↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
285/290

第二百八十五話 届かなかった救援



東へ続く街道を、林道軍が進んでいた。


九州から引き返して以来、兵たちは短い休息を挟みながら行軍を続けている。道端で足を止めた者は水を飲み、傷んだ草鞋を結び直すと、再び列へ戻っていった。


先頭に近い場所を進む林道景継は、馬上からその様子を見ていた。


「殿。先ほど後方から報告がありました。足を痛めた兵が増えております」


傍らの弥兵衛が声をかける。


「歩けない者は無理に進ませず、後続に預けて休ませてください」


「しかし、急がねば北条が……」


「分かっています。ですが、兵を倒れさせては、着いたところで戦えません」


景継は前方へ目を向けた。


小田原は、まだ持ちこたえているだろうか。


最後に届いた知らせでは、徳川と伊達が各地の道を押さえ、北条の諸城を孤立させつつあるという。


家康が景継の帰還を待つはずもない。時間が経つほど、北条の立場は苦しくなる。


(……あと、どれほど持つ)


景継は胸の内で問いかけたが、答えを知る者はいなかった。


そのとき、前方から騎馬の兵が駆けてきた。


「急報! 小田原より急報にございます!」


兵の声に、景継は手綱を引いた。


「通してください」


馬を降りた使番は、息を切らしながら膝をついた。衣服には土埃が積もり、顔には疲労の色が濃い。


「申し上げます。小田原城……落城いたしました」


景継の指が、手綱の上で止まった。


弥兵衛が思わず身を乗り出す。


「何だと……!」


使番は顔を上げられないまま、報告を続けた。


「徳川軍の総攻撃により城内の守りは破られ、北条氏政様、氏直様は……ともに討ち死になされたとのことにございます」


風が、街道脇の木々を揺らした。


景継は使番を見つめていた。


氏政と氏直。


二人の名を聞いても、すぐには言葉が出てこなかった。


(……遅かったか)


九州で報せを受け、急ぎ軍を引き返した。行軍を続ける間も、何度となく距離と日数を考えた。


それでも、間に合わなかった。


「……落城が確認されたのは、いつですか」


しばらくして、景継が口を開いた。


使番が答えると、景継は続けて尋ねた。


「氏政殿と氏直殿の討死は、確かな報せですか」


「徳川方が両名の戦死を確認したとのこと。複数の知らせが一致しております」


「……そうですか」


景継は目を伏せた。


二人が最後まで城に残った理由も、逃げ延びた者がいるのかも、まだ分からない。


今分かっているのは、小田原が落ち、二人が帰らぬ人となったことだけだった。


「ご苦労でした。水と食事を与えて、休ませてあげてください」


使番が下がると、景継は弥兵衛へ向き直った。


「諸将を集めてください。行軍は一時止めます」


「……はっ」


弥兵衛は深く頭を下げた。


いつもと変わらぬ景継の声が、かえって痛ましく聞こえた。


◇ ◇ ◇


間もなく、街道近くに設けられた陣幕へ諸将が集まった。


加藤清正、福島正則、藤堂高虎、石田三成、大谷吉継、小西行長、仙石秀久。


誰もが急な招集の理由を察していたのか、陣幕の中には重い空気が漂っていた。


景継は全員が揃うのを待ち、静かに告げた。


「小田原が落ちました。氏政殿と氏直殿は、ともに戦死されたそうです」


最初に声を上げたのは清正だった。


「……何と!」


正則も顔をしかめる。


「家康め……! 我らが戻る前に決着をつけおったか!」


「殿!」


清正が一歩進み出た。


「すぐに軍を進めましょう! ここで足を止めていては、徳川に好き勝手を許すばかりです!」


「俺も同じ考えだ」


正則が続ける。


「北条を滅ぼして、それで終わりと思わせてはなりませぬ。今こそ家康に思い知らせるべきでしょう!」


その言葉に、三成が眉を寄せた。


「待て。兵の状態を考えよ」


「何だと、三成!」


「九州から休みなく戻ってきたのだ。すでに足を痛めた者も多く、兵糧の運搬も追いついておらぬ。このまま徳川と戦えば、こちらが不利になる」


「だからといって、何もせずにおれと言うのか!」


「そうは言っておらぬ。戦うための支度が必要だと言っている」


二人の声が強くなったところで、吉継が口を開いた。


「清正殿の気持ちは分かる。だが、三成の懸念も軽んじられぬ」


吉継は地図に目を落とした。


「兵が戦場へ着くことと、そこで十分に戦えることは別だ。疲れた兵を無理に進めれば、敵と刃を交える前に力を失う」


清正は唇を結んだが、反論はしなかった。


続いて高虎が口を開く。


「それに、敵の立場も変わっております」


「どういうことだ?」


正則が尋ねた。


「小田原を攻めている間、徳川は城を落とすために兵を使っておりました。だが、落城した今は違う。我らの進軍を防ぐために兵を回せます」


高虎は地図の関東方面を指した。


「家康は我らが来ることを承知しているはず。無理に進めば、待ち構えているところへ飛び込むことになりかねませぬ」


「……確かにな」


正則が苦々しく呟いた。


小西行長も頷いた。


「兵糧のこともございます。進軍を続けるなら、どこで食わせ、どこで休ませるかを定めねばなりませぬ。戦を始めてから補給を考えるのでは遅い」


「しかし、慎重になり過ぎれば家康に時を与えるぞ」


仙石秀久が口を挟んだ。


「小田原を手にしたばかりなら、徳川も城の始末や兵の配置で忙しいはずだ。こちらが動く姿勢を見せておかねば、敵は安心して守りを固める」


高虎は頷いた。


「それゆえ、進軍そのものを止めるべきではないと考えます。ただ、全軍を一息にぶつけるのは危うい」


「……なるほどな」


秀久は腕を組んだ。


諸将の意見は分かれていた。


清正と正則は、敵に時間を与えることを恐れている。


三成と吉継は、疲弊した軍が戦力を発揮できぬことを懸念している。


高虎は敵の備えを、行長は補給を、秀久は進軍を止めることによる不利益を見ていた。


景継は、そのすべてを黙って聞いていた。


やがて、地図の前へ進み出る。


「皆の意見には、それぞれ道理があります」


諸将の視線が集まった。


「ですが、一つ考えなければならないことがあります」


景継は小田原の位置へ指を置いた。


「我々は何のために、九州から引き返したのでしょうか」


清正が答える。


「北条を救うためにございます」


「そのとおりです。ですが、城は落ちました。氏政殿も氏直殿も、すでに亡くなられました」


景継は一度言葉を切った。


「では、今なお守れるものは何でしょうか」


その問いに、諸将はすぐには答えなかった。


◇ ◇ ◇


「北条の一族や旧臣の中には、生き延びた者がいるかもしれません」


景継は静かに続けた。


「氏政殿も氏直殿も、最後まで戦われました。何のためにそこまで抵抗されたのか、我々にはまだ分かりません。ですが、逃がすべき者を逃がそうとした可能性はあります」


高虎が顔を上げた。


「……林道領へ落ち延びてくる者がいる、と?」


「十分に考えられます。楓がいますからね」


景継は頷いた。


「まず、北条の一族と旧臣の消息を調べてください。林道領へ逃れてきた者は、身分を問わず保護します。傷を負った者には手当てを施し、休める場所を用意してください」


「はっ」


続いて三成へ目を向けた。


「三成、行長。兵糧と補給路を確かめてください。兵を進めるために、どこで何が必要になるかを整理してほしい」


「承知いたしました」


「吉継は兵の疲労を見て、休ませる隊と進められる隊を分けてください。無理をさせて兵を失うことは避けたいのです」


吉継が深く頷いた。


「お任せください」


「高虎は徳川と伊達の動向を調べてください。小田原を落とした後、家康がどこへ兵を向けるのか。それが分からないうちは、こちらも軽々しく戦えません」


「はっ」


景継は清正、正則、秀久へ向き直った。


「三人には、進軍を続けるための備えをお願いします。敵の動きに応じて軍を動かせるよう、兵を整えておいてください」


清正が口を開いた。


「……殿。家康を討つことは、諦められたのでございますか」


景継は首を横に振った。


「諦めるつもりはありません」


その返答に、清正の目が鋭くなった。


「ですが、今の我々が急いで攻め込めば、家康は喜ぶでしょう。疲れた兵を相手にする方が、あの男にとっては都合がよいのです」


景継は地図から顔を上げた。


「氏政殿と氏直殿が何を守ろうとしたのか、我々が忘れてはなりません」


清正は何か言いかけ、口を閉じた。


景継は続ける。


「お二人を救うことはできませんでした。だからこそ、残された者まで失うわけにはいきません」


正則が深く息を吐いた。


「……分かりました。俺たちも、戦える状態を整えておきます」


「お願いします」


景継が頷くと、諸将はそれぞれの役目を果たすため、陣幕を出ていった。


◇ ◇ ◇


軍議が終わっても、景継は地図の前を離れなかった。


陣幕の外では、兵たちが再び動き始めている。休息を命じられた者が具足を緩め、別の隊では次の行軍に備えて荷をまとめていた。


弥兵衛は、しばらく黙ってその背中を見ていた。


「……殿」


景継は顔を上げない。


「何ですか」


「少し、お休みになられてはいかがでしょう」


「まだ確かめたいことがあります」


「それは、明日でもできることにございます」


景継はようやく弥兵衛へ目を向けた。


普段なら、軍議が終われば必要な指示を済ませ、すぐに次の仕事へ移る。だが今日は、同じ地図を何度も見返していた。


「……弥兵衛」


「はっ」


「氏政殿は、明に会うのを楽しみにしておられました」


弥兵衛は黙って耳を傾けた。


「万代丸が生まれたときも、ずいぶん喜んでくださいました。凛のことも、楓からの便りを楽しみにしておられたようです」


景継は地図の端に手を置いた。


「明が生まれたと知らせたときも、いつか顔を見たいと……」


言葉が途切れた。


氏政の穏やかな表情が、景継の脳裏に浮かぶ。


北条を率いる大名としての顔ではない。


孫の話になると、つい頬を緩めてしまう一人の祖父の姿だった。


「……せめて、一度くらいは会わせてあげたかった」


弥兵衛は、すぐには返事をしなかった。


景継が自分を責めていることは分かる。


だが、九州から小田原までの距離を、どれほど急いでも縮められるわけではない。


「殿は、できる限りのことをなされました」


しばらくして、弥兵衛が静かに告げた。


景継は首を横に振った。


「できる限りのことをしたからといって、間に合わなかった事実は変わりません」


「……はっ」


「氏直殿も、まだ若かった。これから先、北条をどう立て直すか、考えることもあったでしょう」


景継は目を伏せた。


氏直とは、北条の将来について言葉を交わしたことがある。


慎重で、責任感が強く、ときに父の意向を気にし過ぎるところもあった。


それでも、自分の家と領民を守ろうとする思いに偽りはなかった。


(……二人とも、まだ生きるべき人だった)


景継は胸の奥に生じた痛みを、しばらくそのままにしていた。


やがて地図を畳み、弥兵衛へ渡す。


「……過ぎたことを考えるのは、ここまでにしましょう」


弥兵衛が顔を上げた。


「殿」


「後悔が消えることはありません。ですが、今も我々を頼っている者がいるかもしれません。その者たちを守るために、できることをしなければなりません」


弥兵衛は深く頭を下げた。


「……どこまでも、お供いたします」


景継は小さく頷いた。


◇ ◇ ◇


その夜。


景継は陣幕の中で、一通の書状をしたためていた。


宛先は、楓。


筆を取ってから、すでに幾度か書き出しを改めている。


小田原城が落ちたこと。


氏政と氏直が戦死したこと。


救援が間に合わなかったこと。


どれも、書かなければならない。


だが、言葉を並べるほど、それらが妻に与える悲しみの大きさを思い知らされた。


楓は、父と兄を慕っていた。


林道へ嫁いでからも、折に触れて小田原の様子を気にかけていた。


万代丸や凛の成長を伝えるときには、いつも嬉しそうに筆を走らせていたという。


明が生まれたときも、父に早く知らせたいと笑っていた。


(……楓)


景継は筆を止めた。


中央にいる楓のもとへ、すでに別の使者が知らせを届けているかもしれない。


あるいは、まだ何も知らず、子どもたちといつもの日々を過ごしているのかもしれない。


どちらであっても、景継には今、直接そばにいてやることができなかった。


しばらくして、景継は再び筆を動かした。


父と兄を救えなかったことを詫び、自らも二人の死を深く悲しんでいることを伝える。


そして、楓と子どもたちを必ず守ると書き添えた。


書き終えても、景継はすぐには筆を置かなかった。


最後の一文を見つめ、何かを加えようとして、結局そのままにした。


どれほど言葉を重ねても、失われた二人を取り戻すことはできない。


景継は書状を丁寧に折り、封をした。


「弥兵衛」


呼びかけると、陣幕の外から返事があった。


「はっ」


「この書状を楓のもとへ届けてください。急がせて構いませんが、使者には無理をさせないように」


「承知いたしました」


弥兵衛は書状を受け取った。


その手元を見つめながら、景継は付け加えた。


「……楓が、少しでも心を休められるようにしてあげてください」


「はっ。必ず」


弥兵衛が退出すると、景継は一人、灯火を見つめた。


炎が小さく揺れている。


遠く離れた場所で、楓も同じ夜を迎えているのだろうか。


そう思ったところで、景継は静かに目を閉じた。


◇ ◇ ◇


翌朝。


林道軍は、再び東への進軍を始めた。


ただし、昨日までとは軍の動きが違っていた。


疲労の激しい兵は休ませ、進める隊から順に道へ出す。兵糧を運ぶ者たちは不足を確かめ、使番は徳川と伊達の動向を探るため、それぞれの持ち場へ向かった。


清正と正則も、兵を急き立てることはしなかった。


二人とも家康への怒りを忘れたわけではない。


ただ、今ここで兵を失えば、いざ戦うときに力を発揮できぬことを理解していた。


景継は馬上から、東へ続く道を見つめた。


北条が滅びたことで、関東の情勢は大きく変わった。


家康は小田原を手に入れ、伊達政宗とともに勢力を広げようとしている。


これまで北条が担っていた役割を、今後は誰が引き受けるのか。


その答え次第で、東国の勢力図はさらに変わるだろう。


(……家康)


景継は、かつての相手の言葉や振る舞いを思い返した。


家康は、感情だけで動く男ではない。


北条を滅ぼしたのも、景継が戻る前に戦の形を変えるためだったはずだ。


ならば、こちらが怒りに任せて攻め込めば、相手の思惑に乗ることになる。


景継は手綱を握り直した。


氏政と氏直の死は、決して忘れない。


だが、その死を理由に、守るべき者まで危険にさらすことはできなかった。


「殿、先行する隊の支度が整いました」


弥兵衛の声に、景継は頷いた。


「進めてください。ただし、各隊との連絡を絶やさないように。敵の動きが分かれば、すぐに知らせてください」


「はっ!」


兵たちが動き始める。


景継は最後にもう一度、地図を開いた。


小田原を示す場所には、もはや北条の旗はない。


それでも、北条のすべてが失われたわけではない。


生き残った者がいるのなら、その者たちを守る。


そして、これ以上家康に好き勝手な進軍を許すつもりもなかった。


景継は地図を閉じ、東の空を見上げた。


「……家康殿。次は、我々の番ですね」


その声は、誰に聞かせるでもなく静かだった。


九州から引き返した林道軍は、今度こそ家康と向き合うため、東へ進んでいく。


小田原への救援は、届かなかった。


だが、失われたものを胸に刻んだ景継の戦いは、ここから新たな局面を迎えようとしていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。