第289話 帰還、そして使者
天正十五年。
九州からの長い行軍を終え、林道軍がようやく領内へ戻ってきた。
街道の先に見慣れた山並みが現れ、やがて城下の家々が見え始めると、兵たちの間に安堵の声が広がった。道沿いには帰還を聞きつけた領民が集まり、隊列の中から家族の姿を探している。
夫を見つけて駆け寄る女がいた。幼い子を抱き上げ、久しぶりの再会を喜ぶ兵もいた。
その一方で、最後尾の兵が通り過ぎてもなお、街道を見つめ続ける者もいる。
景継は馬上から、その光景を静かに眺めていた。
北条を救うことはできなかった。氏政と氏直が命を落とした今、どれほど悔やんでも小田原の結末は変わらない。
だが、こうして帰還を待っていた人々の姿を目にすると、守らなければならないものが、まだ数多く残されていることを改めて思い知らされた。
「殿。ようやく戻ってまいりましたな」
隣へ馬を進めた清正が、城下を見渡しながら声をかけた。
「ええ。こうして故郷へ戻れたことは、何よりです」
景継はそう答えたものの、視線は街道の端に立つ一人の老女へ向けられていた。
老女は兵の列を見送った後も、その場を離れようとしなかった。
清正もそれに気づき、口を閉ざす。
帰還した者がいる一方で、帰らぬ者もいる。それは九州での戦に限ったことではなかった。北条の滅亡によって家族を失い、故郷を追われた者たちも、今は林道領に身を寄せている。
景継は手綱を握り直した。
城へ到着すると、留守を預かっていた者たちが一斉に出迎えた。
景継は帰還の挨拶を受けた後、清正と高虎に兵の休息を命じ、三成には兵糧と物資の状況を改めて確かめさせた。
「長い道中で、兵も馬も疲れています。まずは十分に休ませてください。ただし、各城の守備はこれまでどおり維持しましょう」
「はっ。承知いたしました」
「北条の旧臣や避難民の受け入れについても、後ほど報告をお願いします」
諸将がそれぞれの役目へ向かうのを見届けると、景継は城の奥へ足を向けた。
廊下を進むにつれ、外の慌ただしい声が遠ざかっていく。
その先には、長く顔を合わせていない妻と子供たちが待っていた。
◇ ◇ ◇
奥の間へ向かう廊下で、楓が景継を出迎えた。
姿を認めた楓は、いつもと変わらぬ所作で膝を折り、丁寧に頭を下げた。
「お帰りなさいませ」
「ただいま戻りました。留守の間、苦労をかけましたね」
「いいえ。殿こそ、長い道中、お疲れでございましょう」
楓は顔を上げ、景継を見つめた。
その表情には穏やかな笑みが浮かんでいたが、目元には疲れが残っている。景継はそれに気づきながらも、すぐには触れなかった。
「お怪我などはございませんでしたか」
「ええ。私は大丈夫です。あなたも、変わりなく過ごせましたか」
「はい。皆様のお力添えもあり、何とか務めを果たしております」
部屋へ入ると、楓は留守中の出来事を報告し始めた。
北条の旧臣や避難民が林道領へ逃れてきたこと。負傷者には手当てを施し、寝床のない者には当面の住まいを用意したこと。食糧については領内の備蓄を使いながら、必要な量を確かめていること。
楓は一つずつ、できるだけ詳しく説明した。
景継は途中で遮らず、静かに耳を傾けていた。
「旧臣の方々の中には、林道家への仕官を望まれる方もおられます。ただ、正式なお返事については、殿がお戻りになってからとお伝えしております」
「ええ。それでよいと思います」
「ですが、ご家族とはぐれたままの方もおられます。皆様が落ち着いて暮らせるようになるには、まだ時間がかかりそうです」
楓はそこで言葉を切った。
「私にできることにも、限りがございますので……」
「楓。よく皆を迎え入れてくれました」
景継がそう言うと、楓は静かに頭を下げた。
「父上や兄上にお仕えした方々です。行くあてを失ったままには、できませんでした」
「あなたが動いてくれたおかげで、救われた人もいるでしょう」
「……そうであれば、よいのですが」
楓は膝の上で両手を重ねた。
報告は整っていた。何をどこまで手配したのか、どのような問題が残っているのかも、景継にはよく分かった。
それだけに、楓が自分のことをほとんど口にしないのが気にかかった。
やがて必要な話を終え、控えていた者たちが部屋を出た。
二人きりになると、それまで続いていた会話が途切れた。
庭先では、風に揺れる枝葉がかすかな音を立てている。
景継は楓へ向き直った。
「楓」
「はい」
「氏政殿と氏直殿を救うことができませんでした」
楓の指先が、膝の上でわずかに動いた。
「申し訳ありません」
景継は深く頭を下げた。
九州から引き返したことも、救援を急いだことも、今ここで語るつもりはなかった。何を説明したところで、楓の父と兄が帰ってくるわけではない。
しばらくして、楓が静かに口を開いた。
「……どうか、お顔をお上げください」
景継が顔を上げると、楓は目を伏せたまま続けた。
「殿が救おうとしてくださったことは、存じております」
「ですが、間に合いませんでした」
「はい」
楓の返事は短かった。
景継は、その先を急がせなかった。
楓は重ねた手を見つめながら、何かを言おうとしては口を閉じた。やがて、庭へ目を向けたまま、ぽつりと話し始めた。
「父上も兄上も、いつもお忙しい方でした」
景継は黙って聞いていた。
「私が幼い頃は、もっと気軽にお話しできたように思います。ですが、年を重ねるにつれ、そうした機会も少なくなって……」
楓の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。
「それでも、またお会いできると思っておりました。次にお会いした時には、万代丸や明のことも、ゆっくりお話ししたかったのです」
そこで言葉が途切れた。
楓は俯き、衣の端を握った。
「……もう一度、お顔を拝見したかったのです」
その声は、最後のところでわずかに震えていた。
景継は返す言葉を失った。
父と兄を失った楓の悲しみを、自分がすべて理解できるとは思わなかった。どれほど言葉を尽くしても、彼女が望んだ再会をかなえてやることはできない。
楓は目元を押さえ、しばらくそのまま動かなかった。
景継も、何も言わずに待った。
「申し訳ございません」
やがて楓が小さく呟いた。
「殿がお戻りになったというのに、このようなことを……」
「謝らないでください」
景継は穏やかに答えた。
「今は、無理に気丈に振る舞わなくてもよいのです」
楓は顔を上げかけ、再び目を伏せた。
「皆様の前では、しっかりしていなければと思っておりました。父上と兄上を失ったのは、私だけではございませんから」
「ええ」
「ですが、夜になって一人でおりますと、ふと思い出してしまうのです。父上のお声も、兄上のお顔も……」
楓はそれ以上言葉を続けられなかった。
景継は少し身を寄せ、楓の手にそっと自分の手を重ねた。
楓は一瞬驚いたように顔を上げたが、その手を引くことはなかった。
庭から吹き込んだ風が、障子をかすかに鳴らした。
しばらく二人は、何も言わずに座っていた。
やがて楓が、ゆっくりと息を吐いた。
「殿」
「はい」
「逃れてこられた方々のこと、よろしくお願いいたします」
「もちろんです」
景継は頷いた。
「失われたものを取り戻すことはできません。ですが、ここへ逃れてきた人々の暮らしは、守っていきたいと思っています」
楓は景継の手を見つめ、静かに頷いた。
「ありがとうございます」
その声には、まだ悲しみが残っていた。
景継も、それを消そうとはしなかった。
ほどなくして、廊下の向こうから幼い声が聞こえてきた。
「父上!」
万代丸が景継の姿を見つけ、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「万代丸。元気にしていましたか」
景継が抱き上げると、万代丸はその首に腕を回した。
「父上、もうお出かけにはなられませぬか」
「しばらくは、ここにおりますよ」
「本当ですか」
「ええ」
万代丸は満足そうに笑った。
続いて明も連れてこられた。まだ幼い娘は、久しぶりに見る父の顔を不思議そうに眺めている。
景継が指を差し出すと、明はその一本を小さな手で握った。
「大きくなりましたね」
「殿がお留守の間にも、少しずつ」
楓はそう答え、娘へ目を向けた。
万代丸が旅の話をせがむ声に、景継は困ったように笑った。楓もその様子を見つめ、久しぶりに自然な笑みを浮かべた。
だが、子供たちが部屋を出ていった後、楓はしばらく明のいた場所を見つめていた。
景継は、その横顔に何も言わなかった。
「楓。あなたも、少し休んでください。留守の間、随分と無理をしたのでしょう」
「殿こそ、まずはお身体を休めてくださいませ」
「では、お互いに休むことにしましょう」
楓は小さく笑い、頭を下げた。
以前と変わらない夫婦の会話だった。それでも、二人の間には、言葉にしきれないものが残っていた。
◇ ◇ ◇
翌日、景継は楓が保護した北条の旧臣たちとの面会を設けた。
集まったのは、避難してきた者たちの代表である。衣服には長旅の跡が残り、傷の癒えきっていない者もいた。
景継が席につくと、彼らは一斉に頭を下げた。
「このたびは、我らをお救いいただき、まことにありがたく存じます」
「顔を上げてください」
景継は一同を見渡した。
「ここまで来るのも、大変だったでしょう。まずは身体を休め、落ち着いて暮らせるようにしてください」
旧臣たちは互いに顔を見合わせた。
一人が、ためらいながら口を開く。
「我らの中には、林道家にお仕えしたいと望む者もおります。ですが、いまだ北条への思いを断ち切れぬ者もおりまして……」
「当然でしょう」
景継は答えた。
「長く仕えてきた家を失ったのです。すぐに気持ちを切り替えられるものではありません」
男は意外そうに顔を上げた。
「皆が北条家に尽くしてきたことは、承知しています。その忠義を、今すぐ私に向けてほしいとは申しません」
景継は一人ずつ顔を確かめながら続けた。
「まずは傷を癒やし、これからどう生きるかを考えてください。仕官を望む方については、改めて話を聞きましょう」
その言葉に、何人かの肩から力が抜けた。
だが、全員が安堵したわけではなかった。
年若い旧臣の一人が、膝の上で拳を握り締めた。
「殿。我らには、もはや帰る城もございませぬ」
その声には、抑えきれない悔しさが滲んでいた。
「氏政様も氏直様も亡くなられ、北条の地は徳川のものとなりました。我らは、このまま何もできずにいるほかないのでしょうか」
周囲の者たちが男へ目を向けた。
男は景継を見据えた。
「殿は……徳川と戦われるおつもりなのでしょうか」
景継はすぐには答えなかった。
男が何を望んでいるのかは分かる。主君を失い、故郷を追われた者にとって、徳川への憤りは容易に消えるものではないだろう。
しかし、その感情に応じて戦を約束することはできなかった。
「今は、戦を始めるつもりはありません。ですが、皆の命と暮らしを守るために、必要な備えは続けます」
男の表情が曇った。
「では、北条の仇を討つことは……」
「そのお気持ちを否定するつもりはありません」
景継は穏やかに言った。
「ですが、戦になれば、再び多くの命が失われます。ここにいる皆や、ご家族の暮らしにも関わることです。私には、その判断を軽々しく下すことはできません」
男は唇を結んだ。
しばらくして、深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
その声から、納得しきれない思いが消えたわけではなかった。
景継も、それ以上の言葉を求めなかった。
面会を終えた後、三成が景継のもとへ近づいてきた。
「殿。仕官を望む者と、しばらく静養を望む者とで、対応を分ける必要がありそうですな」
「ええ。急がせないようにしてください。ただし、暮らしに困る者が出ないよう、必要なものは確かめておきましょう」
「承知いたしました。楓様が進めておられた手配も含め、改めて確認いたします」
景継は頷いた。
旧臣たちの中には、林道家に仕える者もいるだろう。別の道を選ぶ者もいるかもしれない。
いずれにしても、主君を失ったばかりの彼らに、今日この場で新たな忠義を誓わせるつもりはなかった。
◇ ◇ ◇
帰還から数日が過ぎた頃、景継は徳川家康へ送る使者を呼んだ。
東国の情勢について諸将と話し合った折、徳川との対話を始める方針はすでに決めていた。帰還後の諸事を整えた今、その方針を実行に移す時が来た。
三成と吉継が同席し、使者に託す内容を確認していた。
「殿。北条の旧臣を受け入れていることまで、こちらから伝えるのでございますか」
三成が尋ねた。
「ええ」
「徳川にとっては、警戒すべき材料となりましょう」
「そうですね。ですが、隠していたことを後から知られれば、かえって疑いを招くでしょう」
景継は使者へ目を向けた。
「逃れてきた者を保護することと、徳川殿に兵を向けることは同じではありません。そのことを、はっきり伝えてください」
吉継が頷いた。
「ただし、こちらの守備や旧臣の詳しい人数まで知らせる必要はございませぬな」
「ええ。こちらの意向を伝え、徳川殿が何を望まれているのか、確かめてきてください。聞かれても、託していないことまで約束する必要はありません」
使者は深く頭を下げた。
景継はさらに言葉を添えた。
「氏政殿と氏直殿の死を、軽く考えているわけではありません。ですが、そのことを理由に、今すぐ戦を始めるつもりもありません。両家がこれからどう向き合うべきか、話し合う道を探したいのです」
「しかと承りました」
使者は景継の言葉を胸に、小田原へ向けて出立した。
◇ ◇ ◇
幾日かの道のりを経て、林道家の使者は小田原城へ到着した。
その頃、家康は旧北条領の統治に追われていた。
落城から日が経っても、戦後の処理は容易ではない。降伏した兵の扱い、城の修復、食糧の確保、領民の生活再建。いずれも後回しにはできない問題だった。
家康は報告を聞きながら、書付に目を通していた。
「城の修復は急がせすぎぬようにしてください。領民の暮らしが立ち行かなくなっては、城を直したところで意味がありませぬ」
「はっ」
家臣が下がると、別の者が林道家からの使者の到着を告げた。
家康は書付を置いた。
「お通ししてください」
ほどなくして使者が案内され、景継からの申し入れを伝えた。
林道家は北条の旧臣や避難民を保護していること。しかし、それは徳川への敵対を意味するものではなく、両家の間に無用な争いを起こすつもりもないこと。
家康は使者の言葉を最後まで聞いた。
「景継殿の奥方は、氏政殿の娘御でございましたな」
「はい」
「であれば、北条の方々をお迎えになるのも、もっともなことにございましょう」
家康はそう答えたものの、表情を緩めることはなかった。
北条に仕えていた者たちが林道家のもとへ集まれば、いずれ徳川の統治に不満を抱く者たちの拠り所となる可能性がある。今すぐ兵を向けてくるとは限らないが、その動向を見過ごすわけにもいかなかった。
「景継殿は、北条の旧臣たちを今後どのようになさるおつもりですか」
「仕官を望む者については、殿がそれぞれの事情を確かめたうえで判断するとのことでございます」
「なるほど」
家康は使者の返答を聞き、しばらく口を閉ざした。
使者は頭を下げた姿勢のまま、次の言葉を待った。
「では、その方々の中から、徳川に兵を向けようとする者が現れた場合はいかがなさいますか」
問いかけは穏やかだった。
だが、使者には、その一言が単なる確認ではないと分かった。ここで不用意な約束をすれば、後に林道家の判断を縛ることにもなりかねない。
使者は一度息を整え、姿勢を正した。
「我が殿は、徳川との無用な争いを望んではおられませぬ。ただ、個々の者が将来どのような行動を取るかについて、私の一存でお約束することはできませぬ」
家康はすぐには答えなかった。
使者の顔を見つめた後、手元の書付へ目を落とす。
「景継殿から、そこまでのお答えは預かっておられぬということですな」
「はい。申し訳ございませぬ」
「謝ることはありませぬ。承知いたしました」
家康は穏やかに答えたが、それ以上、この問いを重ねることはなかった。
使者が権限を越えた約束をしないことも、景継がすべての情報を明かそうとしていないことも、家康には理解できた。
それは徳川とて同じだった。
旧北条領の統治を安定させるまでは、周辺の諸家との衝突を避けたい。将来的には常陸の佐竹へ勢力を伸ばす考えもあったが、そのためにも林道家との関係を慎重に扱う必要がある。
もっとも、その構想を使者に伝えるつもりはない。
「景継殿のお考えは、承りました」
家康は静かに口を開いた。
「私も、林道家との間に無用な争いを起こしたいとは思っておりませぬ。ただ、北条の旧臣のことも含め、今後について確かめておきたいことがございます」
家康は一度言葉を切った。
「よろしければ、いずれ景継殿と直接お話しする機会を設けたいとお伝えください」
使者は深く頭を下げた。
「確かに、お伝えいたします」
家康は返答を整えさせ、使者を送り出した。
その背を見送りながら、家康は先ほどの問答を思い返していた。
北条の旧臣を保護しながら、徳川との戦は望まない。景継の申し入れに偽りがあると決めつける理由はないが、今後もその方針が保たれるかは別の問題だった。
景継がどこまでを自らの責任として引き受け、何を譲れぬものと考えているのか。
使者の言葉だけでは、まだ見えてこなかった。
◇ ◇ ◇
使者を送り出してから十日余りが過ぎた頃、景継のもとへ徳川からの返答が届いた。
景継は書状を読み終えると、三成と吉継を呼んだ。
家康は林道家との争いを望まないと伝える一方、北条旧臣の今後については引き続き関心を示していた。そして、両家の関係について直接話し合う機会を設けたいという。
「やはり、北条の遺臣については警戒しているようですな」
三成が言った。
「当然でしょう。旧北条領を治める徳川にとって、見過ごせることではありません」
景継は返書を置いた。
吉継が口を開く。
「直接会談を望むということは、少なくとも今すぐ我らを敵とする考えではないのでしょう。ただし、会談したからといって、こちらの望みが通るとは限りませぬ」
「ええ。私もそう思います」
「殿。会談を受けるのであれば、場所や供回りについては慎重に調整する必要がございます」
三成の言葉に、景継は頷いた。
「その点は、先方と相談しましょう。こちらから不用意に踏み込む必要はありません」
「では、会談に応じられるのでございますか」
「ええ」
景継は静かに答えた。
「徳川殿が何を望まれているのか、私自身が話を聞いてみたいのです」
吉継はその言葉を聞き、頭を下げた。
景継は使者を呼び、家康へ返書を届けるよう命じた。
会談に応じる意向は示す。ただし、場所や日取り、警護については、今後のやり取りで慎重に定める。
その方針を確かめると、使者は再び小田原へ向けて出立した。
◇ ◇ ◇
さらに幾日かが過ぎ、小田原城に景継からの返書が届いた。
家康は封を開き、記された内容を確かめた。
景継は直接会談に応じるという。ただし、場所や日取りについては、互いの安全を考慮したうえで調整したいとのことだった。
「景継殿が、会談を受けてくださるそうです」
家康が告げると、控えていた家臣が頭を下げた。
「では、準備を進めますか」
「ええ。場所や供回りについては、先方の意向も確かめながら進めてください」
「承知いたしました」
家臣が退出すると、家康は返書を机に置いた。
会談に応じるという返事は得られた。だが、それだけで互いの警戒が解けたわけではない。
景継は北条の旧臣を守ろうとしている。家康は新たに得た旧北条領を治めなければならない。どちらも、譲れぬものを抱えていた。
家康が知りたいのは、景継が徳川との争いを望むかどうかだけではなかった。
北条の旧臣たちが、いつか旧領を取り戻したいと願った時、景継はどのような判断を下すのか。
そして、その判断によって林道家と徳川家の関係が揺らぐことになったとしても、景継はなお対話を選ぶのか。
使者を通じた言葉では、そこまでは確かめられない。
家康は返書を手に取った。
「……景継殿」
小さくその名を口にすると、返書を静かに畳んだ。




