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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百七十九話 再び毛利へ



安芸国、吉田郡山城。


春の風が山々を渡り、城を囲む木々を静かに揺らしていた。


その穏やかな景色とは裏腹に、毛利の評定の間には張り詰めた空気が漂っている。


上座に座るのは、毛利輝元。


その傍らには小早川隆景が控え、少し離れた場所には安国寺恵瓊の姿もあった。


三人の前には、一通の書状が置かれている。


差出人は、黒田官兵衛。


かつて毛利との交渉において、備後一国の割譲という大きな譲歩を引き出した男である。


「……また、あの男か」


輝元が書状へ目を落としながら呟いた。


その声には、わずかな苦々しさが混じっている。


恵瓊は口元に薄い笑みを浮かべた。


「どうやら、九州の戦況が動いたようにございますな」


「そのようだ」


隆景が頷いた。


「林道景継は筑前に足場を固め、秋月を従えた。大友との協力も続いておる。島津にとっては、いよいよ厳しい状況になってきたというところであろう」


「ならば、官兵衛がわざわざ我らに会いたいと申す理由は何だ?」


輝元の問いに、隆景はすぐには答えなかった。


書状を手に取り、文面をもう一度確かめる。


そこには、九州の戦況について協議したいという趣旨が、丁寧な言葉で記されていた。


だが、肝心の用件は明らかにされていない。


「……兵か、兵糧か」


隆景が静かに口を開いた。


「あるいは、その両方でしょうな」


恵瓊が頷いた。


「すでに毛利は、九州平定への協力を約しております。官兵衛殿がその約束を持ち出してくることは、十分に考えられます」


輝元は眉を寄せた。


「ならば、約束どおり協力すればよいではないか」


「無論、約束は守らねばなりませぬ」


恵瓊はそう前置きしてから、ゆっくりと言葉を続けた。


「しかし、協力の仕方まで、すべて官兵衛殿の望むとおりにする必要はございませぬ」


隆景も頷いた。


「我らにも守るべき領国がある。九州へ兵を送れば、その分だけ毛利の守りは薄くなる。兵糧を出せば、蓄えも減る。何より、将を送り込むとなれば、長く毛利を離れることになるやもしれぬ」


そこで隆景は、わずかに言葉を切った。


「……それに、今の毛利には、以前ほど将を自由に動かせぬ事情もある」


輝元の表情が曇った。


「元春叔父上のことか」


「うむ」


隆景は静かに頷いた。


前年、吉川元春がこの世を去った。


長年にわたり毛利の軍事を支え、隆景とともに両川と称された名将である。


その死は、毛利にとって決して小さな損失ではなかった。


しかも、吉川の家督を継いだ元長も、近頃は病を患い、療養を続けている。


「元長の具合も、まだ思わしくないと聞いておる」


輝元の言葉に、隆景は頷いた。


「吉川の将兵を動かすにも、慎重にならざるを得ませぬ。元春兄上が健在であれば、また違ったのでしょうが……」


その言葉の後に、短い沈黙が流れた。


恵瓊が静かに口を開いた。


「だからこそ、此度の話は軽々しく決められませぬ。毛利の軍勢を九州へ送り込むことが、領国の守りにどう響くか。よく見極める必要がございます」


「……なるほどな」


輝元は腕を組んだ。


「つまり、官兵衛の望むものを見極めねばならぬということか」


「左様にございます」


恵瓊が答えた。


「しかも、今回は以前とは事情が違います」


「どう違う?」


「前の交渉では、林道が備後を求めておりました。毛利には、それを拒むか受け入れるかという大きな判断がございました」


恵瓊は一度、言葉を切った。


「ですが今、備後はすでに林道の領地。官兵衛殿が新たな協力を求めるのであれば、我らにも相応の理由が必要になります」


隆景は静かに目を細めた。


「官兵衛が、何も用意せずに来るとは思えぬがな」


その言葉に、恵瓊の笑みがわずかに深くなった。


「ええ。あの御仁のことです。何かを考えておられるのでしょう」


輝元は書状を置いた。


「よかろう。会ってみようではないか」


◇ ◇ ◇


数日後。


吉田郡山城の城門を、一行の武士たちがくぐった。


その先頭に立つのは、黒田官兵衛である。


官兵衛は城内へ案内されながら、周囲の様子を静かに観察していた。


城の警備は厳重であり、行き交う兵たちの動きにも乱れがない。


毛利は、依然として西国に大きな力を持つ大名であった。


(……容易な交渉にはなるまいな)


官兵衛は胸中で呟いた。


かつての交渉で、毛利は備後一国を林道へ譲り渡した。


その決断が、毛利にとってどれほど重いものだったか。


官兵衛は十分に理解していた。


だからこそ、今回も以前と同じように話が進むとは考えていない。


毛利輝元。


小早川隆景。


安国寺恵瓊。


三人とも、決して侮ることのできぬ相手である。


とりわけ隆景と恵瓊は、相手の言葉の裏にある意図を読み取ることに長けている。


こちらが少しでも弱みを見せれば、そこを突いてくるであろう。


しかし、官兵衛の表情に迷いはなかった。


(さて……どこまで引き出せるか)


やがて、評定の間へ通された。


上座には輝元。


その左右には隆景と恵瓊が控えている。


官兵衛は静かに膝をつき、深く頭を下げた。


「黒田官兵衛にございます。このたびは、急な申し出にもかかわらず、お目通りをお許しいただき、かたじけなく存じます」


輝元が頷いた。


「久しいな、官兵衛殿」


「はっ。皆様には、ご健勝のご様子。何よりにございます」


「挨拶はそのくらいでよかろう」


輝元は少し身を乗り出した。


「此度は、何用で参られた?」


官兵衛は顔を上げた。


「九州平定について、改めてご相談申し上げたく参りました」


「九州か」


「はっ」


官兵衛は静かに続けた。


「林道景継殿は、九州において着実に勢力を広げております。大友との協力も進み、秋月も我らに従いました。残る島津との戦いも、いよいよ重要な局面を迎えております」


隆景が口を開いた。


「それは聞き及んでおる。林道の働きは見事なものだ」


「ありがたきお言葉」


「しかし、官兵衛殿」


隆景は官兵衛を見据えた。


「それほど戦況が有利ならば、なぜ改めて毛利へ相談に来られた?」


官兵衛はわずかに笑みを浮かべた。


「さすがは隆景殿。話が早うございますな」


「世辞はよい。用件を聞こう」


「承知いたしました」


官兵衛は居住まいを正した。


「此度、景継殿は九州の軍勢の一部を率い、東国へ向かわれることとなりました」


その言葉に、評定の間の空気が変わった。


輝元が眉を上げる。


「東国へ?」


「はっ」


「九州平定の途中でか?」


「左様にございます」


恵瓊が静かに口を開いた。


「……北条の件ですな」


官兵衛は頷いた。


「徳川家康と伊達政宗が北条へ侵攻しております。景継殿は北条を救うため、東へ戻られる決断をなされました」


隆景は腕を組んだ。


「なるほど。それで、九州には誰が残る?」


「この官兵衛にございます」


官兵衛は落ち着いた声で答えた。


「景継殿より、九州方面の指揮を託されました」


輝元は驚いたように官兵衛を見た。


「そなた一人に、九州を任せたというのか」


「無論、黒田の家臣団をはじめ、大友、秋月、宇都宮殿らとの協力もございます。しかし、林道の主力が東へ戻れば、これまでと同じ戦い方はできませぬ」


「……それで、毛利に兵を求めるというわけか」


隆景の問いに、官兵衛は頷いた。


「左様にございます」


官兵衛は三人を見渡した。


「毛利より、軍勢をお借りしたい。それも、ただ兵を送っていただくだけではございませぬ。軍を率いることのできる将、そして継続して軍勢を支える兵糧も必要となります」


輝元は表情を険しくした。


「……随分と大きな頼みだな」


「承知しております」


「毛利の兵を動かし、将を送り、兵糧まで出せと申すか」


「はっ」


官兵衛は、少しも目を逸らさなかった。


輝元は隆景へ視線を向けた。


隆景はしばらく官兵衛を見つめていたが、やがて口を開いた。


「官兵衛殿。以前の約束を忘れたわけではない。毛利は九州平定への協力を約しておる」


「ありがたく存じます」


「だが、その約束をしたときと今とでは、事情が異なる」


「と申されますと?」


「林道景継が自ら九州におるならば、毛利の援軍はその指揮の下で動けばよい。だが、今回は違う」


隆景は言葉を続けた。


「主力が去った後の九州で、島津を相手に戦を続けるのであろう?」


「左様にございます」


「それは、単なる援軍では済まぬ」


隆景の目が鋭くなった。


「毛利が、九州の戦そのものを支えることになる」


官兵衛は静かに頷いた。


「おっしゃるとおりにございます」


「ならば、我らにも相応の負担が生じる。兵も兵糧も、無尽蔵にあるわけではない」


輝元も頷いた。


「しかも、東国では徳川が動いておる。天下の情勢が変わるかもしれぬときに、毛利の力を九州へ注ぎ込むのは危うい」


官兵衛は二人の言葉を黙って聞いていた。


反論はしない。


その様子を見て、恵瓊が口を開いた。


「官兵衛殿」


「何でございましょう」


「一つ、確かめておきたいことがございます」


「何なりと」


恵瓊は、わずかに身を乗り出した。


「景継殿が東へ戻られるのは、いつ頃にございますか?」


官兵衛は答えた。


「すでに軍勢の移動を始めております。島津に悟られぬよう、部隊を分けて東へ向かわせております」


「……なるほど」


恵瓊は小さく頷いた。


「つまり、官兵衛殿は、九州に残る軍勢が減り始めた後で、我らに協力を求めておられるわけですな」


官兵衛は恵瓊を見つめた。


「そのとおりにございます」


「ならば、時間はあまり残されておりませぬな」


恵瓊の声は穏やかだった。


しかし、その言葉には鋭いものがあった。


「我らが返答を延ばせば、官兵衛殿は困る。違いますかな?」


評定の間に、静寂が落ちた。


官兵衛は、しばらく恵瓊を見つめていた。


そして、ゆっくりと頷いた。


「……確かに、時間は惜しゅうございます」


「でしょうな」


恵瓊は微笑んだ。


「ならば、毛利にも考える時間をいただきたい。兵を送るにしても、将を選ぶにしても、容易に決められることではございませぬ」


輝元も頷いた。


「そのとおりだ。すぐに返事を出せる話ではない」


官兵衛は黙っていた。


毛利にとって、時間をかけることは不利ではない。


だが、官兵衛にとっては違う。


林道の主力が九州を離れる以上、毛利の援軍が遅れれば、島津に反撃の機会を与えることになる。


恵瓊は、その事情を見抜いていた。


「官兵衛殿」


恵瓊が続けた。


「我らも、以前の約束を反故にするつもりはございませぬ。しかし、今すぐ多くの兵を出せと言われましても、そう簡単には……」


「ごもっともにございます」


官兵衛は静かに答えた。


その声に、焦りはなかった。


恵瓊はわずかに眉を動かした。


官兵衛は続ける。


「毛利にも事情があることは、重々承知しております。兵を出せば領国の守りが薄くなり、兵糧を送れば蓄えが減る。しかも、東国の情勢は不透明。軽々しく決められることではございませぬ」


「……よくお分かりで」


「ええ。ですから、毛利の皆様に無理を申し上げるつもりはございませぬ」


輝元が怪訝そうな顔をした。


「無理を申さぬ?」


「はっ」


「先ほど、兵も将も兵糧も必要だと申したではないか」


「必要でございます」


官兵衛は即座に答えた。


「ですが、必要だからといって、ただお願いするだけでは、交渉にはなりませぬ」


隆景が静かに目を細めた。


「……ほう」


官兵衛は三人を見渡した。


「毛利が協力することで、何を得られるのか。それをお示しせねばならぬと考えております」


輝元が腕を組んだ。


「何を得られるか、か」


「左様にございます」


隆景が口を開いた。


「九州平定後の領地については、すでに取り決めておるはずだが」


「無論、承知しております」


「ならば、その約束を変えるつもりか?」


官兵衛は首を横に振った。


「いいえ。以前お約束した九州の領地について、変更をお願いするつもりはございませぬ」


その言葉に、輝元の眉が動いた。


「……では、何を差し出すというのだ?」


官兵衛はすぐには答えなかった。


わずかな沈黙が流れる。


恵瓊が、その表情を注意深く見つめていた。


「官兵衛殿。まさか、口約束だけで毛利を動かせるとは思っておられますまいな」


「無論でございます」


「では、何を?」


官兵衛は静かに微笑んだ。


「その前に、一つお尋ねしてもよろしいでしょうか」


恵瓊は眉を寄せた。


「……何でございましょう」


「毛利にとって、今、最も避けねばならぬことは何でございましょう」


輝元が顔を上げた。


「何?」


官兵衛は続けた。


「東では徳川と伊達が動き、林道は九州の主力を東へ戻そうとしております。島津はなお健在。天下の情勢は、これから大きく変わるやもしれませぬ」


隆景は黙って聞いていた。


「その中で、毛利は何を守り、何を得るべきなのか」


官兵衛の声が、わずかに低くなった。


「此度の交渉は、そこから始めるべきかと存じます」


恵瓊の笑みが消えた。


隆景は腕を組んだまま、官兵衛を見つめている。


輝元もまた、何かを考えるように視線を落とした。


やがて、隆景が口を開いた。


「……官兵衛殿」


「はっ」


「そなた、我らに兵を求めに来たのではなかったか?」


「そのとおりにございます」


「ならば、なぜ毛利の行く末を語り始める?」


官兵衛は、ゆっくりと顔を上げた。


「毛利の行く末と、九州の戦は、決して無関係ではないからにございます」


隆景はしばらく黙っていた。


そして、わずかに笑った。


「……なるほど」


その笑みは、決して友好的なものではなかった。


「どうやら、此度も容易には終わらぬようだな」


恵瓊も静かに頷いた。


「ええ。官兵衛殿は、まだ肝心なことを何一つ話しておられませぬ」


官兵衛は、その言葉を否定しなかった。


ただ、静かに三人を見渡した。


「では、ここからが本題にございます」


評定の間に、再び沈黙が落ちた。


かつて備後一国を巡って争った知恵と知恵が、再び向かい合う。


毛利が何を望み、何を恐れているのか。


官兵衛が何を差し出し、何を得ようとしているのか。


互いの思惑が交錯する中、交渉はようやく、その核心へ踏み込もうとしていた。


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