第290話 再会
天正十五年。
林道景継と徳川家康の会談が決まってから、双方の使者は幾度か街道を往復した。
話し合うべきことは、北条の旧臣たちの扱いだけではない。会談をどこで開き、どれほどの供を伴うのか。互いに兵を率いる立場である以上、些細に見える取り決めも、相手への警戒を示すものになり得た。
最終的に、会談は双方の使者が下見を済ませた街道沿いの宿所で行うこととなった。護衛の人数をあらかじめ定め、供の者たちが控える場所も取り決める。互いの安全を確保しながら、必要以上の威圧を与えないための配慮だった。
出立を前に、景継は三成と吉継から最後の報告を受けていた。
「殿。宿所の周囲については、先方と確認を済ませております。双方の供回りが不用意に接近することのないよう、手配も整いました」
三成の言葉に、景継は頷いた。
「ご苦労さまです。こちらの者にも、決められた場所を離れぬよう伝えてください」
「はっ」
吉継は手元の書付を畳み、景継へ目を向けた。
「徳川殿は、北条の遺臣について相当に気にかけておられるご様子。会談でも、まずその件を確かめてこられましょう」
「ええ。旧北条領を治める以上、当然の懸念でしょうね」
景継は静かに答えた。
「ですが、楓が迎え入れた人々を、徳川殿への手土産のように扱うことはできません」
「無論にございます」
「争いを避けるために話し合うのです。こちらから争いの種を増やす必要はありませんが、守るべきものまで差し出すつもりもありません」
三成と吉継は揃って頭を下げ、景継はその日のうちに出立した。
道中、景継は家康から届いた返書を思い返していた。
言葉遣いは穏やかで、林道家との争いを望まぬという意思も明確だった。しかし、北条旧臣の今後については、使者を通じた返答だけで納得するつもりがないらしい。
家康とは、これまでにも幾度となく顔を合わせてきた。慎重に言葉を選び、相手の話を最後まで聞いたうえで自らの考えを示す。その穏やかな態度の裏に、容易には譲らぬものを持っていることも、景継は承知していた。
それでも、今回の会談はこれまでとは事情が異なる。
景継にとって北条の旧臣たちは、妻の父と兄に仕え、戦乱によって故郷を追われた人々である。一方、家康にとっては、新たに治める土地へ再び戦を呼び込むかもしれない存在だった。
双方が守ろうとするものを確かめるには、使者の言葉だけでは足りなかった。
◇ ◇ ◇
会談の日、宿所の庭には朝から人の出入りがあった。
門の外には双方の護衛が距離を置いて控え、座敷へ通じる廊下にも必要な人数だけが配置されている。互いの取り決めが守られていることは、一目で確かめられた。
景継が案内された座敷には、すでに家康が姿を見せていた。
家康は景継を認めると、穏やかな笑みを浮かべた。
「景継殿。お久しゅうございますな」
「ご無沙汰しております、家康殿。このたびは、会談の機会を設けていただき、ありがとうございます」
「こちらこそ。九州からお戻りになって間もないというのに、足を運んでいただき、かたじけなく存じます」
互いに礼を交わし、席についた。
幾度も顔を合わせてきた相手だけに、挨拶そのものにぎこちなさはなかった。しかし、以前と同じように言葉を交わせることと、互いの思惑を理解していることは別だった。
北条は滅び、氏政と氏直は命を落とした。その旧領を治める家康と、北条の旧臣たちを保護する景継。二人を取り巻く情勢は、大きく変わっていた。
景継は家康の表情を確かめた。
相変わらず穏やかな面持ちである。小田原を手に入れた勝者として、必要以上に強く出ることもない。
だが、家康が相手を威圧せずとも、自らの望むところへ話を運べる人物であることは、以前から知っている。その慎み深さだけを見て、警戒を解くつもりはなかった。
やがて二人は、九州からの帰還や旧北条領の様子について言葉を交わし始めた。
家康は小田原の戦後処理がなお続いていることを語り、景継は長い行軍を終えた兵たちに休息を与えていると答えた。互いの苦労をねぎらう会話だったが、どちらも自家の兵力や守備の詳しい内情には触れなかった。
やがて家康が、湯呑みを静かに置いた。
「さて、景継殿。北条の方々のことについて、少しお尋ねしてもよろしいでしょうか」
「もちろんです。そのために参ったようなものですから」
家康は頷いた。
「先の使者から、林道家では旧臣や避難民を受け入れておられると伺いました。景継殿の奥方が氏政殿の娘御であることを思えば、もっともなことでしょう」
「楓にとっては、幼い頃から見知った方々もおります。行き場を失ったままにしておくことはできませんでした」
「そのお気持ちは分かります。しかし、私にも守らねばならぬものがございます。小田原の戦が終わったからといって、領内のすべてが落ち着いたわけではありませぬ」
景継は黙って先を促した。
「北条に忠義を尽くした者の中には、徳川を恨む者もおりましょう。もし、その方々が旧領を取り戻すために兵を挙げたいと願い出たならば、景継殿はいかがなさるおつもりですかな」
家康の問いは穏やかだったが、その答え次第では、林道家が旧北条領への介入を考えているかどうかを測る材料となる。
景継は少し考え、口を開いた。
「氏政殿と氏直殿を失った方々の悲しみや怒りは、私にも理解できるつもりです。ですが、その思いだけを理由に兵を動かすことはできません」
「では、仇討ちを望む者が現れても、お認めにならぬと?」
「少なくとも、今そのために戦を始めるつもりはありません。ようやく逃れてきた人々を、再び戦場へ送り出すことにもなりますから」
家康はしばらく景継を見つめた後、別の問いを重ねた。
「なるほど。では、その方々を徳川へ引き渡していただくことはできますかな」
景継は家康を見た。
「それはできません」
先ほどまでと変わらぬ口調だったが、返答に迷いはなかった。
家康の眉が、わずかに動いた。
「理由を伺っても?」
「私を頼って逃れてきた人々です。保護を約束しておきながら、先方の求めがあったからといって差し出すことはできません。ただし、彼らが林道領にいることを理由に、徳川殿へ害をなすことも認めません」
「景継殿が、すべての者の振る舞いを抑えられると?」
「すべてを見通せるとは申しません。だからこそ、彼らの暮らしを整え、何を望んでいるのか確かめていく必要があります」
景継は続けた。
「家を失った者に、明日から新しい主君のために生きよと命じても、心まで従うとは限りません。まずは落ち着いて暮らせる場所を与え、そのうえで進む道を選んでもらいたいのです」
家康は景継の言葉を聞きながら、指先で湯呑みの縁に触れた。
「しかし、北条への忠義を捨てぬ者が、いつか再び兵を求めることもありましょう」
「その時は、その時の事情を見て判断します。今ここで、将来起こるかもしれないすべてのことを約束するわけにはいきません」
景継は一度言葉を切り、家康を見据えた。
「ただ、一つだけ申し上げておきます。徳川殿が旧臣の方々を追って林道領にまで兵を進められるのであれば、私も黙っているわけにはまいりません」
座敷に、短い沈黙が落ちた。
家康は景継を見つめていたが、やがてゆっくりと頷いた。
「それは、もっともなお話ですな。私とて、北条の旧臣を保護しておられるというだけで、林道家を敵とするつもりはありませぬ」
家康は湯呑みから手を離した。
「新たに得た土地を治めるにも、まだ多くの時が必要です。ここで無用な争いを起こせば、苦しむのは領民たちでしょう」
「私も同じ考えです」
「ただし、今後の情勢がどう動くかまでは、互いに約束できませぬな」
「ええ。ですから、疑いが生じた時こそ、まず話し合える関係でありたいと思っています」
家康は小さく笑った。
「景継殿は、相変わらず辛抱強い方でございますな」
「急いで答えを出せば、取り返しのつかぬこともありますから」
「そのとおりです」
家康は頷き、その後も旧臣たちの扱いについていくつかの確認を重ねた。
正式な盟約を交わしたわけではないが、当面は無用な衝突を避けるという点で、二人の考えは一致していた。
会談が一段落すると、家康は控えていた者たちへ目を向けた。
「少し、景継殿と二人で話をさせていただきたい」
供の者たちは互いの主君の意向を確かめ、静かに座敷を離れた。護衛は廊下の先に控え、声が届かぬ距離を保っている。
景継は、家康が何を話そうとしているのか測りかねていた。北条の件なら、すでに必要なことは話し合ったはずだった。
家康は庭へ目を向けたまま、何気ない調子で口を開いた。
「景継殿は、唐土の兵法にもお詳しいと伺っております」
「多少は書物に親しんでおりますが、詳しいと言えるほどではありません」
「ご謙遜を。これまでの戦でのご判断を聞けば、兵法をよく心得ておられることは分かります」
景継は答えず、家康の次の言葉を待った。
「ところで、唐土には面白い逸話がございますな。死した敵将をなお恐れ、追撃を断念した将がおったという話です」
景継は家康の顔を見た。
魏と蜀が争った時代、諸葛亮の死後に蜀軍を追った司馬懿が、その備えを警戒して退いたという逸話である。後の世では「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と語られることになった。
景継にとって、それは書物の中だけの出来事ではなかった。
「ご存じでしょうか」
家康が尋ねた。
「ええ。聞いたことはあります」
「世間では、その将を臆病と笑う者もおったそうです。景継殿は、いかがお考えになりますかな」
景継は湯呑みに目を落とした。
なぜ、この男は今、その話を持ち出したのか。ただの兵法談義であれば、ほかにも逸話はいくらでもある。まして、先ほどまでの外交交渉とは何の関わりもないように思えた。
だが、家康の表情からは、それ以上の意図を読み取れなかった。
「敵将が死したという知らせだけで、すべての備えが失われるわけではありません」
景継は静かに答えた。
「退く敵が、なお秩序を保っているのであれば、追う側は策を疑うべきでしょう。兵を失う危険を冒してまで追撃することが、必ずしも正しいとは限りません」
家康は頷いた。
「では、その将の判断は誤りではなかったと?」
「結果だけを見て、臆病だったと決めつけることはできません。敵の力を侮らぬことも、将には必要だと思います」
「なるほど」
家康はそれきり黙った。
景継は、その沈黙が妙に長く感じられた。先ほどの外交交渉では、家康は答えを聞くたびに次の懸念を差し出してきた。しかし今は、何かを確かめるように、こちらの言葉を待っている。
やがて家康が口を開いた。
「では、もう一つお尋ねしましょう」
「何でしょうか」
「その将が、かつての宿敵と再び巡り会うことがあれば、どうなさると思われますかな」
景継は家康を見た。
死した敵将と再び巡り会う。その問いは先ほどの逸話から自然につながっているようでいて、どこか奇妙だった。
「……それは、互いの立場によるでしょう」
「敵であった者同士でも、再び刃を交えるとは限らぬと?」
「ええ。過去に敵であったというだけで、今も敵である必要はありません」
家康は静かに頷いた。
「かつて幾度も戦場で向かい合った相手であっても、ですかな」
「その頃と同じものを守り、同じものを求めているとは限りませんから」
景継はそう答えながら、家康の言葉を思い返していた。
初めは兵法の逸話だった。それが死した敵との再会へ移り、今は、かつて敵対した者同士が再び向かい合った場合の話になっている。
話題の移り方が、あまりにも慎重だった。
景継は家康が自分の反応を見ていることに気づいていたが、その理由までは分からない。
家康は居住まいを正した。
「なるほど。では、今の我らはいかがでしょうな」
「……今の我ら、ですか」
「ええ」
家康は、景継の目をまっすぐに見据えた。
「……司馬仲達殿」
その名が耳に届いた瞬間、景継は返す言葉を失った。
司馬仲達。
この時代に生まれ、林道景継として生きてきた自分を、その名で呼ぶ者などいるはずがなかった。かつて魏に仕え、蜀の軍師と対峙していた頃の名である。
景継は家康を見つめ、わずかな間を置いて口を開いた。
「……随分と古い名を持ち出されましたね」
家康は答えを急がなかった。
「お嫌でしたかな」
「いいえ。ただ、なぜ私にその名をお向けになるのか、不思議に思っただけです」
「兵法に通じた方であれば、あの将の名をご存じでしょうから」
「それならば、唐土の話として伺いましょう」
景継は穏やかな口調を崩さなかった。
「ですが、先ほどから家康殿は、その将が何を考えていたのか、随分と気にかけておられるようです」
家康の目が、わずかに細くなった。
「そう見えましたか」
「ええ。ですから、私からも一つお尋ねしてよろしいでしょうか」
「どうぞ」
景継は言葉を選びながら続けた。
「死した軍師がなお敵を退けたという話ですが……その軍師自身は、敵将が退くことを望んでいたのでしょうか」
今度は家康が黙った。
景継は、その表情を見つめていた。書物に記された逸話を語るだけなら、答えはいくらでもある。だが、家康が何を知り、何を確かめようとしているのか。それを見極めるには、問いを返すほかなかった。
庭の向こうで、風が木々の枝を揺らした。
やがて家康は静かに口を開いた。
「……敵を退けることだけが、望みではなかったのでしょうな」
景継は耳を傾けた。
「戦が長引けば、兵は疲れ、糧も尽きます。敵を討つことに心を奪われれば、守るべき者まで失うことになりかねませぬ」
家康はそこで言葉を切り、景継を見た。
「その軍師が何より案じていたのは、己が倒れた後も、残された者たちが無事に帰れるかどうかではなかったでしょうか」
景継は、すぐには答えられなかった。
家康の言葉は、兵法の書物を読んだ者にも語れる内容だった。しかし、その言い方には、勝敗を論じる者とは異なる重みがあった。
死した軍師の策が優れていたかどうかではなく、その者が最後まで何を守ろうとしていたのか。家康は、そこに目を向けていた。
景継の脳裏に、遠い日の戦場が浮かんだ。
五丈原。
魏と蜀の軍が対峙し、幾度となく互いの動きを探り合った日々。敵陣の向こうにいた男は才知に優れ、容易に隙を見せなかった。自らの病を押してなお軍を率い、蜀の行く末を案じ続けていた。
景継は家康の顔を見つめ直した。
まさか。
先ほどまでの奇妙な問いが、一つにつながり始めていた。
家康は景継の沈黙を急かさず、穏やかな表情のまま口を開いた。
「お久しゅうございますな、仲達殿」
景継の指先が、膝の上でわずかに動いた。
家康は続けた。
「かつては、諸葛孔明と呼ばれておりました」
景継は、すぐには言葉を返せなかった。
家康の顔を見つめたまま、先ほどの問いかけを思い返す。兵を退く判断、死した軍師の思い、かつての宿敵との再会。
そのすべてが、今になって別の意味を帯びていた。
諸葛孔明。
五丈原で向かい合った、あの男である。
景継は膝の上に置いていた手を、ゆっくりと握り直した。
「……家康殿」
ようやく呼びかけると、家康は静かに頷いた。
「私自身、この世に再び生を受けたことを、長く不思議に思っておりました」
家康は声を落とした。
「ならば、ほかにも同じような者がいるのではないか。そう考えるようになったのです」
景継は黙って聞いていた。
「景継殿のお働きは、以前から耳にしておりました。勝てる戦であっても急がず、相手の動きを見極め、時を待つ。目先の利だけで兵を動かさぬところも、どこか覚えがありましてな」
家康はかすかに笑った。
「それに、以前お会いした折も、景継殿は相手の言葉をよく聞き、すぐには答えを出されなかった。慎重であることを恥じず、必要とあれば長く待つ。その姿に、かつての仲達殿を思い出したのです」
景継は家康を見つめた。
「それだけで、私だとお考えになったのですか」
「いいえ。似た考えを持つ者は、ほかにもおりましょう。ただ、北条の件でのご判断を聞き、ますます気になりましてな」
家康はそこで小さく息をついた。
「今日の会談でも、初めから確信していたわけではありませぬ。先ほどの問いに対するお答えを聞いて、ようやく思い切って名を呼んだのです」
「……随分と遠回りな確かめ方をなさったのですね」
「仲達殿を相手に、軽々しく名を呼ぶわけにもまいりますまい」
その言葉に、景継は思わず家康の顔を見た。
家康の口元には、わずかな笑みが残っていた。
かつて戦場で互いの策を読み合った頃も、容易に相手の意図を見せぬ男だった。
景継は小さく息を吐いた。
「それは、こちらも同じことです。孔明殿が相手であれば、なおさらでしょう」
家康は何も言わず、ただ静かに頷いた。
しばらく二人の間に沈黙が続いた。
景継は、目の前の男を改めて見た。
徳川家康とは、これまでにも幾度となく言葉を交わしてきた。そのたびに、慎重で、容易には本心を明かさぬ人物だと感じていた。だが、その胸の内に、自分と同じように遠い時代の記憶が眠っていたとは思いもしなかった。
かつての孔明とは、顔も声も違う。それでも今になって思えば、相手の言葉を最後まで聞き、急いで答えを出さぬ姿勢には、どこか覚えがあった。
「……まさか、この時代で再びお会いすることになるとは思いませんでした」
家康はゆっくりと頷いた。
「私もです。ましてや、互いに異なる名を持ち、再び天下を争う世に生きているとは」
景継は庭へ目を向けた。
魏と蜀。あの頃、二人の間には越えられぬものがあった。
それぞれに仕える国があり、守るべき人々がいた。互いの才を認めていたとしても、戦場で向かい合えば、相手の策を破らなければならなかった。
しかし、今は違う。
景継には林道家があり、妻と子供たちがいる。家康には徳川家があり、小田原の戦を終えたばかりの領民たちがいる。
かつての名が戻ったからといって、今の責務が消えるわけではなかった。
「ですが、あの頃とは立場が違います」
景継が言うと、家康は頷いた。
「左様。ならば、今度はどのような関係になるのでしょうな」
景継は家康へ向き直った。
「……それは、これからの互いの選択次第でしょう」
家康はしばらく景継を見つめていたが、やがてその口元に静かな笑みが浮かんだ。
「楽しみにしておりますぞ、仲達殿」
景継はすぐには答えなかった。
先ほどまで徳川家康として向かい合っていた男が、今は遠い日の名で自分を呼んでいる。
景継はその響きを胸の内で確かめるように、しばらく家康を見つめていた。




