第五十六話 桶狭間
遠くで鳴った雷は、最初のうちは誰もそれほど気に留めていなかった。
空は朝から重く、低い雲が尾張の上を覆っていたが、戦を目前にした清洲城では天気よりも、東から次々と届く今川軍の動きの方がはるかに重要だった。
今川義元の本隊は、景継が予想していた通りに進んでいる。
大高方面へ兵が分かれ、鳴海周辺にも今川方の部隊が動き、前方を進む先鋒と後方から続く荷駄との間には、少しずつ距離が生まれていた。
二万を超える大軍は、すでに一つの塊ではない。
地図の上ではまだ巨大な勢力として見えるが、実際にはそれぞれの役割を持った複数の部隊へ分かれ、その中央を義元の本隊が進んでいる。
そこまで確認した信長は、日の高くなる前に出陣を命じた。
清洲城に張りつめていた空気が一気に動き始め、兵が集まり、槍が運ばれ、馬が次々と引き出されていく。
昨日まで今川の間者へ見せていた「籠城する清洲」の姿は、もう必要なかった。
景継も馬へ乗り、信長の近くへ位置した。
初陣の時とは違う。
岩倉との決戦とも違う。
相手は尾張の一勢力ではなく、東海でも最大級の軍勢を率いてきた今川義元であり、もしここで負ければ清洲だけでなく、尾張そのものが飲み込まれる可能性がある。
それでも景継は、以前ほど強い恐怖を感じていなかった。
怖くないわけではない。
ただ、今川軍を「二万」という一つの数字として見なくなったことで、自分たちが何をすべきなのかは以前より明確になっていた。
「景継」
馬上から信長が呼ぶ。
「はい」
「まだ間に合うぞ」
景継が少し眉を寄せる。
「何がです?」
「怖くなったなら、清洲へ戻ってもよい」
景継は一瞬だけ信長を見た後、小さく息を吐いた。
「ここまで義元様を連れてきておいて、それはないでしょう」
「そうか」
「それに、ここから先が一番見たいです」
「何をだ」
景継は前方へ目を向けた。
「信長様が、私の作った状況をどう使うのかを」
信長はその言葉を聞くと、ほんの少しだけ笑った。
「なら、よく見ておけ」
短い言葉だったが、その声に迷いはなかった。
◇◇◇
清洲を出た織田軍は、できるだけ姿を隠すように進んだ。
今川側には、まだ「信長は清洲へ籠もっている」と思わせておく必要がある。
大軍を堂々と動かせば、その情報はすぐに義元のもとへ届いてしまう。
だから信長は兵を一つにまとめすぎず、周囲の地形を利用しながら進ませた。
景継もその間、戻ってくる物見の報告を一つずつ確認していった。
「義元様の本隊は?」
「予定よりやや西へ進んでおります!」
「先鋒との距離は?」
「さらに開いております!」
「後方は?」
「荷駄が遅れております!」
景継は小さく頷いた。
今川軍の形は悪くない。
むしろ、自分が想定していた以上に義元本隊が前へ出ている。
三河への不安。
清洲へ籠もる信長。
進みやすく見える道。
それらが義元の判断を少しずつ前へ押していた。
ただし、ここまで来たからといって、勝ったわけではない。
景継は自分にそう言い聞かせていた。
「若様」
弥兵衛が横から声をかける。
「はい」
「物見の話では、今川本隊の周りにも、まだかなりの兵がおるそうです」
「分かっています」
「それでも行かれるので?」
景継は少し考えた。
「行くかどうかを最後に決めるのは信長様です。ただ、私は今なら戦えると思っています」
それ以上は言わなかった。
戦える。
勝てるとは、まだ言っていない。
どれほど条件を整えても、戦場では一つの事故で全部が変わることがある。
兵が予定より遅れる。
伝令が届かない。
敵が予想外の動きをする。
たったそれだけで、何日もかけて組み立てた策が崩れることもある。
司馬懿として何十年も戦を経験した記憶があるからこそ、景継はその怖さをよく知っていた。
◇◇◇
昼を過ぎた頃、空の色が急に変わった。
先ほどまで遠くで鳴っていた雷が近づき、風も強くなっていく。
兵たちの間から、空を気にする声が少しずつ上がり始めた。
景継も馬上から空を見上げる。
「まずいですね」
弥兵衛が言う。
「そうですね」
「戦えませぬか」
「まだ分かりません」
景継は正直に答えた。
天候までは計算していない。
ここまで今川義元を動かしたのは、自分たちが作った状況だった。
だが、空だけは誰にも動かせない。
やがて大粒の雨が一つ、景継の頬に落ちた。
その直後だった。
空が崩れたように雨が降り始め、視界は一気に悪くなり、土は濡れ、馬の足元も滑り始めた。
兵たちの声すら雨音に消されるほどの激しさだった。
「止まれ!」
各隊から声が飛ぶ。
清洲側の兵も動きが鈍る。
景継も馬を止め、前方へ目を向けた。
ほとんど見えない。
「景継!」
信長が呼ぶ。
景継は馬を近づけた。
「どう見る」
「予定通り進むのは危険です」
景継はすぐに答えた。
この雨では、味方同士でさえ位置を見失う可能性がある。
道を外れる。
隊列が崩れる。
敵と味方を見間違える。
危険はいくらでもあった。
信長は景継を見る。
「なら戻るか」
景継は答えようとして、そのまま止まった。
何かが引っかかった。
この雨は、自分たちだけに降っているわけではない。
今川にも、同じように降っている。
景継は目を細めた。
義元本隊。
前方の部隊との距離。
後方から来る援軍。
今川側の伝令。
悪くなった視界。
雨音。
それらをもう一度頭の中で並べ直していく。
今川軍は、すでに分かれている。
今までは、その離れた部隊同士が伝令によってつながり、一つの軍として動いていた。
だが、この雨なら、そのつながりそのものまで弱くなる。
「……待ってください」
信長が景継を見る。
景継は馬を降りると、持っていた簡単な地図を広げた。
雨で紙が濡れ始め、弥兵衛が慌てて布をかざそうとするが、景継は気にせず地図を見続けた。
義元本隊。
先鋒。
後方。
大高。
鳴海。
それぞれの距離。
今まで景継は、義元本隊を孤立させようとしてきた。
そして今、自分たちが何日もかけて作った距離を、この雨がさらに大きくしている。
物理的な距離ではない。
軍としてのつながりを切る距離だった。
「信長様」
景継が顔を上げた。
「何だ」
「予定を変えます」
「どう変える」
景継は雨の向こうへ視線を向けた。
「今、行きます」
周囲にいた家臣たちが景継を見る。
勝家がすぐに声を上げた。
「さっき危険だと言っただろう!」
「危険です。でも、向こうはそれ以上に危険になっています」
勝家が眉を寄せた。
景継はすぐに説明を続けた。
「今川軍はすでに分かれています。今までは伝令でつながっていましたが、この雨ではそれも難しくなる。義元様が襲われたと分かっても、周囲の部隊がすぐに動けるとは限りません」
長秀の表情が変わる。
「視界も悪い」
「はい。こちらの兵が近づいても、今川側が気づくのが遅れる可能性があります」
「だが、味方も動けんぞ」
勝家が言う。
「だから複雑な動きはしません。義元様のところまで、まっすぐ行きます」
景継は信長を見る。
「今なら討てるか」
信長が尋ねた。
景継は一度だけ息を吸った。
ここまで、勝てる可能性を作る、戦えるという言い方しかしてこなかった。
だが、今だけは違う。
条件が揃った。
自分たちが作ったものと、誰にも予想できなかった偶然が、一つの瞬間に重なった。
「今なら、義元を討てます」
信長の表情が変わった。
迷う様子はなかった。
「行くぞ」
勝家が槍を握り直し、長秀もすぐに各隊へ命令を出す。
景継はその決断の速さに、ほんの少しだけ息を呑んだ。
自分なら、もう一つ確認したかもしれない。
もう一人、物見を出したかもしれない。
雨が少し弱くなるのを待ったかもしれない。
だが信長は、今この瞬間を逃さない。
「全軍、進め!」
信長の声が雨の中へ響いた。
◇◇◇
織田軍は豪雨の中を進んだ。
視界は悪く、足元も悪い。
それでも、だからこそ今川側からもこちらが見えにくい。
景継は兵の中央を進みながら、何度も物見の報告を確認した。
義元本隊は、まだその場にいる。
周囲の配置も大きくは変わっていない。
今川方も豪雨で進軍を止め、雨が弱まるのを待っているようだった。
「もう近いぞ!」
前方から声が届く。
信長が馬を止め、景継もそれに合わせて止まった。
雨が少しずつ弱くなり始めている。
雲の向こうが明るくなりつつあった。
景継はそれを見て、逆に焦りを覚えた。
雨が完全に止めば、今川側の視界も戻る。
「信長様」
景継が声をかける。
「ああ」
二人とも同じことを考えていた。
今しかない。
信長は刀を抜いた。
「敵は義元だ! 雑兵に構うな! 義元の本陣へ突っ込め!」
兵たちの空気が一気に変わった。
今まで何と戦うのか、はっきり分からなかった者も多い。
二万の今川軍。
それだけを聞けば、あまりにも大きい。
だが今、信長が示した敵は一人だった。
今川義元。
「義元を討てば勝ちだ!」
勝家の声が響き、織田軍が一斉に動いた。
◇◇◇
今川本陣では、まだ豪雨の後始末に追われていた。
濡れた武具。
乱れた陣。
雨を避けるために移動していた兵。
旗も普段のようには見えず、本陣の中にはまだ落ち着きが戻っていなかった。
「織田勢!」
最初に気づいた兵が叫んだ時には、すでに距離はかなり近かった。
今川の家臣が振り向く。
雨の向こうから兵が現れる。
最初は少数に見えた。
だが、その後ろから次々と兵が続いてくる。
「敵襲!」
今川本陣が一気に騒がしくなった。
「どこから来た!」
「分かりませぬ!」
「織田信長は清洲ではないのか!」
誰も答えられなかった。
騒ぎを聞いた今川義元も、すぐに立ち上がった。
「何事だ」
家臣が駆け込んでくる。
「織田勢にございます!」
義元の表情が変わる。
「数は」
「分かりませぬ!」
「どこから来た」
「西より!」
西。
清洲。
義元の頭に、一つの疑問が浮かんだ。
信長は籠城するのではなかったのか。
「周囲の部隊へ知らせろ!」
「はっ!」
伝令が走る。
だが雨で道は荒れ、旗も見えにくい。
そして各部隊は、すでに離れている。
義元がその事実に気づいた時、遠くから鬨の声が聞こえた。
思っていたよりも、はるかに近い。
「まさか……」
義元が低く呟いた。
その瞬間、今まで集めてきた情報が、別の意味を持って頭の中でつながった。
三河の不穏。
清洲の籠城。
守りの薄い道。
進軍を急いだ自分。
分かれていった各部隊。
「……誘われたか」
誰に。
信長に。
あるいは、信長のそばに別の誰かがいるのか。
考える時間は残されていなかった。
◇◇◇
織田軍が今川本陣へ突入した。
前方では勝家が兵を押し込み、今川側もすぐに立て直そうとするが、豪雨直後で陣形が整っておらず、さらに織田軍が義元一点だけを狙っていることに気づくまで時間がかかった。
景継は前へ出すぎない位置から、戦場全体を見ていた。
「右が厚いです!」
伝令が来る。
「左へ回してください。ただし広がりすぎないで!」
「はっ!」
今川側の兵がどこから増えるのか。
どこが薄くなっているのか。
義元の旗がどこへ動くのか。
景継の目が、次々と必要なものだけを拾っていく。
以前のように、司馬懿の記憶の中から似た戦を探している感覚はなかった。
考えようとするより先に、見るべきものが見える。
何を確認し、どこへ兵を送るべきなのかが、頭の中で自然につながっていく。
これが司馬懿として何十年も積み重ねてきた戦場の経験なのだと、景継自身もようやく実感し始めていた。
「義元様の旗が動きました!」
景継が顔を上げる。
「どっちへ!」
「東へ!」
逃げる。
景継の目が細くなる。
「信長様へ伝えてください。義元が東へ動いていると!」
伝令がすぐに走った。
前方では、信長自身もすでに異変へ気づいていた。
「逃がすな!」
織田兵がさらに押し込み、今川本陣が少しずつ崩れ始める。
最初は一部だけだった。
だが総大将の周囲で騒ぎが起きれば、その不安は一気に広がる。
「義元様が討たれた!」
誰かが叫んだ。
まだ討たれてはいない。
だが、その一言だけで今川兵の動きが乱れた。
「違う!」
「義元様はご無事だ!」
周囲から否定する声が飛ぶ。
しかし戦場では、正しい情報より、先に広がった情報の方が人を動かすことがある。
◇◇◇
今川義元は、一度本隊を立て直すために東へ退こうとしていた。
逃亡ではない。
戦列を組み直し、周囲の部隊と合流できれば、まだ数の上では圧倒的に有利だった。
だが、思うように進めない。
前からは織田兵が迫り、横からも兵が入り込み、周囲では混乱した自軍が互いの動きを邪魔している。
雨で荒れた地面も、退く動きをさらに遅くしていた。
義元は刀を抜いた。
「退くな!」
周囲の兵が集まる。
今川軍の総大将は、ただ逃げるだけではなかった。
自ら刀を振るい、迫ってくる織田兵を追い払う。
一人を倒し、さらに次の兵へ向き直る。
その時、一人の織田武者が義元へ迫った。
義元も迎え撃つ。
刀がぶつかる。
一度。
二度。
その間にも周囲では兵が入り乱れ、誰がどこにいるのかも分からなくなりつつあった。
次の瞬間。
別の織田兵が横から飛び込んだ。
義元が振り向く。
わずかに遅れた。
刃が義元を捉えた。
今川義元の身体が崩れる。
そして、その首が取られた。
◇◇◇
最初、何が起きたのか景継には分からなかった。
遠くで声が上がった。
一つだった声が二つ、三つと増え、やがて戦場全体へ広がっていく。
「義元討ち取ったり!」
景継の手が止まった。
聞き間違いかと思った。
「何?」
弥兵衛も同じ顔をしている。
しかし、もう一度声が届いた。
「今川義元、討ち取ったり!」
今度ははっきり聞こえた。
周囲の織田兵が一斉に声を上げる。
勝鬨が広がる。
今川側では、その逆のことが起きていた。
義元が死んだという情報が広がった瞬間、軍としての形が急速に崩れ始めた。
戦い続ける理由を失った兵が逃げ、その姿を見た別の部隊も退き始める。
まだ戦える兵はいくらでもいる。
数だけなら、なお織田軍を大きく上回っている。
それでも総大将を失ったことで、二万の軍勢は一つの軍ではなくなった。
景継はその光景を見ながら、しばらく動けなかった。
勝った。
本当に勝った。
二万を超える今川軍と正面からぶつかって勝ったわけではない。
三河を揺らした。
清洲を弱く見せた。
義元を急がせた。
軍を伸ばした。
各部隊を分けた。
そして、義元本隊を孤立させた。
そこへ最後に、誰にも計算できない豪雨が加わった。
その一つの偶然が、今まで積み重ねてきた条件を一気に勝利へ近づけた。
「若様」
弥兵衛が呼ぶ。
景継はすぐには返事をしなかった。
前方から信長が戻ってくる。
甲冑は泥にまみれ、雨と汗と返り血が混じっている。
それでも生きている。
そして、勝った。
景継はようやく大きく息を吐いた。
「信長様」
「ああ」
信長も景継を見る。
「義元は死んだ」
「聞きました」
「勝ったぞ」
景継は少しだけ笑った。
「はい」
それだけだった。
他に言葉が出なかった。
◇◇◇
今川軍は、義元の死を知った部隊から次々と退いていった。
まだ戦える兵は多く残っている。
数だけなら織田軍よりはるかに多い。
それでも総大将を失ったという一つの事実が、二万の軍勢を一つの軍ではなくしていた。
景継はその様子を見ながら、最初に考えたことが間違っていなかったのだと、ようやく実感していた。
二万を倒す必要はない。
今川義元一人を、二万の中から切り離す。
その一人を失えば、残った二万は同じ意味を持たなくなる。
ただし、一つだけ自分の策ではなかったものがある。
雨だ。
あれがなければ、同じように勝てたかどうかは分からない。
別の方法で戦っていたかもしれないし、義元へ届かなかった可能性もある。
その答えは、もう誰にも分からない。
景継は空を見上げた。
先ほどまであれほど荒れていた空が、少しずつ明るくなり始めている。
不思議なほど静かだった。
「景継」
信長が呼ぶ。
「はい」
「帰るぞ」
景継が信長を見る。
「もうですか?」
「義元は死んだ。これ以上追いすぎる必要はない」
信長は退いていく今川軍へ目を向けた。
「こちらも少数だ。勝った直後に欲を出して崩れたら、それこそ笑いものだ」
景継は少しだけ驚いた。
だが、すぐに納得した。
今川軍はすでに崩れている。
追えばさらに討つことはできる。
しかし織田軍も疲れており、数も少ない。
ここで欲を出す必要はない。
「分かりました」
景継は頷いた。
信長は馬を返す。
景継もその後を追った。
桶狭間。
後に奇跡と呼ばれる戦い。
圧倒的な兵力差を、織田信長が覆した戦い。
だが景継は知っていた。
少なくとも、自分にとってこの勝利は突然起きた奇跡ではない。
三河を揺らし、情報を流し、義元を動かし、今川軍を分け、何日もかけて勝てる可能性を一つずつ積み重ねてきた。
そして最後に、誰にも読めなかった雨が、その可能性を勝利へ変えた。
景継は前を進む信長の背中を見ながら、静かに思った。
司馬懿の記憶があったから、ここまで戦場を作ることができた。
だが最後に、その細い勝ち筋へ迷わず飛び込んだのは自分ではない。
織田信長だった。
慎重に勝てる条件を積み重ねる自分と、その条件が整った瞬間に迷わず踏み込める信長。
二人の考え方は、やはり違う。
そして、その違いがあるからこそ。
景継は、この男がこの先どこまで進むのかを、もっと近くで見てみたいと思い始めていた。




