第二百八十話 官兵衛の切り札
安芸国、吉田郡山城。
評定の間には、重苦しい沈黙が漂っていた。
黒田官兵衛の正面には、毛利輝元、小早川隆景、安国寺恵瓊の三人が座している。
先ほど官兵衛が投げかけた問い。
毛利にとって、今、最も避けねばならぬことは何か。
その答えを待つように、官兵衛は静かに三人を見つめていた。
やがて、口を開いたのは小早川隆景だった。
「……官兵衛殿」
「はっ」
「そなたの問いに答える前に、一つ確かめておきたい」
「何なりと」
隆景は膝の上で手を組んだ。
「毛利が最も避けねばならぬのは、他家の戦に力を注ぎすぎ、自らの領国を守れなくなることだ」
官兵衛は頷いた。
「ごもっともにございます」
「ならば、話は早い」
隆景の声が低くなった。
「今の毛利に、九州へ大軍を送り込む余裕はない」
輝元も頷いた。
「元春叔父上を失い、元長も病に伏しておる。吉川の軍勢を含め、我らは軍の態勢を整え直さねばならぬ時期だ」
前年に亡くなった吉川元春は、長く毛利の軍事を支えてきた名将である。
その跡を継いだ吉川元長まで病を患っている今、毛利が新たな大戦へ踏み出すには、相応の覚悟が必要だった。
「それは承知しております」
官兵衛は静かに答えた。
「ですが、毛利が九州へ兵を送らず、島津が勢いを取り戻した場合はいかがでしょう」
隆景の眉がわずかに動いた。
「……どういう意味だ?」
「林道の主力が東へ戻れば、島津は必ず反撃の機をうかがいましょう。大友との協力があるとはいえ、我らの軍勢が減ることに変わりはございませぬ」
官兵衛は言葉を続けた。
「もし九州の戦が長引けば、毛利が以前より約束された恩賞も、手にする時期が遠のきます」
「それはそうであろうな」
「さらに、島津が勢力を盛り返せば、九州の情勢は再び混迷いたします。毛利がいずれ九州へ進出することを考えるならば、今のうちに島津の力を削いでおくことは、決して損にはならぬはず」
隆景はしばらく黙っていた。
だが、やがて静かに首を振った。
「……理屈は分かる」
「では」
「しかし、それは毛利が兵を出す理由にはなっても、そなたの望むだけの兵を出す理由にはならぬ」
官兵衛の目が、わずかに細くなった。
隆景は続けた。
「九州の戦が長引けば、毛利の恩賞も遠のく。だが、林道にとっては、それ以上に大きな損失となるはずだ」
「……」
「景継殿は東国へ戻り、そなたは九州に残る。林道の軍勢が二つに分かれる以上、九州で敗れることは許されぬのであろう?」
官兵衛は答えなかった。
隆景は、その沈黙を見逃さない。
「つまり、今この場で最も困っておるのは、毛利ではない。そなたたちだ」
輝元が腕を組んだ。
「確かに、そのとおりだな」
恵瓊も静かに頷いた。
「官兵衛殿。九州の情勢が不安定になることは、我らにとっても好ましくありませぬ。しかし、だからといって毛利がその負担を一手に引き受ける必要はないでしょう」
官兵衛は、ゆっくりと息を吐いた。
「……なるほど」
その表情に、焦りは見られなかった。
「さすがは隆景殿。おっしゃるとおりにございます」
「認めるのか?」
「事実でございますゆえ」
官兵衛は微笑んだ。
「ですが、だからこそ毛利にとっても好機ではないかと考えております」
隆景は眉を寄せた。
「好機?」
「はっ。林道が東国へ目を向けている今、毛利は西国における立場を、より強固なものにできましょう」
「……ほう」
「九州平定において大きな働きをなされば、毛利の発言力は増します。しかも、島津を抑えることで、西国の情勢も安定する」
官兵衛は三人を見渡した。
「毛利にとって、これほどの機会は、そう多くはございませぬ」
その言葉に、輝元は少し考え込んだ。
しかし、恵瓊がすぐに口を開いた。
「……官兵衛殿」
「何でございましょう」
「それは、いささか都合のよいお話ではございませぬか?」
官兵衛は恵瓊を見た。
「と申されますと?」
「毛利が兵を出せば、九州の戦は進む。林道は東国へ力を向けられる。そして毛利は、以前から約束されている恩賞を受け取る」
恵瓊は一度、言葉を切った。
「結局のところ、最も大きな利を得るのは林道ではございませぬか」
評定の間に、短い沈黙が落ちた。
官兵衛は否定しなかった。
「……確かに、林道にとって大きな利がございます」
「でしょうな」
「ですが、毛利にも利があることは事実にございます」
恵瓊は微笑んだ。
「利があることと、その利が負担に見合うことは、別の話にございます」
官兵衛は静かに頷いた。
「……ごもっとも」
恵瓊は、その反応を確かめるように続けた。
「そもそも、以前の交渉では、毛利は備後一国を譲り渡しております」
輝元の表情が、わずかに険しくなった。
備後。
それは毛利にとって、単なる一国ではなかった。
長く勢力を広げてきた土地であり、安芸と備中を結ぶうえでも重要な地域である。
かつて官兵衛との交渉で手放したその国は、今や林道の領地となっていた。
恵瓊は続けた。
「そのうえで、九州平定への協力も約した。すでに毛利は、大きな譲歩をしております」
「承知しております」
「では、なぜ今になって、さらに大きな負担を求められるのです?」
官兵衛は少し間を置いた。
「景継殿が東へ戻られるためにございます」
「ええ。その事情は分かっております」
恵瓊の声が、わずかに鋭くなった。
「しかし、それは林道の事情。毛利がその穴を埋めねばならぬ理由にはなりませぬ」
輝元も頷いた。
「官兵衛殿。そなたの話は理解した。だが、毛利としても、これ以上の負担を簡単には受け入れられぬ」
隆景が続けた。
「約束した協力は果たす。だが、今すぐ大軍を送り、優れた将を長く九州へ留め置き、兵糧まで継続して供給するとなれば、話は別だ」
官兵衛は静かに三人を見つめた。
そして、口を開いた。
「……では、どの程度のご協力であれば、可能でございましょう」
隆景は少し考えた。
「まずは限られた兵と兵糧を送る。必要に応じて追加を検討する。それが現実的であろう」
「将については?」
「毛利の守りに支障が出ぬ範囲で選ぶことになる」
「……なるほど」
官兵衛は頷いた。
だが、その条件では足りなかった。
九州に残る軍勢だけで島津の反撃を抑えることはできても、平定を進めるには力が不足する。
毛利から少数の援軍を受け取るだけでは、戦を終わらせるまでにどれほどの時間がかかるか分からない。
その間に島津が兵を集め直せば、九州の戦況は再び難しくなるだろう。
官兵衛はしばらく沈黙した。
そして、静かに顔を上げた。
「……では、別の形をご提案いたしましょう」
◇ ◇ ◇
「別の形?」
輝元が問い返した。
「はっ」
官兵衛は居住まいを正した。
「毛利には、九州へ相応の軍勢を送っていただきたい。将も、戦を任せられる方をお願いしたく存じます」
「……先ほどと変わらぬではないか」
輝元が眉を寄せる。
「いいえ。条件を改めます」
官兵衛は落ち着いた声で続けた。
「まず、毛利からの援軍は、毛利の将が率いる形といたします。九州においては、この官兵衛が全体の戦を取り仕切りますが、毛利の将兵を無闇に使い潰すようなことはいたしませぬ」
隆景が口を開いた。
「それは当然のことであろう」
「無論にございます」
「それだけでは、我らの不安は消えぬ」
「承知しております」
官兵衛は頷いた。
「次に、毛利の軍勢が九州で得た功績については、後日の恩賞に反映されるよう、明確に取り決めます」
恵瓊がすぐに口を挟んだ。
「お待ちくだされ」
「何でございましょう」
「それは、以前から約束している九州の領地とは別に、何かを与えるということでございますか?」
官兵衛は首を横に振った。
「いいえ。領地については、以前のお約束を変えるつもりはございませぬ」
「では、功績をどう扱うというのです?」
「毛利の働きを正式に記録し、既定の恩賞を確実に履行するための取り決めにございます」
恵瓊は、わずかに笑った。
「……つまり、新たな領地は増えぬということですな」
「左様にございます」
「それでは、毛利の負担だけが増えることになります」
官兵衛は黙っていた。
恵瓊は続けた。
「官兵衛殿。言葉を整えたところで、条件の中身が変わらねば、我らの判断も変わりませぬぞ」
その言葉に、輝元も頷いた。
隆景は官兵衛を見つめながら、静かに口を開いた。
「……官兵衛殿」
「はっ」
「そなた、まだ何か隠しておるな」
官兵衛は、わずかに目を細めた。
「……なぜ、そう思われます?」
「先ほどから、そなたは我らの言葉を否定せぬ。毛利に余裕がないことも、林道が困っておることも、すべて認めておる」
隆景は続けた。
「にもかかわらず、交渉を終えようとはせぬ」
「……」
「そなたほどの男が、これほど不利な条件を承知のうえで、何も用意せずに来るとは思えぬ」
恵瓊も頷いた。
「確かに。官兵衛殿は、まだ肝心なことをお話しになっておられませぬな」
官兵衛は、二人の視線を受け止めた。
そして、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「……お二人には、隠し事ができませぬな」
輝元が身を乗り出した。
「ならば、申せ。何を考えておる?」
官兵衛は答えなかった。
ただ、静かに三人を見渡した。
その沈黙に、恵瓊が眉を寄せる。
「官兵衛殿。もしや、景継殿の承諾を得ずに、何かを約束しようとしておられるのではございませぬか?」
官兵衛の表情は変わらなかった。
「……なぜ、そう思われます?」
「九州の領地は増やさぬ。毛利へ新たな負担を求める。にもかかわらず、相応の利を用意していると申される」
恵瓊は、官兵衛の目を見据えた。
「それほどのものを、九州に残るそなたの一存で差し出せるのでございましょうか」
隆景も静かに頷いた。
「我らが求めるのは、実行できる約束だ。いかに魅力的な話であろうと、景継殿が認めぬのであれば意味はない」
官兵衛は、しばらく黙っていた。
やがて、口を開いた。
「……ご心配には及びませぬ」
「ほう?」
「これから申し上げることは、必ず実行いたします」
その言葉に、輝元の表情が変わった。
「それほどまでに言い切るか」
「はっ」
官兵衛は静かに頷いた。
「では、申し上げましょう」
評定の間に、沈黙が落ちた。
官兵衛は三人を見渡した。
そして、何でもないことのように口を開いた。
「では、備後一国をお返しいたしましょう」
その瞬間。
評定の間の空気が、凍りついた。
「……何?」
輝元が思わず声を漏らした。
隆景も目を見開く。
恵瓊に至っては、言葉を失っていた。
備後一国。
かつて毛利が、苦渋の決断の末に林道へ譲り渡した領地。
それを、返すというのか。
「……官兵衛殿」
最初に口を開いたのは隆景だった。
「今、何と申された?」
官兵衛は、少しも表情を変えなかった。
「備後一国を、毛利へお返しいたします」
「……一国、すべてか?」
「左様にございます」
輝元が身を乗り出した。
「待て! 備後は、今や林道の領地であろう! それをそなたの一存で……」
「輝元殿」
官兵衛は静かに言った。
「私が、このような話を軽々しく申し上げると思われますか?」
輝元は言葉を止めた。
官兵衛は続けた。
「毛利が九州へ相応の軍勢を送り、優れた将を派遣し、兵糧を継続して供給してくださるのであれば、林道は備後一国を返還いたします」
隆景は官兵衛を見つめた。
その目には、驚きと警戒が入り混じっていた。
「……なるほど」
隆景が低く呟いた。
「そなたの狙いは、そこにあったか」
官兵衛は微笑んだ。
「さて、いかがでございましょう」
しかし、恵瓊はすぐには頷かなかった。
「……お待ちくだされ」
官兵衛が顔を向ける。
「何でございましょう」
「備後を返すと申されましたが、それは九州平定が終わった後の話でございますか?」
「いいえ」
官兵衛は即座に答えた。
「毛利の出兵が正式に決まり、双方の取り決めが整い次第、備後の引き渡しを進めます」
恵瓊は目を細めた。
「……ずいぶんと気前のよい話にございますな」
「そうでしょうか」
「ええ。林道にとって備後一国は、決して軽いものではありますまい」
官兵衛は頷いた。
「無論、軽いものではございませぬ」
「ならば、なぜ手放す?」
官兵衛は少し間を置いた。
「今の林道にとって、何を守り、何を得るべきか。その優先順位が変わったからにございます」
隆景が静かに口を開いた。
「……九州か」
「はっ」
官兵衛は頷いた。
「九州平定が進めば、林道の勢力はさらに広がります。一方、備後は毛利の領地に囲まれた、遠く離れた一国。これを維持するにも、相応の兵と手間が必要となりましょう」
恵瓊が言葉を継いだ。
「つまり、維持に手間のかかる備後を手放し、その代わりに毛利の力を九州へ向けさせる……」
「左様にございます」
官兵衛は静かに答えた。
「毛利は備後を取り戻す。林道は九州を平定するための力を得る。双方にとって、決して悪い話ではないかと」
隆景は腕を組んだ。
「……しかし、官兵衛殿」
「はっ」
「備後を返すからといって、毛利が無制限に兵を出すわけにはいかぬぞ」
「承知しております」
「元長の病もある。吉川の軍勢を大きく動かすことは難しい」
「その点も考慮しております」
隆景は眉を上げた。
「ほう?」
官兵衛は静かに続けた。
「毛利の領国を守る兵は残していただきたい。そのうえで、九州へ送れる軍勢をお選びくだされ」
「……」
「ただし、戦を進めるに足る兵力と、それを率いる将は必要にございます。兵糧についても、最初の一度きりではなく、戦が続く間、継続して送っていただきたい」
輝元は考え込んだ。
備後一国。
それを取り戻せるのであれば、毛利にとって大きな利となる。
だが、そのためにどれほどの兵を送り、どれほどの兵糧を負担することになるのか。
簡単に決められる話ではなかった。
「……隆景叔父上」
輝元が口を開いた。
「どう見る?」
隆景は、しばらく地図を見つめていた。
そして、静かに答えた。
「悪い話ではありませぬ」
「では……」
「ですが、条件を詰めねばなりませぬ」
隆景は官兵衛を見据えた。
「備後の引き渡しは、いつ、どのように行うのか。毛利の兵は、どこまで戦に加わるのか。兵糧は、どの程度を、いつまで送るのか」
官兵衛は頷いた。
「当然のことにございます」
「さらに、九州で毛利の将兵が大きな損害を受けた場合はどうする。戦が長引いた場合はどうする。島津との戦が終わった後、毛利の軍勢は速やかに帰還できるのか」
官兵衛は、一つ一つの問いを聞いていた。
「いずれも、明確に取り決めましょう」
恵瓊が口を開いた。
「官兵衛殿。もう一つございます」
「何でございましょう」
「備後を返すという話。景継殿が本当に認めておられるのか。その確証が欲しゅうございます」
官兵衛は静かに頷いた。
「ごもっともにございます」
そして、懐から一通の書状を取り出した。
「こちらをご覧くだされ」
隆景が目を細めた。
「……それは?」
「景継殿より預かっております」
官兵衛は書状を差し出した。
恵瓊が受け取り、丁寧に開く。
その文面を読み進めるにつれ、恵瓊の表情が変わっていった。
「……これは」
隆景も書状へ目を向けた。
そこには、備後の返還について、景継自身が認める旨が記されていた。
輝元が息を呑む。
「……本当に、景継殿が?」
官兵衛は静かに頷いた。
「はっ」
隆景は、しばらく書状を見つめていた。
そして、低く呟いた。
「……官兵衛殿」
「何でございましょう」
「そなた、最初からこれを差し出すつもりで参ったな」
官兵衛は微笑んだ。
「さて、いかがでしょう」
隆景は小さく息を吐いた。
「……まったく、恐ろしい男よ」
◇ ◇ ◇
その後、交渉はさらに続いた。
毛利は備後一国の返還を受ける代わりに、九州へ軍勢を派遣する。
ただし、領国の守りを維持するため、出兵する兵力には限度を設ける。
将については、毛利の中でも九州の戦を任せられる者を選ぶ。
兵糧は、定められた量を継続して送る。
そして、九州平定後に毛利へ与えられる領地については、以前の取り決めを一切変更しない。
隆景と恵瓊は、細かな条件を一つずつ確かめていった。
官兵衛もまた、譲れるところと譲れぬところを明確にしながら応じた。
備後の引き渡しは、毛利の出兵準備と並行して進める。
双方が取り決めを破らぬよう、書状を交わし、実行の手順も定める。
やがて、輝元が口を開いた。
「……よかろう」
官兵衛が顔を上げた。
「輝元殿」
「備後を返してもらえるのであれば、毛利としても相応の働きをせねばなるまい」
輝元は隆景と恵瓊を見た。
二人は静かに頷いた。
「毛利は、九州平定への協力を強める」
その言葉に、官兵衛は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます」
隆景が口を開いた。
「ただし、官兵衛殿」
「はっ」
「備後を返すからといって、我らがそなたの言うことを何でも聞くわけではない」
官兵衛は微笑んだ。
「無論、承知しております」
「九州での戦も、毛利の将兵を無駄に失うようなものでは困る」
「その点は、この官兵衛が責任を持ちましょう」
隆景は、しばらく官兵衛を見つめていた。
そして、静かに笑った。
「……ならば、期待しておこう」
官兵衛もまた、深く頭を下げた。
こうして、毛利との再交渉は成立した。
備後一国を返還する代わりに、九州平定のための軍勢と将、そして継続的な兵糧の供給を得る。
それは、官兵衛にとって大きな成果だった。
しかし、その決断は決して官兵衛一人のものではなかった。
◇ ◇ ◇
数日前。
筑前国、林道軍本陣。
夜も更けた頃、景継の陣幕には二人の男だけが残っていた。
林道景継。
そして、黒田官兵衛である。
二人の前には、九州から中国地方にかけての地図が広げられていた。
「……官兵衛殿」
景継が静かに口を開いた。
「毛利との交渉は、難しいものになるでしょうな」
「左様にございます」
官兵衛は頷いた。
「毛利も、以前の交渉で備後一国を失っております。これ以上の負担を求めるのであれば、相応のものを差し出さねばなりますまい」
景継は地図へ視線を落とした。
「……備後ですか」
官兵衛は、わずかに目を細めた。
「お気づきでございましたか」
「官兵衛殿が毛利へ向かうと聞いたときから、考えておりました」
景継は地図の備後へ指を置いた。
「備後は、毛利にとって重要な土地。しかし、我らにとっては、遠く離れた一国です」
「はっ」
「九州を平定し、東国へ向かうのであれば、備後を維持するために兵を割き続けることは得策ではありません」
官兵衛は静かに頷いた。
「私も同じ考えにございます」
景継は顔を上げた。
「ならば、備後を返しましょう」
官兵衛は、しばらく景継を見つめた。
「……よろしいのでございますか」
「ええ」
景継は迷わず答えた。
「備後一国と引き換えに、毛利の力を九州へ向けさせる。それができるのであれば、決して悪い取引ではありません」
官兵衛は、ゆっくりと頭を下げた。
「……承知いたしました」
景継は続けた。
「ただし、九州の領地については、以前の約束を変えてはなりません。大友との関係もあります。これ以上、領地を与える約束をすれば、後々の火種となりましょう」
「心得ております」
「そして、毛利の将兵を無理に使い潰すようなことも避けてください。此度の協力が、次の争いを生むことになっては意味がありません」
官兵衛は頷いた。
「承知しております」
景継は、わずかに笑みを浮かべた。
「毛利との交渉は、この官兵衛にお任せくだされ――そうおっしゃったのは、官兵衛殿でしたな」
官兵衛も微笑んだ。
「はっ。確かに申し上げました」
「ならば、すべてお任せいたします」
景継は静かに言った。
「あなたならば、必ず成し遂げられるでしょう」
官兵衛は、深く頭を下げた。
「……そのご信頼、決して裏切りませぬ」
二人の間に、しばらく沈黙が流れた。
やがて景継は、一通の書状を差し出した。
「これをお持ちください」
官兵衛が受け取る。
そこには、備後返還について景継が認める旨が記されていた。
「毛利が疑うのも当然です。必要になったとき、これをお見せください」
「……かたじけなく存じます」
官兵衛は書状を懐へ収めた。
景継は地図を見つめながら、静かに呟いた。
「……天下を動かすためには、ときに一国を手放す覚悟も必要なのでしょうな」
官兵衛は、その横顔を見つめた。
そして、胸中で思った。
(……やはり、このお方は)
景継は、目先の領地に執着する男ではない。
何を守り、何を捨てるべきか。
その判断を、常に天下全体の動きの中で考えている。
官兵衛は、改めて深く頭を下げた。
「殿。九州のことは、この官兵衛にお任せくだされ」
景継は静かに頷いた。
「頼みましたよ、官兵衛殿」
◇ ◇ ◇
再び、安芸国。
吉田郡山城。
交渉を終えた官兵衛は、城門を出て、静かに空を見上げた。
春の風が、頬を撫でていく。
毛利は備後を取り戻す。
林道は九州を平定するための力を得る。
双方が望むものを得た形となった。
だが、官兵衛は決して気を緩めてはいなかった。
毛利の軍勢が九州へ到着するまでには、まだ時間がかかる。
その間、島津がどう動くかは分からない。
そして、東国では徳川家康と伊達政宗が北条へ攻勢を仕掛けている。
景継もまた、容易ならぬ戦へ向かっているのだ。
官兵衛は、ゆっくりと歩き始めた。
「……さて」
その口元に、わずかな笑みが浮かぶ。
「ここからが、正念場ですな」
西国の情勢が、静かに動き始めていた。




