第二百八十四話 小田原落城
相模国、小田原城。
夜明けとともに、徳川軍の総攻撃が始まった。
城外から響く鉄砲の音に、物見櫓の兵が身を伏せる。南西の外郭では、徳川勢が盾を並べて土塁へ迫り、北条方の弓兵が矢を浴びせていた。
「敵が柵に取りつきました!」
「槍隊を前へ! 後ろの者は矢を絶やすな!」
怒号が飛び交う中、北条氏直は自ら前線へ駆けつけた。
昨夜までの戦いで兵は疲れ切っていたが、徳川勢は隊を入れ替えながら攻撃を続けている。ようやく敵を退けたと思えば、別の部隊が押し寄せてきた。
「氏直様、このままでは持ちませぬ!」
家臣の訴えに、氏直は崩れかけた柵を見た。
「内側の曲輪へ退け。負傷者を先に運び、退路には槍を並べよ」
「しかし、ここを明け渡せば……!」
「ここで兵を失えば、次を守る者がおらぬ!」
氏直の一喝に、家臣は頷いた。
北条方が退き始めると、徳川勢が追撃に移る。氏直は残った兵とともに踏みとどまり、敵が狭い通路へ入り込んだところで槍を突き出させた。
その抵抗に徳川勢の足が止まる。
だが、守りを立て直す間にも、別の場所から悪い知らせが届いた。
「北方の道が伊達勢に押さえられました! 周辺の城からの援軍は望めませぬ!」
氏直は唇を噛んだ。
南西で敵を食い止めても、北方の守りが崩される。徳川と伊達は互いの動きを補い、北条に兵を集める暇を与えなかった。
(……家康め)
昨日まで通じていた道が、今日は使えない。
このままでは小田原は、兵を残したまま孤立する。
氏直は城内へ使番を走らせ、自らも次の守備へ向かった。
◇ ◇ ◇
徳川軍本陣。
「南西の外郭を突破いたしました。ただし、北条方は整然と退き、内側の曲輪で抵抗を続けております」
報告を聞いた家康は、地図の上に置かれた駒を動かした。
「深追いはするな。退いた兵を追って狭い場所へ入れば、こちらの損害が増える」
本多正信が頷く。
「では、攻め手を分けますか」
「うむ。正面で圧力をかけ続け、その間に別の守りを崩す。北条に休む間を与えるな」
「伊達勢も北方の道を押さえつつあります」
「ならば、なおよい」
家康は小田原城を見つめた。
氏政も氏直も、容易に降る相手ではない。だからこそ、正面から力をぶつけるだけでは時間がかかる。
その時間こそ、今の家康が最も惜しんでいるものだった。
「景継の動きは?」
「九州より戻っていることは確かですが、現在地までは掴めておりませぬ」
「……そうか」
家康は少しの間、黙っていた。
「北条が持ちこたえれば、景継は我らの背後を脅かす。ここで決着をつけねばならぬ」
「承知いたしました」
「ただし、降る者まで討つな。城下に火を放つことも禁ずる」
正信が顔を上げた。
「占領後の統治をお考えで?」
「城を落としても、民が従わねば国は治まらぬ。それに、これから景継を相手にするというのに、無用な敵を増やす必要はあるまい」
家康の命令は、すぐに各隊へ伝えられた。
◇ ◇ ◇
午後、小田原城の守りはさらに狭まっていた。
北方から戻った兵が内側の曲輪へ入り、負傷者を運ぶ家臣たちが通路を行き交う。氏政のもとには、外郭の一角を失ったとの報告に続き、城下にも敵兵が入り始めたという知らせが届いた。
「……もはや、援軍を待つだけでは済まぬな」
氏政は地図を見つめたまま呟いた。
城を守る兵はまだいる。だが、徳川と伊達に道を押さえられた以上、兵糧も援軍も思うようには届かない。
仮に今日をしのいでも、明日はさらに苦しくなるだろう。
氏政は近くの家臣へ向き直った。
「一族の者を集めよ。女子供と負傷者も、動ける者から退避の支度をさせる」
家臣は驚いて顔を上げた。
「殿、城を捨てられるのでございますか!」
「わしは残る」
氏政は静かに答えた。
「だが、北条の者すべてを、この城と運命をともにさせるわけにはいかぬ」
「しかし、敵は周囲の道を……」
「すべての道が塞がれたわけではあるまい。敵の目が届きにくい山道を選び、少人数に分けて逃がすのだ」
氏政は言葉を続けた。
「行き先は林道領。楓がおる。景継殿ならば、必ず受け入れてくれる」
家臣はなおも迷っていたが、やがて深く頭を下げた。
「……承知いたしました」
氏政はその背中を見送った。
北条が築き上げてきた城も、領地も、失われようとしている。
それでも、生き残った者がいれば、北条の家は絶えない。
氏政が最後に選んだのは、城を守ることよりも、人を残すことだった。
◇ ◇ ◇
夕刻、前線から戻った氏直は、父の前に膝をついた。
具足には泥がこびりつき、頬には浅い傷が走っている。
「父上。西の守りは、次の曲輪まで退きました。これ以上押し込まれれば、本丸にも敵が迫ります」
「……よく持ちこたえた」
氏政は息子の姿を見つめた。
「氏直。一族を逃がすことにした」
氏直の表情が変わった。
「……父上は?」
「わしは城に残る」
「なりませぬ!」
思わず声を上げた氏直は、すぐに口を閉じた。
氏政は咎めず、息子が続きを話すのを待った。
「父上が残られるのであれば、私も残ります」
「お前は当主だ。生き延び、北条の名を残す道もある」
「それは父上にも言えることではありませぬか」
氏政は答えなかった。
氏直は膝の上で拳を握りしめた。
「私は、北条を守るために戦ってまいりました。ですが、城も領地も守れず、一族だけを逃がして自分が生き残るなど……」
「氏直」
氏政の声は穏やかだった。
「生き残ることは、恥ではない」
氏直は顔を上げた。
「分かっております。ですが、退路を守る者が必要です。父上が本丸を守られるのであれば、その役目は私にお任せください」
氏政は、息子をじっと見つめた。
幼い頃から、何度も教えを授けてきた。家督を譲った後も、危ういと思えば口を出した。
その息子が今、自らの意思で死地へ向かおうとしている。
「……怖くはないのか」
氏直は少しだけ目を伏せた。
「怖くないと言えば、嘘になります」
その返答に、氏政の表情がわずかに緩んだ。
「私とて、まだ生きたい。楓にも会いたいですし、あの子の子どもたちの顔も見てみたい」
氏直は一度言葉を切った。
「ですが、逃がした者たちが無事に林道領へ着けるのであれば、それだけで救われます」
氏政は目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
「……お前には、もっと穏やかな世を見せてやりたかった」
「父上」
「すまぬな。北条の重荷を背負わせてばかりだった」
氏直は首を振った。
「私は、父上の子として生まれたことを誇りに思っております」
二人はしばらく見つめ合った。
やがて氏政は、息子の肩へ手を置いた。
「……任せたぞ」
「はっ」
氏直は深く頭を下げ、立ち上がった。
振り返ることなく広間を出ていく息子を、氏政はいつまでも見送っていた。
◇ ◇ ◇
夜。
城の奥では、北条の一族と家臣たちが密かに集められていた。
幼い子を抱いた母親、足を引きずる老人、傷を負いながらも歩こうとする兵。誰もが不安を抱え、互いの顔を見合わせている。
氏政は、その前に姿を現した。
「皆、聞いてほしい」
ざわめきが収まった。
「これより、そなたらを城外へ逃がす。林道領を目指し、生き延びるのだ」
家臣の一人が膝をついた。
「殿も、どうかご一緒に!」
氏政は首を横に振った。
「わしには、まだ役目がある」
「しかし……!」
「北条の名を守るために、皆が死ぬ必要はない」
氏政は人々を見渡した。
「城を失っても、領地を失っても、生きてさえいれば、再び歩み始めることができる。だから、どうか生きてくれ」
幼い子どもが母親の袖を握り、泣きそうな顔をしていた。
氏政はその子の前に膝をつき、頭を撫でた。
「怖いか」
子どもは小さく頷いた。
「そうか。だが、母上の手を離してはならぬぞ」
その小さな手を見たとき、氏政の胸に孫たちの姿が浮かんだ。
万代丸、凛、そして生まれたばかりの明。
楓から届いた便りには、子どもたちの成長が嬉しそうに綴られていた。
いつか皆で小田原へ来てほしい。
そう返事を書いたのは、ついこの間のことのように思える。
(……一度くらい、明を抱いてやりたかったな)
氏政は胸の内に浮かんだ思いを振り払い、退避を任せた家臣へ告げた。
「楓に会えたなら、伝えてほしい。父は最後まで、お前の幸せを願っていたと」
家臣は涙をこらえ、深く頭を下げた。
やがて一団は、灯を隠しながら山道へ向けて歩き始めた。
◇ ◇ ◇
深夜、徳川軍が内側の門を破った。
氏直は残った兵を率い、狭い通路で敵を迎え撃った。
「槍を揃えよ! 前へ出過ぎるな!」
押し寄せる敵を何度も退けるが、徳川勢は数に勝り、北条方の兵は一人、また一人と倒れていった。
「氏直様、これ以上は!」
家臣が叫ぶ。
「退いてください!」
「まだだ。皆が逃げきっておらぬ!」
氏直は刀を振るい、迫る敵兵を退けた。
腕は重く、息をするたびに胸が痛んだ。
そのとき、一人の使番が駆け込んできた。
「氏直様! 一族の方々は退避の道へ入りました!」
氏直は、わずかに目を閉じた。
「……そうか」
少なくとも、守るべき者たちは城を離れた。
「お前は父上のもとへ戻れ。このことを伝えるのだ」
「しかし、氏直様は!」
「命令だ!」
家臣が走り去ると、氏直は再び敵へ向き直った。
(……楓)
幼い頃、城の庭を駆け回っていた妹の姿が浮かんだ。
林道へ嫁ぐ日、笑おうとしながらも目に涙を浮かべていた。
あの妹は今、母となり、子どもたちに囲まれて暮らしている。
(……幸せになれよ)
その瞬間、敵兵の槍が脇腹を捉えた。
「ぐっ……!」
氏直はよろめきながらも刀を振るったが、続く攻撃を避ける力は残っていなかった。
膝が折れ、地面へ倒れ込む。
遠くで家臣が自分の名を叫んでいる。
(……皆、無事に逃げられただろうか)
薄れゆく意識の中で、氏直は妹の顔を思い浮かべた。
(……楓、達者でな)
そのまま、北条氏直は動かなくなった。
◇ ◇ ◇
小田原城、本丸。
「……氏直様、討ち死になされました」
使番の報告に、氏政はしばらく言葉を失った。
目の前の家臣が何かを続けている。しかし、その声が遠く感じられた。
幼い頃の氏直が浮かんだ。
初めて刀を握った日、うまく振れずに悔し涙を流していたこと。
家督を継いだ日、緊張した顔で家臣たちの前に立っていたこと。
そして、つい先ほど交わした最後の言葉。
(……氏直)
父より先に逝かせてしまった。
その事実が、胸を深く刺した。
氏政は目を閉じ、しばらく動かなかった。
やがて、声を絞り出す。
「……一族は?」
「多くの方々が、すでに城を離れております」
氏政はゆっくりと頷いた。
「そうか……」
息子は、役目を果たしたのだ。
ならば、自分も最後まで果たさねばならない。
氏政は立ち上がり、刀を取った。
「わしも出る」
家臣が慌てて進み出た。
「殿! どうか本丸にお残りください!」
「ここに籠もっていても、敵はいずれ来る」
氏政は静かに答えた。
「それならば、少しでも長く敵を引きつけよう」
本丸へ続く道で、氏政は残った兵たちとともに徳川勢を迎え撃った。
「北条氏政、ここにあり!」
名乗りを聞いた敵兵が足を止める。
氏政は刀を構え、迫る敵へ向かった。
若い頃のようには動けない。それでも、長年の戦で培った経験を頼りに、敵の槍をかわし、刀を振るった。
だが、敵の数はあまりにも多かった。
肩を斬られ、足元がふらつく。
それでも氏政は退かなかった。
城の外へ続く道を、最後にもう一度見た。
あの先を、一族が逃げている。
(……楓)
娘の顔が浮かぶ。
(……万代丸、凛、明)
一度も会えなかった孫たち。
「……会いたかったな」
思わず声が漏れた。
そのとき、敵兵の槍が氏政の体を貫いた。
家臣が駆け寄るが、氏政はすでに立ち上がることができなかった。
薄れゆく意識の中で、娘を託した男の顔が浮かぶ。
(……景継殿)
どうか、楓を。
あの子たちを、守ってやってほしい。
氏政は、その願いを胸に目を閉じた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
小田原城の門に、徳川の旗が掲げられた。
長く関東に勢力を築いてきた北条は、ここに独立した大名勢力としての命運を終えた。
徳川軍本陣では、家康が正信から報告を受けていた。
「小田原城、落城いたしました。氏政、氏直の両名は、ともに討ち死にしたとのことにございます」
家康は目を閉じた。
「……最後まで、降らなんだか」
「はっ」
しばらく沈黙した後、家康は口を開いた。
「戦死した者は、敵味方の別なく弔わせよ。降った兵や民を傷つけることは許さぬ」
「承知いたしました」
正信が頭を下げる。
家康は地図へ視線を戻した。
北条は滅びた。
だが、その勝利を喜んでいる暇はない。
「……景継」
家康は小さく呟いた。
北条を救うために戻っている男は、この知らせを聞いて何を思うだろうか。
怒りに任せて攻め込んでくるか。
それとも、冷静に兵を整え、こちらの隙を探るか。
(……あの男ならば、後者であろうな)
家康は正信へ向き直った。
「諸将へ伝えよ。勝ったからといって気を緩めるな。これからが本当の戦いだ」
「……林道景継殿との戦にございますな」
「うむ」
家康は西へ続く街道を見つめた。
「北条を滅ぼしたことで、景継との争いは避けられぬものとなった」
その声に、勝利の高揚はなかった。
「……備えよ」
◇ ◇ ◇
小田原から離れた山道を、少人数の一団が進んでいた。
北条の一族と、彼らを守る家臣たちである。
幼い子を抱く母親、負傷した者を支える若者。誰もが疲れ果て、泥に汚れていた。
一団の先頭に立つ家臣が、ふと足を止めた。
振り返れば、遠くに小田原の山々が見える。
「……殿」
氏政と氏直が、最後まで城に残ったことを思い出す。
二人が今どうなっているのか、確かな知らせはない。
それでも、もう戻れないことだけは分かっていた。
「……行こう」
家臣は、皆へ声をかけた。
「我らには、まだ生きねばならぬ理由がある」
人々は、疲れた足を再び動かし始めた。
目指す先は、林道領。
そこには、北条の娘・楓がいる。
氏政と氏直が命を懸けて守った者たちは、まだ生きていた。
小田原の城は落ちた。
だが、北条の血は途絶えていない。
そして、この悲報はやがて、九州から東へ向かう林道景継のもとにも届くことになる。




