第二百七十四話 北部九州包囲網
豊前国、岩石城。
大友宗麟との同盟が成立した翌日、林道景継のもとには早くも各地からの報告が集まり始めていた。
大友家は豊後の守備を固めながら、林道軍への情報提供を開始。周辺の国人たちも、岩石城陥落に続く同盟成立の報せを受け、これまでの態度を見直しつつあった。
その中で、景継が最初に目を向けたのは、先の戦で退けた宇都宮鎮房である。
「城井谷へ向かった使者は、そろそろ到着する頃でしょう」
景継の言葉に、傍らの黒田官兵衛が頷いた。
「鎮房殿がどのような返答をするか。そこが最初の分かれ目となりますな」
「受け入れてくれるとよいのですが」
「先の戦で多くの兵を失っております。再び戦うことは望まぬでしょう。ただ、あの御仁が容易に頭を下げるとも思えませぬ」
景継は窓の外へ目を向けた。
豊前の山々が、朝靄の向こうに連なっている。
あの山の奥には、宇都宮家が長く守り続けてきた城井谷があった。
「頭を下げてもらう必要はありませんよ」
景継は静かに答えた。
「我らが欲しいのは、鎮房殿の首でも、城井谷の土地でもありません」
官兵衛は、その言葉を聞いて小さく笑った。
「ならば、あとは鎮房殿が何を選ぶかですな」
◇ ◇ ◇
豊前国、城井谷。
宇都宮鎮房は、林道家から遣わされた使者を前に、険しい表情を浮かべていた。
先の野戦で受けた敗北は、鎮房の胸に深く刻まれている。
兵を失い、戦場から退くことを余儀なくされた。それでも城井谷へ戻った家臣たちは、再び戦う覚悟を示していた。
だが、覚悟だけで勝てる相手ではないことを、鎮房自身が誰よりも理解していた。
「……林道景継は、わしに降れと申すか」
低い声が部屋に響く。
使者は頭を下げたまま答えた。
「いえ。景継様は、宇都宮家の臣従を求めてはおられませぬ」
「何?」
鎮房の眉が動いた。
「城井谷の領有と自治は、これまで通り宇都宮家に認めるとのことでございます」
使者は書状を差し出した。
鎮房は受け取り、目を通していく。
そこには、林道家への敵対行動を停止すること、必要に応じて軍の通行を認めること、そして九州平定に際して可能な範囲で協力することが記されていた。
一方、宇都宮家の家政や城井谷の支配について、林道家が直接介入することは求められていない。
「……これだけか」
「はい」
「わしが先に兵を向けたことも、不問に付すと?」
「双方の戦で生じた損害について、これ以上の報復は望まぬとのお考えです」
鎮房は書状を畳んだ。
その手に、わずかに力がこもる。
家臣の一人が口を開いた。
「殿。これは好機にございます。城井谷を守れるのであれば、これ以上の戦を避けるべきかと」
「分かっておる」
鎮房は短く答えた。
だが、すぐに承諾することはできなかった。
宇都宮家は、幾度となく周辺勢力の圧力を受けながら、この地を守ってきた。
先祖から受け継いだ山と谷を、他家の都合で明け渡すことなど考えられない。
その誇りがあるからこそ、林道軍の通行を拒み、戦ったのだ。
「使者殿」
「はっ」
「一つ、確かめたい」
鎮房は相手を正面から見据えた。
「林道景継は、わしが再び逆らわぬと、何をもって信じる」
使者は少し間を置いて答えた。
「景継様は、こう仰せでした。城井谷を守るために戦った者ならば、その城井谷が守られる限り、無用な戦を望まぬであろう、と」
鎮房は言葉を失った。
敗れた自分を見下すでもなく、忠誠を強いるでもない。
あの男は、自分が何のために戦ったのかを理解している。
しばらくして、鎮房は深く息を吐いた。
「……よかろう」
家臣たちが一斉に顔を上げる。
「林道家との和睦を受け入れる。軍の通行も認めよう。ただし、城井谷の民に乱暴狼藉を働くことは許さぬ」
「その旨、必ずお伝えいたします」
「それと、もう一つ」
鎮房は使者を呼び止めた。
「景継殿に伝えよ」
その表情には、敗戦の悔しさがなお残っていた。
「この宇都宮鎮房、戦では敗れた。だが、城井谷を守るという志まで捨てたわけではない。その志を認めていただいたことには、礼を申すとな」
使者は深々と頭を下げた。
こうして宇都宮家は、独立性を保ったまま林道家との協力関係に入った。
◇ ◇ ◇
数日後。
岩石城へ和睦成立の報せが届くと、景継は安堵したように息をついた。
「よかった」
官兵衛は書状を読み終え、頷いた。
「城井谷へ兵を向けずに済みましたな」
「ええ。鎮房殿も、これで領地を守れます」
「ただ、通行を認めたとはいえ、兵を無制限に入れるべきではありますまい。約束を守る姿勢を示さねば、再び疑われます」
「その通りです。城井谷を通る部隊には、規律を徹底させましょう」
景継はそう告げると、地図の西へ目を向けた。
「では、残るは秋月ですね」
その名を聞いた官兵衛の表情が引き締まる。
「秋月種実は、宇都宮鎮房とは事情が異なります。島津との結びつきが強く、大友家とも長く争ってきた男です」
「こちらからの使者には、まだ返答がありませんね」
「はい。おそらく、島津の動きを待っているのでしょう」
景継はしばらく考えた。
「待たせておく必要はありませんね」
官兵衛が顔を上げる。
「進軍なさいますか」
「ええ。ただし、古処山城へ無理に攻め込むつもりはありません」
その言葉を聞いた官兵衛は、地図の上へ指を伸ばした。
「でしたら、まず周辺の街道を押さえましょう。秋月領へ通じる道を制し、援軍と兵糧の流れを監視するのです」
「大友家にも協力を求めましょう」
「すでに豊後方面で動いております。こちらが秋月へ圧力をかければ、種実も容易には兵を動かせますまい」
景継は頷いた。
「では、諸将を集めてください」
◇ ◇ ◇
筑前国、古処山城。
秋月種実のもとには、立て続けに報せが届いていた。
岩石城陥落。
大友家と林道家の同盟成立。
そして、宇都宮鎮房が林道家との和睦を受け入れたという知らせである。
「……宇都宮までか!」
種実は思わず立ち上がった。
広間に控える家臣たちは、誰も口を開こうとしない。
「鎮房は林道と戦ったのであろう。それが、もう和睦したと申すのか!」
「城井谷の領有を認められたとのことでございます」
「それで矛を収めたか……」
種実は苦々しく吐き捨てた。
宇都宮家が敵対をやめたことは、秋月家にとって痛手だった。
さらに、大友宗麟まで林道景継と手を結んだ。
かつて激しく争った大友が、今度は林道という大軍を味方につけている。
「島津からの返答はまだか」
種実が尋ねると、家臣の一人が頭を下げた。
「使者は送りましたが、いまだ援軍の確約は得られておりませぬ」
「何をしておる!」
怒声が響いた。
家臣は身を縮めたが、種実もすぐに言葉を続けることはできなかった。
島津が援軍を出せない理由は、分からぬでもない。
豊後では大友家が動き、林道軍は豊前から筑前へ迫っている。
島津にとっても、どこへ兵を向けるべきか慎重に見極める必要があった。
しかし、秋月家にはその判断を待つ時間がない。
「殿」
老臣の一人が口を開いた。
「林道家より届いた書状、いかがなさいますか」
種実の視線が鋭くなる。
その書状には、林道家への臣従を求める条件が記されていた。
家名と一定の所領は認める。
ただし、島津との軍事的な結びつきを断ち、林道家の九州平定に協力すること。
「わしに、林道の下につけと申すか」
種実は書状を睨んだ。
「岩石城を奪ったばかりで、今度は秋月そのものを従わせようとは……」
「しかし殿、このままでは……」
「分かっておる!」
種実は家臣の言葉を遮った。
しばらく重苦しい沈黙が流れる。
やがて種実は、ゆっくりと腰を下ろした。
「古処山城の守りを固めよ。島津からの返答を待つ」
「はっ」
「ただし、周辺の動きは絶えず探れ。林道軍がどこまで迫っているのか、見落とすな」
家臣たちは慌ただしく広間を出ていった。
一人残った種実は、握りしめた書状へ目を落とした。
「……わしは、まだ負けておらぬ」
その呟きは、誰にも届かなかった。
◇ ◇ ◇
岩石城を出陣した林道軍は、筑前方面へ進軍を開始した。
先鋒を務める加藤清正と福島正則は、秋月領へ通じる街道の要所を押さえ、周辺の小城へ降伏を勧めた。
仙石秀久は別働隊を率いて脇道を警戒し、秋月勢が迂回して林道軍の補給を襲うことを防ぐ。
藤堂高虎は占拠した拠点の守備と道の整備を進め、後続の兵糧隊が滞りなく進めるよう手配した。
石田三成と小西行長も、岩石城を中継地として兵糧と物資を送り続けている。
秋月勢は幾度か小規模な抵抗を見せたものの、林道軍は深追いせず、着実に要所を確保していった。
そして豊後では、大友軍が島津勢への警戒を強めるとともに、秋月に近い諸勢力へ林道家との同盟を知らせていた。
その動きは、秋月種実にとって無視できないものだった。
林道軍が迫る。
大友家も動く。
宇都宮家は、もはや敵ではない。
秋月家の周囲から、少しずつ選択肢が消えていった。
◇ ◇ ◇
数日後、林道軍の陣。
官兵衛は届いた報告を読み終えると、地図の上へ置いた。
「殿。秋月方の動きが鈍くなっております」
景継は顔を上げた。
「兵を集めているのですか?」
「そのようです。ただ、積極的に打って出る様子はありませぬ。島津からの援軍を待ちながら、古処山城で持ちこたえるつもりでしょう」
「周辺の国人たちは?」
「すでに何家かが戦への参加を見合わせております。林道家と大友家の双方を敵に回すことを恐れているのでしょう」
景継は地図を見つめた。
秋月種実が籠城を選ぶなら、山城を力攻めすることもできる。
しかし、険しい地形を利用した城攻めでは、少なからぬ犠牲が出る。
それに、秋月家を滅ぼすこと自体が目的ではない。
「官兵衛殿。今の状況で、種実殿はどう考えているでしょうか」
官兵衛は少し考えた。
「まだ島津を信じているでしょう。しかし、その一方で、援軍が来なかった場合も考え始めているはずです」
「ならば、選ぶ道を示しましょう」
景継は官兵衛へ視線を向けた。
「もう一度、使者を送ってください」
「降伏勧告ですな」
「ええ。ただし、脅すだけではいけません。秋月家が臣従した場合、家名と所領をどう扱うのか、具体的に示してください」
官兵衛は頷いた。
「承知しました。島津の援軍が到着する前に、決断を迫りましょう」
景継は続けた。
「それと、包囲を急ぎすぎぬように。城下の民が逃げる道まで塞ぐ必要はありません」
「兵糧の搬入と軍勢の移動は厳しく監視し、民の往来については別に扱いましょう」
「お願いします」
官兵衛は立ち上がり、書状の準備へ向かった。
その背を見送りながら、景継は再び地図へ目を落とした。
宇都宮鎮房は、城井谷を守るために和睦を選んだ。
秋月種実もまた、守るべき家と土地を持つ武将である。
だが、同じ道を選ぶとは限らない。
◇ ◇ ◇
古処山城。
夕刻、林道家から新たな使者が到着した。
秋月種実は広間に家臣たちを集め、その書状を受け取った。
そこには、秋月家の存続と所領の一部安堵を条件に、林道家への臣従を求める旨が記されていた。
さらに、期限までに返答がなければ、林道軍は秋月領への進軍を継続するとも書かれている。
種実は最後まで読み終えると、静かに書状を置いた。
「……わしに、決めろと申すか」
家臣たちは息を呑んだ。
城外では林道軍が街道を押さえ、周辺の国人たちも次々と態度を変えている。
頼みとしていた島津からの援軍は、いまだ姿を見せない。
種実は目を閉じた。
戦えば、まだ抗えるかもしれない。
古処山城は容易に落ちる城ではなく、秋月家の兵も戦意を失ったわけではない。
だが、戦い続けた先に何が残るのか。
長い沈黙の後、種実はゆっくりと目を開いた。
「皆の者」
その声に、家臣たちが顔を上げる。
「明朝、評定を開く」
種実は書状を手元へ引き寄せた。
「秋月家の行く末を、決めねばならぬ」
北部九州を巡る戦は、わずかな日数のうちに大きく姿を変えていた。
宇都宮家は和睦し、大友家は林道家と手を結んだ。
そして今、秋月種実にも決断の時が迫っていた。
その答えによって、林道軍の進路はさらに南へと開かれることになる。




