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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第287話 徳川と伊達の思惑



天正十五年(一五八七年)。


北条家が滅び、小田原城に掲げられていた旗は徳川のものへと替わっていた。


城内には戦の爪痕が色濃く残っている。崩れた塀のそばでは兵が瓦礫を運び、負傷者を収容した建物からは薬草を煎じる匂いが漂っていた。城下でも家屋の修繕が始まっていたが、焼け跡を前に立ち尽くす者の姿は、まだ珍しくなかった。


徳川家康は城内の一室で、戦後処理を担う家臣たちから報告を受けていた。


「降伏した北条の兵は武装を解かせ、順次収容しております。ただ、旧臣の中には、いまだ徳川への恭順を拒む者もおります」


「抵抗を続けているのですか?」


「今のところ、目立った動きはございませぬ。しかし、氏政・氏直父子への忠義を捨てぬ者も多く、情けをかけすぎれば、再び兵を挙げる者が現れるやもしれませぬ」


家康は報告を聞きながら、机上の書付を一枚ずつ確かめていた。


北条は長年にわたり関東を治めてきた家である。その主家が滅びたからといって、家臣たちの忠義まで一夜で消えるはずがない。


「警戒は続けてください。ですが、武器を捨てた者まで罪人として扱う必要はありませぬ」


「しかし、それでは……」


「北条の者たちとて、この地で暮らしてきた者たちです。すべてを敵と見なせば、いつまで経っても戦は終わりませぬ」


家康は書付を置き、家臣へ目を向けた。


「反抗の兆しは見逃さず、領民への略奪も厳しく取り締まること。降伏した者をいたずらに苦しめれば、こちらに従おうとする者まで敵に回してしまいます」


家臣はしばらく考え、頭を下げた。


「承知いたしました。監督を怠らぬようにいたします」


続いて、別の家臣から城の修復と兵糧の報告があった。家康は守備兵の配置や損傷した蔵の修繕について指示を与え、領民の生活再建にも手を回すよう命じた。


北条を滅ぼしたことに迷いはない。


氏政と氏直は、最後まで家と領民を守ろうとした。その覚悟は敵将として認めているが、だからといって戦の結果を覆せるわけではなかった。


城を落とすことと、その土地を治めることは別の話である。北条の旧領を安定させるには、まだ多くの時間と労力が必要だった。


◇ ◇ ◇


その日の午後、家康は小田原城内の一室で伊達政宗と向かい合っていた。


北条攻略では協力した両者だったが、戦が終わってから落ち着いて言葉を交わすのは、これが初めてである。


「伊達の兵も、ずいぶん損耗したようですな」


家康が尋ねると、政宗は頷いた。


「思った以上にな。北条も、あれほど追い詰められながら、最後までよく戦ったものだ」


二人の前には、双方の損耗や残された兵糧について記された書付が置かれていた。伊達軍の帰還に必要な手配も、会談の議題となっている。


「氏直は、最後まで退きませなんだな」


政宗がふと口にすると、家康は静かに頷いた。


「家を守ろうとする者の覚悟は、侮れませぬ」


「まったくだ。退路を守るため、あそこまで踏みとどまるとはな」


政宗は小田原での戦いを思い返した。


北条軍は劣勢に陥っても、ただ崩れるだけではなかった。氏直が兵を率いて退路を守ったことで、城から逃れた者もいる。


だが、敵将の最期を惜しむだけで話を終えるつもりはなかった。北条が滅びた以上、東国の勢力図は大きく変わる。


政宗は書付を脇へ寄せ、家康を見た。


「さて、家康殿。北条を滅ぼした今、次はどこへ目を向けられる?」


家康はすぐには答えず、茶碗を置いた。


「まずは関東の安定にございます。この地を治めるだけでも、しばらくは骨が折れましょう。兵を動かすより先に、なすべきことがございます」


「なるほど。確かに、北条の旧領は広いからな」


政宗は頷きながらも、家康の顔から目を離さなかった。


関東の安定が必要なのは事実だろう。しかし、それだけで満足する人物とは思えない。


家康はその視線を受け止め、話題を変えた。


「ところで、政宗殿。伊達の軍は、いつ頃お戻りになるおつもりですか?」


政宗はわずかに笑みを浮かべた。


「俺にも、帰って片づけねばならぬことがある」


「奥州のことでございますか」


「ああ。まずは会津だ。蘆名を放っておくわけにはいかぬ」


家康はその名を聞いても、驚いた様子を見せなかった。


蘆名家は会津に勢力を保ち、伊達が奥州南部へ力を伸ばすうえで無視できない存在だった。会津を手中に収めれば、伊達の勢力は大きく拡大する。


「会津は地形も厄介だ。城の配置だけでなく、周辺の諸将がどう動くかも見極めねばならん。小田原から戻って、すぐに兵を動かせるとも限らぬがな」


「会津を手中に収められれば、伊達家の立場も大きく変わりましょう」


「そう思うか」


「ええ。奥州の諸家も、これまでどおりには政宗殿を見られなくなるでしょう」


政宗は家康の表情を探った。


伊達が強大になれば、徳川にとっても将来の脅威となるはずである。それにもかかわらず、家康は蘆名攻略を止めようとはしない。


(何か、別の狙いがあるな)


政宗は腕を組んだ。


「俺の次の相手は明かした。家康殿は、いつまで関東の安定だけを考えておられるつもりだ?」


家康はかすかに笑みを浮かべ、傍らに置かれた地図へ目を向けた。


◇ ◇ ◇


家康は関東の地図を広げた。


小田原を中心とする北条旧領の周囲には、なお独自の勢力を保つ諸大名が存在している。


家康の視線は、その中でも常陸へ向かっていた。


佐竹家。


関東で勢力を広げる以上、いずれ向き合わねばならない相手である。


しかし、北条を滅ぼしたばかりの徳川軍には、すぐに大規模な遠征を始める余裕がなかった。兵は疲弊し、補給を整え直す必要がある。諸城の守備を固め、旧北条領の統治も進めなければならない。


それに、九州から東へ引き返してきた林道景継の存在も気にかかる。


景継の妻・楓は北条氏政の娘である。父と兄を失った妻を持つ景継が、徳川に対してどのような態度を取るのか、軽々しく判断することはできなかった。


今、佐竹との戦を始めれば、背後の情勢が変わったときに対応が難しくなる。


家康には時間が必要だった。


政宗は、地図に向けられた家康の視線を見逃さなかった。


「……常陸か」


家康は否定せず、政宗へ向き直った。


「政宗殿。蘆名を手中に収められた暁には、一つ頼みたいことがございます」


「ほう。何だ?」


「佐竹に、少々目を向けていただきたいのです」


政宗の眉が動いた。


「佐竹を攻めよと?」


「いいえ。今すぐ戦を始めていただく必要はございませぬ。ただ、佐竹が北を気にせずにはおられぬようにしていただければ、それで十分です」


政宗は地図へ視線を落とした。


伊達が会津を押さえれば、佐竹は北方への警戒を強めざるを得ない。徳川に対しても、これまでどおりに兵を動かせなくなるだろう。


「なるほど。俺に佐竹の背後を気にさせろというわけか」


「そのように受け取っていただいても構いませぬ」


「随分と都合のよい頼みだな、家康殿」


政宗は口元を緩めたまま、地図の常陸へ指を置いた。


「俺が会津を取れば、佐竹は北を警戒する。そうなれば、家康殿は東から動きやすくなる。だが、俺には佐竹という新たな敵が増えるかもしれぬ」


家康は黙って政宗の言葉を聞いていた。


「徳川は得をする。では、伊達は何を得る?」


政宗が顔を上げると、家康と目が合った。


「政宗殿にも、悪い話ではないと思いますが」


「それを聞いてからでなければ、返事はできぬな」


政宗は笑みを消し、家康の返答を待った。


◇ ◇ ◇


「もっともなことにございます」


家康は地図へ目を落とした。


「佐竹との全面的な戦をお願いするつもりはありませぬ。どこまで圧力をかけるかは、政宗殿の判断にお任せいたします」


「それだけでは、伊達の利にはならぬ」


政宗は即座に返した。


家康は頷き、改めて政宗を見た。


「政宗殿が奥州で勢力を広げようとなさる間、我ら徳川はそれを妨げませぬ」


政宗の目が細くなる。


「つまり、蘆名を攻めることにも口を出さぬと?」


「ええ。奥州における伊達家の判断を尊重いたします」


「援軍を出すとも、土地を認めるとも言わぬのだな」


「政宗殿の力で得られるものを、私が保証するのもおかしな話でしょう」


政宗は家康を見つめたまま、しばらく黙っていた。


家康が約束したのは、徳川が伊達の行動を妨げないことだけである。それでも、蘆名攻略に集中したい政宗にとって、背後に新たな敵を作らずに済む意味は大きい。


「なるほど。俺は奥州で自由に動き、家康殿は関東で自由に動く。そのうえで、利が重なるところだけ手を組むというわけか」


「左様にございます」


「だが、徳川が関東を押さえた後まで、その約束が続くとは限るまい」


家康は政宗の視線を避けなかった。


「先のことを、今ここですべて約束することはできませぬ。ですが、少なくとも今、我らが争うことに利はございますまい」


政宗はしばらく黙っていたが、やがて声を上げて笑った。


「ははっ。確かにな。先のことまで美しい言葉で飾られるより、よほど分かりやすい」


家康も静かに微笑んだ。


「よかろう。ただし、蘆名をどう攻めるかも、佐竹へどう圧力をかけるかも、俺が決める」


「もちろんです。伊達家の軍を動かすのは、政宗殿にございます」


政宗は頷き、地図から手を離した。


二人の間で、当面の協力関係を続けることが決まった。


◇ ◇ ◇


会談を終えた政宗は、伊達の陣へ戻った。


待っていた家臣から話し合いの結果を尋ねられると、家康が佐竹への牽制を望んでいることを伝えた。


「徳川が関東をまとめれば、伊達にとっても大きな脅威となりましょう。家康殿が佐竹を滅ぼした後、我らとの約束を守る保証はございませぬ」


家臣の懸念に、政宗は頷いた。


「分かっている。家康が関東をまとめれば、いずれ俺たちにとっても厄介な相手になるだろう」


「ならば、なぜ協力を?」


「今の伊達が、徳川と争って何を得る?」


家臣は返答に詰まった。


蘆名攻略を控えた今、徳川まで敵に回す利点は乏しい。


政宗は帰還の準備について記された書付を手に取った。


「家康が佐竹へ目を向けている間に、俺は会津を取る。だが、佐竹への牽制は伊達の兵に余裕があるときだけだ。徳川のために蘆名攻略を遅らせるつもりはない」


「承知いたしました」


「まずは兵を帰すことだ。会津のことは、それから考える」


政宗は書付を家臣へ渡した。


一方、家康も家臣たちと会談の内容を確かめていた。


「政宗殿が蘆名を滅ぼし、会津を手中に収めれば、伊達はさらに強大となりましょう」


「そのとおりです」


「もし、佐竹ではなく徳川へ矛先を向けたならば……」


家康は地図に目を落とした。


「政宗殿は、こちらの思いどおりに動く方ではありませぬ。佐竹への牽制も、伊達の都合によっては実現しないでしょう」


「では、伊達を頼みにしてよいのでしょうか」


「頼りきりにはいたしませぬ。佐竹への備えは、我ら自身でも進めます」


家康は小田原周辺に記された城の位置を指した。


「まずは旧北条領の守備を固めることです。政宗殿が動かずとも、こちらが困らぬようにしておかねばなりません」


家臣は深く頭を下げた。


◇ ◇ ◇


翌日も、小田原城では戦後処理が続いていた。


家康は旧北条領の城や兵糧に関する報告を受け、守備の配置と補給について指示を出した。


家臣が退出すると、机上に広げた関東の地図へ目を落とす。


小田原を中心とする北条旧領。その周囲には、まだ徳川に従っていない勢力が残されている。


家康の視線は、常陸の佐竹の位置で止まった。


今すぐ軍を動かすことはできない。林道景継が東へ向かっている以上、その動向を見極める必要もあった。


家康は地図を畳まず、次の報告が届くのを待った。


同じ頃、小田原の伊達陣では帰還の支度が進められていた。


兵の疲労を確かめ、道中の兵糧を整えるよう命じた政宗は、奥州へ戻ってから必要となる軍備についても報告を求めていた。


「戻れば、次は蘆名だ」


その言葉を聞いた家臣たちは、深く頭を下げた。


小田原でともに戦った二人は、すでに異なる戦場へ目を向けていた。


家康の前には関東の地図が広がり、政宗の胸中には会津への道が描かれている。


北条の滅亡によって生まれた東国の新たな勢力図は、まだ固まっていなかった。


そして、その行方を左右するもう一人の人物

林道景継もまた、東へ向かっていた。



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