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『乱世にて、我は待つ』~知略を秘めた軍師は、やがて天下を動かす~  作者: ダイヤマ
第十二章 命運交錯編

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第二百七十八話 北条の苦境



相模国、小田原城。


春の陽光が城下町を照らしていた。


例年であれば、街道を行き交う商人たちの声が響き、城下には穏やかな賑わいが広がる季節である。


しかし、この日の小田原には、いつもとは異なる緊張が漂っていた。


城門をくぐる早馬が後を絶たず、武具を身につけた兵たちが慌ただしく行き交っている。荷車には矢玉や兵糧が積み込まれ、城下の者たちも不安げな表情でその様子を見守っていた。


小田原城、評定の間。


北条氏政は、諸将から届けられる報告を聞きながら、目の前の地図を見つめていた。


その隣には、息子の北条氏直が座っている。


「申し上げます! 徳川勢が西方の国境を越え、複数の進路から侵攻を開始しております!」


使者の報告に、氏直が顔を上げた。


「複数の進路だと?」


「はっ! 主力と思われる軍勢とは別に、各地で徳川の部隊が確認されております。すでに前線の諸将から援軍の要請が届いております!」


氏直は地図に目を落とした。


徳川家康が北条領へ侵攻したとの報せが届いてから、まだそれほどの日数は経っていない。それにもかかわらず、敵はすでに複数の場所で北条軍と交戦していた。


「……随分と早いな」


その言葉に応じるように、別の使者が進み出た。


「さらに北方からも急報にございます!」


「申せ」


「伊達政宗の軍勢が南へ動いております! 北方の諸将が警戒を強めておりますが、伊達勢も予想を上回る速さで進軍しているとのこと!」


評定の間がざわめいた。


徳川家康と伊達政宗。


二人の大名が、ほぼ同時に北条へ攻勢を仕掛けてきたのである。


氏直は険しい表情で父へ向き直った。


「父上。やはり、徳川と伊達は示し合わせておりますな」


「……そうであろうな」


氏政は短く答えた。


その目は、地図の西と北を交互に見つめていた。


「問題は、二方から攻められていることだけではない」


「と申されますと?」


「この進軍の速さよ」


氏政は西方に置かれた駒へ指を伸ばした。


「これほどの軍勢を、兵糧も道筋も整えずに動かせるものではない。家康は開戦するより前から、すでに準備を進めていたのであろう」


氏直は息を呑んだ。


「では、此度の侵攻は……」


「思いつきではない。周到に練られた戦だ」


氏政がそう言い切ったとき、新たな使者が評定の間へ駆け込んできた。


「申し上げます! 西方の守将より急報! 徳川勢の一隊が我らの守備を迂回し、別の街道へ進出したとのこと!」


「何だと!?」


氏直が思わず立ち上がる。


「その街道には、すでに兵を向かわせたはずだ!」


「はっ! しかし、援軍が到着する前に敵が先回りした模様にございます!」


氏直は唇を噛んだ。


前線から報告を受け、援軍を送る。それは当然の対応だった。


だが、報せが小田原へ届き、こちらが命令を下す頃には、敵はすでに次の場所へ進んでいる。


まるで北条軍の動きを、あらかじめ知っているかのようだった。


「……違うぞ、氏直」


氏政が地図を見つめたまま口を開いた。


「父上?」


「ただ急いでいるのではない。急いで進めるよう、すべてを整えておったのだ」


氏政の指が、徳川軍の進路をゆっくりとなぞる。


「主力だけではない。別働隊までもが、互いの動きを乱さず進んでいる。こちらがどこを守り、どこへ援軍を送るかまで考えておったのであろう」


氏直は改めて地図を見た。


西方に置かれた敵の駒が、先ほどよりも大きく見える。


「……厄介な相手ですな」


「うむ。だが、こちらも手を打たねばならぬ」


氏政は顔を上げ、諸将へ命じた。


「西方の諸城には、敵の別働隊を深追いせぬよう伝えよ。各城の連絡を保ち、援軍の道筋を確かめるのだ」


「はっ!」


家臣たちが慌ただしく動き出す。


氏政は再び地図へ視線を落とした。


敵が十分な準備を整えてきたのであれば、北条もまた、その動きに応じて戦い方を変えねばならない。


◇ ◇ ◇


その頃。


徳川軍本陣。


徳川家康は、諸将から届けられる報告を聞きながら、広げられた地図を見つめていた。


地図には北条領の主要な城や街道が記され、その周囲には大小の駒が置かれている。


「殿。西方の部隊は、予定どおり進軍しております」


「うむ」


「別働隊も、北条方の援軍が到着する前に街道へ進出したとのこと」


家康は静かに頷いた。


「よい。だが、そこで足を止めてはならぬ」


「はっ」


「次の部隊を動かせ。北条が守りを固める前に、さらに圧力をかけるのだ」


家臣は頭を下げた。


その様子を見ていた別の将が、慎重に口を開く。


「殿。一つ、申し上げてもよろしいでしょうか」


「申せ」


「北条の城は堅固にございます。ここまで急いで攻めずとも、周囲を押さえ、兵糧を断っていけば、いずれは……」


「ならぬ」


家康は、その言葉を最後まで聞かなかった。


「此度の戦、我らには時間がない」


「時間が、でございますか?」


「うむ」


家康は地図の西へ目を向けた。


その先にあるのは北条領ではなく、さらに遠く、中央の諸国だった。


「九州には林道景継がおる。あの男が北条の危機を知れば、どう動くと思う?」


「……救援に向かうかと」


「そうだ。氏政は景継の義父。しかも、あの男は一度結んだ縁を容易には捨てぬ」


家臣たちは黙って耳を傾けていた。


「それだけではない。林道の軍勢が、すべて九州にあるわけでもない」


家康は中央の諸国を指した。


「柴田勢をはじめ、中央にはまだ動かせる兵が残っておる。北条との戦が長引けば、景継が戻る前に、それらが動き出すやもしれぬ」


「……なるほど」


「我らが北条と戦っている間に、林道の軍勢が背後から迫ればどうなる?」


その問いに、家臣はすぐには答えられなかった。


家康は静かに続けた。


「北条だけでも厄介な相手だ。そこへ林道まで加われば、戦は容易に終わらぬ」


「では、殿は……」


「景継が戻る前に、北条の戦う力を奪う」


家康の声が、わずかに低くなった。


「それが此度の戦のすべてよ」


家臣たちは、その言葉の重みを理解した。


今回の侵攻は、ただ北条領へ攻め込むためのものではない。


北条が態勢を整えるよりも早く、主要な拠点と連絡経路を押さえ、戦を続ける力そのものを奪う。


そのために家康は、開戦前から兵糧を集め、進軍路を調べ、各部隊の役割を細かく定めていた。


北条の諸城をすべて攻め落とす必要はない。


守りの堅い城は必要に応じて包囲し、別働隊を先へ進める。


援軍が集まりそうな道筋には先回りし、北条軍が兵をまとめる機会を奪う。


さらに伊達政宗の軍勢が北方から圧力をかけることで、北条は西方へ全軍を集中させることもできない。


家康は地図の上に置かれた駒を一つ動かした。


「城を一つ落とすために、何日も費やすつもりはない」


「はっ」


「必要なのは、北条に考える時間を与えぬことだ」


家康は諸将を見渡した。


「我らが一手を打てば、北条も必ず動く。だが、その動きを待ってから次の手を考えていては遅い」


家臣の一人が尋ねる。


「では、北条の動きを見越して、次の部隊を進めるのでございますな」


「そうだ。ただし、敵も愚かではない。こちらの思惑に気づけば、必ず対策を講じてくる」


家康は一度、目を細めた。


「だからこそ、動きを止めてはならぬ」


その声には、揺るぎない決意があった。


「北条に息をつかせるな。こちらが休めば、相手にも考える時間を与えることになる」


家臣たちは一斉に頭を下げた。


「はっ!」


家康は再び地図へ目を落とした。


その指が、九州の方角へ向かう。


(景継殿。あなたが戻られる頃には、すでに勝負がついているようにせねばならぬ)


◇ ◇ ◇


数日後。


小田原城。


北条氏直は、ほとんど休む間もなく諸将からの報告を受けていた。


「西方の守りを立て直すため、兵を集めよ!」


「はっ!」


「ただし、北方の備えを薄くするな。伊達勢が動けば、そちらにも対応せねばならぬ!」


氏直の命令を受け、家臣たちが慌ただしく動き出す。


そのとき、新たな使者が駆け込んできた。


「申し上げます! 西方の兵糧集積地が、徳川の別働隊に襲われたとのこと!」


「何だと!?」


氏直は地図へ身を乗り出した。


「守備の兵はどうした!」


「敵の一隊が街道を押さえたため、周辺からの救援が間に合わず……集積していた兵糧の一部を奪われた模様にございます!」


氏直は歯を食いしばった。


兵を集めようとすれば、その道を塞がれる。


そして今度は、集めた兵を養うための兵糧まで狙われた。


徳川は、ただ前へ進んでいるのではない。


北条が軍勢を維持するために必要なものを、一つずつ奪おうとしていた。


「……父上」


氏直は、上座に座る氏政へ目を向けた。


「このままでは、各城へ兵糧を送ることすら難しくなります」


氏政は静かに頷いた。


「分かっておる」


「西方へ兵を増やせば、北方が薄くなる。かといって、今の守りを維持したままでは……」


「氏直」


氏政が声をかけた。


「敵の動きに、すべて付き合う必要はない」


「……は?」


「家康は、我らを急がせようとしておる。こちらが慌てて兵を動かせば、守りの薄くなった場所を突かれる。逆に、すべてを守ろうとすれば、兵が散ってしまう」


氏政は地図の上に指を置いた。


「守る場所を絞る」


氏直は父を見つめた。


「すべての城を守ることはできぬ。だが、北条家そのものを守ることはできる」


「……」


「守りきれぬ城からは、兵を退かせよ。ただし、退く道筋を確保し、領民を置き去りにするな」


氏直は、ゆっくりと頷いた。


「承知いたしました」


「敵が先へ進むなら、進ませればよい。無理に追いかけて兵を失う必要はない」


氏政は地図を見つめた。


「小田原を中心に守りを固め、敵の進軍が伸びきるのを待つ」


北条は、長く関東で戦を重ねてきた。


守る戦にも、決して不慣れではない。


敵がどれほど速く進もうとも、その速さを維持するには兵糧が必要になる。兵が前へ進めば進むほど、後方との距離も広がっていく。


そこに隙が生まれる可能性はあった。


「父上。徳川が急いでいる理由は、何なのでございましょう」


氏直の問いに、氏政はしばらく考え込んだ。


「……おそらく、時間がないのであろう」


「時間が?」


「うむ。家康ほどの男が、これほど急いで兵を進める。そこには、急がねばならぬ理由があるはずだ」


氏政は地図の西へ視線を向けた。


「考えられるのは……林道か」


氏直が顔を上げた。


「景継殿でございますか」


「そうだ。景継は今、九州におる。しかし、中央にはまだ林道の軍勢が残っておる」


氏政は続けた。


「柴田勢などが動き出せば、徳川も北条だけを相手にしておればよいというわけにはいくまい」


氏直は、ようやく家康の狙いを理解し始めていた。


「つまり、家康は……」


「我らが救援を得る前に、勝負を決めるつもりなのであろう」


氏政の言葉に、評定の間が静まり返った。


「ならば、我らのなすべきことは一つだ」


氏政は息子を見据えた。


「持ちこたえることよ」


氏直は深く頭を下げた。


「はっ!」


◇ ◇ ◇


しかし、北条が守りを固めようとする一方で、徳川軍の攻勢はさらに激しさを増していた。


ある城では、徳川勢が正面から攻め寄せると見せかけ、別働隊が背後の街道へ回り込んだ。


別の場所では、北条方が兵を退かせた隙を突き、周辺の要所が押さえられていった。


さらに北方では伊達勢が進軍を続け、北条と結ぶ諸勢力へ圧力をかけていた。


西と北。


二つの方向から届く急報は、日を追うごとに増えていった。


そして、ある日の夕刻。


小田原城へ、泥にまみれた一人の使者が駆け込んできた。


「申し上げます!」


その声には、隠しきれない焦りがあった。


「西方の守将より急報! 徳川勢が、我らの予想を上回る速さで進軍しております!」


氏直が立ち上がる。


「今度はどこだ!」


使者が告げた場所を聞いた瞬間、氏直の表情が変わった。


「……そこまで進んでいるのか?」


「はっ! すでに周辺の街道へも敵兵が現れているとのこと!」


氏直は地図へ駆け寄った。


報告された地点は、つい数日前まで後方の守りとして考えていた場所だった。


しかも、そこは小田原へ通じる重要な道筋の一つでもある。


「……このままでは、後方の連絡路まで断たれる」


氏政も立ち上がり、地図を見つめた。


「家康め……」


その声には、怒りよりも深い警戒が滲んでいた。


北条が兵を退かせ、守る場所を絞ったことによって、徳川の進軍を受け止める態勢は整いつつあった。


だが、家康はその変化を見逃さなかった。


兵が退いた地域へ別働隊を進め、さらに奥の街道を押さえようとしている。


「父上。このままでは、小田原へ通じる道まで……」


「分かっておる」


氏政は息子の言葉を遮った。


「だが、今さら退かせた兵を戻せば、家康の思う壺だ」


氏直は拳を握りしめた。


「……はい」


氏政は地図の上に置かれた駒を動かした。


「後方の連絡路を守る兵は残す。だが、主力は動かすな。敵がこちらの守りへ踏み込んでくるなら、そこで迎え撃つ」


「はっ!」


「北方にも伝えよ。伊達の動きに釣られ、兵を無駄に散らしてはならぬ」


家臣たちが次々と命令を受け、評定の間を後にした。


その後ろ姿を見送りながら、氏政は小さく呟いた。


「……恐ろしい男よ」


氏直が顔を上げる。


「家康のことでございますか」


「うむ」


氏政は頷いた。


「我らが守りを変えれば、家康も攻め方を変えてくる。しかも、こちらが新たな備えを整えるより先にな」


氏政の視線が、地図の西へ向けられた。


しばらくの沈黙が流れた。


やがて氏直が口を開いた。


「父上。景継殿への使者は、すでに送りました。ですが、九州から戻られるまでには、まだ日数がかかりましょう」


「そうであろうな」


「それまで、我らだけで……」


氏直は言葉を止めた。


氏政は息子へ目を向けた。


「氏直」


「はい」


「景継が来るかどうかは分からぬ。中央の林道勢が動くとも限らぬ」


「……」


「だが、我らがここで倒れれば、誰が来ようと北条は救えぬ」


氏直は父を見つめた。


「だからこそ、持ちこたえるのだ」


氏政の声は静かだった。


しかし、その言葉には揺るぎない覚悟があった。


「一日でも長く、一刻でも長く。敵に容易く勝利を渡してはならぬ」


氏直は深く頭を下げた。


「承知いたしました」


氏政は窓の外へ目を向けた。


遠くには、夕暮れに染まる小田原の城下町が広がっている。


その向こうで、徳川家康の軍勢が刻一刻と迫っていた。


氏政は、ふと娘の楓の顔を思い浮かべた。


そして、まだ幼い孫たちのことを。


以前、景継には、楓と子どもたちを連れて小田原へ来るよう伝えていた。


だが、その約束は、いまだ果たされていない。


「……まったく」


氏政が小さく呟く。


「孫たちの顔を見るまでは、そう簡単に死ねぬというのに」


氏直は父の横顔を見た。


普段は滅多に弱音を吐かぬ男だった。


だからこそ、その何気ない一言が胸に残った。


「父上」


「何だ」


「必ず、また会えます」


氏政は息子を見つめた。


そして、わずかに笑った。


「……そうだな」


◇ ◇ ◇


同じ頃。


徳川軍本陣。


家康は、また一つ、地図の上の駒を動かしていた。


「殿。北条勢が、一部の城から兵を退かせ始めたとのことにございます」


「……ほう」


家康は静かに頷いた。


「氏政も、こちらの狙いに気づいたようだな」


「では、進軍を続けますか?」


家康はすぐには答えなかった。


地図を見つめ、北条軍が兵を集めようとしている場所を確かめる。


そして、ゆっくりと口を開いた。


「予定していた進路を一部改める」


家臣が顔を上げた。


「改めるのでございますか?」


「うむ。氏政が守りを固めるならば、そこへ正面からぶつかる必要はない」


家康は別の街道を指した。


「こちらへ兵を向けよ」


「しかし、そちらは……」


「北条が兵を集めたことで、守りが薄くなる場所だ」


家臣は息を呑んだ。


家康は静かに続けた。


「氏政も氏直も、決して愚かではない。こちらの狙いを読めば、必ず守りを変えてくる」


「……」


「だが、それでよい」


家康は地図から目を離さなかった。


「相手が動けば、次の手が生まれる」


その指が、新たな場所へ駒を進めた。


「我らは、その先へ進むだけだ」


家臣たちは深く頭を下げた。


「はっ!」


家康は一人、地図を見つめ続けた。


北条氏政。


北条氏直。


そして、遠い九州にいる林道景継。


いずれも、容易に侮れる相手ではない。


だからこそ、此度の戦に長い時間を費やすわけにはいかなかった。


「……急がねばならぬな」


家康は小さく呟いた。


その声には、焦りではなく、冷静な決意が宿っていた。


「景継殿が戻られる前に、すべてを終わらせる」


春の夜風が、陣幕を静かに揺らした。


北条は、まだ健在だった。


氏政も氏直も、戦う意思を失ってはいない。


だが、徳川と伊達の軍勢は、想像を超える速さでその領地へ迫りつつあった。


一日。


また一日。


時が過ぎるたびに、北条が取り得る選択肢は少しずつ狭められていく。


そして、その一日こそが、遠い九州から東へ向かう景継にとって、何よりも貴重なものだった。



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