第五十七話 動き始める者たち
桶狭間で今川義元が討たれたという知らせは、その日のうちに尾張各地へ広がり、翌日には三河へ、そのさらに先へと驚くほどの速さで伝わっていった。
二万を超える大軍を率いて尾張へ侵攻した今川義元が、わずかな兵しか持たない織田信長に討たれた。
それだけでも信じ難い話だったが、さらに人々を驚かせたのは、織田軍が今川軍そのものを打ち破ったわけではなく、大軍の中にいた義元だけを狙い、その首を取ったということだった。
話が広がるにつれて、当然のように尾ひれも付いた。
信長は最初から豪雨が来ることを知っていた。
織田軍はわずか数百だった。
義元は酒宴を開いているところを襲われた。
中には、信長自身が義元の首を取ったという話まで出始めていた。
清洲へ戻った景継は、それらの噂を聞くたびに何とも言えない顔をしていた。
「三日もすれば、信長様が一人で今川軍を倒したことになりそうですね」
景継が言うと、隣にいた弥兵衛が笑った。
「戦の噂など、そのようなものでございましょう。岩倉との戦でも、勝家様が一人で百人を倒したという話がございました」
「ありましたね、それ」
景継も思い出して少し笑った。
だが、今回ばかりは笑い話だけでは終わらない。
噂がどのような形になろうと、変わらない事実が一つだけある。
今川義元は死んだ。
そして、その一つの事実によって、尾張と三河を取り巻く情勢そのものが大きく変わろうとしていた。
◇◇◇
清洲城では、桶狭間から戻った翌日にはすでに評定が開かれていた。
勝ったからといって休んでいる暇はない。
むしろ大きな戦に勝った直後だからこそ、その勝利によって生まれたものをどう利用するかが重要だった。
景継が評定の間へ入ると、信長を中心に長秀、勝家、信盛らがすでに集まっていた。
床に広げられている地図は、昨日まで使っていたものと同じだった。
ただし、その意味はまるで違う。
昨日まで尾張東部へ伸びていた今川軍を示す駒の多くが、すでに取り除かれている。
義元を失った今川勢は各地で後退を始め、一部は三河方面へ戻り始めていた。
景継は座ると、まず地図を確認した。
「今川軍は?」
長秀が答える。
「予想以上に早い。義元の死を知った部隊から次々と退いている。まだ残っている部隊もあるが、こちらへ攻め込む気配はない」
「駿河は?」
「まだ分からん。ただ、義元の嫡男である氏真が動くだろう」
景継は小さく頷いた。
今川氏真。
景継自身、この時代の歴史をすべて詳しく知っているわけではない。
だが、義元ほどの人物が突然死ねば、その後継者がすぐに同じような力を発揮できるとは考えにくかった。
何より問題なのは、今川家そのものよりも、その支配下にいる者たちだ。
強い主君がいるから従っていた者。
今川に逆らえないから従っていた者。
自分の家を守るために仕方なく従っていた者。
義元の死によって、そうした人々が一斉に別の可能性を考え始める。
「三河が動きますね」
景継が言った。
信長が地図上の三河を見る。
「ああ」
「誰が最初に動くと思います?」
景継が尋ねると、信長は一つの駒を取った。
そして三河の中央付近へ置く。
「松平元康」
その名前を聞いた瞬間、景継の視線が駒へ向いた。
松平元康。
今川方の武将として今回の戦にも参加していた男で、まだ若いにもかかわらず、三河ではすでに無視できない存在になりつつある。
「大高へ兵糧を入れた男ですよね」
景継が確認する。
「そうだ。義元が死んだ後、大高から三河へ戻ったらしい」
「岡崎へ?」
「おそらくな」
景継は地図上の岡崎を見る。
義元が生きている間、元康が今川から完全に離れることは難しかった。
だが今は違う。
今川家の中心であった義元が死に、駿河では後継者が家中をまとめなければならない。
その隙に元康が三河へ戻れば、自分の家を立て直す機会が生まれる。
「使えますね」
景継が呟いた。
勝家がすぐに反応する。
「攻めるのか」
「逆です」
景継は首を横に振った。
「今は松平を攻めない方がいいと思います」
「なぜだ。今川が混乱している今なら、三河へ入る好機だぞ」
「だからです」
景継は地図の上で、尾張と三河の境を指でなぞった。
「私たちが三河へ攻め込めば、松平は今川と手を切れなくなります。今川が弱っていても、織田が敵なら今川の力を借りるしかない」
勝家は黙って聞いている。
「でも、こちらが攻めなければ?」
長秀が尋ねる。
「松平は自分で考えられるようになります」
景継は答えた。
今川に残るのか。
独立するのか。
あるいは織田と手を組むのか。
今まで存在しなかった選択肢が、義元の死によって生まれた。
「敵を減らせるなら、わざわざ増やす必要はありません」
景継が言うと、信長が小さく頷いた。
「俺も同じ考えだ」
勝家が信長を見る。
「三河を取らぬので?」
「今はな」
信長はそう言って、今度は地図の西側へ手を伸ばした。
そこにある国を見た瞬間、景継にも信長の考えていることが分かった。
美濃。
「東が静かになるなら」
信長が言った。
「次は西だ」
景継は美濃を見つめた。
尾張を統一した時から、いずれここへ向かうことになるとは思っていた。
だが、今川という巨大な敵が東から迫っている間は、美濃へ全力を向けることなどできなかった。
その今川義元が死んだ。
さらに三河で松平元康が独立へ向かうなら、織田にとって東側の脅威は大きく減る。
「美濃ですか」
景継が言う。
信長は笑った。
「ようやくだ」
◇◇◇
その頃。
三河では、桶狭間の敗報を受けた者たちが、それぞれの判断で動き始めていた。
今川義元が討たれた。
最初にその知らせを聞いた時、多くの者は信じなかった。
あれほどの軍勢を率いていた義元が、尾張の小勢力に過ぎなかった織田信長に討たれるなど、普通に考えればあり得ない。
しかし、敗走してくる兵が増え、義元の死を直接見た者まで現れると、疑うことはできなくなった。
松平元康も、その一人だった。
元康は大高城から撤収すると、そのまま三河へ戻っていた。
岡崎城。
かつて松平家の城でありながら、今川の支配下に置かれていた場所へ、元康は久しぶりに足を踏み入れた。
城内を歩きながら、元康はほとんど言葉を発しなかった。
周囲の家臣たちは喜んでいる。
今川義元が死んだ。
松平が再び自立できるかもしれない。
そう考えている者は少なくなかった。
だが元康自身は、まだ何も決めていなかった。
今川家は滅びていない。
氏真もいる。
駿河にも遠江にも兵は残っている。
ここで軽々しく今川へ背けば、逆に松平が潰される可能性もある。
だから元康は、周囲が浮き足立つ中でも、静かに状況を見ていた。
「殿」
家臣の一人が尋ねた。
「駿府へ使者を出しますか」
元康は少し考えた。
「出す」
家臣たちの表情がわずかに曇る。
まだ今川に従うのか。
そう思った者もいた。
元康は、その反応を見てから続けた。
「義元様の弔いを申し上げる。それだけでよい」
「それだけ……でございますか」
「ああ」
元康は静かに答えた。
「今は、それ以上のことを決める必要はない」
今川へ従うとも言わない。
離れるとも言わない。
家臣が去った後、元康は一人で庭を眺めた。
急ぐ必要はない。
義元が死んだからといって、今日すべてを決める必要などない。
今川を見る。
織田を見る。
三河を見る。
そのうえで、自分が生き残れる場所を選べばいい。
元康はしばらく庭を眺めた後、静かに呟いた。
「信長という男……」
名前は以前から知っていた。
尾張をまとめつつある若者。
うつけと呼ばれながら、いつの間にか敵を次々と倒していた男。
しかし桶狭間で見せた戦いは、それまで元康が聞いていた信長の姿とは少し違っている。
今川軍が各地へ分かれたところを狙い、義元本隊だけを突いた。
豪雨を利用したことは偶然だったとしても、そこへ至るまでの今川軍の動きまで、本当に偶然だったのだろうか。
元康はそこが気になっていた。
「誰が考えた」
誰に聞かせるでもなく呟く。
信長本人なのか。
その家臣なのか。
それとも、複数の者が考えた結果なのか。
元康にはまだ分からない。
ただ一つだけ。
尾張には、自分が思っていた以上に厄介な相手がいる。
それだけは覚えておく必要があった。
◇◇◇
数日後、清洲へ三河から新しい知らせが届いた。
松平元康が岡崎城へ入った。
今川へすぐ戻る様子はない。
だが、今川からの独立を宣言したわけでもない。
その報告を読んだ景継は、少しだけ眉を寄せた。
「動かないですね」
長秀が横から言う。
「普通なら、今川が混乱しているうちに独立を宣言しそうなものだがな」
「普通なら、そうでしょうね」
景継はもう一度書状を読んだ。
義元が死んだ。
今川軍が退いた。
岡崎へ戻れた。
これだけ条件が揃えば、勢いに任せて今川から離れる者がいても不思議ではない。
しかし元康は、それをしなかった。
今川との関係を完全には切らず。
かといって駿府へ戻るわけでもない。
岡崎に留まりながら、周囲を見ている。
「慎重な男なのだろう」
長秀が言った。
「そうですね」
景継は答えた。
それだけなら珍しくない。
乱世で生き残ろうとする者なら、慎重になるのは当然だ。
それでも、なぜか引っかかった。
「どうした」
信長が聞く。
「いえ」
景継は書状を置いた。
「少し気になっただけです」
「元康がか」
「はい。でも、今すぐ何かする必要はないと思います」
景継は地図の三河から指を離した。
元康が待つなら、こちらも待てばいい。
今は東を見る時ではない。
景継の指が地図の上を西へ動き、美濃で止まった。
「それより、こちらです」
信長の口元が上がった。
「斎藤か」
「はい」
美濃。
かつて斎藤道三が支配し、現在はその息子である斎藤義龍が治める国。
尾張より広く、山と川に守られた土地であり、簡単に落とせる相手ではない。
しかも、岩倉の時のように内部を少し揺らせば終わる相手でもなかった。
「まず何をする」
信長が尋ねた。
景継は地図を見つめた。
岩倉では、敵の中に疑いを作った。
桶狭間では、敵の大軍を伸ばし、義元だけを切り離した。
では、美濃ではどうする。
同じやり方を繰り返しても意味はない。
敵も違う。
土地も違う。
状況も違う。
景継はしばらく考えた後、ゆっくり口を開いた。
「まず、美濃を攻めません」
勝家が露骨に嫌そうな顔をした。
「またそれか」
「今回は待つという意味ではありません」
景継は地図上の木曽川を指した。
「美濃を取るなら、城だけ見ても仕方ありません。どこから兵が入り、どこから物が運ばれ、誰が斎藤家を支えているのかを先に調べたいです」
信長が黙って続きを待つ。
「岩倉より大きな相手なら、岩倉より大きなところから崩します」
「どこだ」
「まだ分かりません」
景継は正直に答えた。
「だから探します。城ではなく、美濃そのものを支えている場所を」
信長は少しの間、地図を見つめた。
やがて立ち上がる。
「面白い」
景継も地図から顔を上げた。
尾張統一。
桶狭間。
ここまで来て、ようやく信長は尾張の外へ本格的に手を伸ばそうとしている。
そして景継にとっても、これから始まる美濃攻略は、それまでとは違う戦いになる。
一度の奇襲で終わる戦ではない。
一つの城を落とせば終わる戦でもない。
国そのものを奪う戦いだった。
その日の夕方、景継は清洲城の高い場所から北を眺めていた。
遠くに見える山々の向こうに、美濃がある。
そこには斎藤義龍がいる。
その配下には多くの国人や武将がいる。
そして、そのさらに先には、まだ景継自身も知らない多くの人間が待っている。
尾張の中だけを見ていた頃とは、戦う相手も、動かす人間も、これから少しずつ増えていくだろう。
景継はしばらく北の空を眺めていたが、やがて背後から聞こえてきた足音に気づいて振り返った。
弥兵衛だった。
「若様、信長様がお呼びです」
「何かありました?」
「美濃から人が来ております」
景継の表情が変わった。
「誰です?」
弥兵衛は一度周囲を確認してから、声を落とした。
「斎藤家中の者だそうです。ただし、正式な使者ではございません」
景継は北の空へもう一度目を向けた。
まだこちらから何もしていない。
それなのに、美濃の方から人が来た。
「面白くなってきましたね」
景継はそう言うと、すぐに歩き始めた。
桶狭間の戦いが終わってから、まだ数日しか経っていない。
それでも乱世は、勝者が休むことなど待ってくれなかった。
東では松平元康が岡崎へ戻り、今川と織田の間で静かに時を待ち始めている。
西では斎藤家の中から、早くも清洲へ近づこうとする者が現れた。
そしてその二つの動きが、遠い未来で景継自身の運命へつながっていくことを、この時の彼はまだ知るはずもなかった。




