第六十二話 城を返す男
竹中半兵衛が稲葉山城を奪ってから、美濃では誰もが次の動きを見守っていた。
斎藤龍興は城外へ逃れたものの健在。半兵衛は稲葉山城を押さえながら美濃の主を名乗らず、信長からの誘いまで断っている。
このまま城へ居座るのか。それとも龍興と争い、美濃を二つに割るつもりなのか。
清洲でも意見は分かれていた。
「このまま竹中が城を持ち続けるなら、龍興は苦しいな」
地図を見ながら勝家が言うと、長秀も頷いた。
「稲葉山城を失ったままでは、当主としての威信に関わる。兵を集めて取り返そうとするだろう」
「なら共倒れを待てばいい」
勝家は迷わなかった。
「竹中と斎藤が削り合った後、こちらが入れば済む」
戦として考えれば合理的だった。
だが景継には、半兵衛が龍興と戦う姿がどうしても浮かばなかった。
「半兵衛殿は、戦わないと思います」
「なぜ分かる」
「龍興様を倒すつもりなら、城を奪った日に追手を出していたはずです」
龍興が最も無防備だったのは、城を追われた直後だ。それを見逃し、信長から示された領地や地位まで断った。
「美濃の主になる気も、織田へ城を売る気もない。だったら、ずっと城を持つ理由もない気がします」
長秀が景継を見る。
「まさか、返すというのか」
景継は少し迷ってから頷いた。
「……半兵衛殿なら、返すかもしれません」
勝家が呆れた顔をした。
「何のために奪ったのだ」
「それを龍興様に考えさせるためじゃないですか」
半兵衛の目的が城ではなく、今の斎藤家の危うさを見せることなら、持ち続ける必要はない。
信長が鼻を鳴らした。
「随分と面倒な男だな」
「私もそう思います」
その二日後。
景継の予想は現実になった。
◇◇◇
「申し上げます! 竹中半兵衛重治、稲葉山城を斎藤龍興殿へ返還したとのことにございます!」
評定の間が静まり返った。
「……本当に返したのか」
勝家が聞き返す。
「はっ。竹中勢は城を退き、龍興殿が再び稲葉山城へ入ったとのこと」
「見返りは?」
「大きな領地や地位を得たという話はございません」
命懸けで城を奪い、信長の誘いまで断り、最後には龍興へ返した。
普通なら理解し難い行動だった。
「やっぱり、城が欲しかったわけじゃなかったんですね」
景継が呟くと、信長が横目で見る。
「分かったような顔をするな」
「少しだけ分かった気がします」
半兵衛が求めたものは、領地でも地位でもない。
「龍興様に変わってほしかったんでしょうね」
「変わると思うか」
景継は首を横に振った。
「分かりません。でも今は、龍興様より美濃の人たちがどう見るかの方が重要です」
龍興は自分の力で城を取り戻したわけではない。
半兵衛が返したから戻れた。
「美濃の人から見れば、半兵衛殿に追い出されて、半兵衛殿に返してもらったことになります。城は戻っても、失った威信までは戻りません」
長秀が息を吐く。
「斎藤家を救おうとして、逆に傷を広げたか」
「結果としては、そうなるかもしれません」
半兵衛の意図が善かろうと、起きた出来事は消せない。
そして、その変化はすぐに表れた。
◇◇◇
稲葉山城返還の知らせが広がると、美濃の国人たちから清洲へ密かな使者が相次いだ。
「三日で七家?」
報告書を見た景継が顔を上げる。
藤吉郎が嬉しそうに頷いた。
「そのうち二家は、以前いくら話しても態度を決めなかったところでございます。それが今度は向こうから使者を寄越してきました」
届いた書状には、以前とは違う問いが並んでいた。
織田についた場合、領地はどうなるのか。
家臣や家族の安全は保証されるのか。
いつまでに返答すればいいのか。
景継は最後の書状を置いた。
「変わりましたね」
「何がです?」
「向こうから条件を聞くようになった」
数年前はこちらから、織田へ来ても家や命を失わないと伝えていた。
今は違う。
美濃の側が、織田へ移ることを前提に考え始めている。
「藤吉郎さん。ここから少しやり方を変えます」
「どうなさいます?」
「全員に同じ条件を出さないでください」
藤吉郎の目が細くなる。
「早く決断した家は厚く扱う。最後まで迷って、織田が勝つと分かってから来た家は、それより条件を落とします」
「早い者ほど得をする、と」
「はい。その話は広まって構いません」
これまでは、斎藤家から離れても生き残れる道を見せることが目的だった。
だが今は、待つこと自体に不利益を生じさせる。
「何もしなければ、隣の家に先を越されるかもしれない。そう思えば、いつまでも様子見はできません」
藤吉郎が地図を見ながら笑った。
「こちらから裏切れと言わずとも、向こうから急ぐようになるわけですな」
「ただし、実際の交渉は藤吉郎さんに任せます」
「景継様から細かい指示は?」
「今回はいりません」
景継は即答した。
この数年間、藤吉郎は何度も美濃へ入り、警戒していた国人たちと酒を飲み、家族の話を聞き、関係を築いてきた。
盤面全体を見ることなら景継にもできる。
だが相手の前へ座り、本音を引き出すことでは藤吉郎の方が上だった。
「一つだけ。一番大きな家から行く必要はありません」
「では?」
「一番迷っている家からです。一つ動けば、その隣も焦ります」
藤吉郎はしばらく考え、力強く頷いた。
「承知いたしました。ならば今度は、わしのやり方で歩いてまいります」
「お願いします」
◇◇◇
それから、美濃の流れは目に見えて速くなった。
一つの家が織田へ近づけば、隣の家も動く。
藤吉郎は以前から関係を築いてきた国人を訪ね、領地の保証を伝える一方、決して臣従を迫らなかった。
「わしは決めろとは申しませぬ。ただ、明日も今日と同じ条件とは限りませぬぞ」
それだけを残して帰る。
今日なら領地を認められる。
だが明日、隣家が先に織田へつけば、自分の価値は下がるかもしれない。
やがて藤吉郎が訪ねていない家からも、清洲へ使者が来るようになった。
景継が一つずつ動かしていた駒が、互いを見ながら動き始めていた。
城はまだ落ちていない。
龍興も稲葉山城にいる。
それでも美濃は、数年前とはまるで違う国になりつつあった。
そんな中、景継には一人だけ気になる男がいた。
竹中半兵衛。
斎藤家を救おうとして城を奪い、自ら返した男は、今の美濃をどう見ているのだろうか。
◇◇◇
菩提山城。
半兵衛は届けられた報告を静かに読んでいた。
「織田へ近づく者が、また増えたようにございます」
家臣から新しい書状を受け取り、目を通す。
「南美濃だけではないようですね」
「はい。以前なら織田との話すら拒んでいた者まで、藤吉郎なる男と会っているとの噂がございます」
さらに美濃では、別の話も広がっていた。
早く織田へついた家ほど厚く扱われ、最後まで斎藤に残れば条件が悪くなる。
「景継殿でしょう」
半兵衛が呟く。
「分かるのでございますか」
「以前、話したことがありますから」
半兵衛は地図へ目を落とした。
「無理に裏切らせるのではない。動いた方が得だと思わせる。そうすれば、一つの家が動くだけで周囲まで焦り始める」
「止められますか」
半兵衛は答えなかった。
以前なら、織田の噂を打ち消し、国人へ斎藤家に残る利を説いただろう。
だが今、それを自分が言っても説得力がない。
稲葉山城を十数人で奪い、斎藤家の内側がどれほど脆くなっているのかを美濃中へ示したのは、半兵衛自身なのだから。
「難しいでしょうね」
半兵衛は静かに言った。
「私が『斎藤家は大丈夫だ』と言っても、それならなぜ城を奪ったのかと聞かれれば、返す言葉がありません」
後悔しているわけではない。
言葉で届かなかった龍興へ危機を伝えるには、あれしかないと思っていた。
ただ、自分が龍興を変えるために見せた現実を、景継はそのまま斎藤家を崩す材料に変えた。
「では、このまま美濃は織田へ?」
「まだ終わってはいません。稲葉山城も兵も残っています」
そう答えながらも、半兵衛には分かっていた。
戻っていないものが一つある。
斎藤家への信頼だ。
「景継殿……」
半兵衛は小さくその名を口にした。
悔しさはある。
自分が斎藤家を救おうとして起こした行動が、織田を利している。
だが、すべてを景継の策のせいにもできない。
もともと斎藤家に亀裂がなければ、景継にも広げようがなかったのだから。
◇◇◇
しばらくして、清洲城。
景継の前に広げられた美濃の地図は、数年前とは大きく変わっていた。
尾張との国境から始まった織田の影響が、南美濃を越え、稲葉山城の周囲へ伸びている。
信長も地図を眺めていた。
「あとどれくらいだ」
「美濃を取るまでですか?」
「そうだ。お前はこれまで待てと言い続けた。では今はどうだ」
景継は地図を見渡した。
以前なら、まだ早いと答えていただろう。
だが今は違う。
待つことで得られるものより、動くことで得られるものの方が大きくなり始めている。
「あと一つだと思います」
「何が必要だ」
「美濃の人たちが、斎藤家から離れても大丈夫だと確信する何かです」
今はまだ、織田へ行ってもいいかもしれないという段階にいる者が多い。
「それが、『今行かなければ遅れる』に変われば、一気に動きます」
「その時は?」
景継は稲葉山城を見た。
何年も待った。
城ではなく、そこを守る人間が変わるのを。
「攻めましょう」
信長の口元が上がる。
「ようやくお前から攻めろと言うか」
「今なら、前よりずっと少ない血で美濃を取れると思います」
信長は織田の駒を手に取ると、稲葉山城のすぐ南まで進めた。
まだ出陣の命令ではない。
だが景継には、その意味が分かった。
長く続いた『待つ戦』が、終わろうとしている。
「ならば準備しておけ」
信長は稲葉山城を見据えた。
「次は取るぞ」
「はい」
景継は静かに頷いた。
竹中半兵衛が十数人で奪い、自ら龍興へ返した稲葉山城。
次にその城を狙うのは、織田信長だった。
だが景継が見ているのは、もう城だけではない。
その周囲にいる人々が、どちらを選ぶのか。
最後の一押しで彼らが動いた時、美濃を巡る長い戦いは大きく動く。
その時は、もう遠くなかった。




