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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第286話 北条の遺臣



林道家の居城に、小田原落城の知らせが届いてから、幾日かが過ぎていた。


城内では普段と変わらず家臣たちが行き交い、政務を担う者たちは忙しく働いている。だが、奥向きに仕える者たちは、楓の様子を気にかけていた。


父・北条氏政と兄・氏直の戦死。


その報せを受けた日、楓はしばらく言葉を失っていた。


何度も読み返した書状には、小田原城が徳川と伊達の攻撃によって落ち、父と兄がともに討ち死にしたことが記されていた。


間違いであってほしいと願った。


しかし、後から届いた知らせも、同じ事実を伝えていた。


楓は泣き崩れることもなく、静かに書状を畳んだ。ただ、その日から食事の量が減り、夜更けまで灯りの消えない日が続いていた。


茶々も、その変化に気づいていた。


何かと楓の部屋を訪ねては、食事を運ばせたり、子供たちの様子を伝えたりしていたが、父と兄の話を無理に聞き出そうとはしなかった。


茶々自身、父・浅井長政を失い、後には母・お市とも死別している。


大切な者を失った悲しみが、他人の慰めだけで消えるものではないことを知っていた。


そんな折、北条領から逃れてきた人々が林道領へ入ったとの報告が届いた。


「楓様。小田原より落ち延びてきた者たちが、領内へ到着いたしました」


家臣の報告に、楓は顔を上げた。


「……どれほどの人数ですか?」


「まだすべてを確認できておりませぬが、北条の旧臣だけではございません。負傷した兵や女子供も多く、道中で力尽きかけた者もいるとのこと」


「すぐに受け入れの支度を整えてください。食事と寝床を用意し、傷を負った者には手当てを。身分によって扱いを変えることのないようにお願いします」


家臣は頭を下げたものの、すぐには立ち去らなかった。


「楓様。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「何でしょう?」


「これからも避難してくる者が増えるやもしれませぬ。兵糧には備えがございますが、数が増えれば領内の負担も大きくなります。殿がご不在の今、どこまで受け入れるべきか……」


楓は家臣の言葉を遮らなかった。


景継が東へ軍を進めている以上、兵糧は軍にも必要となる。避難民を受け入れることが、容易な話ではないことくらい理解していた。


「懸念は分かります。ですから、まず人数と必要な食糧を確かめ、無理のないよう手配してください。足りないものがあれば、私にも知らせてください」


「はっ」


「ですが、城門までたどり着いた者を追い返すことだけは、したくありません」


楓は膝の上で重ねていた手を、そっと握り直した。


「父上が守ろうとした者たちです。今度は、私たちが守る番です」


家臣が深く頭を下げたところで、傍らにいた茶々が口を開いた。


「楓様。奥向きの支度は、私にも手伝わせてくださいませ」


「茶々様……」


「寝具や衣類の用意なら、私にもできます。それに、幼い子を連れた方々もおられるのでしょう? 女房たちと手分けして、休める場所を整えておきます」


楓は一瞬、言葉に詰まった。


「……ありがとうございます」


「礼などいりませぬ。今は、皆でできることをいたしましょう」


茶々はそう言って微笑み、女房たちに声をかけるため部屋を出ていった。


その背中を見送った楓は、庭へ目を向けた。


小田原で過ごした日々が、ふと脳裏をよぎる。


父は厳しい人だった。兄もまた、北条の将来を背負う立場にあり、いつも何かを考えていた。


それでも、自分が嫁ぐと決まったとき、父が見せた寂しそうな笑顔を、楓は今も覚えている。


(父上……兄上……)


もう一度、会いたかった。


その願いが叶わないことを、楓は誰よりもよく分かっていた。


◇ ◇ ◇


北条の人々が城へ到着したのは、その日の昼過ぎだった。


長い道のりを歩いてきた者たちの姿は、痛ましいものだった。


具足の一部を失った武士が足を引きずり、腕に布を巻いた男が仲間に肩を貸されている。幼子を抱いた母親は、城門をくぐったところでようやく安堵したのか、その場に座り込んでしまった。


家族とはぐれた者もいた。


名前を呼び続ける子供の声に、周囲の大人たちは何も答えられず、ただ背中をさすっていた。


楓は家臣たちとともに、その人々を迎えた。


「まずは身体を休めてください。温かいものを用意しております。怪我をしている方は、こちらへ」


楓が声をかけると、避難民たちの間に小さなどよめきが広がった。


やがて、一人の年配の武士が前へ進み出る。


「……楓様」


その声は震えていた。


男は膝をつき、深々と頭を下げた。


「我ら、北条の命を受け、この地まで落ち延びてまいりました」


「よくぞ、ご無事で……」


楓が言い終えるより早く、男は額を地につけた。


「申し訳ございませぬ……! 我らは、氏政様も氏直様もお守りすることができませなんだ!」


その言葉に、周囲の旧臣たちも次々と頭を下げた。


「我らだけが生き延びてしまいました……」


「どうか、お許しくだされ……」


楓はしばらく彼らを見つめていた。


目の前にいる者たちは、父と兄を見捨てて逃げたわけではない。傷を負い、家族を連れ、ようやくここまでたどり着いたのだ。


「皆、顔を上げてください」


それでも誰も動かなかったため、楓は一歩近づいた。


「父上と兄上は、皆を逃がすよう命じられたのでしょう?」


年配の武士が、涙に濡れた顔を上げる。


「……はい」


「ならば、皆がここにいることを、私は責めたりいたしません」


男は唇を震わせた。


楓は、その男に小田原での様子を尋ねた。


話を聞くうちに、城が落ちるまでの光景が少しずつ明らかになっていった。


徳川と伊達の軍勢が迫る中、氏直は退路を守るため、兵を率いて敵を食い止めていたという。


「氏直様は、我らに振り返るなと仰せになりました。女子供を先に通し、一人でも多く逃がせと……」


男は拳を握りしめた。


「最後にお姿を見たときも、氏直様は敵へ向かっておられました。我らは、その背中を見ながら城を離れたのでございます」


楓は静かに耳を傾けた。


兄らしいと思った。


幼い頃から責任感が強く、誰かが困っていれば、自分のことを後回しにしてでも手を差し伸べる人だった。


「父上は……?」


楓が尋ねると、男はうつむいた。


「氏政様は、城に残られました。我らが脱出する前、最後まで北条の者たちを逃がすよう、お命じになっておられました」


「……そうですか」


「我らが見たのは、そこまでにございます。その後のことは、逃げ延びる途中で聞いた知らせでしか……」


楓は小さく頷いた。


二人の死はすでに知らされている。


それでも、最後に何をしていたのかを聞けたことが、わずかな慰めになった。


父も兄も、最後まで北条の人々を守ろうとしていた。


その思いを受け取った者たちが、今こうして目の前にいる。


◇ ◇ ◇


「楓様……もう一つ、お伝えしなければならぬことがございます」


年配の武士が、懐から小さな包みを取り出した。


中には、道中で汚れぬよう大切に守られてきた書付が収められていた。


「氏政様より、楓様へお言葉を託されております」


楓の胸が強く脈打った。


「……父上が?」


「はい。氏政様は、最後にこう仰せでした」


男は一度言葉を詰まらせ、それでも顔を上げた。


「『父は最後まで、お前の幸せを願っていた』と」


楓は、差し出された書付を受け取った。


指先がわずかに震える。


父は、最後まで自分のことを案じていたのだ。


林道へ嫁いでからも、折に触れて届いた便り。


万代丸が生まれたときの喜びよう。


凛の誕生を知らせた際には、今度会うときには抱かせてほしいと、嬉しそうな返事が届いた。


そして、明。


生まれたばかりのあの子の顔を、父は一度も見ていない。


(……父上)


楓は書付を胸元へ寄せた。


泣いてしまいたかった。


誰もいない場所で、声を上げて泣けたなら、どれほど楽だっただろう。


けれど、目の前には父と兄の命令を守り、必死に生き延びた人々がいる。


彼らもまた、大切なものを失っていた。


楓はゆっくり息を整え、顔を上げた。


「皆……よくぞ、ここまで生き延びてくださいました」


旧臣たちが顔を上げる。


「父上も兄上も、皆が生き延びることを望んでおられました。だからこそ、最後まで戦われたのだと思います」


楓は、一人ひとりの顔を見渡した。


「どうか、生きてください。それが、あの方々の願いなのです」


誰かが嗚咽を漏らした。


それをきっかけに、こらえていた涙があちこちでこぼれ始める。


楓は彼らが落ち着くまで、そこを離れなかった。


北条の姫として何かを成し遂げられたわけではない。


それでも、父と兄が守ろうとした人々を、今度は自分が支えたい。


その思いだけは、揺らぐことがなかった。


◇ ◇ ◇


その夜、楓は子供たちのいる部屋へ戻った。


万代丸は女房に見守られながら遊んでいたが、楓の姿を見つけると、小さな足で駆け寄ってきた。


「母上!」


「万代丸。まだ起きていたのですね」


楓が微笑むと、万代丸はじっと顔を見つめた。


「母上、どうして悲しそうなのですか?」


思いがけない問いに、楓は返事を失った。


子供の前では普段どおりにしていたつもりだった。


それでも、幼い万代丸には何かが伝わっていたらしい。


楓は膝を折り、息子と目を合わせた。


「……母上の父上と兄上が、遠いところで亡くなったのです」


「もう、会えないの?」


「……ええ。もう、会えません」


万代丸はしばらく考え込んでいたが、やがて小さな手を伸ばし、楓の袖を握った。


「母上、泣かないで」


その言葉に、楓は息子を抱き寄せた。


「ありがとう、万代丸」


万代丸は母の胸に顔を埋めたまま、じっとしていた。


少し離れたところでは、茶々が凛を抱いていた。いつもなら元気に動き回る娘も、今夜は眠そうに目をこすっている。


「万代丸は優しい子ですね」


茶々が穏やかに声をかけると、楓は小さく頷いた。


「……ええ。本当に」


楓は万代丸を女房に預けると、眠っている明をそっと抱き上げた。


小さな身体は温かく、胸元に寄せるとかすかな寝息が聞こえた。


父は、この子を抱くことができなかった。


生まれたことを喜んでくれたのに、その顔を見ることさえ叶わなかった。


「……父上」


楓は明の頬に指を添えた。


「この子を、一度でよいから抱いていただきたかった……」


言葉にした途端、こらえていた涙が頬を伝った。


人々の前では泣くまいと思っていた。


北条の姫として、林道家の奥方として、しっかりしていなければならないと自分に言い聞かせてきた。


けれど、今だけは無理だった。


明を抱いたまま、楓は静かに泣いた。


茶々は凛を女房に預けると、楓の隣へ腰を下ろした。


「……楓様」


楓は涙を拭おうとしたが、茶々は何も言わず、そっと手を重ねた。


しばらくの間、二人は黙っていた。


やがて茶々が、静かに口を開いた。


「私も、父上と母上に……もっと話しておけばよかったと思うことがあります」


楓は顔を上げた。


「茶々様……」


「何年経っても、思い出すことがあるのです。あのとき、こうしていればよかった。あんなことを言わなければよかった、と」


茶々は眠っている凛へ目を向けた。


「けれど、もう会えぬのですよね……」


その声には、普段の明るさとは違う寂しさがあった。


楓は茶々の手を握り返した。


「……私も、きっと同じことを考え続けるのでしょうね」


「ええ。ですが、一人で抱え込まないでくださいませ」


茶々は楓を見つめた。


「私にも、できることはございますから」


楓は何度か頷いた。


「……ありがとうございます、茶々様」


その夜、楓は久しぶりに、誰かの前で悲しみを隠さずにいられた。


◇ ◇ ◇


数日後、景継からの書状が届いた。


楓は使者を労い、休ませるよう命じてから、自室で封を開いた。


そこには、小田原への救援が間に合わなかったことへの悔恨が、景継らしい丁寧な言葉で綴られていた。


氏政と氏直を救えなかったこと。


楓の父と兄を失わせてしまったことへの謝罪。


そして、北条の生存者を決して見捨てず、守れる者を守るために力を尽くすという約束。


楓は書状を最後まで読み、もう一度最初から目を通した。


景継がどれほど悔やんでいるか、文字から伝わってくるようだった。


夫はいつも冷静で、どのようなときも容易には感情を表に出さない。


それでも、家族を大切にしていることを楓は知っていた。


父と兄のことも、ただの同盟相手として見ていたわけではない。


九州から急ぎ軍を引き返したことも、すでに聞いている。


間に合わなかったのは、景継が救おうとしなかったからではない。


楓は書状を胸に抱いた。


「……景継様」


今、夫がそばにいてくれたなら。


そう思わなかったわけではない。


けれど、夫には夫の果たすべき務めがある。


自分にも、ここで守らなければならない者たちがいる。


楓は文机に向かい、筆を取った。


『景継様。どうか、ご自身をお責めにならないでください』


一文字ずつ、丁寧に書き進める。


『父上も兄上も、きっとそのようなことは望んでおられません』


楓は一度筆を止め、窓の外を見た。


北条から逃れてきた人々は、今も城内や近くの屋敷で身体を休めている。


まだ家族の消息が分からない者もいる。


傷が癒えず、眠れぬ夜を過ごしている者もいるだろう。


『私は、父上たちが守ろうとした人々を、ここでお守りいたします』


書き終えた楓は、しばらく筆を置かなかった。


やがて、子供たちは皆元気にしていること、景継にも身体を大切にしてほしいことを書き添え、静かに文を畳んだ。


離れていても、互いの思いは変わらない。


そう信じることが、今の楓には何よりの支えだった。


◇ ◇ ◇


翌日、楓は北条の旧臣たちを集めた。


傷の深い者は無理に出席させず、動ける者だけが広間へ通された。


楓は、まず当面の暮らしについて説明した。


住む場所と食糧を用意し、負傷者の手当てを続けること。家族とはぐれた者については、届く知らせを確かめながら消息を調べること。


旧臣たちは、黙って耳を傾けていた。


やがて、一人の武士が進み出る。


「楓様。我らは北条に仕えた武士にございます。このまま世話になるばかりでは、申し訳が立ちませぬ。どうか林道家にお仕えすることを、お許しいただけませぬか」


その言葉に、何人かが頷いた。


楓は彼らの思いを受け止めながらも、すぐには返事をしなかった。


「皆の気持ちは、ありがたく思います」


楓は静かに答えた。


「ですが、家臣としてお迎えするかどうか、またどのようなお役目をお願いするかは、景継様がお戻りになってから決めていただきます」


「……承知いたしました」


「それまでは客分としてお過ごしください。今は何より、傷を癒やし、ご家族を守ることを考えてほしいのです」


旧臣たちは深く頭を下げた。


しばらくして、年配の武士が顔を上げた。


「楓様……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」


「何でしょう?」


「北条の名は……これで絶えてしまうのでございましょうか」


広間が静まり返った。


北条は関東に大きな勢力を築き、多くの家臣と領民を抱えてきた。


だが今、その城は落ち、当主も後継者も失われた。


旧臣たちが行く末を案じるのも、無理はなかった。


楓はゆっくり首を横に振った。


「いいえ。父上や兄上が守ろうとしたものは、まだここにあります」


楓は集まった人々を見渡した。


「皆が生きている限り、北条の歩んだ道が消えることはありません」


年配の武士は、しばらく何も言えなかった。


やがて、深く頭を下げる。


「……ありがたき、お言葉にございます」


ほかの旧臣たちも、それに続いた。


北条が大名として失ったものは、あまりにも大きい。


それでも、彼らが積み重ねてきた年月まで、消えてしまったわけではない。


この先、林道家のもとで新たな役目を得る者もいるだろう。


別の道を選ぶ者もいるかもしれない。


その行く末は、まだ誰にも分からなかった。


ただ一つ、楓には確かなことがあった。


彼らを、二度と行き場のない者にはしたくなかった。


◇ ◇ ◇


その夜。


子供たちが寝静まった部屋で、楓は明の傍らに座っていた。


万代丸は遊び疲れて眠り、凛も女房に寝かしつけられている。


茶々は先ほどまで楓とともに子供たちの様子を見ていたが、今は女房たちに明日の支度を頼んでいる。


明は小さな手を布団の外へ出し、穏やかな寝息を立てていた。


楓はその手を、そっと指で包んだ。


「明……」


呼びかけても、娘は目を覚まさない。


「あなたのお祖父様は、とても立派な方だったのですよ」


楓は静かに語りかけた。


「少し頑固で、心配性で……けれど、誰よりも家族を大切にしてくださる方でした」


父が孫の話になると嬉しそうに笑ったこと。


兄が、幼い自分を何かと気にかけてくれたこと。


小田原で過ごした、何でもない日々のこと。


いつか、この子たちが大きくなったら話して聞かせよう。


北条がどれほど大きな家だったかだけではない。


祖父がどんな人で、伯父が何を守ろうとしていたのか。


そのことを、忘れずに伝えていきたい。


明が小さく身じろぎし、楓の指を握った。


楓はその温もりに、わずかに微笑んだ。


そのとき、部屋の入り口から茶々が静かに声をかけた。


「楓様。明は眠りましたか?」


「ええ。ぐっすりと」


茶々は寝顔をのぞき込み、小さく笑った。


「本当に、可愛らしい寝顔ですね」


楓も頷いた。


二人はしばらく、眠る明を見つめていた。


やがて茶々が、楓の隣に腰を下ろす。


「楓様。景継様がお戻りになるまで、二人でこの家を守りましょう」


楓は茶々へ顔を向けた。


「……はい」


その返事には、以前よりも確かな力があった。


父も兄も、もう帰ってこない。


その事実は、これから先も変わらない。


けれど、二人が命を懸けて守った人々は、今も生きている。


そして、自分たちのそばには、これから未来を歩んでいく子供たちがいる。


茶々が部屋を出た後、楓は明の布団を掛け直し、窓の外へ目を向けた。


遠い東の地では、今も景継が軍を率いている。


無事に帰ってきてほしい。


その願いを胸に、楓はしばらく夜空を見つめていた。


北条の旗は、小田原から失われた。


それでも、その血と記憶は、確かにここへ受け継がれていた。



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