第二百八十三話 北条への総攻撃
相模国、徳川軍本陣。
夜明け前の陣には、冷たい空気が漂っていた。
兵たちは声を潜めながら具足を整え、槍の穂先を確かめている。馬の鼻息と革紐を締める音が、薄暗い陣のあちこちから聞こえていた。
その中央に設けられた陣幕の中で、徳川家康は地図を見つめていた。
相模国。
小田原城。
そして、その周囲に残る北条方の城や砦。
家康の前には、北条を取り囲むために動かしてきた軍勢の配置が示されていた。
「……時は来たな」
低い声で呟く。
傍らに控えていた本多正信が、静かに頭を下げた。
「はっ。各隊、すでに出陣の支度を整えております」
「伊達からの返事は?」
「政宗殿も、北方より攻勢を強めるとのこと。こちらの動きに合わせ、北条方の諸城へ一斉に兵を進める手筈にございます」
家康は頷いた。
「よい」
そう答えながらも、その視線は小田原城ではなく、西へ続く街道に向けられていた。
正信は、その様子に気づいていた。
「……林道景継殿のことでございますな」
家康は、わずかに口元を緩めた。
「察しがよいな、正信」
「九州より兵を引き返しているとの報せが入っております。いずれ、北条救援のために動くものと」
「いずれ、では遅い」
家康は静かに言った。
「景継は、こちらが思うよりも早く動く男だ。北条の危機を知れば、必ず手を打つ」
「すでに九州を離れたのであれば、なおさらでございましょう」
「うむ」
家康は地図の上に置かれた駒を一つ動かした。
「北条を滅ぼすことだけなら、時間をかけて城を囲めばよい。兵糧を断ち、諸城を落とし、降伏を待つ。それも一つの手だ」
そこで言葉を切り、正信を見た。
「だが、その時間を景継に与えれば、戦はまるで違うものになる」
正信は頷いた。
北条が健在のまま林道軍が到着すれば、徳川と伊達は二つの勢力を相手にしなければならない。
まして、景継の軍勢には、数々の戦場を経験した将たちが揃っている。
「ゆえに、今のうちに北条を屈服させる必要がある、ということでございますな」
「そうだ」
家康は、静かに息を吐いた。
「北条を残せば、景継は北条を支える。北条を失えば、景継は自らの軍勢だけで我らに向き合わねばならぬ」
その言葉に、正信は一瞬目を細めた。
「……北条の旧臣が林道へ流れる可能性もございます」
「無論、それも考えておる」
家康は頷いた。
「だが、城と領地を持つ北条と、落ち延びた旧臣とでは、動かせる兵も兵糧も違う」
正信は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
家康は地図へ視線を戻した。
「ただし、無用な犠牲は出すな。降る城には降伏を認め、抵抗する城には兵を向ける。北条の領民まで敵に回す必要はない」
「はっ」
「そして、小田原へ通じる道を押さえよ。北条が各地の兵を集め直す暇を与えるな」
正信が陣幕を出ていくと、家康は一人、地図を見つめた。
小田原城を示す駒の向こうに、景継の姿が重なる。
(……景継)
北条を救うために、どこまで急いでくる。
どれほどの兵を率いてくる。
その答えは、まだ分からない。
だが、家康は確信していた。
今ここで北条を討ち果たさねば、いずれ自分が景継に追い詰められる。
「……先に動いた者が、勝機を掴む」
家康は小さく呟いた。
やがて陣の外から、出陣を告げる法螺貝が響き渡った。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
武蔵国北部、伊達軍本陣。
伊達政宗は、陣の前に集まった諸将を見渡していた。
まだ若い政宗の表情には、年齢に似合わぬ鋭さが宿っている。
「徳川が動く」
政宗は短く告げた。
「我らも、これに合わせて北条を攻める」
家臣の一人が口を開いた。
「殿。北条方は各地で守りを固めております。無理に攻めれば、こちらにも相応の損害が出るかと」
「分かっておる」
政宗は頷いた。
「だからこそ、すべての城を力攻めするつもりはない」
地図を広げ、北条方の諸城を指した。
「徳川が南から圧力をかける。その間に我らは北方の道を押さえ、北条の兵が小田原へ集まるのを妨げる」
「城を落とすよりも、まず道を断つのでございますか」
「そうだ」
政宗は不敵に笑った。
「城に籠もる者が、援軍も兵糧も届かぬと知ればどうなる?」
「……士気が下がります」
「それだけではない。守り続けるべきか、降るべきか、迷いが生まれる」
政宗は地図の上を指でなぞった。
「その迷いが広がれば、北条の守りは内側から崩れる」
家臣たちは頷いた。
政宗はさらに続けた。
「ただし、北条を侮るな。氏政も氏直も、ここまで国を守ってきた者たちだ。追い詰められた敵ほど、思わぬ力を見せることがある」
「はっ!」
「我らが狙うのは、一つ一つの首ではない。北条が軍勢をまとめる力、そのものを奪うことだ」
政宗は立ち上がった。
「各隊、出陣せよ!」
その号令とともに、伊達軍もまた動き始めた。
◇ ◇ ◇
相模国、小田原城。
朝日が昇る頃には、城内の空気はすでに張り詰めていた。
使番が次々と駆け込み、各地から届く報告を読み上げている。
「申し上げます! 徳川軍、南西の街道より進軍を開始!」
「北方の城より急報! 伊達軍が兵を進め、街道を封鎖しつつあるとのこと!」
「さらに、徳川方より降伏を促す使者が複数の城へ向かった模様!」
北条氏直は、地図の前で拳を握りしめた。
「……一斉に動いたか」
その傍らで、氏政は静かに報告を聞いていた。
「父上」
氏直が振り返った。
「徳川と伊達は、我らに兵を集める暇を与えぬつもりにございます」
「うむ」
氏政は頷いた。
「景継殿の救援を恐れておるのだろう」
「……やはり、そうお考えですか」
「でなければ、ここまで急ぐ必要はあるまい」
氏政は地図を見つめた。
徳川と伊達が、それぞれ別の方向から攻め込んでいる。
その動きは、単に小田原城を囲むためだけのものではなかった。
各地の城を孤立させ、北条の軍勢を分断する。
そして、救援が到着する前に、北条を屈服させる。
「……よく考えられた攻め方だ」
氏政は苦々しく呟いた。
氏直が口を開いた。
「父上。こちらも兵を動かし、敵の一角を崩すべきでは?」
「どこを攻める?」
「徳川軍の先鋒にございます。あそこを押し返せば、少なくとも南からの圧力は弱まります」
氏政は少し考えた。
「……確かに、一時的には押し返せるやもしれぬ」
「では!」
「だが、そのために小田原の兵を大きく減らせば、別の道から敵が迫る」
氏直は言葉を詰まらせた。
氏政は続けた。
「家康は、我らが兵を動かすことも考えておるはずだ。敵の誘いに乗ってはならぬ」
「……承知いたしました」
「ただし、何もせず待つわけにもいかぬ」
氏政は地図の一角を指した。
「ここだ。南方の道が狭くなる場所がある。大軍は一度に通れぬ」
氏直が顔を近づけた。
「……ここで敵の進軍を妨げるのでございますか」
「うむ。少数の兵を送り、道を塞がせよ。敵が攻めてくれば退き、追ってくれば次の守りへ引き込む」
氏直は頷いた。
「時間を稼ぐのですね」
「そうだ」
氏政は静かに答えた。
「今の我らに必要なのは、敵を討ち取った数ではない。景継殿が戻るまでの時間だ」
氏直は深く頭を下げた。
「私が指揮を執ります」
氏政は息子を見つめた。
「……無理はするな」
「承知しております」
「お前まで失えば、北条は立ち行かぬ」
氏直は一瞬、父の顔を見た。
その言葉に込められた重みを理解したのだろう。
「必ず戻ります」
そう答えると、氏直は陣幕を出ていった。
氏政は、その背中を見送った。
(……氏直)
幼い頃から、北条の次代を担う者として育ててきた息子。
その息子を、今は戦場へ送り出さねばならない。
氏政は静かに目を閉じた。
◇ ◇ ◇
数刻後。
相模国南部。
狭い街道を進む徳川軍の先鋒が、突然足を止めた。
「敵だ!」
前方の丘に、北条の旗が翻っている。
道の両脇には柵が築かれ、弓兵がこちらへ狙いを定めていた。
「北条勢、迎撃の構え!」
徳川軍の先鋒を率いる将は、すぐに兵を止めた。
「……無理に進むな。弓の届かぬ場所で陣を整えよ」
その直後、北条方から矢が放たれた。
数本の矢が地面に突き刺さり、徳川の兵たちが身を伏せる。
「盾を前へ!」
徳川軍も応戦を始めた。
だが、北条軍は長く戦おうとはしなかった。
一定の時間、敵を足止めすると、柵の奥へ兵を引き始めたのである。
「敵が退くぞ!」
徳川軍の兵が声を上げた。
「追いますか!」
先鋒の将は、すぐには答えなかった。
北条軍の退き方が、あまりにも整っている。
「……待て。追うな」
「しかし!」
「敵は、こちらを誘っておるやもしれぬ」
将は周囲を見渡した。
道の先には、さらに狭い谷筋が続いている。
そこへ無理に進めば、左右から攻撃を受ける危険があった。
「本陣へ報告せよ。北条軍は、街道を利用して我らの進軍を妨げております、と」
「はっ!」
徳川軍の先鋒は、慎重に前進を再開した。
しかし、その歩みは確実に遅くなっていた。
◇ ◇ ◇
夕刻。
小田原城へ戻った氏直は、父の前に膝をついた。
「父上。南方の敵は、予定していた場所で足止めすることができました」
「そうか」
氏政は安堵したように頷いた。
「損害は?」
「こちらも多少の負傷者は出ましたが、大きな損害はございませぬ」
「よくやった」
その言葉に、氏直はわずかに表情を緩めた。
だが、次の報告が、その安堵を打ち消した。
「申し上げます!」
使番が駆け込んできた。
「北方の城より急報! 伊達軍が街道を押さえ、城への兵糧輸送が困難となっております!」
氏直が顔を上げた。
「……何だと」
さらに別の使番が続いた。
「徳川方より降伏勧告を受けた城の一つが、開城を申し出たとのこと!」
広間に沈黙が落ちた。
一つの城が降れば、その周辺の守りも弱くなる。
それが続けば、やがて小田原そのものが孤立する。
氏政は静かに息を吐いた。
「……家康め」
氏直は拳を握りしめた。
「父上。我らが南で敵を足止めしている間に、別の場所を崩してきたということでございますか」
「そうだ」
氏政は頷いた。
「我らが一つの道を守れば、別の道を進む。城を守れば、その周囲を断つ」
「……厄介な相手です」
「うむ」
氏政は地図へ視線を落とした。
北条は、まだ敗れてはいない。
小田原城も健在であり、兵も残っている。
だが、戦の流れは少しずつ、確実に敵へ傾き始めていた。
「氏直」
「はっ」
「各地の城へ伝えよ。守りきれぬ場合は、無理に討ち死にするな。兵と民を逃がし、次の守りへ移れ」
氏直は驚いたように父を見た。
「……城を捨てることも認めるのでございますか」
「城は、後から取り戻すこともできる」
氏政は静かに答えた。
「だが、人の命は戻らぬ」
氏直は、しばらく父を見つめていた。
やがて深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
氏政は、窓の向こうに広がる夕空を見つめた。
赤く染まる空の下で、小田原の町にはいつもと変わらぬ灯がともり始めている。
あの灯を守りたい。
その思いは、今も変わらなかった。
◇ ◇ ◇
その夜。
徳川軍本陣。
家康は、各地から届いた報告を聞いていた。
「南方の街道では、北条軍の抵抗により進軍が遅れております」
「北方では伊達軍が予定どおり道を押さえ、北条方の諸城を分断しつつあります」
「また、降伏を申し出た城が一つ。ほかにも、交渉を求める使者が来ております」
家康は、静かに頷いた。
「……氏政も、ただ待ってはおらぬか」
正信が口を開いた。
「南方の守りは、なかなか巧みにございます。無理に追えば、こちらにも損害が出たでしょう」
「うむ」
家康は頷いた。
「だが、北条がどれほど巧みに守ろうとも、すべての道を同時に守ることはできぬ」
家康は地図の上に置かれた駒を動かした。
「明日より、さらに圧力を強める」
「……総攻撃でございますか」
「そうだ」
家康は、静かに答えた。
「ただし、兵を無駄に失うな。降る城は受け入れ、抵抗する城には攻め手を集中させよ」
正信は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
家康は、小田原城を示す駒を見つめた。
「氏政。氏直」
その声は、誰に聞かせるでもなく静かだった。
「そなたらが国を守ろうとする思いは、分かる」
しかし、と続ける。
「わしにも、譲れぬものがある」
家康は立ち上がった。
「景継が戻る前に、北条を終わらせる」
その言葉とともに、徳川軍の諸将へ新たな命令が下された。
翌朝、徳川と伊達の軍勢は、さらに大きく動き始めることとなる。
北条の命運を決する戦いが、目前に迫っていた。




