第五十八話 美濃にいる男
弥兵衛に案内されて清洲城の一室へ入った景継は、そこに座っている男を見た瞬間、少しだけ足を止めた。
美濃から人が来ていると聞いていたため、景継は斎藤家に仕える武士のような男を想像していたのだが、目の前にいた人物はどう見ても戦場を駆け回るような人間には見えなかった。
年齢は四十を少し過ぎたくらいだろうか。
着ているものも特別立派ではなく、腰に刀こそ差しているものの、手には武芸を積み重ねてきた者特有の傷や硬さがほとんど見られない。
男の正面には信長が座り、その少し離れた場所に長秀がいる。
景継が入ってくると、男は一度だけこちらへ視線を向けたが、すぐに信長へ戻した。
「来たか」
信長が言った。
「はい。美濃からお客様だと聞きました」
「客かどうかは、まだ分からんがな」
信長が男を見る。
男は苦笑した。
「手厳しいことでございます」
景継は信長の横へ座ると、改めて男を観察した。
緊張している。
ただし、怯えてはいない。
敵国の城へ一人で来た人間としては、ずいぶん落ち着いているように見えた。
「名前を聞いても?」
景継が尋ねると、男は少しだけ迷ってから答えた。
「名は今、申し上げぬ方がよろしいかと」
「どうしてです?」
「ここで私の名を申し上げ、それが美濃へ伝われば、帰る場所がなくなります」
景継は納得した。
正式な使者ではない。
斎藤家から命じられて来たわけでもない。
つまり、この男は自分の意思で清洲へ来ている。
「では、名前は聞きません」
景継が言うと、男は少し意外そうな顔をした。
「よろしいので?」
「必要になったら、その時に聞きます。それより、美濃からわざわざ清洲まで来た理由の方が気になります」
男はすぐには答えなかった。
信長も急かさない。
部屋の中に短い沈黙が流れた後、男はゆっくり口を開いた。
「今川義元殿を討たれたと聞きました」
「もう美濃まで届いているんですね」
「尾張だけではございません。おそらく近江にも、京にも、すでに知らせは届き始めているでしょう」
景継は信長を見た。
桶狭間から、まだそれほど日が経っていない。
それでも義元の死は、想像以上の速さで各地へ広がっている。
男は続けた。
「二万を超える今川勢を前にして、清洲へ籠もると思われていた信長様が自ら出陣し、義元殿の本隊を突いて首を取った。美濃では、その話を聞いて笑う者はもう一人もおりませぬ」
「以前は笑っていた?」
景継が聞く。
男は少し困ったように笑った。
「正直に申し上げれば」
信長が鼻で笑った。
「構わん。尾張のうつけなど、美濃でも散々言われていただろう」
「……その通りにございます」
「今は?」
男の表情が変わった。
「恐れております」
信長の目がわずかに細くなる。
男は地図もない床の上へ視線を落としながら、言葉を選ぶように続けた。
「尾張をまとめただけなら、まだ良かったのです。岩倉を落としただけなら、尾張の中で争っていた織田家の一人が勝っただけだと思う者もいたでしょう。しかし、今川義元殿を討ったことで話が変わりました」
男が信長を見る。
「次に信長様がどちらを見るのか、美濃の者たちは考え始めております」
景継には、その言葉だけで男がここへ来た理由が少し分かった。
「それで、先にこちらを見に来た」
男が景継を見る。
「……その通りです」
「信長様が本当に美濃へ攻めてくるのか。そして、もし攻めてくるなら、自分はどちらについた方が生き残れるのか」
男の顔から、わずかに笑みが消えた。
景継は構わず続ける。
「そんなところですか?」
しばらくして、男は小さく頭を下げた。
「恐ろしいお方ですな」
「普通に考えただけです」
景継はそう答えたが、男の目は先ほどまでとは少し違っていた。
おそらく、景継のことも事前に何か聞いている。
桶狭間について、どこまで景継の名前が外へ出ているのかは分からない。
ただ、信長の近くに若い軍師のような人物がいるという話くらいは、美濃へ流れていてもおかしくなかった。
「それなら一つ、こちらからも聞きたいです」
景継が言った。
「何でございましょう」
「美濃は、今どうなっています?」
男は一瞬、信長を見た。
信長は何も言わない。
それを確認してから、男は答えた。
「表向きは、斎藤家のもとでまとまっております」
「表向きは?」
「はい」
景継は少し身を乗り出した。
ここからが本題だった。
◇◇◇
男の話は、景継が想像していたよりも複雑だった。
美濃では斎藤義龍が国をまとめているものの、その支配が完全に安定しているわけではなく、かつて道三に従っていた者、義龍についている者、自分の領地を守ることしか考えていない者が入り交じっているという。
道三と義龍。
親子で争い、最後には息子である義龍が父を討った。
その傷は、美濃の中にまだ残っている。
「では、義龍殿に不満を持つ者は多い?」
景継が尋ねた。
「少なくはございません。しかし、不満があることと、裏切ることは別でございます」
男は即座に答えた。
景継はその言葉を気に入った。
その通りだ。
主君が嫌いだから敵へ寝返る。
現実はそれほど単純ではない。
領地がある。
家族がいる。
家臣がいる。
昨日まで一緒に戦っていた者もいる。
裏切れば、それらすべてを失う可能性がある。
岩倉の時にも見たことだった。
「なら、信長様が美濃へ攻め込んでも、簡単には崩れない」
「そう思われた方がよろしいでしょう」
男は答えた。
「美濃は尾張とは違います。川があり、山があり、城も多い。何より、美濃の者は外から攻められれば、普段争っている者同士でも手を結ぶことがあります」
勝てる。
その言葉を期待してここへ来たわけではないらしい。
むしろ、この男は美濃を甘く見るなと警告している。
景継は少し考えた。
「不思議ですね」
「何がでございます?」
「あなたは信長様へ美濃を売りに来たようには見えない」
男が黙る。
「でも、斎藤家を守るために来たようにも見えない。どちらかというと、美濃で大きな戦が起きる前に、何か別の道がないか探しているように見えます」
男の表情が、初めて明確に変わった。
信長が面白そうに二人を見ている。
長秀も何も口を挟まない。
しばらくして、男は息を吐いた。
「戦になれば、美濃の田畑が焼かれます」
景継は黙って聞いた。
「城を守るために村から兵が集められ、食糧が取られ、戦が長引けば商いも止まる。最後に信長様が勝つのか、斎藤様が勝つのか、それは私には分かりませぬ。しかし、どちらが勝っても、その途中で多くの者が死ぬことだけは分かります」
景継は男を見る。
武士らしく見えなかった理由が、少し分かった気がした。
「商人ですか?」
男は笑った。
「近いものにございます」
「だから戦そのものを短くしたい」
「できるのであれば」
景継は信長を見る。
信長はまだ何も言わない。
判断を景継に任せているようだった。
「一つ教えてください」
景継が男へ向き直る。
「美濃で斎藤家を支えているのは誰です?」
「誰、と申されますと?」
「義龍殿が一人で美濃を治めているわけではないでしょう。戦になった時、兵を集める者、国人をまとめる者、策を考える者がいるはずです」
男は少し考えた。
そして、いくつかの名前を挙げ始めた。
稲葉。
安藤。
氏家。
景継は一つずつ覚えていく。
どれも美濃で大きな力を持つ者たちらしい。
「他には?」
景継が聞く。
男が少し黙った。
「おります」
その答え方が気になった。
「誰です?」
「まだ若い男でございます」
「若い?」
「はい。大きな領地を持っているわけでもなく、何千もの兵を従えているわけでもございません。それゆえ、今申し上げた方々と同列に扱うべきかは分かりませぬ」
「それでも名前を出そうと思った」
男は頷いた。
「戦になれば、おそらく厄介になるかと」
景継の目が少し変わった。
兵を多く持っているわけではない。
大きな領地もない。
それでも厄介。
そう評価される理由は限られている。
「名前は?」
男は答えた。
「竹中半兵衛重治」
景継は、その名前を頭の中で一度繰り返した。
竹中半兵衛。
聞いたことのない名前だった。
少なくとも、司馬懿として生きていた時代の記憶にあるはずもなく、今の景継としても会ったことはない。
「何をする人です?」
「何を、と聞かれると困りますな」
男が少し笑った。
「武勇で名を上げた者ではございません。大軍を率いたことも、まだほとんどないでしょう。ただ、戦について話をさせれば、年長の武将たちが黙ることがあります」
景継の興味が少し強くなった。
「そんなに頭がいい?」
「私には戦のことは分かりませぬ。ただ――」
男はそこで一度言葉を切った。
「半兵衛殿が『そこから敵が来る』と言った場所から、本当に敵が来たという話を何度か聞いたことがございます」
景継は何も言わなかった。
予測。
地形。
情報。
あるいは人間の心理。
何を使って判断しているのかは分からない。
だが、少なくとも周囲からそう見られる程度には、この竹中半兵衛という男は結果を出している。
「面白そうですね」
景継が呟いた。
信長が初めて口を開いた。
「気になるか」
「少し」
「お前がそう言うなら覚えておこう」
景継はもう一度、男へ尋ねた。
「竹中半兵衛は義龍殿に忠実なんですか?」
男は首を傾げた。
「それは……私にも分かりませぬ」
「分からない?」
「半兵衛殿は斎藤家に仕えております。しかし、義龍様個人へ強い忠誠を持っているようには見えませぬ」
「では、何のために仕えている?」
「美濃のため、とでも申しましょうか」
その答えを聞いて、景継は少しだけ眉を寄せた。
自分の家でもない。
主君でもない。
国のため。
本当にそういう男なら、単純な利益では動かしにくい。
領地を与える。
地位を与える。
そういう条件だけでは寝返らない可能性がある。
「なるほど」
景継はそれ以上、半兵衛について尋ねなかった。
今はまだ、名前を知っただけだ。
美濃にはもっと大きな勢力を持つ者が何人もいる。
一人の若者だけに意識を向ける理由はない。
少なくとも、この時の景継はそう考えていた。
◇◇◇
男が帰った後、景継たちはそのまま部屋に残った。
信長が最初に尋ねた。
「どう見る」
景継はすぐには答えず、弥兵衛に美濃周辺の地図を持ってくるよう頼んだ。
しばらくして地図が広げられる。
木曽川。
長良川。
揖斐川。
そして各地の城。
尾張とは地形がまるで違う。
景継はしばらく地図を眺めた。
「正面から行くのは嫌ですね」
長秀が頷く。
「美濃へ攻め込むなら、川を越えねばならん。守る側には有利だ」
「それだけじゃありません」
景継は先ほど聞いた名前を書き留めた紙を地図の横へ置いた。
「美濃には、自分の土地に強く根を張った人たちが多い。信長様が外敵として入れば、普段は義龍様に不満を持っている人まで斎藤側へ戻る可能性があります」
「ならばどうする」
信長が聞く。
景継は考えながら答えた。
「まず、戦う前に美濃の人間関係を全部調べたいです」
「全部?」
「できるだけ」
誰が義龍を嫌っている。
誰と誰の仲が悪い。
誰が道三に恩を感じていた。
どの家がどこに領地を持つ。
どこから米が集まり、どこを商人が通る。
城を見るだけでは足りない。
国を取るなら、その国がどうやって動いているのかを知る必要がある。
「岩倉では人を疑わせました。桶狭間では軍を分けました。でも、美濃で同じことをしても上手くいくとは思いません」
景継は地図を見ながら続けた。
「相手が変われば、やり方も変えないといけません」
信長が口元を上げる。
「では、今回は何をする」
景継はしばらく黙っていた。
まだ答えはない。
ただ、一つだけ決めていることがある。
「最初から斎藤家を倒そうとしないことです」
長秀が景継を見る。
「どういう意味だ」
「美濃全体を相手にしたら、こちらが不利です。だから最初は、斎藤家と美濃を別のものにします」
信長の目が細くなる。
景継は地図上の稲葉山城を指した。
「義龍様と戦うことが、美濃を守ることではない。そう思う人を増やします」
「斎藤から国人を切り離すか」
「はい。ただ、露骨に寝返りを誘うだけでは駄目です。清洲へ来いと言われれば、向こうも警戒します」
景継は先ほどの男が座っていた場所を見た。
「だから、向こうからこちらへ来る理由を作ります」
桶狭間の勝利によって、すでに一人が清洲へ来た。
なら、二人目も来る。
三人目も来るかもしれない。
重要なのは、その流れを止めないことだった。
「しばらく、美濃から来る者を拒まないでください」
景継が信長へ言った。
「武士でも?」
「はい」
「商人でも?」
「もちろん」
「間者でも?」
景継は少し考えた。
「それも入れましょう」
長秀が驚いた。
「間者までか?」
「見られて困るものだけ隠しておけばいいです。それより、清洲が今どうなっているのかを美濃へ持って帰ってもらいます」
信長が笑った。
「何を見せる」
景継は答えた。
「桶狭間に勝ったのに、美濃へ攻め込む準備をしていない清洲です」
部屋が静かになった。
長秀が先に意味を理解した。
「攻めぬと思わせるのか」
「少し違います」
景継は首を横に振った。
「いつ攻めてくるか分からないと思わせます」
すぐ攻めてくるなら、斎藤家も準備できる。
一年後なら、それに合わせて動ける。
だが、攻めるのか攻めないのか分からない状態が続けば、人はそれぞれ勝手に考え始める。
自分の家はどうする。
信長が来たらどうする。
斎藤は本当に勝てるのか。
清洲へ先に話を通しておいた方がいいのではないか。
景継が何かを言わなくても、美濃の者たち自身に考えさせればいい。
「こちらから全員を動かす必要はありません。人は自分が危ないと思えば、勝手に動きます」
信長はしばらく地図を見ていた。
「よし」
顔を上げる。
「やれ」
景継は頷いた。
「では、まず人を集めます」
「誰を使う」
その問いに、景継は少し考えた。
国人へ近づく。
商人と話す。
相手に警戒されず、いつの間にか懐へ入っているような人物が必要だった。
自分でもできなくはない。
だが、景継には自覚がある。
自分は相手を観察し、考え、動かすことには慣れているが、初対面の人間から無条件に好かれるような人間ではない。
もっと別の才能が必要だった。
その時、景継の頭に一人の顔が浮かんだ。
「一人、試してみたい人がいます」
信長が景継を見る。
「誰だ」
景継は答えた。
「木下藤吉郎」
信長の眉がわずかに動いた。
「あいつか」
「はい」
景継は地図の上に視線を戻した。
藤吉郎の身分はまだ高くない。
率いる兵も少ない。
だが、誰とでも話す。
武士にも。
足軽にも。
商人にも。
農民にも。
そして気づけば、相手が藤吉郎へ何かを話している。
景継は以前から、その性質が少し気になっていた。
「戦をさせるんじゃありません」
景継は言った。
「人と会わせます」
「何をさせる」
「まだ決めていません。まず、美濃へ入れてみたい」
信長は一度だけ笑った。
「好きに使え」
景継は頷いた。
これが美濃攻略の最初の一手になる。
この時の景継は、まだ知らなかった。
自分が美濃へ送り込もうとしている木下藤吉郎が、やがて天下を握る男になることも。
そして美濃の向こう側には、景継がこれまで出会った者とはまったく違う頭脳を持つ若者がいることも。
竹中半兵衛重治。
景継はまだ、その名前を一度聞いただけだった。
だが間もなく。
景継が美濃へ伸ばした最初の策は、思いもしなかった場所で止められることになる。
そして、その時になって初めて景継は理解する。
美濃には、自分が一方的に盤面を動かせるほど甘くない相手がいるのだと。




