第二百七十七話 託された九州
筑前国、林道軍本陣。
東国からの急報が届いた翌朝、景継は諸将を集めて軍議を開いていた。
陣幕の中央には、九州から東国に至るまでを描いた地図が広げられている。その周囲には、黒田官兵衛をはじめ、加藤清正、福島正則、藤堂高虎、石田三成、大谷吉継、小西行長、仙石秀久、そして弥兵衛らが顔を揃えていた。
普段であれば、九州平定に向けた軍議が始まるところである。
しかし、この日の議題は違った。
「皆さん。昨日、東国より届いた報せについてお話しします」
景継が口を開くと、諸将の視線が一斉に集まった。
「徳川家康が北条領へ侵攻し、さらに伊達政宗も北方から兵を動かしています。使者が出立した時点では、氏政殿も氏直殿も健在でしたが、現在の戦況までは分かりません」
「徳川と伊達が同時に、か……」
正則が腕を組み、険しい表情を浮かべる。
「北条とて弱くはあるまいが、二方から攻められては厄介じゃな」
清正も頷いた。
「しかも相手は徳川家康。伊達政宗も若いながら勢いがあると聞く。北条が持ちこたえているうちに、救援へ向かわねばなりますまい」
「ええ。そのつもりです」
景継は静かに答えた。
「昨日、官兵衛殿とも話しましたが、私は主力を率いて東国へ戻ります。そして、九州の戦は官兵衛殿に任せます」
官兵衛は景継の言葉を受け、諸将へ向き直った。
「殿が東国へ向かわれる以上、九州の戦は私が引き受けます。まずは守りを固め、島津に付け入る隙を与えぬことが肝要かと」
「しかし、主力が去れば兵力は大きく減ります」
三成が地図へ視線を落とした。
「秋月種実が臣従したとはいえ、島津は健在です。今の兵力で、九州の守りを維持できるのでしょうか」
「その点については、いくつか考えがございます」
官兵衛は地図の九州北部を指した。
「まず、九州に残る林道勢に加え、我が黒田家の家臣団を呼び集めます。さらに、大友、秋月、宇都宮との連携を強めましょう」
「大友にも兵を出してもらうのか?」
正則が尋ねる。
「必要に応じて、協力をお願いすることになりましょう。ただし、大友は我らの家臣ではございませぬ」
官兵衛は落ち着いた口調で続けた。
「独立した大名として、その立場を尊重せねばなりませぬ。無理に兵を動かさせれば、かえって関係を損ないます」
景継は頷いた。
「そのとおりです。大友の領地を侵すようなことも、決してあってはなりません」
「承知しております」
官兵衛はさらに続けた。
「秋月種実は、すでに林道家へ臣従しております。岩石城を含む周辺の守りを固めさせましょう。また、宇都宮鎮房殿とは、城井谷を中心とした協力関係を維持いたします」
「それだけで島津に対抗できるのか?」
清正が尋ねた。
官兵衛は、かすかに笑みを浮かべた。
「無論、それだけでは足りませぬ」
その指が、九州の地図から本州西部へ移った。
「毛利に、改めて協力を求めます」
「毛利に?」
「はい。将、兵、そして兵糧。これらをさらに出していただくのです」
三成が眉を寄せた。
「しかし、毛利とはすでに交渉を終えております。追加の協力を求めるとなれば、相応の見返りを要求されるのでは?」
「当然でございましょうな」
官兵衛は、あっさりと認めた。
「ですが、交渉とは、相手の求めるものをただ差し出すことではございませぬ」
「……ほう」
三成が興味深そうに身を乗り出した。
「相手が何を欲し、何を恐れ、何を得れば動くのか。それを見極めることが肝要にございます」
官兵衛は静かに言った。
「毛利にも、毛利の事情がございます。その事情を踏まえれば、話を進める余地はありましょう」
景継は官兵衛を見つめた。
「交渉の進め方は、官兵衛殿にお任せします。ただし、大友との約束は守ること。それだけは忘れないでいただきたい」
「無論にございます」
官兵衛は深く頭を下げた。
「毛利との交渉は、この官兵衛にお任せくだされ」
◇ ◇ ◇
「それと、もう一つございます」
軍議が一段落しかけたところで、仙石秀久が口を開いた。
「何でしょう、秀久殿」
景継が尋ねる。
「殿が主力を率いて東国へ向かわれること、島津方に知られるのは避けられませぬ。ですが、できる限り、その時を遅らせるべきかと」
「……なるほど」
景継は秀久へ視線を向けた。
「続けてください」
「はっ。軍勢を一度に動かせば、敵の間者にすぐ知られましょう。ならば、部隊を分け、出立の時をずらしてはいかがでしょうか」
秀久は地図の上に指を置いた。
「先に動かす部隊、後から動かす部隊を分けるのです。表向きには配置換えや兵糧輸送と見せかければ、主力が九州を離れたと気づかれるまで、多少なりとも時間を稼げましょう」
高虎が頷いた。
「確かに。軍勢が一斉に動けば、遠目にも分かりますからな」
「それに、官兵衛殿が兵を集める時間も必要でしょう」
秀久は続けた。
「敵が我らの動きを知った時には、すでに九州の守りが整っている。そういう形が望ましいかと」
景継は、しばらく考え込んだ。
やがて、ゆっくりと頷く。
「よい考えです」
秀久が顔を上げた。
「では……」
「その策を採りましょう。出立する軍勢は段階的に動かし、敵に主力の撤収を悟らせぬようにします」
「はっ!」
秀久は力強く頭を下げた。
官兵衛も満足げな表情を浮かべていた。
「これならば、私が九州の態勢を整える時間も得られましょう」
「ええ」
景継は頷いた。
「ただし、島津も油断ならぬ相手です。いつまでも隠し通せるとは思わない方がよいでしょう」
「承知しております」
官兵衛は地図を見つめた。
「当面は無理な攻勢を控え、守りを固めます。毛利からの援軍が整い次第、改めて九州平定へ向けて動きましょう」
「お願いします」
景継は諸将を見渡した。
「九州の戦も、東国の戦も、どちらも林道家にとって重要です。皆には苦労をかけますが、力を貸してください」
諸将が一斉に頭を下げた。
「はっ!」
◇ ◇ ◇
軍議が終わると、諸将はそれぞれの持ち場へ戻っていった。
清正と正則は帰還する兵の選定へ向かい、高虎は城の守備配置を確認するため席を立った。三成と行長は兵糧の帳簿を抱え、早くも輸送について話し合っている。
仙石も陣幕を出ようとしたが、ふと足を止めた。
「殿」
「どうしました?」
「東国へ戻れば、徳川や伊達との戦は避けられぬのでございましょうな」
景継は静かに頷いた。
「おそらくは」
仙石は口元を引き締めた。
「ならば、九州で振るえなかった槍は、東国で存分に振るわせていただきます」
その言葉に、景継はかすかに笑った。
「頼りにしています。ただし、無茶はしないでくださいね」
「ははっ! 心得ております!」
威勢よく答えた仙石だったが、その背中を見送る景継には、少々の不安も残った。
もっとも、あの気性こそが仙石秀久という男の持ち味でもある。
景継は小さく息を吐き、再び地図へ視線を落とした。
◇ ◇ ◇
翌日。
林道軍の陣中では、東国帰還に向けた準備が本格的に始まっていた。
兵たちは荷駄をまとめ、馬を整え、各隊の指揮官から新たな命令を受けている。一方、九州に残る兵には守備の持ち場が割り振られ、官兵衛のもとで軍の再編が進められていた。
景継は出立に先立ち、官兵衛と二人で陣の外れに立っていた。
春の風が、二人の衣の裾を揺らす。
遠くには、これから官兵衛が守ることになる九州の山々が連なっていた。
「官兵衛殿」
景継が口を開く。
「はい」
「毛利との交渉は、容易ではないでしょう」
「左様にございますな。ですが、必ずや道を開いてみせます」
「島津も、こちらの事情を知れば動くはずです」
「承知しております」
官兵衛は景継を見た。
「殿。九州のことは、どうかご心配なさらぬよう」
その言葉に、景継は少しだけ目を細めた。
「官兵衛殿」
「はっ」
「私は何も心配していません。あなたはできるお人だ。だからこそ、この九州を託すのです」
官兵衛は一瞬、言葉を失った。
九州には、いまだ島津という強敵が残っている。大友との連携も、毛利との交渉も、すべてが思いどおりに進む保証はない。
景継ほどの男が、その危うさを理解していないはずがなかった。
それでも、目の前の主君は迷いなく自分を信じてくれている。
官兵衛は唇を引き結び、深く頭を下げた。
「……そのご信頼、決して裏切りませぬ」
景継は頷いた。
「ええ。よろしくお願いします」
しばらくの間、二人は言葉を交わさなかった。
官兵衛は顔を上げると、今度は穏やかな表情を浮かべた。
「殿こそ、どうかお気をつけて。徳川家康も伊達政宗も、決して侮れる相手ではございませぬ」
「分かっています」
「北条の皆様が、ご無事であることを願っております」
その言葉に、景継はわずかに視線を落とした。
氏政殿。
氏直殿。
そして、遠く離れた場所で父と実家の身を案じているであろう楓。
景継は、静かに拳を握った。
「……必ず、間に合わせます」
官兵衛は、その言葉に深く頷いた。
◇ ◇ ◇
翌朝。
筑前の林道軍本陣では、東国へ向かう軍勢が出立の準備を整えていた。
ただし、すべての兵が同時に動くわけではない。
仙石秀久の進言を受け、各部隊は時をずらして出立することになっていた。
先に進む部隊が道筋を確かめ、後続の軍勢が順次それに続く。
敵の間者に主力の動きを悟らせぬための措置である。
景継は馬に跨がり、諸将を見渡した。
清正、正則、高虎、三成、吉継、行長、秀久。
いずれも、これから東国での戦を共にする者たちだった。
「殿、準備は整っております!」
清正が声を上げた。
「分かりました」
景継は頷くと、少し離れた場所に立つ官兵衛へ目を向けた。
「官兵衛殿」
「はっ」
「九州を、お願いします」
官兵衛は深く頭を下げた。
「どうか、東国ではお気をつけくだされ」
「ええ。官兵衛殿も」
景継は手綱を握り直した。
東国では、義父である北条氏政と、その息子氏直が徳川・伊達の侵攻を受けている。
楓もまた、父と実家の身を案じていることだろう。
一刻も早く戻らねばならない。
しかし、急ぐあまり軍勢を乱すわけにもいかなかった。
(……氏政殿。どうか、それまで持ちこたえてください)
景継は胸の内で呟いた。
そして、前方へ視線を向ける。
「出立!」
その号令とともに、林道軍の一隊が動き始めた。
兵たちは整然と列をなし、東へ続く街道へ進んでいく。
官兵衛は、その姿が遠ざかるまで見送っていた。
やがて、景継の姿が見えなくなると、静かに踵を返した。
九州の戦は、まだ終わっていない。
島津は健在であり、毛利との交渉もこれからだった。
だが、官兵衛の表情に迷いはなかった。
「……さて」
小さく呟く。
「まずは、毛利との話を進めねばなりませぬな」
官兵衛は、再び林道軍の本陣へと歩き始めた。
景継が東国で戦う間、九州を守り、平定への道を切り開く。
それが、今の自分に託された役目だった。
そして官兵衛は、その役目を果たすため、すでに次の一手を考え始めていた。




