第六十一話 十数人で城を奪う男
斎藤義龍が三十五歳という若さでこの世を去り、嫡男の龍興が美濃の新たな当主となった。
その知らせが清洲へ届くと、織田家中では今こそ美濃へ攻め込むべきだという声が強まった。
義龍は父・斎藤道三を長良川の戦いで破り、その後の美濃をまとめてきた。一方、龍興は若く、まだ実績もない。家臣を掌握する前に攻め込むべきだと考える者が多いのも当然だった。
だが景継は反対した。
「今は大きく攻めない方がいいと思います」
清洲城の評定でそう言うと、勝家が眉を寄せた。
「義龍が死んだのだぞ。これ以上の好機があるか」
「今攻めれば、龍興様に不満を持っている人まで、織田という共通の敵を前にまとまってしまいます」
景継は美濃の地図を見た。
「まず龍興様がどんな当主なのか、美濃の人たち自身に見てもらいましょう」
信長が尋ねる。
「龍興が名君だったらどうする」
「その時は普通に戦います」
信長の口元がわずかに緩んだ。
「城を攻めるのは最後でいいんです。その前に、城を守ろうとする人を減らします」
信長は景継の考えを認めた。
こうして織田家の美濃攻略は、大軍による一気の侵攻ではなく、国境を少しずつ押し上げながら、美濃内部の動きを見る形で進められることになった。
◇◇◇
永禄五年、1562年。
十五歳となった景継は、木下藤吉郎を何度も美濃へ送り込んでいた。
ただし、露骨に寝返りを求めることはしない。
米が足りない家には商人を紹介し、馬を求める者には売り手を取り持つ。国人同士が揉めていれば、その話を聞いた。
藤吉郎も美濃へ入る回数が増えるにつれ、自分なりの人脈を築いていった。
「最近、わしは戦をしているのか商いをしているのか、自分でも分からなくなってまいりました」
久しぶりに清洲へ戻った藤吉郎が笑う。
「どちらでもいいですよ。三年前なら藤吉郎さんが美濃へ入っただけで間者扱いされたでしょう。でも今は、一緒に酒を飲む人までいる」
「それで本当に国が取れますかな。稲葉山には斎藤の兵が大勢おりますぞ」
「酒だけで取れたら楽なんですけどね」
景継も笑った。
「でも、織田にも話のできる相手がいる。そう思ってもらえれば十分です」
景継が求めているのは、今すぐの臣従ではない。
いざという時、美濃の者たちが斎藤家以外の道も選べる状況だった。
その間に、龍興と家臣たちの間には少しずつ亀裂が生まれていた。
若い近習を重用し、古くから仕える者たちの意見を遠ざけている。酒宴や遊興を好み、耳の痛い進言を嫌う。
そんな噂が清洲へ届くようになった。
景継は噂をすべて信じたわけではない。
だが、一つ気になることがあった。
「義龍様なら悪い噂が流れても否定する人がいたでしょう。でも龍興様だと、『やっぱりそうか』と思われている」
長秀もその言葉には頷いた。
そして斎藤家には、景継が以前から気にしている男がいた。
竹中半兵衛重治。
以前、寺で景継の策を見抜き、その年齢には不自然な経験まで感じ取った男だった。
半兵衛は龍興が家督を継いだ後も斎藤家を離れず、何度も稲葉山城へ出向いているという。
景継には、それが気になっていた。
◇◇◇
永禄六年、1563年。
十六歳となった景継を、清洲城で単なる子供として扱う者はほとんどいなくなっていた。
美濃との国境では小さな戦が続き、南美濃では少しずつ織田の存在が大きくなっている。
そして国人たちの口から、こんな言葉まで出始めた。
――もし斎藤が負けたら、織田は自分たちをどう扱うのか。
景継はその報告を重く見た。
そんな頃、美濃から戻った藤吉郎が妙な話を持ってきた。
「竹中半兵衛殿が、以前より頻繁に稲葉山城へ出入りしているようでございます」
「龍興様との関係が良くなったんですか?」
「逆のようで。近習たちからは、あまり良く思われておりませぬ」
細身で物静かな半兵衛を、龍興の周囲にいる若い近習たちは武将らしくないと侮っているらしい。
「……半兵衛殿を見た目で判断してるんですか」
「どうやら」
「もったいないことしますね」
景継は寺で向かい合った半兵衛を思い出した。
あの男を侮るのは危険だ。
藤吉郎が続ける。
「それでも半兵衛殿は城へ行く回数を増やしております。城内には弟君や、竹中家と親しい者もおりますので」
景継の目が稲葉山城の絵図へ向いた。
「城へ行く時、兵は?」
「数人、多くても十数人ほどかと」
半兵衛は斎藤家臣だから、少人数なら怪しまれず城へ入れる。
中には協力できる者もいる。
一瞬、ある可能性が景継の頭をよぎった。
だが、すぐに首を振る。
さすがに十数人で稲葉山城をどうにかするなど、現実離れしている。
「若様?」
「いえ。半兵衛殿の動きだけ見ておいてください。こちらからは接触しなくていいです」
この時の景継は、その可能性が一年も経たず現実になるとは思っていなかった。
◇◇◇
永禄七年、1564年頃。
十七歳となった景継のもとへ知らせが届いたのは、まだ空に夜の名残が残る早朝だった。
屋敷の外で激しく馬を走らせる音が響く。
ほどなく弥兵衛が廊下を急いできた。
「若様、清洲より急ぎの使者にございます。信長様が、すぐに登城するようにと」
「何が起きたんです?」
「美濃、稲葉山にて大事が起きたとのこと」
その名を聞いた瞬間、景継は一年前の藤吉郎との会話を思い出した。
半兵衛が頻繁に城へ入っている。
城内には弟や親しい者がいる。
連れている兵は十数人。
――まさか。
景継は急いで清洲城へ向かった。
評定の間には、すでに信長、勝家、長秀、信盛らが揃っていた。
「何があったんです?」
信長は黙って一通の書状を差し出した。
景継は目を通し、手を止めた。
「……稲葉山城が、落ちた?」
長秀が頷く。
「今朝届いた知らせではな」
「誰にです?」
勝家が答える。
「分からん。大規模な反乱ではなく、少人数が城内へ入り、そのまま要所を押さえたらしい」
「少人数……」
景継の表情が変わった。
「竹中半兵衛……」
「心当たりがあるのか」
信長が尋ねる。
「一年前から半兵衛殿の城への出入りが増えていました。城内には弟や親しい者もいます」
その時、新たな使者が駆け込んできた。
「申し上げます! 稲葉山城を奪った者、竹中半兵衛重治にございます!」
部屋の空気が変わった。
「ごく少数の手勢で城内へ入り、内部の者と合流。城門や曲輪などの要所を押さえ、龍興殿は城外へ逃れたとのこと!」
勝家が尋ねる。
「人数は」
「十数人ほどであったという話が有力にございます」
さすがの勝家も黙った。
景継は稲葉山城の絵図を見る。
「最初から城兵全員と戦うつもりがなかったんですね」
「どういうことだ」
「家臣として中へ入り、協力者と合流する。龍興様たちが状況を理解する前に要所だけを押さえる。それなら十数人でも動けます」
景継はそこで説明を止めた。
理解すればするほど、半兵衛という男の恐ろしさが分かる。
自分には司馬懿として生きた記憶がある。
半兵衛には、それがない。
それでも自分の頭だけで、この策を考え、実行した。
信長が低く呟いた。
「欲しいな」
「城ですか?」
「両方だ。稲葉山も、竹中半兵衛もな」
◇◇◇
同じ頃、稲葉山城。
「龍興様は無事に城外へ逃れられたようにございます」
報告を受けた半兵衛は静かに頷いた。
「そうですか。それなら構いません」
「追手を出さなくても?」
「必要ありません。龍興様を殺すために城を取ったのではありませんから」
半兵衛はこの数年間、何度も龍興へ進言してきた。
若い当主なのだから、すぐに父・義龍と同じようにはできない。
そう考え、待った。
だが状況は良くならない。
国人たちは斎藤家の外を見始め、その間にも南から織田信長が近づいている。
そして信長の隣には林道景継がいた。
半兵衛には、景継が何をしようとしているのか見えていた。
このままでは、美濃は内側から崩れる。
「半兵衛様。この城をどうなさるおつもりですか」
家臣に問われ、半兵衛は昨日まで龍興が座っていた場所を見た。
「これほどの城でも、中が崩れていれば守れない。そのことを龍興様に知っていただきたかったのです」
「そのために城を?」
「言葉で分かっていただけるなら、こんなことはしませんでした」
半兵衛の声に、勝者の喜びはなかった。
「これで龍興様が変わってくだされば、まだ間に合います」
「もし、変わらなければ?」
半兵衛は南へ目を向けた。
「その時は、美濃はいずれ織田に取られるでしょう」
◇◇◇
清洲では、その日のうちに半兵衛を織田方へ引き込む話が始まった。
「藤吉郎」
信長が呼ぶ。
「稲葉山へ行け。城を俺に渡し、織田へつくなら相応の地位と領地を与える。竹中家も厚く遇すると伝えろ」
「承知いたしました」
藤吉郎が立ち上がろうとした時、景継が呼び止めた。
「藤吉郎さん。半兵衛殿が断っても、その場で何度も説得しないでください」
信長が景継を見る。
「断ると思うのか」
「織田へ城を渡すつもりなら、先に私たちへ話を持ってきた方が安全でした。それをしなかった以上、別の目的があると思います」
「なら何が欲しい」
「まだ分かりません」
景継はそれ以上推測しなかった。
信長も問いを重ねず、藤吉郎を送り出した。
◇◇◇
数日後。
戻ってきた藤吉郎の顔を見た瞬間、景継には結果が分かった。
「竹中は何と答えた」
「ありがたい申し出ではあるが、お断りする、と。稲葉山城を織田家へ渡す意思も、信長様へ臣従するつもりもないとのことでございました」
勝家が眉を寄せた。
「条件が足りぬのか」
「いえ。領地も地位も求めておりませぬ。ただ、この城は織田へ渡すために取ったのではない、と」
景継は地図上の稲葉山城を見た。
「……龍興様に見せたかったのか」
「何をだ」
「今の美濃をです」
信長が景継を見る。
「何度言っても伝わらないから、自分で城を奪って見せた。これだけの城でも、内側が崩れれば守れないと」
それなら、半兵衛の行動にも筋が通る。
城が欲しいわけではない。
織田へ寝返りたいわけでもない。
「すごい人ですね」
景継が呟いた。
「お前がそこまで言うか」
「私なら、もっと早く見切っていたかもしれません。でも半兵衛殿は、まだ斎藤家を諦めていないんでしょうね」
景継はそこで、もう一つ気づいた。
「信長様。美濃攻略は予定より早く進むかもしれません」
「なぜだ」
「美濃の人たちが知ってしまったからです。龍興様が、わずかな人数の家臣に居城を奪われたことを」
噂ではない。
実際に起きたことだ。
「これからは、『龍興様についていって大丈夫なのか』と考える人が増えると思います」
信長はしばらく地図を眺めた。
やがて尾張との境に置かれていた織田の駒を手に取り、美濃側へ進める。
「ならば、竹中が作った亀裂を俺たちが広げる」
景継は静かに頷いた。
美濃攻略は、ここから最終段階へ入る。
そしてこの時の景継は、稲葉山城を奪いながら信長の誘いまで断った竹中半兵衛が、その城を自分のものにすることなく、再び斎藤龍興へ返すことになるとはまだ知らなかった。
命を懸けて奪った城を、領地にもせず、織田へ売ることもせず、主君へ返す。
その知らせは、景継をもう一度驚かせることになる。




