第二百八十五話 届かなかった救援
東へ続く街道を、林道軍が進んでいた。
九州から引き返して以来、兵たちは短い休息を挟みながら行軍を続けている。道端で足を止めた者は水を飲み、傷んだ草鞋を結び直すと、再び列へ戻っていった。
先頭に近い場所を進む林道景継は、馬上からその様子を見ていた。
「殿。先ほど後方から報告がありました。足を痛めた兵が増えております」
傍らの弥兵衛が声をかける。
「歩けない者は無理に進ませず、後続に預けて休ませてください」
「しかし、急がねば北条が……」
「分かっています。ですが、兵を倒れさせては、着いたところで戦えません」
景継は前方へ目を向けた。
小田原は、まだ持ちこたえているだろうか。
最後に届いた知らせでは、徳川と伊達が各地の道を押さえ、北条の諸城を孤立させつつあるという。
家康が景継の帰還を待つはずもない。時間が経つほど、北条の立場は苦しくなる。
(……あと、どれほど持つ)
景継は胸の内で問いかけたが、答えを知る者はいなかった。
そのとき、前方から騎馬の兵が駆けてきた。
「急報! 小田原より急報にございます!」
兵の声に、景継は手綱を引いた。
「通してください」
馬を降りた使番は、息を切らしながら膝をついた。衣服には土埃が積もり、顔には疲労の色が濃い。
「申し上げます。小田原城……落城いたしました」
景継の指が、手綱の上で止まった。
弥兵衛が思わず身を乗り出す。
「何だと……!」
使番は顔を上げられないまま、報告を続けた。
「徳川軍の総攻撃により城内の守りは破られ、北条氏政様、氏直様は……ともに討ち死になされたとのことにございます」
風が、街道脇の木々を揺らした。
景継は使番を見つめていた。
氏政と氏直。
二人の名を聞いても、すぐには言葉が出てこなかった。
(……遅かったか)
九州で報せを受け、急ぎ軍を引き返した。行軍を続ける間も、何度となく距離と日数を考えた。
それでも、間に合わなかった。
「……落城が確認されたのは、いつですか」
しばらくして、景継が口を開いた。
使番が答えると、景継は続けて尋ねた。
「氏政殿と氏直殿の討死は、確かな報せですか」
「徳川方が両名の戦死を確認したとのこと。複数の知らせが一致しております」
「……そうですか」
景継は目を伏せた。
二人が最後まで城に残った理由も、逃げ延びた者がいるのかも、まだ分からない。
今分かっているのは、小田原が落ち、二人が帰らぬ人となったことだけだった。
「ご苦労でした。水と食事を与えて、休ませてあげてください」
使番が下がると、景継は弥兵衛へ向き直った。
「諸将を集めてください。行軍は一時止めます」
「……はっ」
弥兵衛は深く頭を下げた。
いつもと変わらぬ景継の声が、かえって痛ましく聞こえた。
◇ ◇ ◇
間もなく、街道近くに設けられた陣幕へ諸将が集まった。
加藤清正、福島正則、藤堂高虎、石田三成、大谷吉継、小西行長、仙石秀久。
誰もが急な招集の理由を察していたのか、陣幕の中には重い空気が漂っていた。
景継は全員が揃うのを待ち、静かに告げた。
「小田原が落ちました。氏政殿と氏直殿は、ともに戦死されたそうです」
最初に声を上げたのは清正だった。
「……何と!」
正則も顔をしかめる。
「家康め……! 我らが戻る前に決着をつけおったか!」
「殿!」
清正が一歩進み出た。
「すぐに軍を進めましょう! ここで足を止めていては、徳川に好き勝手を許すばかりです!」
「俺も同じ考えだ」
正則が続ける。
「北条を滅ぼして、それで終わりと思わせてはなりませぬ。今こそ家康に思い知らせるべきでしょう!」
その言葉に、三成が眉を寄せた。
「待て。兵の状態を考えよ」
「何だと、三成!」
「九州から休みなく戻ってきたのだ。すでに足を痛めた者も多く、兵糧の運搬も追いついておらぬ。このまま徳川と戦えば、こちらが不利になる」
「だからといって、何もせずにおれと言うのか!」
「そうは言っておらぬ。戦うための支度が必要だと言っている」
二人の声が強くなったところで、吉継が口を開いた。
「清正殿の気持ちは分かる。だが、三成の懸念も軽んじられぬ」
吉継は地図に目を落とした。
「兵が戦場へ着くことと、そこで十分に戦えることは別だ。疲れた兵を無理に進めれば、敵と刃を交える前に力を失う」
清正は唇を結んだが、反論はしなかった。
続いて高虎が口を開く。
「それに、敵の立場も変わっております」
「どういうことだ?」
正則が尋ねた。
「小田原を攻めている間、徳川は城を落とすために兵を使っておりました。だが、落城した今は違う。我らの進軍を防ぐために兵を回せます」
高虎は地図の関東方面を指した。
「家康は我らが来ることを承知しているはず。無理に進めば、待ち構えているところへ飛び込むことになりかねませぬ」
「……確かにな」
正則が苦々しく呟いた。
小西行長も頷いた。
「兵糧のこともございます。進軍を続けるなら、どこで食わせ、どこで休ませるかを定めねばなりませぬ。戦を始めてから補給を考えるのでは遅い」
「しかし、慎重になり過ぎれば家康に時を与えるぞ」
仙石秀久が口を挟んだ。
「小田原を手にしたばかりなら、徳川も城の始末や兵の配置で忙しいはずだ。こちらが動く姿勢を見せておかねば、敵は安心して守りを固める」
高虎は頷いた。
「それゆえ、進軍そのものを止めるべきではないと考えます。ただ、全軍を一息にぶつけるのは危うい」
「……なるほどな」
秀久は腕を組んだ。
諸将の意見は分かれていた。
清正と正則は、敵に時間を与えることを恐れている。
三成と吉継は、疲弊した軍が戦力を発揮できぬことを懸念している。
高虎は敵の備えを、行長は補給を、秀久は進軍を止めることによる不利益を見ていた。
景継は、そのすべてを黙って聞いていた。
やがて、地図の前へ進み出る。
「皆の意見には、それぞれ道理があります」
諸将の視線が集まった。
「ですが、一つ考えなければならないことがあります」
景継は小田原の位置へ指を置いた。
「我々は何のために、九州から引き返したのでしょうか」
清正が答える。
「北条を救うためにございます」
「そのとおりです。ですが、城は落ちました。氏政殿も氏直殿も、すでに亡くなられました」
景継は一度言葉を切った。
「では、今なお守れるものは何でしょうか」
その問いに、諸将はすぐには答えなかった。
◇ ◇ ◇
「北条の一族や旧臣の中には、生き延びた者がいるかもしれません」
景継は静かに続けた。
「氏政殿も氏直殿も、最後まで戦われました。何のためにそこまで抵抗されたのか、我々にはまだ分かりません。ですが、逃がすべき者を逃がそうとした可能性はあります」
高虎が顔を上げた。
「……林道領へ落ち延びてくる者がいる、と?」
「十分に考えられます。楓がいますからね」
景継は頷いた。
「まず、北条の一族と旧臣の消息を調べてください。林道領へ逃れてきた者は、身分を問わず保護します。傷を負った者には手当てを施し、休める場所を用意してください」
「はっ」
続いて三成へ目を向けた。
「三成、行長。兵糧と補給路を確かめてください。兵を進めるために、どこで何が必要になるかを整理してほしい」
「承知いたしました」
「吉継は兵の疲労を見て、休ませる隊と進められる隊を分けてください。無理をさせて兵を失うことは避けたいのです」
吉継が深く頷いた。
「お任せください」
「高虎は徳川と伊達の動向を調べてください。小田原を落とした後、家康がどこへ兵を向けるのか。それが分からないうちは、こちらも軽々しく戦えません」
「はっ」
景継は清正、正則、秀久へ向き直った。
「三人には、進軍を続けるための備えをお願いします。敵の動きに応じて軍を動かせるよう、兵を整えておいてください」
清正が口を開いた。
「……殿。家康を討つことは、諦められたのでございますか」
景継は首を横に振った。
「諦めるつもりはありません」
その返答に、清正の目が鋭くなった。
「ですが、今の我々が急いで攻め込めば、家康は喜ぶでしょう。疲れた兵を相手にする方が、あの男にとっては都合がよいのです」
景継は地図から顔を上げた。
「氏政殿と氏直殿が何を守ろうとしたのか、我々が忘れてはなりません」
清正は何か言いかけ、口を閉じた。
景継は続ける。
「お二人を救うことはできませんでした。だからこそ、残された者まで失うわけにはいきません」
正則が深く息を吐いた。
「……分かりました。俺たちも、戦える状態を整えておきます」
「お願いします」
景継が頷くと、諸将はそれぞれの役目を果たすため、陣幕を出ていった。
◇ ◇ ◇
軍議が終わっても、景継は地図の前を離れなかった。
陣幕の外では、兵たちが再び動き始めている。休息を命じられた者が具足を緩め、別の隊では次の行軍に備えて荷をまとめていた。
弥兵衛は、しばらく黙ってその背中を見ていた。
「……殿」
景継は顔を上げない。
「何ですか」
「少し、お休みになられてはいかがでしょう」
「まだ確かめたいことがあります」
「それは、明日でもできることにございます」
景継はようやく弥兵衛へ目を向けた。
普段なら、軍議が終われば必要な指示を済ませ、すぐに次の仕事へ移る。だが今日は、同じ地図を何度も見返していた。
「……弥兵衛」
「はっ」
「氏政殿は、明に会うのを楽しみにしておられました」
弥兵衛は黙って耳を傾けた。
「万代丸が生まれたときも、ずいぶん喜んでくださいました。凛のことも、楓からの便りを楽しみにしておられたようです」
景継は地図の端に手を置いた。
「明が生まれたと知らせたときも、いつか顔を見たいと……」
言葉が途切れた。
氏政の穏やかな表情が、景継の脳裏に浮かぶ。
北条を率いる大名としての顔ではない。
孫の話になると、つい頬を緩めてしまう一人の祖父の姿だった。
「……せめて、一度くらいは会わせてあげたかった」
弥兵衛は、すぐには返事をしなかった。
景継が自分を責めていることは分かる。
だが、九州から小田原までの距離を、どれほど急いでも縮められるわけではない。
「殿は、できる限りのことをなされました」
しばらくして、弥兵衛が静かに告げた。
景継は首を横に振った。
「できる限りのことをしたからといって、間に合わなかった事実は変わりません」
「……はっ」
「氏直殿も、まだ若かった。これから先、北条をどう立て直すか、考えることもあったでしょう」
景継は目を伏せた。
氏直とは、北条の将来について言葉を交わしたことがある。
慎重で、責任感が強く、ときに父の意向を気にし過ぎるところもあった。
それでも、自分の家と領民を守ろうとする思いに偽りはなかった。
(……二人とも、まだ生きるべき人だった)
景継は胸の奥に生じた痛みを、しばらくそのままにしていた。
やがて地図を畳み、弥兵衛へ渡す。
「……過ぎたことを考えるのは、ここまでにしましょう」
弥兵衛が顔を上げた。
「殿」
「後悔が消えることはありません。ですが、今も我々を頼っている者がいるかもしれません。その者たちを守るために、できることをしなければなりません」
弥兵衛は深く頭を下げた。
「……どこまでも、お供いたします」
景継は小さく頷いた。
◇ ◇ ◇
その夜。
景継は陣幕の中で、一通の書状をしたためていた。
宛先は、楓。
筆を取ってから、すでに幾度か書き出しを改めている。
小田原城が落ちたこと。
氏政と氏直が戦死したこと。
救援が間に合わなかったこと。
どれも、書かなければならない。
だが、言葉を並べるほど、それらが妻に与える悲しみの大きさを思い知らされた。
楓は、父と兄を慕っていた。
林道へ嫁いでからも、折に触れて小田原の様子を気にかけていた。
万代丸や凛の成長を伝えるときには、いつも嬉しそうに筆を走らせていたという。
明が生まれたときも、父に早く知らせたいと笑っていた。
(……楓)
景継は筆を止めた。
中央にいる楓のもとへ、すでに別の使者が知らせを届けているかもしれない。
あるいは、まだ何も知らず、子どもたちといつもの日々を過ごしているのかもしれない。
どちらであっても、景継には今、直接そばにいてやることができなかった。
しばらくして、景継は再び筆を動かした。
父と兄を救えなかったことを詫び、自らも二人の死を深く悲しんでいることを伝える。
そして、楓と子どもたちを必ず守ると書き添えた。
書き終えても、景継はすぐには筆を置かなかった。
最後の一文を見つめ、何かを加えようとして、結局そのままにした。
どれほど言葉を重ねても、失われた二人を取り戻すことはできない。
景継は書状を丁寧に折り、封をした。
「弥兵衛」
呼びかけると、陣幕の外から返事があった。
「はっ」
「この書状を楓のもとへ届けてください。急がせて構いませんが、使者には無理をさせないように」
「承知いたしました」
弥兵衛は書状を受け取った。
その手元を見つめながら、景継は付け加えた。
「……楓が、少しでも心を休められるようにしてあげてください」
「はっ。必ず」
弥兵衛が退出すると、景継は一人、灯火を見つめた。
炎が小さく揺れている。
遠く離れた場所で、楓も同じ夜を迎えているのだろうか。
そう思ったところで、景継は静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
林道軍は、再び東への進軍を始めた。
ただし、昨日までとは軍の動きが違っていた。
疲労の激しい兵は休ませ、進める隊から順に道へ出す。兵糧を運ぶ者たちは不足を確かめ、使番は徳川と伊達の動向を探るため、それぞれの持ち場へ向かった。
清正と正則も、兵を急き立てることはしなかった。
二人とも家康への怒りを忘れたわけではない。
ただ、今ここで兵を失えば、いざ戦うときに力を発揮できぬことを理解していた。
景継は馬上から、東へ続く道を見つめた。
北条が滅びたことで、関東の情勢は大きく変わった。
家康は小田原を手に入れ、伊達政宗とともに勢力を広げようとしている。
これまで北条が担っていた役割を、今後は誰が引き受けるのか。
その答え次第で、東国の勢力図はさらに変わるだろう。
(……家康)
景継は、かつての相手の言葉や振る舞いを思い返した。
家康は、感情だけで動く男ではない。
北条を滅ぼしたのも、景継が戻る前に戦の形を変えるためだったはずだ。
ならば、こちらが怒りに任せて攻め込めば、相手の思惑に乗ることになる。
景継は手綱を握り直した。
氏政と氏直の死は、決して忘れない。
だが、その死を理由に、守るべき者まで危険にさらすことはできなかった。
「殿、先行する隊の支度が整いました」
弥兵衛の声に、景継は頷いた。
「進めてください。ただし、各隊との連絡を絶やさないように。敵の動きが分かれば、すぐに知らせてください」
「はっ!」
兵たちが動き始める。
景継は最後にもう一度、地図を開いた。
小田原を示す場所には、もはや北条の旗はない。
それでも、北条のすべてが失われたわけではない。
生き残った者がいるのなら、その者たちを守る。
そして、これ以上家康に好き勝手な進軍を許すつもりもなかった。
景継は地図を閉じ、東の空を見上げた。
「……家康殿。次は、我々の番ですね」
その声は、誰に聞かせるでもなく静かだった。
九州から引き返した林道軍は、今度こそ家康と向き合うため、東へ進んでいく。
小田原への救援は、届かなかった。
だが、失われたものを胸に刻んだ景継の戦いは、ここから新たな局面を迎えようとしていた。




