。ようやくです」
◇◇◇
稲葉山城を巡る戦いは、長くは続かなかった。
織田軍が城へ迫る頃には、斎藤方の士気はすでに大きく落ちていた。
援軍は来ない。
西美濃三人衆は織田方へ回った。
周辺の国人たちも次々と斎藤家から離れている。
城内の兵たちにも、その情報は届いていた。
勝家をはじめとする織田の武将たちが攻め始めると、当然斎藤方も抵抗した。
矢が飛び、鉄砲の音が響き、山道では何度も小さな衝突が起こった。
しかし、命を捨ててまで城を守ろうとする兵は以前より明らかに少なかった。
藤吉郎もまた、戦いの最中に動いていた。
以前から関係を作っていた者たちを通じ、降る者には命を保証すると城内へ伝え続けたのである。
逃げてもいい。
降ってもいい。
織田家へ来てもいい。
その選択肢があることを知っている兵は、追い詰められた時の行動が違う。
景継が何年も前から美濃で作り続けてきた逃げ道が、最後の戦いで大きな意味を持った。
一人が武器を置けば、それを見た隣の者も迷う。
一つの場所で守備兵が退けば、その穴から織田軍が入る。
すると別の場所にいた兵たちも、自分たちだけが最後まで残ることに意味があるのかと考え始める。
崩れ始めれば、早かった。
龍興は最後まで城内の兵をまとめようとしたが、一度失われた流れを戻すことはできなかった。
やがて城を維持することが不可能だと判断すると、わずかな供を連れて稲葉山城を脱出した。
斎藤龍興、敗走。
それを知った城内の抵抗は急速に弱まり、間もなく稲葉山城は織田軍の手へ落ちた。
何年も続いた美濃攻略の最後は、驚くほどあっけなかった。
◇◇◇
戦いが終わった後。
景継は信長とともに稲葉山城から美濃を見下ろしていた。
遠くまで土地が広がっている。
これまで何度も地図の上で見てきた美濃が、今は自分たちの足元にある。
「終わりましたね」
景継が言った。
信長は景色を見たまま答えた。
「ああ」
それだけだった。
喜びを爆発させるわけでもない。
大声で勝利を宣言するわけでもない。
ただ、しばらく美濃を見ている。
景継はそんな信長の横顔を見ながら、少し不思議に思った。
尾張統一の時とは違う。
あの頃の信長は、まず尾張を取らなければ何も始められなかった。
だが今は、美濃を取ったというのに、すでにその先を見ているように感じる。
「景継」
「はい」
「この城の名を変える」
景継は稲葉山城を振り返った。
「稲葉山では駄目ですか?」
「駄目ではない」
信長は答えた。
「だが、ここから始めるなら新しい名の方がいい」
「何を始めるんです?」
信長はすぐには答えなかった。
代わりに、遠くを見た。
美濃の先。
近江。
さらにその向こう。
京。
「岐阜」
信長が言った。
景継はその言葉を頭の中で繰り返した。
「岐阜……」
「今日からここは岐阜だ」
信長の声には迷いがなかった。
稲葉山城。
その名が消える。
そして岐阜城が生まれる。
だが信長が変えようとしているのは、城の名前だけではない。
景継には、そんな気がした。
◇◇◇
それからしばらくして。
岐阜城の一室へ、信長の主要な家臣たちが集められた。
勝家。
長秀。
信盛。
藤吉郎。
そして景継。
信長の前には、一枚の紙が置かれていた。
「これから使う」
信長がそう言って紙を見せる。
そこに書かれていたのは、四文字だった。
天下布武。
景継は、その文字を見た瞬間に意味を理解した。
これまで信長は、尾張を取るために戦ってきた。
尾張を取った後は、美濃を取るために戦った。
しかし、ここからは違う。
信長は自分から天下という言葉を掲げようとしている。
「本気なんですね」
景継が言った。
信長が景継を見る。
「何がだ」
「天下です」
勝家たちも二人を見る。
信長は少しだけ笑った。
「今さら何を言っている」
「今までは、そこまで直接言ってなかったでしょう」
「言わなければ分からなかったか」
景継も少し笑った。
「分かってましたよ。ただ、本当に文字にするとは思ってませんでした」
信長は天下布武の文字へ目を向けた。
「尾張だけ取って満足するなら、美濃はいらん。美濃だけで満足するなら、ここまで来る必要もない」
そして信長は立ち上がり、部屋の奥に広げられていた大きな地図へ向かった。
尾張。
美濃。
近江。
そして京。
そのさらに先にも、多くの国がある。
信長は美濃の上へ手を置いた。
「尾張は取った。美濃も取った」
そこから指を東ではなく、西へ滑らせる。
「景継」
「はい」
「次はどこだ」
景継は立ち上がった。
地図へ近づき、信長の隣へ立つ。
そして少しだけ考えた後、指を置いた。
美濃の隣ではない。
さらにその先。
京。
信長の眉がわずかに動いた。
「近江ではないのか」
「近江を取ることが目的なら近江です。でも信長様が欲しいのは、もう一つの国じゃないでしょう?」
景継は京を指したまま続けた。
「なら、最初からここを見て動いた方がいいと思います」
信長が笑った。
「そうか」
景継は天下布武の四文字を見た。
自分がかつて生きた世界でも、多くの男が天下を望んだ。
曹操。
劉備。
孫権。
そして諸葛亮。
自分自身も、その争いの中で生涯を過ごした。
結局、自分が生きている間に天下が一つになることはなかった。
それから千年以上が過ぎた、この国。
再び自分は乱世の中にいる。
そして今度は、目の前に一人の男がいる。
織田信長。
この男がどこまで行くのか。
景継にも、まだ分からない。
だが。
一つだけ確かなことがあった。
尾張の中だけで争っていた時代は、もう終わった。
信長は美濃を取り、岐阜を手に入れ、天下布武を掲げた。
ここから先、戦う相手も、動かす人間も、これまでとは比べものにならないほど増えていく。
そして景継自身も、いつまでも信長のそばにいる頭の回る若者というだけではいられない。
やがて、この国そのものを動かす者たちと向き合うことになる。
「行くぞ、景継」
信長の声で、景継は顔を上げた。
「はい」
「天下を取りに行く」
その言葉を聞いた景継は、静かに笑った。
かつて一度。
天下を巡る戦いを生きた男が。
時を越え。
再び。
天下へ向かって歩き始める。
美濃攻略、完了。
そして織田信長の戦いは、ここから本当の意味で天下を巡る戦いへと変わっていく。
――第三章・完。




