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『乱世にて、我は待つ』  作者: ダイヤマ
第三章 乱世への一手

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第六十三話 動き出した美濃


竹中半兵衛が稲葉山城を斎藤龍興へ返してから、美濃の空気はそれまでとは明らかに変わっていた。


城そのものは斎藤家へ戻った。


龍興も再び稲葉山城へ入り、美濃の主としての形だけは取り戻している。


しかし、失ったものまで戻ったわけではない。


美濃の国人たちは、龍興が自分の力で城を奪い返したのではなく、半兵衛が自ら返したことで戻れたのだと知っている。


そして一度生まれた疑いは、城門を閉じたからといって消えるものではなかった。


「また来ました」


清洲城の一室で、藤吉郎が新しい書状を景継の前へ置いた。


景継は手に取る前に、机の上にすでに積まれている書状へ視線を向けた。


数日前までなら、一日に一通届くだけでも大きな動きだった。


それが今では、朝に一通、昼に二通、夕方になるとさらに別の家から使者が来る。


斎藤家から離れたいと明言する者ばかりではない。


ただ、内容は確実に変わっていた。


「今度は?」


景継が尋ねると、藤吉郎は少し笑った。


「領地をそのまま認めてもらえるなら、織田家との話し合いに応じてもよい、と」


「また『話し合い』ですか」


「皆、最初はそう申しますな」


景継も少し笑った。


臣従したいとは言わない。


裏切るとも言わない。


ただ話を聞きたいと言う。


だが、その一言を口にした時点で、以前とは大きく違っている。


本当に斎藤家と最後まで運命を共にするつもりなら、敵である織田家と密かに話す必要などない。


「どこの家です?」


藤吉郎が名前を告げる。


景継はすぐに地図へ目を向けた。


美濃西部。


大きな家ではない。


しかし、その周囲にはまだ態度を決めていない国人がいくつか固まっている。


「ここが動けば、隣も来そうですね」


「わしもそう思います」


藤吉郎は地図を覗き込んだ。


この数年間、美濃の道を歩き続けてきた藤吉郎は、もはや単なる使者ではなかった。


どの家とどの家が親しい。


誰と誰の仲が悪い。


どの国人が表では龍興への忠義を口にしながら、裏では織田家の評判を聞いている。


そうした人間関係を、景継より細かく把握している。


「藤吉郎さんなら、どうします?」


景継が尋ねた。


以前なら景継が先に答えを出し、その通りに動かしていた。


だが今回は違う。


藤吉郎は地図をしばらく眺めた後、迷うことなく一つの家を指した。


「先にここへ行きます」


景継が少し意外そうな顔をした。


「今使者を寄越した家じゃなくて?」


「はい。今来た家は、もう半分こちらへ来ております。急いで会う必要はありませぬ」


藤吉郎の指が置かれているのは、その隣の家だった。


「こちらはまだ斎藤へ残ると言っております。ただ、今使者を寄越した家とは昔から仲が悪い」


景継はすぐに意味を理解した。


「隣が先に織田へ行ったと思わせる?」


「思わせる必要はございませぬ。実際に使者が来ておりますからな」


藤吉郎が笑った。


「わしはただ、『お隣は清洲と話を始めたようですな』と教えてやればよいのです。その後どうするかは、向こうが勝手に考えるでしょう」


景継は藤吉郎の顔をしばらく見た。


以前なら、この男にここまで任せただろうか。


少なくとも数年前、最初に美濃へ送った頃は、まだ考えていなかった。


「それでいきましょう」


景継が答えると、藤吉郎が立ち上がった。


「では、行ってまいります」


「今回は何日くらいで戻ります?」


藤吉郎は少し考えた。


「三日もあれば」


「早いですね」


「相手を説得するのではございませぬ。考える理由を置いてくるだけなら、それほど時間はかかりません」


景継はその言葉を聞いて、少しだけ笑った。


以前、自分が半兵衛のやり方を見て、疑問を一つ置くだけで人を動かすことに感心したことがある。


今、藤吉郎も違う形で同じところへ近づいていた。


ただし半兵衛が相手を考え込ませるのに対し、藤吉郎は相手自身が動きたくなるところまで、その懐へ入り込んでいく。


「お願いします」


藤吉郎が部屋を出ていく。


景継は再び地図へ目を戻した。


今の美濃は以前とは違う。


一つの家が動けば周囲が反応する。


だからもう、全員をこちらから押して動かす必要はなかった。


◇◇◇


藤吉郎の予想は当たった。


三日後、彼が訪ねた家から清洲へ使者が来た。


さらにその翌日、今度は別の家が動いた。


そして一週間もしないうちに、美濃西部では目に見える変化が始まった。


「またですか」


景継は思わず聞き返した。


長秀が頷く。


「今度は小さな家ではない」


景継の前へ置かれた書状を見た瞬間、その表情が変わった。


「稲葉……」


続いて、別の名が告げられる。


「安藤」


そしてさらに一つ。


「氏家」


西美濃三人衆。


美濃の中でも大きな力を持つ者たちだった。


彼らが一斉に臣従を申し出てきたわけではない。


ただ、織田家と正式に話をしたいと伝えてきた。


それだけでも、これまでとは意味が違う。


「三人とも同時ですか?」


景継が尋ねると、長秀は首を横に振った。


「ほぼ同じ時期だが、示し合わせたかどうかまでは分からん」


「でも、お互いに誰が動いたかくらいは知ってるでしょうね」


「おそらくな」


景継は書状を順番に読み直した。


そこに書かれているのは、忠義でも理想でもない。


極めて現実的な条件だった。


自分たちの領地をどうするのか。


家臣はどう扱われるのか。


斎藤家から離れた場合、織田家はどこまで保証するのか。


「ここまで来たか」


景継は小さく呟いた。


数年前、藤吉郎が美濃へ入った頃なら、この三人へ直接手を伸ばすのは危険だった。


美濃の中で大きな家ほど失うものも大きく、簡単には動けない。


それが今では、自分たちの側から条件を聞きに来ている。


「信長様へ持っていきましょう」


景継は書状をまとめた。


◇◇◇


評定の間で、信長は三人衆から届いた書状を一通ずつ読んだ。


勝家、長秀、信盛、そして景継も、何も言わずにその反応を待っている。


最後の書状を読み終えた信長が、静かに顔を上げた。


「どうする」


その問いが誰に向けられたものか、景継には分かった。


「会いましょう」


「条件は」


「最初から全部は認めなくていいです。ただ、早く決めるなら今までの立場をできるだけ残す。その線でいいと思います」


信長が目を細める。


「もう少し取れるぞ」


景継は少し考えた。


確かに今の斎藤家は弱っている。


三人衆に対して、もっと厳しい条件を出すこともできる。


しかし景継が欲しいのは、今ここで少し多く領地を奪うことではなかった。


「今は、領地を少し多く取ることより、三人を動かす方が大きいです。この三人が斎藤家から離れれば、美濃の他の家は一気に考えます」


景継は地図へ手を伸ばし、西美濃に置かれた駒を一つずつ指した。


「三人衆が動けば、龍興様のところへ集まる兵も減ります。それだけじゃなく、この三人と関係の深い国人たちも、『自分たちだけ斎藤に残って大丈夫なのか』と考えるようになる。小さな領地を一つ多く取るより、その方がずっと価値があります」


「つまり三人を取れば、美濃の半分が動く」


長秀が言った。


景継は頷いた。


「少なくとも、美濃の人たちにはそう見えます。それで十分です」


信長はしばらく地図を見ていた。


そして稲葉、安藤、氏家の駒へ一つずつ指を当てると、ようやく決断した。


「よし。話を進めろ」


景継は頭を下げた。


「はい」


しかし、それで終わりではなかった。


むしろここから、美濃はこれまでとは比べものにならない速度で動き始めることになる。


◇◇◇


西美濃三人衆が織田家との交渉へ入ったという噂は、正式な臣従が決まるよりも先に、美濃の国人たちの間へ広がっていった。


誰が最初に漏らしたのかは分からない。


藤吉郎でもなければ、景継が意図的に流したわけでもなく、信長が命じたものでもなかった。


ただ乱世では、隠したい話ほど不思議と早く広がる。


「稲葉殿が織田へ話を持っていったらしい」


「安藤殿まで清洲と通じているというぞ」


「氏家殿も、すでに条件を聞いているらしい」


そんな話を聞いた者たちは、最初こそ半信半疑だった。


しかし三人のうち一人だけではなく、二人、三人と同じ名前が出てくれば、ただの噂として笑い飛ばすことは難しくなる。


そして西美濃三人衆ほどの家が本当に斎藤家を見限ろうとしているのなら、自分たちが最後まで龍興のもとへ残ることが果たして正しいのかという疑問が、一気に現実味を帯びてくる。


それまで斎藤家への忠義を口にしていた者たちでさえ、今まで押し込めていた不安を隠せなくなり始めた。


龍興は本当に織田信長に勝てるのか。


稲葉山城を竹中半兵衛にわずかな人数で奪われ、自力で取り返すこともできなかった男が、桶狭間で今川義元を破った信長を止められるのか。


しかも信長のそばには、何年もかけて美濃の人間関係を崩し続けてきた林道景継がいる。


そう考え始めた時、これまで曖昧だった不安は、次第に具体的な恐怖へ変わっていった。


自分だけが最後まで斎藤家へ残り、周囲がすべて織田方へ回った時、自分の家はどうなるのか。


領地は守れるのか。


家臣はついてくるのか。


戦に負けた後、今と同じ条件で織田家に受け入れてもらえるのか。


景継が新たに広めた「早く動いた家ほど条件を良くする」という方針は、そこへさらに追い打ちをかけた。


待っているだけでは、何も失わない。


今まではそうだった。


だが今は、待つことそのものが損につながるかもしれない。


その認識が広がった瞬間、美濃の国人たちは初めて、本当の意味で決断を迫られるようになった。


◇◇◇


稲葉山城にも、当然同じ知らせは届いていた。


「稲葉が織田と話している?」


龍興は目の前にいる家臣へ問い返した。


「安藤も、氏家もか?」


「まだ織田へ臣従したと決まったわけではございませぬ。ただ、三家とも清洲へ使者を送ったことは間違いないようにございます」


龍興の表情が見る見る険しくなった。


「呼べ。三人とも、今すぐ稲葉山へ来るように伝えろ」


使者がすぐに城を出た。


以前なら、その命令だけで三人は稲葉山へ来たかもしれない。


美濃の主から呼ばれれば、多少の不満があっても従う。


それが当たり前だった。


しかし数日後に届いた返事は、三家とも龍興が期待していたものではなかった。


一人は体調が優れない。


一人は領内で問題が起こり、今は離れられない。


そしてもう一人も、しばらく稲葉山へ向かうことは難しいと返してきた。


理由は違う。


それでも、答えは同じだった。


来ない。


龍興は三通の書状を見比べた後、そのうち一通を床へ投げつけた。


「裏切るつもりか!」


周囲にいた家臣たちは、誰もすぐには答えなかった。


まだ三人が織田へ臣従したと決まったわけではない。


だからこそ、軽々しく裏切りと決めつけるわけにもいかない。


しかし、その沈黙は龍興にとって、自分の言葉へ誰も同意していないように見えた。


「竹中はどこだ」


龍興が苛立った声で尋ねると、一人の家臣が恐る恐る答えた。


「菩提山におります」


「なら呼べ。半兵衛なら、何か考えるだろう」


だが家臣はすぐには動かなかった。


「何だ」


「半兵衛殿も、城をお返しになった後は以前のようには稲葉山へ出ておられませぬ。お呼びしても、すぐに参るかどうか……」


龍興はそこで言葉を失った。


そして初めて、周囲をゆっくり見渡した。


以前なら、評定を開けばもっと多くの家臣がいた。


自分の意見に反対する者もいたし、耳の痛いことを平然と言う者もいた。


その時の龍興には、彼らが自分を馬鹿にしているように思えた。


父の義龍と比べ、自分を頼りないと思っているのではないかと腹を立てたこともある。


だから遠ざけた。


自分に従わない者をそばから外し、自分の考えを肯定してくれる者を重く用いた。


その結果、今残っているのは、自分の顔色を見て簡単には口を開かない者ばかりだった。


龍興はようやく、自分の周囲から人が減っていることだけは理解した。


しかし、なぜそうなったのかというところまで、まだ完全には認めることができなかった。


◇◇◇


菩提山城にも、西美濃三人衆が織田家と交渉を始めたという知らせは届いていた。


半兵衛は家臣から差し出された報告を最後まで読み終えると、しばらく黙ったまま紙を机へ置いた。


「稲葉殿、安藤殿、氏家殿まで動き始めたようにございます」


家臣の声は重かった。


半兵衛は予想していなかったわけではない。


むしろ、いつかこの日が来る可能性はかなり前から見えていた。


だからこそ龍興へ何度も進言し、最後には自ら稲葉山城を奪うという常識外れの手段まで使った。


それでも実際に三人衆が斎藤家から距離を取り始めたという報告を読むと、胸の奥には簡単に言葉にできないものが残った。


「景継殿が動かしたのでしょうか」


家臣が尋ねた。


半兵衛は少し考えた後、静かに首を横に振った。


「景継殿だけではありません。三人とも最後には自分で決めたのでしょう」


「しかし、織田が何もしていなければ……」


「もちろん景継殿や藤吉郎殿の働きは大きいでしょう。ただ、人というものは、どれほど上手く誘われても最後には自分で決めなければ動きません」


半兵衛は窓の外へ目を向けた。


景継は、三人衆の心を無理やり変えたわけではない。


藤吉郎は、斎藤家を裏切れと脅したわけでもない。


信長も、美濃のすべての国人へ刃を向けて服従を迫ったわけではない。


ただ景継は、斎藤家に残ることが本当に安全なのかを何年もかけて考えさせ、藤吉郎は織田へ行っても家や領地を残せる道を見せ、信長は桶狭間で自分が勝てる男だということを天下へ証明した。


そして龍興は、自分自身の手で家臣たちを遠ざけた。


「もう、私一人では止められません」


半兵衛が静かにそう言うと、家臣が驚いたように顔を上げた。


これまでどれほど状況が悪くなっても、半兵衛はその言葉を簡単には口にしなかった。


何か方法がある。


まだ立て直せる。


そう考え続けてきた。


しかし今は、美濃の中でも最も大きな力を持つ者たちまで、斎藤家から離れる準備を始めている。


その流れを、一人の軍師が策を一つ出しただけで止められる段階ではなくなっていた。


「では、斎藤家はもう終わりなのでしょうか」


家臣の問いに、半兵衛はすぐには答えなかった。


稲葉山城はまだある。


龍興も生きている。


兵も残っている。


だから、形だけを見ればまだ終わってはいない。


だが次に織田信長が本気で軍を動かせば、美濃は以前のように一つの国として迎え撃つことができない。


そのことだけは、半兵衛にもはっきり見えていた。


「景継殿」


半兵衛は誰に聞かせるでもなく、その名を小さく口にした。


一度だけ寺で会った少年が、数年をかけて美濃の形そのものを変えてきた。


そして今。


盤面は、最後の一手を待っている。


「次は、来ますね」


◇◇◇


数日後。


西美濃三人衆との交渉がほぼまとまったという知らせが、清洲城へ届いた。


景継は信長、勝家、長秀、信盛、藤吉郎らとともに、評定の間に広げられた美濃の地図を見ていた。


「稲葉、安藤、氏家。三家とも、条件次第で織田へつく意思を示した」


長秀がそう報告すると、藤吉郎も続けた。


「その周囲の国人もかなり動いております。今ならこちらが美濃へ兵を入れても、以前ほど斎藤家のもとへ兵が集まらぬはずでございます」


勝家が、景継へ視線を向けた。


「まだ待つか」


その問いに、景継はすぐには答えなかった。


ここまで何年も待った。


義龍が死に、若い龍興が家督を継いだ時も、すぐに大軍を動かすべきではないと信長へ進言した。


美濃の国人たちがどう動くかを見た。


藤吉郎を何度も送り込み、織田へ来ても生き残れる道を作った。


半兵衛とは策を読み合い、一度は直接向かい合った。


その半兵衛が稲葉山城をわずかな人数で奪い、自ら龍興へ返すという出来事まで起きた。


そして今、西美濃三人衆まで斎藤家から離れようとしている。


これ以上待っても、状況が劇的に良くなる保証はない。


むしろ今なら、斎藤家が立て直す前に一気に勝負を決められる。


景継はしばらく地図を眺めた後、織田方の駒へ手を伸ばした。


「いえ。もう待ちません」


勝家の表情が変わった。


信長も黙って景継を見る。


景継は織田の駒を一つ、美濃側へ進めた。


「今なら取れます」


「何を根拠に言う」


信長が尋ねる。


景継は稲葉山城の周囲に置かれている国人たちの駒を指した。


「城を落とすための特別な策は、もういらないと思います。何年もかけて、そこを守る人間を減らしてきました。今の龍興様が兵を集めても、以前のように美濃全体が一つになって集まることはありません」


さらに景継は、西美濃三人衆の駒へ視線を移した。


「この三人が正式にこちらへつけば、それを見た国人たちはさらに動きます。織田軍が美濃へ入った瞬間、斎藤家のために戦うより、自分たちがどちらへつくべきかを考える者の方が増えるはずです」


「ならば攻めるか」


長秀が聞いた。


景継は迷わず頷いた。


「はい。もう城の外から美濃を崩す段階は終わりです。次は、実際に取りに行きましょう」


その言葉を待っていたかのように、信長が立ち上がった。


「全軍へ伝えろ。美濃へ出る」


部屋の空気が一瞬で変わった。


長秀が頭を下げ、勝家も立ち上がる。信盛はすぐに兵や兵糧の準備について確認を始め、藤吉郎も表情を引き締めた。


景継だけは、しばらく地図を見つめていた。


何年もの間、遠くから見続けてきた稲葉山城。


竹中半兵衛がわずかな人数で一度奪い、自ら龍興へ返した城。


次にそこへ向かうのは、織田信長だった。


だが景継は、もう稲葉山城だけを見てはいなかった。


今回、本当に落とすべきものは石垣でも城門でもない。


美濃という国そのものだった。


そしてその国は、織田軍がまだ出陣していない今この瞬間にも、内側から少しずつ斎藤家の手を離れ続けている。


信長の軍が美濃へ入った時、それが最後の一押しになる。


景継には、そう確信できていた。


この戦が終われば、織田信長はもう尾張と美濃だけを見ている男ではなくなる。


尾張をまとめ、今川義元を桶狭間で破り、長い時間をかけて美濃まで手に入れる。


その先に信長が見るものは、もはや隣国ではない。


近江。


そして京。


さらにその先に広がる、天下そのものだった。


景継は地図上の稲葉山城へ最後に視線を向けた。


「ようやくですね」


小さく呟いたその声は、誰にも聞かれなかった。


長く続いた美濃攻略は、次の戦で決着する。


そしてその勝利は、織田家にとって一国を増やすだけのものではない。


尾張の一大名だった織田信長が、本当の意味で天下へ歩き始める、その最初の一歩になるはずだった。

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