第286話 北条の遺臣
林道家の居城に、小田原落城の知らせが届いてから、幾日かが過ぎていた。
城内では普段と変わらず家臣たちが行き交い、政務を担う者たちは忙しく働いている。だが、奥向きに仕える者たちは、楓の様子を気にかけていた。
父・北条氏政と兄・氏直の戦死。
その報せを受けた日、楓はしばらく言葉を失っていた。
何度も読み返した書状には、小田原城が徳川と伊達の攻撃によって落ち、父と兄がともに討ち死にしたことが記されていた。
間違いであってほしいと願った。
しかし、後から届いた知らせも、同じ事実を伝えていた。
楓は泣き崩れることもなく、静かに書状を畳んだ。ただ、その日から食事の量が減り、夜更けまで灯りの消えない日が続いていた。
茶々も、その変化に気づいていた。
何かと楓の部屋を訪ねては、食事を運ばせたり、子供たちの様子を伝えたりしていたが、父と兄の話を無理に聞き出そうとはしなかった。
茶々自身、父・浅井長政を失い、後には母・お市とも死別している。
大切な者を失った悲しみが、他人の慰めだけで消えるものではないことを知っていた。
そんな折、北条領から逃れてきた人々が林道領へ入ったとの報告が届いた。
「楓様。小田原より落ち延びてきた者たちが、領内へ到着いたしました」
家臣の報告に、楓は顔を上げた。
「……どれほどの人数ですか?」
「まだすべてを確認できておりませぬが、北条の旧臣だけではございません。負傷した兵や女子供も多く、道中で力尽きかけた者もいるとのこと」
「すぐに受け入れの支度を整えてください。食事と寝床を用意し、傷を負った者には手当てを。身分によって扱いを変えることのないようにお願いします」
家臣は頭を下げたものの、すぐには立ち去らなかった。
「楓様。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「これからも避難してくる者が増えるやもしれませぬ。兵糧には備えがございますが、数が増えれば領内の負担も大きくなります。殿がご不在の今、どこまで受け入れるべきか……」
楓は家臣の言葉を遮らなかった。
景継が東へ軍を進めている以上、兵糧は軍にも必要となる。避難民を受け入れることが、容易な話ではないことくらい理解していた。
「懸念は分かります。ですから、まず人数と必要な食糧を確かめ、無理のないよう手配してください。足りないものがあれば、私にも知らせてください」
「はっ」
「ですが、城門までたどり着いた者を追い返すことだけは、したくありません」
楓は膝の上で重ねていた手を、そっと握り直した。
「父上が守ろうとした者たちです。今度は、私たちが守る番です」
家臣が深く頭を下げたところで、傍らにいた茶々が口を開いた。
「楓様。奥向きの支度は、私にも手伝わせてくださいませ」
「茶々様……」
「寝具や衣類の用意なら、私にもできます。それに、幼い子を連れた方々もおられるのでしょう? 女房たちと手分けして、休める場所を整えておきます」
楓は一瞬、言葉に詰まった。
「……ありがとうございます」
「礼などいりませぬ。今は、皆でできることをいたしましょう」
茶々はそう言って微笑み、女房たちに声をかけるため部屋を出ていった。
その背中を見送った楓は、庭へ目を向けた。
小田原で過ごした日々が、ふと脳裏をよぎる。
父は厳しい人だった。兄もまた、北条の将来を背負う立場にあり、いつも何かを考えていた。
それでも、自分が嫁ぐと決まったとき、父が見せた寂しそうな笑顔を、楓は今も覚えている。
(父上……兄上……)
もう一度、会いたかった。
その願いが叶わないことを、楓は誰よりもよく分かっていた。
◇ ◇ ◇
北条の人々が城へ到着したのは、その日の昼過ぎだった。
長い道のりを歩いてきた者たちの姿は、痛ましいものだった。
具足の一部を失った武士が足を引きずり、腕に布を巻いた男が仲間に肩を貸されている。幼子を抱いた母親は、城門をくぐったところでようやく安堵したのか、その場に座り込んでしまった。
家族とはぐれた者もいた。
名前を呼び続ける子供の声に、周囲の大人たちは何も答えられず、ただ背中をさすっていた。
楓は家臣たちとともに、その人々を迎えた。
「まずは身体を休めてください。温かいものを用意しております。怪我をしている方は、こちらへ」
楓が声をかけると、避難民たちの間に小さなどよめきが広がった。
やがて、一人の年配の武士が前へ進み出る。
「……楓様」
その声は震えていた。
男は膝をつき、深々と頭を下げた。
「我ら、北条の命を受け、この地まで落ち延びてまいりました」
「よくぞ、ご無事で……」
楓が言い終えるより早く、男は額を地につけた。
「申し訳ございませぬ……! 我らは、氏政様も氏直様もお守りすることができませなんだ!」
その言葉に、周囲の旧臣たちも次々と頭を下げた。
「我らだけが生き延びてしまいました……」
「どうか、お許しくだされ……」
楓はしばらく彼らを見つめていた。
目の前にいる者たちは、父と兄を見捨てて逃げたわけではない。傷を負い、家族を連れ、ようやくここまでたどり着いたのだ。
「皆、顔を上げてください」
それでも誰も動かなかったため、楓は一歩近づいた。
「父上と兄上は、皆を逃がすよう命じられたのでしょう?」
年配の武士が、涙に濡れた顔を上げる。
「……はい」
「ならば、皆がここにいることを、私は責めたりいたしません」
男は唇を震わせた。
楓は、その男に小田原での様子を尋ねた。
話を聞くうちに、城が落ちるまでの光景が少しずつ明らかになっていった。
徳川と伊達の軍勢が迫る中、氏直は退路を守るため、兵を率いて敵を食い止めていたという。
「氏直様は、我らに振り返るなと仰せになりました。女子供を先に通し、一人でも多く逃がせと……」
男は拳を握りしめた。
「最後にお姿を見たときも、氏直様は敵へ向かっておられました。我らは、その背中を見ながら城を離れたのでございます」
楓は静かに耳を傾けた。
兄らしいと思った。
幼い頃から責任感が強く、誰かが困っていれば、自分のことを後回しにしてでも手を差し伸べる人だった。
「父上は……?」
楓が尋ねると、男はうつむいた。
「氏政様は、城に残られました。我らが脱出する前、最後まで北条の者たちを逃がすよう、お命じになっておられました」
「……そうですか」
「我らが見たのは、そこまでにございます。その後のことは、逃げ延びる途中で聞いた知らせでしか……」
楓は小さく頷いた。
二人の死はすでに知らされている。
それでも、最後に何をしていたのかを聞けたことが、わずかな慰めになった。
父も兄も、最後まで北条の人々を守ろうとしていた。
その思いを受け取った者たちが、今こうして目の前にいる。
◇ ◇ ◇
「楓様……もう一つ、お伝えしなければならぬことがございます」
年配の武士が、懐から小さな包みを取り出した。
中には、道中で汚れぬよう大切に守られてきた書付が収められていた。
「氏政様より、楓様へお言葉を託されております」
楓の胸が強く脈打った。
「……父上が?」
「はい。氏政様は、最後にこう仰せでした」
男は一度言葉を詰まらせ、それでも顔を上げた。
「『父は最後まで、お前の幸せを願っていた』と」
楓は、差し出された書付を受け取った。
指先がわずかに震える。
父は、最後まで自分のことを案じていたのだ。
林道へ嫁いでからも、折に触れて届いた便り。
万代丸が生まれたときの喜びよう。
凛の誕生を知らせた際には、今度会うときには抱かせてほしいと、嬉しそうな返事が届いた。
そして、明。
生まれたばかりのあの子の顔を、父は一度も見ていない。
(……父上)
楓は書付を胸元へ寄せた。
泣いてしまいたかった。
誰もいない場所で、声を上げて泣けたなら、どれほど楽だっただろう。
けれど、目の前には父と兄の命令を守り、必死に生き延びた人々がいる。
彼らもまた、大切なものを失っていた。
楓はゆっくり息を整え、顔を上げた。
「皆……よくぞ、ここまで生き延びてくださいました」
旧臣たちが顔を上げる。
「父上も兄上も、皆が生き延びることを望んでおられました。だからこそ、最後まで戦われたのだと思います」
楓は、一人ひとりの顔を見渡した。
「どうか、生きてください。それが、あの方々の願いなのです」
誰かが嗚咽を漏らした。
それをきっかけに、こらえていた涙があちこちでこぼれ始める。
楓は彼らが落ち着くまで、そこを離れなかった。
北条の姫として何かを成し遂げられたわけではない。
それでも、父と兄が守ろうとした人々を、今度は自分が支えたい。
その思いだけは、揺らぐことがなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、楓は子供たちのいる部屋へ戻った。
万代丸は女房に見守られながら遊んでいたが、楓の姿を見つけると、小さな足で駆け寄ってきた。
「母上!」
「万代丸。まだ起きていたのですね」
楓が微笑むと、万代丸はじっと顔を見つめた。
「母上、どうして悲しそうなのですか?」
思いがけない問いに、楓は返事を失った。
子供の前では普段どおりにしていたつもりだった。
それでも、幼い万代丸には何かが伝わっていたらしい。
楓は膝を折り、息子と目を合わせた。
「……母上の父上と兄上が、遠いところで亡くなったのです」
「もう、会えないの?」
「……ええ。もう、会えません」
万代丸はしばらく考え込んでいたが、やがて小さな手を伸ばし、楓の袖を握った。
「母上、泣かないで」
その言葉に、楓は息子を抱き寄せた。
「ありがとう、万代丸」
万代丸は母の胸に顔を埋めたまま、じっとしていた。
少し離れたところでは、茶々が凛を抱いていた。いつもなら元気に動き回る娘も、今夜は眠そうに目をこすっている。
「万代丸は優しい子ですね」
茶々が穏やかに声をかけると、楓は小さく頷いた。
「……ええ。本当に」
楓は万代丸を女房に預けると、眠っている明をそっと抱き上げた。
小さな身体は温かく、胸元に寄せるとかすかな寝息が聞こえた。
父は、この子を抱くことができなかった。
生まれたことを喜んでくれたのに、その顔を見ることさえ叶わなかった。
「……父上」
楓は明の頬に指を添えた。
「この子を、一度でよいから抱いていただきたかった……」
言葉にした途端、こらえていた涙が頬を伝った。
人々の前では泣くまいと思っていた。
北条の姫として、林道家の奥方として、しっかりしていなければならないと自分に言い聞かせてきた。
けれど、今だけは無理だった。
明を抱いたまま、楓は静かに泣いた。
茶々は凛を女房に預けると、楓の隣へ腰を下ろした。
「……楓様」
楓は涙を拭おうとしたが、茶々は何も言わず、そっと手を重ねた。
しばらくの間、二人は黙っていた。
やがて茶々が、静かに口を開いた。
「私も、父上と母上に……もっと話しておけばよかったと思うことがあります」
楓は顔を上げた。
「茶々様……」
「何年経っても、思い出すことがあるのです。あのとき、こうしていればよかった。あんなことを言わなければよかった、と」
茶々は眠っている凛へ目を向けた。
「けれど、もう会えぬのですよね……」
その声には、普段の明るさとは違う寂しさがあった。
楓は茶々の手を握り返した。
「……私も、きっと同じことを考え続けるのでしょうね」
「ええ。ですが、一人で抱え込まないでくださいませ」
茶々は楓を見つめた。
「私にも、できることはございますから」
楓は何度か頷いた。
「……ありがとうございます、茶々様」
その夜、楓は久しぶりに、誰かの前で悲しみを隠さずにいられた。
◇ ◇ ◇
数日後、景継からの書状が届いた。
楓は使者を労い、休ませるよう命じてから、自室で封を開いた。
そこには、小田原への救援が間に合わなかったことへの悔恨が、景継らしい丁寧な言葉で綴られていた。
氏政と氏直を救えなかったこと。
楓の父と兄を失わせてしまったことへの謝罪。
そして、北条の生存者を決して見捨てず、守れる者を守るために力を尽くすという約束。
楓は書状を最後まで読み、もう一度最初から目を通した。
景継がどれほど悔やんでいるか、文字から伝わってくるようだった。
夫はいつも冷静で、どのようなときも容易には感情を表に出さない。
それでも、家族を大切にしていることを楓は知っていた。
父と兄のことも、ただの同盟相手として見ていたわけではない。
九州から急ぎ軍を引き返したことも、すでに聞いている。
間に合わなかったのは、景継が救おうとしなかったからではない。
楓は書状を胸に抱いた。
「……景継様」
今、夫がそばにいてくれたなら。
そう思わなかったわけではない。
けれど、夫には夫の果たすべき務めがある。
自分にも、ここで守らなければならない者たちがいる。
楓は文机に向かい、筆を取った。
『景継様。どうか、ご自身をお責めにならないでください』
一文字ずつ、丁寧に書き進める。
『父上も兄上も、きっとそのようなことは望んでおられません』
楓は一度筆を止め、窓の外を見た。
北条から逃れてきた人々は、今も城内や近くの屋敷で身体を休めている。
まだ家族の消息が分からない者もいる。
傷が癒えず、眠れぬ夜を過ごしている者もいるだろう。
『私は、父上たちが守ろうとした人々を、ここでお守りいたします』
書き終えた楓は、しばらく筆を置かなかった。
やがて、子供たちは皆元気にしていること、景継にも身体を大切にしてほしいことを書き添え、静かに文を畳んだ。
離れていても、互いの思いは変わらない。
そう信じることが、今の楓には何よりの支えだった。
◇ ◇ ◇
翌日、楓は北条の旧臣たちを集めた。
傷の深い者は無理に出席させず、動ける者だけが広間へ通された。
楓は、まず当面の暮らしについて説明した。
住む場所と食糧を用意し、負傷者の手当てを続けること。家族とはぐれた者については、届く知らせを確かめながら消息を調べること。
旧臣たちは、黙って耳を傾けていた。
やがて、一人の武士が進み出る。
「楓様。我らは北条に仕えた武士にございます。このまま世話になるばかりでは、申し訳が立ちませぬ。どうか林道家にお仕えすることを、お許しいただけませぬか」
その言葉に、何人かが頷いた。
楓は彼らの思いを受け止めながらも、すぐには返事をしなかった。
「皆の気持ちは、ありがたく思います」
楓は静かに答えた。
「ですが、家臣としてお迎えするかどうか、またどのようなお役目をお願いするかは、景継様がお戻りになってから決めていただきます」
「……承知いたしました」
「それまでは客分としてお過ごしください。今は何より、傷を癒やし、ご家族を守ることを考えてほしいのです」
旧臣たちは深く頭を下げた。
しばらくして、年配の武士が顔を上げた。
「楓様……一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何でしょう?」
「北条の名は……これで絶えてしまうのでございましょうか」
広間が静まり返った。
北条は関東に大きな勢力を築き、多くの家臣と領民を抱えてきた。
だが今、その城は落ち、当主も後継者も失われた。
旧臣たちが行く末を案じるのも、無理はなかった。
楓はゆっくり首を横に振った。
「いいえ。父上や兄上が守ろうとしたものは、まだここにあります」
楓は集まった人々を見渡した。
「皆が生きている限り、北条の歩んだ道が消えることはありません」
年配の武士は、しばらく何も言えなかった。
やがて、深く頭を下げる。
「……ありがたき、お言葉にございます」
ほかの旧臣たちも、それに続いた。
北条が大名として失ったものは、あまりにも大きい。
それでも、彼らが積み重ねてきた年月まで、消えてしまったわけではない。
この先、林道家のもとで新たな役目を得る者もいるだろう。
別の道を選ぶ者もいるかもしれない。
その行く末は、まだ誰にも分からなかった。
ただ一つ、楓には確かなことがあった。
彼らを、二度と行き場のない者にはしたくなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
子供たちが寝静まった部屋で、楓は明の傍らに座っていた。
万代丸は遊び疲れて眠り、凛も女房に寝かしつけられている。
茶々は先ほどまで楓とともに子供たちの様子を見ていたが、今は女房たちに明日の支度を頼んでいる。
明は小さな手を布団の外へ出し、穏やかな寝息を立てていた。
楓はその手を、そっと指で包んだ。
「明……」
呼びかけても、娘は目を覚まさない。
「あなたのお祖父様は、とても立派な方だったのですよ」
楓は静かに語りかけた。
「少し頑固で、心配性で……けれど、誰よりも家族を大切にしてくださる方でした」
父が孫の話になると嬉しそうに笑ったこと。
兄が、幼い自分を何かと気にかけてくれたこと。
小田原で過ごした、何でもない日々のこと。
いつか、この子たちが大きくなったら話して聞かせよう。
北条がどれほど大きな家だったかだけではない。
祖父がどんな人で、伯父が何を守ろうとしていたのか。
そのことを、忘れずに伝えていきたい。
明が小さく身じろぎし、楓の指を握った。
楓はその温もりに、わずかに微笑んだ。
そのとき、部屋の入り口から茶々が静かに声をかけた。
「楓様。明は眠りましたか?」
「ええ。ぐっすりと」
茶々は寝顔をのぞき込み、小さく笑った。
「本当に、可愛らしい寝顔ですね」
楓も頷いた。
二人はしばらく、眠る明を見つめていた。
やがて茶々が、楓の隣に腰を下ろす。
「楓様。景継様がお戻りになるまで、二人でこの家を守りましょう」
楓は茶々へ顔を向けた。
「……はい」
その返事には、以前よりも確かな力があった。
父も兄も、もう帰ってこない。
その事実は、これから先も変わらない。
けれど、二人が命を懸けて守った人々は、今も生きている。
そして、自分たちのそばには、これから未来を歩んでいく子供たちがいる。
茶々が部屋を出た後、楓は明の布団を掛け直し、窓の外へ目を向けた。
遠い東の地では、今も景継が軍を率いている。
無事に帰ってきてほしい。
その願いを胸に、楓はしばらく夜空を見つめていた。
北条の旗は、小田原から失われた。
それでも、その血と記憶は、確かにここへ受け継がれていた。




