第288話 東国の情勢
天正十五年(一五八七年)。
九州から東へ向かう林道軍の行軍は、幾度もの休息を挟みながら続いていた。
北条を救援するために進路を変えたものの、小田原城の落城には間に合わなかった。北条氏政と氏直が命を落とした今、景継たちが急いで東へ戻ったところで、その結末を変えることはできない。
道中では疲労の濃い兵を休ませ、食糧や馬の状態を確かめながら進んでいた。早く帰りたいという思いは誰にもあったが、無理な行軍で兵を倒しては、帰還後に必要となる備えにも支障が出る。
景継は休息のために設けられた陣の一角で、東国から届いた報告を読み比べていた。
小田原城の落城後、徳川軍は旧北条領の主要な城を接収し、降伏した兵の処遇や領内の統治を進めているという。伊達軍についても、戦後の処理を終えれば奥州へ戻るものと見られていた。
氏政と氏直の死については、すでに知らせを受けている。景継は新たな報告が届くたび、そこに記された日付や場所を慎重に照らし合わせていた。
「殿」
声をかけたのは加藤清正だった。
「また小田原の報告をご覧になっておられたのですか」
「ええ。城が落ちた後の動きについて、まだ分からないことがありますので」
清正は景継の前に置かれた書付へ目を落とした。しばらく言葉をためらっていたが、やがて静かに尋ねた。
「殿。小田原のこと、今も悔やんでおられるのですか」
景継はすぐには答えなかった。手にしていた書付を机へ戻し、端を揃えてから清正を見た。
「ええ。間に合わなかったことは、悔やんでも悔やみきれません」
清正の表情が曇る。
「我らが、もう少し早く引き返せておれば……」
「清正。あなた方を責めているのではありません」
穏やかな声だったが、清正はそれ以上言葉を続けられなかった。
「ですが、今ここで悔やんでいるだけでは、失われた命は戻りません。私たちには、まだ守れる者がいます」
景継は書付を一つにまとめ、清正へ差し出した。
「諸将を集めてください。北条が滅びたことで、東国の情勢は大きく変わりました。帰還してから考え始めるのでは遅いでしょう」
「はっ。直ちに」
清正が立ち去ると、景継はしばらく東の方角へ目を向けていた。
遠く離れた故郷には、楓と子供たちが待っている。彼らのもとへ戻るためにも、今はなすべきことを見誤るわけにはいかなかった。
◇ ◇ ◇
ほどなくして、陣中の一室に諸将が集まった。
景継を中心に、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、石田三成、大谷吉継らが席につく。小西行長と仙石秀久も加わり、弥兵衛はこれまでに集まった報告を手元に控えていた。
机上には、関東から奥州にかけての地図が広げられている。
最初に口を開いたのは三成だった。
「北条が失われたことで、徳川を抑えていた大きな勢力が一つ消えました。旧領の接収が進めば、関東における徳川の力はこれまでとは比べものにならなくなりましょう」
三成が地図上の小田原を指すと、高虎も頷いた。
「城も土地も、手に入れたその日から自由に使えるわけではありませぬ。ですが、守備を固め、街道と補給を整えれば、徳川が動かせる兵の数も増えてまいります」
「それが厄介なのだ」
正則が腕を組んだ。
「北条を滅ぼした徳川が、このまま大人しくしているとは思えませぬ。今は城の修復に追われていようとも、いずれ兵を動かすはずです」
「その可能性はございます」
吉継が応じた。
「ただ、旧北条領を治めるだけでも、相応の兵と物資が必要となりましょう。すぐに次の大戦を始められるかは、別の話にございます」
「だが、備えを怠ってよい理由にはならぬだろう」
「無論です。私が申し上げたいのは、徳川が直ちに攻めてくると決めつけるのも危うい、ということです」
正則は腕を組み直した。
「徳川が今すぐ動けぬとしても、我らが帰還するまでに何が変わるか分からぬ。北条が滅びる前と同じつもりでいては、後れを取るぞ」
「その懸念はもっともです」
景継が口を開いた。
「ですが、徳川殿が次にどこへ目を向けられるか、今の段階では分かりません。一つの可能性だけを前提に動くべきではないでしょう」
景継が地図へ指先を伸ばすと、諸将の視線もその動きを追った。
徳川がしばらく旧北条領の統治に専念する可能性もある。周辺の諸大名との関係を整えることを優先するかもしれないし、情勢が落ち着けば、さらに勢力を広げようとすることも考えられた。
「北条という大きな勢力がなくなった以上、周囲の諸家もこれまでと同じようには動けません」
「伊達も、その一つですな」
高虎の言葉に、景継は頷いた。
弥兵衛が別の報告を差し出す。
「伊達軍は小田原での戦を終え、奥州への帰還を進めるものと見られております。ただ、その後の動きについては、まだ確かな知らせがございませぬ」
「政宗が、あれで満足するとは思えんな」
正則が言うと、清正も同意した。
「奥州には、まだ伊達と争う勢力が残っております。戻れば、再び兵を整えることも考えられましょう」
「そうですね」
景継は奥州の地図へ目を向けた。
「どこへ、いつ兵を向けるかまでは分かりません。伊達についても、動きを追い続けてください」
弥兵衛は頷き、報告の書付をまとめた。
北条の滅亡によって生じた変化は、徳川の勢力拡大だけではない。これまで北条との関係を考えて行動していた諸大名も、新たな判断を迫られることになる。
その中で林道家がどのような立場を取るべきか。答えを急ぐには、まだ情報が足りなかった。
◇ ◇ ◇
軍議が続いているところへ、陣の外から使者の到着が告げられた。
「殿。林道領より書状が届いております」
弥兵衛が受け取り、差出人を確かめて景継へ渡す。
「楓様からにございます」
景継は封を開き、丁寧に書き連ねられた文字を追った。
書状を運んだ使者は、帰還途中の林道軍を追って幾日も道を進んできたという。
そこには、北条の旧臣や避難民が林道領へ逃れてきたこと、楓が彼らを受け入れ、食糧や寝床の確保、負傷者の手当てを進めていることが記されていた。
さらに、旧臣の中には林道家への仕官を望む者もいるが、正式な処遇については景継の帰還を待って判断するという。
書状の終わりには、短い言葉が添えられていた。
『父上と兄上にお仕えした方々が、ようやく安堵できる場所へたどり着かれたことを、せめてもの救いと思っております』
景継はその一文に目を留めた後、書状を静かに置いた。
「楓は、よく判断してくれました」
その声音がわずかに和らいだことに、清正は気づいた。
「北条の者たちが、殿の領地まで逃れてきたのですか」
「ええ。楓が受け入れてくれたようです。負傷した者の手当ても進めているとあります」
「それは何よりにございます」
清正が安堵する一方、三成は書状に目を向けた。
「殿。受け入れが長引けば、領内の備蓄にも影響が出ましょう」
景継は頷いた。
「そのとおりです。食糧も住まいも、無限に用意できるわけではありません」
「すでに領内で暮らす者たちの生活もございます。避難してきた者を助けることには異存ありませぬが、受け入れの状況は把握しておくべきかと」
「ええ。楓にも、必要な物資と人数を確かめてもらいましょう。帰還後に不足が生じないよう、こちらでも準備を進めます」
三成は頷き、手元の書付へ必要な事項を記した。
高虎が尋ねる。
「北条の旧臣たちについては、いかがなさいますか。仕官を望む者もいるとのことですが」
「帰還してから、一人ずつ話を聞くつもりです」
景継は書状を手元へ引き寄せた。
「北条に仕えていたという理由だけで拒むつもりはありません。ですが、誰もがすぐに新しい主君へ忠義を移せるわけでもないでしょう」
主家を失ったばかりの者たちに、すぐ新たな忠誠を誓わせることが正しいとは限らない。仕官を望む理由も、これからの暮らしについての考えも、人によって異なるはずだった。
「まずは落ち着いて暮らせるようにすることです。そのうえで、仕官を望む者については、本人の意思やこれまでの働きを確かめて判断します」
高虎は頭を下げた。
景継は楓の書状を丁寧に折り、机の脇へ置いた。
◇ ◇ ◇
書状への対応を決めると、軍議は林道領の防備へ移った。
高虎が地図を引き寄せ、主要な城と補給経路について話し始める。
「帰還後は、各城の守備と兵糧の状況を改めて確かめる必要がございます。兵を集めるにしても、城ごとの備えが整っておらねば、かえって負担となりましょう」
清正が頷く。
「とはいえ、必要となればすぐ兵を動かせるようにしておくべきです。今回のように、戦が始まってから急いでも間に合わぬことがございます」
その言葉に、景継は一瞬だけ清正を見た。
清正は言い過ぎたかと表情を改めたが、景継は静かに頷いた。
「ええ。そのとおりです」
「徳川が動いてから備えていては、遅うございます」
正則も身を乗り出した。
「今のうちに兵を集め、こちらの力を示しておくのも一つの手かと」
「兵を集めるとなれば、当然ながら食糧が要ります」
三成が口を挟んだ。
「北条の避難民を受け入れていることも考えねばなりませぬ。長く兵を留め置けば、領内の負担は軽くありません」
「では、何もせず待てと申すのか」
「そうは申しておりませぬ。備えるのであれば、どれほどの兵を、どれだけ維持できるかを先に確かめるべきだということです」
「だが、その間に徳川が動いたらどうする。兵糧の勘定が済むまで待ってくれる相手ではあるまい」
正則の声がわずかに強まった。
三成も引かなかった。
「だからこそ、動かせる兵と蓄えを把握するのです。数だけ集めて食わせられぬとなれば、いざという時に戦うことすらできませぬ」
二人の間に、短い沈黙が落ちた。
そこへ高虎が地図を指した。
「まず各城の守備と補給を整えれば、兵を一か所に集めずとも備えは進められます。必要な時に動かせるよう、道と物資を確かめておくこともできましょう」
景継は諸将の顔を見渡した。
「正則の言うとおり、備えが遅れれば人々を守れません。ですが、三成の懸念も軽く見ることはできないでしょう」
景継は地図上の城を一つずつ確かめた。
「各城の守備と兵糧の確保を優先しましょう。兵を大きく動かすのは控えますが、必要となれば速やかに動けるよう、準備を整えておくのです」
「承知いたしました」
清正が力強く答え、高虎も必要な手配を確かめ始めた。
景継は続けて弥兵衛へ目を向ける。
「徳川と伊達の動向については、引き続き情報を集めてください。知らせが届いた時期と、実際に起こった時期も分けて記録するように」
弥兵衛は頭を下げた。
そこまで決めたところで、吉継が静かに口を開いた。
「殿。備えを整えることには賛成にございます。ただ、徳川が我らをどう見ているのか、確かめておく必要もありましょう」
景継は吉継へ向き直った。
「徳川へ使者を送りましょう。こちらから話し合いの道を閉ざす必要はありません」
正則が気遣わしげに尋ねた。
「しかし、殿。北条を滅ぼした相手に、こちらから使者を送るとなれば……」
「徳川に従うために送るのではありません」
景継は穏やかに答えた。
「互いが何を望み、何を警戒しているのか。それを知らないまま兵を向け合うことは、避けたいのです」
正則は景継の言葉を聞き、ゆっくりと頷いた。
氏政と氏直の死を忘れたわけではない。景継がそのことを誰よりも重く受け止めているのは、ここにいる者たちも分かっていた。
それでも、今の感情だけで徳川との関係を決めれば、林道領に暮らす者たちまで危険にさらすことになる。
「使者を送る準備を進めましょう。ただし、先方の意向が分かるまでは、こちらの対応を決めつけないでください」
吉継が頭を下げ、軍議はそこで終わった。
諸将はそれぞれの役目へ戻っていった。
◇ ◇ ◇
日が傾き、陣の外から聞こえていた兵たちの声も次第に少なくなっていた。
一人残った景継は、机の上に置かれた楓の書状を手に取った。
昼間の軍議では、旧臣の処遇や食糧の確保について冷静に判断を下した。だが、楓がどのような思いでこの書状を書いたのかを考えると、すぐに筆を取って返事を書くことはできなかった。
氏政は楓の父であり、氏直は兄だった。景継にとっても、決して遠い存在ではない。
小田原へ向かうことを決めた時には、まだ間に合う可能性があると考えていた。けれども、その願いはかなわなかった。
景継は、書状の末尾に添えられた楓の言葉をもう一度読み返した。
『父上と兄上にお仕えした方々が、ようやく安堵できる場所へたどり着かれたことを、せめてもの救いと思っております』
その一節に目を留めたまま、景継の指がしばらく動かなくなる。
楓は自らも悲しみを抱えているはずなのに、逃れてきた人々のために動いていた。
景継はふと、家に残してきた万代丸と明のことを思った。
万代丸は今頃、何をしているだろうか。生まれてまだ間もない明を、楓はどのように抱いているのだろう。
帰還すれば、まず楓の顔を見たい。だが、北条の旧臣たちとも話さなければならない。
新たな主君に仕えることを望む者もいれば、戦から離れて暮らしたい者もいるかもしれない。彼ら自身がこれからどのように生きたいのか、その言葉を聞こうと思った。
やがて景継は書状を丁寧に畳み、ほかの報告とは分けて手元に置いた。
陣の外では、夜の見張りに立つ兵たちの足音が聞こえていた。
◇ ◇ ◇
翌朝、林道軍は再び東へ向けて出立する準備を整えていた。
兵たちは荷をまとめ、馬の手綱を確かめている。休息を取ったことで疲れがすべて消えたわけではないが、前日よりも足取りは軽くなっていた。
景継が出立の様子を見ていると、弥兵衛が近づいてきた。
「殿。徳川の動向について、引き続き知らせを集めております。まだ確かなことは多くございませぬが、分かり次第お伝えいたします」
「お願いします」
景継は頷き、少し考えてから付け加えた。
「分かったことと、まだ分からないことを、混同しないでください」
「はっ。確かな知らせを見極めてまいります」
弥兵衛が下がると、景継は東へ続く道を見つめた。
この道を進むことに変わりはない。だが、北条を救うために急いでいた時とは、今は目的が違っていた。
失われた命を取り戻すことはできない。それでも、主家を失った者たちには、これからの暮らしがある。楓や子供たち、林道領で待つ人々にも、守らなければならない日々が続いている。
景継は近くに控えていた清正へ声をかけた。
「……急ぎましょう。まだ、私たちにできることはあります」
「はっ!」
清正の返事を受け、兵たちが動き始めた。
徳川は関東で新たな支配を築こうとし、伊達もまた奥州へ目を向けている。
北条の滅亡によって生まれた東国の新たな勢力図は、まだ固まっていなかった。
その中で景継もまた、戦を避ける道を探りながら、必要となる備えを進めようとしていた。
帰還の先には、徳川との新たな対話が待っている。
その対話が、互いの警戒を解くものとなるのか。それとも、次の争いへ向かう一歩となるのか。
今はまだ、誰にも分からなかった。
林道軍は、東へ向けて行軍を再開した。




