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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百八十三話 北条への総攻撃


相模国、徳川軍本陣。


夜明け前の陣には、冷たい空気が漂っていた。


兵たちは声を潜めながら具足を整え、槍の穂先を確かめている。馬の鼻息と革紐を締める音が、薄暗い陣のあちこちから聞こえていた。


その中央に設けられた陣幕の中で、徳川家康は地図を見つめていた。


相模国。


小田原城。


そして、その周囲に残る北条方の城や砦。


家康の前には、北条を取り囲むために動かしてきた軍勢の配置が示されていた。


「……時は来たな」


低い声で呟く。


傍らに控えていた本多正信が、静かに頭を下げた。


「はっ。各隊、すでに出陣の支度を整えております」


「伊達からの返事は?」


「政宗殿も、北方より攻勢を強めるとのこと。こちらの動きに合わせ、北条方の諸城へ一斉に兵を進める手筈にございます」


家康は頷いた。


「よい」


そう答えながらも、その視線は小田原城ではなく、西へ続く街道に向けられていた。


正信は、その様子に気づいていた。


「……林道景継殿のことでございますな」


家康は、わずかに口元を緩めた。


「察しがよいな、正信」


「九州より兵を引き返しているとの報せが入っております。いずれ、北条救援のために動くものと」


「いずれ、では遅い」


家康は静かに言った。


「景継は、こちらが思うよりも早く動く男だ。北条の危機を知れば、必ず手を打つ」


「すでに九州を離れたのであれば、なおさらでございましょう」


「うむ」


家康は地図の上に置かれた駒を一つ動かした。


「北条を滅ぼすことだけなら、時間をかけて城を囲めばよい。兵糧を断ち、諸城を落とし、降伏を待つ。それも一つの手だ」


そこで言葉を切り、正信を見た。


「だが、その時間を景継に与えれば、戦はまるで違うものになる」


正信は頷いた。


北条が健在のまま林道軍が到着すれば、徳川と伊達は二つの勢力を相手にしなければならない。


まして、景継の軍勢には、数々の戦場を経験した将たちが揃っている。


「ゆえに、今のうちに北条を屈服させる必要がある、ということでございますな」


「そうだ」


家康は、静かに息を吐いた。


「北条を残せば、景継は北条を支える。北条を失えば、景継は自らの軍勢だけで我らに向き合わねばならぬ」


その言葉に、正信は一瞬目を細めた。


「……北条の旧臣が林道へ流れる可能性もございます」


「無論、それも考えておる」


家康は頷いた。


「だが、城と領地を持つ北条と、落ち延びた旧臣とでは、動かせる兵も兵糧も違う」


正信は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


家康は地図へ視線を戻した。


「ただし、無用な犠牲は出すな。降る城には降伏を認め、抵抗する城には兵を向ける。北条の領民まで敵に回す必要はない」


「はっ」


「そして、小田原へ通じる道を押さえよ。北条が各地の兵を集め直す暇を与えるな」


正信が陣幕を出ていくと、家康は一人、地図を見つめた。


小田原城を示す駒の向こうに、景継の姿が重なる。


(……景継)


北条を救うために、どこまで急いでくる。


どれほどの兵を率いてくる。


その答えは、まだ分からない。


だが、家康は確信していた。


今ここで北条を討ち果たさねば、いずれ自分が景継に追い詰められる。


「……先に動いた者が、勝機を掴む」


家康は小さく呟いた。


やがて陣の外から、出陣を告げる法螺貝が響き渡った。


◇ ◇ ◇


同じ頃。


武蔵国北部、伊達軍本陣。


伊達政宗は、陣の前に集まった諸将を見渡していた。


まだ若い政宗の表情には、年齢に似合わぬ鋭さが宿っている。


「徳川が動く」


政宗は短く告げた。


「我らも、これに合わせて北条を攻める」


家臣の一人が口を開いた。


「殿。北条方は各地で守りを固めております。無理に攻めれば、こちらにも相応の損害が出るかと」


「分かっておる」


政宗は頷いた。


「だからこそ、すべての城を力攻めするつもりはない」


地図を広げ、北条方の諸城を指した。


「徳川が南から圧力をかける。その間に我らは北方の道を押さえ、北条の兵が小田原へ集まるのを妨げる」


「城を落とすよりも、まず道を断つのでございますか」


「そうだ」


政宗は不敵に笑った。


「城に籠もる者が、援軍も兵糧も届かぬと知ればどうなる?」


「……士気が下がります」


「それだけではない。守り続けるべきか、降るべきか、迷いが生まれる」


政宗は地図の上を指でなぞった。


「その迷いが広がれば、北条の守りは内側から崩れる」


家臣たちは頷いた。


政宗はさらに続けた。


「ただし、北条を侮るな。氏政も氏直も、ここまで国を守ってきた者たちだ。追い詰められた敵ほど、思わぬ力を見せることがある」


「はっ!」


「我らが狙うのは、一つ一つの首ではない。北条が軍勢をまとめる力、そのものを奪うことだ」


政宗は立ち上がった。


「各隊、出陣せよ!」


その号令とともに、伊達軍もまた動き始めた。


◇ ◇ ◇


相模国、小田原城。


朝日が昇る頃には、城内の空気はすでに張り詰めていた。


使番が次々と駆け込み、各地から届く報告を読み上げている。


「申し上げます! 徳川軍、南西の街道より進軍を開始!」


「北方の城より急報! 伊達軍が兵を進め、街道を封鎖しつつあるとのこと!」


「さらに、徳川方より降伏を促す使者が複数の城へ向かった模様!」


北条氏直は、地図の前で拳を握りしめた。


「……一斉に動いたか」


その傍らで、氏政は静かに報告を聞いていた。


「父上」


氏直が振り返った。


「徳川と伊達は、我らに兵を集める暇を与えぬつもりにございます」


「うむ」


氏政は頷いた。


「景継殿の救援を恐れておるのだろう」


「……やはり、そうお考えですか」


「でなければ、ここまで急ぐ必要はあるまい」


氏政は地図を見つめた。


徳川と伊達が、それぞれ別の方向から攻め込んでいる。


その動きは、単に小田原城を囲むためだけのものではなかった。


各地の城を孤立させ、北条の軍勢を分断する。


そして、救援が到着する前に、北条を屈服させる。


「……よく考えられた攻め方だ」


氏政は苦々しく呟いた。


氏直が口を開いた。


「父上。こちらも兵を動かし、敵の一角を崩すべきでは?」


「どこを攻める?」


「徳川軍の先鋒にございます。あそこを押し返せば、少なくとも南からの圧力は弱まります」


氏政は少し考えた。


「……確かに、一時的には押し返せるやもしれぬ」


「では!」


「だが、そのために小田原の兵を大きく減らせば、別の道から敵が迫る」


氏直は言葉を詰まらせた。


氏政は続けた。


「家康は、我らが兵を動かすことも考えておるはずだ。敵の誘いに乗ってはならぬ」


「……承知いたしました」


「ただし、何もせず待つわけにもいかぬ」


氏政は地図の一角を指した。


「ここだ。南方の道が狭くなる場所がある。大軍は一度に通れぬ」


氏直が顔を近づけた。


「……ここで敵の進軍を妨げるのでございますか」


「うむ。少数の兵を送り、道を塞がせよ。敵が攻めてくれば退き、追ってくれば次の守りへ引き込む」


氏直は頷いた。


「時間を稼ぐのですね」


「そうだ」


氏政は静かに答えた。


「今の我らに必要なのは、敵を討ち取った数ではない。景継殿が戻るまでの時間だ」


氏直は深く頭を下げた。


「私が指揮を執ります」


氏政は息子を見つめた。


「……無理はするな」


「承知しております」


「お前まで失えば、北条は立ち行かぬ」


氏直は一瞬、父の顔を見た。


その言葉に込められた重みを理解したのだろう。


「必ず戻ります」


そう答えると、氏直は陣幕を出ていった。


氏政は、その背中を見送った。


(……氏直)


幼い頃から、北条の次代を担う者として育ててきた息子。


その息子を、今は戦場へ送り出さねばならない。


氏政は静かに目を閉じた。


◇ ◇ ◇


数刻後。


相模国南部。


狭い街道を進む徳川軍の先鋒が、突然足を止めた。


「敵だ!」


前方の丘に、北条の旗が翻っている。


道の両脇には柵が築かれ、弓兵がこちらへ狙いを定めていた。


「北条勢、迎撃の構え!」


徳川軍の先鋒を率いる将は、すぐに兵を止めた。


「……無理に進むな。弓の届かぬ場所で陣を整えよ」


その直後、北条方から矢が放たれた。


数本の矢が地面に突き刺さり、徳川の兵たちが身を伏せる。


「盾を前へ!」


徳川軍も応戦を始めた。


だが、北条軍は長く戦おうとはしなかった。


一定の時間、敵を足止めすると、柵の奥へ兵を引き始めたのである。


「敵が退くぞ!」


徳川軍の兵が声を上げた。


「追いますか!」


先鋒の将は、すぐには答えなかった。


北条軍の退き方が、あまりにも整っている。


「……待て。追うな」


「しかし!」


「敵は、こちらを誘っておるやもしれぬ」


将は周囲を見渡した。


道の先には、さらに狭い谷筋が続いている。


そこへ無理に進めば、左右から攻撃を受ける危険があった。


「本陣へ報告せよ。北条軍は、街道を利用して我らの進軍を妨げております、と」


「はっ!」


徳川軍の先鋒は、慎重に前進を再開した。


しかし、その歩みは確実に遅くなっていた。


◇ ◇ ◇


夕刻。


小田原城へ戻った氏直は、父の前に膝をついた。


「父上。南方の敵は、予定していた場所で足止めすることができました」


「そうか」


氏政は安堵したように頷いた。


「損害は?」


「こちらも多少の負傷者は出ましたが、大きな損害はございませぬ」


「よくやった」


その言葉に、氏直はわずかに表情を緩めた。


だが、次の報告が、その安堵を打ち消した。


「申し上げます!」


使番が駆け込んできた。


「北方の城より急報! 伊達軍が街道を押さえ、城への兵糧輸送が困難となっております!」


氏直が顔を上げた。


「……何だと」


さらに別の使番が続いた。


「徳川方より降伏勧告を受けた城の一つが、開城を申し出たとのこと!」


広間に沈黙が落ちた。


一つの城が降れば、その周辺の守りも弱くなる。


それが続けば、やがて小田原そのものが孤立する。


氏政は静かに息を吐いた。


「……家康め」


氏直は拳を握りしめた。


「父上。我らが南で敵を足止めしている間に、別の場所を崩してきたということでございますか」


「そうだ」


氏政は頷いた。


「我らが一つの道を守れば、別の道を進む。城を守れば、その周囲を断つ」


「……厄介な相手です」


「うむ」


氏政は地図へ視線を落とした。


北条は、まだ敗れてはいない。


小田原城も健在であり、兵も残っている。


だが、戦の流れは少しずつ、確実に敵へ傾き始めていた。


「氏直」


「はっ」


「各地の城へ伝えよ。守りきれぬ場合は、無理に討ち死にするな。兵と民を逃がし、次の守りへ移れ」


氏直は驚いたように父を見た。


「……城を捨てることも認めるのでございますか」


「城は、後から取り戻すこともできる」


氏政は静かに答えた。


「だが、人の命は戻らぬ」


氏直は、しばらく父を見つめていた。


やがて深く頭を下げる。


「……承知いたしました」


氏政は、窓の向こうに広がる夕空を見つめた。


赤く染まる空の下で、小田原の町にはいつもと変わらぬ灯がともり始めている。


あの灯を守りたい。


その思いは、今も変わらなかった。


◇ ◇ ◇


その夜。


徳川軍本陣。


家康は、各地から届いた報告を聞いていた。


「南方の街道では、北条軍の抵抗により進軍が遅れております」


「北方では伊達軍が予定どおり道を押さえ、北条方の諸城を分断しつつあります」


「また、降伏を申し出た城が一つ。ほかにも、交渉を求める使者が来ております」


家康は、静かに頷いた。


「……氏政も、ただ待ってはおらぬか」


正信が口を開いた。


「南方の守りは、なかなか巧みにございます。無理に追えば、こちらにも損害が出たでしょう」


「うむ」


家康は頷いた。


「だが、北条がどれほど巧みに守ろうとも、すべての道を同時に守ることはできぬ」


家康は地図の上に置かれた駒を動かした。


「明日より、さらに圧力を強める」


「……総攻撃でございますか」


「そうだ」


家康は、静かに答えた。


「ただし、兵を無駄に失うな。降る城は受け入れ、抵抗する城には攻め手を集中させよ」


正信は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


家康は、小田原城を示す駒を見つめた。


「氏政。氏直」


その声は、誰に聞かせるでもなく静かだった。


「そなたらが国を守ろうとする思いは、分かる」


しかし、と続ける。


「わしにも、譲れぬものがある」


家康は立ち上がった。


「景継が戻る前に、北条を終わらせる」


その言葉とともに、徳川軍の諸将へ新たな命令が下された。


翌朝、徳川と伊達の軍勢は、さらに大きく動き始めることとなる。


北条の命運を決する戦いが、目前に迫っていた。



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