第二百八十二話 楓の決意
林道家の居城。
春の陽射しが庭へ降り注ぎ、縁側には木々の柔らかな影が落ちていた。
「ははうえ! みて!」
幼い声に、楓は顔を上げた。
庭先では、万代丸が小さな木刀を両手で握っていた。
天正十二年に生まれた万代丸は、数えで四歳。まだ幼さの残る体に、木刀は少々大きく見える。
「えいっ!」
勢いよく振り下ろしたものの、木刀の重みに引っ張られ、万代丸はそのまま尻もちをついてしまった。
「……あっ」
目を丸くした万代丸を見て、傍らにいた家臣が慌てて手を差し伸べる。
しかし、万代丸はその手を取らず、自分で立ち上がった。
「だいじょうぶ!」
そして、再び木刀を構える。
「もういっかい!」
楓は思わず笑みをこぼした。
「まあ、元気なこと。けれど、無理をしてはいけませんよ」
「うん!」
万代丸は元気よく答えた。
楓はその姿を眺めながら、膝の上で眠る明の背を優しく撫でた。
今年生まれたばかりの明は、母の腕の中で穏やかな寝息を立てている。
少し離れた場所では、乳母に抱かれた凛が、庭に咲く花へ小さな手を伸ばしていた。
「あ……あっ」
「凛も、お花が気になるのですね」
楓が声をかけると、凛は嬉しそうに手足を動かした。
穏やかな午後だった。
だが、楓の胸には、ここしばらく晴れることのない不安があった。
徳川家康と伊達政宗が、北条へ兵を向けた。
その知らせは、すでに中央の林道領にも届いている。
小田原を中心に、北条が懸命に抵抗していることも聞いていた。
しかし、戦況を知らせる使者が訪れるたびに、届く報告は厳しいものばかりだった。
徳川軍の進軍。
伊達軍による北方への圧迫。
北条方の諸城が、次第に孤立しつつあるという知らせ。
楓は、その一つ一つを胸に刻んでいた。
(……お父様。兄上)
父・北条氏政。
兄・北条氏直。
二人は今も、小田原で北条を守るために戦っている。
そう思うだけで、胸が締めつけられた。
だが、楓には何もできない。
自ら兵を率いて救援へ向かうことも、父や兄の傍らへ駆けつけることもできなかった。
できることといえば、届く報せに耳を傾け、無事を祈ることだけだった。
「ははうえ!」
万代丸の声が、楓を現実へ引き戻した。
「できた!」
今度は尻もちをつかずに木刀を振れたらしい。
万代丸は得意げに笑っている。
楓は微笑んだ。
「ええ。上手にできましたね」
万代丸は満足そうに頷き、再び家臣の方へ駆けていった。
その小さな背中を見つめながら、楓は思う。
(……この子たちには、戦の恐ろしさなど知らずに育ってほしい)
けれど、それがどれほど難しい願いなのかも、楓は知っていた。
◇ ◇ ◇
「奥方様」
背後から声がした。
振り返ると、侍女が廊下に控えていた。
「いかがしました?」
「殿より、書状が届いております」
楓は顔を上げた。
「景継様から?」
「はい。九州より急ぎ届けられたものにございます」
楓は眠っている明を乳母へ預け、書状を受け取った。
夫からの便りは、これまでも幾度となく届いていた。
戦況を知らせる言葉のほかに、必ず家族の身を案じる一文が添えられている。
だが、今回は違っていた。
書状を広げ、読み進めるにつれて、楓の表情が変わっていく。
『楓へ。
北条を巡る情勢については、そちらにも報せが届いていることと思う。
徳川と伊達の動きは、私のもとにも伝わった。
氏政殿と氏直殿の身を案じている。
私は九州での指揮を官兵衛殿に託し、軍勢を率いて東へ戻ることとした。
すでに帰還の支度は整え、兵を順次動かしている。
一刻も早く戻り、北条への救援を図るつもりだ。
ただ、道のりは遠く、軍勢を動かすには相応の時を要する。
それでも、できる限りの手を尽くす。
楓には心配をかけるが、どうか子どもたちとともに、変わらず健やかに過ごしてほしい。
小田原へ皆で赴くという約束も、忘れてはおらぬ。
必ず戻る。
景継』
楓は、最後の一行を読み終えても、しばらく動かなかった。
(……やはり、景継様もお知りになられたのですね)
夫が北条の危機を知ったことに、驚きはなかった。
林道家の当主である景継が、東国の異変を見逃すはずがない。
だが、九州での戦を官兵衛へ託し、自ら軍勢を率いて戻るとまでは思っていなかった。
(……私のために、九州での戦を途中で託してまで……)
楓は書状を見つめた。
景継がどれほど難しい決断を下したのか、楓にも分かった。
九州の戦は、まだ終わっていない。
島津という強敵が残り、大友との協力も続いている。
その状況で主力を東へ戻すことは、決して容易な決断ではなかったはずだ。
それでも、景継は北条を救うために動いてくれた。
楓の胸に、温かなものが広がった。
(……ありがとうございます、景継様)
しかし、安堵と同時に、新たな不安も生まれた。
夫が戻ってきてくれる。
それは、夫が再び大きな戦へ身を投じることを意味していた。
徳川家康。
伊達政宗。
いずれも、容易に退けられる相手ではない。
まして、北条がすでに苦境に立たされているとなれば、救援は困難を極めるだろう。
楓は書状を握る手に、わずかに力を込めた。
(……お父様も、兄上も助かってほしい)
それは偽らざる願いだった。
だが、同時に思う。
(……景継様まで失うことになれば、私は……)
その先を考えることができなかった。
楓は目を閉じ、静かに息を整えた。
◇ ◇ ◇
その日の夕刻。
楓は城内の一室で、北条から届いていた古い書状を広げていた。
父からのもの。
兄からのもの。
どれも、何度も読み返した覚えのある手紙だった。
その中に、一通だけ、近頃届いた父の書状があった。
『景継殿にも、折を見て小田原へ来ていただきたい。
楓も、子どもたちも一緒にな。
孫たちの顔を、わしはまだ十分に見ておらぬ。
万代丸は、さぞ大きくなったことであろう。
凛にも会いたい。
新たに生まれた明の顔も、早く見てみたいものだ。
皆が揃う日を、楽しみにしておる』
楓は、そこで読む手を止めた。
「……お父様」
幼い頃、父の膝の上で話を聞いた記憶が蘇る。
北条の歴史。
祖先が築いた国。
領民を守ることの難しさ。
父は、娘がまだ理解できぬほど幼い頃から、折に触れてそのような話を聞かせてくれた。
そして最後には、決まって穏やかに笑った。
『楓。お前には、幸せになってほしい』
その言葉を、楓は今でも覚えている。
林道家へ嫁ぐと決まったときも、父は同じことを言った。
楓は書状を胸元へ引き寄せた。
「……まだ、お会いしておりませぬ」
声が震えた。
「明の顔も……お見せしておりませぬ」
父に孫たちを抱かせたい。
兄にも、子どもたちの成長を見てもらいたい。
ただ、それだけの願いだった。
けれど、今はその願いさえ、叶うかどうか分からない。
楓はしばらく俯いていた。
やがて、静かに顔を上げる。
泣いているだけでは、何も変わらない。
自分が兵を率いて戦場へ向かうことはできない。
だが、今ここで果たすべき役目はある。
景継が帰る場所を守ること。
子どもたちを守ること。
そして、夫が迷わず戦えるようにすること。
楓は机に向かい、新しい紙を広げた。
筆を取る。
しかし、最初の一文字を書こうとしたところで、手が止まった。
『お父様を助けてください』
そう書きたかった。
『兄上をお救いください』
それも、偽らざる気持ちだった。
だが、それを書けば、景継はどう思うだろう。
夫はすでに、北条を救うために動いている。
誰よりも事態の重さを理解し、限られた時間の中で、最善を尽くそうとしているはずだ。
その夫に、さらに重荷を背負わせてよいのだろうか。
楓は筆を置き、両手を膝の上で重ねた。
しばらく考えた後、再び筆を取った。
『景継様へ。
お手紙、確かに拝見いたしました。
九州からお戻りになると知り、安堵しております。
同時に、父と兄のことを思うと、胸が締めつけられる思いです。
私は北条の娘として、父と兄の無事を願わずにはいられません。
どうか、お二人をお救いください。
けれど、それ以上に願うことがございます。
景継様。
どうか、ご自身のお命を大切になさってください。
万代丸も、凛も、明も、あなた様のお帰りを待っております。
私も、同じです。
父も兄も、きっと私たちが幸せに暮らすことを望んでいるはずです。
ですから、どのようなことがあろうとも、必ずお戻りください。
私は、この城でお待ちしております。
楓』
書き終えた楓は、しばらく筆を置いたまま動かなかった。
本当に、これでよいのだろうか。
父と兄の救援を願いながら、夫には命を懸けてほしくないと書く。
あまりにも身勝手な願いかもしれない。
それでも、これが今の自分の偽らざる気持ちだった。
楓は書状を丁寧に折りたたみ、封をした。
◇ ◇ ◇
夜。
万代丸は、寝所に入ってもなかなか眠ろうとしなかった。
「ははうえ」
「どうしました?」
「ちちうえ、まだ?」
楓は、息子の顔を見つめた。
「……もう少ししたら、戻ってこられますよ」
「ほんと?」
「ええ」
万代丸は嬉しそうに笑った。
「ぼく、えいっ、する!」
そう言って、昼間の木刀を振る仕草をしてみせる。
楓は小さく笑った。
「そうですね。父上に見ていただきましょうね」
「うん!」
万代丸は満足そうに頷いた。
そして、しばらくすると眠気に負けたのか、楓の袖を握ったまま目を閉じた。
その小さな手を見つめながら、楓は息子の髪を優しく撫でた。
父が帰ることを、何の疑いもなく信じている。
その無邪気さが、今は眩しかった。
やがて万代丸が深い眠りにつくと、楓はそっと袖を外し、寝所を出た。
廊下には、夜の静けさが広がっている。
庭の向こうに浮かぶ月は、雲に半ば隠れていた。
楓は立ち止まり、遠い東の空を見つめた。
小田原は、ここから遥か東にある。
今、この瞬間にも、父と兄は戦に備えているのだろうか。
それとも、すでに敵の攻撃を受けているのだろうか。
考え始めれば、不安は尽きなかった。
だが、楓はもう涙を流さなかった。
「……お父様。兄上」
夜風が頬を撫でる。
「どうか、ご無事で」
それから、楓は静かに目を閉じた。
「景継様……どうか、皆をお守りください」
祈りを終えた楓は、ゆっくりと踵を返した。
明日も、子どもたちの世話がある。
城を預かる者として、果たすべき務めもある。
自分が不安に押し潰されていては、子どもたちまで怯えさせてしまう。
楓は顔を上げ、廊下を歩き始めた。
北条の娘として。
林道景継の妻として。
そして、三人の子どもたちの母として。
今、自分にできることを果たす。
それが、楓の決意だった。
◇ ◇ ◇
同じ夜。
相模国、小田原城。
城内の廊下を、慌ただしい足音が駆け抜けていた。
北条氏政は、広間に広げられた地図を見つめていた。
その傍らには、氏直の姿がある。
「父上」
氏直が低い声で口を開いた。
「徳川の軍勢が、さらに兵を前へ進めております」
「……うむ」
氏政は短く答えた。
「伊達の動きは?」
「北方の諸城へ圧力を強めております。すでにいくつかの城では、援軍を送ることも難しくなっております」
氏政は目を閉じた。
予想していたことではあった。
だが、敵の動きは想像以上に速い。
「……景継殿からの返事は?」
氏直は首を横に振った。
「まだ届いておりませぬ」
「そうか」
氏政は、それ以上何も言わなかった。
九州にいる景継へ使者を送ったとしても、すぐに返事が届くはずはない。
まして、軍勢を率いて戻るとなれば、さらに時間がかかる。
それでも、氏政は待つしかなかった。
氏直が口を開いた。
「父上。万が一、景継殿の援軍が間に合わぬ場合は……」
「氏直」
氏政は息子の言葉を遮った。
「まだ、敗れたわけではない」
「……はっ」
「我らには、守るべきものがある。最後まで、できることを尽くすのだ」
氏直は深く頭を下げた。
「承知いたしました」
氏政は、地図の向こうに広がる相模の地を見つめた。
祖先から受け継いできた北条の国。
幾度もの戦を経て守り抜いてきた土地。
そして、その地に暮らす人々。
簡単に手放せるものではなかった。
ふと、氏政の脳裏に娘の顔が浮かんだ。
楓。
林道家へ嫁いだ娘は、今頃どうしているだろうか。
万代丸は大きくなっただろうか。
凛は元気にしているだろうか。
生まれたばかりの明は、どのような顔をしているのだろう。
「……孫たちの顔を、見たかったものだな」
思わず漏れた言葉に、氏直が顔を上げた。
「父上?」
「いや……何でもない」
氏政は、わずかに笑った。
「この戦が終われば、楓たちを小田原へ招こう」
氏直も微笑んだ。
「はい。私も、久しく妹に会っておりませぬ」
「うむ」
二人は、ほんのわずかな間だけ、戦のことを忘れた。
だが、その静けさは長く続かなかった。
「申し上げます!」
一人の使番が広間へ駆け込んできた。
「徳川軍に動きがございます!」
氏直が振り返った。
「何事だ!」
使番は息を整える間もなく告げた。
「徳川軍の各陣にて、兵が動き始めております! さらに、北方の伊達軍にも大規模な移動が確認されました!」
氏政の表情が変わった。
「……同時に、か」
「はっ!」
氏政は地図へ目を落とした。
徳川と伊達。
二つの軍勢が、ほぼ同時に動き始めている。
偶然とは思えなかった。
氏直も、その意味を理解した。
「父上……これは」
氏政は、ゆっくりと頷いた。
「……いよいよ、来るか」
その声に、先ほどまでの穏やかさはなかった。
北条家の存亡を懸けた戦いが、目前に迫っていた。




