第六十一話 十数人で城を奪う男
斎藤義龍が三十五歳という若さでこの世を去り、その嫡男である龍興が美濃の新たな当主となったという知らせが清洲へ届いた時、織田家中では今こそ美濃へ攻め込むべきだという声が一気に強くなった。
それも無理のない話だった。
父である斎藤道三を長良川の戦いで破り、その後の美濃を力でまとめてきた義龍と比べれば、まだ若く実績もない龍興が家督を継いだ直後の斎藤家は、誰の目にも不安定に映る。
新しい当主が家臣たちを掌握する前に兵を入れ、南美濃の城を次々と奪ってしまえば、その勢いのまま稲葉山城まで迫ることもできるのではないか。
勝家をはじめ、戦場で物事を決めることを好む武将たちがそう考えたのは当然だった。
しかし景継は、その意見に賛成しなかった。
「今は攻めない方がいいと思います。正確に言えば、小さく攻めることはあっても、美濃全体を相手にするような戦は避けるべきです」
清洲城で開かれた評定の席で景継がそう言うと、勝家は腕を組んだまま露骨に眉を寄せた。
「義龍が死んだのだぞ。これ以上の好機を待つというのか。相手が混乱しているなら、その間に叩くのが戦というものだろう」
「普通ならそうです。ただ、今回は龍興様が何をするのか、少し見てからでも遅くありません。今の美濃には、新しい当主に不安を感じている人が大勢いるはずです。ところが、そこへ私たちが大軍で攻め込んでしまえば、その人たちに共通の敵を与えることになります」
景継は目の前に広げられた美濃の地図へ手を伸ばし、稲葉山城から南へ向かって指を滑らせた。
「龍興様が好きか嫌いか、信用できるかできないかという話ではなくなるんです。自分たちの土地へ織田軍が入ってくれば、まずそれを追い返さなければならない」
景継は地図上に置かれた国人たちの駒を見ながら、その先を続けた。
「昨日まで龍興様に不満を持っていた国人まで、『今は斎藤の下でまとまるしかない』と考える可能性があります。それでは、せっかく義龍様が亡くなったことで生まれた迷いを、こちらから消してしまうことになります」
信長は地図へ視線を落としたまま、しばらく何も言わなかった。
やがて顔を上げると、景継に一つだけ問いかけた。
「では、いつ攻める」
「龍興様がどんな当主なのか、美濃の人たち自身が判断した後です。優れた当主なら、私たちもそれに合わせて戦い方を変えるしかありません」
景継はそこで少し間を置いた。
「でも、もし家臣の意見を聞かず、国人から信用されず、優れた者を自分から遠ざけるような当主なら、こちらが斎藤家を壊さなくても向こうから弱くなってくれます」
「龍興が名君だったら、お前の思惑は外れるぞ」
「その時は普通に戦います。相手が強かったからといって、美濃を諦めるわけではないでしょう?」
景継がそう答えると、信長はわずかに口元を緩めた。
景継が考えていたのは、龍興が無能であることを前提にした策ではない。
相手を勝手に無能と決めつければ、読み違えた時にこちらが大きな損害を受ける。だからこそ最初に見る。
龍興が父から受け継いだ美濃を守れる人間なのか、それとも自ら崩していく人間なのかを見極め、その答えが出てから本格的に動けばいい。
「城を攻めるのは最後でいいんです。その前に、城を守ろうと思う人間を減らします。稲葉山城そのものがどれだけ堅くても、中にいる人たちが『ここで死ぬ必要はない』と思えば、城の強さは半分になりますから」
その言葉を聞いた信長は、最後には景継の考えを認めた。
こうして織田家の美濃攻略は、大軍をぶつけて一気に決着をつける戦いではなく、国境を少しずつ押し上げながら、美濃の人間そのものを斎藤家から引き離していく戦いへと変わっていった。
◇◇◇
永禄五年、1562年。
十五歳となった景継は、木下藤吉郎を何度も美濃へ送り込みながら、各地の国人との関係を少しずつ築いていった。
ただし、以前の岩倉攻略で使ったような露骨な離反工作を繰り返すことはせず、むしろ相手に織田へ寝返るよう求めること自体を極力避けた。
米が足りない家があれば商人を紹介し、馬を必要としている者がいれば売り手との間を取り持ち、領地を巡って隣家と揉めている国人がいれば双方の話を聞く。
藤吉郎は最初の頃こそ景継の指示を一つ一つ確認していたものの、美濃へ入る回数が増れるにつれて人の懐へ入る自分なりのやり方を身につけ、やがて景継が細かく指示しなくても、多くの者と関係を作れるようになっていった。
「最近、わしは戦をしているのか商いをしているのか、自分でも分からなくなってまいりました」
久しぶりに清洲へ戻った藤吉郎が笑いながらそう言うと、景継も手元の報告書から顔を上げて笑った。
「どちらでもいいですよ。三年前なら藤吉郎さんが美濃の村へ入っただけで、『織田の間者じゃないか』と疑われたでしょう。でも今は、一緒に酒を飲んでくれる人がいる。それだけでも十分進んでます」
「しかし、それで本当に国が取れますかな。わしが酒を飲んでいる間にも、稲葉山城には斎藤の兵が大勢おりますぞ」
「酒だけで国が取れるなら楽なんですけどね。でも、最後にその兵と戦うことになった時、こちらに知っている顔が一人いるかどうかで人間の気持ちは変わります」
景継は少し考えてから続けた。
「織田に負けたら家も領地も全部奪われて殺されると思っている人と、負けても話し合えるかもしれないと思っている人では、追い詰められた時の戦い方が違いますから」
景継が欲しかったのは、今すぐの臣従ではなかった。
織田信長は恐ろしい侵略者であり、尾張から来た敵である。その認識だけを持っているうちは、龍興にどれほど不満を抱いていたとしても、美濃の者たちは最後には斎藤家の側で戦う。
しかし、織田家にも話の通じる人間がいる。もし斎藤家が負けたとしても、自分の家や領地を残せる可能性がある。
そう思わせることができれば、いざという時に選択肢が生まれる。
人は逃げ道が一つもなければ死ぬまで戦うが、別の道があると知っていれば、命を捨てる直前に必ず一度はそちらを見る。
岩倉との戦いで景継自身が学んだその考えを、今度は美濃という国全体に対して使おうとしていた。
そして景継が外側から美濃の人々へ逃げ道を見せている間に、斎藤家の内側では、龍興自身が少しずつ家臣たちとの距離を広げていた。
若い近習を好んで重用し、古くから斎藤家へ仕えてきた者たちの意見を遠ざけている。
酒宴や遊興を好んで政務を疎かにすることがあり、耳の痛い進言をする者よりも、自分の考えを肯定してくれる者をそばへ置いている。
そんな噂が、以前より頻繁に清洲へ届くようになった。
もちろん景継は、敵国から届く噂をすべて事実だとは考えていなかった。
人から人へ話が伝われば内容は大きくなり、龍興が一度宴を開いただけでも、十人を経由した頃には毎晩遊び暮らしているという話に変わることさえある。
それでも景継が危険だと感じたのは、噂の内容ではなかった。
美濃の人間たちが、その噂を簡単に信じるようになっていることだった。
「義龍様の時なら、同じ噂が流れても『そんなはずはない』と否定する人がもっといたと思うんです。でも龍興様の場合は、『やっぱりそうか』と思われてしまっている」
長秀へそう説明すると、彼も景継の言いたいことをすぐに理解した。
人間は信用している者について悪い噂を聞けば、まず噂の方を疑う。逆に、すでに信用を失い始めている者について悪い噂を聞けば、真偽を確かめる前から納得してしまう。
龍興が実際にどれほど遊興へ耽っているのかよりも、「あの若殿ならやりかねない」と美濃の人々から思われ始めていることの方が、当主としてははるかに危険だった。
そして、そんな斎藤家の中に一人だけ、景継が以前から気にしている男がいた。
竹中半兵衛重治。
以前、寺で直接会った時、景継が出した条件の裏を読み、流した噂の目的まで見抜いただけでなく、十三歳の少年が持つには不自然なほどの経験そのものに違和感を覚えた男だった。
龍興が家督を継いだ後も半兵衛は斎藤家を離れず、むしろ何度か稲葉山城へ出向いて進言を続けているらしい。
その報告を読むたび、景継は半兵衛が何を考えているのかを想像した。
今の斎藤家が危ういことなど、半兵衛ほどの男なら誰よりも分かっているはずだった。それでも織田へ来ることもなく、自分の領地へ閉じこもることもせず、龍興を支えようとしているのなら、半兵衛はまだ斎藤家を諦めていないのだろう。
問題は、いつまで諦めずにいられるのか。
そして、ついに見切りをつけた時、あの男が何をするのかだった。
◇◇◇
さらに一年が過ぎ、永禄六年、1563年。
十六歳となった景継は、初陣へ出た十三歳の頃と比べれば身体も大きくなり、顔立ちにはまだ少年らしさを残しているものの、清洲城で彼を単なる子供として扱う者はほとんどいなくなっていた。
美濃との国境では小さな戦が何度も起きていた。
城や砦を巡って兵がぶつかり、川の渡しを巡って争いが起こり、昨日まで斎藤方だった国人が翌月には織田方へ使者を送ってくる。
派手な大合戦こそないものの、国境線は確実に動き、美濃の南側では少しずつ織田の存在が大きくなっていた。
何より大きな変化は、美濃の国人たちの会話そのものだった。
以前なら、話題になるのは「斎藤が織田を追い返せるか」だった。
ところが最近では、「もし斎藤が負けたら、織田は自分たちをどう扱うのか」と尋ねてくる者が増えている。
その報告を最初に聞いた時、景継は美濃攻略が一つの境目を越えたことを感じた。
本当に勝てると思っている人間は、負けた後のことなど考えない。
その先を考え始めるということは、心のどこかで斎藤家が敗れる未来を現実のものとして受け入れ始めているということだった。
まだ斎藤家は健在で、稲葉山城も落ちておらず、龍興も美濃の主である。
それなのに人々の心だけが、斎藤家のない未来へ少しずつ進み始めていた。
そんな頃、美濃から戻った藤吉郎が、景継へ少し妙な報告を持ってきた。
「竹中半兵衛殿が、このところ以前より頻繁に稲葉山城へ出入りしているようでございます」
景継は手元の書状を置き、藤吉郎の顔を見た。
「龍興様との関係が良くなったんですか?」
「いえ、それがどうも逆らしく。半兵衛殿は龍興様の周囲にいる近習たちから、あまり良く思われていないようでございます」
藤吉郎が美濃で聞いた話によれば、半兵衛は身体が細く、いかにも猛将という風貌ではない。
普段から物静かで、人前で自分を大きく見せることもないため、龍興の周囲にいる若い近習の中には、そんな半兵衛を武将らしくないと侮る者がいるらしい。
景継はその話を聞いて、思わず眉を寄せた。
「……半兵衛殿を見た目で判断してるんですか」
「どうやら、そのようでございます」
「もったいないことしますね。私なら、あの人が味方にいるなら、多少嫌われてもそばに置きますけど」
景継は寺で半兵衛と向かい合った時のことを思い出していた。
自分が流した情報の意味を読み、国人へ与えた選択肢の目的を見抜き、言葉の端々から景継という人間そのものを観察していた。
あれほどの男を、身体が細い、武将らしくないという理由で侮る。それが事実なら、龍興は自分から貴重なものを捨てようとしている。
だが景継が本当に気になったのは、その後に藤吉郎が話した内容だった。
「関係が悪いにもかかわらず、半兵衛殿は稲葉山へ行く回数を増やしているようでございます。城内には弟君や竹中家と親しい者もおりますので、その者たちと会っているのではないかと」
景継はそこで口を閉じ、目の前にある稲葉山城の絵図へ視線を落とした。
龍興との関係が悪化し、近習たちからも侮られているのなら、普通なら城から距離を取る。自分の領地へ戻り、龍興が失敗するのを待つこともできる。
ところが半兵衛は逆に、以前より城へ近づいている。
「半兵衛殿が稲葉山へ行く時、どれくらい兵を連れているか分かります?」
「大勢ではございませぬ。数人、多くても十数人程度ではないかと」
「城内には竹中家とつながっている人間がいるんですよね」
「はい。弟君をはじめ、何人かは」
景継は絵図を見ながら、城門から城内へ入った後の道を指で追った。
半兵衛は斎藤家の家臣なのだから城へ入ることができ、弟や親しい者も中にいるうえ、連れていく人数が少なければ余計な警戒もされにくい。
そこまで考えたところで、景継は自分の頭に浮かんだ可能性を、さすがにあり得ないだろうと打ち消すように首を振った。
いくら半兵衛でも、十数人で稲葉山城そのものをどうにかするなど、あまりにも現実離れしている。
「若様?」
藤吉郎に呼ばれ、景継は顔を上げた。
「いえ。まだ何も分かりません。ただ、半兵衛殿の動きだけは見ておいてください。こちらから接触する必要はありません。むしろ、今は何をしようとしているのか邪魔しない方がいい気がします」
この時の景継は、自分が一度だけ思い浮かべ、それでもあり得ないと打ち消した可能性が、一年も経たないうちに現実のものになるとは思っていなかった。
◇◇◇
永禄七年、1564年頃。
十七歳となった景継のもとへ、その知らせが届いたのは、まだ夜の名残が空に残っている早朝だった。
屋敷の外から激しく馬を走らせてくる音が聞こえ、間もなく門を叩く声が響いた。
普通の使者なら、これほど早い時間に馬を潰しかねない勢いで駆け込んでくることはない。景継は寝床から身体を起こした時点で、何か大きなことが起きたのだと察していた。
そこへ弥兵衛が廊下を急いでやってきた。
「若様、清洲より急ぎの使者が参っております。信長様が、すぐに登城するようにとのことでございます」
「どこで何が起きたんです?」
「詳しいことは使者も知らされておりませぬ。ただ、美濃、稲葉山にて大事が起きたとのこと」
稲葉山という名前を聞いた瞬間、景継の頭には一年前の藤吉郎との会話が蘇った。
半兵衛が頻繁に城へ入り、弟をはじめとする竹中家と親しい者たちが城内にいる。それでいて連れている人数は、多くても十数人程度しかいない。
その情報を聞いた時、景継は一度だけある可能性を考え、それでもあまりに現実離れしているとして打ち消していた。
まさか、本当に十数人で城を奪うつもりだったのか。
景継は急いで支度を整え、馬を走らせて清洲城へ向かった。
評定の間へ入ると、すでに信長、勝家、長秀、信盛らが揃っていたが、普段なら誰かしら言葉を交わしているはずの部屋が、その朝だけは不自然なほど静まり返っていた。
「何があったんです?」
景継が尋ねると、信長は説明する代わりに一通の書状を差し出した。
景継は受け取った書状を開き、最初の数行へ目を通したところで手を止めた。
そこに書かれている文字をもう一度読み直したが、どう見ても読み間違いではなかった。
「……稲葉山城が、落ちた?」
長秀が重々しく頷いた。
「今朝届いた知らせでは、そうなっている」
「誰にです? こちらは兵を動かしてませんよね」
「動かしておらん」
勝家が答えた。
「斎藤家の国人が大規模な反乱を起こしたわけでもないらしい。城外に何千という兵が集まった形跡もなく、むしろ少人数が城内へ入り、そのまま要所を押さえたという話だ」
少人数という言葉を聞いた瞬間、景継は書状から顔を上げた。
「どれくらいです?」
「まだ情報が入り乱れている。数十人という話もあれば、それより少なかったという話もある」
景継の中で、数年前から集めていた情報が一つにつながった。
半兵衛は斎藤家の家臣として堂々と城へ入り、城内にいる弟や親しい者たちと合流する。
大勢の兵を連れていないから城側も必要以上には警戒せず、外から攻めるのではなく、最初から中へ入った状態で動き始める。
「竹中半兵衛……」
景継がその名を口にすると、信長が視線を向けた。
「心当たりがあるのか」
「一年前、半兵衛殿が稲葉山へ出入りする回数が増えているという報告がありました。龍興様との関係は悪くなっていたのに、それでも城へ通い続けていた」
景継は記憶を確かめるように続けた。
「城内には弟や親しい人間もいる。もし今回の件が少人数で行われたという話が本当なら、私が知っている中で一番可能性が高いのは半兵衛殿です」
その直後、廊下の向こうから慌ただしい足音が近づき、新たな使者が評定の間へ駆け込んできた。
「申し上げます! 稲葉山城について続報にございます!」
「申せ」
信長が促すと、使者は息を整える間も惜しむように報告を始めた。
「稲葉山城を奪った者、竹中半兵衛重治にございます。ごく少数の手勢とともに城内へ入り、内部にいた者と合流した後、城門や曲輪などの要所を次々と押さえ、斎藤方が事態を把握して兵を集める前に龍興殿のもとへ迫ったとのこと。龍興殿は城外へ逃れ、現在も生存している模様にございます」
景継は使者の報告を聞きながら、驚きよりも先に、自分が一年前に考えて打ち消した光景が本当に現実になったことへ意識を奪われていた。
「人数は?」
勝家が低い声で尋ねる。
「正確な数は分かっておりませぬ。ただ、十数人ほどであったという話が有力にございます」
さすがの勝家も、すぐには言葉を返さなかった。
稲葉山城は、十数人で正面から攻め落とせるような城ではない。城壁を越えようとすれば矢を浴び、門を破ろうとすればその前に討たれる。
どれほど強い武者を集めたとしても、十数人で数百、数千の兵を相手にすることなど不可能だった。
しかし半兵衛は、最初から城にいるすべての兵を相手にしようとはしていなかった。
景継は地図上の稲葉山城を見ながら、半兵衛が何をしたのかを頭の中で組み立てていく。
「半兵衛殿は、普通の意味で城を落としたわけじゃないんです」
勝家が景継を見る。
「何を言っている」
「正面から城を落とそうとしたら十数人では絶対に無理です。だから半兵衛殿は、城を守っている兵全員と戦うことを最初から考えていない」
景継は稲葉山城の絵図を指した。
「自分が斎藤家の家臣であることを使って中へ入り、内部の協力者と合流して、龍興様たちが何が起きているのか理解する前に、城門や曲輪、命令を出す場所だけを押さえたんだと思います。龍興様さえ城から出してしまえば、残った兵は誰の命令を聞き、どこを守ればいいのか分からなくなる」
城とは石垣と門だけでできているわけではない。
誰かが命令を出し、それを別の者が伝え、兵たちがその命令に従って動くことで初めて、一つの巨大な軍事施設として機能する。
半兵衛は数百、数千の城兵を倒す代わりに、その人間たちを一つにまとめている仕組みそのものを十数人で切断したのだ。
そのやり方を理解した瞬間、景継は背中に小さな寒気が走るのを感じた。
司馬懿として生きた記憶を持つ自分なら、過去の経験を組み合わせることで似たような策を考えることはできたかもしれない。
しかし竹中半兵衛には、何百年も前の乱世を生きた記憶などない。
この時代に生まれ、この時代だけを生きながら、自分自身の頭だけで難攻不落と呼ばれる城の弱点を見つけ、本当に十数人で実行してしまった。
信長もしばらく黙って報告を聞いていたが、やがて地図上の稲葉山城へ視線を落としながら低い声で言った。
「欲しいな」
景継は信長の横顔を見た。
「城ですか?」
「両方だ。稲葉山も、竹中半兵衛もな」
信長の答えには、迷いがなかった。
◇◇◇
同じ頃、稲葉山城では、城を奪った竹中半兵衛自身が、勝者とは思えないほど静かな時間を過ごしていた。
城内にはまだ混乱が残っていた。
昨日まで斎藤龍興の命令を受けていた兵たちは、自分たちの主が城外へ逃れたことを知って動揺し、半兵衛に従った者たちでさえ、本当に自分たちが稲葉山城を押さえてしまったという事実を完全には受け入れられていなかった。
城外から大軍が攻め寄せたわけでも、何日も包囲されたわけでも、食糧が尽きたわけでもない。
それにもかかわらず、美濃の中心である稲葉山城は、たった一夜で主を失った。
「龍興様は無事に城外へ逃れられたようにございます」
家臣から報告を受けた半兵衛は、城下を眺めたまま静かに頷いた。
「そうですか。それなら構いません」
「追手を出さなくてもよろしいのでしょうか。このまま龍興様が兵を集めれば、再び城を攻められる可能性もございます」
「追う必要はありません。私は龍興様を殺したくて、ここまで来たわけではありませんから」
半兵衛の答えに、家臣はそれ以上何も言えなかった。
龍興を殺すつもりなら今が最大の好機であり、混乱の中で追手を出せば捕らえることもできるかもしれない。
それをしないということは、半兵衛の目的が美濃の主になることでも、領地を増やすことでも、斎藤家そのものを滅ぼすことでもないということだった。
むしろ半兵衛が望んでいたのは、その逆だった。
この数年間、半兵衛は龍興が変わるのを待っていた。
若くして突然美濃という国を背負ったのだから、最初から父の義龍と同じようにできるはずがないと考え、何度も進言し、周囲にも若い当主を支えるよう求めながら、龍興自身が成長するための時間を与えてきた。
しかし、状況は良くならなかった。
美濃の国人たちは少しずつ斎藤家の外を見るようになり、織田家へ密かに接触する者が増え、龍興の周囲には耳に心地よい言葉を並べる者ばかりが集まり始めている。
その間にも、尾張からは織田信長が少しずつ近づいていた。
そして、その信長の隣には林道景継がいる。
城を一つずつ正面から攻め落とすのではなく、そこを守る人間の心を先に斎藤家から離し、最後には命を懸けて城を守る理由そのものを失わせようとしている少年。
半兵衛には、景継が美濃で何をしようとしているのかが、かなり早い段階から見えていた。
だからこそ焦っていた。
このまま何も変わらなければ、龍興がようやく危機に気づいた頃には、美濃の人間が誰も斎藤家のために命を懸けようと思わなくなっているかもしれない。
「半兵衛様は、この城をどうなさるおつもりなのですか」
家臣に尋ねられ、半兵衛はしばらく答えず、背後にある広間へ視線を移した。
昨日まで龍興が美濃の主として座っていた場所であり、その龍興が自分の国はまだ揺らいでいないと思っていた城を、半兵衛はわずか十数人で奪ってみせた。
「これほどの城があっても、中にいる人間が崩れていれば守れない。そのことを龍興様に知っていただきたかったのです」
「そのために……城を?」
「言葉で分かっていただけるなら、こんなことはしませんでした」
半兵衛の声には、勝者としての誇りも、主君への怒りもなかった。
何度言葉を尽くしても届かなかったからこそ、今度は実際に見せるしかなかったという疲れに近い感情だけが、わずかに滲んでいた。
難攻不落と呼ばれる城でさえ、人の心が離れれば、わずかな人数に奪われる。
美濃という国も同じなのだと、半兵衛は龍興自身に思い知らせたかった。
「これで龍興様が変わってくだされば、まだ間に合います」
家臣は少し迷った後、さらに尋ねた。
「もし、変わらなければ?」
半兵衛はすぐには答えず、遠く南の方角へ視線を向けた。
その先には尾張があり、そこには寺で一度向かい合って以来、ずっと気になっている林道景継がいる。
あれから数年が経ち、景継はもはや単なる少年という言葉では片づけられないほど、織田家の中で大きな存在になっていた。
「その時は、私が何をしようと、美濃はいずれ織田に取られるでしょう」
◇◇◇
半兵衛が予想した通り、清洲ではその日のうちに、稲葉山城と竹中半兵衛を織田方へ取り込むための話が始まった。
信長の判断は早かった。
龍興が城外へ逃れ、半兵衛が稲葉山城を押さえている今なら、何千という兵を動かして城を包囲する必要はない。
半兵衛を味方につけ、そのまま城を譲らせることができれば、美濃攻略は一気に終わりへ近づく。
しかも信長にとっては、稲葉山城だけでなく、十数人でその城を奪ってみせた半兵衛本人まで手に入れられる可能性がある。
「藤吉郎」
信長に呼ばれ、藤吉郎が前へ出た。
「稲葉山へ行け。竹中半兵衛に伝えろ。城を俺に渡し、織田へつくなら相応の地位と領地を与える。竹中家も厚く遇する。望む条件があるなら聞いてこい」
「承知いたしました」
藤吉郎が立ち上がろうとした時、景継が呼び止めた。
「藤吉郎さん。一つだけお願いします。もし半兵衛殿が断っても、その場で何度も説得しないでください」
信長が少し意外そうに景継を見た。
「断ると思っているのか」
「可能性はあります。というより、織田へ城を渡すために乗っ取ったのなら、半兵衛殿はもっと前に私たちへ連絡していたと思うんです。龍興様を追い出す前に信長様と話をつけておけば、もっと安全に同じことができたでしょう」
長秀もその言葉を聞いて地図へ目を向けた。
確かに半兵衛には織田へ接触する手段があり、景継とも面識があるうえ、藤吉郎も何度となく美濃へ入っている。
それなのに何の相談もなく、自分たちだけで城を奪った以上、少なくとも稲葉山城を織田へ献上することだけが目的ではないと考える方が自然だった。
「半兵衛殿にとって、稲葉山城を自分のものにすることは目的じゃないんだと思います。だから信長様がどれだけ良い条件を出しても、それだけでは動かないかもしれません」
「なら何が欲しい」
信長に尋ねられ、景継は少し考えた後、首を横に振った。
「まだ分かりません。ただ、領地や地位が欲しい人なら、十数人でこんな危険なことをするより、最初から私たちに城を売る話を持ってくるでしょう」
信長は景継の言葉を聞き終えると、それ以上は何も言わず、藤吉郎を美濃へ送り出した。
◇◇◇
数日後、稲葉山から戻ってきた藤吉郎の顔を見た瞬間、景継は信長の申し出が受け入れられなかったことを察した。
藤吉郎は信長の前へ座ると、稲葉山城で半兵衛本人と会い、提示された条件を一つ残らず伝えたことを報告した。
領地、地位、竹中家の扱い、そして織田家へ来れば半兵衛自身を重く用いるということまで、すべて信長の言葉として伝えている。
「それで、竹中は何と答えた」
信長が尋ねると、藤吉郎はわずかに間を置いてから頭を下げた。
「ありがたい申し出ではあるが、お断りする、と。稲葉山城を織田家へ渡す意思もなく、信長様へ臣従するつもりも、今のところはないとのことでございました」
勝家が眉を寄せた。
「条件が足りぬと言ったのか」
「いえ。むしろ何を望んでいるのか尋ねても、領地も地位も求めてはおられませんでした。ただ、この城は織田へ渡すために取ったのではない、と」
その答えを聞いた瞬間、景継の中で、半兵衛が何をしたかったのかという疑問がようやく一つの答えへたどり着いた。
城が欲しかったのではないし、龍興を殺したかったわけでも、信長へ寝返りたかったわけでもない。
それならば、残る理由は一つしかなかった。
「……龍興様に見せたかったのか」
景継が呟くと、信長が視線を向けた。
「何をだ」
「今の美濃が、どれだけ危ない状態なのかをです」
景継は地図上の稲葉山城を指したまま、自分の中でまとまり始めた考えをゆっくりと言葉にしていった。
「半兵衛殿は龍興様を倒したかったんじゃない。むしろ逆なんです。何度言っても変わらないから、実際に城を取って見せた」
景継は一度言葉を切り、稲葉山城の駒へ目を落とした。
「これだけ大きな城があって、兵もいて、武器も食糧もある。それでも人の心が離れて、内部に協力者ができれば、十数人にさえ城を奪われる。今の美濃そのものを、稲葉山城で見せたんです」
部屋の中が静かになった。
景継自身も、そこまで考えて初めて、半兵衛という男がなぜこれほど危険なことをしたのか、その行動のすべてが一本につながったような気がした。
主君に国の危機を理解させるため、その主君から居城を奪う。
それでいて奪った城を自分のものにするわけでもなく、敵へ売って利益を得ることもしない。
景継は地図を見ながら、司馬懿として生きた遠い記憶を思い返していた。
権力を求める者は数え切れないほど見てきた。地位や領地を求める者も、自分の家を残すためなら昨日までの主君を裏切る者も、乱世にはいくらでもいた。
しかし竹中半兵衛は、そのどれとも違う。
自分が得をするためではなく、自分が仕える国を救うために、その国の主君から最も重要な城を奪ったのだ。
「すごい人ですね」
景継が静かに言うと、信長が少し意外そうに彼を見た。
「お前がそこまで言うか」
「私なら、たぶん違う方法を選びます。龍興様が何度言っても変わらないなら、もっと早く見切るかもしれません」
景継は少し考えてから続けた。
「でも半兵衛殿は、まだ斎藤家を諦めていない。諦めていないからこそ、自分の主君から城を奪うなんて無茶までやったんだと思います」
そして景継は、そこでさらに重要なことに気づいた。
半兵衛が稲葉山城を奪ったことで、龍興がこれから変わるかどうかに関係なく、美濃はすでに以前の美濃ではなくなっている。
斎藤家の当主が、自分の家臣にわずかな人数で居城を奪われた。
その事実を美濃中の国人たちが知れば、たとえ龍興が後に稲葉山城を取り戻したとしても、起きてしまった出来事そのものを消すことはできない。
「信長様、美濃攻略は予定より早く終わるかもしれません」
信長が目を細めた。
「なぜだ」
「龍興様は城を失っただけじゃないからです。これまで迷っていた美濃の人たちは、今度は自分たちの主君そのものを疑い始めます」
景継は地図上に置かれている国人たちの駒へ視線を移した。
「斎藤家に残るか、織田へ近づくかという話より前に、『この人についていって、本当に大丈夫なのか』と考えるようになる。それが一番大きいと思います」
これまで美濃の国人たちは迷っていた。
斎藤家に残るのか、それとも織田へ近づくのか。
だが今日、その判断を大きく変える一つの事実を知ることになる。
自分たちの主君は、竹中半兵衛にわずか十数人で居城から追い出された。
その事実が生み出す疑念は、景継が何年もかけて流した噂よりも、藤吉郎が美濃へ何度も入り込んで築いた人脈よりも強い。
なぜなら今回は誰かが意図的に作った話ではなく、実際に美濃の中心である稲葉山城が奪われたという、誰にも否定できない出来事だからだった。
「半兵衛殿は斎藤家を救うために城を取ったのかもしれません。でも、その行動が正しかったかどうかとは別に、この出来事そのものが斎藤家をさらに弱くする可能性があります」
信長は景継の言葉を聞きながら、しばらく地図を眺めていた。
やがて稲葉山城の南、尾張との境に置かれていた織田の駒を一つ手に取ると、迷うことなく美濃側へと進めた。
「ならば、竹中が作った亀裂を俺たちが広げる」
景継はその駒を見つめながら、静かに頷いた。
美濃攻略は、ここから最終段階へ入る。
そしてこの時の景継は、稲葉山城を奪いながら信長からの誘いさえ断った竹中半兵衛が、その城を自分のものにすることさえせず、再び斎藤龍興へ返すことになるとはまだ知らなかった。
命を懸けて奪った難攻不落の城を、領地にもせず、織田へ売ることもせず、再び自らの主君へ返す。
その知らせを聞いた時、景継は竹中半兵衛という男の才だけではなく、利益や権力だけでは説明することのできないその生き方そのものに、もう一度驚かされることになる。




