第五十九話 見えない相手
木下藤吉郎が景継から呼び出されたのは、美濃から来た男が清洲を去った翌日のことだった。
藤吉郎は何か失敗でもしたのかと思ったらしく、部屋へ入ってきた時から妙に落ち着きがなく、景継の前へ座ってからも何度か姿勢を直していた。
「藤吉郎さん」
「はい!」
返事だけは異様に大きい。
景継は思わず顔をしかめた。
「そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
「いやいや、景継様から直々に呼び出されることなど滅多にございませんので、これはとうとう大仕事を任されるのか、それとも知らぬ間に何かやらかして首を斬られるのかと」
「後半だったら、わざわざ私が呼びません」
「それもそうですな!」
藤吉郎は笑った。
こういうところなのだろうと、景継は思った。
身分の高い相手を前にして緊張はする。
だが、それが長く続かない。
いつの間にか普段の調子へ戻り、相手との距離を少しずつ縮めていく。
景継が今回欲しいのは、まさにその性質だった。
「美濃へ行ってもらいます」
藤吉郎の笑顔が止まった。
「……美濃?」
「はい」
「斎藤の?」
「他にありませんよ」
「いや、それはそうですが……」
藤吉郎は少し考えてから、声を落とした。
「何人ほど連れていけばよろしいので?」
「できれば一人で」
「一人!?」
また声が大きくなった。
景継は苦笑する。
「別に稲葉山城を取ってこいと言っているわけじゃありません」
「それなら安心しました。さすがに一人では少々難しい」
「少々なんですか」
藤吉郎は笑った。
景継はそのまま美濃の地図を広げた。
「やってほしいことは単純です。美濃へ入って、人と話してください」
「人?」
「商人でも農民でも武士でも構いません。できるだけ色々な人と話して、美濃の中が今どうなっているのか見てきてほしいんです」
藤吉郎が地図を見る。
「間者ということですか?」
「少し違います」
「違う?」
「斎藤家の兵の数や城の造りを調べるだけなら、普通の物見でいい。私が知りたいのは、人です」
景継は昨日聞いた話を藤吉郎へ説明した。
斎藤義龍へ不満を持つ者。
かつて道三側だった者。
斎藤家に従ってはいるが、今後を不安視している者。
そして、桶狭間の勝利を受けて織田家をどう見ているのか。
「なるほど」
藤吉郎が何度か頷く。
「それを調べてこいと」
「調べるというより、聞いてきてください」
「同じでは?」
「違いますよ」
景継は首を横に振った。
「相手から情報を取ろうとすれば警戒されます。でも、藤吉郎さんなら普通に話しているだけで、相手が勝手に色々話してくれそうなので」
藤吉郎が目を丸くした。
「褒められております?」
「かなり」
今度は藤吉郎が嬉しそうに笑った。
「なら、お任せください!」
「ただし」
景継の声が少し変わった。
藤吉郎も表情を戻す。
「無理に寝返りを誘わないでください」
「よろしいので?」
「はい。今はまだ、織田につけとも、斎藤を裏切れとも言わなくていい」
「では、何のために?」
景継は地図上の美濃を見た。
「誰が迷っているのかを知るためです」
迷っている人間と、すでに決めている人間では動かし方が違う。
斎藤家に最後まで従うと決めている者へ何度使者を送っても意味はない。
逆に、斎藤家の先行きを不安視している者なら、ほんの少し背中を押すだけで動くかもしれない。
まず盤面を見る。
動かすのは、その後でいい。
「分かりました」
藤吉郎が立ち上がった。
「では、美濃の人間と友達になってまいります」
「そこまで簡単だとは思っていませんけど」
「難しい顔をして近づけば向こうも難しい顔をします。笑って近づけば、案外笑ってくれるものでございますよ」
景継は一瞬、返事を忘れた。
自分にはなかなか出てこない考え方だった。
「……やっぱり藤吉郎さんに頼んで正解だったかもしれません」
「まだ何もしておりませぬぞ」
「だから『かもしれない』です」
藤吉郎は大きく笑い、そのまま部屋を出ていった。
景継は閉じた襖をしばらく見つめていた。
策を使って人を動かす。
利を見せる。
恐怖を与える。
逃げ道を作る。
それなら自分にもできる。
だが藤吉郎は、おそらく違う。
人を動かそうとして近づくのではない。
まず相手の中へ入ってしまう。
その先に何があるのか。
景継は少し楽しみにしていた。
◇◇◇
藤吉郎から最初の知らせが届いたのは、それから六日後だった。
結果は、景継が予想していた以上だった。
「もう三人?」
清洲城の一室で報告書を読んでいた景継が聞き返す。
長秀が頷いた。
「藤吉郎が接触した美濃の地侍だ。三人とも斎藤家への不満を口にしたらしい」
「藤吉郎さんは何をしたんです?」
「酒を飲んだ」
「それだけ?」
「一人とはな」
景継は思わず報告書をもう一度見た。
一人目とは酒を飲んだ。
二人目とは、その男が困っていた馬の売買を手伝った。
三人目とは村の祭りの話をしているうちに親しくなった。
そこから自然に話が斎藤家へ移り、相手の方から不満を漏らしたらしい。
「何なんですか、この人」
景継が呟く。
長秀が笑った。
「お前が選んだのだろう」
「そうですけど、ここまでとは思ってませんでした」
さらに数日後。
藤吉郎から二通目の知らせが届いた。
今度は地侍だけではない。
美濃を行き来する商人。
村の庄屋。
斎藤家臣の親族。
直接斎藤家へ仕えている者ではないが、美濃の内情を知る人間とのつながりが急速に増えていた。
景継は集まってきた情報を地図の上へ書き込んでいった。
義龍への不満が強い地域。
道三への恩義を忘れていない家。
斎藤家と距離を置いている国人。
そして逆に、義龍への忠誠が強い者。
今まで一つの国として見えていた美濃が、少しずつ別の形へ変わっていく。
「見えてきましたね」
景継が言った。
地図の前には信長、長秀、信盛も集まっていた。
信長が尋ねる。
「何がだ」
「割れ目です」
景継は地図上のいくつかの場所を指した。
「ここ、ここ、それからこの辺り。斎藤家への不満が強い人たちが固まっています」
「寝返らせるか」
信盛が尋ねた。
「まだです」
景継は首を横に振った。
「今すぐこちらへ来いと言えば、向こうも警戒します。それより、もう少しだけ広げます」
「どうやって」
「こちらから条件を出します」
景継は一枚の紙を取った。
そこに簡単な内容を書いていく。
今すぐ織田へ臣従する必要はない。
ただし今後、織田家が美濃へ入った時に敵対しないと約束するなら、現在の領地については最大限尊重する。
以前、岩倉攻略の終盤で使った考え方に近い。
だが今回は、まだ戦すら始まっていない。
「先に逃げ道を見せるのか」
長秀が言った。
「はい。ただし全員には見せません」
景継は藤吉郎が集めた名前の中から、五人だけを選んだ。
「本当に迷っている人だけです」
五人。
多すぎない。
少なすぎない。
この五人のうち一人でも応じれば、そこからさらに広げられる。
信長は景継の書いた条件を読むと、特に修正することなく認めた。
「やれ」
「はい」
その日のうちに、藤吉郎へ新しい指示が送られた。
◇◇◇
ところが。
五日後。
戻ってきた報告は、景継の予想とはまったく違うものだった。
「……全員?」
景継が聞く。
長秀の顔も険しい。
「全員だ」
五人。
誰一人、応じなかった。
それだけなら、まだおかしくはない。
景継も全員が簡単に動くとは思っていなかった。
問題は、その断り方だった。
一人目。
突然、藤吉郎と会うこと自体を拒否した。
二人目。
斎藤家へ忠誠を誓っているため、織田とは話せないと言い始めた。
三人目。
領地を保証すると言われても信用できないと答えた。
四人目。
織田家は美濃へ入れば、最終的には国人の土地を奪うつもりだろうと言った。
そして五人目。
藤吉郎との接触そのものを隠すため、しばらく領地を離れた。
景継は五人の報告を順番に読んだ。
「……おかしい」
長秀が景継を見る。
「何がだ」
「全員が断ったことじゃありません」
景継は報告書を並べた。
「断る理由が、綺麗すぎます」
「綺麗?」
「はい」
一人なら分かる。
二人でも偶然かもしれない。
だが五人全員が、景継たちが提示した条件に対して、それぞれ最も合理的な理由をつけて距離を取っている。
しかも。
「この三人」
景継が指した。
「藤吉郎さんの最初の報告では、かなり乗り気だったはずです」
長秀も確認する。
確かにそう書かれている。
今川義元を討った信長へ期待している。
斎藤家の先行きを不安に思っている。
織田家が領地を保証するなら、話くらいは聞きたい。
それが数日で変わった。
「斎藤に気づかれたのではないか」
信盛が言った。
景継は首を横に振った。
「それなら藤吉郎さんを捕らえようとするはずです」
「では、何だ」
景継は答えなかった。
もう一度。
最初から報告書を読む。
一人目。
二人目。
三人目。
四人目。
五人目。
そして気づいた。
「……違う」
景継が小さく呟いた。
「何がだ」
長秀が尋ねる。
景継は四人目の報告を指した。
『織田家は美濃へ入れば、最終的には国人の土地を奪うつもりであろう』
その言葉。
これは景継が最初に潰そうとした不安そのものだった。
だから領地を保証するという条件を出した。
普通なら。
条件を聞いてから、その不安が少し弱くなる。
だが逆に。
条件を出した直後に。
その不安が強くなっている。
「誰かが説明したんです」
景継が言った。
「何を?」
「私たちが、なぜ領地を保証すると言っているのかを」
部屋の空気が変わった。
景継は地図を見る。
織田は今すぐ領地を奪わない。
なぜなら、まず美濃へ入りたいから。
入った後は分からない。
今の約束を信用するな。
おそらく、そういう話を誰かが五人へ伝えている。
「こちらの策を読んだ者がいる?」
長秀が尋ねた。
「おそらく」
景継は静かに答えた。
偶然ではない。
誰かがいる。
こちらが何をしようとしているのかを理解し、その一手先で国人たちの心を織田から離している人間がいる。
景継は不思議な感覚を覚えた。
岩倉ではなかった。
桶狭間でもなかった。
自分が相手の行動を読み、その先に手を置くことは何度もあった。
だが今。
自分が逆の側にいる。
「藤吉郎さんは?」
「無事だ」
長秀が答えた。
「ただ、本人もかなり気味悪がっているらしい。昨日まで笑って酒を飲んでいた者が、翌日には別人のように口を閉ざすと言っている」
景継は少し考えた。
「藤吉郎さんを戻してください」
「やめるのか」
「逆です」
景継は地図から顔を上げた。
「一度、全部聞きます。報告書だけじゃ足りません」
◇◇◇
藤吉郎が清洲へ戻ってきたのは、翌日の夕方だった。
美濃へ向かった時とは違い、かなり疲れた顔をしている。
「いやあ、参りました」
部屋へ入るなり、藤吉郎はそう言った。
「何があったんです?」
「何があったのか分からんのです」
藤吉郎は景継の前へ座った。
「それが一番困っております」
景継は水を出させ、藤吉郎が落ち着くまで待った。
「最初は上手くいっていた?」
「ええ。少なくとも、わしはそう思っておりました」
「途中から変わった」
「はい」
藤吉郎は大きく息を吐いた。
「一人なら、わしが何か失礼でもしたかと思います。二人なら、運が悪かったとも思います。しかし三人、四人と続けば、さすがにおかしい」
「誰かと会った形跡は?」
「ございます」
景継の目が変わった。
「誰です?」
「それが分かりませぬ」
藤吉郎によれば、態度を変えた者のうち少なくとも三人は、その直前にそれぞれ別の人間と会っていた。
だが、同じ使者ではない。
一人には僧。
一人には商人。
もう一人には、近隣の地侍が訪ねてきていた。
「全部別人?」
「はい」
景継は考える。
なら、その三人が偶然同じことを言った?
違う。
そのさらに後ろに誰かいる。
「その人たちは、どこから来たか分かります?」
藤吉郎は少し考えた。
「一つだけ」
「何です?」
「商人が、菩提山の方から来たという話を聞きました」
菩提山。
景継には分からない。
「長秀様」
「竹中だ」
長秀がすぐに答えた。
景継が顔を向ける。
「竹中?」
「竹中家の居城、菩提山城がある」
その瞬間。
昨日まで頭の片隅に置いていた名前が浮かんだ。
竹中半兵衛重治。
美濃から来た男が言っていた。
大きな領地を持つわけではない。
何千もの兵を率いるわけでもない。
それでも。
戦になれば厄介になる。
「……まさか」
景継は呟いた。
まだ決めつけることはできない。
商人が菩提山から来た。
それだけなら偶然の可能性もある。
だが。
景継は地図上の菩提山周辺を見た。
「藤吉郎さん」
「はい」
「もう一度、美濃へ行ってもらえます?」
藤吉郎が固まった。
「もう一度?」
「嫌です?」
「いや、嫌というわけでは……」
明らかに嫌そうだった。
景継は少し笑った。
「今度は調略しなくていいです」
「では何を?」
景継は答えた。
「竹中半兵衛という人を調べてください」
藤吉郎の表情が変わる。
「竹中半兵衛」
「知っています?」
「名前だけなら。美濃では少し変わった男だという話を聞きました」
「どう変わっているんです?」
「身体が弱く、武芸にもそれほど熱心ではない。城へ出ても人付き合いが悪く、若いくせに年寄りのような顔をして考え事ばかりしているとか」
景継は眉を寄せた。
昨日聞いた評価とは、まるで違う。
「頭がいいという話は?」
「聞きました。ただ、美濃の者でも評価は分かれております。大したことはないという者もいれば、あの男には近づくなという者もおりました」
「近づくな?」
「考えていることが分からないそうです」
景継は黙った。
その言葉だけなら。
少しだけ親近感がある。
「分かりました」
景継は地図を畳んだ。
「今度は無理に近づかなくていいです。半兵衛が誰と会っているのか、何をしているのか、それだけ調べてください」
藤吉郎は頷いた。
「承知しました」
立ち上がりかけた藤吉郎を、景継が呼び止める。
「それと」
「はい?」
「もし向こうから話しかけてきたら、何も隠さなくていいです」
藤吉郎が驚く。
「景継様のことも?」
「聞かれたら」
「よろしいので?」
「はい」
景継は少しだけ考えてから続けた。
「たぶん、もう私がいることくらい知っています」
◇◇◇
藤吉郎が部屋を出た後も、景継は一人で地図を見ていた。
竹中半兵衛。
まだ、相手だと決まったわけではない。
自分の策を止めたのが、本当にその男なのかも分からない。
それでも。
胸の奥に、妙な感覚があった。
恐怖とは違う。
不安とも違う。
むしろ。
少しだけ嬉しい。
司馬懿として生きていた頃。
自分より先に盤面を見ている者と戦ったことは何度もある。
曹操。
諸葛亮。
陸遜。
そして他にも、多くの知将たちがいた。
策を出せば読まれる。
読まれることを前提に、その次を考える。
一つの戦場に、いくつもの思惑が重なっていた。
だが、この時代へ生まれ変わってから。
景継はまだ。
そこまでの相手とは出会っていない。
信長は違う。
あの男の恐ろしさは、景継とは別のところにある。
景継が何日も考えて作った細い勝ち筋へ、誰よりも早く飛び込める。
あれは知略という言葉だけでは説明できない。
しかし。
もし竹中半兵衛が。
こちらの狙いを読み。
その一手先へ人を動かしたのだとすれば。
「……会ってみたいな」
景継は無意識に呟いていた。
その頃。
美濃。
菩提山城の一室でも、一人の若い男が紙を見つめていた。
細い身体。
色白の顔。
武将というより、学問をする者のようにも見える。
紙には、いくつかの名前が書かれていた。
織田家と接触した者たち。
そして。
もう一つ。
最近、美濃を歩き回っている男。
木下藤吉郎。
若者はその名前をしばらく眺めてから、隣に置かれた別の紙へ視線を移した。
そこには。
もう一つの名前が書かれていた。
林道景継。
桶狭間以前から、織田信長の近くにいる若者。
岩倉との争いにも関わり、今川義元との戦でも何かをしていたらしい。
どこまでが信長の策で。
どこからが、この男の策なのか。
まだ分からない。
竹中半兵衛は紙を指先で軽く押さえながら、これまで美濃へ入ってきた織田方の動きを思い返していた。
国人へ近づく順番。
選ばれた五人。
提示された条件。
領地の保証。
一つ一つは珍しいものではない。
だが。
全部を並べると。
見えてくるものがある。
織田は、まだ美濃を攻めようとしていない。
少なくとも。
兵では。
先に人を動かそうとしている。
そして。
その策を考えている者は。
おそらく。
「信長様だけではない」
半兵衛が静かに呟いた。
林道景継。
聞けば、まだ若いという。
半兵衛は少しだけ不思議そうに名前を見た。
そして。
紙を裏返した。
「次は、どう動く」
誰に聞かせるでもなく呟く。
景継はまだ知らない。
半兵衛もまた、景継の顔を知らない。
二人は一度も会ったことがない。
それでも。
美濃という盤面の上で。
二人はすでに。
互いの存在を見つけ始めていた。




