第二百七十九話 再び毛利へ
安芸国、吉田郡山城。
春の風が山々を渡り、城を囲む木々を静かに揺らしていた。
その穏やかな景色とは裏腹に、毛利の評定の間には張り詰めた空気が漂っている。
上座に座るのは、毛利輝元。
その傍らには小早川隆景が控え、少し離れた場所には安国寺恵瓊の姿もあった。
三人の前には、一通の書状が置かれている。
差出人は、黒田官兵衛。
かつて毛利との交渉において、備後一国の割譲という大きな譲歩を引き出した男である。
「……また、あの男か」
輝元が書状へ目を落としながら呟いた。
その声には、わずかな苦々しさが混じっている。
恵瓊は口元に薄い笑みを浮かべた。
「どうやら、九州の戦況が動いたようにございますな」
「そのようだ」
隆景が頷いた。
「林道景継は筑前に足場を固め、秋月を従えた。大友との協力も続いておる。島津にとっては、いよいよ厳しい状況になってきたというところであろう」
「ならば、官兵衛がわざわざ我らに会いたいと申す理由は何だ?」
輝元の問いに、隆景はすぐには答えなかった。
書状を手に取り、文面をもう一度確かめる。
そこには、九州の戦況について協議したいという趣旨が、丁寧な言葉で記されていた。
だが、肝心の用件は明らかにされていない。
「……兵か、兵糧か」
隆景が静かに口を開いた。
「あるいは、その両方でしょうな」
恵瓊が頷いた。
「すでに毛利は、九州平定への協力を約しております。官兵衛殿がその約束を持ち出してくることは、十分に考えられます」
輝元は眉を寄せた。
「ならば、約束どおり協力すればよいではないか」
「無論、約束は守らねばなりませぬ」
恵瓊はそう前置きしてから、ゆっくりと言葉を続けた。
「しかし、協力の仕方まで、すべて官兵衛殿の望むとおりにする必要はございませぬ」
隆景も頷いた。
「我らにも守るべき領国がある。九州へ兵を送れば、その分だけ毛利の守りは薄くなる。兵糧を出せば、蓄えも減る。何より、将を送り込むとなれば、長く毛利を離れることになるやもしれぬ」
そこで隆景は、わずかに言葉を切った。
「……それに、今の毛利には、以前ほど将を自由に動かせぬ事情もある」
輝元の表情が曇った。
「元春叔父上のことか」
「うむ」
隆景は静かに頷いた。
前年、吉川元春がこの世を去った。
長年にわたり毛利の軍事を支え、隆景とともに両川と称された名将である。
その死は、毛利にとって決して小さな損失ではなかった。
しかも、吉川の家督を継いだ元長も、近頃は病を患い、療養を続けている。
「元長の具合も、まだ思わしくないと聞いておる」
輝元の言葉に、隆景は頷いた。
「吉川の将兵を動かすにも、慎重にならざるを得ませぬ。元春兄上が健在であれば、また違ったのでしょうが……」
その言葉の後に、短い沈黙が流れた。
恵瓊が静かに口を開いた。
「だからこそ、此度の話は軽々しく決められませぬ。毛利の軍勢を九州へ送り込むことが、領国の守りにどう響くか。よく見極める必要がございます」
「……なるほどな」
輝元は腕を組んだ。
「つまり、官兵衛の望むものを見極めねばならぬということか」
「左様にございます」
恵瓊が答えた。
「しかも、今回は以前とは事情が違います」
「どう違う?」
「前の交渉では、林道が備後を求めておりました。毛利には、それを拒むか受け入れるかという大きな判断がございました」
恵瓊は一度、言葉を切った。
「ですが今、備後はすでに林道の領地。官兵衛殿が新たな協力を求めるのであれば、我らにも相応の理由が必要になります」
隆景は静かに目を細めた。
「官兵衛が、何も用意せずに来るとは思えぬがな」
その言葉に、恵瓊の笑みがわずかに深くなった。
「ええ。あの御仁のことです。何かを考えておられるのでしょう」
輝元は書状を置いた。
「よかろう。会ってみようではないか」
◇ ◇ ◇
数日後。
吉田郡山城の城門を、一行の武士たちがくぐった。
その先頭に立つのは、黒田官兵衛である。
官兵衛は城内へ案内されながら、周囲の様子を静かに観察していた。
城の警備は厳重であり、行き交う兵たちの動きにも乱れがない。
毛利は、依然として西国に大きな力を持つ大名であった。
(……容易な交渉にはなるまいな)
官兵衛は胸中で呟いた。
かつての交渉で、毛利は備後一国を林道へ譲り渡した。
その決断が、毛利にとってどれほど重いものだったか。
官兵衛は十分に理解していた。
だからこそ、今回も以前と同じように話が進むとは考えていない。
毛利輝元。
小早川隆景。
安国寺恵瓊。
三人とも、決して侮ることのできぬ相手である。
とりわけ隆景と恵瓊は、相手の言葉の裏にある意図を読み取ることに長けている。
こちらが少しでも弱みを見せれば、そこを突いてくるであろう。
しかし、官兵衛の表情に迷いはなかった。
(さて……どこまで引き出せるか)
やがて、評定の間へ通された。
上座には輝元。
その左右には隆景と恵瓊が控えている。
官兵衛は静かに膝をつき、深く頭を下げた。
「黒田官兵衛にございます。このたびは、急な申し出にもかかわらず、お目通りをお許しいただき、かたじけなく存じます」
輝元が頷いた。
「久しいな、官兵衛殿」
「はっ。皆様には、ご健勝のご様子。何よりにございます」
「挨拶はそのくらいでよかろう」
輝元は少し身を乗り出した。
「此度は、何用で参られた?」
官兵衛は顔を上げた。
「九州平定について、改めてご相談申し上げたく参りました」
「九州か」
「はっ」
官兵衛は静かに続けた。
「林道景継殿は、九州において着実に勢力を広げております。大友との協力も進み、秋月も我らに従いました。残る島津との戦いも、いよいよ重要な局面を迎えております」
隆景が口を開いた。
「それは聞き及んでおる。林道の働きは見事なものだ」
「ありがたきお言葉」
「しかし、官兵衛殿」
隆景は官兵衛を見据えた。
「それほど戦況が有利ならば、なぜ改めて毛利へ相談に来られた?」
官兵衛はわずかに笑みを浮かべた。
「さすがは隆景殿。話が早うございますな」
「世辞はよい。用件を聞こう」
「承知いたしました」
官兵衛は居住まいを正した。
「此度、景継殿は九州の軍勢の一部を率い、東国へ向かわれることとなりました」
その言葉に、評定の間の空気が変わった。
輝元が眉を上げる。
「東国へ?」
「はっ」
「九州平定の途中でか?」
「左様にございます」
恵瓊が静かに口を開いた。
「……北条の件ですな」
官兵衛は頷いた。
「徳川家康と伊達政宗が北条へ侵攻しております。景継殿は北条を救うため、東へ戻られる決断をなされました」
隆景は腕を組んだ。
「なるほど。それで、九州には誰が残る?」
「この官兵衛にございます」
官兵衛は落ち着いた声で答えた。
「景継殿より、九州方面の指揮を託されました」
輝元は驚いたように官兵衛を見た。
「そなた一人に、九州を任せたというのか」
「無論、黒田の家臣団をはじめ、大友、秋月、宇都宮殿らとの協力もございます。しかし、林道の主力が東へ戻れば、これまでと同じ戦い方はできませぬ」
「……それで、毛利に兵を求めるというわけか」
隆景の問いに、官兵衛は頷いた。
「左様にございます」
官兵衛は三人を見渡した。
「毛利より、軍勢をお借りしたい。それも、ただ兵を送っていただくだけではございませぬ。軍を率いることのできる将、そして継続して軍勢を支える兵糧も必要となります」
輝元は表情を険しくした。
「……随分と大きな頼みだな」
「承知しております」
「毛利の兵を動かし、将を送り、兵糧まで出せと申すか」
「はっ」
官兵衛は、少しも目を逸らさなかった。
輝元は隆景へ視線を向けた。
隆景はしばらく官兵衛を見つめていたが、やがて口を開いた。
「官兵衛殿。以前の約束を忘れたわけではない。毛利は九州平定への協力を約しておる」
「ありがたく存じます」
「だが、その約束をしたときと今とでは、事情が異なる」
「と申されますと?」
「林道景継が自ら九州におるならば、毛利の援軍はその指揮の下で動けばよい。だが、今回は違う」
隆景は言葉を続けた。
「主力が去った後の九州で、島津を相手に戦を続けるのであろう?」
「左様にございます」
「それは、単なる援軍では済まぬ」
隆景の目が鋭くなった。
「毛利が、九州の戦そのものを支えることになる」
官兵衛は静かに頷いた。
「おっしゃるとおりにございます」
「ならば、我らにも相応の負担が生じる。兵も兵糧も、無尽蔵にあるわけではない」
輝元も頷いた。
「しかも、東国では徳川が動いておる。天下の情勢が変わるかもしれぬときに、毛利の力を九州へ注ぎ込むのは危うい」
官兵衛は二人の言葉を黙って聞いていた。
反論はしない。
その様子を見て、恵瓊が口を開いた。
「官兵衛殿」
「何でございましょう」
「一つ、確かめておきたいことがございます」
「何なりと」
恵瓊は、わずかに身を乗り出した。
「景継殿が東へ戻られるのは、いつ頃にございますか?」
官兵衛は答えた。
「すでに軍勢の移動を始めております。島津に悟られぬよう、部隊を分けて東へ向かわせております」
「……なるほど」
恵瓊は小さく頷いた。
「つまり、官兵衛殿は、九州に残る軍勢が減り始めた後で、我らに協力を求めておられるわけですな」
官兵衛は恵瓊を見つめた。
「そのとおりにございます」
「ならば、時間はあまり残されておりませぬな」
恵瓊の声は穏やかだった。
しかし、その言葉には鋭いものがあった。
「我らが返答を延ばせば、官兵衛殿は困る。違いますかな?」
評定の間に、静寂が落ちた。
官兵衛は、しばらく恵瓊を見つめていた。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……確かに、時間は惜しゅうございます」
「でしょうな」
恵瓊は微笑んだ。
「ならば、毛利にも考える時間をいただきたい。兵を送るにしても、将を選ぶにしても、容易に決められることではございませぬ」
輝元も頷いた。
「そのとおりだ。すぐに返事を出せる話ではない」
官兵衛は黙っていた。
毛利にとって、時間をかけることは不利ではない。
だが、官兵衛にとっては違う。
林道の主力が九州を離れる以上、毛利の援軍が遅れれば、島津に反撃の機会を与えることになる。
恵瓊は、その事情を見抜いていた。
「官兵衛殿」
恵瓊が続けた。
「我らも、以前の約束を反故にするつもりはございませぬ。しかし、今すぐ多くの兵を出せと言われましても、そう簡単には……」
「ごもっともにございます」
官兵衛は静かに答えた。
その声に、焦りはなかった。
恵瓊はわずかに眉を動かした。
官兵衛は続ける。
「毛利にも事情があることは、重々承知しております。兵を出せば領国の守りが薄くなり、兵糧を送れば蓄えが減る。しかも、東国の情勢は不透明。軽々しく決められることではございませぬ」
「……よくお分かりで」
「ええ。ですから、毛利の皆様に無理を申し上げるつもりはございませぬ」
輝元が怪訝そうな顔をした。
「無理を申さぬ?」
「はっ」
「先ほど、兵も将も兵糧も必要だと申したではないか」
「必要でございます」
官兵衛は即座に答えた。
「ですが、必要だからといって、ただお願いするだけでは、交渉にはなりませぬ」
隆景が静かに目を細めた。
「……ほう」
官兵衛は三人を見渡した。
「毛利が協力することで、何を得られるのか。それをお示しせねばならぬと考えております」
輝元が腕を組んだ。
「何を得られるか、か」
「左様にございます」
隆景が口を開いた。
「九州平定後の領地については、すでに取り決めておるはずだが」
「無論、承知しております」
「ならば、その約束を変えるつもりか?」
官兵衛は首を横に振った。
「いいえ。以前お約束した九州の領地について、変更をお願いするつもりはございませぬ」
その言葉に、輝元の眉が動いた。
「……では、何を差し出すというのだ?」
官兵衛はすぐには答えなかった。
わずかな沈黙が流れる。
恵瓊が、その表情を注意深く見つめていた。
「官兵衛殿。まさか、口約束だけで毛利を動かせるとは思っておられますまいな」
「無論でございます」
「では、何を?」
官兵衛は静かに微笑んだ。
「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」
恵瓊は眉を寄せた。
「……何でございましょう」
「毛利にとって、今、最も避けねばならぬことは何でございましょう」
輝元が顔を上げた。
「何?」
官兵衛は続けた。
「東では徳川と伊達が動き、林道は九州の主力を東へ戻そうとしております。島津はなお健在。天下の情勢は、これから大きく変わるやもしれませぬ」
隆景は黙って聞いていた。
「その中で、毛利は何を守り、何を得るべきなのか」
官兵衛の声が、わずかに低くなった。
「此度の交渉は、そこから始めるべきかと存じます」
恵瓊の笑みが消えた。
隆景は腕を組んだまま、官兵衛を見つめている。
輝元もまた、何かを考えるように視線を落とした。
やがて、隆景が口を開いた。
「……官兵衛殿」
「はっ」
「そなた、我らに兵を求めに来たのではなかったか?」
「そのとおりにございます」
「ならば、なぜ毛利の行く末を語り始める?」
官兵衛は、ゆっくりと顔を上げた。
「毛利の行く末と、九州の戦は、決して無関係ではないからにございます」
隆景はしばらく黙っていた。
そして、わずかに笑った。
「……なるほど」
その笑みは、決して友好的なものではなかった。
「どうやら、此度も容易には終わらぬようだな」
恵瓊も静かに頷いた。
「ええ。官兵衛殿は、まだ肝心なことを何一つ話しておられませぬ」
官兵衛は、その言葉を否定しなかった。
ただ、静かに三人を見渡した。
「では、ここからが本題にございます」
評定の間に、再び沈黙が落ちた。
かつて備後一国を巡って争った知恵と知恵が、再び向かい合う。
毛利が何を望み、何を恐れているのか。
官兵衛が何を差し出し、何を得ようとしているのか。
互いの思惑が交錯する中、交渉はようやく、その核心へ踏み込もうとしていた。




