第六十話 盤上の向こう側
木下藤吉郎が再び美濃へ入ってから十日ほどが過ぎた頃、清洲へ届けられた報告を読んでいた景継は、竹中半兵衛という男について、これまで抱いていた疑いが少しずつ確信へ変わり始めていることを感じていた。
半兵衛自身には、これといって目立った動きがない。
菩提山城から頻繁に出歩いているわけでもなければ、大勢の国人と密かに会っている様子もなく、斎藤家の兵を集めたり、織田家との戦に備えて城を改修したりしている形跡も見つからなかった。
それだけを見れば、景継が警戒するほどの人物には思えない。
しかし、竹中家と関わりの深い地域だけを見ると、明らかに他とは違う動きがあった。
「ここだけ妙に静かなんですよね」
景継は美濃の地図を広げると、菩提山城とその周辺を指で囲みながら、向かいに座っている長秀へ話しかけた。
藤吉郎が最初に美濃へ入った頃、桶狭間で今川義元を討った信長の勢いを警戒し、斎藤家の将来に不安を持つ者が各地で増え始めていた。
ところが竹中家と関係の深い地域では、そうした動揺がほとんど見られない。
斎藤家への忠誠が特別強いわけではない。
織田家を嫌っているわけでもない。
それでも、誰も簡単には動こうとしなかった。
「半兵衛が押さえていると?」
長秀が尋ねると、景継はすぐには頷かなかった。
「まだ分かりません。ただ、前に私たちが接触した五人が同じ時期に距離を置いたことまで考えると、偶然で片付けるには少し出来すぎています」
景継は以前の報告書を取り出し、五人の名前を改めて確認した。
織田家が領地を保証する。
今すぐ臣従する必要もない。
美濃へ織田軍が入った際に敵対しなければ、現在の立場を可能な限り認める。
決して悪い条件ではなかったはずだ。
むしろ斎藤家の先行きに不安を持っていた者なら、少なくとも話を聞こうとする程度の条件ではあった。
それが、わずか数日のうちに五人全員の態度が変わった。
「こちらが何を狙っているのか理解したうえで、その不安を利用したんだと思います」
「不安?」
「領地を保証すると言われても、それが美濃を取るまでの約束だったらどうする、と」
長秀が黙った。
景継は地図を見ながら続ける。
「私なら、そう言います。織田は今、味方が欲しいから優しい条件を出しているだけで、美濃を取った後まで同じとは限らない。今ここで織田へ近づけば、斎藤家から裏切り者と見られるだけでなく、織田にも使い捨てにされるかもしれない、と」
「それを半兵衛が?」
「おそらく。ただ、確かめます」
景継はそう言うと、別の紙を取り出した。
そこには美濃と三河、その間にある尾張の位置関係が簡単に描かれている。
「どう確かめる」
長秀が尋ねる。
「一つ、嘘を流します」
「どんな嘘だ」
「信長様は、当分美濃へ攻めない」
長秀の眉が動いた。
景継はその反応を見ながら説明を続けた。
桶狭間で義元を討ったとはいえ、今川家そのものが滅びたわけではなく、三河では松平元康が岡崎へ戻ったものの、その立場もまだ完全には定まっていない。
織田家が東の情勢を警戒し、美濃攻略を一時見送る。
それ自体は、決して不自然な話ではない。
「美濃の者がこの話を信じれば、織田への警戒が少し緩みます。そうなれば、今まで外敵を恐れて斎藤家についていた人たちが、もう一度自分たちのことを考え始めるでしょう」
「義龍への不満も出てくる」
「はい。でも、私が見たいのはそこじゃありません」
景継は菩提山城を指した。
「竹中半兵衛がどうするかです」
半兵衛が本当に織田の動きを見ているなら、この噂をそのまま信じるとは思えない。
だからといって、織田がすぐ攻めてくると言い触らせば、景継の思惑通り美濃が一つにまとまってしまう。
半兵衛が何も考えていないなら何も起こらない。
だが、こちらの意図まで読める人物なら。
何か違う動きをする。
「面白い」
いつの間にか部屋へ入っていた信長が、景継たちの後ろから声をかけた。
景継が振り返る。
「聞いてたんですか」
「途中からな」
信長は地図の前へ座ると、菩提山城の位置を見た。
「やれ」
「信長様が今川を恐れているという話になるかもしれませんよ」
「勝手に言わせておけばいい。その程度で俺の領地が減るわけでもあるまい」
景継は少し笑った。
「では、遠慮なく」
その日のうちに藤吉郎へ新しい指示が送られ、美濃を行き来する商人や旅人の間から、織田家がしばらく東へ目を向けるらしいという話が少しずつ流れ始めた。
景継自身が予想していた以上に噂が広がるのは早く、半月も経たないうちに「信長は今川の報復を恐れている」「織田は美濃へ攻める余裕がない」と話が勝手に膨らみ、美濃の各地で織田への警戒が目に見えて薄れていった。
その結果、景継が狙った通りのことが起こった。
斎藤家への不満を持っていた国人たちが、再び互いに接触し始めたのである。
義龍に従い続けるべきなのか。
道三の時代と比べて何が変わったのか。
斎藤家に従っていて、自分たちの領地は本当に守られるのか。
外から織田軍が迫ってこないと思った途端、美濃の中にあった不満が再び表へ出始めた。
ただし。
菩提山周辺だけは違った。
藤吉郎から届いた報告を読んだ景継は、その一文を見つけた瞬間、思わず口元を緩めた。
『竹中家と関係の深い者たちは、織田が来ぬという話を信用しておりませぬ』
さらに、その下には理由まで書かれていた。
半兵衛が周囲の者へ話しているという。
――織田が来ないと、誰が決めた。
それだけだった。
織田は来るとも言わない。
来ないとも言わない。
噂を否定することもしない。
ただ、なぜそれを信じるのかと問いかける。
「やっぱり」
景継は報告書を置いた。
「この人だ」
向かいにいた長秀も、今回は否定しなかった。
「噂を見抜いたか」
「噂そのものを見抜いたというより、噂が流れた時期を見ているんだと思います。桶狭間が終わって、織田が美濃へ目を向ける可能性が高くなったところで、突然『織田は来ない』という話が広がった。そんな都合のいい話を誰が流したのかと考えたんでしょう」
「なら、こちらが流したことまで分かっている?」
「そこまでは分かりません。でも」
景継は少し考えた後、静かに続けた。
「たぶん、私たちが何かしていることには気づいています」
今まで感じていた疑いが、ようやく確信へ変わった。
五人の国人を止めたのも。
菩提山周辺の者を動かさなかったのも。
おそらく竹中半兵衛だ。
景継はしばらく地図を見つめていたが、やがて立ち上がった。
「藤吉郎さんを呼び戻してください」
長秀が尋ねる。
「次は何をする」
「もう遠くから探るのはやめます」
「というと?」
景継は答えた。
「会います」
◇◇◇
藤吉郎を介して非公式の面会を申し入れると、竹中半兵衛からの返事は意外なほど早く届いた。
会う。
ただし清洲でも菩提山でもなく、織田と斎藤のどちらの兵も常駐していない場所を選び、互いに連れてくる人数も最低限にする。
「向こうも会いたかったようですな」
藤吉郎が言うと、景継は半兵衛から届いた返事をもう一度読んだ。
「たぶん、私と同じなんでしょうね」
「同じ?」
「自分の策を止めている相手の顔くらい見ておきたいんですよ」
数日後。
景継は弥兵衛と藤吉郎だけを連れ、尾張から美濃へ向かった。
正式な外交ではない。
信長の使者として斎藤家へ向かうわけでもない。
もし知られれば面倒なことになるため、服装も目立たないものに変え、護衛も最低限にしている。
待ち合わせに指定されたのは、美濃南部にある小さな寺だった。
景継が寺へ入った時。
竹中半兵衛は、すでに来ていた。
最初に抱いた印象は。
細い。
だった。
景継がこれまで会ってきた武将たちは、程度の差こそあれ、戦う者らしい身体つきをしている者が多かった。
勝家などは立っているだけで武人だと分かる。
だが目の前の男からは、そうした圧力がほとんど感じられない。
年齢は景継より上だが、まだ若い。
色白で細身。
静かに座っている姿だけを見れば、武将というより学問を好む若者のように見える。
ただ。
目だけは違った。
景継が部屋へ入った瞬間から、半兵衛は景継の顔だけではなく、歩き方や弥兵衛との距離、藤吉郎がどこへ座るのかまで見ているようだった。
「林道景継殿?」
半兵衛が尋ねる。
「はい。竹中半兵衛殿ですね」
「そのように呼ばれております」
二人は向かい合って座った。
藤吉郎と弥兵衛は少し離れたところに控える。
最初に口を開いたのは半兵衛だった。
「思っていたより若い」
景継は少し笑った。
「それはよく言われます」
「噂では十三と」
「今年で十三です」
半兵衛の目がわずかに動いた。
驚いているというより、何かを確認したように見えた。
「五人へ領地を保証すると伝えたのは、景継殿ですか」
挨拶の続きをすることもなく、いきなり本題へ入った。
景継は一瞬だけ半兵衛を見た後、素直に頷いた。
「はい」
「やはり」
「その五人へ、織田の約束を信用するなと伝えたのは半兵衛殿ですね」
今度は半兵衛が少し笑った。
「直接は伝えておりません」
「では?」
「一つ質問しただけです」
「何と?」
「なぜ織田は、まだ手に入れてもいない土地を保証できるのか、と」
景継は少し黙った。
その一言だけで十分だったのだ。
答えを与える必要はない。
疑問を一つ置くだけで、人は自分で考える。
そして一度疑い始めれば、景継が提示した好条件そのものが、逆に怪しく見えてくる。
「なるほど」
景継は素直に感心した。
「では、今度の噂も?」
「織田が美濃へ来ないという話ですか」
景継の目が少し細くなった。
半兵衛は静かに続ける。
「随分と都合のいい噂だと思いました。桶狭間で東の脅威を退けた織田家が、その直後になぜ美濃から目を離すのか。それを考えれば、信じる理由がありません」
「私が流したとは?」
「今、分かりました」
景継が一瞬黙った。
半兵衛は少しだけ笑う。
「先ほどまでは、織田方の誰かだろうと思っていただけです。しかし景継殿が私の反応を確認するために会いに来たのであれば、噂を流した者も同じだと考える方が自然でしょう」
景継も思わず笑った。
「話しにくい人ですね」
「景継殿ほどではないと思います」
二人の間に、わずかな沈黙が流れた。
敵同士。
少なくとも今は。
それでも景継は、不思議と居心地の悪さを感じなかった。
相手が何を見ているのか。
何を疑っているのか。
一つ言葉を出せば、その裏側まで考えて返してくる。
司馬懿として生きていた頃には、当たり前だった感覚。
この時代へ生まれてから、久しく味わっていなかったものだった。
「一つ聞いても?」
半兵衛が言った。
「どうぞ」
「景継殿は、本当に十三なのですか」
景継の表情が少しだけ変わった。
「先ほど答えましたよ」
「年齢を疑っているのではありません」
半兵衛は景継をまっすぐ見ていた。
「経験を疑っています」
景継は答えなかった。
半兵衛は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「あなたの策は、奇抜ではありません。少なくとも私には、そう見えます」
「それは褒めてます?」
「褒めています」
半兵衛は淡々と答えた。
「奇抜な策は、思いつくだけなら若者にもできます。しかし景継殿のやり方には、人がどう動くかだけではなく、追い詰められた人間が何を恐れ、負けた側が何を疑い、勝った側がどこで油断するのかという経験が混じっている」
景継の笑みが消えていた。
「岩倉のことまで調べたんですか」
「少し」
「桶狭間も?」
「可能な範囲で」
半兵衛はそこで一度言葉を切った。
「書物を読めば、戦の形は学べます。しかし、負けた兵がどこから崩れるのか、主君に疑われた家臣がどのような顔をするのかまで、十三の少年が知っているのは少し不思議です」
景継は半兵衛から視線を外さなかった。
司馬懿の記憶。
それを知っている者はいない。
信長にも話していない。
まして、今日初めて会った竹中半兵衛が知るはずもない。
それでも。
この男は。
そこに何かあることだけは感じ取っている。
「半兵衛殿」
「はい」
「人のことを調べすぎると、嫌われますよ」
半兵衛は少しだけ笑った。
「覚えておきます」
景継もそれ以上は答えなかった。
だが心の中では、竹中半兵衛への評価が完全に変わっていた。
頭がいい。
それだけではない。
人の言葉や行動の中にある小さな違和感を拾い、それを簡単に捨てない。
この男の前では、余計なことを見せない方がいい。
そう思わせた人物は、この時代へ生まれてから初めてだった。
◇◇◇
その日の話し合いで、二人が何かを約束することはなかった。
半兵衛は斎藤家を裏切らない。
景継も美濃攻略をやめない。
立場は何一つ変わっていない。
それでも寺を出る頃には、互いに相手を単なる敵として見ることだけはできなくなっていた。
別れ際。
半兵衛が景継へ尋ねた。
「美濃を取るつもりですか」
景継は足を止めた。
「私ではなく、信長様が」
「同じことでしょう」
景継は少し考えた。
「そうかもしれませんね」
「では、次に何をします?」
半兵衛は何気なく尋ねたように見えたが、景継には分かっていた。
探っている。
だから景継も笑って答える。
「半兵衛殿なら、どうします?」
「答えれば、その逆をされそうです」
「私も同じです」
二人はそれ以上何も言わなかった。
ただ、景継が立ち去ろうとした時。
半兵衛が最後に一言だけ告げた。
「次は、もう少し分かりにくい噂を流された方がよろしいかと」
景継は振り返った。
「次は、気づいても止められないものにしますよ」
半兵衛は少しだけ笑った。
「楽しみにしております」
景継は寺を出た。
外では藤吉郎が待っている。
「どうでした?」
藤吉郎が尋ねる。
景継は馬へ向かいながら、少し考えてから答えた。
「面倒な人でした」
「それだけですか?」
「それで十分です」
だが。
景継の表情は。
少し楽しそうだった。
◇◇◇
それから一年。
永禄四年、1561年。
十四歳になった景継は以前より背も伸び、清洲城内で彼を単なる少年として扱う者は、もうほとんどいなくなっていた。
美濃との境では小さな戦と調略が繰り返され、織田と斎藤は互いに相手の領域を少しずつ削ろうとしていたが、どちらかが決定的に優位へ立つところまでは進んでいなかった。
景継も何度か策を仕掛けた。
成功したものもある。
失敗したものもある。
そして、自分の策が妙なところで止まるたびに、景継は美濃の向こうにいる一人の男を思い出すようになっていた。
竹中半兵衛。
すべてが半兵衛の仕業だったわけではないだろう。
それでも、あの男ならどこを見るかと考えるだけで、景継自身が策を一度見直すようになった。
そして半兵衛の側もまた、織田方で不自然な動きがあれば、その向こうに景継がいる可能性を考えるようになっていた。
二人は頻繁に会うことなどなかった。
敵味方に分かれている以上、当然だった。
それでも美濃と尾張の境を挟み、互いに相手の存在を意識しながら一年が過ぎていった。
そんな春の日。
清洲城へ、美濃から一騎の使者が駆け込んできた。
「申し上げます!」
ちょうど評定が開かれていたため、景継も信長の近くにいた。
使者の様子を見ただけで、普通の報告ではないことが分かる。
信長が顔を上げた。
「何だ」
「美濃にございます。斎藤義龍殿――」
使者は荒い息を整えながら、続けた。
「死去したとの知らせにございます」
部屋の空気が、一瞬で変わった。
景継は何も言わず、美濃の地図へ目を落とした。
斎藤義龍。
父である道三を討ち、美濃をまとめていた男が死んだ。
まだ三十代半ば。
病に伏しているという噂は以前から届いていたが、その死がこれほど早く訪れるとは思っていなかった。
「後継は」
長秀が尋ねる。
「嫡男、龍興殿が家督を継ぐものと」
斎藤龍興。
まだ若い。
父ほどの実績もなく、美濃の国人たちが同じように従う保証もない。
景継の頭の中で、これまで集めてきた情報が一気につながり始めた。
義龍への忠誠で残っていた者。
斎藤家そのものへ従っている者。
自分の領地さえ守れればいい者。
そして。
竹中半兵衛。
当主が変われば。
全員がもう一度。
自分の立場を考える。
信長が景継を見る。
「好機だと思うか」
景継はすぐには答えなかった。
以前なら、義龍の死をそのまま好機と考えたかもしれない。
しかし今は。
美濃の向こうに。
こちらと同じように盤面を見ている男がいることを知っている。
「好機です」
景継は答えた。
そして。
少しだけ言葉を続けた。
「ただし、私たちだけにとってではありません」
信長の目が細くなる。
「どういう意味だ」
「龍興様が若いなら、斎藤家を変えようと考える者も出てくるはずです。義龍様がいたからできなかったことを、今ならできると思う人もいる」
景継の指が。
地図の上を動いた。
そして。
菩提山城で止まる。
「特に、この人がどう動くのかを見たいです」
信長はその場所を見ると、すぐに誰のことか理解した。
「竹中半兵衛か」
「はい」
景継は静かに頷いた。
一年前。
初めて会った時。
半兵衛は斎藤家を裏切るつもりはないと言った。
だが。
義龍が死んだ今。
その考えが変わらないとは限らない。
景継は地図を見つめながら、寺で半兵衛と交わした言葉を思い出していた。
美濃を取るつもりですか。
そう聞いた半兵衛。
そして今。
美濃そのものが。
大きく揺れようとしている。
この時。
景継はまだ知らなかった。
義龍の死から数年後。
竹中半兵衛が。
敵である織田軍でさえ成し遂げていないことを、ほんのわずかな人数でやってのけることを。
そして。
その出来事によって。
美濃を巡る戦いが。
一気に終わりへ向かい始めることを。




