第六十二話 城を返す男
竹中半兵衛が稲葉山城を奪ってからしばらくの間、美濃では誰もが次に何が起こるのかを見極めようとしていた。
斎藤龍興は城外へ逃れたものの生きている。半兵衛は稲葉山城を押さえているが、自ら美濃の主を名乗る様子はなく、さらに信長からの誘いまで断っていた。
ならば半兵衛は、このまま稲葉山城へ居座るのか。それとも斎藤家とは別の勢力を作り、美濃そのものを二つに割るつもりなのか。
清洲でも、美濃から届く情報を待ちながら様々な意見が出ていた。
「このまま半兵衛が城を持ち続けるなら、龍興はかなり苦しいな」
地図を眺めながら勝家が言うと、長秀も静かに頷いた。
「稲葉山城を失ったままでは、美濃の国人たちに当主としての力を示せぬ。龍興が兵を集めて城を取り返そうとする可能性は高いだろう」
「その時は?」
信盛が尋ねる。
勝家は迷わず答えた。
「共倒れを待てばいい。竹中と斎藤が削り合えば、最後にこちらが入れば済む」
戦として考えれば、それは極めて合理的だった。
斎藤龍興と竹中半兵衛が争い、美濃内部の兵が消耗すれば、織田家にとってこれ以上都合のいい展開はない。
だが景継は、どうしてもその未来が見えなかった。
「半兵衛殿は、龍興様と戦わないと思います」
景継がそう言うと、勝家が横を見る。
「なぜ分かる」
「分かるわけじゃありません。ただ、あの人が龍興様を倒すつもりなら、城を取った日に追手を出しているはずです」
景継は稲葉山城の駒へ指を置いた。
龍興は城を追われた直後、最も弱い状態にあった。兵は散り、何が起こったのか理解できていない者も多く、半兵衛側がその気になれば龍興本人を捕らえる機会もあっただろう。
それをしなかったうえに、信長から差し出された領地や地位さえ断っている。
「半兵衛殿は美濃の主になりたいわけじゃない。龍興様を殺したいわけでもないし、織田へ城を売るつもりもない。だったら、この城をずっと持っている理由もない気がするんです」
「まさか返すというのか」
長秀が聞いた。
景継はすぐには答えなかった。
常識だけで考えれば、あり得ない。
命を懸けて奪った稲葉山城を、再び自分を軽く扱っていた主君へ返す。そんなことをするくらいなら、最初から城など取らなければいい。
だが竹中半兵衛という男なら、本当にそれをするかもしれないと景継は思った。
「……返すかもしれません」
景継が答えると、勝家は呆れたような顔をした。
「何のためにだ」
「それを龍興様に考えさせるためじゃないですか」
景継は少し考えながら続けた。
「半兵衛殿の目的が稲葉山城を取ることではなく、今の斎藤家がどれだけ危ういのかを見せることだったなら、城を持ち続ける必要はありません。むしろ自分から返した方が、何のために城を取ったのかがはっきりします」
城は欲しくない。
領地もいらない。
主君を殺すつもりもない。
ただ、あなたの城はわずかな人数に奪われたのだという事実だけを、龍興の前へ突きつける。
「随分と面倒なことをする男だな」
信長が言った。
景継は少し笑った。
「私もそう思います」
その二日後、景継の予想は現実になった。
◇◇◇
「申し上げます!」
美濃から戻った使者の報告を聞いた瞬間、評定の間にいた者たちは一様に言葉を失った。
「竹中半兵衛重治、稲葉山城を斎藤龍興殿へ返還したとのことにございます!」
勝家が思わず聞き返した。
「本当に返したのか」
「はっ。竹中勢は城から退き、龍興殿が再び稲葉山城へ入ったとの知らせにございます」
「見返りは?」
長秀が尋ねる。
「詳しくは分かりませぬ。ただ、大きな領地や地位を得たという話はございません」
部屋の中に、何とも言えない沈黙が広がった。
あれほど危険な方法で城を奪い、信長から差し出された条件まで断り、そのうえ最後には龍興へ返す。普通に考えれば、何をしたかったのか分からない。
だが景継には、むしろ城を返したことで半兵衛の目的がよりはっきりしたように思えた。
「やっぱり、城が欲しかったわけじゃなかった」
景継が静かに言うと、信長が彼を見る。
「分かったような顔をするな」
「少しだけ分かった気がします」
景継は地図上の稲葉山城を見た。
半兵衛は城を取ったが、美濃を奪おうとはしなかった。龍興を殺すこともせず、信長からの誘いまで断ったうえで、最後には自ら城を返した。
それなら、今回の出来事で半兵衛自身が得たものはほとんどない。むしろ主君から裏切り者と見られる危険を背負い、美濃の中でも自分の立場を悪くした可能性さえある。
「ここまでして、自分は何も取らない。だったら半兵衛殿が欲しかったのは、龍興様が変わることだけだったんでしょうね」
「変わると思うか」
信長が尋ねる。
景継は少し考えた後、首を横に振った。
「分かりません。ただ、半兵衛殿が何を考えていたかより、これから大事なのは美濃の人たちがどう見るかです」
景継は地図の周囲に置かれた国人たちの駒へ目を向けた。
斎藤龍興は、自分の家臣にわずかな人数で城を奪われ、その後、その家臣が自ら城を返したことで稲葉山へ戻ることができた。
龍興自身が力で奪い返したわけではなく、敵を打ち破って当主としての威信を取り戻したわけでもない。
そして、その事実はすでに美濃各地へ広がっている。
「龍興様が稲葉山へ戻ったからといって、前と同じには戻りません。むしろ、半兵衛殿が自分から城を返したことで、龍興様の立場はさらに難しくなったと思います」
「なぜだ」
勝家が尋ねる。
「自分の力で取り返したわけじゃないからです」
もし龍興が兵を集め、半兵衛を打ち破り、稲葉山城を奪還したのなら、まだ話は違った。当主としての力を示し、反乱を鎮めたのだと美濃の者たちへ示すことができる。
しかし現実には、半兵衛が返したから龍興は城へ戻れた。
「美濃の人から見れば、『半兵衛に追い出されて、半兵衛に返してもらった』ことになります。城を取り戻しても失った威信までは戻らない。龍興様にとっては、城を失った時より苦しいかもしれません」
その言葉を聞いた長秀が、小さく息を吐いた。
「竹中は斎藤家を救おうとして、逆に傷を深くしたということか」
「結果としては、そうなる可能性があります」
景継は複雑な気持ちだった。
半兵衛の意図は理解できる。龍興を見捨てず、最後まで変わる機会を与えようとしたのだろう。
だが乱世では、正しい意図が正しい結果につながるとは限らない。
半兵衛が斎藤家を救うために起こした行動が、逆に斎藤家の弱さを美濃中へ見せつけてしまった。
そして、その弱さを景継が利用しない理由はなかった。
◇◇◇
稲葉山城が龍興へ返されたという知らせは、藤吉郎が動くより早く美濃各地へ広がっていった。
城を奪われた。
そして、戦って奪い返したのではなく、奪った本人から返された。
その二つの出来事によって、美濃の国人たちが斎藤家を見る目は明らかに変わり始めた。
これまで龍興への不満を持ちながらも、斎藤家に残るしかないと考えていた国人たちの中から、清洲へ密かな使者を送る者が急激に増えたのである。
「三日で七家?」
報告を受けた景継が聞き返すと、藤吉郎が満足そうに頷いた。
「そのうち二家は、以前わしが何度話しても態度を決めなかったところでございます。あれほど慎重だった者たちが、今度はこちらが何も言っておらぬのに使者を寄越してまいりました」
景継は届けられた書状を一枚ずつ確認した。
臣従すると明言している者はまだ少ない。しかし書かれている内容は、数年前に藤吉郎が美濃へ入り始めた頃とは明らかに変わっていた。
もし織田軍が美濃へ入った場合、自分たちの領地はどう扱われるのか。斎藤家から離れた場合、家臣や家族の安全は保証されるのか。そして、織田へつくと決断するなら、いつまでに返答すればいいのか。
以前の彼らが尋ねていたのは、「織田が美濃で何をするつもりなのか」ということだった。
ところが今は、「自分たちがどうすれば織田に受け入れてもらえるのか」を聞き始めている。
景継は最後の書状を読み終えると、ゆっくり顔を上げた。
「変わりましたね」
藤吉郎が尋ねる。
「何がです?」
「私たちと美濃の人たちの立場です。三年前は、こちらから『織田へ来ても大丈夫ですよ』と伝えなければ誰も動かなかった。でも今は、向こうから条件を聞いてくるようになっています」
景継はそう言うと、信長へ渡すための書状をまとめた。
ここまで来れば、これまでと同じやり方を続ける必要はない。
「藤吉郎さん。ここからは、少しやり方を変えます」
「どう変えるので?」
「全員に同じ条件を出さないでください」
藤吉郎の表情が変わった。
景継は地図上に並ぶ国人の位置を確認しながら、これまでの方針とこれからの方針の違いを説明した。
今までの目的は、織田家に対する恐怖を弱めることだった。そのため領地の保証や身の安全を広く示し、斎藤家を離れたとしても生き残れる道があると知らせてきた。
だが、斎藤家から離れる者が増え始めた以上、これからは誰でも同じ条件で受け入れる必要はない。
「早く決断した家は厚く扱います。最後まで迷って、織田が勝つと分かってから来た家は、それより条件を落とします。もちろん、いきなり領地を全部取り上げるという話ではありません。ただ、決断した時期によって扱いが変わるということは、はっきり伝えてください」
藤吉郎が目を細めた。
「早い者ほど得をする、と」
「はい。その話は隠さなくていいです。むしろ美濃中へ広がるくらいでいい」
何もしなければ、自分だけ条件が悪くなるかもしれない。
隣の家が先に織田へつけば、自分の立場が弱くなり、今まで認められていた領地や権利まで交渉材料にされるかもしれない。
それまで美濃の国人たちは、斎藤家に残る危険と織田家へ行く危険を比べながら、どちらにも決めずに時間を稼ぐことができた。
しかし景継は、そこへ新たに「決断が遅れることそのものが危険になる」という条件を加えようとしていた。
「人は迷える間はいくらでも迷います。でも、待っているだけで自分の条件が悪くなると分かれば、何もしないという選択肢も安全ではなくなる。そうなれば、今まで決断できなかった人も動き始めます」
景継が説明すると、藤吉郎はしばらく地図を眺めた後、感心したように息を吐いた。
「なるほど。こちらから無理に裏切れと言わずとも、向こうが自分から急がねばならなくなるわけですな」
「ただ、実際に相手と話すのは藤吉郎さんに任せます。誰を先に訪ねるか、どこまで条件を見せるか、その場で何を話すかも自分で決めてください」
「景継様から細かい指示は?」
「今回はいりません」
景継は即答した。
この数年間、藤吉郎は何度も美濃へ入り、最初は警戒されていた国人たちと酒を飲み、家族の話をし、困り事を聞きながら少しずつ関係を作ってきた。
景継が盤面全体を見ながら誰をどう動かすべきか考えることを得意としているのに対し、藤吉郎は実際に相手の前へ座り、その人間自身さえ気づいていなかった本音を引き出すことができる。
それは景継にはない才能だった。
「一つだけ言うなら、一番大きな家から行く必要はありません」
「では、どこから?」
「一番迷っている家からです。もう少しで動きそうなところを一つ動かせば、その隣も焦ります。一番大きな家を何日もかけて説得するより、今にも倒れそうな駒を一つ押した方が、今の美濃では全体が早く動くと思います」
藤吉郎はその言葉の意味を考えるようにしばらく黙っていたが、やがて力強く頷いた。
「承知いたしました。ならば、今度はわしのやり方で美濃を歩いてまいります」
「お願いします」
景継はそう答えながら、地図上の稲葉山城へ目を向けた。
数年間かけて少しずつ作ってきた流れが、ようやく一気に動き始めようとしていた。
◇◇◇
その後の美濃では、斎藤家から離れる動きが、それまでとは比べものにならない速度で広がり始めた。
最初に織田へ通じた家を見て隣の家が動き、その隣が動けば、さらに周囲の国人が自分だけ取り残されることを恐れて使者を送る。
以前なら斎藤家への忠義を口にしていた者でさえ、周囲が次々と織田へ近づいていくのを見れば、自分だけ最後まで残ることが本当に家や領民を守ることにつながるのか、考え直さざるを得なくなった。
藤吉郎もまた、景継の予想を上回る速さで動いていた。
以前から関係を築いていた国人の屋敷を次々と訪ね、ある家には領地の保証を伝え、別の家には隣国人がすでに織田へ傾いていることを知らせる。
ただし、決して誰に対しても「今すぐ斎藤を裏切れ」とは迫らなかった。
「わしは決めろとは申しませぬ。ただ、明日も今日と同じ条件とは限らぬということだけは、覚えておいてくだされ」
それだけを残して帰る。
すると相手は、藤吉郎が去った後も考え続けることになる。
今日なら領地を認めてもらえる。
しかし明日、隣の家が先に織田へつけば、自分の価値は下がるかもしれない。
何も決めないことが、少しずつ危険な選択へ変わっていった。
その結果、藤吉郎がすべての家を訪ねる必要さえなくなった。
一つの家が動けば、その話を聞いた別の家から使者が来る。
さらにその使者が清洲へ向かったという噂を聞いて、また別の家が動き始める。
景継が一つ一つ押していた駒が、いつしか互いの動きを見ながら勝手に動き始めていた。
その変化を報告書で確認しながら、景継はようやく美濃攻略が終わりへ近づいていることを実感した。
城はまだ落ちていない。
斎藤龍興も稲葉山城にいる。
それでも美濃という国そのものは、すでに数年前とはまったく違う姿になっていた。
そして景継は、その流れの中で一人だけ、どうしても気になる男がいた。
竹中半兵衛。
斎藤家を救おうとして稲葉山城を奪い、その城を自ら龍興へ返した男は、今の美濃をどんな思いで見ているのだろうか。
◇◇◇
菩提山城。
稲葉山城を龍興へ返した半兵衛は、自分のもとへ次々と届けられる報告を静かに読んでいた。
美濃の国人たちが織田へ近づく速度は、それまでとは明らかに違っている。
以前なら織田から誘いを受けても何か月も返答を引き延ばしていた者が、今では自分から清洲へ使者を送り、領地や家臣の扱いについて具体的な条件を尋ねている。
その理由を、半兵衛は誰よりも理解していた。
自分が稲葉山城を奪ったこと。
そして、その城を龍興へ返したこと。
龍興が自らの力で稲葉山城を取り戻したのではなく、半兵衛が返したことで城へ戻れたという事実。
そのすべてが、美濃の者たちの心に一つの疑問を生み出してしまった。
このまま斎藤家に残って、本当に自分たちの家を守れるのか。
そして、その疑問が美濃中へ広がる機会を、林道景継が見逃すはずがなかった。
「織田へ近づく者が、また増えたようにございます」
そばにいた家臣が新しい書状を差し出すと、半兵衛は受け取って内容を確認した。
「南美濃だけではないようですね」
「はい。以前なら織田との話すら拒んでいた者まで、最近では藤吉郎なる男と密かに会っているとの噂がございます」
半兵衛は書状を机へ置き、静かに考え込んだ。
さらに最近、美濃では別の話も広がっている。
早く織田へついた者ほど領地や家を厚く保証され、最後まで斎藤家に残った者ほど条件が悪くなるらしい。
本当に信長がそこまで明確な命令を出しているのか、それとも景継が意図的にそう思わせているのかは分からない。
しかし重要なのは、真偽ではなく、その話を聞いた国人たちが実際に動き始めていることだった。
「景継殿でしょう」
半兵衛が言うと、家臣が不思議そうな顔をした。
「分かるのでございますか」
「以前、あの方と話したことがあります。自分から無理に人を動かそうとはせず、相手が自分で動いた方が得だと思う状況を作る。今回も同じです」
半兵衛は地図へ目を向けた。
早く動けば得をする。
遅くなれば条件が悪くなる。
それを一度広めてしまえば、織田家がすべての国人を説得して回る必要はない。
一つの家が動けば、その隣が焦り、さらにその動きを見た別の家が決断を迫られる。
景継が直接押さなくても、美濃の国人たち自身が互いを動かしていく。
「止められますか」
家臣が尋ねた。
半兵衛はすぐには答えなかった。
以前なら、止める方法を考えただろう。
織田が流した噂を打ち消し、国人たちへ使者を送り、斎藤家へ残る利を説き、織田へ寝返る危険を知らせる。
そうやって一つずつ、離れかけた人間を引き戻すこともできたかもしれない。
しかし今は事情が違う。
稲葉山城を十数人で奪えるほど斎藤家の内側が弱っていることを、美濃中へ見せてしまったのは他でもない半兵衛自身だった。
そのうえ龍興は、自ら兵を率いて城を奪還したわけではなく、半兵衛から返してもらう形で稲葉山へ戻っている。
「難しいでしょうね。言葉だけで止めようとしても、今の国人たちは私が稲葉山城を奪った事実を知っています。『斎藤家は大丈夫だ』と私が言ったところで、それならなぜお前は城を奪ったのだと聞かれれば、返す言葉がありません」
半兵衛の声には、自分の行動を後悔する響きはなかった。
あの時、何もしなければ斎藤家はもっと早く崩れていたかもしれない。龍興へ危機を理解させるには、言葉ではなく現実を見せるしかないと考えたこと自体は、今でも間違っていたとは思っていない。
ただ、自分が龍興を変えるために見せた現実を、景継はそのまま斎藤家を崩すための材料として使っている。
同じ出来事を見ながら、自分は斎藤家を立て直す方法を考え、景継は美濃を織田へ取り込む方法を考えた。
そして今のところ、より多くの人間を動かしているのは景継の方だった。
「では、このまま美濃は織田へ?」
「まだ終わってはいません。稲葉山城は斎藤家にあり、龍興様も健在です。兵も残っていますし、すべての国人が織田へついたわけでもありません」
半兵衛はそう答えながらも、自分の言葉だけでは埋められない違和感を感じていた。
城は戻った。
主君も戻った。
兵も残っている。
表面だけを見れば、斎藤家は稲葉山城を奪われる前と同じ姿へ戻ったようにも見える。
しかし、最も重要なものだけが戻っていない。
人々が斎藤家を信じる気持ちだった。
半兵衛は窓の外へ目を向けながら、寺で一度だけ向かい合った少年の顔を思い出した。
あの時から景継は、自分とは違う形で人間を見ていた。
策略によって無理やり相手を従わせるのではなく、その人間自身に「こちらを選んだ方が生き残れる」と考えさせる。
そして一度その流れができれば、自分はほとんど手を出さず、相手同士の動きによって状況をさらに加速させていく。
「景継殿……」
半兵衛は誰に聞かせるでもなく、その名を小さく口にした。
悔しさがないと言えば嘘になる。
自分が斎藤家を救うために起こした行動が、結果として景継に利用され、美濃を織田へ近づけている。
だが半兵衛には、それをすべて景継の策のせいにすることもできなかった。
景継が何もしなかったとしても、龍興が家臣たちの信頼を失い続ければ、いつか同じことは起きていただろう。
織田家が斎藤家を壊したのではない。
斎藤家自身が何年もかけて作ってきた亀裂へ、景継が指をかけ、その亀裂を少しずつ広げているだけなのだ。
それが分かるからこそ、半兵衛には苦しかった。
◇◇◇
それからしばらくして、清洲城。
景継の前に広げられた美濃の地図は、数年前とは大きく姿を変えていた。
斎藤方、織田方、そしてどちらにも完全には属していない国人たちを分けて駒を置いていくと、尾張との国境から始まった織田の影響が南美濃を越え、少しずつ稲葉山城の周囲へまで伸びていることが一目で分かる。
数年前までなら、織田軍が美濃へ入れば斎藤家の号令によって多くの国人が集まり、一つの軍となって迎え撃っただろう。
しかし今、同じ命令を龍興が出したとして、本当に以前と同じ数の兵が集まるのか。
景継には、もうそうは思えなかった。
信長も地図の前へ座り、しばらく無言で駒の配置を眺めていた。
「あとどれくらいだ」
突然そう尋ねられ、景継は地図から顔を上げた。
「美濃を取るまでですか?」
「そうだ。お前はこれまで待てと言い続けた。龍興がどう動くか見ろ、国人がどう動くか見ろ、人が離れるまで城を攻めるなとな。では今はどうだ」
景継はすぐには答えず、もう一度地図を見た。
以前なら、まだ早いと答えただろう。
龍興が自分で崩れるのを待ち、国人がさらに離れるのを待ち、織田軍が美濃へ入った時にできるだけ少ない兵で勝てる状況を作ろうとしたはずだった。
だが今は、待つことで得られるものより、動くことで得られるものの方が大きくなり始めている。
「あと一つだと思います」
景継が答えると、信長の目が細くなった。
「何が必要だ」
「美濃の人たちが、斎藤家から離れても大丈夫だと確信する何かです。今はまだ『織田へ行ってもいいかもしれない』という人が多い。でも、それが『今行かなければ遅れる』に変われば、一気に動きます」
「それが起これば?」
景継は稲葉山城へ視線を移した。
何年も前から、自分たちはあの城を見てきた。
しかし景継が本当に狙っていたのは、石垣でも城門でもない。
そこを守る人間だった。
その人間たちが、今ようやく斎藤家から離れ始めている。
「その時は、攻めましょう。もう何年も待ちましたから」
信長の口元がわずかに上がった。
「ようやくお前から攻めろと言うか」
「城を攻める前に、人を減らしたかっただけです。今なら、前よりずっと少ない血で美濃を取れると思います」
信長はその言葉を聞くと、地図の上に置かれた織田の駒へ手を伸ばした。
これまでは国境近くに置かれていた駒を、稲葉山城のすぐ南まで動かす。
まだ出陣の命令ではない。
だが、その動きだけで景継には十分だった。
長く続いた「待つ戦」が終わろうとしている。
「ならば準備しておけ」
信長は稲葉山城の駒を見ながら言った。
「次は取るぞ」
「はい」
景継は静かに頷いた。
竹中半兵衛が十数人で奪い、その才を美濃中へ見せつけながら、最後には自ら龍興へ返した稲葉山城。
その城を次に狙うのは、織田信長だった。
だが景継は、もう城だけを見てはいなかった。
稲葉山城の周囲に並ぶ駒。
その一つ一つが人であり、家であり、それぞれが自分たちの未来を考えている。
その駒が最後に大きく動いた時、美濃を巡る長い戦いは決着する。
そしてその日は、景継が考えているよりも早く訪れようとしていた。




