第二百八十一話 静かなる反撃
薩摩国、島津軍本陣。
春の陽光が陣幕の隙間から差し込み、広げられた九州の地図を淡く照らしていた。
島津義弘は、その傍らに積まれた報告書の一つを手に取り、黙って目を通していた。
しばらくして、低く呟く。
「……妙だな」
向かいに座していた島津家久が顔を上げた。
「兄上、何か気になることでも?」
「林道の動きだ」
義弘は報告書を置き、地図の筑前を指した。
「ここ数日、敵の陣に出入りする兵の数が減っておる」
「兵が減っている、ということでしょうか」
「そうとも限らぬ」
義弘は首を横に振った。
「昼間に見える兵は少なくなった。だが、陣に掲げられた旗の数は変わらず、夜には篝火も焚かれておる。見張りの者によれば、夜半に部隊が移動したような形跡もあるという」
家久は腕を組んだ。
「……兵の配置を変えているのかもしれませぬな」
「うむ。攻勢に出るための準備とも考えられる」
義弘は地図を見つめた。
林道景継は筑前に足場を築き、大友と連携しながら勢力を広げていた。
秋月も従え、九州北部での支配を固めつつある。
次に島津へ兵を向けてくるとしても、不思議ではない。
しかし、報告にある林道軍の動きは、大軍を南下させる前触れとしては不自然だった。
「兵を集めておるなら、どこかの陣が膨らむはずだ。ところが、そのような報告はない」
「では、兵を引いていると?」
家久の問いに、義弘はすぐには答えなかった。
地図の筑前から北へ、そして本州へと続く道筋を目で追う。
「……その可能性もある」
「しかし、九州平定の途中で兵を引く理由がありましょうか」
「理由がなければ引くまい」
義弘は低く答えた。
「だが、我らが知らぬところで、何かが起きているのやもしれぬ」
家久は眉を寄せた。
「林道景継ほどの男が、理由もなく隙を見せるとは思えませぬ」
「わしも同じ考えだ」
義弘は頷いた。
「だからこそ、確かめねばならぬ」
そう言うと、地図の北部にある街道へ指を置いた。
「小さな部隊を動かせ。林道の守りが薄くなっている場所を探らせるのだ」
「攻め込むのでございますか?」
「本格的な攻撃ではない。敵の反応を見る」
義弘の目が鋭くなった。
「守りが手薄なら、こちらの動きに対して兵を集め直す必要がある。逆に、すぐ大軍を動かしてくるなら、まだ十分な余力があるということだ」
家久は頷いた。
「承知いたしました。深入りは避け、敵の反応を確かめさせます」
「うむ。くれぐれも、誘いに乗らぬよう伝えよ」
家久が陣幕を出ていくと、義弘は再び報告書を手に取った。
林道軍の動きには、確かな変化がある。
だが、それが何を意味するのか。
まだ断じるには早かった。
(……景継よ。何を考えておる)
義弘は地図から目を離さず、静かに息を吐いた。
◇ ◇ ◇
同じ頃。
筑前国、林道軍本陣。
黒田官兵衛は、南方から届いた報告に目を通していた。
景継が主力を率いて東国へ向かった今、九州方面の指揮は官兵衛に託されている。
毛利との交渉は成立した。
備後一国の返還と引き換えに、毛利は九州への援軍派遣と継続的な兵糧の供給を約している。
しかし、交渉がまとまったからといって、すぐに軍勢が到着するわけではない。
兵を集め、兵糧を整え、海路と陸路を使って九州へ送り込むには、相応の日数を要する。
その間、島津に攻勢を仕掛けられれば、限られた兵で対処せねばならなかった。
「……義弘殿も、そろそろ気づかれましたかな」
官兵衛が呟くと、報告に来ていた将が顔を上げた。
「南方の街道に、島津の小部隊が現れております。こちらの守りを探っているものと思われます」
「当然でしょうな」
官兵衛は地図へ視線を落とした。
「景継殿の軍勢が九州を離れたことは、いずれ知られる。むしろ、ここまで悟られずに済んだことを喜ぶべきでしょう」
「では、敵もすでに主力の撤退を?」
「そこまでは、まだ分かっておらぬはずです」
官兵衛は首を横に振った。
「兵の姿が減ったことには気づいておるでしょう。しかし、どれほどの兵が東へ向かったのか、どこに兵を残しているのか。それまでは把握できておりますまい」
「……なるほど」
「今、最も避けるべきは、敵に我らの実情を確信させることです」
官兵衛は陣の配置を示した。
「旗はこれまでどおり掲げておきなされ。夜の篝火も絶やさず、見張りの交代も続ける。ただし、兵を無理に動かして疲れさせてはなりませぬ」
「はっ」
「島津の小部隊が近づいた場合は、こちらも少数で応じます。追い払うことは構いませぬが、深追いは禁物」
将は少し考え込んだ。
「敵を討ち取る機会があっても、追ってはならぬので?」
「敵の誘いである可能性がございます」
官兵衛は静かに答えた。
「島津義弘殿は、敵が攻め込んできたところを巧みに討つ御仁。こちらから兵を出し、伏兵の待つ場所へ踏み込むような真似は避けねばなりませぬ」
将は深く頷いた。
「承知いたしました」
官兵衛は続けた。
「また、南方の守りについては、大友とも連絡を密にしてください。秋月には筑前周辺の警戒を命じ、宇都宮殿には城井谷の守りを固めていただくよう、協力をお願いしましょう」
「宇都宮殿にも、でございますか?」
「ええ。宇都宮殿は我らの家臣ではございませぬ。あくまで協力をお願いする形です。無理に兵を動かしていただく必要はありませぬ」
官兵衛は地図の各所へ視線を巡らせた。
「我らが守るべき場所は、一つではありません。筑前の守りが薄くなれば、秋月も大友も動きにくくなる。逆に、各地が持ちこたえておれば、島津も容易には北上できぬでしょう」
「……守りを固め、援軍を待つということでございますな」
「守るだけではございませぬ」
官兵衛は、わずかに笑った。
「島津に、攻めるべきか否かを迷わせるのです」
敵が攻め込めば伏兵を疑い、待てば好機を逃すかもしれぬと焦る。
その迷いを生むことができれば、少ない兵でも時間を稼げる。
そして今の官兵衛にとって、時間は何よりも必要なものだった。
◇ ◇ ◇
その日の午後。
筑前へ続く街道を、一隊の騎馬と足軽が進んでいた。
率いる兵の数は、決して多くない。
だが、先頭を行く者たちの顔ぶれは、黒田の中でもひときわ頼もしいものだった。
黒田長政。
官兵衛の嫡男であり、若くして武将としての才覚を見せ始めている。
その傍らには、長年にわたり官兵衛を支えてきた栗山善助が馬を進めていた。
さらに後方には、母里太兵衛、井上九郎右衛門、後藤又兵衛の姿もある。
いずれも、黒田の軍を支える武将たちであった。
「……ようやく筑前か」
長政が前方を見据えながら呟いた。
「父上は、すでに毛利との交渉を終えられたと聞く。我らも遅れてはおれぬな」
「左様にございます」
善助が頷いた。
「ただし、若殿。此度は先遣隊にございます。後続の兵が到着するまでは、無理に動くべきではありませぬ」
「分かっておる」
長政は少し不満そうに答えた。
「善助は、俺がすぐにでも敵へ突っ込むと思っておるのか?」
「そのようなことは申しませぬ」
「ならば、なぜ念を押す?」
「若殿のお顔を拝見しておれば、少々気が急いておられるように見えましたので」
長政は言葉を詰まらせた。
すると、後方から豪快な笑い声が響いた。
「がはは! 善助殿は相変わらずじゃのう!」
母里太兵衛である。
太兵衛は馬上で大きな体を揺らしながら笑った。
「若殿が張り切るのも無理はない! 島津ほどの相手と戦える機会など、そう多くはあるまい!」
「太兵衛殿」
井上九郎右衛門が、呆れたように口を開いた。
「若殿を焚きつけてどうするのです。まずは殿のご指示を仰ぐべきでしょう」
「分かっておるわ!」
太兵衛は笑いながら答えた。
「わしとて、勝手に兵を動かすほど愚かではない!」
そのやり取りを聞いていた後藤又兵衛が、口元に笑みを浮かべた。
「ですが、太兵衛殿のお気持ちも分かります。せっかく九州まで参ったのです。何もせず帰るのでは、少々物足りませぬ」
「ほう! 又兵衛、よいことを申すではないか!」
太兵衛が嬉しそうに笑った。
「おぬしとは、気が合いそうじゃ!」
「ありがたきお言葉にございます」
又兵衛も笑った。
だが、その横で善助が静かに口を開いた。
「……お二人とも」
その一言で、太兵衛と又兵衛の笑い声が止まった。
善助は落ち着いた声で続けた。
「今の九州で、最も困るのは何だと思われます?」
太兵衛が眉を寄せた。
「……兵が足りぬことか?」
「それもございます」
善助は頷いた。
「ですが、兵が足りぬと分かっているときに、その兵を無駄に失うことほど困るものはございませぬ」
九郎右衛門も頷いた。
「島津が何を狙っておるのか、まだ分かりませぬ。こちらの事情を知られぬうちは、慎重に動くべきでしょうな」
長政は小さく息を吐いた。
「……分かっておる。父上のご指示を待つ」
善助は、わずかに笑みを浮かべた。
「それでこそ、若殿にございます」
長政は苦笑した。
「まったく……善助には、いつまで経っても敵わぬな」
「敵う必要などございませぬ」
善助は静かに答えた。
「我らが敵うべき相手は、島津にございます」
その言葉に、一同の表情が引き締まった。
やがて、街道の先に林道軍の陣が見えてきた。
◇ ◇ ◇
「父上!」
陣幕へ入るなり、長政が声を上げた。
官兵衛は地図から顔を上げた。
「……長政か」
その後ろには、善助、太兵衛、九郎右衛門、又兵衛が控えている。
官兵衛は一人ずつ顔を見渡した。
「よく参った」
善助が膝をついた。
「殿。黒田の先遣隊、ただいま到着いたしました。後続の軍勢も、順次こちらへ向かっております」
「ご苦労」
官兵衛は頷いた。
「道中に異変はなかったか?」
「大きな異変はございませぬ。ただ、南方では島津の動きが活発になっているとの噂を耳にいたしました」
「……やはりな」
官兵衛は静かに呟いた。
長政が一歩前へ出た。
「父上。島津が動いているのであれば、我らにもお役目をお与えくだされ」
官兵衛は息子を見た。
「長政」
「はっ」
「戦がしたいか?」
その問いに、長政は一瞬言葉を詰まらせた。
だが、すぐに答えた。
「……黒田の武将として、働きを示したく存じます」
官兵衛は静かに頷いた。
「ならば、まずは兵を整えよ」
「兵を、でございますか?」
「うむ。戦は、ただ敵を討てばよいというものではない。兵糧を運び、陣を守り、敵の動きを知る。その一つでも欠ければ、いかに勇猛な将がいても勝てぬ」
長政は真剣な表情で聞いていた。
官兵衛は善助へ視線を向けた。
「善助。後続の兵が到着するまで、兵糧と宿営の手配を頼む」
「はっ」
「九郎右衛門。南方の街道と諸城の守りを確かめよ。敵の斥候が入り込む余地を残すな」
「承知いたしました」
「太兵衛。長政とともに機動できる兵を選び、いつでも出陣できるよう備えておけ」
太兵衛は大きく頷いた。
「お任せくだされ!」
官兵衛は最後に又兵衛を見た。
「又兵衛」
「はっ!」
「そなたは善助を手伝いながら、各陣の様子を見て回れ」
又兵衛は少し驚いた顔をした。
「……各陣を、でございますか?」
「うむ。兵が何を恐れ、何に困っているのか。それを知ることも、将の務めだ」
又兵衛は、ゆっくりと頭を下げた。
「承知いたしました」
官兵衛は一同を見渡した。
「景継殿は、我らに九州を託された。毛利の援軍が到着するまで、島津に隙を見せるわけにはいかぬ」
長政が力強く頷く。
「はっ!」
「よいか。今は、むやみに敵を追うときではない」
官兵衛は地図へ視線を戻した。
「島津がこちらの兵力を探っているのであれば、探らせておけばよい。ただし、決して答えを与えるな」
善助が口を開いた。
「……敵に、我らの実情を悟らせぬということでございますな」
「左様」
官兵衛は、わずかに笑った。
「敵が迷っている間に、我らは次の戦の支度を整える」
太兵衛は腕を組み、長政は地図を見つめ、九郎右衛門と善助は静かに頷いた。
又兵衛もまた、官兵衛の言葉を胸に刻むように聞いている。
こうして、黒田の有力家臣たちが九州へ集まり始めた。
まだ軍勢は十分ではない。
毛利の援軍も、到着していない。
しかし、官兵衛のもとには、長年苦楽を共にしてきた者たちと、これからの黒田を担う若き武将が揃いつつあった。
官兵衛は地図の南方へ目を落とした。
「……義弘殿」
誰にも聞こえぬほどの声で呟く。
「さて、あなたはいつまで待ってくださいますかな」
その表情には、静かな闘志が浮かんでいた。




